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  • 第359号【「長崎の海と船展」(長崎市歴史民俗資料館)】

     暑中お見舞い申し上げます。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしですか。長崎ではいま、「海の日」にちなんだ催しとして知られる「海フェスタ」(8/1迄)を開催中で、船やマリンスポーツなど海と親しむ多彩な催しで賑わっています。 海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う「海フェスタ」。その関連イベントとして、長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町)では、「長崎の海と船展~海を渡った人・物・情報~」(8/31迄)という特別企画展が行われています。古くから海との関わりの深い長崎の歴史を、多様な視点でひもといているところが、この企画展の魅力です。 展示資料の中で、もっとも時代を遡るのが、深堀遺跡(長崎半島)の貝塚から出土した魚類などの骨です。縄文~弥生時代のものだそうで、サメ、ハモ、カツオ、マグロ、ヘダイ、イシダイ、フグ、ボラなどいろいろな魚を食べていたことがわかります。現代人が食べる種類とほとんど変わらず、縄文人がぐっと身近に感じられました。これらの魚は、別のコーナーで紹介している「グラバー図譜」(明治~昭和初期にグラバーの息子・富三郎が編纂した魚類図鑑。日本四大魚類図鑑のひとつ)でも見ることができます。 豊かな海が身近にあったとはいえ、長い間、寒村だった長崎。歴史の表舞台に登場するのは16世紀になってからで、ポルトガル船との貿易のために開港されたのがきっかけです。そして、間もなく日本で唯一の西洋の窓口となり、出島を中心に怒濤の近世~近代の歴史を刻んでいくことになります。 展示資料には、安土桃山時代の南蛮屏風(レプリカ)や江戸時代の「長崎港図」、「長崎図」など、往時の様子がうかがえる貴重な資料が多数展示されています。また、江戸時代初期の朱印船貿易も紹介されていて、長崎代官、末次平蔵の朱印船を描いた大きな絵馬が展示されていました。これは、当時、東南アジアから無事に帰航した船頭らが、長崎の清水寺に奉納したもの。その大きさや描かれた3本マストの和洋折衷の船の姿から、朱印船貿易の勢いが感じられました。 このほか、龍馬が長崎に来た頃の長崎の風景などが見られる「幕末明治日本写真コレクション」や同じく写真パネルで見る「三菱長崎造船所における主要艦船一覧」なども興味深いところです。また、江戸時代、長崎の町人で南蛮天文航法にも精通した小笠原の探検家、島谷市左衛門や、長崎港に沈んだオランダ船の引き上げに成功した村井喜右衛門も紹介されていて、海にまつわるエピソードの多彩さに、あらためて肥前・長崎が海の国であることを実感させられます。 実は、今回の展示資料の中でもっとも注目したいのが、日本初公開となる「文久遣欧使節団一行」の写真です。1862年8月、サンクト・ペテルブルグにある宮殿(現在のエルミタージュ美術館)の並びにある迎賓館で撮影されたもので、使節団全員(38人)が写ったものは、日本には存在しないそうです。福沢諭吉をはじめ福地源一郎、森山多吉郎など長崎ゆかりの人物も数名確認できました。 8月21日には、「子孫から見た咸臨丸の歴史」と題して、小杉雅之進の曾孫、小杉伸一氏による記念講演が予定されています。小杉雅之進は、長崎海軍伝習所の三期生で、咸臨丸での太平洋横断時には蒸気方見習いとして乗り込んだ人物です。こちらも、どうぞお見逃しなく。取材協力:長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町/長崎原爆資料館となり) TEL(095)847-9245◎記念講演「子孫から見た咸臨丸の歴史」は、平成22年8月21日(土)午後2時~4時(午後1時30分開場)、長崎原爆資料館ホールにて開催(入場無料)。

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  • 第358号【新スポット、長崎港松が枝国際ターミナルへ】

     長い坂段の途中や洋館の庭にさりげなく咲くアジサイ、しっとりと雨に濡れた石畳など、長崎らしい独特の風情をかもした雨の季節も、そろそろ終わりです。一年を通じて多くの国際クルーズ客船が入港する長崎の港では、梅雨の間も、「Seabourn Pride(シーボーン・プライド)」、「ふじ丸」、「Legend of the Seas(レジェンド・オブ・ザ・シーズ)」などが寄港。女神大橋をくぐり、港内に優雅に現われた大きな船体たちは、華のような存在感で、深い霧に包まれた港を明るくしてくれました。 長崎で国際クルーズ客船が着岸するのは、かつて外国人居留地だった南山手エリアの一角にある「松が枝埠頭(まつがえふとう)」と呼ばれるところです。実はこの埠頭に、今年3月「長崎港松が枝国際ターミナル」が完成し、すでに、海から訪れる多くの外国人観光客を快適に迎え入れています。 「長崎港松が枝国際ターミナル」は、モダンで個性的な建物です。海上から見ると、まるでUFOを思わせるユニークな形をしています。1階は、広々とした待ち合いホールで、海側は全面ガラス張り。対岸にそびえる稲佐山や麓の街並み、造船所の景色などを眺めることができます。もちろん、1歩外に出れば、心地よい潮風に吹かれながら、ぐるりと港内を見渡せます。かつて、ご主人が対岸の造船所に勤務していたという女性(60代)は、その景色を感慨深げに眺めていました。 ゆるやかな弧を描くようなデザインの屋上(2階部分)は、芝生に覆われたオープンスペースになっていて、国際クルーズ客船が着岸しているときは、その姿をほどよい高さと近さから、じっくり見ることができます。ときには、偶然目が合った客船側の人と手を振りあったりして、小さな国際交流も楽しめます。  「長崎港松が枝国際ターミナル」は、屋上の緑化だけでなく、太陽光発電の利用や自然光を室内にとりこむ構造など、環境にも考慮してつくられています。また、個性的な外観でありながら、周囲の風景に自然な感じで溶け込んでいるため、地元の人でも建物に気付かずに通り過ぎてしまうことが多いそうです。 このターミナルは、ふだんは午前9時から午後6時まで開館していて、どなたでも自由に出入りすることができます。国際クルーズ客船の寄港時以外は、待ち合いホールを展示会や講演会など各種イベントに利用できるほか、会議などに使える多目的ルームもあります。(※開館時間は、国際客船寄港時や催し等がある場合、変更することがあります)。ちなみに、ホールの利用料金や駐車場の料金は、他よりもちょっとお得なのが、見逃せないところ。今後、長崎らしさを満喫できるこの場所で、魅力的な催しがいろいろ行われていくことでしょう。 この夏、長崎港では美しい帆船が集う「帆船まつり」(7/22~26)、夜1,000発の花火があがる「ながさきみなとまつり」(7/31、8/1)そして、「全国ペーロン選手権大会」(7/31、8/1)などが行われます。「松が枝国際ターミナル」周辺は隣接する「長崎水辺の森公園」と一緒に、そうした催しの舞台となります。この機会に、ぜひ一度、お出かけください。◎取材協力:松が枝ターミナル管理事務所 TEL(095)895-9512●ホールなどの利用についての詳細は、「長崎港松が枝国際ターミナル」のホームページをご覧ください。 http://www.kouenryokuchi.or.jp/crane/matsugae/index.html●アクセス 路面電車:「大浦海岸通」または「大浦天主堂」電停下車、徒歩3分。 お車  :長崎駅から野母崎方面へ走り、「旧香港上海銀行長崎支店記念館」前から右前方に見える「大浦警察署」の方へ入り、道なりにぐるりと回って駐車場に入ってください。

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  • 第357号【江戸時代・時を告げる鐘】

     「今年も半分過ぎようとしているなあ…」そんなことを思いながら今月のカレンダーを眺めていると、「時の記念日」の文字に目が止まりました。時間を大切にし、生活の改善をはかりましょう、ということで1920年(大正9年)に制定されたこの記念日。日本で初めて時計が使われたという671年4月25日を、太陽暦に直すと6月10日だったことから、この日になったとか。当時の時計は、漏刻(ろうこく)と呼ばれる水時計だったそうです。 1日24時間。現代人は、時計やケータイに表示される時刻を目安に日々を過ごしています。では、一般の家庭に時計がなかった江戸時代の人々は、どうやって時間を知ったのでしょうか。日の出とともに起き、日没とともに寝るという自然のサイクルに合わせた暮らしをしていたという当時の人々。時間のとらえ方も、現代人のそれとは違うはずです。 江戸時代の一日は、十二刻に分けられていました。これは、日の出から日没までを「昼」、日没から日の出までを「夜」として、「昼」と「夜」をそれぞれ六等分したものです。一刻は2時間くらいのようですが、現在の時刻のように1分1秒と正確に刻まれたものではありません。太陽が出ている時間が長い夏と、短い冬では一刻の長さはかなり違っていたそうです。当時の人々は、季節に応じた変化をおおらかに受け止めていたのですね。 一方で、市中には「報時所」というものがありました。「報時所」は「時の鐘」、「時鐘(じしょう)」とも呼ばれ、決まった刻に鐘を撞いて人々に時刻を知らせます。現在の長崎市役所(桜町)のそばには、「報時所跡」があります。そこは江戸時代、町年寄などの屋敷があった長崎の中心部の一角。案内板に付いた写真から、「報時所」は高さのある細長い木造やぐらだったことがわかりました。その説明書きによると、「報時所」は長崎奉行所の管轄。はじめは、長崎開港のとき最初に建てられた6町のうちのひとつの島原町(現・万才町)に1665年に設けられ、のちに今籠町(現・鍛冶屋町)、さらには豊後町(長崎市役所そば)に移転したとあります。 朝と夕方、長崎の市中に鐘の音を響かせたのは、撞役(つきやく)と呼ばれるお役人でした。島原町に設けられた年に、松尾伊右衛門という人がその役を任じられて以来、代々同家がこの役を受け継いだそうです。ところで、「時の鐘」は当然ながら、長崎だけでなくその他の地域にもあった施設です。鐘を鳴らす時刻を計ったのは、「常香盤(じょうこうばん)」という線香の燃えるスピードで計る方法のほか、当時、すでに輸入されていた機械時計を使ったともいわれています。 江戸時代の長崎には、西洋の文物を受け入れた土地柄から、優れた時計職人がいたと伝えられています。当時の長崎土産を記した「長崎夜話草(第5巻)」には、眼鏡細工やビードロなどと並んで、「士圭細工(ごけいざいく)」と記されています。「士圭」とは「時計」のこと。こうした文献からも時計職人たちの活躍が垣間見えるようです。長崎の撞役が時刻を計った方法は定かではありませんが、きっと機械時計ではなかったかと想像も膨らみます。 江戸時代の時計に関してさらに知りたい方は、出島へお出かけください。当時つくられた和時計のレプリカなどが展示されています。出島内で時を知らせた「時鐘」も復元されています。また長崎市内には、明治36年から昭和16年まで、正午の合図として空砲を撃っていた午砲台が、長崎港を一望する東山手の高台に残されています。そこは、空砲の音から、いまも「ドンの山」と呼ばれています。 ◎参考にした本/日本大歳時記(講談社)、長崎叢書・上(長崎市役所編)、江戸の庶民の朝から晩まで(河出書房新社)

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  • 第356号【長崎の津々浦々~浦上川~】

     梅雨入り直前。晴天が続くいまのうちにと、衣更えやカーテン、じゅうたんなどの洗濯、押し入れの片付けなど、家中の整理整頓や掃除にいそしんでいる方も多いことでしょう。風薫るこの季節は、まち歩きにも最適なシーズンです。今回も外へ出て長崎市の浦上川沿いをのんびり歩いてきました。 長崎市の北東部の山を水源とする浦上川は、市街地の中を流れ、長崎港へ注ぐ川。眼鏡橋などの石橋群が架かる中島川とともに、長崎市を代表する河川です。散策のスタートは、浦上地区界隈にある「長崎県営野球場ビッグNスタジアム」前です。浦上川の下流に位置するここから、めざす河口の長崎港まで約3km。この間に架かっている橋は、上流から下大橋(しもおおはし)、簗橋(やなばし)、竹岩橋(たけいわばし)、梁川橋(やながわばし)、稲佐橋(いなさばし)、旭大橋(あさひおおはし)など。河口までは、川の両サイド、もしくは片側に歩道が整備されているので、車両の往来をあまり気にせずズンズン歩いていけます。 スタート地点の少し上流には「大橋(おおはし)」が架かっています。その辺りまではたくさんのコイが泳ぎ、サギ類やマガモなど野鳥の姿もいろいろ見られるのですが、その数十メートル下流で、かすかに潮の香りが漂いはじめる「下大橋」辺りになると、そうした生き物の姿がぐん減るようです。今回、アオサギを数羽確認しただけでした。 浦上地区界隈の流域は、野球場をはじめプール、陸上競技場、ラグビー・サッカー場などがあるスポーツエリアです。高総体を目前に控えた時期ということもあり、日焼けした高校生たちが行き交っていました。彼らのまぶしい姿を見て、あらためて思ったのは平和の尊さです。 65年前の8月9日。浦上地区に投下された原子爆弾で、この界隈は一瞬にして焼け野原と化し、浦上川では、水を求めて集まった大勢の被爆者が息絶えました。その悲惨な光景を目の当たりにした知人(70代)は、「この流域は、私にとって聖地なんです」といいます。それは、原子爆弾の悲惨さを知るみんなの思い。毎年8月9日の夜には、陸上競技場近くに架かる簗橋付近では、犠牲者の霊をなぐさめ、平和を祈る「万灯流し」が行われています。 川沿いを下っていくと、梁川橋のかかる茂里町あたりから浦上川沿いに、都市計画道路の「浦上川線」が建設中(今年度完成予定)でした。梁川橋から稲佐橋まで続く歩道には、関山桜、うこん桜、蘭々桜といったいろいろな種類の桜の木が植えられていました。満開の季節にもぜひ、訪れたいものです。 稲佐橋から河口にかかる旭大橋付近になると、川面はもうすっかり海の色。数羽のミサゴが飛び交い、小さな波がチャプチャプと音を立てていました。右手を見上げればロープウェイのある稲佐山、左手の向こう側には彦山が見えます。旭大橋の下をくぐると、近年の開発で大きく変化した長崎港の景色が広がりました。港では、ゆったりと流れる長崎の時間の中で、羽をのばす修学旅行生の姿がありました。

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  • 第355号【長崎の津々浦々~香焼町(こうやぎちょう)~】

     外洋から長崎港へ入るとき、長崎半島の緑の山並みを背景に、オレンジと白に塗られた巨大なドッグの一部が見えて来ます。これは三菱重工業(株)長崎造船所香焼工場が、世界最大級の規模を誇る通称「100万トンドッグ」(長さ990m、幅100m)。長崎市香焼町を代表する景観のひとつです。 造船のまちとして知られる香焼町は、長崎駅からバスで30分ほどのところにあります。このまちが、かつては島だったと聞いても、若い世代はなかなかピンときません。香焼町は、もともと長崎港の入口に浮かぶ小さな島で、香焼島と蔭ノ尾島(かげのおじま)の二つの島で構成されていました。昭和17年、海面を埋め立てて一つの島になり、昭和43年に東側対岸の長崎市深堀町との間が埋め立てられ陸続きになったのです。 そうした埋め立て地は、まちの北東部に位置し、主に造船関連の工業用地として利用されているようです。反対側の南西部は山の緑と青い海に囲まれたのどかな人々の暮らしがあり、香焼町独自の歴史が息づいていました。 小さな漁港に面したまちの中心部の高台に登ると「香焼山 円福寺(えんぷくじ)」があります。弘法大師の伝説が語り継がれているお寺です。1200年ほど前、弘法大師が乗っていた遣唐使船が暴風に遭い、香焼島に避難。島の岩窟で弘法大師が香を焚いて祈りを捧げたとき、あたりの岩にその香気が染み込んだそうです。この伝説に由来して、「香焼」という地名が生まれたと一説にはいわれています。それとは別に、遠い昔、この地の人々が焼畑農業をしていたことを物語るという「クワヤキ」という言葉が「コウヤギ」に転訛したという説もあるようです。 江戸時代の香焼島は、鰯漁がとても盛んだったようです。当時は、田畑の肥料として干鰯がよく用いられたとか。香焼島には、現在の佐賀県や山口県、瀬戸内海の各地からも鰯漁や干鰯の商いをする人々がやって来ていたそうです。町内には、そうした人々から寄進された石灯籠(円福寺)や鳥居などが点在。いまはひっそりと島の歴史を物語っていました。 円福寺から山あいの道路を20分ほど歩いたところに、「香焼総合公園」があります。公園内の展望台は、五島灘を見渡す絶景スポットです。北東に女神大橋の向こうに控える長崎市街地を望み、東に深堀町から長崎半島の稜線を眺め、南西沖には高島、西には伊王島がすぐそばに浮かび、建設中の「伊王島大橋」も見えました。香焼町と伊王島を結ぶこの橋は来年、春の完成をめざしているそうです。 まちの南側には、かつて炭坑で栄えたところ(安保地区)やペーロン船を浮かべた小さな入り江(尾上地区)がありました。そうそう、香焼町界隈は昔からペーロンの盛んな地域でもあります。「ペーロンの練習の音が聞こえると、もうワクワクしてね。家のことも手に付かなくなるとよ」と話すのは、漁港そばに住むおばあさん。ペーロンのシーズンがはじまって、とてもうれしそうでした。

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  • 第354号【長崎のまちの新モニュメント】

     先週のゴールデンウィークでは、高知や長崎などの龍馬ゆかりの施設が大盛況だったようです。期間中、長崎市亀山社中記念館(亀山社中跡/長崎市伊良林)に足を運んでみると、入場を待つ人々の長い行列がありました。風頭山の中腹にある同記念館。その界隈は民家の間を縫うように、せまい坂段がくねくねと通じています。龍馬の足跡をたどるたくさんの観光客の方々とすれ違いましたが、みなさん、「フウフウ」言いながら坂段を登っていました。ちょっと街はずれの、ちょっとしんどい場所にある亀山社中跡。時代を変えようと秘策を講じた龍馬たちにとっては、好都合の場所だったのかもしれません。 同館へは連休明けに出直すことにして、少し下ったところにある光源寺の墓地へ向かいました。ここには、幕末、洋式軍艦の買い付けのために長崎を訪れていたという二宮又兵衛(宇和島藩士)のお墓があります。真偽のほどは定かではありませんが、一説には亀山社中の運営に一時期関わった人物ともいわれています。中島川にかかる大井手橋あたりで襲撃にあい亡くなったという二宮又兵衛。小さなお墓のそばには、その死を悼んだ同郷の児島惟謙(こじまいけん/明治期の司法官。大津事件で司法権の独立を守った)が建立した碑がありました。 さて、龍馬ブームに沸く長崎。知人から、「最近、長崎の市街地に新しい観光のモニュメントが4カ所もできたらしいわよ」という話を聞きました。その内3カ所は龍馬にまつわるものだとか。さっそく行ってきました。 一つめは、日本初の営業写真館、「上野撮影局」で撮影された龍馬の写真と同じポーズで記念撮影ができるモニュメントです。同撮影局あった長崎市伊勢町の川筋の一角に、当時の写真機と肘置き台が再現されていました。中島川の上流の阿弥陀橋から徒歩2分の場所にあります。 二つめは、蒸気船「夕顔丸」のモニュメント。慶応3年(1967)に土佐藩がイギリス商人から購入した船です。龍馬は、瀬戸内海航行中、この船内で後藤象二郎に「船中八策」を提案したといわれています。モニュメントは、かつて土佐商会が置かれた、浜町アーケード入り口にあります。 三つ目は、「お龍さんと月琴」の像。龍馬との新婚旅行とあと、半年ほど長崎に滞在したお龍さんは、龍馬の同志、小曽根英四郎の家に身を寄せていました。小曽根家の当主、乾堂は長崎を代表する文人で、中国由来の楽器「月琴」を嗜んでいたとか。異国情緒あふれるその音色にひかれたのか、お龍さんも月琴の練習に励んだそうです。モニュメントは、小曽根邸跡の碑(長崎市興善町長崎地方法務局前)のそばにあります。 四つ目は、近代活版印刷の創始者、本木昌造にちなんだもので、当時の鉛製の活字を用いてデザインされたモダンなモニュメントです。「お龍さんと月琴」の像と同じ興善町(消防局裏)にあります。もともとオランダ通詞だった本木昌造は、幕末から明治にかけて製鉄所の主任も勤め、土佐商会があったすぐ近くに日本初の鉄橋をかけています。龍馬との接点は特にないようですが、長崎でのニアミスはあったかもしれません。

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  • 第353号【松島の桜坂(西海市)】

     桜前線はいま、本州の最北端あたりでしょうか。宮城、岩手、秋田、青森などの東北地方では、ゴールデンウィーク中に見頃を迎えるところも多いのでしょう。毎年全国ニュースで満開が伝えられる青森の弘前公園の桜や秋田の武家屋敷の枝垂れ桜。ぜひ、いつか訪れてみたいものです。 すでにツツジやサツキの季節に移った長崎。桜の満開は1カ月ほど前の3月末頃でした。今回は、ちょうどその時分に訪れた松島(長崎県西海市大瀬戸町)の桜の名所「桜坂」をご紹介します。 長崎駅から、路線バスや船を乗り継いで約2時間ちょっとで行ける松島は、瀬戸港(大瀬戸町)の沖合いに浮かぶ離れ島です。瀬戸港からの所要時間は、市営交通船でわずか10分。周囲16km、面積6.36㎡の小さな島で、約680人が暮らしています。松島を擁する西海市は、美しい海岸線と島々で知られる風光明媚な地域として知られ、西海国立公園、大村湾県立公園、西彼杵半島県立公園の3つの自然公園にも指定されています。そうした景観の一部を成す松島は、小さいながらもダイナミックで、気持ちのいい自然を楽しめる島なのです。 さて、「桜坂」ですが、とてもシンプルなこの名称で呼ばれる桜の名所は、全国各地にあると思われます。その中で、ここ松島の「桜坂」がほかと一線を画する理由は、現在、大河ドラマなどで活躍中の福山雅治さんゆかりの場所とされているところにあります。それは、20数年前、長崎市出身の福山さんが上京する前のこと。高校卒業後に勤務した電気会社関係の仕事で松島を訪れたとき、島の「桜坂」を見たかもしれないといわれ、のちのヒット曲「桜坂」のイメージにもつながっているのではないかと地元ではいわれているのです。 そうしたことから、ここ数年福山さんのファンを中心に注目を浴びて地元でも盛り上がり、今年は3月下旬に「第1回桜坂まつり」も開催されました。松島の「桜坂」は、島の基幹産業である「松島火力発電所」の社宅区域へ通じる坂道のことで、約600m続く道の両脇には、170本ほどのソメイヨシノが植えられています。島の方の話によると、ここは地元では30年くらい前から桜の名所として知られていたとか。「福山さんをきっかけに、多くの人に見てもらえるようになり、桜も喜んでいるはず」とおっしゃっていました。「桜坂」そばのバス停は、この3月から、「遠見寮下(とおみりょうした)」という名から「桜坂」に名称に変わりました。島の新名所になったことがうかがえます。 桜坂の満開の桜を見上げながらそぞろ歩けば、ウグイスの鳴き声が聞こえてきました。やさしい薄紅色の花びらと、向こう側に見渡す海の色のコントラスの美しいこと。街の喧噪をすっかり忘れてしまいます。「桜坂まつり」の出店では、島内産の小麦粉で作ったという「島うどん」をいただきました。コシのある太い麺と潮の香りのする出汁がおいしかったです。 松島は、古く港町として繁栄。幕末には長州藩士の木戸孝允(桂小五郎)が訪れ、船着き場近くにあった三国屋に宿泊し、地元・大村藩の重役らに密かに倒幕の話をしたというエピソードもあります。大正から昭和初期にかけては炭坑の島として栄え、全盛期の人口は1万人を越えたそうです。島の北側にはめずらしい「赤い砂浜」、西側には五島灘を見渡す「日本一小さい公園」など、まだまだ見どころ満載です。また、別の季節にご紹介します。

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  • 第352号【世界を巡ったかたち ケンディ】

     皆さんは、「ケンディ(KENDI)」をご存知ですか。外国の男性の名前のようでもありますが、実はマレーシア・インドネシア地方の言葉で、持ち手のない水差しのことをいいます。片手でひょいと持てるくらいの大きさで、水を注ぎ入れる口、注ぎ出す口の2つの口が付いているのが特徴です。インドネシアでは、いまでも水飲み容器として日常的に利用されているもので、その歴史は紀元前2世紀頃までさかのぼるとか。今回は、アジア各国のケンディを集めた企画展をご紹介します。 「世界を巡ったかたち ケンディ ~アジアから世界へ 異文化交流の器~」と題した企画展(長崎市主催/平成22年3月20日~6月27日まで)が行われているのは、長崎市の出島(旧出島神学校1階)です。展示されている全70数点のケンディは、すべて古陶磁器研究家のアリスティア・シートン氏(神戸市在住)が所蔵するコレクションです。このようにケンディをテーマにした展覧会は、日本で初めてのことらしく、開催初日に会場でご挨拶をされたシートン氏は、たいへんうれしそうでした。  ケニア生まれのスコットランド人であるシートン氏は、「物を集めるという行為が好きで、他人が見向きもしない物になぜか魅力を感じてしまう」という方。これまで海外協力隊や収集家として、世界55カ国を訪れたそうです。そんなシートン氏がケンディを集めはじめたのは、1980年のこと。「注ぎ口がおっぱいのような形をした風変わりな器」に出会ったのがきっかけでした。それは、中国の景徳鎮で17世紀につくられた青花のケンディだったそうです。 さて、紀元前までさかのぼるケンディのルーツは、インドで祝いの行事に用いられていた「クンデイ(KUNDI)」という、水を冷たく保つ容器だといわれています。神聖な容器だったクンディは、2~3世紀になると貿易でインドネシアなどへ運ばれていきました。そうしたなか、ケンディと呼ばれるようになり、神聖な器としてだけでなく、庶民の水飲み容器としても広く使用されるようになっていきました。また同時に、東南アジア(タイ、ベトナム)や西アジア(イラン)などにも伝わり、各地で製作されるようになっていきました。 17世紀頃になると、オランダ東インド会社の要望に応じて、中国(景徳鎮など)、日本(有田)で、磁器製のケンディが盛んにつくられ、遠くヨーロッパまで輸出されています。出島のオランダ商館の積荷目録には、有田製のケンディが輸出されていたことを示す記録が残されているそうです。 ひとつ不思議に思ったのが、中国や日本では、ケンディを使う習慣は根付かず、もっぱら輸出のための商品としてつくられていたということです。その理由について、企画展担当の出島復元整備室の方は、「熱帯の気候の地域で、水飲み容器として庶民に浸透したケンディは、通気性の良い土器製などが適していて、衛生的に回し飲みができる(人々は注ぎ口から口を付けずに飲んでいた)ことが利点でした。しかし、中国や日本では風土や習慣が異なるため、そうしたことが定着しなかったと考えられます」と教えてくれました。また、当時の日本には、提瓶(さげべ)や竹筒など水を携帯するための道具がすでにあったことも理由のひとつだったかもしれないそうです。 水を入れて、注ぐというシンプルな用途を形にしたケンディ。かつてアジア、ヨーロッパと世界を巡ったそのかたちは多様で、趣向を凝らした文様に彩られ見応えがありました。また、その素材も陶器、磁器、木材、金属などいろいろで、産地の個性が伺えます。ぜひケンディゆかりの地・出島で、その魅力を味わってください。取材協力・写真提供/長崎市文化観光部 出島復元整備室       https://nagasakidejima.jp/

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  • 第351号【見どころ盛りだくさんの長崎公園】

     大陸から飛来する黄砂は、九州の春の風物詩。長崎では先週、今年初めての黄砂が観測されました。2日後の3月18日には、平年より1週間も早くサクラが開花。いよいよ本格的に春めいてまいりました。 暖かくなると散歩に出かけたくなります。ということで、緑の多い諏訪神社界隈をぶらぶらと散策してきました。諏訪神社の長坂(ながさか)と呼ばれる参道の石段を登って振り返ると、黄砂の影響で少しかすんだ長崎の街が眼下に広がります。参道横では、約360年前の諏訪神社創建当時の絵図にも描かれているクスノキが、元気に若葉を茂らせていました。このクスノキは、薬の神さまである少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。「病魔退散大楠」として、昔から参拝する人が多いそうです。 参拝のため本殿へあがると、白い花がこぼれるように咲いた樹木が目を引きました。参拝客のひとりが、花の匂いをかぎながら「卯の花だわ」とうれしそう。初夏の花として知られる「卯の花」ですが、諏訪神社のそれは、ちょっと早めに咲く種類なのかもしれません。 諏訪神社から地続きの長崎公園へ移動。長崎公園は、明治6年に制定された長崎でもっとも古い公園です。大きなコイがたくさん泳ぐ池があり、その中央に日本で初めてという噴水(復元)が設けられています。すぐ目の前では、おいしいぼた餅で知られる「月見茶屋」が、いつものように営業していました。 長崎公園内の階段を上っていくと、木立の中にひっそりと佇むように、東照宮があります。徳川家康公をはじめ歴代の徳川の将軍を祀ったこのお宮は、正保2年(1645)に安禅寺として創建されました。江戸時代は、幕府の発展を繁栄するかのように周囲に次々と建物が造られたそうです。「当時は、たくさん人々が往来し、賑わったようですよ」と近所の方が教えてくれました。 安禅寺が東照宮と改められたのは、明治元年のこと。周囲には、古びた敷石や、いまでは立ち入ることもできない参道の石段がありました。当時の繁栄の面影はありませんが、参道の石段をまっすぐ下れば、長崎奉行所へ通じるのがわかり、幕府とのつながりがうかがえます。かつての参道途中には、葵の御紋を施した安禅寺の石門(1819建立)が残されていました。 公園内から長崎県立長崎図書館や長崎歴史文化博物館方面へ出る小道の途中には、「えっ!?」と驚くようなユニークな形をした木があります。太り気味の人の体型にも似た、トックリノキです。長崎市指定の天然記念物でもあるこの木は、オーストラリア原産の高木で、昭和初期、上海から長崎へ運ばれたもの。日本に持ち込まれたトックリノキの中で、もっとも古い樹木だそうです。 あらゆるジャンルの見どころが、まだまだたくさんある長崎公園。春の散策にもってこいのスポットです。

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  • 第350号【浦上の秘密教会堂跡をめぐる】

     季節柄、暖かくなったり、寒くなったりを繰り返していますが、例年より気温差が激しいようです。みなさん、体調管理には十分お気を付けください。  さて、先日、キリシタンゆかりの地を訪ねて、浦上天主堂のある長崎市浦上地区へ出かけました。浦上のキリシタンの歴史をひもとけば、織田信長、豊臣秀吉の時代にまでさかのぼります。当時、浦上の村人は、ほとんどがキリスト教の信徒であったと伝えられており、江戸から明治へと時代が移り変わるなかで、密かな信仰と同時に、激しい迫害の歴史をたどりました。今回は、特に幕末・明治にスポットをあててご紹介します。 江戸時代、表向きには寺の檀家となりながら、地下組織をつくってキリスト教の信仰を守り続けた浦上の信徒たち。幕末になると日本は、函館、横浜、長崎を開港。以来、居留地に暮らす外国人の宗教の自由は尊重されましたが、日本人のキリスト教の禁令は続きました。そうしたなか、1865年、居留地に大浦天主堂が完成。浦上の信徒は250年におよぶ沈黙をやぶり、大浦天主堂のプチジャン神父に自分たちが信徒であることを告げたのでした。これが、「信徒発見」といわれる出来事で、遠くヨーロッパへも驚きと感動をもって伝えられたそうです。 しかし、「信徒発見」後も禁令は続き、浦上の信徒たちは密かに4つの秘密教会を設け、大浦天主堂から神父を迎え、洗礼を受けるなどしていました。4つ教会というのは、「聖フランシスコ・ザベリオ堂」(橋口町)、「聖ヨゼフ堂」(辻町)、「聖マリア堂」(辻町)、「サンタ・クララ教会」(大橋町)。それぞれ、なだらかな起伏が続く浦上地区に点在しています。浦上地区は、現在は閑静な住宅街が広がっていますが、当時は農村地帯で田畑の景色が続いていたそうです。 秘密教会のひとつ「サンタ・クララ教会」(建立年不明)の記念碑があるのは、大橋電停そばの国道206号線沿い。ここは、江戸時代初めにポルトガル船の船員たちの寄附によって、大きな教会が建立されたところです。禁教令によって破壊された後も、信徒たちは夏になるとこの場所に集まり、盆踊りと称して祈りを唱えていたというエピソードが残されています。 こうした秘密教会が一斉に摘発されたのが1867年(慶応3)の3月のこと。のちに「4番崩れ」といわれる出来事です。「崩れ」とは、潜伏キリシタンの組織が見つかり、組織が崩れることをいいます。「4番崩れ」でとらえられた信徒たちは、翌年からスタートした明治政府によって、約3,400人もの人々が名古屋以西の22カ所に配流されました。この処分のことを、浦上の信徒たちは「旅」と称したそうです。 信徒たちは、「旅」先で、重労働や拷問を受け、命を落とした人も大勢いました。しかし、時代は大きな変化を迎えていました。近代化をはかろうとする明治政府は、アメリカ、そしてイギリスやベルギーからもこの信仰弾圧を批判されます。そうして1873年(明治6)、長きにわたった禁教が解かれ、「旅」へ出た人々は、ようやく浦上へもどってきました。  辻町の高台には、「十字架山」といわれる公式巡礼地(1950年ローマ教皇指定)があります。ここは、故郷へ帰った信徒たちによって築造された場所です。信仰を貫けたことへの感謝の気持ちと、心ならずも踏み絵を行ったことなどの贖罪をあらわす聖地として、いまも巡礼者が絶えません。

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  • 第349号【行事食~桃の節句~】

     いま、長崎の街はうれしい春の陽気に包まれて、ランタンフェスティバルを好評開催中です。中島川では新しくお目見えした川に浮かぶオブジェや龍馬とお龍さんのオブジェが注目の的。ぜひ、お出かけください(~2/28まで)。 うれしい春といえば、先日、おまんじゅう屋さんで、大きなザルに積み上げられた、よもぎの束を見かけました。春先、まっさきに萌え出すよもぎの若葉。それを摘んで作るよもぎ餅は、雛あられや菱餅など、桃の節句に出される雛菓子のひとつとして知られています。雛菓子は、材料や色合いなどに子供が健やかに育ってほしいという意味や願いが込められていますが、よもぎ餅も、エネルギーのつまった若葉を食すことで、元気を養い邪気を払うと考えられているそうです。 長崎では、よもぎ餅を「ふつ餅」と呼ぶ人が多いようです。というのも、九州・沖縄地方では、よもぎは「ふつ」とも呼ばれているからです。長崎歴史文化協会の古老はその言葉の由来について、「蓬(よもぎ)を中国語で発音したときの言葉が訛ったものでしょう」とおっしゃっていました。ちなみに「蓬」は中国語で「フーチン」と発音するらしいのです。 さて、江戸時代の長崎では、3月1日になると各家庭で「ふつ餅」をこしらえて親戚などに配っていたそうです。「おらが世やそこらの草も餅になる」。よく知られる一茶のよもぎ餅の句ですが、かつては、とても身近に生えていたよもぎも、街の中ではなかなか見かけなくなりました。今回、よもぎの写真を撮るために、足を棒にして探し回りました。 桃の節句の食卓について、周囲の主婦の方々にリサーチしてみると、ちらし寿司、貝類でつくる潮汁(うしおじる/吸い物)、そして白和えというメニューが多く聞かれました。では、江戸時代の長崎では、桃の節句に何を食していたのでしょう。「長崎事典~風俗文化編~」によると、「小豆飯、なます、鯨の炒殻の味噌あえ、たにしの醤油煮、菱形のよもぎ餅を食べた」とありました。 前述の古老は、大正生まれ。長崎で生まれ育った方ですが、若い頃、たにしの醤油煮を食べていた記憶があるそうです。また、「桃の節句のとき、よそではハマグリの潮汁を出すようだが、食べたことがなかった。長崎は、ハマグリは手に入りにくかったんじゃないかな」ともおっしゃっていました。この話は、興味深いものがあります。全国的には、桃の節句の料理としては、ハマグリの潮汁がよく知られているのですが、長崎では、主婦の方々の声からも、ハマグリより、アサリの潮汁の方が多く作られていたような感じを受けました。 ハマグリのような二枚貝は、互いの貝殻以外とはぴったりと合わないことから、古来、貞節や夫婦和合のシンボルとして用いられてきました。ハマグリは、栄養的にも、貧血によいビタミン12や鉄、銅などが含まれ、骨を丈夫にするカルシウムや亜鉛、マグネシウムなどもバランスよく含まれた女性の体にうれしい食材です。アサリも貧血やむくみ、動脈硬化の予防に役立つ薬効成分がたっぷり含まれています。桃の節句の料理もまた、遠い昔から受け継いできた、理にかなった「食」でありました。これからも大切にしていきたいものです。◎取材協力/長崎歴史文化協会◎参考にした本など/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、食材図典Ⅲ(小学館)、からだに効く食材調理図典(小学館)

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  • 第348号【龍馬ファンも必見、2010長崎ランタンフェスティバル】

     冬のお祭りといえば、「さっぽろ雪まつり」が有名ですが、「長崎ランタンフェスティバル」もすっかり全国的に知られるようになりました。旧暦のお正月(春節)を祝う「長崎ランタンフェスティバル」は、今年は2月14日(日)から2月28日(日)までの15日間行われます。真っ白な雪に包まれた「さっぽろ雪まつり」、朱色を中心とした幻想的な中国色に埋め尽くされる「長崎ランタンフェスティバル」。その対照的な表情は、日本の風土の豊かさを表わすかのようです。  1万5千個にも及ぶランタン(中国提灯)が灯される「長崎ランタンフェスティバル」 は、長崎新地中華街、浜市・観光通りアーケードなど、長崎市中心部を舞台に繰り広げられます。湊公園(メイン会場)、中央公園、唐人屋敷、興福寺、鍛冶市、浜んまちの6つの会場があり、龍踊り、中国獅子舞、中国雑技、二胡演奏などが連日催されます。新年を寿ぐ本場の演技は、迫力満点。今年も会場はどよめきと拍手、歓声に包まれることでしょ う。週末の皇帝パレード(2/20,2/27)媽祖行列(2/21,2/28)も見逃せません。  今年は虎(寅)年。中国では古来、虎は風を操り、従えているという言い伝えがあるとか。湊公園に設けられる恒例の干支の巨大オブジェは、「虎嘯生風(フーシャオ シェンフォン)」というタイトル。その意味は「虎が空に向かって吼えれば、激しい風が起こる」というもので、才能や技能のある人がチャンスを得て奮起、活躍するといったことを表わすそうです。 ここ数年、ほかの会場とはひと味違った黄色いランタンの装飾で注目されている中島川の眼鏡橋周辺。今年は水際の生きものたちをかたどった川に浮かべるタイプの新しいオブジェが登場。子供たちが喜びそうです。また、この界隈には「龍馬とお龍さん」のオブジェもお目見え。龍馬ファンは必見です。  実は、龍馬ファンにとって、今年の「長崎ランタンフェスティバル」は一段と楽しみの多いものになるはずです。というのも、大河ドラマ「龍馬伝」にちなんで、「長崎ランタンフェスティバル」の舞台とも重なる市中心部に、龍馬関連の新しいスポットや催しがいろいろあるからです。 ひとつは、この冬誕生した「長崎龍馬の道」。諏訪神社近くからグラバー園付近まで、街の中心部をつらぬく約3kmの1本道で、沿道は龍馬ゆかりのスポットや観光名所など見所がいっぱいです。道筋には番号を記した案内プレートが辻々に設けられているので、観光の際の道標にも利用できます。また、街歩きの際に携帯するなら、長崎市公式ガイドマップの「長崎龍馬の道」(600円/一部の観光施設で販売)がおすすめです。  さて、「長崎龍馬の道」の道筋には今年初め、観光通りアーケードの一角にオープンした〈長崎まちなか龍馬館〉があります。幕末の歴史や人物を紹介するほか、清風亭(龍馬と後藤象二郎が大政奉還へのきっかけとなった会談を行った料亭)の調度品も展示されるなど、たいへん見応えがあります。龍馬をモチーフにしたグッズやお土産品を集めたショップも好評です。また、亀山社中を復元した〈長崎市亀山社中記念館〉(長崎市伊良林)、大河ドラマ関連の展示物を楽しめる〈長崎奉行所・龍馬伝館〉(長崎歴史文化博物館内/長崎市立山)、亀山社中と交流のあったグラバーゆかりの〈グラバー園〉(長崎市南山手)も、はずせない龍馬スポットです。これら〈4つの施設〉へは、「長崎龍馬パスポート」を利用するとたいへんお得です。今年の「長崎ランタンフェステバル」は「龍馬」もいっしょに、存分にお楽しみください。 ◎取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会(長崎市さるく観光課内)  長崎ランタンフェスティバルの情報はこちらでチェック! ●ホームページアドレス https://www.at-nagasaki.jp/

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  • 第347号【地名、町名に秘められた歴史(外町ほか編)】

     前回に引き続き、長崎の地名、町名にまつわるお話です。江戸時代、人口の増加にともなってどんどん拡大していった長崎の町。今回は、全部で54カ町あったという外町から、いくつかの町名の由来をご紹介します。 内町を囲むように外町がつくりはじめられたのは、慶長2年(1597)の頃。最初は、中島川に架かる賑橋から上流の眼鏡橋あたりまでの川沿い(西側)に、材木町、本紺屋(もとこうや)町、袋町、酒屋町といった町が並ぶようにできたそうです。これらの町名は、現在は残っていませんが、材木町は町建てに欠かせない材木が集められた場所といわれ、本紺屋町は、紺屋(染物屋のこと)が集まった町、袋町は足袋屋など小間物類(袋物)商があった町、酒屋町も酒屋があったことに由来するといわれています。いずれも商売に関連する町名だというのが注目すべきところ。当時の長崎には、町の発展を見込んで全国から商人たちが集まって来たいたのです。  外町には、職人名にちなんだ町名も多くみられます。現在も残る町名でいうと、桶職人が住んでいたことに由来するという桶屋町、銀細工職人が住んだという銀屋町、鍛冶屋さんが集まった鍛冶屋町、大工さんが多く住んだという新大工町など。また、昭和41年までは、鏡や刀などを磨く職人がいたという磨屋(とぎや)町、紙すきが行われていたという本紙屋町などの町名も残っていました。こうした職人名にちなんだ町名からも、江戸時代の長崎の賑わいがうかがえます。  ところで、坂本龍馬が長崎で設立した貿易商社「亀山社中」の「亀山」の由来をご存知ですか?「亀山社中」は、長崎の市中にほど近い、長崎村伊良林の亀山(現在の長崎市伊良林2丁目)と呼ばれた小高い丘にありました。その家屋は、江戸期の長崎の名窯のひとつ「亀山焼」の作業場だったところです。それで、その組織は「亀山社中」とか「亀山隊」などと呼ばれたといわれています。  では、そもそも「亀山」の由来とは?三重県の亀山市の場合は諸説あり、ひとつは地形が亀の甲羅に似ていたからというものだそうです。長崎の「亀山」も周囲の山の形がそう見えなくはないのですが、実際はどうだったのでしょう。 この地で、亀山焼がはじまったのは文化4年(1807)のこと。窯の歴史は約60年と短いのですが、名陶として知られ、安政年間には御用陶器所にもなるほどでした。ちなみに龍馬が愛用したという白磁に龍の染付の飯碗も亀山焼です。また、亀山社中が設立されたのは、亀山焼が廃窯となった翌年の1866年のことでした。 実は窯が設けられる前、この地は垣根山(かきねやま)と呼ばれていました。開窯当初は、白磁の器などではなく、オランダ船に輸出するための水瓶を製作していたそうです。そこから「水瓶」の「かめ」が、「亀」に転じ「亀山」と呼ばれるようになったともいわれています。長崎歴史文化協会の越中哲也氏は、「当時、この地を亀山と呼びはじめたのは、木下逸雲ではないかと思っています」とおっしゃっていました。木下逸雲は、石崎融思らと並ぶ長崎三筆のひとりで、一時衰退した亀山焼の復興に尽力した人物です。逸雲が絵付けを施した亀山焼の茶碗も残されています。  「亀山」という地名の由来をたずねただけで、いろいろなエピソードがとめどもなく出てくる長崎。本当にユニークで奥の深い町です。 ◎参考にした本/越中哲也の長崎ひとりあるき~長崎おもしろ草5~(長崎文献社)

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  • 第346号【長崎の町名をひもとけば…(内町編)】

     「長崎」という地名は、その地形に由来して「長い岬のあるところ」から「ながさき」となったという説や、戦国時代にすでにこの地に居住していた長崎氏の名前に由来するという説があります。こんなふうに、地名や町名の由来を調べると、その土地の地形や成り立ちなどがわかって面白いものです。 長崎が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570)の開港からです。それに応じた町づくりは、翌年からはじまっています。まず、最初にキリシタン大名の大村純忠によって、その長い岬の先あたり(現在の長崎県庁周辺)に大村町、島原町、平戸町、横瀬浦町、外浦町、分知町の6町がつくられました。外浦町、分知町以外は、いずれもポルトガル船との貿易港が長崎に至るまでに、キリスト教の布教が行われた地域の名がそのまま町名になっています。つまり、その地域から長崎へ移った人々が住んだ町ということです。外浦町、分知町もキリスト教に関連した人々が居住したといわれ、最初の6町はキリシタンのために拓かれたともいえます。現在、これらの町名は、万才町などに編入され、残念ながら残っていません。  ポルトガルとの貿易を行う中核として誕生した最初の6町。ときは江戸時代へと移り変わる中、6町に隣接してのちに26の町がつくられました。これらの町は、内町(うちまち)と呼ばれ公領として地租を免じられています。現在もこのとき生まれた町が残っていて、興善町(当時は本興善町、後興善町、新興善町)、江戸町、桜町、樺島町、五島町(当時は浦五島町、本五島町)、金屋町、築町などがそうです。内町が整う中、周囲には 外町(そとまち)と呼ばれる地租免除外の町も54カ町つくられていきました(内町・外町の区分は1699年廃止)。内町だけの頃は1万人に満たなかったという長崎の人口は、外町が拡大していった1614年頃には、2万5千人以上になっていたそうです。  内町にあった、本博多町、本興善町、後興善町などは博多商人ゆかりの町です。その位置は現在でいうと、長崎市立図書館(興善町)周辺になるでしょうか。長崎の町の歴史を詳しく且つわかりやすく著した「越中哲也の長崎ひとりあるき」によると、「長崎が貿易港として定期的にポルトガル船が入港するようになったとき、当時の九州の商都として栄えていた博多から商人団の大きい移住があったと考えられる」とあります。興善町は、商いのために博多から進出してきた興善家の人が建てた町だと伝えられています。  内町のひとつで、出島と川をひとつ隔てた位置につくられた江戸町は、名前から想像できるように江戸幕府が生まれてから整備された町です。お江戸の繁栄にあやかって名付けたのでしょうか。町は、現在も当時と変わらぬ位置にあります。江戸時代、その近さから出島のオランダ人とは何かと関わりがあったようで、今も使用される江戸町の町章は出島のオランダ人がデザインして贈ったものと伝えられています。それは「J・D・M」の文字を配したもので、オランダ人が江戸町を「JEDOMATSI」と綴ったことに由来するとか。長崎県庁の裏手にある江戸町公園には、そのカタチから「タコノマクラ」とも称される町章が大きく記されています。  今回は、内町からいくつかの町名の由来をご紹介しました(次回は外町です)。いたってシンプルに付けられた町名ですが、いずれもいろいろなエピソードが秘められていて、「町名=町のプロフィールを凝縮したもの」といった印象でした。あなたがお住まいの町も、由来を調べたら意外なエピソードが出てくるかも。ちょっと調べてみませんか。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 ◎参考にした本/越中哲也の長崎ひとりあるき~長崎おもしろ草5~(長崎文献社)、長崎県の歴史(外山幹夫 編/河出書房新社)

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  • 第345号【龍馬が夢を描いたまち、長崎】

     年賀状はもう書き終えられましたか。大晦日まであと1週間あまり。振り返ると、今年の長崎は来年の大河ドラマ「龍馬伝」の話題で持ちきりでした。オンエアされる2010年は、ますます「龍馬」で明け暮れそうです。そこで、当コラムも来年に希望を託して「龍馬」をテーマに、長崎での足跡をご紹介します。 実は、龍馬の足跡については5年前にも取り上げています(※190号)。今回、同じ場所をいくつか訪れたところ、状況が変わって、以前より、龍馬と長崎のつながりが強く感じられました。たとえば、龍馬ファンが必ず訪れる「亀山社中跡」(長崎市伊良林)。この夏、往時に近い形で復元整備され、「長崎市亀山社中記念館」としてオープンしています。  亀山社中(のちの海援隊)が本拠地としたこの建物は、小さな切妻屋根の平屋で、江戸時代、この辺りで焼かれた亀山焼きにゆかりのある建物と推測されています。畳の部屋は10畳、8畳、3畳の3つ。柱や天井など簡素な木の造りに昔の風情が感じられます。海援隊士らが長崎の港や街を眺めたに違いない縁側や、隠し部屋などもありました。けして広いとは言えない部屋に立つと、龍馬たちがここで夢を語り合ったことがリアルに想像できます。龍馬の人柄がにじみ出た手紙をはじめ紋服、ブーツなどの複製品など、展示物も充実。たいへん見応えがありました。 「亀山社中跡」界隈は、龍馬関連の史跡や見所が集中しています。龍馬をはじめ海援隊士らも参拝したと思われる「若宮稲荷神社」、龍馬が盟友・佐々木三四郎と度々訪れたという西洋料理屋の「藤屋」跡。龍馬の片腕と呼ばれた近藤長次郎のお墓(晧台寺)、そして、地元の龍馬ファンや有志の方々によって設けられた龍馬のぶーつ像、坂本龍馬之像(風頭山)…。いずれの場所へ行くにも坂道、坂段は避けられないところが、また長崎らしいのでありました。 龍馬が長崎の地を初めて訪れたのは、土佐藩脱藩から2年後の元治元年(1864)のこと。このときは勝海舟とともに訪れ、1カ月以上滞在しました。そして、再び長崎を訪れ、慶応元年(1865)、亀山社中を結成。海外への志を胸に、貿易と海運業で実績を築く中、慶応3年(1867)1月、土佐藩参政の後藤象二郎と意気投合し、同年4月、社中は海援隊としてあらたなスタートをきりました。  まもなく、「いろは丸事件」が起きます。海援隊の持ち船「いろは丸」(160t)と御三家のひとつ、紀州徳川の「明光丸」(880t)という蒸気船どうしが起こした瀬戸内海上での衝突事故です。龍馬は、格が違い過ぎる相手に対し、驚くような行動に出ました。当時、長崎を訪れた諸藩の人々の情報交換の場でもあった、花街・丸山で「♪船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という歌を流行らせ、紀州藩のイメージダウンをねらったのです。 緊迫した交渉の舞台は聖福寺(長崎市玉園町)でした。最終的に龍馬たちは、8万3千両(のち7万両に減額)の賠償金を得たといいます。そんな史実を知って、あらためて聖福寺の参道を歩くと、龍馬の計り知れない度量を感じて、思わず立ち止まってしまいました。 龍馬が長崎を初めて訪れてから、京都で亡くなるまでの期間は4年弱。長崎でのさまざまな出会いは、龍馬を大きく成長させ、その想いは新時代の礎となりました。長崎は、短くも濃密に生きた龍馬の熱い想いに触れることができる街。時代が大きく変わろうとしている今、龍馬は再び長崎に大切なメッセージをよこしているのかもしれません。

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