第80号【医学伝習所とポンペの功績】

 先週ご紹介した「長崎海軍伝習所」は、海軍だけでなく造船、重機械工業など、幕末の技術推進の中核として幅広い分野に影響を与えました。今回ご紹介する「医学伝習所」も「長崎海軍伝習所」がらみで生まれたものです。近代医学の発展に大きな功績を残したといわれる「医学伝習所」とはどんなところで、その初代医官として活躍したポンペとはどんな人だったのでしょう。



▲ポンペのレリーフ

(長崎大学医学部内)


 幕府は長崎海軍伝習所のためにオランダ海軍に軍医の派遣を要請しました。そして1857年、軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトが来日します。ポンペはオランダのユトレヒト大学で医学を学んだ若干28才の若者。卒業と同時にオランダ海軍の軍医となった彼はオランダ領東インドを経て日本の海軍伝習所へ。それから5年間を長崎で過ごしています。


 「医学伝習所」は海軍伝習所があった長崎奉行所内に設けられ、そこで西洋医学の講義が行われました。実はこの医学伝習所こそ長崎大学医学部の前身で、ポンペは我が国における「近代西洋医学教育の父」と呼ばれることになります。ちなみに長崎大学医学部では、ポンペが最初の講議を行った11月12日を創立記念日にしています。 ( ̄▽ ̄;) 偉大ナ人ナンダ…。



▲医学伝習所跡(長崎市万才町)

本木昌造宅跡が隣にありました。


 ポンペ来日の翌年、コレラが流行り多数の死者が出ました。この時ポンペは大勢の患者の治療にあたる中で、民衆の為の病院設立を熱望するようになります。そして1861年、長崎港を見下ろす小島(現:長崎市西小島)の丘に日本初の近代的な病院といわれる「小島養生所」さらに翌年にはその隣に「医学所」が新設されました。ポンペは医学所でも引き続き内科・外科の講義を行ったそうです。その後、この医学所は何度かの名称変更を経て、浦上地区へ移設。現在の長崎大学医学部・付属病院へと発展していくことになります。



▲小島養生所跡

(現:長崎市立佐古小学校)


 余談ですが、ポンペは日本初の営業写真家で知られる上野彦馬とも交流がありました。彦馬は医学伝習所の生徒としてポンペに化学を教わっていたのです。ある日、彦馬は蘭書で見た「フォトガラヒー」という言葉の意味についてポンペに質問します。その事がきっかけで彦馬は写真への道を歩みはじめたのだそうです。(°◇°)ポンペハ彦馬ノ先生ダッタ!


 貧しい人は無料で診察し、身分や国籍による差別もなかったといわれるポンペ。その医療に対する真摯な姿勢を垣間見る言葉が残されています。『医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい』。(・▽・)感動的ナ教エデスネ

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