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  • 第374号【変わる長崎港、浦上川河口の景色】

     まちで卒業生らしき姿を目にすると、自分にもそんな時代があったなあと当時の思い出にひたりつつ、あの頃と比べると、まちの風景も、世の中も(もちろん自分自身も)ずいぶん変わったものだ、なんて思ったりすることはありませんか? 長崎港の一角にある「長崎水辺の森公園」を楽しそうに歩いている学生たちや犬を連れて散歩する人の姿を見ていると、つくづくそんなことを思います。20年前までこの辺りは、港湾沿いに地味な倉庫が建ち並び、公園はおろか、市民が憩う姿などほとんど見られなかったからです。 大型商業施設や道路など、年々、何かが新しく生まれ着実に変化を遂げている長崎港周辺。2月には長崎港にかかる女神大橋と、高速道路網とを結ぶ「長崎南環状線(長崎市大浜町~田上)」が全線開通し、快適な交通の流れが生まれました。この「長崎南環状線」は、「長崎水辺の森公園」そばに出るオランダ坂トンネル(ながさき出島道路)とも結ばれていて、新たな物流の効率化はもちろん、市民の利便性向上にも貢献しています。また、昨年秋には長崎港へそそぐ浦上川沿いを走る「都市計画道路・浦上川線」が開通し、市街地にスムーズな流れが生まれています。 まちの中の新しい流れを歩行者の立場から眺めてみようと、「長崎水辺の森公園」からスタートし、浦上川沿いを少し上流の稲佐橋までほど歩いてきました。大波止あたりから、浦上川線へつながる新しい道路の横には港の埋め立て地が広がっています。新聞報道によると、ここに、長崎県庁舎の移転が決まったとのこと。さえぎるものが何もない、今のうちだけの風景をしっかり眺めながら、旭大橋をくぐり、浦上川沿いを上流へ向かいました。 河口付近ということもあり、ほぼ平坦な道が続きます。右手には、長崎駅をはさんだ向こうに立山、そして、左手には稲佐山。そうしてぐるりと周りを見渡せば、鍋冠山、英彦山、豊前坊など、長崎港を囲むほとんどの山々が確認できます。 小型船舶が停泊する河口付近ののどかな風景やそこから望む港の様子は、観光客の方々にもぜひ見てほしいと思うほど、のびやかで気持ちのいい風景です。実は、この辺りは江戸時代の頃はほとんどが海でした。当時はどんな風景だったろうかと想像しながら歩いていると、川沿いの一角の手すりに「馬込橋」と記されたプレートが付いていました。その辺りは確か、江戸時代には浦上村馬込郷と呼ばれたところ。昔の地名を橋の名前として残していることに、ちょっと感動しました。 そこから稲佐橋まで、ほんの数分で到着。帰りは路面電車でもどろうと、宝町の電停に向かうと、幸運なことにこの2月から走り出したばかりの新車両「5000形」に乗ることができました。この車両の愛称は、「ガンダム」。その名の通りのイケメン車両で乗り心地はグッドでした。 この3月27日には、長崎港沖合に浮かぶ伊王島と長崎市香焼町を結ぶ伊王島大橋が開通。長崎市中心部から車で約30分で、伊王島へアクセス可能になります。この春も未来へ向かって、ドラマチックな変化が止まらない長崎です。

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  • 第373号【長崎の揚げ物、ゴウレンとヒロウズ】

     「ナシゴレン」というインドネシア料理があります。日本の魚醤に似た調味料やニンニク、唐辛子、香菜などを使った、いかにも東南アジアらしい香り漂うチャーハンです。「ナシ」は、ごはんのことで、「ゴレン」は油で「炒める」とか、「揚げる」という意味があるとか。インドネシアには「ミーゴレン」という焼きそばもあって、「ミー」は、中華めんのことをいうそうです。 ところで、長崎には「ゴウレン」と呼ばれる郷土料理があります。『長崎事典~風俗文化編~』(長崎文献社刊)によると、それは天ぷらに似たもので、ハモを骨切りにしたものを、酒、醤油、砂糖を合わせた調味料(ネギと生姜のみじん切りも少々加える)の中にしばらく漬け込んで味をつけ、小麦粉をまぶして油で揚げたものをいうそうです。長崎の郷土料理を紹介したほかの本を見ると、揚げる具材は、白身魚のほか、鶏肉を使っていたりします。長崎でいう「ゴウレン」とは、どうやら「揚げ物」のことをさすようなのです。 意味だけでなく、音も、ナシゴレンの「ゴレン」に通じる長崎の「ゴウレン」。その昔、オランダ東インド会社が、拠点のひとつであったインドネシアを経由して日本へ来ていたこと、また家康の時代に東南アジアと盛んに貿易していたいわゆる朱印船貿易などが、長崎へ「ゴウレン」が伝わるきっかけになったのではと想像したりします。 前述のとおり、「ゴウレン」とは揚げ物を意味し、その実態は、「魚の天ぷら」や「鶏肉の唐揚げ」と、ほとんど変わらないものです。60~70代の長崎の主婦の方々に「ゴウレン」について尋ねると、耳にしたことはあるが、どんな料理かを知らないという方がほとんどでした。地元で意外にも知名度が低いのは、「魚の天ぷら」、「鶏肉の唐揚げ」という言い方に馴染んでしまっているからかもしれません。長崎の料理屋さんなどで出している「ゴウレン」も、「鶏肉の唐揚げ」と言っても全く違和感はありません。 揚げ物の原型ともいわれる「ゴウレン」。長崎の揚げ物では、これまた変わった呼び名の「ヒロウス」というものがあります。これは、「飛龍頭(ひりゅうず)」とも呼ばれ、「がんもどき」と同じものです。「ヒロウス」の語源は、一説にはポルトガルの「filhos(フィリョース)」というお菓子(小麦粉と卵を混ぜてつくった生地を、油で揚げたもの)に由来するといわれています。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川如見)にも「ヒリュウス」で登場しています。  「ヒロウス」は、水気をしぼった豆腐に、ニンジン、ゴボウ、キヌサヤ、キクラゲなどのみじん切り、すった山イモなど混ぜて生地をつくり、丸い形に整えて揚げたものです。以前、中国伝来の普茶料理(肉類を使わない精進料理のこと)のメニューのひとつとして、長崎の唐寺でいただいたことがあります。ということは、ヒロウスのルーツは中国なのでしょうか? 長崎の郷土料理の語源をたどっていくと、途中で東西が入り交じり、真相がわからなくなってしまいます。それもまた、長崎らしさなのかもしれません。

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  • 第372号【2011長崎ランタンフェスティバル】

     見渡せば、どこもかしこも極彩色。1万5千個ものランタンが春の訪れを喜ぶかのように、優しくやわらかな明かりを揺らしています。 いま、長崎市中心部では、旧正月(春節)を祝う「2011長崎ランタンフェスティバル」(2月3日~2月17日開催)を開催中です。この冬は全国的に記録的な寒さが続きましたが、長崎ではこのフェスティバルがはじまる頃からじわじわと温かくなり、3月のような陽気に包まれた日もあるほどでした。行き交う人々の表情も、かなりほころんでいます。 ランタンフェスティバルは2週間という長丁場のイベントで、大勢の人々で賑わう(過去最高92万人集客)長崎の冬の風物詩です。長崎新地中華街に隣接する湊公園を主会場に、市中心部に全7カ所の会場が設けられ、中国獅子舞や龍踊り、中国雑技など中国色豊かなさまざまな催しが行われています。年々、規模や内容が充実しているなか、今年は「孔子廟(こうしびょう)」(長崎市大浦町)が新しい会場として加わりました。 黄色い屋根瓦が目を引く「孔子廟」は、歴史的に中国の影響を強く受けて来た長崎の中でも、特に中国色の強さを感じる建物です。さっそく足を運んでみると(イベント期間中、夕方5時から入場無料、夜9時まで)、孔子と孟子の大きなオブジェが入り口の庭園で出迎えてくれました。悠久の歴史をかもす中国独自の建築様式は、暗闇のなかでライトアップされることで、その魅力がぐっと引き立ち、幻想的な世界に変わります。「孔子廟」は、湊公園の会場から徒歩で10数分。大浦海岸通りを走る路面電車(「大浦天主堂下」または終点の「石橋」電停下車)を利用してもいいかもしれません。 主会場の湊公園では、干支にちなんだ巨大オブジェ(約8m)、「玉兔(ぎょくと)」が注目を浴びていました。月の女神になったといわれる伝説の女性と、玉(月)の上で不老不死の薬をキネでつくウサギの姿がかたどられています。毎年、この会場で今年の干支をあらためて確認しながら、良い年になるようにと心の中で手を合わせる人もいるかもしれません。 10分ほどの徒歩圏内で結ばれる各会場。その道すがら目を楽しませてくれるのは、中国の歴史に登場する有名人や伝説の生きもののオブジェです。それぞれには、物事がうまく運ぶようにとか、富や財を得られますようになど、さまざまな願いが込められていて、いわれを綴った説明板を読み歩くのも面白いです。 眼鏡橋がかかる中島川では、水面に映る黄色いランタンの美しい光景を楽しむことができます。そこから寺町通りへ向かい、唐寺・興福寺へ。連日催しで賑わう他の会場とは違い、ここはしっとり静かな佇まいです。おおらかな風情を漂わせる大雄宝殿で手を合わせ、北国でまだ続いている積雪の被害や宮崎県新燃岳の噴火災害の一日も早い終息を祈願したのでした。

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  • 第371号【長崎県亜熱帯植物園~グラバーゆかりのランほか~】

     大寒が過ぎて、見上げる空に何となく早春の光が感じられるようになりました。長崎のまちは「旧正月(春節)」を祝う「ランタンフェスティバル」(平成23年2月3日~2月17日開催)の準備がはじまっています。季節も人も、着々と春に向かって動いているのですね。  今回は、一足早く春めいた気分を味わいたくて、「長崎県亜熱帯植物園」に行ってきました。この植物園は、長崎駅から車で45分ほどの長崎半島の最西南端に位置する野母崎(のもざき)と呼ばれるエリアにあります。野母崎は、半島周辺を流れる対馬暖流の影響で、長崎市内でもとくに温暖な気候で知られるところです。たとえば冬場、長崎の市街地やその近郊に交通機関がマヒするほどの積雪があったとしても、野母崎の平地で雪が積もることはないといいます。また、霜も降りず、熱帯や亜熱帯の植物が育ちやすい環境なのだそうです。 さて、「長崎県亜熱帯植物園」は、日差しがたっぷり降りそそぐ丘の上にあり、美しい橘湾を隔てて天草や雲仙岳を見渡せます。斜面を利用した広い敷地には、地中海風の庭園やサボテン園をはじめ各種温室などが設けられ、全部で約1200種、4500本もの亜熱帯や熱帯の植物を楽しむことができます。どの季節に出かけても、折々に見頃の植物が出迎えてくれ、植物好きにはたまらないところです。この時期、屋外ではパンジーや椿、大温室ではカリアンドラ(中南米原産)やブラジルデイゴ(ブラジル原産)、ナンヨウザクラ(キューバ原産)などが個性的な花を咲かせていました。 さて、今回いちばんのお目当ては、日本最古の洋ランといわれる、「シンビジウム・トラキアナム」を見ることでした。1859年(安政6)、グラバーが上海から長崎に持ち込んだもので、のちにグラバーの庭師をしていた加藤百太郎氏が譲り受け、以来、その子孫によって大切に育てられたたいへん貴重な原種ランです。開花時期に合わせて、毎年この時期に特別展示をしています。 通称「グラバーさん」とも呼ばれるこのランは、ベージュと茶色のシックな色合いの花を咲かせます。今年は寒さが厳しかったこともあり、このときはまだ固いつぼみの状態。開花は2月中旬頃になるそうで、あらためて出直すことにしました。同じ温室では、「長崎朧」、「長崎娘」など長崎で交配されたランをはじめ、カトレアなどさまざまな種類の洋ランが美しい花を咲かせていました。いずれも美と個性にあふれ、時間を忘れて見入ってしまうほど。多くの人々をとりこにするランの魅力を垣間みることができました。 「ハイビスカス温室」へ足を運ぶと、ここでも満開の花々に出迎えられました。大きさ、形、色合いなど変化に富むハイビスカスの花。南国ムードあふれるその姿は心までパッと明るくしてくれます。 海側に近い歩道で耳を澄ますと聞こえてくる、潮騒の音。いろいろな野鳥とも出合えた長崎県亜熱帯植物園。子供たちのための広場もあり、家族でのびのびと自然を楽しめます。ぜひ、お出かけください。◎取材協力/長崎県亜熱帯植物園(長崎市脇岬町833)※長崎県亜熱帯植物園は2017年3月31日閉園いたしました

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  • 第370号【長崎風肉団子、フルカデン】

     寒いですね。先日、炬燵でのんびりテレビを見ていたら、スウェーデンの家庭料理「ミートボール」が紹介されていました。コケモモのジャムを使ったソースでいただくのがミソなのだそうです。海外通の友人によると、ヨーロッパ各国には、そうした肉団子系の家庭料理がいろいろあり、たとえばデンマークには、卵などのつなぎを入れて練った牛や豚のひき肉を、スプーンなどですくってフライパンに落とし小判型に焼いた「フリカデラ」と呼ばれる料理があるそうです。 「フリカデラ…」。長崎のことをよく知る方なら、この料理名にピン!と来たかもしれません。長崎には、「フルカデン」(フルカデールともいう)という牛ひき肉を使った西洋由来の伝統料理があるのです。「フルカデン」は、地元では牛かんとか、牛蒲鉾とも呼ばれる料理で、形はデンマークのそれとよく似た小判型です。ちなみにドイツにも「フリカデレ」という同じような料理があるそうです。 長崎の「フルカデン」は、「テンプラ」「パスティ」「ヒロウズ」「ヒカド」「ゴウレン」などと並んで、いまでは広い意味での「南蛮料理」という言葉でひとくくりにされています。こまかくいうとそれらの料理は、戦国末期から江戸時代初めにポルトガル人らが伝えた料理(南蛮料理)、出島のオランダ商館で作られていた料理(紅毛料理)に分類されます。もしかしたら中には、明治以降、居留地の外国人との交流の中で伝えられた料理もあるかもしれません。はてさて、「フルカデン」はいずれの時代に伝えられたのでしょうか。真相は定かではないようです。 「フルカデン色繪の皿に盛りてきぬ 迎陽亭の秋の夜の卓」。歌人・佐佐木信綱が昭和4年秋に長崎を訪れたときに詠んだものです。迎陽亭(こうようてい)は、文化元年(1804)に開業した料理屋で、長崎奉行所各藩に利用された由緒あるところです。明治~大正にかけても、夏目漱石や北原白秋など多くの有名人が訪れました。信綱にとって、フルカデンと称して出された一皿は、異国情緒あふれる長崎そのものだったのかもしれません。 さて、「フルカデン」は、和風のミニハンバーグみたいな料理です。簡単なので作ってみませんか。2人分:(1)合い挽き肉150g、タマネギ1/3個みじん切り、卵1個、小麦粉大さじ1、塩と砂糖各小さじ1/2を、ボウルに入れ、ハンバーグを作る要領で、ねばりが出るまでよく混ぜ、全体を8等分して小判型にまとめ、油で揚げます。このとき、表面を少し焦がすくらいになってもOKです。 (2)別鍋で沸騰させていたお湯に(1)を入れ3分ほどゆがいて油抜きをし、取り出します。(3)鍋にだし汁をつくり、醤油と砂糖で味を整え、(2)と付け合わせにする野菜を入れ、軽く煮たら、出来上がりです。 あっさり味がお好みの方には、ハンバーグよりも食べやすいはずです。また、ブラウンソースで煮込めば、洋風にも仕上がります。ぜひ、お試しください。 ◎本年もよろしくお願い申し上げます。

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  • 第369号【年末よもやま話(一茶から珍しい鳥居まで)】

     週末はいよいよクリスマス。そのあとは、大掃除をしたり、おせち料理をつくったりなど、やるべきことがいろいろ待ち構えています。もうひと頑張りして、大晦日、そして新年を気持ち良く迎えたいものですね。  大晦日を家族揃って過ごす方も多いと思いますが、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、家長が神社仏閣に籠って祈願し、新年を迎えるという行事が昔からあって、それを「年籠(としごもり)」というそうです。越年祭とか除夜祭などもそうした類いの行事で、地域によっていろいろなスタイルがあるようです。大晦日を家族揃って起き明かし、初詣にでかけるというのも一種の「年籠」なのでしょう。 1793~94年(寛政5~6)、俳諧修行で長崎を訪れた小林一茶は「君が代やから人も来て年ごもり」という句を残しています。「から人」とは「唐人」のこと。一茶は唐人屋敷のそばに滞在したと伝えられており、おそらくこの界隈に住む中国人と出会い、年を越したのです。一茶は、異国の風情に包まれたまちで迎えた新年に、思わずホームシックにかかったのでしょうか。「初夢に古郷を見て涙哉」という句も残しています。 さて、長崎でもっとも初詣の参拝客が多いといわれるのは、長崎市民の総鎮守、諏訪神社(長崎市上西山)です。新年、いちばん最初に鳥居をくぐるとき、やはりいつもとは違う新鮮な気持ちに包まれます。諏訪神社の参道の階段には5つの鳥居があります。ご近所の方に鳥居にまつわる話をうかがうことができました。  それによると、現在の二の鳥居が、いちばん古いもので(1637年建立)、かつてはこれが一の鳥居だったとか。また、現在の一の鳥居は、戦前までは青銅製でしたが、戦時中の金属供出で撤去され、のちにコンクリートで再建されたそうです。また、一の鳥居のそばにひっそりと残されている欄干は、江戸時代、この辺りにあった橋の欄干なのだそうです。 鳥居といえば、諏訪神社界隈からそう遠くない場所に、2つの珍しい鳥居があります。ひとつは宮地嶽八幡神社(みやじだけはちまんじんじゃ)(長崎市八幡町)の陶器製の鳥居で、1888年(明治21)に奉納されたものです。有田磁器釜で製作されたもので、陶器製というのは全国でもほんの数カ所にしかないそうです。白磁に青色で描かれた文様が美しく、パーツを組み合わせて築かれています。その見事な技に、当時の職人さんたちの腕の良さと熱意が伝わってきます。 宮地嶽八幡神社から、徒歩10分くらいの場所に、かつて龍馬など亀山社中の人々も参拝したかもしれないといわれている、若宮稲荷神社(長崎市伊良林)があります。若宮稲荷神社の朱色の鳥居をくぐって、本殿へ登ると、そのすぐそばに、めずらしい形の柱を持つ鳥居が建っています。 通常、鳥居の柱は丸いのですが、この鳥居は方形なのです。これは、1822年(文政5)に長崎奉行所内の稲荷神社に、当時の長崎奉行である土方出雲守が奉納した鳥居で、明治末期に現在地に移されたとか。建立年から推察するに、長崎奉行所の激動の後半を見届けた鳥居と思われます。なぜ、方形なのかは、わからなかったのが残念。いまは、地域の人しか通らない小道もかねた参道にひっそりと建っています。 本年もご愛読いただき誠にありがとうございました。

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  • 第368号【浦上の信徒弾圧と外交問題と龍馬の策略】

     赤いポインセチアや美しく飾られたツリーを街のあちらこちらで見かけるようになりました。クリスマスの雰囲気って不思議なもので、ふと家族や友達の顔を思い浮かべて、あたたかい気持ちになったりします。クリスマス自体は、キリストの生誕にちなむものですが、いまでは宗教を問わず、多くの人がこの時期をホットに楽しむシーズンイベントとしてすっかり定着しています。 一方で世界には、紛争で人権が侵害されたり、宗教の違いからくる争いごとが絶えない地域もあって、クリスマスどころではない人々もたくさんいます。平和な国に暮らす私たち日本人にとって普段、基本的な人権が尊重されていることや、宗教の自由が約束されていることを意識することはなく、それが当たり前のこととして存在します。しかし、最初からそうした社会だったわけではありません。 ときは、幕末。キリシタン禁制の世にあって、1867年(慶応3)長崎・浦上では、「浦上4番崩れ」というキリシタンの迫害が起こりました。迫害を受けたのは、約250年に渡って密かにキリスト教の信仰を続けてきた浦上の農民たちです。その2年前、大浦の居留地に住む外国人のために建立されたカトリックの教会に、浦上の信徒が先祖代々、信仰を続けていたことをフランス人神父に告げた、「信徒発見」という出来事がありました。その話はヨーロッパに感動を持って報じられましたが、幕府は禁教政策をとりやめることはなく、信徒の取り締まりは続いていたのです。 そうした幕府の態度は、諸外国からの批判の対象となっていました。幕末、長崎に断続的に訪れていた坂本龍馬は、こうした状況を知っていたようです。その頃、進めていた大政奉還の運動がうまくいかなければ、キリスト教迫害の状況を使って、倒幕に結びつける、といった話をしたことが、同じ土佐藩の佐々木高行という人物の日記に残っているそうです。 しかし、間もなく龍馬は暗殺され、江戸幕府も倒れて、明治政府が誕生。キリシタン禁制は新政府にも引き継がれることになります。その後、明治政府は、浦上一村総流罪を決定。浦上村の全農民ともいわれる約3400人が各地に流配されました。流配先での信徒たちの扱いは、藩によって違いはあったものの、多くは改宗を迫られ、さまざまな拷問を受けたと伝えられています。 1871年(明治4)、岩倉具視をはじめとする明治政府の要人たちがメンバーとなった外交使節団は、アメリカに向かい幕末に結んだ通商条約の改正を求める交渉を行いましたが失敗に終わります。敗因は、「浦上四番崩れ」で政府が国民の信仰を迫害したことにあり、アメリカはそういう国を近代国家として認めないというものでした。同使節団は、ヨーロッパに渡っても各国から信仰弾圧を止めるよう求められます。そして、ついに、1873年(明治6)、明治政府はキリシタン禁制を廃止したのです。 あとから振り返れば、「浦上4番崩れ」は、時代が変わろうとする勢いの中で、起こるべくして起きた事件だったのかもしれません。現在の信仰の自由、ひいては人権を尊重する社会を築く大きなきっかけのひとつとして、浦上の信徒たちの多大な犠牲があったことを忘れてはいけないと思うのでした。◎参考にした本/浦上キリシタン流配事件(家近良樹)

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  • 第367号【ことはじめ:キャベツとパセリ】

     冬キャベツが出回りはじめました。長崎県では西彼杵半島の北部に位置する西海市などが主な生産地として知られています。やわらかな春キャベツに比べ、しっかりとした固めの葉が特長で、煮崩れしにくくコトコト煮込むロールキャベツにぴったりです。また、冬場のちゃんぽんも、そのシャキシャキとした歯応えでいっそうおいしさを引き立ててくれます。 ヨーロッパを原産とするキャベツは、17世紀の後半にオランダ船によって長崎に運び込まれたのが最初といわれています。当初は、葉牡丹、つまり観賞用として栽培されたようで、食用としての栽培がはじまったのは幕末から明治初期の頃だそうです。 キャベツには風邪の予防にもなるビタミンC、骨を強くするビタミンK、胃潰瘍の予防になるというビタミンUなどが含まれた身体にうれしい野菜です。トンカツにはキャベツをせん切りしたものが欠かせませんが、キャベツには消化・吸収を助け、消化不良によるむかつきも防ぐミネラルが含まれているので、理にかなった組み合わせだったのです。 さて、オランダ渡りの野菜といえば、パセリも然り。別名オランダゼリとも呼ばれているように、こちらも17世紀頃、オランダ船によって運ばれてきたそうです。ちなみに現在、出回っているパセリには、葉がこまかく縮れているタイプ(ちりめん種)と縮れのないタイプ(平葉種)がありますが、一般に私たちがパセリと呼んでいるのは、ちりめん種の方で、平葉種の方はイタリアンパセリと呼んでいます。 独特の香りと苦みが個性的なパセリ。その香りと小さな森のようなきれいな緑色から、メイン料理に添えられたり、スープにあしらわれたりするなど、主役を引き立てる役割が多いようです。カレーやサラダに添えられたりすると、つい残してしまう人も多いようですが、これは、食材を大切にするという意味はもちろん、優れた栄養価を摂りそびれているという点でも、本当にもったいないことなのです。 パセリにはビタミンCをはじめ、カロテン、ビタミンB1、ビタミンB2など健康づくりに欠かせない栄養素がたっぷり含まれています。鉄分も豊富で、貧血気味の人にはおすすめです。また、独特の香りのもとになっているピネン、アピオールという成分には、食欲増進や疲労回復、保温効果もあるという、良いことづくめの野菜なのです。 油との相性がいいパセリ。天ぷらでいただくのが好きという方も多いのではないでしょうか。小学生のお子さんを持つ友人が、「生のままでは苦手でも、甘い衣をつける長崎独特の天ぷらだと、子供たちはよく食べてくれるのよ」と言っていました。 この冬も、遠い昔に海を渡ってきた長崎ゆかりの野菜たちをたっぷり食べて、健康に過ごしたいものです。◎参考にした本/カラー百科「野菜と豆」(主婦の友社)、                からだによく効く食べ物事典(三浦理代監修/池田書店)

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  • 第366号【立石さんのくんちミニチュア】

     長崎市の中心繁華街・浜の町のとなりに位置する築町(つきまち)。地元の海の幸、山の幸が揃った市場があることでも知られる庶民的で活気にあふれたまちです。そんなまちの一角で理容店を営む立石侃(たていし あきら)さん。「くんちミニチュア」をつくって注目を浴びているベテランの理容師さんです。 万才町のオフィス街から下ってすぐの通りに面した場所にある「理容たていし」。そのディスプレイに買い物客が足を止め、しばらく見入っています。そこには、「御座船」(築町)をはじめ、「宝船」(鍛冶屋町)、「コッコデショ」(樺島町)、「唐船祭」(元船町)といったくんちの踊り町の演し物や傘ぼこのミニチュアが飾られているのです。「小さなお子さんと一緒に楽しそうに見ている方や、長時間立ち止まって細かいところまで見ている方もいらっしゃる。ときには年配の方がくんちの思い出話をしてくれたりして、こちらもうれしくなります」と笑顔で話す立石さん。 くんちの演し物の豪華な飾り付けや優雅な傘ぼこの文様まで、細かい部分も丁寧に再現された立石さんのミニチュア。見応えのあるつくりに、きっと長い製作のキャリアがあるのだろうと思って尋ねると、「理容店を営む傍らでつくりはじめたのは、平成15年(2003)のこと。この年は築町が踊り町で何か記念になるものをと、こしらえたのがきっかけです」。 わずか7年前。60代に入ってからの新しい挑戦だった「くんちミニチュア」づくり。よくよくお話をうかがうと、そこには40数年前に亡くなった立石さんのお父様の影響が見え隠れします。「父はべっ甲職人で、子供の頃は父の作業する姿を見て育ちました。ある日、父が留守のとき、自分もやってみようと思って高価な材料とも知らずに、べっ甲をバリバリ切ったことがあるんです。でも父は、怒りもせずにね、『こうするとばい』って教えてくれたんです」。ものづくりの遺伝子は、そうした親子のやりとりの中でしっかり立石さんの心に宿っていきました。 ミニチュアづくりは店内の片隅で、手が空いたときなどにコツコツと行うため、ひとつの作品に3カ月から半年ほどかかります。材料は、樹脂粘土やお菓子の化粧箱、和紙、布切れ、マッチ棒、割り箸など、ほとんど身近にあるものを用います。「ミニチュアづくりには、自分で創造して、いろいろ工夫する面白さがあります。完成したときの喜びがあり、それが人にほめられたら一層うれしいものです」。立石さんは、こうした体験ができるミニチュアづくりを子供たちに伝えたいという密かな夢を持っています。「何でもお金を出せば買える世の中にあって、子供たちには、自分にしかつくれないものがあることを知ってほしいのです」。 立石さんがミニチュアづくりをはじめてから7年がめぐり、今年また築町は踊り町のひとつとして勇壮で豪華な御座船を奉納しました。築町自治会の副会長を務める立石さんも町内の人とともに、踊り町の役割を無事に果たそうと紋付を着てがんばりました。「長崎くんちは、江戸時代から親から子へ、子から孫へと受け継がれた大切な行事。これからもしっかり繋いでいきたい」。 理容店のスタッフに恵まれ、町内会の人々にも信望が厚い立石さんは、「自分が人にされていやなことはしない」。「お客様のために一生懸命にがんばる」がモットー。くんちミニチュアがどこかほのぼのとして温かいのは、そんな立石さんの実直で優しい人柄が映し出されているからなのでしょう。

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  • 第365号【幕末に活躍した人物のお墓めぐり】

     10月初旬の新聞に、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の収録が全て終わったという記事が出ていました。ドラマはいよいよ佳境に入り、それと同調するように長崎の龍馬ゆかりのスポットもさらに熱を帯びて、多くの人々で賑わっています。 龍馬が活躍した幕末は、いわずと知れた激動の時代。当時、「新しい知」の発信地であった長崎の街には龍馬をはじめ、さまざまな分野の人々が往来し、それぞれの思いを実現すべく日々を過ごしていました。今回は、龍馬と志を共にした者、芸術家、通訳などのお墓をめぐり、当時の彼らの活躍に思いを馳せます。 長崎駅の近くにある本蓮寺(ほんれんじ)。ここは、勝海舟が長崎海軍伝習所の伝習生頭役として航海術を学んでいた頃に住んでいたお寺として知られています。実は海舟や龍馬とつながりのある人物が、このお寺の墓地に眠っていることは、まだそれほど知られていません。それは、龍馬とともに土佐藩を脱藩し、海舟の門下生として学んだ沢村惣之丞です。 日本初の貿易商社、亀山社中(のちの海援隊)のメンバーとして活躍した惣之丞。当時、亀山社中の元気な若者たちは長崎の人々から「亀山ん(の)白袴」と呼ばれていましたが、惣之丞もそのひとりとして、血気盛んに過ごしていたに違いありません。そんな惣之丞が亡くなったのは、龍馬暗殺から2ヶ月後のことでした。慶応4年(1868)1月14日夜、海援隊が長崎奉行所を占領していたとき、惣之丞は誤って薩摩藩士を射殺。その責任をとって自決したのです。辞世の歌は『生きて世に残るとしても生きて世に有らん限りの齢なるらめ』。 惣之丞のお墓は、長崎市街地や港を一望する高台にありました。墓石の正面に刻まれているのは「村木氏他 土佐住民諸氏之墓」。実は長い間、惣之丞のお墓は確認できずにいたそうで、それが判明したのは平成2年のこと。墓石の側面にある「関雄之助延世」という名が惣之丞のことだそうです。 さて、惣之丞のお墓のすぐそばには、三浦梧門(1808-1860:みうらごもん)という画家のお墓があります。梧門は、鉄翁、木下逸雲と並ぶ長崎三大南画家のひとり。おだやかな人柄でお酒が大好きな先生だったそうです。 長崎ではどこでも見られる長くて、狭くて、とっても急な墓地内の階段をさらに下ると、代々オランダ通詞を務めたの森山家のお墓がありました。森山家は、幕末、プチャーチン来航やペリー来航の際、通訳として活躍した森山多吉郎(1820-1871)の実家です。実は多吉郎自身は明治4年に東京で亡くなっていて、巣鴨の本妙寺にお墓があります。余談ですが、本妙寺には長崎奉行も務めた遠山金四郎のお父さん、遠山左衛門尉景元のお墓もあります。  さて、ラストは本蓮寺から東へ車で10分。風頭山の山頂へ。ここには長崎港沖を見つめる龍馬像が建っています。その像のすぐそばには上野彦馬のお墓があります。彦馬は、日本の写真技術の始祖で、報道カメラマンの草分けともいわれる人物で、龍馬をはじめ当時の多くの著名人を撮影しています。風頭山では、龍馬の像を仰いだあと彦馬のお墓を参る人も少なくありません。この日、カメラマンをめざしているという若者が、墓前で手を合わせている姿に出会いました。

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  • 第364号【秋、懐かしい味が恋しい季節です】

     賑やかな「長崎くんち」が終わって、長崎のまちはほっとひと息。祭りの間、我が家では小豆ごはんや煮しめ、ざくろなますといったおくんちの定番メニューが食卓に並び、お祭り気分を味わいました。この季節、そうした伝統的な料理を食べる機会が多いせいもあってか、昔ながらの味に何となく気持ちが向かいます。たとえば、祖母や母親が手作りでこしらえてくれた素朴なお菓子。今回は、そんな懐かしいおやつをいくつかご紹介します。 60~70代以上の方々にとって、子供時代のおやつといったら、「はったい粉」ではないでしょうか。30代以下では知らない方も多いようですが、「はったい粉」は大麦を炒ってこがし、ひいて粉にしたもので、関東方面では「麦こがし」と呼ばれているそうです。五島列島で子供時代を過ごした70代の女性は、「砂糖を混ぜ、お湯で練って食べるんだけれど、食べるものが少ない時代、これでお腹をふくらませていたのよ」と話してくれました。関西出身の60代の男性も、「当時のおやつといえば、やはり、はったい粉でしょう」。また、長崎の60代の男性は、「お腹の調子が悪いとき、はったい粉を食べさせられた」と、薬の役割も果たしていたことを教えてくれました。 さて、昔懐かしいおやつといえば、やはり、やせた土地でもたくましく育つサツマイモを材料としたものが多いようです。たとえば、「石垣まんじゅう」。ゴロゴロと混ざったサツマイモが石垣のようにみえるから「石垣まんじゅう」というらしく、いまでは、大分県の郷土料理のひとつとして紹介されているようですが、長崎でも昔はよく作って食べていたようです。いまも長崎のおまんじゅう屋さんなどでよく見かけます。 主な材料はサツマイモと小麦粉。作り方はとても簡単で、1、サツマイモを1センチほどの角切りにする。2、小麦粉(サツマイモと同量)に塩少々と水(小麦粉の約2/3量)を加えてサックリと混ぜ生地を作る。3、2の生地に1のサツマイモを加えて混ぜる。4、適当な大きさに分けて丸め、15分ほど蒸して出来上がりです。生地とサツマイモの甘みが塩で引き立てられて、おいしい。とても素朴な味わいです。 軍艦島(端島)を沖合い望む長崎市の高浜地区にもサツマイモを使った「イモヨセ」というお菓子が伝えられています。小麦粉や白玉粉などを加えて作る、しょうが風味のお菓子で、見た目はイモヨウカンのようですが、そんなに甘くありません。また、もっちりとしていますが、五島名産のかんころもちとも少し違った食感です。いまのように食材が豊富ではなかった時代、手に入る材料で、少しでも腹持ちよく、おいしく家族に食べてもらおうとした母親の工夫と愛情が感じられます。 昔懐かしいおやつに共通しているのは、手作りで、材料も作り方もシンプルだということ。当時の子供たちは、お腹いっぱい食べられないというつらい経験を通して、食べ物の大切さや素材そのもののおいしさ、作る人の気持ちなど、とても大事なことを身を持って学ばれたのだと思います。

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  • 第363号【平成22年・長崎くんちの踊り町】

     朝夕、涼しくなってきました。今年は特に秋の訪れが待ち遠しかったですね。これからは、祭りなどいろいろな催しのシーズンです。長崎では、来月7、8、9日に、諏訪神社の大祭「長崎くんち」が行われます。今年の踊り町は、馬町、築町、東濱町、八坂町、銅座町と、特別参加の籠町の計6カ町。9月に入り、仕上げの段階を迎えた各踊り町の練習を見学してきました。 馬町が奉納するのは「本踊り」です。夕刻、八坂神社へ行くと、花柳流の師匠のもと、若い女性たちが真剣な表情で稽古に励んでいました。本番さながらのあでやかな踊りは見応えたっぷり。途中から、町内の子どもたちも登場して、ほほえましい踊りを披露しました。ところで、馬町は諏訪神社の参道の入り口付近に位置し、その町名は長崎奉行所御用の馬を用意したことに由来するとか。それで、傘ぼこのダシには、馬具一式を飾り付けているそうです。 長崎で初期の頃に開かれた「内町」に属していた築町は、「御座船(ござぶね)」を奉納します。江戸時代、長崎港の警備にあたっていた肥後・細川藩の警備船を模した船だそうで、その豪華さは見どころのひとつです。20数名の根曵き衆が、重さ4トンもあるこの船を、息を合わせて引き回す姿は感動的。また、藤間流の師匠により伝えられた優雅な舞も素敵です。 長崎浜市アーケード界隈に位置する東濱町が奉納するのは、「竜宮船」です。練習時は、竜の部分は布で覆われ、見ることができませんでしたが、「竜宮船」は、優雅なふくらみを持つ紅白の胴体が特長です。この船のデザインは、長崎市出身の漫画家、故清水崑氏によるもの。重厚で品格があります。傘ぼこには、この町がかつて浜辺だった土地柄にちなんで、大きな蛤があしらわれています。 八坂町は、「川船」を奉納します。船体が小ぶりな分、川船を引き回す際のスピード感には圧倒されます。勢いよく回転するなかで、へさきにいる男性が宙を舞う姿を見たときは、もうハラハラドキドキ。本番でのどよめきや歓声が聞こえてきそうでした。また、「川船」は網を打つかわいい船頭さんの姿も見どころです。 町名は江戸時代、銅を製造していたことに由来する銅座町。奉納するのは「南蛮船」です。この演し物は、当時製造した銅を海外へ運んだのが、南蛮船(ポルトガル船)だったことに因んでいるそうです。朱塗りの南蛮船は、とても華やかです。根引き衆が「フォルサ」というかけ声とともに、船を前進させる姿が、とても勇ましくてかっこいいのです。ちなみに「フォルサ!」とは、ポルトガル語で、「がんばる」を意味するとか。もしかしたら、私たちが無意識に使う「ホイサ!」の語源なのかもしれないなあと思いました。 今年は、特別参加として籠町が「龍踊り」を奉納します。江戸時代、籠町のとなりにあった唐人屋敷の中国人から演技を習ったことにはじまる、本流の龍踊りです。どこかジャズのようでもあるラッパやドラの音色とともに、今年のくんちを盛り上げてくれるに違いありません。 本番を前に、10月3日(日)の踊り町の「庭見せ」も、相当賑わいそうです。築町の「理容たていし」では、お店を臨時休業して、店内いっぱいにご主人が作ったくんちのミニチュアを飾り、披露するそうです。どうぞ、お楽しみに。

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  • 第362号【くじらのまち長崎の食卓】

     9月に入っても猛暑が続いています。ヘルシーでスタミナのつくものを探して市場を歩いていたら、「くじらあります」の小さなのれんが目に止まりました。あまり知られていませんが、鯨肉(赤身)は牛、豚、鶏などの食肉よりも高タンパクで、低脂肪、低カロリー。コレステロールの含有量も比較的少なく、血栓を予防するといわれるEPA(エイコサペンタエン酸)や頭の働きを良くするDHA(ドコサヘキサエン酸)、貧血を予防するミオグロビン鉄も含まれるなど、とても身体にうれしい食材です。 長崎の60代以上の人に聞いてみると、子供の頃、鯨肉は豚肉や鶏肉よりも安く、よく食べていたといいます。いまは、昔に比べ高価になってしまいましたが、長崎の人にとってはまだまだ身近な食材です。まちには、鯨肉専門店があり、市場でも普通に売られています。他県出身で、鯨肉が大好きな知人に言わせると、大都会ならまだしも、長崎のような小さなまちの規模で、鯨肉専門店が何軒か見られるのはたいへん珍しく、ほかの地域にはない光景だといいます。 長崎が鯨肉に親しむようになったのは、江戸時代から明治、大正、昭和にかけて行われた西海捕鯨(九州西北部~山口県の西海地方の捕鯨)がきっかけです。もっとも繁栄したのは江戸後期といわれ、浦々には鯨組と呼ばれた捕鯨基地が設けられました。なかでも、長崎県生月島の益冨組(ますとみぐみ)は、日本一の鯨組として全国的に名を馳せています。 江戸時代、捕獲された鯨肉は、大村湾を望む「彼杵」(そのぎ:現・東彼杵町)という長崎街道の宿場町に集められ、そこから各地に運ばれました。東彼杵町の知人宅では、いまもお雑煮の具材に鯨肉を使っています。長崎市内では、鯨肉の中でも珍味として知られる百尋(ひゃくひろ:小腸の塩漬けを茹でたもの)をお正月の縁起物として食す家庭もまだまだ残っています。 鯨肉専門店の方にうかがうと、普段、鯨肉をよく買われるのは、やはり、お年寄りの方々が多いとか。小さい頃から慣れ親しんだ味として、「尾羽鯨」(おばくじら:尾ひれの部分をスライスしたもの)や、「本皮」(鯨の背中の部分の塩漬け)、そして「畝須」(うねす:下あごから腹部にかけての脂身)を塩漬けした、いわゆる「塩鯨」などがよく出るそうです。また、最近では若い人で「さえずり(舌)」を購入する人も意外に多いとか。ベーコンに似た食感の「さえずり」は、居酒屋のメニューに並ぶことが多く、そこで味を知るみたいだとおっしゃっていました。  さて、今夜のメニューにと市場で購入したのは、「生鯨」(なまくじら:畝須に近い部位)と、「さらし鯨」(畝須を塩漬けしたものを茹でたもの)です。「生鯨」では、「肉じゃが」ならぬ、「鯨じゃが」を作りました。鯨肉は独特の臭みがニガテという方もいますが、調理前にすったタマネギに10分くらい漬け込むと、臭みが抜けます。煮込むとトロリとしておいしいです。一方、「さらし鯨」は、そのまま酢みそかポン酢でいただきます。レタスやきゅうりなどと一緒に盛り、「鯨サラダ」にしてもいいですね。 鯨肉専門店の方によると、長崎以外にも鯨肉を売っているところはありますが、長崎の場合は、塩加減、湯で加減など、加工処理がほかと違っていて、それがおいしさにつながっているそうです。長崎のまちでは鯨肉料理を出しているお店も多いので、ぜひ、一度、食べてみてください。

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  • 第361号【龍馬を探してまち歩き(浜市アーケード周辺)】

     この猛暑にも関わらず、長崎のまちでは、子供たちからご年配の方まで、龍馬ゆかりのスポットをめぐる姿が後を絶ちません。龍馬ブームの熱さも、相当なもののようです。 これまでも何度かご紹介しましたが、龍馬ゆかりのスポットは、長崎市の中心部に多く点在しています。その中から今回は、暑い中でも無理なく散策でき、いつでも最寄りの喫茶店で一息入れることができる、浜市アーケード(長崎市浜町)を中心に徒歩10分圏内のスポットをいくつかご紹介します。 浜市アーケードの真ん中には、「長崎まちなか龍馬館」という、来年2月末までオープンしている期間限定のスポットがあります。龍馬が活躍した時代を貴重な資料とともに展示。さらに、お土産のセレクトショップや、観光インフォメーションもあります。この場所からスタートです。 徒歩2分。アーケードからちょっとそれた場所に「清風亭跡」があります。慶応3年(1867)1月、この料亭で、仇敵だった後藤象二郎と龍馬が会談し、意気投合。その後、力を合わせていくことになり、同年10月の大政奉還の実現へとつながります。幕末史上、重要な出来事のひとつとされる、この「清風亭会談」には、龍馬なじみの芸奴、お元さんも同席したと伝えられています。現在この場所は、当時の面影は全くありませんが、その会談を想像すると、ゾクゾクッとするものがあります。 アーケードを東側へ抜け、鍛冶屋町にある崇福寺をめざします。途中には、「大浦けい居宅跡」の碑(油屋町)ありました。日本茶を外国に輸出して、大きな利益を上げた人物です。幕末の志士らを支援したとも伝えられています。 4~5分ほど歩くと、「崇福寺」です。唐寺らしい赤い門に出迎えられました。1629年(寛永6)に長崎在住の福建省の人々によって建立され、国宝をはじめ多くの文化財を有する由緒あるお寺です。大河ドラマ「龍馬伝」では、その境内を舞台に長崎らしい異国情緒を感じるシーンが撮られていました。 「崇福寺」から南へ下り、電車通りを横切ると、思案橋・丸山界隈へ出ます。龍馬とお元さんが出合った場所ともいわれています。江戸時代の丸山遊郭の建物として唯一残る、史跡料亭「花月」には、多くの幕末の志士らが訪れました。「花月」前の丸山公園には龍馬像が建立されています。 飲食店が軒を連ねる本石灰町や船大工町を通り抜けて7~8分、銅座町の一角に「薩摩藩蔵屋敷跡」があります。薩摩藩の長崎における拠点です。ここから、徒歩3分の浜市アーケード西側出口付近には、「土佐商会」跡があります。ここに、のちに三菱財閥を築いた岩崎弥太郎が駐在し、海援隊の金庫番の役割も果たしました。もちろん龍馬もたびたび出入りしていたに違いありません。 中島川沿いにある「土佐商会」跡から、上流へ5分ほど歩くと眼鏡橋があります。当時の長崎のメインロードでもあったこの橋を、龍馬もきっと渡ったに違いありません。橋のたもとで長崎名物チリンチリンアイス(100円)を頬張りながら、ブーツを履いたハイカラな龍馬さんが、この味を知らないことを残念に思ったのでした。

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  • 第360号【伊王島へGO!】

     みなさん、お元気ですか!立秋が過ぎました。残暑は厳しいですが、いずれ、必ず涼しい秋がやって来ます。こうなったら、暑さを受け入れて、素敵な夏の思い出づくりに励むしかありませんよね。 というわけで、夏のリゾート気分を満喫しようと、伊王島へ行ってきました。長崎港沖に位置する伊王島は、高速船でわずか19分。海水浴場や天然温泉の施設などもある自然豊かなアイランドです。早朝出航する便に乗り込むと、船内はすでに家族連れで満席。短い船旅も、子供たちにとってはうれしい体験。海上からの景色に見入っていました。 車で周囲をめぐるだけなら15分もあれば一周できる伊王島は、正確には伊王島と沖之島で構成され、2つの島は3つの橋で結ばれています。さらに、来年春には長崎市の本土側(香焼町)と橋で結ばれる予定で、離れ島としての伊王島の夏は、今年が最後ということになります。 この島には、史跡やダイナミックな自然景観など見どころがギュッとつまっています。代表的なところでは、島の北端の高台にある「伊王島灯台」です。1866年(慶応2)、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国と結ばれた江戸条約に基づいて、外国との交易を行う港の安全をはかるために、全国8カ所に設けられた灯台のひとつで、1870年(明治3)に造られました。日本初の鉄造六角形の洋式灯台でしたが、原爆の被害に合い改築。しかし、ドーム型天井だけは、当初のものがいまも使われています。 長崎港の出入り口で、海の安全を見守った「伊王島灯台」。そのすぐ下には、灯台守の宿所があり、現在は「灯台記念館」として当時の道具などが展示されています。貴重な展示物の中には、灯りが38キロメートル先まで届くという「四等閃光レンズ」(1918年フランス製)もあり、管理人の方が灯して見せてくれました。この宿所は、「伊王島灯台」と同じ英国人技師ブラントンによって設計された貴重な明治期の洋風建造物でもあります。暖炉をはじめ、ドアや窓のつくり、照明などのインテリアも見応えがありました。 島の南、沖の島側には馬込教会こと「聖ミカエル天主堂」(国登録有形文化財)が建っています。白亜のゴシック様式の天主堂で、1890(明治23)に建てられました。伊王島は、明治初めの厳しいキリシタン弾圧の中、長崎のどの地区よりも早く仮聖堂を建てたといわれるキリシタンゆかりの島。現在、伊王島の半数以上がカトリックの信徒さんだそうです。 また、伊王島は12世紀、平氏打倒の密議が発覚し、島流しになった俊寛僧都が亡くなった島とも伝えられ、墓碑が建立されています。その隣には、昭和初期に訪れた歌人・北原白秋が、俊寛の悲しい運命を詠んだ歌碑もありました。 伊王島は、16世紀以降、長崎港に出入りしていた唐船が、出港時に風待ちをしていた島でもあります。島内には、唐船岳、唐船江護など、ゆかりの地名も残っています。長崎港沖に浮かぶこの小さな島には、まだまだ興味深い歴史がいっぱいありそうです。

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