第230号【歴史と風情ある石畳を歩く】

 入学シーズンは、なぜか大人たちにとっても、新しいことをはじめたくなる季節。ずっと胸の中で温めていたことに着手するいい機会です。思いきってチャレンジしてみませんか。ご近所のある方は、定年後の健康づくりもかねて、町の歴史散策をはじめました。長年住み慣れた町なのに知らなかったことが多く、地元を見る目も変わってきたとイキイキとした表情でおっしゃっていました。


 今回は一般にはまだそれほど知られていない、歴史ある「石畳」を二ケ所ご紹介します。長崎の歴史散策をはじめたばかりの方々や、有名な長崎の観光スポットはひととおり巡ったという方々に訪れてほしいところです。


 一つめは、長崎市に現存する石畳の中で、最古のものだろうといわれる坂段道です。長崎駅前に位置する筑後町から玉園町にぬける「筑後通り」の閑静な一角。江戸時代に長崎奉行所や諸藩の用達などを勤めたという料亭、「迎陽亭(こうようてい)」跡(玉園町:聖福寺そば)があります。その敷地を囲う石塀に隔たられたところにくだんの坂段道があります。




 この坂段道は江戸時代に造られたといわれ、道幅は大人4人くらいが肩を並べて歩けるくらいの広さがあります。地元の歴史に詳しい方によると、その石畳の中央に縦に敷かれた長方形の板石(天草石らしい)の部分だけが造成当初のもので、その周囲に敷かれた石は、長い年月の中で消耗したりして何度も張り替えられたのではないかということでした。






 江戸時代、長崎一の料亭だと称されたという「迎陽亭」には、明治から大正時代にかけても夏目漱石をはじめ、小松宮彰仁親王、西園寺公望など多くの著名人が宿泊し、宴席などを行ったとか。今、自分が立っているこの坂段道をそういた人々が歩いたかもしれないと思ったとたん、この日常的な石畳の風景がずしりと重く感じられるから不思議なものです。


 玉園町のこの石段から3分ほど歩いたところに、今度は、長崎で最初につくられたといわれる・石畳の通り・があります。正確には・石畳だった通り・で、現在はアスファルトになっていて、そこの町名にちなんで「八百屋町通り」と呼ばれています。八百屋町から長崎市役所のある桜町方面へ向けてまっすぐ伸びたこの通りは、1、2分で通り抜けられるほどの距離で、のんびりとした裏路地の風情が心地いい通りです。




 「長崎町人誌~第6巻~」(長崎文献社)によると、1601年、キリシタン墓地へ通る道として、ここに石畳の道が造られたということが、当時の神父書簡に記録されていて、それが、長崎の石畳が記録にでる最初のものだと一般にはいわれているとのこと。長崎が南蛮貿易で栄えていた時代の話です。その後、長崎の町のいたるところに石畳が普及していったようです。




 日本のほとんどの道は鎖国が終わった頃になっても、せまくて、鋪装されていなかったとか。しかし、長崎の町の人々はかなり早い時期から、土ぼこりで足袋を汚すこともない板石で舗装された道を、日常的に往来していたのでした。


◎参考にした資料や本/長崎の史跡~北部編(長崎市立博物館)、「長崎町人誌~第6巻~」(長崎文献社)、長崎オモシロ道ブック(国土交通省長崎工事事務所)

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