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  • 第227号【城下町島原でのんびりひなめぐり】

     有明海に面した静かな城下町、島原。町のいたるところに湧水が流れ、ゆったりとした雰囲気が漂う気持ちのいい町です。今、「島原城下ひなめぐり」(~4/3)が行われていると聞いて出かけてきました。 島原へのアクセスは、JR長崎駅から特急で約17分。諌早駅で島原鉄道に乗りかえて、約一時間。列車から降りると、瓦葺きに白壁の島原駅が出迎えてくれ、気分はいっきに武士の時代へタイムスリップ。城下町めぐりへの期待感が高まります。 2月中旬からはじまった「島原城下ひなめぐり」は、来月3日まで行われる長丁場の催しで、主に地元の商店などが、それぞれの家にあるひな人形を店頭に飾り、地元の人や訪れた観光客に島原城下の散策をもっと楽しんでもらおうというものです。島原城、武家屋敷、湧水が流れる水路で泳ぐ鯉など、この町ならではの観光スポットをめぐりながら、同時におひなさまも楽しめるとあって、若い人からご年配の方まで、女性たちの姿が目立ちます。 おひなさまを飾っている「森岳商店街」、「サンシャイン中央街」「一番街アーケード」といった島原城下の商店街は、どこか昭和の風情が残る店構えが多く、通りを歩くだけで気分が和みます。いずれの商店街も島原駅から徒歩圏内にあり、仲間とそぞろ歩きながらのんびりスムーズにおひなさまめぐりはすすみます。 ふだんはなかなか見る機会のない珍しいおひなさまにも出会えた「島原城下ひなめぐり」。その中で、ぜひ訪れていただきたいお店を二つご紹介します。一つ目は、島原駅から徒歩二分の場所にある「林屋京染店」です。北は北海道から南は鹿児島までの郷土色豊かなおひなさまから、かわいいキャラクターものまで、約230種類が勢揃いしています。「けして高価なものとか、歴史あるものがあるわけではないのですよ…」とご謙遜なさるご主人。すべて奥様がご趣味で約30年ほどかけて集めたものだそうで、「どのおひなさまも自分の子供のようなもの。全部好きなんですよ」と奥様はおっしゃいます。長崎で手に入れたという「箱入りびな」やモダンなスタイルの「春慶塗」のおひなさま、岩手県の「まゆびな」など、アイデア多彩なおひなさまたちに、とにかく驚きの連続。しかもみんなかわいらしいので見ていて本当に飽きません。 もう一つのお店は、「一番街アーケード」の一角にある「白山履物店」です。明治から昭和の初め頃にこちらの家で作っていたという「押し絵人形」のおひなさまを見ることができます。「訪れたお客さまが、昔は自分の家にもあったと懐かしがってくれます。当時の庶民は豪華な段飾りは手に入らず、押し絵びなをつくって飾っていたようですね」とご主人。そのご主人のお祖母さん、曾お祖母さんが作ったという「押し絵びな」は、手作りの温もりが伝わるやさしい表情がとても印象的。島原の町の風情を映し出しているようでした。 お友達同士で、家族でのんびりと楽しめる、「島原城下ひなめぐり」。この春のお出かけスポットに加えてみませんか?

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  • 第226号【長崎・五足の靴】

     長崎市万才町にある長崎県警本部の裏路地の一角にひっそりと建つ「五足の靴」の碑。目立たない場所なので、長崎市民でもこの碑の存在を知らない方は多いと思います。 「五足の靴」とは、与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人が、1907年(明治40)の夏(7月28日~8月27日)に九州西部(博多、柳川、佐賀、佐世保、平戸、長崎、天草、島原、熊本など)を旅した際、そのメンバーが交代で新聞に執筆した紀行文のタイトルのことです。彼らは、この旅でキリシタン関連の遺跡を訪ねるなど、おおいに異国文化に触れたようです。 「五足の靴」一行が、平戸から佐世保を経て長崎へ到着したのは東京を出発してから10日後のことでした。宿泊したのは、「上野屋旅館」というところで、現在の長崎家庭裁判所(万才町6番)附近にありました。残念ながら昭和20年の戦災で焼失し廃業になりましたが、それまでは長崎を代表する旅館として知られ、多くの著名人が宿泊。約1、000坪の敷地には、本館(約100坪)をはじめ別館、倉庫、車庫など全部で8棟の建物があったそうです。 「五足の靴」の一行は、この旅館で一泊し翌朝には天草へ渡るため、乗合馬車で山道を辿り、茂木の港へ向かっています。茂木は、長崎市の東部に位置する町で、天草灘に面したその港は、古くは肥後、薩摩に渡る海路の要所として利用されていました。現在も茂木~富岡(天草)を結ぶ航路として知られています。 この茂木~富岡の航路が、定期航路となったのは明治初めの頃だそうで百年以上の歴史があります。現在は天草側からの利用者が多く、長崎市内の病院へ通ったり、買い物に出たりといった生活の足になっているそうです。しかし、乗客の減少で、昨年11月でフェリーが運休。現在は一日4本の高速船のみが茂木港から出ています。(富岡港からも一日4本)。一時は、この高速船の運航も危ぶまれていましたが、何とか今後1年間は継続することになったそうです。 茂木港の小さなターミナルの窓口では、この航路の存続署名が集められていました。航路が存続することを願って著名していく文学ファンもけっこういるそうです。 さて、「五足の靴」の旅は、参加者の創作意欲をくすぐったようです。北原白秋の「邪宗門」「天草雑歌」や木下杢太郎の「天草組」などは、この旅の影響を受けて生まれた作品だといわれています。 冒頭の「五足の靴」の碑の案内版には、「長崎の円き港の青き水 ナポリを見たる目にも美し」(与謝野鉄幹)の歌が記されていました。当時の長崎は洋館などが今より多く建ち並びもっとハイカラな風情が漂っていたはず。異国情緒に酔いしれる作者の心情が伝わってくるようです。◎参考にした本/長崎の史跡・北部編(長崎市立博物館)

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  • 第225号【早春を満喫!ハウステンボスのチューリップ祭】

     時おり厳しい寒さを感じる一方で、日脚が確実に伸びて、日ざしも少しずつ強くなってきているようです。冬と春が同居したようなこの季節は、体調もくずしがち。適度な運動と、バランスのとれた食事で元気にのりきりましょう。 今回は一足先に春を満喫したくて、チューリップ祭がはじまったハウステンボスへ行ってきました。全部で100万本もあるというハウステンボスのチューリップ。オランダの田園に迷いこんだような気分になる花畑では、色とりどりのチューリップたちが早春の光を浴びてうれしそうです。今年は国内最多の400品種を楽しめるとか。街角のガーデンも、窓際に置かれた鉢もみんなチューリップですが、色も形も多彩でまったく飽きることがありません。 場内のフラワーショップでは、日本ではまだ入手しにくいといわれている「レッドハンター」、「ホンキートンク」といった新種や原種系のチューリップの苗が売られていました。一昨年ここで青い色のチューリップ(原種系)の苗を買いましたが、あまり世話をしなくてもちゃんと花が咲きました。意外に丈夫で育てやすいようです。あなたもチャレンジしてみませんか? この街では今、2005年春限定のかわいいテディベアが人気を呼んでいます。桜をイメージした優しいボディカラーがとても愛らしく、その名も「SAKURA」。「テディベアショップ・リンダ」で販売しています。 レンガ造りの街を歩けば春風にのって鼻先をくすぐるチューリップの香り。その香りをとじこめたアロマキャンドル(1個390円)を見つけました。昨年からチューリップ祭の期間限定で販売されているそうです。ピンク色したチューリップ型のキャンドルに火を灯せば、甘く優しく爽やかなチューリップの香りが部屋中に広がります。お土産におすすめです。 場内の各レストランでは、春の食材をたっぷり使った季節限定のメニューをいろいろ楽しめます。今回はパスタ好きの友人から評判を聞いて、「イタリアレストラン・プッチーニ」の自家製の手打ちパスタ「ビゴリ」をいただきました。1日30食限定というこのメニュー、手打ちならではのもっちりとした食感がたまりません。自家製カラスミと旬の魚介類との相性もよく、海の香漂う爽やかなおいしさ。パスタ好きには見逃せない一品です。 見応えのある企画展で毎回楽しませてくれるハウステンボス美術館では今、「~バロックの光と影~華麗なる17世紀ヨーロッパ絵画展」を開催しています(3月6日まで)。ポーランドのヨハネ・パウロ2世美術館が所蔵するバロック絵画50点を展示。作品はイタリア、スペイン、フランドル、オランダ、フランスなどヨーロッパの各地域で描かれたもので、お国柄や宗教に対する考え方などが反映されています。同時代の日本は江戸時代で、庶民的な題材をモチーフに浮世絵が描かれていました。芸術は時代を反映するといいますが、社会背景の圧倒的な違いをあらためて感じる絵画展でした。 ハウステンボスのチューリップ祭は4月10日まで開催しています。たくさんのチューリップに囲まれて、とびきり素敵な春のひとときをお過ごしください。

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  • 第224号【今からでも間に合う!長崎ランタンフェスティバル】

     今月9日からはじまって、今も好評開催中の「長崎ランタンフェスティバル」。あなたはもう、体験されましたか?長崎の街は幻想的なランタンの明かりに彩られ、連日大勢の市民や観光客が繰り出しています。 このお祭りの主役はやはり「ランタン」。その明かりに誘われて歩けば、悠久の中国絵巻の世界へ迷いこんだようです。ちなみに、街に飾り付けられたランタンの数は1万2千個もあるとか。飾り付けは、たいへんな作業に違いないと思っていましたが、この祭りがはじまる二週間くらい前、偶然、その現場を見かけました。人通りが少なくなった夜の通りで、ひとつひとつコツコツと飾られていくランタン。それを見てからは、ランタンの明かりがさらにあたたかく感じられるようになりました。 街に数カ所設けられた祭りの会場の中で、龍踊り、中国獅子舞、中国雑技、胡弓演奏などをたっぷり楽しめるのが、中華街にほど近い「湊公園会場」と、長崎市最大のショッピングストリート「浜んまち」に近い「中央公園会場」です。この2つの会場へは、逆さまに書かれた「福」の字のランタンを目印に移動してください。 中国では旧正月に「福」という字を逆さに飾る風習があります。でも、なぜ、逆さまに?それは、『倒福』(「福が逆さ」を意味する)の「倒」の字の発音が、『到福』(「福が到(来)る」を意味する)の「到」の字と同じ「ダオ」と発音することから、福が来るようにとの縁起を担いでいるのだそうです。このほか、「春」という字を逆さにした紙も見かけました。これも「春が来る」の意味の縁起文字なのでしょう。 メイン会場となる、湊公園会場」に行くと、高さ約8メートルの干支のオブジェ「金鶏報暁」(きんけいほうぎょ)で記念撮影をしている人が大勢いました。会場にずらりと並んだ出店では、あたたかな点心をはじめ、月餅(げっぺい)、よりより、金銭餅(きんせんぴん)などの中国のお菓子を買い求める人がいっぱいです。 ランタンフェスティバルのお土産におすすめなのが、ランタンオリジナルグッズです。ミニサイズのランタンや逆さ「福」の文字、チャイナらしいユニークなキャラクターのキーホルダーやストラップなどが期間限定で会場の出店などで販売されています。 中国の多彩な催しで賑わうランタンフェスティバルですが、実は賑やかなだけのお祭りではありません。唐人屋敷会場会場では、赤いロウソクに健康や良縁の願いを託すお堂巡りが、長崎と中国の歴史を醸す静かな佇まいの中で行われています。また、唐寺として知られる祟福寺や興福寺は夕方5時以降は入場無料で、ここでもしっとりとした中国の風情を楽しむことができます(閉門は夜9時)。 出会うだけで、なぜかラッキーな気分になるランタンの花電車も、期間中毎日、夕刻から市内を走っています。「長崎ランタンフェスティバル」の最終日は今月23日で、まだ一週間あります。あなたもお出かけになってみませんか?

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  • 第223号【長崎節分料理・紅大根と金頭】

     先週の節分の日、みなさんの地域ではどんな節分料理を召し上がられましたか?節分料理はその土地の風土に彩られ、それぞれ個性があるようですが、使う素材に邪気を払うなどの縁起をかつぐという点では同じようです。今回は長崎の節分料理を代表する二品をご紹介します。 一品目は「紅大根」です。その名の通り紅い色をした大根で、20センチ前後の小振りな品種です。紅いといっても皮の部分だけ。切ると中は真っ白で、その紅白の色合いがおめでたい感じがします。長崎では毎年節分が近くなると出回りはじめ、「節分大根」などと表示され売られています。 昔の人は、その赤く細長い姿が赤鬼の手や腕に見えたのでしょう、古く「鬼の手大根」とも呼ばれていたようです。著名な長崎郷土史の先生によると、節分の日には、輪切りにして塩をかけた「紅大根」を、神棚の下の段とか、横の方にひとまず置いた後に、いただいたそうです。「それには、鬼の手を取ってきた、という意味があります。けして、神棚にお供えしたわけではありませんよ。何せ鬼の手ですからね」と教えてくださいました。その方によると、「紅大根」を節分料理に用いるのは、キリシタンの町だった長崎にはじまった料理とは考えられず、京都の方からきたものであろうということでした。 「紅大根」は通常の大根より固く、噛むとカリカリとした歯ごたえがあり、味は大根より蕪(カブ)に近い感じです。現在は、塩もみで食べるより、なますにしていただくことが多いようです。栄養分は、ビタミン類や消化を助ける酵素を含み、葉にも鉄分、カルシウムなどのミネラルが豊富に含まれています。確かに身体の中のいろいろな鬼を退治してくれそうな野菜です。 二品目は「金頭(カナガシラ)」。ホウボウによく似た魚で長崎では「ガッツ」とも呼ばれ親しまれています。金頭はその名前から、「お金がたまる」といわれ、節分の縁起物として長崎では煮つけにしていただきます。地元の魚屋さんに聞いてみると、「一年に一度だけ注目を浴びる魚」だそうで、節分の日でもない限り店頭に並ぶ機会はとても少なく、相場もこの日ばかりは3倍ぐらいに跳ね上がるそうです。小骨が多いですが、とても上品な味わいです。 赤ちゃんが、一生食べ物に困らないようにという願いを込めて行われる「お食い初め」という儀式がありますが、そのメニューに金頭が添えられるといいます。頭がかたい金頭は、歯を丈夫にし、長寿につながるという意味があるのだそうです。 「紅大根」、「金頭」とともに、もう一品、「イカ」の煮つけも節分料理として出されます。「イカの胴がキンチャクのような形をしているので、そこにお金などを入れるという意味があるのでしょう」と魚屋さんは言っていました。

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  • 第222号【もうすぐ長崎ランタンフェスティバル】

     長崎の冬の風物詩、『2005長崎ランタンフェスティバル』が来週、旧元旦にあたる2月9日(水)から2月23日(水)の15日間にわたり開催されます。 朱色、黄色、ピンクのランタン(中国提灯)が長崎の街をうめつくすこのお祭りは、もともと長崎在住の華僑の人々の間で行われてきた旧正月のお祝い(春節祭)で、その伝統行事に12年ほど前から長崎市が参画し、長崎全体のお祭りとして規模を広げ現在に至ったものです。 昨年は約2週間の開催期間中、雪に見舞われる日が多く人出が落ち込みましたが、それでも約68万人(前年比12万減)の人々が県内外や外国から訪れて、フェスティバルを楽しみました。余談ですが、長崎の平野部では雪の日というのはとても少なく、大雪(といっても数センチほどの積雪)で交通網がマヒしたりするのは、年に数回程度です。イベントが雪で大きな影響を受けるというのは長崎では珍しいことだったと思います。 このお祭りの魅力は何と言っても約1万2千個にも及ぶランタンが飾られた長崎の街の風景です。新地中華街周辺や、浜んまち、観光通りアーケードなどの市内中心部一帯が極彩色の幻想的な世界に包まれます。その市内中心部には7ケ所の会場(湊公園、中央公園、唐人屋敷、興福寺、浜んまち、鍛冶市、鐵橋)が設けられ、中国雑技や龍踊りなどが毎日披露されます。 その他、期間中には胡弓の演奏や太極拳、皇帝パレード、媽祖行列(まそぎょうれつ)など、中国色豊かなイベントが盛り沢山用意されています。お出かけの際には、市内各所で配付されているイベントスケジュールやホームページで、見たい催しの日時をチェックしておくといいと思います。 毎年、メイン会場の湊公園(新地中華街隣)に飾られる干支のオブジェも楽しみのひとつです。今年は、「金鶏報暁」(きんけいほうぎょ)というもので、高さ約8メートルの巨大オブジェだそうです。会場でぜひ、ご覧下さい。そして、毎回感動を覚えるのが、中国の磁器(お碗、盃、ちりれんげなど)を組み合わせて作った龍と鳳凰(ほうおう)のオブジェ。もちろん、今年も飾られています。食器でつくられたとは思えない精巧なもので、一見の価値ありです。また、各会場に飾られた三国志の登場人物や中国の伝説の動物たちをモチーフにしたオブジェのランタンも圧巻です。 メイン会場へはJR長崎駅前から路面電車を利用すると便利です。1番系統「正覚寺下」行きに乗り、「築町」の電停で下車。徒歩約3分。各会場間は、ぶらぶらと歩いてめぐれる距離です。 厚いコート、毛糸の帽子、マフラーに身を包んで外に繰り出し、人の波に揺られながらランタンの灯りの下を歩いていると、ふっと早春の気配が感じられるときがあります。「冬来たりなば、春遠からず」。そんな言葉を思い出し小さな希望がわいてきます。長崎ランタンフェスティバルへぜひ、お越しください。

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  • 第221号【カステラよもやま話】

     アメ色に焼き上がった表面から、ほのかに香る甘い香り。きめ細かにしっとりとふくらんだ黄色いカステラの姿には、長い伝統に培われた風格と同時に、気品さえ漂っています。 カステラがおやつの王様的存在だったのは、いつの頃だったでしょう。子供の頃、カステラを切りわける大人の手許を見つめ、厚みが均等であるかを密かにチェックしていたことや、いつもカステラをお土産に持ってきてくれた人の顔が思い浮かびます。みなさんにも、何かカステラにまつわる思い出があるのではないでしょうか。 しかし、カステラは懐かしいだけの食べ物ではありません。飽食の時代をくぐり抜けて尚、そのおいしさと人気は健在です。これほど長く愛されている理由は、日々、おいしいカステラをめざして精進している職人さんの存在が大きいと思います。 長崎を代表する南蛮菓子カステラ。そのルーツは、スペインのお菓子ビスコチョ(Biscocho:小麦粉、鶏卵、砂糖を材料とした焼き菓子)とも、ポルトガルのスポンジケーキの一種であるパオ・デ・ロー(Pao・de・Lo)ともいわれ、長崎には16世紀半ば頃にポルトガル船によって伝えられたという説が有力のようです。 長崎県外の人にとっては長崎観光の土産品として人気が高いカステラですが、長崎では、四季折々の行事や祝い事などで、いただいたり、贈ったりするなど、人々の暮らしのどこかにいつもカステラがあります。いただいたカステラの箱を開けると最初のうちは、独特の風味としっとりした味わいを楽しめますが、日が経つと水分が抜けてパサついてきます。そんな時、各家庭ではちょっと一工夫を加えておいしく食べているようです。 もっとも簡単なアレンジが、牛乳にひたすというもの。カステラのザラメの甘さと牛乳の風味がよく合います。豆乳でもグッドです。また、バターやジャムをたっぷり付けて食べるという人もいます。ちょっとカロリーが気になるところですが、なかなかおいしいです。 とっても寒いこの季節におすすめなのが「カステラくず湯」です。砂糖で好みの甘さに仕立てたくず湯をカステラにかけ、刻んだショウガやゆずなどを添えていただきます。トロリとしたくず湯の口あたりとカステラのやさしい味わいに、身も心もホットくつろぎます。 大人向けのおやつとしておすすめなのが、ブランデーを染ませたカステラです。まず、オーブントースターでカステラを軽く焼いて表面をカリカリとさせ、ブランデー(オレンジキュラソーなどでも良い)をちょとかけます。これだけで、カステラがおいしいブランデーケーキに早変わりです。 食品成分表におけるカステラは、和菓子(なま・半生菓子類)に分類されるそうです。西洋をルーツにしながら、長崎の風土と人に育まれ、おいしい変化をとげてきたカステラ。将来は宇宙食としての可能性を示唆する研究者もいるようです。カステラの未来にはワクワクするような展開が待っているかもしれませんね。■参考にした本: カステラの科学(仮屋園璋著)、ながさきことはじめ(長崎文献社編)

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  • 第220号【東海さんのお墓】

     江戸時代の長崎には、中国語を通訳した「唐通事(とうつうじ)」という役人がいました。彼らは通訳だけでなく、貿易品の売買の仲介役や奉行所の仕事などもこなさなければならず、オランダ語の通訳を担当した「阿蘭陀通詞」よりも多忙でした。もちろんその分、給与は「阿蘭陀通詞」より多かったそうです。ちなみに、中国語の通訳が「通事」で、オランダ語の方が、「通詞」とされる理由について、「通事」は、前述のように中国語の通訳者が通訳だけでなく、諸“事”に応対しなければならないところからきたという説があります。また、これとは別に、もともと「通事」の方が最初にあって、後から出てきたオランダ語の通訳との区別をつけるために「通詞」という言葉が使われたと考える人もいるようです。 いずれにしても、当時の「唐通事」は中国の文化を理解できる教養が必要とされ、詩歌、書画などをたしなむ知識人であったようです。今回ご紹介する「東海さんのお墓」は、そんな唐通事のひとりで、東海徳左衛門という人物が、父母のために建てたお墓です。お墓の場所は、長崎で初めて建てられた教会(トードス・オス・サントス教会)の跡地に建てられた春徳寺(長崎市夫婦川町)の後山です。 東海家は江戸時代に10代続く唐通事の家柄でした。徳左衛門は、お給与もそれなりにもらっていたでしょうし、家も裕福であったのかもしれませんが、それにしても、このお墓は普通の規模ではありませんでした。それは、目を見張るような大きさで、しかも完成までに約10年(1670~1680年頃)もかかったというのです。お墓造りにそんなに長くかかるのは、よほどのこと。理由は、徳左衛門が細かい指示を出したことで工事がなかなか進まなかったからだと伝えられています。経費も労力も相当かかったに違いありません。 このことから長崎の人々は、仕事や用事がはかどらない様子を見ると、「東海さんの墓普請(はかぶしん)」とか「東海さんの墓んごたる」(=東海さんの墓のようだ)などと言っていたそうです。 長崎駅から「螢茶屋」行きの路面電車に乗り、新中川町電停で下車。徒歩5分ほどで春徳寺に至ります。山門前には眼下に広がる長崎の町を見守るかのように大きなクスノキがそびえています。「東海さんのお墓」は、寺院の後ろを囲むようにしてある墓地の一角にありました。 民家が2~3軒は軽く建てられると思えるくらいの広々としたスペースに、5つのフロアで構成されたそのお墓は、石柱や壁などに中国風の絵柄が彫られ、おおらかな大陸風の趣がありました。お墓の中段の左右に設けられた大きな獅子頭の表情にはどこか愛嬌があり、お墓なのに、のどかな雰囲気さえ感じられます。その目には、かつて金箔が施されていたそうですが、さすがに300年以上も風雪にさらされて、すっかりはげ落ちていました。 お墓を建てた徳左衛門は、約50年間に及んだ唐通事の役職を勤め上げたものの、その後の消息は不明で、自らが建てたこの東海家の墓地にも入っていないそうです。一体、どのような思いで、このようなお墓を10年もかけてつくったのか知りたいところですが、そういった史料が見当たらないのがとても残念です。◎ 長崎事典~歴史編~(長崎文献社)、長崎通詞ものがたり(杉本つとむ著)

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  • 第219号【長崎市博物館~大唐人屋敷展~】

     温かくして過ごしていらっしゃいますか?お正月気分もすっかり抜けた今、長崎っ子たちが待ち遠しく感じているのが、「長崎ランタンフェスティバル」です。長崎市内中心部に1万2千個にも及ぶランタン(中国提灯)が飾られて、街中が赤や黄の華やかな色に染まるこの祭りは、今年は2月9日(水)~2月23日(水)の15日間にわたって開催され、県内外から大勢の来場者が見込まれています。 中国ゆかりのこのフェスティバルを見に行く予定の皆さんに、ぜひ、足を運んでいただきたいのが、現在、長崎市立博物館で開催中の「唐人屋敷展」(2月20日迄開催中)です。古くから長崎の文化に大きな影響を及ぼしてきた中国。展示されている歴史・美術工芸資料から、その関係の深さを垣間見ることができます。 その中の「唐蘭絵館巻」(川原慶賀筆)には、当時の唐人屋敷での暮らしぶりや貿易の様子が細かく描かれています。唐人屋敷とは、鎖国時代、長崎に来航した中国人たちが暮らしたところで、現在の新地中華街にほど近い、館内(かんない)町にあります。そこには今も、当時の面影を残すお堂などがあり、「長崎ランタンフェスティバル」の際には、「唐人屋敷会場」として、もっとも中国の風情に包まれた会場として人気です。 唐の商人や、使用人らしき人、そして日本人で唯一、唐人屋敷の中に入ることができた遊女など、慶賀が描いたその絵巻の中の人物たちは、ひとりひとりイキイキとして、どこかおかしみさえ感じさせ、話声まで聞こえてきそうなのです。この絵巻を見ると、絵師というより、凄腕イラストレーターと呼びたくなる川原慶賀。その観察力と描写力に感心しながら、慶賀自身の人を見る目の優しさが伝わってきます。ぜひ、実際の絵巻をご覧になってください。 幕末の長崎の代表的な絵師として知られる石崎融思による唐船の絵も展示されていました。当時、長崎では、たくさんの貿易品を運んでくる唐船は、宝船の意味もあり、その絵をお正月などに飾っていたそうです。 長崎半島から長崎港内までを描いた「長崎港内外図」には、長崎港に入港するオランダ船と唐船の海上ルートが記されていました。いずれの船も遠見番が置かれていた長崎半島先端の野母を目安にして航行してきており、長崎港入り口に浮かぶ伊王島のところでは、それぞれ違う方向(伊王島の北側から入るルートと伊王島と香焼の間をいくルート)から長崎港に入っていたことなどがわかります。 ところで、この「唐人屋敷展」は、1654年に中国から日本にやってきた隠元禅師ゆかりの展示物も数点展示されていました(実は「唐人屋敷展」のサブタイトルは「隠元禅師渡来350年記念」です)。彼を描いた頂相(ちんそう:お坊さんの肖像画のこと)は、隠元禅師が日本にはじめて伝えた黄ばく宗の肖像画らしく、写実的な描写でその姿が描かれていました。また黄ばく宗の書の中でも尊ばれているという、隠元禅師、木庵、即非の書も見ることができます。「黄ばく様」といわれる、おおらかな書体が特徴だそうで、確かにのびのびとして気持ちのいい書でした。 さて、長崎市立博物館は、今年3月末で休館します。その前に、ぜひ、訪れてみませんか?◎取材協力:長崎市立博物館(長崎市平野町 平和会館内)

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  • 第218号【長崎温泉・やすらぎ伊王島】

     明けましておめでとうございます。背筋が伸びてフレッシュな気分になるお正月。おせちやお雑煮を食べてのんびり過ごされましたか?寒さはこれからが本番です。風邪をひかないようお気をつけください。 寒さが増すと、恋しくなるのが温泉です。今回は、長崎の観光がてら、また長崎市やその近郊にお住まいの方々が気軽に、しかもお手頃な料金で利用できる公共の宿「長崎温泉・やすらぎ伊王島」をご紹介します。「やすらぎ伊王島」の所在地である伊王島町は、長崎港の沖合いに浮かぶ小さな島で、長崎港の大波止ターミナルから高速船コバルトクイーンでわずか19分のところにあります。 船上からのぞむ長崎市街地の景観を愉しみ、建設中の女神大橋を下をくぐり抜けて長崎港の外に出ると間もなく、伊王島までの小さな船旅は終わります。海を渡るこのひとときは日常のわずらわしさから気分を切り離すのにちょうどいい時間。伊王島の桟橋に降り立つと、頭の中は温泉のことだけしかありません。目の前には美しい海が広がり、背後は小さな山の緑に包まれて、静かでのんびりとした雰囲気が漂っています。 伊王島港から徒歩約3分(送迎バスあり)のところにある「やすらぎ伊王島」は、ホテル&コテージの宿泊施設を備えた温泉処。もちろん日帰り入浴もOKです。施設の近くに源泉があるここの温泉は、地下1,180mの赤崎層(香焼層)から沸き出す天然の湯で、汲み上げ温度は約45度、湯量は毎分700リットルでたいへん豊富です。 だから、浴槽の湯はすべて加温も加水もしない天然のまま。循環もさせていない、贅沢なかけ流しのお湯なのです。毎日の清掃も行き届いてとても清潔な印象です。大浴場には、目の前に海が広がる露天風呂(石風呂)をはじめ露天でひとり風呂が楽しめる釜湯、壷湯が設けられ、屋内には広々とした石風呂やひのき風呂、泡風呂などがあり、好みのお風呂でゆったりくつろげます。 お湯につかると何とも心地良く、舐めてみると少ししょっぱい。海の温泉として知られる小浜温泉の湯に似た湯触りです。この温泉の泉質は、カルシウム・ナトリウム一塩化物泉といわれるもので、神経痛、筋肉痛、五十肩、関節のこわばり、うちみ、くじき、冷え性、疲労回復、慢性婦人病などに効能があるそうです。入浴後は身体が芯から温まり、湯上がりのお肌もしっとりスベスベした感じ。一緒に入っいてたご婦人が、この温泉に通っているうちに腰痛がやわらいだとおっしゃっていました。 「やすらぎ伊王島」の大きな魅力はその安さ。1泊2食付きで7500円から利用できます。食事は地元の海の幸をふんだんに使った鍋や刺身などが好評。日帰りの入浴の場合は、高速船コバルトクイーンの往復分と入浴料金が一緒になったお得なチケット980円(大波止ターミナルで販売)がおすすめです。 ところで伊王島町は、昨日1月4日、「長崎市と合併し、西彼杵郡伊王島町から長崎市の町になりました。この合併を機に伊王島町を訪れる人が増えるといいですね。

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  • 第217号【長崎ことはじめ バドミントン】

      12月上旬、某人形メーカーが、ご婚約が内定した紀宮様や韓流ブームの火付け役となったペ・ヨンジュンさん、メジャーリーグでシーズン最多安打を記録したイチロー選手など、今年明るい話題を提供してくれた人をモデルにした「変わり羽子板」を発表しました。師走恒例のこの話題に、年の瀬を実感した方もいらっしゃったことでしょう。  お正月遊びの定番としてあげられる羽子板(今では遊ぶより、縁起のいい飾り物としているケースが多いようですが…)に関する語が、文献に初めて登場したのは室町時代のことです。「下学集(かがくしゅう)」という辞書で、そこにはハゴイタ、コギイタという読みが記されているそうです。同じく室町時代の「看聞御記(かんもんぎょぎ)」には、公家や女官が羽根つきの勝負をしたことが記されています。つまり、日本における羽子板は遅くとも15世紀には行われていたということになります。  ときに日本のバトミントンとも称されることがある羽子板。羽をつくこの遊びに似たものが、江戸時代の出島で行われていたことをご存知ですか?江戸時代の学者、森島中良(もりしま ちゅうりょう)が、オランダ商館について見聞きしたことを記した「紅毛雑話(こうもうざつわ)」(1787年刊行)の中に、『羽子板並羽根』の見出しで、『~西洋館にて閑暇なる時は追羽根をつきて遊ぶなり。羽子板をラケットといひ、羽根をウーラングといふ~』という内容を記しており、ラケットと羽根の挿し絵も描かれています。 出島の生活の様子を描いた江戸時代の絵巻物「漢洋長崎居留図巻」の中にも、出島で働いていたインドネシア人と思われる人たちがバドミントンのような遊びに興じている姿が描かれています。  バドミントンは、その昔イギリスを中心に発展した競技で、イギリスのバドミントン村に発祥したことから、その地名がそのまま競技名になったそうです。そのさらなるルーツには諸説あるそうですが、一説にはインドのプーナ地方で古くから行われている「プーナ(poona)」が原形であるといわれており、バドミントン村には19世紀中ごろに、インドに駐在していたイギリス人将校らによって持ち帰られたといわれています。  前述のインドネシア人が出島で行っていたバドミントンらしき遊びも、彼らの出身から、「プーナ」が原形であったと考えても不思議ではありません。だとすると、バドミントンの原形は、バドミントンと名付け発展させたイギリスより早く出島の方へ伝わっていたことになります。  このゲームが、日本でイギリスのような発展が見られなかったのは、出島という隔離された場所であったことも要因でしょうが、すでに羽子板遊びがあったことで、それほど珍しく思われなかったからとも想像できますが、皆さんはどう思われますか?現在、出島の一角にはその歴史をとどめる「バドミントン伝来之地」の碑が建っています。◎今年もちゃんぽんコラムをご愛読いただき誠にありがとうございました。新年は1月5日からスタートします。佳い年をお迎えください。◎ 大日本百科事典第14巻(小学館)、ながさきことはじめ(長崎文献社)、長崎歴史散歩(原田博二著、河出書房新舎)

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  • 第216号【江戸時代から変わらぬ味、からすみ】

     長崎を代表する珍味、からすみ。三河のこのわた、越前のうにと並んで日本の三大珍味のひとつに数えられ、昔から長崎のお土産や年末年始の贈答品として多くの人々に愛され親しまれています。 からすみはご存知のように、ボラという魚の卵巣を塩漬けにし、乾燥させたもの。16世紀後半頃に中国から伝えられたといわれており、形が唐の墨に似ていることから、からすみと呼ばれるようになったそうです。からすみのルーツをさらに辿ると中東あたりが発祥ではないかという説がありました。イタリアには伝統食としてボッタガルガと呼ばれるからすみがあるのが知られていますが、もしかしたら、日本のからすみとルーツは同じかもしれませんね。 つやのあるアメ色。ほのかに香る潮の香りと独特の歯触り。そして凝縮された旨味。江戸時代から変わらぬこのからすみの姿と味わいは、不老長寿の妙薬として珍重され、将軍様にも献上されていました。そのからすみをつくっていたのが、老舗「高野屋」です。 創業1675年、長崎市築町に店鋪を構える「高野屋」。初代となる高野勇助氏にはじまり、現在は13代目です。初代がつくりあげた製造法を受け継ぎ、昔ながらの味わいを今も守り続けています。 初代勇助氏は、自分で納得のいくからすみの味づくりに苦心し、野母崎でとれたボラの卵巣を使って何度も製造を試みたところ、ある日、世間にも評判になるほどのおいしいからすみに成功。そのからすみは当時の長崎奉行にも賞賛され、幕府にも献上物と定められ、1712年から1867年までの155年もの間、将軍様のもとへ届けられたのでした。 長崎奉行支配勘定方として長崎に約1年ほど着任したことのある江戸後期の文芸作家の蜀山人(しょくさんじん:本名は大田直次郎。南畝とも号した)も、そのからすみのうまさを歌に残しています。 由緒正しいからすみの老舗「高野屋」。からすみづくりの最盛期を迎えた12月上旬、その製造工場を見学させていただきました。材料はボラの卵巣と塩だけ。製造工程は、ボラの卵巣をいったん塩漬けにし、また塩抜きをして乾燥させるというシンプルなものですが、温度や塩の加減に熟練を必要とし、伝統の味づくりには一切のごまかしがききません。またボラの卵巣は薄い膜で包まれてデリケートなため、やぶらないようにひとつひとつ手作業で丁寧に扱います。ですから、大量生産はむずかしいのです。 天日に干すのは、だいたい10日前後ほど。天候に応じて乾き具合を見極めながら、一日に何度もひっくり返します。からすみ独特の旨味と色合いは、このような手間ひまをかけてつくられています。 べっこう色ともいわれるつややかな色合いと、脂もほどよくのったおいしいからすみ。年末の集いや、新春を寿ぐ食卓にぴったりの一品です。酒の肴だけでなく、ほぐしてパスタにからめてもおいしいですよ。ぜひ、お試しください。◎ 長崎事典~歴史編、風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第215号【ハウステンボスでハッピークリスマス】

     この冬、ホットでロマンチックなクリスマス気分を味わいたいならハウステンボス(佐世保市)がおすすめです。街中がイルミネーションの光に包まれて夢のよう。ハウステンボスは5年前より段階的に場内の宮殿や塔、チャペルなどに光の装飾をほどこして、「光の街」として進化をとげてきましたが、この冬はいよいよその街づくりが完成。今までの冬より一段と華やかにきらめく「光の街」となって、訪れる人々を魅了しています。 その美しい姿は、夜のとばりが降りはじめると次々に姿を現わします。高さ105メートルのランドマークタワーは、上品な光のドレスをまとったよう。そして、運河も、風車も、港の船も、今までにないシックでドラマチックな光が輝いています。この昼とは全く違った幻想的なハウステンボスに、場内各所で「スゴイ!」「キレイ!」の歓声があがっていました。 場内には、クラシカルなタイプからアーティスティックなタイプまで、いろいろなクリスマスツリーも飾られています。中でも人気だったのが街の中心部に位置するアレキサンダー広場のツリー。来場者がそれぞれのメッセージをハート型のオーナメントに記して吊したツリーで、たくさんのラブメッセージが寄せられていました。 多彩なクリスマスイベントも毎日行われています(~12/25迄)。本場アメリカからやってきたゴスペルグループによるライブや、クリスマスナンバーをたっぷり楽しめる「ハッピーホリデーショー」、童話の世界のようなクリスマスストーリーを歌とダンスで繰り広げる「セレブレーション・オブ・ライトショー」などお楽しみは盛り沢山です。 場内には、まだまだハッピーな出会いがいっぱい。絵本で見たとおりの真っ赤な衣装と真っ白なおひげのちょっと太っちょのサンタクロースが突然目の前に現われて子供たちはおおはしゃぎ。また、ハウステンボスには輸入食品や輸入雑貨、陶器、お酒など、魅力的なショップが多彩に揃っているので、お気に入りのショップにも出会えるはずです。 中でも、このプレゼントシーズンにおすすめなのが、アレキサンダー広場沿いに先月オープンしたばかりの「EURO(ユーロ)」というショップです。ドイツ、オランダ、フランスなどヨーロッパ各国の有名ブランドの雑貨が揃っています。大切な人に素敵なクリスマスプレゼントを贈りたいという方は、ぜひ、のぞいてみてください。 ハウステンボス美術館でも、「太陽と精霊の布展」という見応えのある展覧会が開催中でした(H17年1/16迄)。中国・東南アジアのトン族、ミャオ族、タイ族といった少数民族の染織品を多数展示。今も伝統的な生活様式を守って暮らしているという彼らが生み出す、藍色の染や、幾何学的な紋様の織、ち密な刺繍。その洗練された美意識は、どこか日本文化にも通じるようで興味深いものがあります。クリスマス気分とはまた違った趣きの展覧会ですが、ご覧になってみませんか?

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  • 第214号【長崎県平戸ゆかりの武家茶道・鎮信流】

     茶道教室に通っている友人の話によると、どこの流派かをたずねる際、ほとんどの方が、「裏ですか?表ですか?」と聞かれるそうです。ここでいう裏、表はご承知の通り、「裏千家」と「表千家」のことですが、茶道はこの2つの流派しかないと思っている人が意外に多いのではないかとその友人は言います。もし本当にそうだとしたら、日本の文化を代表するものだけにとても残念な話です。 茶道は大別すると、主に町人層によっておこなわれてきた「町衆茶道」と、大名の家で伝えられてきた「武家茶道」の2つがあります。前者に属する流派は、前述の裏千家、表千家をはじめ武者小路千家、江戸千家など。後者は、織部流、遠州流、石州流などがあり、今回ご紹介する平戸ゆかりの鎮信流(ちんしんりゅう)もこの武家茶道の一流派です。 鎮信流の流祖は、平戸藩主の第二十九代松浦鎮信(まつらちんしん:1622~1703)という方です。このお殿さまが藩主となったのは、島原の乱があった年(1637)。当時、オランダとの貿易で栄えていた平戸でしたが、まもなくオランダ商館が平戸から長崎へ移転されて、平戸藩の経営はたいへん苦しくなりました。この時、鎮信公は、財政の建て直しを図るため、商業、農業、漁業を振興し、殖産を奨励。幕府巡国使に「九州で第一の治世」と賞されるまでに至ったそうです。また、山鹿素行に師事し、その兵学を藩に導入するなどしています。 そんな鎮信公は、若い頃より茶を好み、名のある茶人を研究。後に幕府の茶道指南役の立場となり、さらには片桐石州公(石州流)の門に入って道を極め、石州流を基本にしながら他の流派の良いところを独自にあんばいして、鎮信流を興したのでした。「茶道は文武両道のうちの風流なり、さるによって柔弱を嫌い、強く美しきをよしとす。心の修業はこの外にあらじ、昨日の非を知り今日は悟るべきなり」と説いた鎮信公。精神的に強くなければならない武人が、平常心を保ち、強く美しく生きる心を茶道によって養おうとしたようです。 今回、長崎市諏訪神社近くにある鎮信流のお稽古場を見学させていただきました。「おいしいお茶をお客さまにさしあげる。ただそれだけのために一生懸命お稽古しているんですよ」とおっしゃる先生の言葉に、茶道の奥深さが感じられました。流れるように進むお手前の中で、いかにも武家茶だな感じられたのが、おじぎの仕方です。正座した膝の横に、軽く握った手を付いて頭を下げるのです。まさに時代劇で見た武士のおじぎです!その他の立ち居振る舞いも背筋がピンと伸びて清々しく、強さと美しさが感じられました。武家茶にふさわしく質実剛健なものが好まれるという鎮信流。お茶碗も、華やかな絵柄のものはあまり好まれずご当地平戸をルーツに持つといわれる三川内焼や唐津焼、萩焼などがよく使用されるそうです。 「茶を生業にしてはいけない、あくまでもたしなみである」とする鎮信流。長い時を超えて脈々と受け継がれてきたこの武家茶道は、西日本各地に支部があり、長崎市内でも数カ所のお稽古場があります。興味のある方は、鎮信流のホームページhttp://www.chinshinryu.or.jp/へアクセスしてみませんか?◎参考にした書籍/家庭画報(2000年1月号:世界文化社)、大日本百科事典12巻(小学館)

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  • 第213号【長崎刺繍展(長崎市歴史民俗資料館)】

     今年の長崎くんちで「唐獅子踊り」を披露した小川町。親獅子と子獅子の息の合った舞いと、子供たちがあぐらをかいて酒の回し飲みを演じた唐子踊りを披露して、観客をおおいに楽しませてくれました。その小川町の傘ぼこは、約70年ぶりに復元新調されたもので、垂れには当コラムの131号でご紹介した長崎刺繍職人、嘉勢照太(かせてるた)氏による美しい刺繍が施されていました。 長崎刺繍は、江戸時代の貞享年間(1684~1687)の頃に、中国人から長崎に伝えられたといわれています。当時、長崎で盛んにつくられたその刺繍は、日本刺繍がベースにありながらも、京や江戸のものとは趣が違っていました。刺繍の中に綿やこよりを入れて立体感を持たせた技法が珍しく、中国風の図柄も特徴的だったようです。 今では、くんちの傘ぼこの垂れや衣装などでしか見られなくなった長崎刺繍。その歴史の一端を垣間見る小さな展示会「長崎刺繍展」が、長崎市歴史民俗資料館(上銭座町)で開催中です(H16.12/28まで)。明治から昭和初期にかけて製作された長崎刺繍やその下絵など約50点を展示。その中には今回初公開の品も含まれています。 展示品は、東古川町川船飾船頭衣装をはじめ、明治~大正初期に長崎港に入港した外国人向けに製作されたという万国旗、また明治初期に深紅の布に金糸をふんだんに使って豪華に仕上げられた「梅鉢紋」や、昭和初期に長崎の八田刺繍店で製作された折り鶴などがあります。いずれも職人の見事な手仕事ぶりが伝わる力作ばかりです。 長崎刺繍の製作はまず、刺繍に使う絹糸を撚るところからはじまります。糸の色、太さ、撚り方で、糸の表情は無限大。刺繍職人は自らの指先の感覚で、糸を創造していくのです。そして布などに描かれた図柄に沿って、こよりや和紙、綿などを縫い付けて立体感をつくり出し、金糸、銀糸、撚ってつくった絹糸などを使い、時間をかけて細やかな刺繍が施されていきます。この時、デザインによっては、ガラスや金属類なども使い、より豪華で立体感のある表情をつくり出したりもします。 こうして手間ひまをかけて生み出される長崎刺繍には、ひと針、ひと針に職人の心意気が込められています。展示品を見ながら、長崎にかつてこのような作品をつくりだす職人さんたちがいたことを誇らしく思う一方で、時代とともに衰退せざるを得なかった現実にさみしさも感じられます。しかし、嘉勢さんのように時代を超えて、その技と心を受け継ぐ職人さんが生まれたのは、過去の職人さんたちがいつの時代にも通用する感動のある作品を残してくれたからこそなのでしょう。今後の長崎刺繍が、さらに技術が磨かれ、また次の世代へと受け継がれていくことを願わずにはいられません。

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