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  • 第287号【銀にまつわる長崎の町名】

     先ごろ、晴れてユネスコの世界遺産に登録された島根県の「石見銀山」。16世紀から約400年にわたって採掘された日本有数の銀鉱山です。ここでは灰吹法(はいふきほう)といわれる精錬技術で、良質の銀を大量に生産していました。最盛期の16世紀から17世紀にかけては、日本から輸出される銀の大部分がこの「石見銀」で、その量は世界の産出量の3分の1を占めるほどだったといわれています。 石見銀山最盛期は、長崎がポルトガルとの南蛮貿易で栄えた時代から、オランダや中国との貿易が盛んに行われた時代(江戸前期)にあたります。当時の長崎港からの主な輸出品は、銀でした。長崎の郷土史家の方によると、その頃、石見銀山で生産された銀は、上方に集められ、堺の港から船で瀬戸内海を渡って長崎へと運ばれてきたそうです。国内には他にも銀の産地はありましたが、当時、長崎から海外へ渡った銀は、やはりほとんどが石見銀だろうというお話でした。 同時代を世界史で見ると、スペインやポルトガルといった強国が世界の大海原をかけめぐった大航海時代(15世紀~17世紀前半)とも重なります。ポルトガル船は、日本で手に入れた銀をもとに、東南アジアで大いに利益を上げたそうです。オランダや中国の船も、最大のお目当ては日本の銀だったといいますし、当時のジパングは、「黄金の国」ならぬ「銀の国」として世界の注目を浴びていたようです。 ちなみに、当時、銀と交換する形で日本が輸入した主なものは東南アジア産の生糸(きいと)や絹織物などでした。当時の長崎の繁栄を支え、日本に海外の文物をもたらした石見銀。そう思うと、ますます世界遺産・石見銀山への興味がわいてきませんか。 さて、上方から長崎に集まるようになった銀は、まもなく市中にも出回りはじめ、武具の飾りやかんざし、帯留めなどの銀細工にたずさわる職人たちが出てきました。そうした人たちが多く集まって住んだところが中島川沿いにあり、白銀町(しろがねまち)と称したそうです。この町は寺町方面へとさらに広がって新白銀町が生まれ、江戸初期(寛永時代)にはそれらの町が合わさって銀屋町となったそうです。 その銀屋町は、40年ほど前の町界町名変更で、他の町に組み込まれ町名が消えていましたが、うれしいことに地元住民の熱心な運動で、今年1月に復活しました。故郷の歴史や文化を語りつぐ町名は、長崎に限らず、残していきたいものですね。 長崎には、他にも銀にちなんだ町名があります。「炉粕(ろかす)」という町です。くんちで知られる諏訪神社の参道そばにある小さな町で、古くは「ルカス町」と呼ばれていたと伝えられています。ルカスとは「留加須(るかす)」のことで、灰吹法で銀を精錬する際に炉の底にたまったものをいうそうです。当時、銀細工に使う銀などには、精錬を必要とするものもあり、その精錬所があったことにちなんだ町名のようなのです。場所も、入港した本船の荷物を、小舟が運び降ろした小川町(現在の桜町)にほど近いことから、銀の運搬にも都合が良かったと推察されます。 他説として、南蛮貿易時代、長崎の町にはいくつも教会が建ちましたが、そのキリスト教に関連して、「クルス」が転じて「ルカス」になったという説や、セントルカス教会があったことにちなんだという説もあるようです(実際にそういう名の教会はなかった)が、どうやら銀にまつわる「留加須(るかす)」説が有力のようです。◎取材協力/長崎歴史文化協会◎ 参考資料島根県ホームページhttps://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/越中哲也の長崎ひとりあるき(越中哲也/長崎文献社)大日本百科事典6巻(小学館)

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  • 第286号【絶滅危惧種と出会う、黒崎永田湿地自然公園】

     爽やかな自然の空気に触れて、たまった疲れやストレスを解消しませんか。今回、ご紹介するのは、気分がリフレッシュするネイチャー・スポット「黒崎永田湿地自然公園」です。ここは、のどかな湿地の自然に親しみながら、植物、昆虫、野鳥をウオッチングできる公園で、トンボに関しては日本有数の生息地と評価されています。また、ミズカマキリ、ニホンアカガエル、デンジソウなど長崎県で絶滅のおそれの高いいろんな生物に出会えるのも魅力です。 長崎駅から路線バスで約1時間。「黒崎永田湿地自然公園」は、西彼杵半島の西海岸側に位置する長崎市外海地区にあります。地元サーファーが集う黒崎海岸そばの「永田浜(ながたはま)バス停」で下車。そこからわずか3分ほど歩けば、海辺の景色が、緑豊かな里の風景に変わり、9.8ヘクタールの「黒崎永田湿地自然公園」が姿を現します。 梅雨の真只中ということもあり、公園には青葉が生い茂り、生気がみなぎっていました。目立ったのは、ガマやヒメガマなど背丈のある植物です。また、白く小さい花が涼し気なセリの群生やミズオオバコの花も満開。湿地の植物たちはすっかり盛夏の装いでした。 公園の入り口には、木造の「休憩所」があり、公園の成り立ちや生息する生物について写真付きの説明板が掲げてありました。うれしいことに、公共施設にありがちな施設案内のAV機器やジュース類の自動販売機などは一切ありません。近くの車道も交通量が少なく、おおむね静か。自然の音に耳を澄ますことができました。 園内には木道が通され、敷地全体をめぐりながら、植物や生物を間近に見たり、触れたりすることができます。木道に足を踏み入れると、いきなり、草むらからバサバサッとキジが現れ、「ケーン、ケーン」と鳴きながら飛び去っていきました。ここでは、モズ、ヒクイナ、サギ類、ツグミ、オオジュリンなどの野鳥とも出会えるとか。さらに、足を進めると、草むらの陰から「モー、モ」というウシガエルの鳴き声も聴こえてきました。 平成15年の春に開園した「黒崎永田湿地自然公園」は、湿地の生物や生態系を保全する目的で、荒れ地となっていた水田の跡地を整備したものです。今、全国各地で荒れた休耕地を再生・活用させようという動きがあるようですが、ここも、そのような時代の流れで生まれたようです。 日本の原風景でもある水田。人との関わりを強く受けたそのような土地、自然は、その後も人による適度な管理が必要になるそうで、放置していると、乾燥化が進みどんどん荒れていくといいます。ここも、整備する際には、なるだけ人工的にならないように配慮する中で、数カ所に池を設けてトンボ類の生息に適した環境をつくり、またいろいろな植物が生えるように、池の深さに変化を持たせるなどの工夫をしたそうです。そうした試みが功を奏し、当初はヨシやガマ類など少ない種類の植物で大部分が占められていたのが、今では、いろいろな生物が入り込み、多様性のある自然に変化し続けています。 この公園内を毎日ウオーキングしているという近所のご婦人は、「公園の表情が季節ごとに大きく変わるので、面白いですよ」とおっしゃっていました。人が、心ある手を加え、緑豊かな里の風景に溶け込んだこの公園。本当は、手つかずの自然というのが理想なのかもしれませんが、こんなふうに、人間が自然と仲良くなるために働きかけて、いい関係を生み出すというやり方も「あり」なのかもしれません。◎黒崎永田湿地自然公園/開園時間9:00~17:00(入園無料)◎取材協力/外海町行政センター(建設課)0959-24-0211

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  • 第285号【長崎とジャガイモ】

     おふくろの味を代表する肉ジャガをはじめ、揚げ物、汁もの、サラダなど、日々の献立に欠かせないジャガイモ。育てやすくて栄養があり、味もクセがなく、いろいろな味付けや調理方法が可能なので、アジアではスパイスを効かせた料理、アフリカでは塩やトマトのシンプルな味付けで煮込んだもの、欧米ではオーブンで焼いたり、チーズを加えたものなど、世界各国にその土地ならではジャガイモ料理があります。ドイツやポーランドなどでは主食的な存在ですし、小麦などと並ぶ世界の四大主要作物のひとつという地位も、うなずけますね。 ジャガイモの原産は、南米アンデス高地。先住民(インディオ)によって古くから栽培されていたそうです。ヨーロッパへ伝わったのは16世紀半ば頃で、アンデスを支配していたインカ帝国をスペインが征服したときだといわれています。この時、大航海時代という追い風にのって、ジャガイモは大海原を渡り各地に伝えられました。日本へは、同世紀後半の1570年代~90年代に南蛮船が長崎にもたらしたのが最初だといわれています。 ジャガイモという名の由来をご存知ですか?一説によるとその昔、ジャガイモを運び込んだオランダの船が、東洋貿易の拠点のひとつ、ジャワ島のジャガタラ(現在のジャカルタの古称)から長崎へ来ていたので、当時の人々は、「ジャガタライモ」と呼んでいたそうで、それが、いつしか「ジャガイモ」になったというわけです。ちなみに、現在、ジャガイモと同じくらいよく使われる「馬鈴薯(ばれいしょ)」という名は、その形が、馬に付ける鈴に似ていることに由来するそうで、江戸時代の学者が中国の文献をもとに名付けたと言われています。こちらは「ジャガタライモ」よりも後の話です。 ところで長崎は、歴史だけでなく、今もジャガイモと深く関わり続けています。というのも、現在の日本でジャガイモの産地といえば北海道が有名ですが、実は長崎県は、北海道に継ぐ全国第2位の産地で、島原半島や諫早市、五島などが主な産地として知られています。北の大地では気候上、春に植え、秋から冬にかけて収穫するという年に1回の栽培ですが、温暖な気候の九州などでは2期作が行われ、長崎も春~初夏、そして秋~冬には、穫れたてのジャガイモを楽しむことができます。 ちょうど今は新ジャガの季節で、長崎の八百屋では新鮮なジャガイモが最前列に並べられています。品種では、「男爵イモ」、「メークイン」、そして近年、長崎県総合農林試験場愛野馬鈴薯支場で育種された「デジマ」や「アイノアカ」などが見られます。「デジマ」は、火が通りやすく、いろいろな料理に合う品種で、適度なホクホク感があり、特に肉ジャガにするとおいしいです。「アイノアカ」は、皮が赤いのでサツマイモと間違えそうですが、味はもちろんジャガイモです。煮崩れしにくいので、カレーなど煮込み料理によく合います。八百屋の女将さんによると、「私らは、赤ジャガって呼んでる。他の品種より出回る量が少なくて、いつもあるわけじゃないよ。これが、おいしくってね。見かけたら必ず買っていくファンもいるよ」。 知り合いの女性(60代)は、新ジャガの季節には、必ず作って食べるという料理がありました。ジャガイモの団子汁です。ジャガイモを擦りおろしてしぼったものを団子にし、吸い物や味噌汁の具にしていただきます。「長崎では昔からある料理だけど、今頃の人はあまり作らないみたいね」。素朴で懐かしい口あたりのジャガイモの団子汁。その一椀に至るまでの壮大なジャガイモの歴史を思うと、ありがたくて、しょうがなくなります。◎参考にした本/ビジュアル ワールドアトラス(同朋社出版)、長崎県文化百選~事始め編~(長崎新聞社)

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  • 第284号【涼感あふれる雲仙深井戸天然水・水まんじゅう】

     前回の「長崎アイス」(コラム283号)に引き続き、涼しく健やかに過ごしたいこの季節にぴったりの長崎のおいしいものをご紹介します。その名も「雲仙深井戸天然水・水まんじゅう」。透明のシロップに、ぷるぷるのおまんじゅうを浮かべた涼菓で、10年前の発売以来、味にうるさい甘味ファンの間で支持され続けています。 シロップは、樹木が豊かに生い茂る国立公園・雲仙の麓の深井戸から汲み上げた天然水を使用。ひたひたとシロップごとおまんじゅうをすくって口に入れると、冷んやり、つるりとした心地良い舌触りです。さらりとした甘さで、噛むと、ほどよいもちもち感が楽しめます。おまんじゅうの生地は、身体にうれしい寒天が使用され、生地の中には、これまたヘルシーなこしあん(北海道の小豆・無添加)が入っているのです。 この水まんじゅうを作っている「小浜食糧株式会社」の方においしさの秘密を尋ねると、「やはり、雲仙の深井戸から汲み上げた水の力ではないでしょうか。天然ミネラルが豊富なやわらかな水で、不思議なほど素材のおいしさを引き立てるのです」とのこと。ちなみにこの水は、地元では酒づくりにも使われるほどの名水。「ですから、シロップも残さず召し上がっていただきたいですね」とおっしゃいます。 「雲仙深井戸天然水・水まんじゅう」は、2パック(1パックに水まんじゅう5個入)で525円と、お手頃な価格もうれしい。暑い日の手土産や贈り物としても喜ばれることでしょう。食べ方は、冷蔵庫で普通に冷やしていただきますが、いったん冷凍室で凍らせ、半解凍した状態でいただくのがおいしいという方もいます。お好みの食べ方をぜひ、試してみてください。 ところで、「小浜食糧株式会社」は、主に長崎の観光土産菓子を製造・販売している会社で、創業は、昭和7年(1932)の老舗です。「Bon Patty」(ボン・パティ)の名称で、本社のある雲仙市をはじめ長崎市や大村市など県内各所に店鋪展開しています。長崎を代表する銘菓「クルス」は、つとに有名で、長崎県外の方でも、「シスターのイラストのついたパッケージ」と言えば、「知ってる!」という方も多いことでしょう。他にも、ワッフルやクッキーなどの洋菓子から釜ぶたかぶせ(どら焼き)といった和菓子まで、多彩な品揃えで、お土産品から普段のおやつにと、多くの方々に親しまれています。 本社のある雲仙市小浜町は、島原半島の古くからの湯治場のひとつとして知られる温泉街。この地で、湯治客などを相手に日曜雑貨やお土産品を売る個人商店からスタートしたそうです。その頃、一枚一枚手焼きで売りはじめた「湯せんぺい」は、地元温泉街の名物土産。何と74年のロングセラーなのです。 本社に併設された店鋪には、戦前~戦後の鉄が不足していた時代に、小浜温泉のお土産品として売られていたセルロイドの茶托や、当時、湯せんぺいの缶入りに代わって利用された陶器の容器など、お店の歴史を物語る珍しいものがディスプレイされ、昭和の香りが未だ残る小浜温泉街の見所のひとつになっています。 さて、前述の「クルス」ですが、これも昭和39年(1964)に誕生したロングセラーです。薄く焼いたサクサクの生地にジンジャーのスパイスを配合したホワイトチョコレートをサンドしたお菓子で、その軽い食感は、時代を越えて愛され続けています。実は、長い間、黄色のパッケージで親しまれていましたが、2年ほど前から、白を基調にしたモダンなデザインに変わり、お菓子もより食べやすいサイズになりました。時代に合った衣替えが功を奏し、今、新しい世代のクルスファンも増えているそうです。 地元のおいしい水を活かした「雲仙深井戸天然水・水まんじゅう」をはじめ、南蛮時代に長崎に伝わったキリスト教にちなんで名付けた「クルス」など、おいしい長崎のお菓子を次々に生んできた「小浜食糧株式会社」。「長崎らしさにこだわった商品を通して、お客さまに喜んでいただきたい」という思いが、長く愛される銘菓の誕生につながっているようです。◎ 取材協力:小浜食糧株式会社 長崎県雲仙市小浜町北本町14-15      TEL0957-75-0115

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  • 第283号【懐かしくて誠実な長崎アイス】

     風も日射しも初夏ならではのさわやかさ。長崎では、早咲きのアジサイたちが、街角を彩りはじめました。だんだんと暑くなってくるこれからは、冷たいアイスの季節でもあります。今回は、長崎のとっておきのアイスをご紹介します。それは、半世紀のロングセラーを誇るニューヨーク堂の「長崎アイス」です。モナカの皮に、ほどよい甘さのアイスクリームをはさんだもので、どこか郷愁を誘うシンプルな姿と味わいが魅力です。地元では親子三代のファンもめずらしくありません。 モナカにはさまれたアイスクリームは、生乳100%ならではの風味とコクがあります。最近の市販のアイスクリームは、空気を多く含ませ、軽い食感が多いようですが、「長崎アイス」の方はぎゅっと詰まって食べごたえがあるのが特長です。 ニューヨーク堂の「長崎アイス」は、創業以来、作り手の目が行き届く範囲の製造に徹しています。大手メーカーのように大量生産、全国展開をしておらず、店頭で買い求める場合には、「ニューヨーク堂」本店以外では、長崎市内の一部のスーパーなどでしか手に入りません。遠方の方は、冷凍便でお取り寄せをしているそうです。 ニューヨーク堂は、今年で創業70周年の老舗洋菓子店です。長崎市の中心市街地・浜町のお隣にある「中通り商店街」の一角にあります。ところで、なぜ、長崎のお店なのにニューヨークなの?と思われた方もいらっしゃることでしょう。洋菓子職人歴50年のニューヨーク堂社長・松本豊晴さんに伺ってみました。 「創業者の父(松本兼松氏)が若い頃の話です。冒険心があったのでしょう、大正元年17才の頃に、仲間と長崎から外国へ渡る船に乗り込んでイギリスに渡ったそうです。無事に着いたのは良かったのですが、当時のイギリスは不況で仕事がなかった。一年後、職を求めてアメリカに渡りました。それから約2週間、公園で野宿をしていた所を、日本の大使館員に保護されたそうです。父は運のいい人で、大使館を通じてゼネラル・モーターズ(GM)の会長の自邸でお抱えのコックとして働くことになったのです」。 「ニューヨークでは、一緒にアメリカに渡った仲間たちは、働いたお金をお酒などに費やしていたそうです。酒が飲めず、根が真面目であった父は、ほとんどの給与をニューヨークの東京銀行支店に貯めました。そして仲間の多くが帰国を果たせない中、父だけは昭和10年、39才で帰国し長崎に店を開いたのです。その資金はもちろんニューヨークで貯めたものでした」。お店の名前には修業時代を過ごしたニューヨークへの思いが込められていたのです。言わずと知れた大富豪であるGMの会長のもとで、当時のアメリカ式のマナーやエチケットなどを身に付けた先代は、帰国後も、外出時には夜でもきちんと帽子をかぶり、冬にはトレンチコートをさりげなく着こなすダンディな方だったそうです。 先代のアメリカでの修業時代のお話をはじめ、長崎での開業時のエピソード(創業当時は洋食レストランで、デザートでケーキや夏限定のアイスクリームを作っていた)、そして当時のお客さまや、お店を一時閉めざるを得なかった戦争中のお話など、長崎のひとつの洋菓子店から昭和初期の歴史の流れが垣間見れ、たいへん興味深いものがありました。 名物「長崎アイス」を産んだニューヨーク堂は、今、3代目となる若夫婦が社長の片腕となって大いに奮闘しています。若い力が加わったここ数年の間に、「長崎びわの実アイス」や「カステラアイス」など、新製品を出し、長崎の新しい味として注目されています。 ニューヨーク堂は冷菓だけでなく、焼き菓子の方でも、クリームパイ、アップルパイ、ペッスリーといったロングセラーがあります。時代の流れの中で、昔ながらの味わいを守り続けることは実はむずかしいこと。「レシピはほとんど変わりませんが、よりいい素材を選び、技術面でも工夫をしています。お客さまの舌はどんどん肥えていくので、その声に耳を傾けながら私たちも努力を続けています」と社長はおっしゃいます。ニューヨーク堂は洋菓子職人としての誠実さで、長く愛され続けているのです。◎ 取材協力:ニューヨーク堂 長崎市古川町3―17      TEL095-822-4875

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  • 第282号【感動の長崎帆船まつり】

     今年のゴールデン・ウィークは、いかがお過ごしでしたか?どこもイベントシーズンならではの多彩な催しで大にぎわいでしたね。初夏の気配を感じる日射しや風も気持ち良く、家の中でじっとしていても、開放的になった世の中の気分が伝わってくるようでした。 長崎港ではすっかりこの時期の風物詩となった「2007長崎帆船まつり」(4/26~30)が華やかに開催されました。毎年、各国の帆船が集うこのおまつりは、帆船の美しさや海のロマンを肌で感じる素敵な催しがいっぱい。今年は5日間の期間中、28万7千人(長崎経済研究所調べ)が長崎港に繰り出しました。 今年の帆船まつりには、「日本丸」、「海王丸」、そしてロシアの「パラダ」という、総トン数2,000t以上、マスト高50mの大型帆船が3隻。さらに韓国の「コレアナ」、大阪の「あこがれ」、佐世保・ハウステンンボスの「観光丸」、そして長崎市所有で、古い中国の木造船を復元した「飛帆(フェイファン)」の全7隻が集いました。 帆船まつりの初日の見どころは、長崎港の入り口にかかる女神大橋の下から次々に姿を現す「入港パレード」です。今年の天気は花曇りで、長崎港も一面厚いもやがかかっていましたが、真っ白なもやの中から姿を現した帆船の姿は、幻想的な雰囲気を漂わせ、晴天の時とは違う表情を楽しめました。 帆船たちは、長崎港の「長崎水辺の森公園」周辺の岸壁に停泊。大勢の市民や観光客が帆船を見上げる中で目立ったのは、年輩の男性たちです。じっと帆船を眺める視線の熱いこと。ご自身も乗組員になって大海原をいく様子などを想像しているのでしょうか。「日本丸」や「海王丸」に関しては、第二次大戦後、海外在留邦人の帰還輸送に携わったという歴史もあり、当時に思いを馳せた方もいらっしゃったに違いありません。 帆船まつりでは、船内一般公開、体験クルーズなど、帆船とその乗組員、市民が交流を図る催しもいろいろありました。「パラダ」の一般公開では、ロシアの海技学校や水産学校の若い実習生たちが船内を案内してくれました。広いデッキは心地良く、各所に巻かれたロープは、太くてとても強靱そう。マストを真下から見上げれば、無数のロープが複雑に渡りあっていて、遠目から見た時のシンプルな帆の姿は細やかなロープの組みや作業で成り立っていることを実感しました。 帆船の乗組員(実習生)たちが力を合わせて白い帆を一斉に広げる「セイルドリル」は、日頃の練習の見せどころです。帆の木組みに軽やかに登ってキビキビと作業するその姿には、海の男としての自覚が感じられ、とても爽やかです。この帆船まつりに長年関わっていらっしゃる湯川武弘氏(帆船海王丸クラブ・東京の元幹事)は、「船上ではチームワークがとても大切です。帆を上げる時、一人でも手を抜けば、上がり具合に現れてすぐにわかるのです。実習生たちは、船上でのさまざまな作業を通じて、自分の力を精一杯発揮することの大切さやチームワークの重要性を学ぶのです」とおっしゃっていました。 帆船まつりでは、毎回参加してくれる帆船との年に一度の再会を待ち望む人も増えています。「出会いを重ねることで、帆船や海への興味が深まってくるはず。そういう方々が増えると私たちもうれしいですね」と話す湯川氏は、市民らの帆船に関する疑問や質問に快く応じていました。  帆船まつりの最終日。出航の際にマストに登り「ごきげんよう」と手をふる実習生の姿や、帆船たちが互いに汽笛を鳴らして別れを告げる光景は、人生の中のさまざまな別れとも重なって思わず涙ぐむほどです。入港から出航まで、感動満載の帆船まつり。今年を見逃した方は、ぜひ、次回お出かけください。◎ 取材協力:長崎帆船まつり実行委員会      TEL095-829-1314

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  • 第281号【もやしが流行った!?長崎】

     お値段も手頃で、日々の食卓にひんぱんに登場する、もやし。多種多様な食材の中では、地味でさりげない存在ですが、汁ものの具や野菜炒め、和えもの、サラダなど、主役、脇役のどちらもこなす器用な役者です。最近では、太めのタイプから、糸のように細くて小さいアルファルファもやしなど、いろいろな種類を見かけるようになりました。もやしの原料の主流は、かつては大豆や緑豆でしたが、今ではコストの安いブラックマッペにかわっているそうです。 「もやし」の名は、「萌し(もやし)」、「生やし(おやし)」からきたそうで、名があらわすように、豆類(大豆、小豆、エンドウ豆、緑豆)などを発芽させて作ります。また、小麦や大麦、そばなどの穀類やその他の作物の種からも作られていて、あのカイワレダイコンやブロッコリーの芽なども、もやしの一種です。ちなみに、日本では、もやしは古くからの食べ物だそうで、平安時代の「本草和名(ホンゾウワミョウ)」に「大豆黄巻」という名で記されているそうです。 ところで、長崎の郷土料理には、ちゃんぽん、皿うどん、そぼろ、パスティなど、もやしの入った料理がいろいろあります。それで、何となく気になっていたところ、江戸時代の出版物の中に、次のような興味深い記述を見つけました。『蘖(もやし)は長崎にて流行(はやる)。ふたなりといふ豆を水にひたし芽を出して。食料にすることなり。ふたなりは緑豆をいふなり。もやしやう。………』 この本は、「長崎聞見録」というタイトルで、1800年(寛政12)に出版されたもの。著者は広川獬(ひろかわ かい)という京都の人で、医術をはじめ動・植物にも造詣の深い人物だったと伝えられています。寛政年間(1780~1800)に2度、合わせて約6年間、長崎に来遊。江戸時代は、多くの人が新しい西洋の知識を得ようと長崎にやってきましたが、彼もそのひとりだったようです。著者の興味は多岐に渡っており、「長崎聞見録」には、祭りや食べ物など長崎の人々の風俗だけでなく、唐人や阿蘭陀人に関するさまざまな事柄についても「取材」をし、絵付きでまとめています。 さて、広川獬は、緑豆を水にひたし、朝夕水を入れたり、出したり、藁でおおったりの作業を7日繰り返すと、芽が一寸ほどのびるといった、もやしの作り方まで記していましたが、ここで注目してほしいのが、原料の「ふたなり」こと「緑豆」です。緑豆といえば、中国産の「緑豆はるさめ」が知られています。また、現在も、緑豆を原料にもやしを作る場合、主に中国から輸入しているそうです。ということは、当時、長崎で作られたもやしは、中国産の緑豆で、作り方も中国の人から伝授されたと想像できませんか。 長崎のある郷土史家の方も、「おそらく、そうでありましょう」ということでした。その方によると、明治・大正時代には、伊勢町の中島川沿いにもやし製造の店が多く点在していたといいます。水はけが良いことと同時に、水が豊富でなければならないもやし作りには、最適な場所だったというわけです。◎参考にした本:長崎文献叢書 第一集・第五巻 長崎虫眼鏡・長崎聞見録・長崎縁起略(長崎文献社)、豆の本(本谷滋子/文化出版局編)、カラー百科・野菜と豆(主婦の友社)

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  • 第280号【自然と歴史の宝庫、生月島へ】

     生月島(いきつきじま)へ行ってきました。本土の西北端に位置する平戸島のさらに北西部に位置する小さな島です。あいにくの曇天と、春先に多い黄砂のせいで、景色はかすんでいましたが、なかなか味わい深い時間を過ごすことができました。 生月島は、2つの橋で本土と陸路がつながっています。まず本土と平戸島を結ぶ平戸大橋(長さ665m)を経て、さらに平戸島と生月島の間に架かる生月大橋(長さ960m)を渡るのです。生月大橋は、平戸の市街地から車で20~30分ほど。ライトブルーの橋で、眼下に広がる辰ノ瀬戸の青さと島の緑とともに美しい景観を生み出していました。この橋は1991年に開通。建設当初は、「三径間連続トラスト橋」としては世界一の長さだったそうです。 南北に伸びた生月島は、一時間あれば車で一周できるほどの広さです。島の東側(平戸島を望む方角)には、港が点在、民家が集まり町を形成しています。まき網漁業が盛んで、新鮮な魚が豊富です。そして、なだらかな斜面に連なる畑では、アスパラなどが盛んに作られているそうです。島の西側に行くと、民家は途絶え、景色は断崖など雄大な自然へと変わります。この一帯は西海国立公園に指定された景勝地。目の前に玄界灘を望む大海原が広がっています。 「生月」という地名について、『その昔、遣唐使船が唐からの帰路、東シナ海の荒波を乗越えてこの島を目にしたとき、「ほっと一息ついた」ことから「いきつき(生月)」と呼ぶようになったそうですよ』と島の人から聞きました。「いきつき」の名が最初に確認できる歴史的資料の「続日本後記」(869年編纂)には、遣唐使船が帰路、生属島(生月島)に立ち寄ったことが記されているそうです。当時の航海は、まさに命がけ島の人のいう名の由来は、定かではないということでしが、真実味を感じます。 この島で見所としてはずせないのは、生月の博物館、「島の館」でしょう。生月大橋を渡ってすぐのところにあります。江戸時代、日本最大の規模を誇ったという捕鯨組、「益冨組」の本拠地があったこの島の捕鯨の歴史がわかります。また、かくれキリシタンの島としての歴史も知ることができます。信仰を続けた人々のかつての生活の様子を伝える貴重な資料が多数展示されていました。 島の北端にある「大ハエ灯台」も素晴らしいところです。断崖の上に建つ白い無人灯台で、空と大海原を見渡す絶景を楽しめます。灯台の周囲に積まれた石垣の間からのぞくと、真下に断崖に打ち寄せる荒波が見えます。足がすくむ景色です。近くには、捕鯨の歴史にゆかりのある鯨島という小島もありました。 大ハエ灯台の周辺には自然の力を感じる雄大な景観が広がっています。「塩俵の断崖」と呼ばれる天然の奇岩群もそのひとつです。いくつもの石の柱が亀の甲羅を思わせる模様に削られています。これは玄武岩の柱状節理と呼ばれるもの。まさに自然の神秘です。 キリシタン関係では、明治末から大正初めにかけて造られたという天井のアーチが印象的な山田教会、そして生月島の最初の殉教者、ガスパル様の殉教遺跡で、十字架の碑が建つ黒瀬の丘などを訪ねました。かつて大きな迫害を受けた隠れキリシタンの信仰は、今も子孫に脈々と受け継がれ、口伝のオラショ(祈り)が唱えられています。

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  • 第279号【ポンズは、お酒だった!?】

     私たちの食卓に欠かせない調味料のひとつ、ぽん酢。湯豆腐や揚げ物、サラダなど、素材の味を引き立てる名脇役です。柑橘系の果汁と酢、醤油を合わせたぽん酢は、以前は、ダイダイのしぼり汁のことを言っていたそうですが、今では、ユズやカボス、スダチなど他の柑橘類のしぼり汁の総称としても使われているようです。 柑橘の豊かな香りとやさしい酸味。ぽん酢は、まさに日本人好みの調味酢です。しかしその名称のルーツは、何とオランダ語。江戸時代、出島のオランダ商館の食卓に出ていたもので、もともとはアルコール飲料のことだそうです。 長崎歴史文化協会の越中哲也先生によると、「ぽん酢の語源はアルコール度の強いお酒(スピリッツ)に果実酢、砂糖、スパイスなどを加えた飲み物で、英語でPUNCH(パンチ。仏語ではパンシュと読む)、オランダ語ではPONS(ポンズ)と呼ばれていました。それが転訛して、現在のぽん酢になったようです。長崎郷土史の大家でいらした古賀十二郎先生はぽん酢について、『オランダ人が長崎の人達に教えたもので、長崎の人はポンズを橙果汁(ダイダイカジュウ)と訳している』と記していらっしゃいます」。 当時の日本では、なぜかアルコール飲料としては馴染まず、柑橘系の果汁だけを「ポンズ」と呼ぶようになり、現在の「ぽん酢」に至ったようです。そのなごりとして、今も長崎の郷土料理を代表する卓袱料理のテーブルの上には、醤油と並んで必ずぽん酢(単に、酢醤油と呼ぶ人も多い)が置いてあり、揚げ物や湯引きなどにつけて食べます。 さらに、越中先生は、当時のオランダ人は夏の暑さを防ぐためにPONSを飲んでいたようだといいます。「江戸時代の蘭学者、森島中良(1754~1810)が著した『中陵漫録』に、そういう記述あります」。そこには、『哈刺基(アラキ)という酒二合に橙の酢を入れて白糖を加え、煎る事一たぎり、是に水を少し和して飲む。甚だ冷やしてよろし』と、具体的な材料と作り方まで記されていました。 「哈刺基酒とは、主に東南アジア方面で作られるアルコール度数の非常に強いお酒で、椰子、糖蜜、米などを加えて発酵させたものです。オランダ人より早く南蛮貿易時代にポルトガル人によって長崎に持ち込まれたものです。ポルトガル語でaracaと言っていました。(オランダ語ではarak)」。 ところで、少し前までの長崎には「梅ポンス」という飲み物があったと越中先生は言います。これは、現在、私たちが「梅酒」とか「梅焼酎」と呼ぶお酒のことのようです。「梅焼酎を冷たい井戸の水で割り、さらに砂糖を加えたのが、梅ポンスです。夏場の飲みものとして親しまれていたんですよ」と越中先生。いつの間にか、井戸はなくなり、毎年、梅酒を作る家庭も減ってきて、手作りの梅ポンスは、昔懐かしい飲み物になってしまったようです。◎取材協力/長崎歴史文化協会

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  • 第278号【伝統の長崎風パイ、パスティ】

     ミートパイやアップルパイなど、パイ生地を使った料理やお菓子はいろいろ。小麦粉にバターを練り込んで焼き上げたそのおいしさは、サクサクとして香ばしく、大好きな方も多いことでしょう。 今でこそ日本人の食生活に馴染んではいるものの、パイは紛れもなく異国の食べもの。では一体、日本で初めてパイ料理が食べられたのはいつ頃だったのでしょう。長崎の歴史書をひもとけば、少なくとも、江戸時代の出島ではオランダ人らが食していたことがわかっています。 当時、出島のオランダ屋敷の食卓に招かれご相伴にあずかったり、見聞する機会のあった日本人もいたようです。その中には、大槻玄沢(おおつきげんたく:江戸中期の蘭学者)のように、詳細なメニューを書き残した人もいて、その中に「パスティ」の名称でパイ料理が記されています。 また、出島には、「オランダくずねり」と呼ばれる日本人の料理人が数名いました。彼らが仕事を終えて家に帰れば、その日どんな食事を作ったか周囲に話して伝えたこともあったでしょう。中には草野丈吉(くさのじょうきち)のように、出島で料理の腕を磨いて、西洋料理店を開いた者もいました。彼らは、西洋料理を日本に広げる大きな役割を果たしたといえます。 ところで、丈吉が幕末の文久3年(1863)に長崎・伊良林で開いた店は、西洋料理店の発祥といわれています。後に諏訪神社前で営んだ「自由亭」は、外国の賓客をもてなす場としておおいに活用されたそうです。みろくやホームページの『長崎の食文化』の中で、著者の越中哲也先生(長崎の郷土史家)は、当時、丈吉が用意した献立について次のようなものであったろうと記しています。『牛のソウバ(スープ)、パスティ(肉入りパイ)、フルカデル(肉饅頭)、牛のロース煮、ハム、ビフテキ、ゴウレン(魚の油揚)、豚料理、鶏料理、サラダ、パン、コーヒー(カステラやカスドースなどの洋菓子付)』。 その中にある「パステ(肉入りパイ)」は、大ぶりの鉢の中に、鶏の切身や椎茸、木耳(きくらげ)、ねぎ、コショウ、肉豆寇(にくずうく)などが入っていて、麦粉とボートル(※バターのこと)で作ったパイ生地を上に付けて焼いたもの、と別の文献にありました。 現在、パスティは卓袱料理店などで出されるものの、一般家庭ではほとんど作られていないようです。でも、市販のスープの素やパイシートを利用すれば、意外に簡単に作れます。1、適量の水に鶏ガラスープの素を入れて煮立て、食べやすい大きさに切った鶏モモ肉、にんじん、長イモなどを入れて煮ます。2、野菜が煮えたら、さらに銀杏と木耳を加え、塩、コショウ、酒で味を整えれば、鉢の中に入れる野菜スープの出来上がりです。3、冷ました野菜スープと別途スープで下煮したもやしを鉢に盛り、ゆで卵を半分に切ったものを飾るように載せます。4、パイシートを1センチ幅に切り、盛った鉢の上に格子状にのせ、180度から200度のオーブンで15~20分ほど焼きます。パイの香ばしい匂いがキッチンに漂いはじめたら、出来上がりの合図です。ぜひ、チャレンジしてみてください。  ずいぶん前、ある料理屋さんで、お煮しめが入ったパスティが出て、ちょっと驚いたことがありましたが、パスティはそういうものだと聞かされました。それがおいしかったかどうかは別として、どうやらパスティは、時代や状況に応じて変化しながら、長崎の郷土料理のひとつとして生き延びているようです。※ 参考にした本や資料/「長崎卓袱料理」(ナガサキ イン カラー)、みろくやホームページ「長崎の食文化」

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  • 第277号【桃カステラで春を祝おう】

     長崎のおめでたいお菓子といえば、桃カステラ。ほのかにピンク色の愛らしい姿は、桃の節句をはじめ結婚式や出産などのお祝い事に欠かせない存在です。桃カステラと言っても、長崎以外の地域の方にはほとんど馴染みがないと思います。その名を聞いて、桃の味がするカステラ?と思われる方が多いようですが、桃の果実は使っていません。 桃カステラは、ポルトガル伝来のカステラ(スポンジ)の上に、中国で不老長寿の縁起物とされる桃の姿をフォンダン(糖衣)で描いたもの。大人の手のひらいっぱいに乗る大きさで、高さは5~7センチほどあります。長崎では桃の節句が近付く頃、多くの和菓子店や洋菓子店の店頭を飾り、春の訪れを告げるのです。 異国情緒あふれる長崎の歴史の中から生まれた、桃カステラ。カステラとフォンダンで桃をかたどった基本スタイルはどのお店も変わりませんが、味も表情もお店ごとに趣向を凝らし、個性がみられます。各店を食べ比べ、御ひいきの桃カステラを見つけるのも楽しいものです。 さて、長崎の数ある桃カステラの中で、ここ数年、おいしいと評判を集めているのが、和菓子店「穂俵(ほだわら)」です。「穂俵」は、長崎の老舗洋菓子店「梅月堂」の和菓子部門として20年前にオープンしたお店。その桃カステラは、スポンジケーキを思わせるふんわりとした口あたりで、やわらかなフォンダンと絶妙なハーモニーをかもします。その姿も品があり、とてもやさしい表情です。 ところで、「穂俵」を擁する「梅月堂」は、長崎ではめずらしく長い間、桃カステラを作っていませんでした。「梅月堂」は、長崎の中心商店街、浜町アーケード内に本店を構える明治27年(1894)創業のお店。地元では、知らない人はいないお店ですが、創業当時は和菓子専門店であったこことは、あまり知られていません。 本格的に洋菓子専門店として歩みはじめたの昭和30年頃で、実はそれ以前までは、桃カステラを作っていたそうですが、本格的な洋菓子に専念したいという当時の経営者の強い思いから、一切作らなくなりました。とはいえ、お客さまからは、梅月堂の桃カステラを食べたい、作ってほしいという要望がずっと絶えなかったといいます。そうして、ようやく3年前、和菓子部門の「穂俵」から登場することになったのです。 「穂俵」の和菓子職人さんによると、穂俵の桃カステラは、「長年培った洋菓子の技術でつくったスポンジの生地と、和菓子の技を活かしたもの。スポンジもフォンダンもやわらかな口あたりで食べやすい」といいます。桃を描いた上の部分は、「ボカシ」という和菓子の技でほのかな桃色のグラデーションを出し、ひとつひとつ手作業でなめらかなフォンダンを3回くぐらせ、ほどよい厚みと輪郭を整えています。 また、「穂俵」には、桃カステラとは別に、「桃まんじゅう」もあります。こちらは、米からできた上用粉と山芋でつくったきめ細やかな皮で、しっとりとしたこしあんを包んだ上用まんじゅうです。桃カステラとはまた違った愛らしい桃の形と上品なおいしさで、根強いファンがいます。 もうすぐ、桃の節句です。縁起物の桃カステラや桃まんじゅうで、うれしい春を呼びこみませんか?※ 取材協力/「梅月堂」 HPアドレス http://www.baigetsudo.com/

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  • 第276号【もうすぐ開幕!2007長崎ランタンフェスティバル】

     異国情緒あふれる長崎の冬を極彩色の灯りが彩る「2007長崎ランタンフェスティバル」が、もうすぐはじまります!今年は2月18日(日)から3月4日(日)まで。毎年、開催時期が変わるのは、旧暦の1月1日(春節)~15日(元宵節)に合わせて開催しているからです。そう、長崎ランタンフェスティバルは中国の旧正月を祝う行事なのです。 訪れる市民や観光客が約86万人にものぼる巨大なお祭り「長崎ランタンフェスティバル」。その魅力は、何といっても圧巻ともいえるランタン(中国提灯)の装飾です。長崎市中心部(湊公園・新地中華街、浜市・観光通りアーケードなど)を、おおうように飾られるその数は約1万5千個にもおよび、見知らぬ異国に来たような幻想的な雰囲気を漂わせます。 ランタンとともに、街ゆく人の目を楽しませてくれるのが、中国伝説の神々や動物、人物を象ったオブジェです。今年は、新しいオブジェが登場!それぞれのオブジェには、由来となった伝説や縁起が説明板に記されており、それを見て歩くだけでも面白いものです。 毎年、干支の大型オブジェが飾られるメイン会場の湊公園には、『諸(猪)事如意』(何ごともうまくいきますようにという意味)というタイトルのかわいらしい「豚」のオブジェが登場します。中国では「猪」は「豚」のこと。豊年収穫、富みのシンボルで、子孫繁栄なの願いが込められています。 中国獅子舞や中国雑技、龍踊り、二胡の演奏など、中国色豊かな催しが行なわれる会場は 1、湊公園会場(新地中華街そば) 2、中央公園会場(浜町アーケードから徒歩3分) 3唐人屋敷会場(湊公園から徒歩3分)など。さらに、興福寺会場(寺町通りの一角。浜町アーケードから徒歩5分)や、各会場を結ぶルートにある浜町アーケード、鍛治市商店街などにも会場が設けられ、各種催しを見ることができます。華やかな中国衣装を身にまとった皇帝パレード(2/24、3/3開催)や媽祖行列(2/25、3/4開催)も見逃せません。 ランタンがかもし出すロマンチックな雰囲気は、若いカップルに好評のようです。片思い中の方や良縁を求める方は、ぜひ、浜町アーケード内に設けられた「月下老人」のオブジェを探してください。「月下老人」は、中国の縁結びの神様。手にした巻き物のには、結ばれる二人の名が記されているという伝説があるとか。「月下老人」のそばでは長崎ランタンフェスティバル特製の「赤い糸のお守り(100円)」も用意されているそうです。 眼鏡橋がかかる中島川にもぜひ、足を運んでください。朱色が中心のランタンですが、ここだけは黄色のランタンが一斉にともり、水面にその色を映して美しい風情をかもします。川沿いのオブジェも去年以上に充実。中島川のいつもと違う表情を楽しめます。 「長崎ランタンフェスティバル」は、15日間におよぶ長丁場のお祭りです。期間中、お天気に恵まれれば何よりですが、実は、雨に濡れそぼるランタンと街の表情も素敵です。水たまりに映ったランタンは、カメラ片手に街に繰り出した人々にとって魅力的な被写体になることでしょう。◎ 取材協力/長崎市観光宣伝課

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  • 第275号【長崎~江戸の歴史街道を歩く~後編~】

     前号に引き続き、長崎~江戸の歴史街道(1,335キロ)を歩いた餅田健さんのお話です。旧長崎街道~山陽道~東海道と歩いた34日間、朝4~5時頃に起きて、6~7時頃には出発。ひたすら歩いて昼食をとり、陽が落ちる前には宿に入り、夕食、風呂、洗濯、ストレッチを終えて就寝という毎日でした。  一日に歩いた距離は平均39.26キロ。全行程の中で通過した宿場町は、155宿。ちなみに長崎~江戸を約40日かけて歩いた天保13年(1842)の役人たちは、その内の78宿に立ち寄っています。「かつての街道筋は、昔ながらの道を行くところもたくさんありましたが、おおむね車道に変わっている道が多く、また宿場町の中には、その歴史さえ全く感じられなくなっているところもありました。そんな中、例えば長崎街道の鈴田峠、冷水峠などは風情があって良かった。そして、木屋瀬という宿場町も古い建物が多く残されていて出会いの感動がありました」。 一番苦労したのは、日々の宿泊を決める作業です。「行く先々の電話帳で宿を探して予約を取るのですが、目的地にホテル・旅館のないところも多く、いろいろたいへんでした」。  山陽道を経て東海道に入ると、広重が描いた風景と所々で出会い、当時へ思いを馳せました。もっとも感動したのは、春の光を浴びて美しくそびえていた富士山との出会いです。「スタートから30日目、静岡のさつた峠から眺めました。空が青く晴れ渡っていたのですが、そこでみかん売りのおばさんから、こんなに天気がいいのはめったにない、あなたは運がいいっていわれました(笑)」。 ところでこの間、体調はどうだったのでしょう。「毎晩ストレッチなどをしましたが、ずっと足腰の痛みに悩まされたものの、歩を止めることはありませんでした。これは効くなと思ったのは、スタート間もない頃に友人夫妻にいただいたショウガの砂糖漬けです。血行をよくしてくれ、思いのほか体調を整えてくれました」。 そして最終日(34日目)、川崎から多摩川へ出て江戸へ入ると、昔ながらの宿路の感をところどころに残す品川宿を探訪。高輪、銀座を経て、日本橋に向かいました。銀座の人通りの中を縫うように歩く赤いシャツの餅田さん。普段は、全く着るものに頓着しないのですが、この日だけは赤いシャツと決めていたそうです。日本橋では、大学時代の同窓生たちが大勢出迎えてくれました。日焼けした顔に笑みをこぼす餅田さん。心も身体も達成感で満ちあふれました。 今回のチャレンジで、餅田さんがもっとも思いをめぐらしたのは車社会についてでした。「どこも一昼夜ひっきりなしに車が走っている。これだけ石油を使っていたら、当然やがて枯渇するでしょう。また、大気汚染や地球の温暖化といった問題もあります。人間のごう慢さを感じましたね。車社会を否定するわけではありませんが、便利さの一方で失っているものは大きいと思います」。 歩くことで、人や風景との出会いなど、プロセスを楽しめるという餅田さん。長崎~江戸を歩いた感動は2年経った今でも続いているそうです。今後は、芭蕉の奥の細道や日本の背中(鹿児島から北上し、日本海沿岸を北海道までたどる)などの計画もあります。餅田さんのチャレンジはまだまだこれからも続くのです。

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  • 第274号【長崎~江戸の歴史街道を歩く 前編】

     あけましておめでとうございます。新しい年を迎え、今年こそ何かにチャレンジしたい、生活を変えたいという方もいらっしゃることでしょう。2007年最初のちゃんぽんコラムは、長崎~江戸の歴史街道(1,335キロ)を34日間かけて歩いた餅田健さんのお話です。歩くことが好きなごく普通の70才男性のチャレンジは、あなたの前向きな思いを後押ししてくれるかもしれんません。 餅田さんは長いサラリーマン時代を経て、現在は観光ボランティアガイドをしたり、郷土の歴史を学ぶなどしています。趣味は長距離ウォーキングで、若い頃からあちらこちらの野山や街を歩いてきました。「私にとって歩くことは、幼少時代に獲得したDNAみたいなものです。長崎市郊外で過ごした子ども時代、木炭バスこそあるものの、多くの人が隣の村や街へは山を越え、谷を越え歩いていくことが普通でした。わら草履を履きつぶしては足裏にあかぎれをつくり、時には出血を伴いながら歩いていましたね」。 現在、餅田さんは1時間を6.5キロの速さで歩きます。身長160センチ、体重55キロの身体は、特別なトレーニングをするわけでもなく、ひたすら歩くことでしなやかに鍛えられているのです。「私の歩きはウォーキング用ではなくジョギング用の靴が合います。長崎~江戸もジョギングシューズでした」。 実は、この長崎~江戸を歩くという計画は当初、餅田さんの頭にはなく、お伊勢参り(三重県伊勢市)を考えていました。というのも、その前年の秋、四国八十八ケ所の遍路旅をかなえた後、江戸時代に長崎の町衆が大挙してお伊勢参りをしていたという史実を知り、当時と同じ道をたどりたいと思っていたのです。 そこで、かねてより師と仰ぎ学んでいた長崎の郷土史家、越中哲也先生に江戸時代の参考資料を提供していただいたところ、なぜか目の前に出されたのは、長崎~江戸(長崎街道~山陽道~東海道)の宿場街道のもので、天保13年(1842)に、長崎奉行所が囚人を江戸まで護送した際、担当者2名が記した「江府江御差下囚人差添一件留(こうふえおさしくだししゅうじんさしぞえいっけんとどめ)」という業務日誌だったのです。この思いがけない展開に最初は驚いた餅田さんも、約160年前、宿泊と昼食に立ち寄った宿場がもれなく記載されたその道中記録を読み終わった時には、すっかりお伊勢参りが江戸参府へと変わっていたそうです。 長老・越中先生は、人と、ものごとの先を見抜く鋭い方。餅田さんなら可能であると見込んでのことだったのでしょう。餅田さんは一気に江戸行きの準備にかかり、そして出立の日を迎えました。平成16年2月27日、餅田さんの古稀の誕生日です。朝7時、出島が目と鼻の先にある長崎県庁前(長崎奉行所西役所跡)からスタートしました。早朝から見送りにきた人々の中には、愛犬を連れた越中先生の姿もありました。 この時、餅田さんは前年に亡くなった妹さんの卒塔婆を背に負い、2ヶ月前に亡くなった親友を心の同行者と決めていました。近しいふたりの死は、このチャレンジを大きく後押しするものだったのです。 さて、天保13年の役人は長崎~江戸を約40日かけて行きました。餅田さんの目的は、当時の川止めや各関所での事務手続きを考慮して、それよりも一週間ほど早く着くことです。長崎市街地を抜け、旧長崎街道へ入った餅田さん。道中のエピソードやチャレンジ後の感想などは次回、ご紹介します。どうぞ、お楽しみに。

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  • 第273号【長崎弁の魅力】

     帰省シーズンがはじまりました。長崎駅に行くと、故郷へのお土産をつめた大きな旅行鞄を下げた若者や家族連れの姿が目立ちます。長崎駅に降り立つと感じる、少しゆったりとした空気、そして聴こえてくる「長崎の言葉」、それが故郷に帰ってきたことを実感する瞬間だと、帰省した友人は言っていました。 「ああた」(あなた)、「おとろしか」(おそろしい)、「…、そいばってん…」(…それはそうだけど…)、「はらかくな」(腹を立てるな)など。また、50代以上の長崎人にしか使われなくなりましたが、赤ちゃんのかわいさを表現して、「ベンタロさんのごたっ」(ベンタロウさんみたい)という言葉があります。ベンタロウとは桃の節句に飾れる京都方面の人形のことで、明治以降、赤ちゃんのほめ言葉として使われるようになった長崎独特の言葉だそうです。こんなふうに、長崎弁はどこかやさしく、おかしみのある響きです。標準語の中で、ふいに耳にすると、心がほっこりとします。 「長崎弁を使うことで、にわかに心の隔たりがせばまり、打ち解けあえる。長崎に限らず各地の方言には、そうした大きな効果があると思います」と話すのは、「長崎弁研究塾」の塾長・田川文夫さんです。高校生から70代までの市民、約20名のメンバーがいるこの塾では、長崎弁をいろいろな視点から追求し、使われなくなりつつある言葉や地元の民話を掘り起したり、史実をもとに長崎弁を使った「長崎俄(にわか)」や創作劇を制作・発表するといった活動をしています。 長崎には、古くから親しまれている『彦山の山から出る月はよか こんげん月はえっとなかばい』(長崎の彦山から出る月は良い。こんな良い月はそうありはしない)という狂歌があります。江戸時代の有名な文芸家で、長崎奉行支配勘定役としてこの地で過ごしたこともある蜀山人(しょくさんじん:大田南畝)が詠んだものと伝えられています。「それにならって狂句や狂歌もつくるなど、幅広いジャンルから長崎弁を表現しているのです」。 長崎弁は、地域的には肥筑方言圏(筑前、筑後、肥後、肥前)に属し、長崎が開港した16世紀初めから、上方(大阪あたり)からの商人の出入りが多かったため、その地域の言葉の影響を受けながら、江戸時代中期頃にほぼ完成されたようだと言われています。そんな長崎弁が醸す独特の味わいは、一体どこからきているのでしょう。 「長崎の風土・気風は、外国人や他県からやってきた方をおおらかに受け入れる寛容さがあるといわれています。それは、唯一の海外貿易港として栄えていた時代、天領(幕府の直接の支配地)ということで、庶民は税金を取られませんでした。しかも、その上、箇所銀(かしょぎん)・かまど銀と呼ばれる分配金までもらっていたのです。その金額はけして大きくはありませんでしたが、他の地域にくらべれば生活する上で人々の心にゆとりがありました。そこから長崎独特の気風が生まれ、長崎の方言にもいろいろな形で表れているのではないでしょうか」。 長い間、教員として務め、退職後は、観光ボランティアガイドとしても活躍している田川さん。「教師時代は、悩みを持つ子どもに長崎弁で話しかけることで、心を開かせることができました。また、観光ボランティアガイドでは適宜、長崎弁を使ってお客さまに説明をすると、にわかに親しく接してくれます。お客さまにとっては、長崎の真髄に触れたような気持ちになるのだと思います」。 イントネーションや間合いなど、字面だけではわからない長崎弁の魅力。ぜひ、長崎の街へお出かけになって、味わってください。

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