第78号【忠臣蔵・長崎版 「長崎喧嘩騒動」】

 ランタンフェスティバルも終え、春も間近。暖かな日差しが待ち遠しいですね。さて今回は『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたといわれる、長崎でのあだ討ち話をご紹介します。「長崎喧嘩騒動」、「深掘騒動」などといわれるこの事件が起きたのは、1700年12月。浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶわずか3ヶ月前のことです。忠臣蔵とは異なり町人と武家の間で起きた「長崎喧嘩騒動」は、士農工商の厳しい時代にありながら、長崎の町人らがいかに力を持っていたかを伺わせる話です。( ̄^ ̄)エッヘン


 「長崎喧嘩騒動」の詳細はこうです。大雪だったその日、諏訪神社で用事を済ませて帰路についた熟年の藩士2名の姿がありました。滑りやすい雪解けの道に1人は69才の高齢だったこともあり竹の杖をついています。2人は長崎近郊に領土を構える深掘氏の家臣。深掘氏は当時は佐賀藩に属しその家老を務める由緒正しい武家で、長崎の五島町(長崎港近く)にも屋敷を構えていました。この藩士らはその屋敷へもどる途中だったのです。


 2人が五島町の屋敷に近い「天満坂」と呼ばれる石段(現:興善町)を下った時でした。杖をついていた藩士がつまずいて倒れ、その時はねあがた泥が、たまたま通りかかった長崎の町年寄り・高木彦右衛門貞親(たかぎひこえもんさだちか)の使用人にかかってしまいました。(><)アチャー



▲長崎喧嘩騒動の発端となった

石段「天満坂」(興善町)


 高木彦右衛門貞親とは唐蘭貿易において幕府直轄の役人を命ぜられ、「権勢並ぶものなし」とまで言われた有力町人。泥をはねられた使用人風情の男は、主人の威光を笠に藩士らに文句をつけ出します。藩士らは丁寧に頭を下げ、その場は収めたのですが、なんとその日の夕方、泥をかけられた者をはじめとする高木家の使用人ら約20名が五島町の深掘屋敷に押しかけ、乱暴・狼藉の上、石段で出会った2人の藩士の刀を奪い去ったのでした。(゛)エエッ、町人ガ武士ニ!!



▲近づいて見ると確かに

つまづきそうですね。


 刀は武士の魂。大きな恥辱を受けた2人は、話を聞き集まった深掘の仲間ら19名と共に翌早朝、高木邸に討ち入りします。討ち入りはご法度、死を覚悟してのことでした。高木家の多くの使用人の中には腕自慢の強者もいたと思いますが、2人は見事に本懐を遂げ、その誇りを胸にそれぞれ別の場所で切腹して果てたそうです。


 事件はすぐに通報され、長崎奉行所は幕府にも伺いをたてました。結局、両者とも死罪、追放、島流しなどの重い処分を受けます。しかし、高木氏を優遇していた幕府は事件後はなぜか終始、武士である深掘氏側に好意的だったそうです。また町民らは前々から高木氏の使用人らの横柄な態度に反感を持っていたので同情する者はいなかったそうです。



▲石段を登ると裁判所があって

何だか因縁めいている?


 赤穂浪士らが討ち入りの参考にしたとも言われている「長崎喧嘩騒動」。あなたはどう思われましたか? ( ̄~ ̄;)ウーン……

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