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  • 第74号【長崎のチャイナタウン、新地】

     いよいよ来週12日から「長崎ランタンフェスティバル」が始まります。今や長崎の冬の風物詩として全国的にも知れ渡るようになったこのお祭り。昨年もコラムに取り上げたので、読者の方々はよくご存じのことと思います。実際に出かけ、楽しまれた方も多いのではないでしょうか?(^〇^)イカガデシタカ? 今回は中国由来のこの祭にちなんで「新地」の歴史についてご紹介します。ここは言わずと知れた横浜、神戸と並ぶ日本三大チャイナタウンのひとつで、「新地中華街」と呼ばれ親しまれています。この中華街は明治初期の埋め立てによって造られたものですが、それ以前の江戸時代は中国からの荷物を収納する倉庫地として使われていて、もともとは出島と同じく長崎港の一部を埋め立てて造った人工島だったのです。▲朱塗りの鮮やかな新地中華門 元禄15年(1702)に造成された人工島「新地」は、その名の通り新しくできた土地を意味します。当時の地図には扇形をした出島の近くに、明らかに人工のものと思われる長方形に突き出した土地を見ることができます。総坪数は約3500坪。唐船が運んで来た貨物を入れる土蔵が当初12棟60戸も設けられたそうです。オランダとの貿易が行われていた出島のすぐ近くで、中国との貿易も盛んに行われていたのですね。(・・ )フム、新地ハ中国版出島!? その新地が造られたきっかけは、元禄11年春に起きた長崎での大火でした。この火事は長崎港周辺にあった約22の町々を延焼し、人家2044戸、土蔵33棟を焼失するという大きな被害をもたらしました。中でも中国からの荷物を収納していた土蔵の被害はひどく、唐船約20隻分の荷物を焼きつくしたといいます。そこで火災とさらに盗難や密貿易を防ぐために、唐人屋敷にもほど近い現在の場所に新地が造成されたのでした。 以来、中国からの船が入港すると新地沖に停泊。はしけで新地へ荷物が運び込まれました。中国人らも必ず新地に上陸し、手回り品だけを持って寝泊まりする唐人屋敷へ移動したそうです。新地のそういった歴史的経緯の名残りとして現在、新地中華街のちょうど真ん中あたりに「新地蔵跡」という石碑が建てられています。(・・;)当時ノ名残リハコレダケ?…。▲新地蔵跡の石碑 鎖国が解かれた明治以降、唐人屋敷を出た中国人らは新地に居住し商売を始めるようになります。そうして今の中華街へと発展していったのです。ところで中国の船が盛んに来航し長崎の市中に中国人が増えはじめたのは、元亀元年(1570)の長崎開港以来だそうで、長崎は日本で最初に華僑社会が形成されたところといわれています。つまりその発端をたどれば400年以上も前にさかのぼり日本最古の歴史を誇るチャイナタウンともいえるわけですね。 知人に「日本で中国大陸との心情的な近さや歴史的なつながりの濃さを最も感じるのは長崎だ」という人がいました。確かに長崎を見てみると町には建造物や祭りなど、いろんな中国が当たり前の顔をしてたくさん混在しています。私などは、もしかして新地中華街はチャイナタウンのほんの一部で実は長崎全体がチャイナタウンじゃないのかなという気もしたりしています。【``】ペーロンモ龍踊リモ中国発。▲祭りの準備が進む中華街※参考資料/原田博ニ著「図説・長崎歴史散歩」、外山幹夫著「図説・長崎県の歴史」

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  • 第73号【中の茶屋まで、ぶうらぶら】

     みぞれまじりの雨にしっとり濡れた丸山界隈。「中の茶屋」へ行くために、久しぶりに歩いた「長崎ぶらぶら節」の町は、相変わらず古めかしく、庶民的で、懐かしい空気が漂っていました。江戸時代中期に築かれた庭園で市指定史跡にもなっている「中の茶屋」が広く市民に利用される施設としてオープンしたのは去年11月のこと。「長崎ぶらぶら節」の一節にも「♪遊びに行くなら♪花月か中の茶屋♪梅園裏門たたいて♪丸山ぶうらぶら♪」とあるくらい名を馳せたこの茶屋の常時公開は、ぶらぶら節ファンをたいへん喜ばせたようです。\(^^)映画、ゴ覧ニナラレマシタ?▲常時公開となった中の茶屋 中の茶屋へ行く途中、丸山の本通り脇にある狭い路地(梅園通り)に入りました。通りの先にある「梅園身代わり天満宮」では、境内に白い初梅が咲き、そこだけ早春の気配です。ここは元禄13年(1700)に建てられて以来、丸山町の氏神様として親しまれている神社です。(⌒▽⌒)風情あるイイ神社▲愛八さんも参拝していた梅園身代わり天満宮 「身代わり~」のいわれは、1693年、このお社を建てた近所の安田次右衛門という人が、暴漢に襲われて自宅に担ぎ込まれた際、あったはずの傷が無く、その代わり庭にあった天神様が血を流して倒れていた事がきっかけだそうです。その時の天神様が「身代わり天神」と呼ばれ、こうして祭られているのです。昔から心や身体の悩みまで身代わりになってくれると言われていて、丸山の芸者、あの愛八さんもよく参拝していたそうですよ。(^∧^;)私はダイエット祈願 その「梅園身代わり天満宮」からちょいと上に行ったところに「中の茶屋」はありました。門をくぐると手入れの行き届いた庭園が広がり、その中に2階建ての日本家屋が建っています。「中の茶屋」は、江戸時代に「中の筑後屋」という丸山(寄合町)の遊女屋が茶屋として設けたもの。当時、丸山を代表する花月楼と並ぶほど、文人墨客や唐人たちに好まれた場所だったそうです。分かりやすくいうなら「ワンランク上の遊廓」だったそうで、それを教えて下さったのは、火曜と金曜の週二回、中の茶屋で案内役を担当されている兼松茂さん。▲和室(中の茶屋内)は隣の音に配慮し畳一枚分の間があった 地元の自治会長もされていたという兼松さんは昭和2年生まれ。とにかく長崎のいろんな事をご存じで、1階の和室でついつい長話。江戸時代中期に築かれたという中の茶屋の庭園に植えられている「さつき」は、樹齢300年位で、5月には真っ赤な花が咲いて、たいへん美しいという話や、長崎の芸者さんや遊廓の事など、興味深いお話をたくさん教えていただきました。<(__)>兼松さんアリガトウゴザイマシタ! ところで中の茶屋の家屋の1階は、長崎市出身の漫画家で「かっぱシリーズ」で有名な清水崑さんの展示館になっています。閑静な庭園を眺めながら、素敵な人と出会い(兼松さん)、長崎の歴史に触れたり、懐かしい清水崑さんの絵を見たり…。中の茶屋はゆったり豊かなひとときを過ごせるいいところでした。(・w・)/カッパッパー、ルンパッパー黄~桜ァ

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  • 第72号【金平糖のヒミツ】

     先日、加賀百万石の基礎を築いた夫婦の物語を描いたNHKの大河ドラマ、『利家とまつ』を見ていたら、まつの宝物としてビードロ瓶に入った金平糖が出てきました。それは利家からのプレゼントで、利家が主君・信長に仕官を願い出た際にもらったもの。ドラマでは金平糖はめでたい時に蒔くものとされ、まつと利家が結婚を誓いあった時、空に向かって蒔かれるシーンがありました。☆・:*゜★,。 ・:*:・゜\(^^(‐^っ▲メルヘンチックな金平糖 織田信長が南蛮文化に傾倒していたのは有名な話です。信長は1569年に宣教師のルイス・フロイスから金平糖を献上されました。そのことはフロイスの報告書『耶蘇会士日本通信』に記されていて、これが日本で初めて金平糖の名が記されたものになるのだそうです。当時、砂糖は一般の人々には手の届かない貴重なものでしたから、砂糖の固まりである金平糖がめでたいお菓子として使われたというのは想像に難くありませんね。 金平糖はカステラ、ボーロ、有平糖(あるへいとう)、ビスケットなどと同じく16世紀にポルトガル人によって長崎に伝来した南蛮菓子のひとつです。その語源はポルトガル語のConfeito(コンフェイト/砂糖で包まれた菓子の意)から来ています。方々にツノのあるユニークな形をした珍しいこのお菓子を日本で初めて作ったのはやはり長崎で、当時の菓子職人らはその製法をあみだすのに相当苦労したようです。江戸時代の浮世絵草子の作者として知られる井原西鶴の『日本永代蔵』によると、「~外国の人もよきことは秘すとみえたり。」と金平糖の作り方をなかなか教えてくれなかったということや、やがて苦心して金平糖の作り方をあみだした長崎の町人が大儲けしたことなどが記されています。 L(@^▽^@)」 金平糖成金?▲日本永代蔵(井原西鶴作) ところで金平糖のあの形は、どうやって作られるかご存じですか? 調べてみると、江戸時代には、芯にケシの実やゴマなどを使いそれに煮詰めておいた砂糖を少しずつかけては掻き回すという作業を何度も繰り返して、ツノのある形を作っていったそうです。機械化が進んだ現代でも作り方の原形ほとんど変わらず、芯には白ザラメを用い、グラニュー糖の液を1週間ほど回しかける作業を続けて、ようやく商品として出せる大きさになるのだそうです。けっこう手間ひまのかかるものだったんですね。しかもあのツノは、火加減や砂糖のかけ方、鍋の傾斜角度などの微妙な加減で生まれるそうなのですが、なぜツノができるのかよく解明されていないそうです。意外ですよね。(;-_-;) ムム、奥深シ、金平糖! スーパーやコンビニで見る現代のお菓子の世界は、種類が豊富でひんぱんに新製品が生まれては消えています。そんな中で、今なお店頭に並べられロングセラーのひとつとして人々に親しまれている金平糖。その息の長さのヒミツはどこにあるのでしょうか。よく見れば星のような夢のある形をしていること。素材がザラメやグラニュー糖などの砂糖だけで味わいがシンプルなこと。その単純で素朴なところがますます郷愁を誘うこと、などが挙げられるのではないでしょうか。皆さんはどう思われますか? (⌒┐⌒)可愛イクテオイシイネ※参考資料/長崎文献社発行「ながさきことはじめ」、岩波書店発行「日本永代蔵」

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  • 第71号【松森神社の職人尽絵】

     先週も登場した「諏訪神社」の近くには、学問の神様として名高い菅原道真公を祭る松森神社(まつのもりじんじゃ/上西山町)があります。諏訪神社ほどメジャーではありませんが、ここは長崎を代表する神社のひとつ。大きなクスの木が繁る境内を訪れると、近くの高校に通う男子生徒の姿がちらほら。そういえば受験シーズンでしたね。 ☆\\(^^ )合格祈願▲松森神社正門 さて今回ご紹介するのは松森神社の「職人尽絵(しょくにんづくしえ)」です。江戸時代、またはそれ以前のさまざまな職人とその周辺の様子を板に彫り、絵画のように彩色を施したものです。[碁盤製造の図]、[菓子製造の図]、[鍛冶屋の図]、[瓦製造の図]、[医者・製薬人の図]など、計30枚に及ぶその板は当時の風俗を知る重要な史料として、県指定有形文化財にもなっています。 (・_・)/1枚のサイズは1.72m(横)×29cm(縦)▲職人尽絵がはめこまれた本殿 この「職人尽絵」は松森神社が1714年に社殿改修を行った際に奉納されたもの。制作は、下絵を当時の長崎奉行所の御用絵師だった小原慶山(おはらけいざん)、彫刻は御用指物師(ごようさしものし)の吉兵衛、藤右衛門という人たちだといわれています。さらにそれから百十数年を経た1832年には修繕を兼ねて彩色が施されていて、それを担当したのが当時の長崎画壇を代表する唐絵目利・石崎融思(からえめきき・いしざきゆうし)でした。江戸時代の腕利きの職人らの手によって作られた「職人尽絵」。当時からその細かな彫りと美しい彩色は有名だったようです。 こんなに貴重な代物だから、神社のどこかに大切に保存されていると思いきや、神社の本殿を囲む瑞垣(みずがき)の欄間(らんま)に、当初のままグルリとはめ込まれていました。参拝がてら誰でも気軽に見られるのはいいのですが、長年の野ざらし状態ですっかり色褪せてしまい、肉眼だとちょっと見ずらくなっていました。( ’_’)ジーーックリ見テネ 目を凝らし、1枚1枚じっくり見ていくと、これがなかなか面白いのです。たとえば[菓子製造の図]では、菓子師が作ったものを売っている様子、子供連れの女性が玩具を買っている様子、烏帽子をかぶった人が竹カゴにお菓子を入れて天秤棒で担ごうとしている様子、牛を連れた旅人らしき人が、お菓子を買おうとしている様子など、1枚の板に当時のお菓子作りにまつわるさまざまなシーンが描き出されています。こんな風にどの板も各仕事関連の複数のシーンが描かれていて、当時の社会風俗を垣間見る事ができます。(^^;)ゞ 解説文ガ付クト嬉シイ…▲菓子製造の図 神社の売店にいた方によると、以前は彩色が落ちないようにガラス板をはめていたそうですが、かえって虫食いが起きやすくなるため、はずしたそうです。しかしそうすると天日や雨風にさらされてしまう。どちらにしても痛みは避けられないということでした。特別な手入れをするにしても文化財なので下手にいじれず、費用も相当かかります。きちんと手入れをして後世に残したいのは山々だけれど…といった状態のようです。ホントに何かいい方法はないものでしょうかね。 α~ (ー.ー") ンーー・・・※参考資料/畑田信雄著「長崎の職人尽彫りもの絵」、長崎文献社発行「長崎事典」

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  • 第70号【明けまして阿蘭陀正月でございます】

     明けましておめでとうございます。<(__)> 皆さんはどんなお正月を過ごされましたか? 長崎の元旦は夜明け前から風雨で大荒れのお天気。私は朝7時頃、大きな雷の音に起こされてしまいました。この天気じゃ、初詣では無理かなと思いきや、午後には晴れ間が広がり、さっそく長崎市民の総鎮守・諏訪神社へお参りに行って来ましたよ。▲お天気のせいか着物姿が少なかった、元旦の諏訪神社 何でも日本でもっとも初詣の参拝客が多いのは東京・明治神宮で、長崎県ではこの諏訪神社が一番なんだそうです。参道の近くまで行くと、お天気の回復を待っていた人々が大勢やって来ていました。近くの電停では満員の電車からこぼれるように人が降りて来ます。参道の階段を埋め尽くす人々は、ゾロゾロ、ゆっくりお諏訪さんを目指し登っています。みんな新しい年に希望を託し、幸せや平和を願いに来ているのだ思うと、何だか胸がキュンとして思わず「神様、ひとり残らず、よろしくね」なんてお賽銭をはずんじゃったのでした。( ^^)//"" パンパン さて2002年最初のコラムは長崎の歴史もの「阿蘭陀正月」についてお届けします。ときは江戸時代、とある冬の朝。出島に続く石橋を使用人や町人らが続々と渡って行きます。日頃、出入りを許されている彼等ですが、いつになくこざっぱりとした身なりで、表情もどこかあらたまった雰囲気が漂っています。それもそのはず、この日は太陽暦の元旦で、オランダ人らの新春のお祝の日だったのです。当時、旧暦(太陰暦)で一年を送っていた日本人にとっては、自分たちのお正月はそれより少し後。でも長崎の人々らは西洋の暦を知っていて、これを「阿蘭陀正月」と呼び関係者は祝っていたのです。( -○_○)/日本ガ太陽暦ニナッタノハ明治5年ノコト▲阿蘭陀正月を楽しむ様子(作者不詳/長崎市立博物館蔵) 「慎んで貴国の新年をお祝い申し上げます」とカピタン(オランダ商館長)へ祝いの言葉を述べる日本人たち。この日、カピタンはお正月の習わしとして、お年玉を使用人へあげたりしています。そうして新年の祝賀ムードが高まる中で、今度は午後からの宴に招待された、カミシモ姿(江戸時代の武士の礼装)の奉行所の役人や阿蘭陀通詞らが次々にやって来ました。新年吉例・阿蘭陀正月の大パーティーの会場はカピタン部屋です。畳み敷きにテーブルとイスが置かれたエキゾチックな空間。テーブルの上には白いナプキンが置かれた皿、そしてフォーク、ナイフ、スプーン、パンがセッティングされています。 ('-'。)(。'-')。ワクワク 客人らが席に着いたらいよいよ宴のはじまりです。まずはワインで乾杯。テーブルにはスープ、牛や豚の油揚げ、野菜のバター煮など珍しい西洋料理が次々に運ばれて来ます。愉快なのは招待された日本人たち。この日の料理の豪華さを知っていて、こっそり料理を包んだり、中には前もって出島の橋の近くに家人を待たせておき、料理を持ち帰らせる者までいたそうです。でもそういうことがきっかけで、市中の人々に西洋料理が広まっていったのでしょうね。 さて、一通りオランダのメニューでもてなされた後は、日本料理と日本酒が出されました。丸山遊女らのお酌を受けながらラッパや太鼓の演奏を楽しむオランダ人や日本人。阿蘭陀正月の宴はなかなか贅沢なものだったようです。(@^¬^)o∀☆∀\(●~▽~●)У Happy New Year!

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  • 第69号【江戸時代のボーナス、かまど銀】

     あと数日でお正月。我が家では毎年この時期、お正月用の餅つきを行います。昔はどこの家でもやっていたらしいのですが、今ではけっこう珍しいようです。子供の頃は餅米を炊いた時に出る蒸気の匂いをかぐと、ああ、もうすぐお正月だとウキウキしたものです。餅をつくのも杵と臼を使っています。一時は家庭用の餅つき器を使っていたのですが、気分が出ないということで復活したのです。狭い玄関先でペッタンペッタンやっていると、ご近所の方がニコニコしながら通りすぎます。どうも我が家の餅つきはご近所では暮れの風物詩になっているようです。 モチ肌だね( ・_・)―――C<―_-)アイタァ さて暮れの風物詩といえば“ボーナス”というものもあります。今回は江戸時代、長崎の町民らがボーナスをもらっていたという話です。当時の長崎には「かしょ(箇所)銀・かまど(竈)銀」といって、外国貿易での利益を庶民に配分する珍しい制度がありました。配分された時期は7月と12月の年に2回。まさに現代のボーナスのようなものだったのです。(゜◇゜江戸時代にボーナス!?▲江戸時代にボーナス!? なぜそのようなシステムが生まれたかというと、17世紀末に長崎の貿易が幕府直営になったことがきっかけでした。それ以前は長崎港では自由貿易が行われており、この時はルールがないので一部の者だけに利潤が傾いたり、銀貨が流出し物価沸騰を招いたり等、さまざまな弊害が起こっていました。かねてより幕府は長崎貿易の利益に目をつけていたので、それらの弊害を理由に長崎貿易を幕府直営にし、大切な財源のひとつにしたのでした。(`_´)シメシメ 幕府直営システムの大元締めとなったのが「長崎会所」です。今でいう貿易会社とお役所の機能がひとつになったようなところで、長崎貿易の利潤は全てここに集まるようになっていました。その利益から、まず幕府への運上金(税金のようなもの)が吸い上げられ、さらに長崎会所の積立や地役人らの給与が差し引かれます。そして残りの中の一部が「かしょ銀」として町内の地主さんたちへ。「かまど銀」として同じく借家人たちへと配分されたのでした。▲長崎会所跡地(長崎市上町) 「かしょ銀・かまど銀」が具体的にどれほど町民の懐を温めたかは詳しくはわかっていませんが、身分制度が厳しい封建社会の中で町民へ利益配分するとは、長崎以外の地域から見ると相当うらやましい話だったようです。(^^)人(^^)モラッテウレシイ、カマド銀 長崎だけがなぜ?と思うでしょうが、それにはちゃんと理由がありました。長崎の町民らはオランダ船や中国船の出入港時に必要な船の提供や、輸入品や幕府への献上品の運搬、そして長崎奉行の交代時などにかかる人夫や馬の費用も前もって決められた町が全額支払うようになっていました。さらに天領だった長崎の町民は「将軍様の民」でもあるので、お互いを傷つけるような喧嘩もろくにできませんでした。そういった長崎独特の閉息感は人々をたいへん窮屈にさせていたと推測できます。そんな中で貿易利益を配分するシステムの「かしょ銀・かまど銀」はみんなを納得させるいい制度だったようです。幕府もなかなか考えたものですね。 さて今回のコラムは今年の最終便です。いつもご愛読いただいてホントにありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。皆さん、どうぞよいお年を!(●^▽^●)ノ※参考文献/「長崎事典」「長崎町人誌・第一巻」(両書とも長崎文献社発行)

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  • 第68号【日本最古の大浦天主堂】

     長崎の観光ポスターによく登場するのが教会のステンドグラス。いかにも西洋チックなその美しさは「異国情緒・長崎」を演出するのにぴったりです。もちろん、その背景に長崎とキリスト教の歴史上の深い関わりがあることはいうまでもありませんが。 \(^-^(*^^* )ゝキレイダネ 現在、日本には戦前に建築された教会が108棟残っていて、そのうち約半分の56棟が長崎県にあるそうです。それらのほとんどは豊臣秀吉のキリシタン禁教令(1587)以来、県下各地で密かに信仰を続けた人々が、明治6年(1873)に信仰の自由を手にしてから建てたものです。その教会の数の多さからからみても、なんとなく近代日本における最初のカトリック教会は長崎にありそうなのですが、実際は禁教がとける少し前の1862年に造られた横浜天主堂が最初だそうです。(ノ_・。)横浜天主堂ハ関東大震災デ焼失シテイマス。 今回、行って来た大浦天主堂(長崎市南山手)は、横浜天主堂の3年後(1865)に完成。現存する日本最古の天主堂で、国宝に指定されています。建設はパリ外国宣教会の神父の指導の下で、日本の大工棟梁が手がけました。ちなみに棟梁の名は小山秀。天草出身で、グラバー邸やオルト邸も施工したといわれている腕利きの職人です。▲ゴシック造りが美しい大浦天主堂(南山手町) 長崎に在住していたフランス人のために建てられたことから当初「フランス寺」とも呼ばれた大浦天主堂。実はその名は正式なものではありません。この天主堂は豊臣秀吉の禁教によって捕縛され長崎の西坂の丘で処刑された日本人20人と外国人6人の殉教者たちに捧げられたもので、落成時に「日本26聖殉教者天主堂」と命名されています。なのに「大浦天主堂」と呼ばれているのは、日本では地名をつけて呼ぶ習慣があったからだそうです。(←_→) フランス“寺“トハ禁教ノ影響? 大浦天主堂の天井はコウモリが羽を広げたような形がいくつも連なっていて、窓はステンドグラスがはめ込まれ上部が尖ったアーチ型をしています。これはいわゆる「ゴシック建築」といわれるものの特徴で、ヨーロッパでは12世紀から16世紀に都市部で建てられた聖堂の様式だそうです。▲堂内を外からパチリ“撮影禁止”の室内に入ると、信者さんたちがお祈りをする長椅子が整然と並べられていて、その脇にクリスマスが近いからでしょう、質素なツリーとキリストが生誕した時の馬小屋の様子を再現した小さなコーナーが設けられていました。チョットハヤイケド(*^^)/ Merry X'mas.。.:*・°☆ さて天主堂完成後間もなくの話です。まだ禁教下にあったにもかかわらず、長崎の浦上地区の信者が大浦天主堂を訪れ、神父に自分がキリシタン信者であることを告げました。250年以上もの間、厳しい禁教下にありながら、この国で信仰の灯火が消えていなかったことに当時のヨーロッパは驚き、そしてたいへん喜びました。なかでも宣教師を派遣していたフランスは祝いのしるしにと、聖母像を贈り届けたほどです。現在、その聖母像は天主堂の入り口で、訪れる人々を静かに見守っています。▲この角度の写真は珍しい?結構、奥行きがあります。

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  • 第67号【野口彌太郎記念美術館(旧長崎英国領事館)】

     長崎市大浦町の海岸通りで、ひときわ異国の風情を醸す建物があります。古いレンガ造り2階建。英国領事館として1908年(明治41)に造られたものです。国の重要文化財になっている現在では「長崎市野口彌太郎記念美術館」として使用されています。m(^o^)ノ 近クニ米・仏ナド各国ノ領事館モアッタラシイ▲長崎市野口彌太郎記念美術館(旧長崎英国領事館) 上海の英国技師エイリアム・コーワンの設計に基づいて、地元長崎の後藤亀太郎という人物が施工にあたったこの建物は、正面から見ると2階部分の両端にまるで目のような造形の丸窓があります。ベランダには2本対の柱が3組あるなど、ちょっと珍しい造りが見られます。この建築はイオニア様式といわれギリシヤ美術上重要な様式なのだそうです。 (“)個性的ナ洋風建築ダヨ 「長崎市野口彌太郎記念美術館」として使用されるようになったのは平成5年から。野口彌太郎の作品(油彩・水彩・パステルなど300点以上)が長崎市に寄贈されたのがきっかけです。▲所蔵品より60点ほどの作品を展示替えを行いながら展示 画家・野口彌太郎(1899~1976)は東京・本郷生まれ。30才でヨーロッパに渡り4年間過ごします。帰国後はヨーロッパで学んだ事をもとに戦後の日本洋画壇を代表する作家として活躍しました。大胆な線と豊かな色彩でのびやかに描かれた彌太郎の絵は、描いているものの本質を的確にとらえ生き生きとしています。その表現方法にはヨーロッパで受けた野獣派(フォービズム)といわれる強烈で赤裸々な精神を尊重しようとする考え方の影響があったようです。(@_@;)生命力ヲ感ジル絵デス! 画伯の父は長崎県諫早市出身で、画伯自身も子供の頃に半年ほど父の郷里で暮らしています。その後、異国情緒あふれる長崎の風景と、素朴で親しみやすい長崎の人々をこよなく愛するようになった画伯は、たびたび訪れその風景を描き、数々の名作を残しました。『長崎のよさは、のんびりした土地とのんびりした気質だと思う。これはいつも長崎駅に降り立った時に風のように感じることである。長崎が特に画材に適している理由は、古い木造洋館が自然と調和した風景美を持っているからである』と画伯は語っています。(⌒▽⌒)大切ニシナキャ▲アトリエを再現した部屋 昭和34年に描かれた「長崎の港」という作品では、茜色の空と港の景色が大胆に描かれていて、今の長崎とはちょっと違う、のんびりとした街の気配が感じられ、懐かしい気分がこみあげてきました。(・◇・)コノ絵ハ館内デ展示中 今、美術館では企画展【21世紀から見た野口芸術~野口彌太郎日本の旅】が行われています(~2002年3月31日迄)。北海道、和歌山、鹿児島、沖縄など日本各地の人や風景がエネルギッシュにたくましく描き出されていて何だか元気が出て来る絵画展ですよ。 さてここで大切なお知らせです。旧英国領事館、「長崎市野口彌太郎記念美術館」の建物は、老朽化で痛みが目立ってきたため来年秋頃には一旦閉館し、改修のための調査・工事が行われる予定です。改修期間は数年かかるそうなので、ぜひその前にお出かけなって、ゆっくり野口芸術と明治後期の洋風建築をご堪能下さい。

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  • 第66号【ボタニカルライフを楽しもう、長崎県亜熱帯植物園】

     日本でかねてよりブームのガーデニング。その本場といえば英国です。でも英国の街や家の庭を飾る植物のほとんどは外来種だということを皆さんはご存じですか?もともと自生植物の少なかったこの国は、18世紀の大航海時代以来、国家的プロジェクトとして植物ハンターといわれる冒険者たちを世界中に派遣し、珍しい植物を集めています。当時、食料や薬、香辛料として利用された植物は、今でいう石油のような戦略物資として重要視されていたのです。(そういえばシーボルトをはじめとする出島商館医師らも日本の植物採集に熱心でした。彼等も植物ハンターといえるかもしれませんね。) 英国ではそうした植物を集めてロンドンに「王立キュー植物園」をつくります。ここは現在も世界最大の植物コレクションとして知られ世界中から植物好きの人々が訪れているのだそうです。(^▽^)行ッテミタ~イ! さて前置きが長くなりましたが、世界中のボタニカル(植物)ファンのためにキュー植物園があるように、長崎には「長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)」という素敵な場所があります。場所は長崎県の南に位置する長崎半島のさらに南端部ある野母崎町。西に五島灘、東に天草や島原半島を望む橘湾と美しい海に囲まれ、そこを流れる対馬暖流により1年を通して温暖な気候で、熱帯や亜熱帯の植物が育つ環境の町です。(@ ̄∇ ̄@)┌自然ガ豊カナ町デス▲長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎) 「長崎県亜熱帯植物園」は山と海の両方を所有する広い敷地を持っていて、その中に、中南米・アフリカ・オーストラリア・東南アジアなど、熱帯・亜熱帯地方の植物が、約2千種3万本も植えられています。園内の路地にはヤシの木やブーゲンビリアなどが植えられていて、南国の雰囲気がたっぷりです。園の中心的建物となる「ビジターセンター」には昆虫や植物、熱帯雨林など自然科学についてわかりやすく説明した展示物コーナーをはじめ海を一望できる展望テラスレストランやショップなどがあり、くつろいで植物について学べる施設になっています。 全面ガラス張の大きな建物「大温室」に入るとそこはまさに密林。小笠原諸島に群生していて、足がタコのように何本もある「タコノキ」とか、アフリカ原産でずんぐりとした容姿が特徴の「バオバブ」、マダガスカル原産で葉っぱが人間2人くらいを包めそうなくらい巨大な「タビビトノキ」など、近所の野山ではけして見られない珍しくて驚きいっぱいの樹木が次々に現れ、気分はもうアマゾンを行く冒険者といった感じ。( ̄ー ̄;) ちょっとオーバー?▲密林のような大きな温室に小さな冒険者発見!? 園内にはさらにランやベゴニアが一年中楽しめる「フラワーガーデン温室」、バナナやコーヒー、パパイヤなど南国の実がなる「果樹温室」など、まだまだいろんな植物がいっぱい。内容も量も植物好きの人にとってはきっと一日では足りないくらいのボリュームです。▲常春のフラワーガーデン温室 敷地内には子供たちが自然を満喫しながらのびのび遊べる施設もあり、親子連れにも好評。また番外編ではありますが、敷地内の海岸は知る人ぞ知る釣りポイントで、わざわざ入園料を払って海岸へ下り、釣りをする人もいるとか。とにかくここは自然大好きという人には見逃せない場所です。 ワ~~イ ~~~(/ ̄▽)/ ~ф"" ""ф~※長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)は2017年閉園いたしました

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  • 第65号【悠久の時にひたる崇福寺】

     もうすぐ師走。家庭でも仕事場でもだんだん気忙しくなっていくのは、皆、心のどこかで残り少ない今年を精一杯過ごさなきゃ!と思うからでしょうか。それにしても昔の人は「師も走り回るほどの忙しさ(=師走)」だなんて、うまいことをいいますよね。 ε=ε=ε=ε=┏( ; ̄▽ ̄)┛ハシレ~ さて今回は長崎観光名所のひとつ「崇福寺(そうふくじ)」へ行って来ました。地元では建物が朱色に塗られていることから「赤寺(あかでら)」とも呼ばれています。場所は以前(11号)ご紹介した寺町界隈の一角にあります。このお寺は、1629年(寛永6年)、長崎在住の中国人らが故郷・福州から僧侶・超然(ちょうねん)を迎え入れて建立したのが始まりです。明の末期~清の初期(17世紀)頃の建築様式は日本では他に類例がないとか。寺の各所に国宝や国の重要文化財があり、見応えたっぷりです。o(^-^)o オタカラ、オタカラ! 崇福寺の目印になっている入り口の赤い三門(山門)は、国の重要文化財。三ケ所の入り口があるので三門と書きます。正面にかかる扁額「聖壽山(しょうじゅさん)」は黄ばく宗の祖・隠元(55号参照)の書です。この門はその華麗な姿から竜宮門とも呼ばれているのですが、たしかに昔、絵本で見た竜宮城によく似た形をしています。▲朱塗りの崇福寺三門(国指定重要文化財) 三門をくぐると、いつもと違う静寂の世界。浦島太郎になったような気分で石段を登ると国宝の「第一峰門(だいいっぽうもん)」が目の前に現れました。赤いその門の軒下をのぞくと複雑かつ美しく木が組まれ、きれいな極彩色の模様が施されています。この門は1696年頃、中国の寧波(ニンポー)で切り組みしたものを唐船で運んで来て建てたといわれています。その独特の建築様式は中国の華南地方にあるもので、日本では唯一、ここでしか見られません。建築には素人の私でも思わずため息がでるほど見事な木組み。さすが国宝!です。(≧∇≦)bオミゴト▲崇福寺第一峰門(国宝) さらに進むとこのお寺の本堂、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」(国宝)があります。お釈迦様を祀ったこの仏殿は1646年に建築されたもの。長崎市内に現存する建造物の中で最も古いのものになります。 崇福寺の中には海上安全を祈願して海の女神・媽姐(まそ)を祀った「媽姐堂」もあります。当時の唐船は、航海の際は媽姐像を奉じ、長崎に着くとその像を唐寺に預けていたそうです。媽姐堂の天井は優しい桃色で線を描いた格子天井。いかにも女神を祀るにふさわしい色合いです。 この唐寺にはちょっとユニークなものも置かれています。直径2mもありそうな大きな釜です。17世紀終わり頃、飢饉に苦しむ人々を救うために、二代目住職が地元の職人に作らせ、お粥を炊いて施したそうです。でもこの大きさでは調理するのも、材料を集めるのも、たいへんだったに違いありません。\(◎◇◎)/五右衛門風呂ヨリ大キイ!?▲1tを越える重さの崇福寺大釜(市指定有形文化財)

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  • 第64号【異国の木綿布】

     長崎の街角にある小さな骨董屋さんにはよく古い木綿布や着物が置いてあります。かつて長崎にはインド更紗(さらさ)、オランダ更紗といわれる洒落た絵柄の木綿布がオランダ船によって運び込まれていました。その頃のものがあるのかどうかは分かりませんが、店内に並べられた古裂(こぎれ)を見ていると、ついつい遠い日のこの町に思いを馳せてしまうから不思議です。(¨)コギレパワー? 江戸時代、オランダ船は木綿の原産国であるインドや東南アジアの島々を経由して長崎に入港していました。経由地で手に入れた木綿の織物は鮮やかな赤が用いられ、その文様も個性的でたいへん美しいものでした。当時の日本では木綿は藍色や茶系統にしか染まらないと思われていたこともあり、大きな驚きをもって人々に迎え入れられたのです。I(o_O)i オォォ。。 この舶来織物は出島に輸入されると、取り引きを円滑に行うために、反物目利(たんものめきき)の役人が、それぞれ布の切れ端を「紅毛持渡端物切本帳」と呼ばれた布の見本帳に張り込みました。そこには千種類にも及ぶ織物があったそうです。▲紅毛持渡端物切本帳(長崎市立博物館蔵) その中で人気があったのが、縞(しま)模様の木綿です。一口に縞模様といっても、たとえば「唐桟(とうざん)」と呼ばれた藍や赤などインド渡りの艶やかな縞模様のものや、「甲比丹(かぴたん)」といって縦糸に絹、横糸に木綿を用い、黄・赤・藍・緑の個性的な縞模様をしたものなど、いろいろ種類があったようです。ちなみにこのストライプ柄を意味する「縞(しま)」という言葉は、インド周辺の島々から渡って来た布、いわゆる「嶋渡り(しまわたり)」の反物に筋柄(縞模様)のものが多かっことに由来したもので、つまり「縞」は「嶋」から来ているのだそうです。 ( ̄□ ̄|||)ソウダッタノカ……▲当時、人気のあった縞柄(長崎市立博物館蔵) 縞模様とはまた違った趣きの「更紗(さらさ)」も人気がありました。インド産の「更紗」は柔らかくて丈夫で保温性にも富み、文様も花鳥、人物、幾何学など、異国情緒にあふれ色鮮やか。日本人だけでなく世界の人々に珍重されたといいます。更紗が日本に持ち込まれたのは、室町末期のポルトガルとの南蛮貿易の頃。「更紗」という名はポルトガル語で木綿布を意味する「saraca」に由来するのだそうです。貿易相手がオランダに変わってもなお、輸入は引き続き行われました。それだけ人気があったのでしょう。▲世界でも人気が高かった更紗(長崎市立博物館蔵)この17世紀から18世紀にかけて輸入された更紗は、今では「古渡更紗(こわたりさらさ)」と呼ばれ、古裂ファンを魅了しています。  |||\( ̄∇ ̄ ) イイヨネェ。。 ところで長崎には『♪あっかとばい♪かなきんばい♪おらんださんから♪もーろーたーとばい♪』という古いわらべ歌があるのですが、この歌詞の中の「かなきん」とは「金巾(かなきん)」と呼ばれたインド産の木綿でした。堅くよった糸で目を細かく織ったもので、オランダ人の服装に用いられていたようです。わらべ唄は「オランダ人に赤い木綿をもらったよ、うれしいな」という意味でしょうか。当時の人々の異国の赤い木綿布に対する憧れが感じられ、いかにも長崎らしい唄だなと思うのです。 (〃⌒ー⌒〃)∫アッカトバイ

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  • 第63号【珍獣さん、いらっしゃい】

     朝晩ずいぶん冷え込むようになった長崎。いよいよ冬のはじまり、はじまりといった感じです。これからは気温が下がる一方。あったかいものを食べて、元気に過ごしましょう!!(^〇^)Vネ! さて今回は、江戸時代に長い船旅を経て日本へやって来た珍獣たちの話しです。17~18世紀にかけてオランダ船や唐船は、珍しい動物をたくさん運んで来ました。珍獣といっても当時の人たちにとっては、そうだったということで、現代人にとっては特に珍しくはありません。たとえばゾウ、ラクダ、ダチョウ、オランウータン、オウム、カナリアなど、今ではよく知られている顔ぶればかりです。⊂^j^⊃ぱお~▲ヒトコブラクダ(長崎市立博物館蔵) そういった動物や鳥たちは当時はたいへんな贅沢品でした。日本では将軍家へ献上されたり、金持ちのペットとされていたようです。また当時は全国を巡る「見世物」という娯楽があり、庶民はそういったものを通して舶来の動物を目にする事ができたようです。現代のようにテレビもなく情報が限られた時代。当時の人々が初めての動物に驚く様子は、現代人の目の前にキングコングが現れるよりずっと大きかったのではないかと想像しちゃいます。(;°ロ°) ナンジャコリャ!? 動物といえば、出島での生活の様子を描いた「長崎阿蘭陀出島之図」(作者不詳)には、オランダ商館員らの日常の姿と同時に、オウム、クジャク、サル、シカ、ウシ、ヤギ、ダチョウ、シチメンチョウなど10種類にも及ぶ動物の姿があります。出島の庭先や通りを我が物顔で歩くいろんな動物たち。オランダ人の食用のための動物もいれば、引き取り手がなくそのまま飼われていたものもいたようです。 出島動物園ト評判!(゜ー、゜)☆\ (≧∇≦)チガ~ウ!▲長崎阿蘭陀出島之図(長崎県立美術博物館蔵) 1728年、唐船が雄雌一対のインドゾウを出島へ運んで来ました。将軍吉宗からの注文だったこのゾウは、船旅が身体を衰弱させたのか雌は長崎で病死し、江戸へは雄のみが連れて行かれます。そこでたいへんな評判を呼び、本や歌舞伎の脚本のモデルにもなったそうです。▲楽隊を組んで象のパレード?阿蘭陀人巡見之図(絵葉書)より 1813年にも雌のインドゾウが一匹、出島にやって来ています。運んで来たのは何とオランダから出島を奪い取ろうという魂胆のイギリス船。オランダ船になりすまして入港したのです。この頃、オランダ本国はフランスに併合されていて、オランダの国旗が掲げられているのは世界で唯一出島だけという難しい情勢でした。ニセのオランダ船はゾウを幕府へ献上したいと申し出ます。しかし幕府は運搬する際の費用や飼育の面倒くささを考えて献上を拒否。イラン ( ・_・)ノ ((( ⊂・j・⊃ (+∠+; )ガ~ン イギリスはゾウを使ってうまく幕府へ取り入ろうとでもしたのでしょうが、思惑ははずれゾウは送り返されてしまいます。実はこの時、イギリス船の事実を知っていたのはオランダ商館長ドゥーフと、一部のオランダ通詞だけでした。ドゥーフはイギリスと独自に話し合いを持ち、何とか幕府に報告せずイギリスを追い返えしたのでした。もしばれたら今後のオランダとの関係に大きなヒビが入ったであろうこの事件。庶民達はそんな話は知るよしもなく、ただゾウを見られなかったことを残念がったそうです。ゾウ見タカッタ (ノ_<。)ヽ(^_^;) ヨシヨシ…

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  • 第62号【コンプラ】

     昔から「芸術の秋」、「読書の秋」なんていいますが、今頃の季節は頭が適度に冴える気温(16℃)に恵まれ、身体にとっても過ごしやすい気候なので、頭と心を使うのにちょうどいいのだそうですよ。(^¬^)私はダンゼン食欲ノ秋 さて今回はコンプラ瓶のお話です。白磁の徳利に肩パットをいれたような独特の形をしたコンプラ瓶は、今もコピー品がたくさん出回るほど人気の骨董品です。その瓶に詰まった面白いエピソードをいくつかご紹介しますね。▲染付コンプラ瓶(長崎市教育委員会蔵) コンプラとはポルトガル語で商人や仲買人を意味するコンプラドール(Comprador)から来た言葉です。江戸時代に出島から外出できないオランダ人らを相手に、さまざまな日用品を売る「コンプラ仲間」と呼ばれる日本の商人たちがいました。1652年に記されたオランダ商館の日誌で、「彼等は高利をむさぼる」と記されているところをみると、なかなかちゃっかり屋の商い人だったようです。そんなコンプラ仲間たちはやがて日本の醤油や酒を海外へ輸出するようになります。その際、容器として使用した瓶がコンプラ瓶と呼ばれていたのです。 ♪コンプラ♪フネフネ♪(^O^)☆\(--;)チガウヨ・・・▲商品入札の図(川原慶賀)この中にコンプラ仲間もいた? その瓶は焼物の産地として有名な波佐見地方で大量につくられ、組織のマークとしてコンプラドールの略語「CPD」と、醤油用には「JAPANSCHZOYA」、酒用には「JAPANSCHZAKY」の文字が入っていました。 長崎港でオランダ船に積まれたたくさんのコンプラ瓶は、まず貿易の中継地点となる東南アジアで一部荷降ろされました。その後、船はインド洋を渡り、喜望峰を回って大西洋を北上。一路ヨーロッパへと向かったのでした。実はこの醤油や酒の海外への輸出が一体いつ頃はじまったのか定かではありません。一説によると元禄時代には既に行われていて、その頃のフランス宮廷料理に日本の醤油が使われていたなんていう話もあります。そんな時代にフランスの国王が醤油を味わっていたなんてちょっと驚きですよね。((~^*)トレビア~ン!▲長崎奉行所(立山役所)趾にはたくさんのコンプラ瓶が埋まっていたらしい ところで文人・井伏鱒二(1898~1993)が長崎を訪れた際、知人からもらったコンプラ瓶について書いた随筆が残っています。『コンプラ醤油瓶』というタイトルのその文章には、ロシアの文豪トルストイ(1828~1910)が書斎でコンプラ瓶を一輪挿しとして使っていたらしいという面白い話が記されていました。井伏鱒二は、トルストイは文人仲間のゴンチャロフからコンプラ瓶をもらったのだろうと推察しています。ゴンチャロフはロシア皇帝の使節プチャーチン提督の秘書として、幕末長崎に来航したことのある人物。彼が長崎で手に入れたコンプラ瓶を土産話ついでにトルストイへあげたと考えても不自然ではありません。 輸出用の容器なので実用性が重視され、けして優美な姿とはいいがたいコンプラ瓶をトルストイはなぜ一輪差しにして書斎に置いたのでしょう。もしかしたら見知らぬ東洋の国、日本に憧れがあったのかもしれませんね。(^▽^)ゞロマンを感じたのかもネ

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  • 第61号【富三郎とグラバー図譜】

     今日で10月も終わり。今年もあと2ヶ月だなんて早いですね。さて今回は、トーマス・グラバー(1838~1911)の息子トミーこと「倉場富三郎(くらばとみさぶろう/英名Tohmas Albert Glover)」のお話です。スコットランド生まれの父グラバーは幕末~明治の日本で活躍し、観光名所グラバー邸の主人としても有名ですが、その息子についてはあまり知られていないようです。(¨)息子がイタンダ…▲倉場富三郎(1870~1945) グラバーが生涯の伴侶とした日本人妻ツル。夫婦の間には長女ハナ、長男富三郎の2人の子供がありました。姉のハナより2才年下の富三郎は明治3年(1870)長崎生まれ。グラバーが32才の時の子供です。若き日を不自由なく育った富三郎は、学習院を卒業後、米ペンシルベニアで生物学を学びます。帰国すると、父の会社から独立した貿易商社ホーム・リンガー商会に就職。それから第二次世界大戦が始まるまで、長崎の実業界の中心的存在として活躍しました。 富三郎の偉業を紹介しましょう。富三郎を重役とするホーム・リンガー社は1907年長崎汽船漁業を設立。富三郎はイギリスから日本初となるトロール船を購入し五島沖で操業を開始します。また遠洋捕鯨も初めて操業するなど水産県長崎の近代化に大きな刺激を与えました。そんな中、富三郎はトロール船から水揚げされるさまざまな魚たちを見てあることを思い付きます。日本近海にすむ魚類の分類学的研究を目指し、魚譜を作ろうと決心したのです。ペンシルベニアで魚譜づくりの要領を学んでいたこともあり、さっそく地元の画家を雇い入れ魚譜の制作にかかりました。 くコ:彡 φ(..)コンナカナ…? 「グラバー図譜」と呼ばれる(正式名称は『日本西部及び南部魚類図譜~Fishes of Southern and Western Japan~』)その魚譜は、明治末から昭和の初めにかけ、約25年もの月日をかけて制作されました。内容は558種の魚を写生したものに、貝類と鯨を含む計823枚の図譜から成っていて、描写が美しく、断面図やウロコの拡大図などが添えられているところが大きな特長だそうです。画家とはいえ科学的な描写は素人だった者に、専門的な視点での作図を教え、自らも長崎魚市場へ出かけ新しい種類を探し、ひとつひとつ仕上げていった図譜。その仕上がりはたいへん素晴らしく、今も日本の四大魚譜のひとつに数えられています。(^ー゜)b Good Job!▲詳細に描かれた「いか」(グラバー図譜より) しかし、第二次大戦が始まると、スコットランド出身の父を持つ彼は憲兵のきびしい監視下におかれました。父グラバーが基礎を創った三菱造船所で戦艦「武蔵」を造る際には、対岸から丸見えになるということで、南山手のグラバー邸からの立ち退きを要求されます。戦争の影響で苦悩の日々を送った富三郎は、たいへん残念なことに終戦直後の1945年8月26日、自ら命を絶ってしまいます。(・o・;;)ソンナ… 時代が違えばグラバーの息子として最後迄幸せな人生を送れたかもしれない富三郎。美しく細かな描写のグラバー図譜のように富三郎も繊細な人物だったのです。戦争と軍国主義の犠牲となった彼の人生の終焉は、悲しさとともに同じ事がニ度とあってはならないと教えてくれます。今、富三郎は坂本国際墓地(長崎市)の一角にある両親のお墓の隣で静かに眠っています。(´人`)トミーよ、安らかに。▲倉場家之墓(手前)右側は父グラバーと母ツルの墓

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  • 第60号【奇習、嫁盗み】

     深まる秋、長崎では街路樹の葉っぱが乾燥してカサカサと音をたてはじまめした。もうしばらくすると紅葉や落葉が始まります。北の方に住んでいる人などはずいぶん遅いなあと思われるでしょうね。(^ー^;南国・九州ダモンネ さて今回は江戸時代の長崎にあった風習「嫁盗み(よめごぬすみ)」についてご紹介します。これは読んで字のごとく、息子の嫁にしたい、もしくは自分の嫁さんにしたいという娘さんがいた時、男性側の親族友人などが相談しあって、お目当ての娘を盗み連れて結婚の盃をさせるという庶民の風習です。何だか野蛮な感じですが、奉行所に訴えられたり、喧嘩になったりということはなかったというから驚きです。(・。・;)無茶苦茶ナ風習ダ▲嫁盗みの図(長崎古今集覧名勝図絵) 「嫁盗み」が庶民の風習として根付いたのにはそれなりの訳があったようです。例えば、貧しくて嫁入りの準備ができない場合、双方の親たちが内々に申し合わせて「嫁盗み」をさせ、盗まれたので嫁入りの準備が何ひとつ出来なかったということで、世間への面目を保ったといいます。また娘さん本人やその両親が結婚を承諾しなかった時にも「嫁盗み」が行われたのですが、この場合は後で仲人をたてて相手の家へ相談に行き、話をまとめたそうです。けして盗みっぱなしということではなく、暗黙のルールがあってそれなりに筋は通したのです。それは盗む時の様子でもわかります。(^^;略奪結婚トハチョト違ウ? 「嫁盗み」を行うのは元気の良い町の若いもん数人。お目当ての娘さんが外出したのを見つけると、用意したカゴにむりやり乗せます。そこで若い衆らは大声で、「○○町の△△という娘を盗んだぞ~」と叫びながら、カゴを担いで男性の家へと逃げるのです。何とも大胆不敵な盗みですが、街角で突然沸き起こったこの騒ぎに周りの人の反応はというと、面白がって見る人はいるものの、驚くようなことは無かったといいます。「嫁盗み」は男性側の意志を表現した一種のデモンストレーション。良くあることで別に珍しくもない光景だったのです。(’_ ’)強引なプロポーズってとこ? さて盗んだほうの男性の家では親類知人の女性陣らが嫁さんになるかもしれない娘を大事にもてなしました。それでも娘の気が進まない場合は、夜の闇にまぎれて逃げ出します。残された男性とその親族友人らは逃げた娘を追うようなことはしませんでした。しかし世間にそのことがばれては面目が立たないと、また別の家の娘さんを盗みに行くはめになったようです。(;´д`)トホホ ところで娘を盗まれたと知った家はどうしたのかというと、「取り戻し」といって、町内の古老人ら数人の男たちが口利きとして、すぐに盗んだ方へ押しかけました。しかし取り戻しに行った男たちもそこでお酒を出され、いろいろサービスを受け、買収されるというのがほとんどだったそうです。┐(´ー`)┌ アラアラ 「嫁盗み」に似た風習は、昔は全国の各地にあったそうです。ままならぬことを実現させるために「盗む」という形をとりながらも、世間体や周囲の人々との関係を良好に保とうする姿が垣間見られる、実にユニークな風習ですね。▲長崎の風俗・景勝を記す貴重な史料「長崎古今集覧名勝図絵」

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