第74号【長崎のチャイナタウン、新地】
いよいよ来週12日から「長崎ランタンフェスティバル」が始まります。今や長崎の冬の風物詩として全国的にも知れ渡るようになったこのお祭り。昨年もコラムに取り上げたので、読者の方々はよくご存じのことと思います。実際に出かけ、楽しまれた方も多いのではないでしょうか?(^〇^)イカガデシタカ? 今回は中国由来のこの祭にちなんで「新地」の歴史についてご紹介します。ここは言わずと知れた横浜、神戸と並ぶ日本三大チャイナタウンのひとつで、「新地中華街」と呼ばれ親しまれています。この中華街は明治初期の埋め立てによって造られたものですが、それ以前の江戸時代は中国からの荷物を収納する倉庫地として使われていて、もともとは出島と同じく長崎港の一部を埋め立てて造った人工島だったのです。▲朱塗りの鮮やかな新地中華門 元禄15年(1702)に造成された人工島「新地」は、その名の通り新しくできた土地を意味します。当時の地図には扇形をした出島の近くに、明らかに人工のものと思われる長方形に突き出した土地を見ることができます。総坪数は約3500坪。唐船が運んで来た貨物を入れる土蔵が当初12棟60戸も設けられたそうです。オランダとの貿易が行われていた出島のすぐ近くで、中国との貿易も盛んに行われていたのですね。(・・ )フム、新地ハ中国版出島!? その新地が造られたきっかけは、元禄11年春に起きた長崎での大火でした。この火事は長崎港周辺にあった約22の町々を延焼し、人家2044戸、土蔵33棟を焼失するという大きな被害をもたらしました。中でも中国からの荷物を収納していた土蔵の被害はひどく、唐船約20隻分の荷物を焼きつくしたといいます。そこで火災とさらに盗難や密貿易を防ぐために、唐人屋敷にもほど近い現在の場所に新地が造成されたのでした。 以来、中国からの船が入港すると新地沖に停泊。はしけで新地へ荷物が運び込まれました。中国人らも必ず新地に上陸し、手回り品だけを持って寝泊まりする唐人屋敷へ移動したそうです。新地のそういった歴史的経緯の名残りとして現在、新地中華街のちょうど真ん中あたりに「新地蔵跡」という石碑が建てられています。(・・;)当時ノ名残リハコレダケ?…。▲新地蔵跡の石碑 鎖国が解かれた明治以降、唐人屋敷を出た中国人らは新地に居住し商売を始めるようになります。そうして今の中華街へと発展していったのです。ところで中国の船が盛んに来航し長崎の市中に中国人が増えはじめたのは、元亀元年(1570)の長崎開港以来だそうで、長崎は日本で最初に華僑社会が形成されたところといわれています。つまりその発端をたどれば400年以上も前にさかのぼり日本最古の歴史を誇るチャイナタウンともいえるわけですね。 知人に「日本で中国大陸との心情的な近さや歴史的なつながりの濃さを最も感じるのは長崎だ」という人がいました。確かに長崎を見てみると町には建造物や祭りなど、いろんな中国が当たり前の顔をしてたくさん混在しています。私などは、もしかして新地中華街はチャイナタウンのほんの一部で実は長崎全体がチャイナタウンじゃないのかなという気もしたりしています。【``】ペーロンモ龍踊リモ中国発。▲祭りの準備が進む中華街※参考資料/原田博ニ著「図説・長崎歴史散歩」、外山幹夫著「図説・長崎県の歴史」
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