第79号【造船の町のきっかけをつくった「長崎海軍伝習所」】

 ほんの数十年前、長崎は造船の町として大いに栄えた時期がありました。現在、昔のような勢いはないものの、造船業が長崎の大切な産業のひとつであることに変わりはありません。観光で訪れた人々はグラバー園から見渡す港の景色の一角に造船所の大きなドッグを見て、ここが造船の町だということを再認識する方も多いのではないでしょうか。(・〇・)大キナ造船所ダナア



▲グラバー園から臨む長崎港


 ところで長崎が造船の町となったきっかけは何だったのでしょう。その理由をたどっていくと「長崎海軍伝習所」という幕末に生まれた組織の存在がありました。「長崎海軍伝習所」は、幕府が洋式海軍の創立や軍艦の購入、そして人材を養成するために1855年(安政2)に設立したものです。これはアメリカのペリーが浦賀に来航した2年後のことでした。


 ペリー来航で黒船の威力にあわてた幕府は新たな防衛策のため、オランダ商館長に軍艦についての相談をもちかけ、いきなり7~8隻の軍艦を注文したといいます。


しかし、すぐには無理だということで、蒸気艦「スンビン号」(のちの観光丸)を一隻幕府へ寄贈、しかもオランダ海軍から、教官約20名も一緒に派遣してくれたのでした。(¨)長イ付キ合イダモンネ。


 こうして「長崎海軍伝習所」は長崎奉行所内(場所は現在の長崎県庁)に教室が設けられました。伝習生たちは幕臣を中心に、長崎の地役人をはじめ佐賀、福岡、鹿児島の各藩から送り込まれ、総勢100人を超えたそうです。そしてこの中には艦長要員として幕府から派遣されていた勝麟太郎(かつりんたろう/のちの勝海舟)もいたのでした。(^^)勝サン32歳頃デス



▲長崎県庁。ここに

海軍伝習所はあった。


 伝習所の授業は日曜日を除き毎朝8時~12時、午後は1時~4時迄びっしり。内容は航海・機関・砲術・数学などで、先生はオランダ人ですから、通訳を介して行われました。生徒らでオランダ語ができるのはわずか。しかも講義中の筆記は許されなかったので、相当な集中力を持って挑まなければならなかったようです。余談ですが、勝はオランダ語がよく出来たので、通訳代わりを努めることもあったそうです。周囲からは「カツリン(勝麟)さん」と呼ばれ親しまれていたとか。


 さて、開所から2年後(安政4年)、オランダに発注していた軍艦ヤパン号(のちの咸臨丸)が新たな教官たちを乗せてやって来ます。さらに、軍艦の修理を行うため、造船所「長崎熔鉄所」(のちの長崎製鉄所)の建設も長崎港で始まり、伝習所は順調に基盤を固めつつありました。しかし安政6年(1859)、幕府の方針変更があり、伝習所は突如、閉鎖されてしまいます。( ̄□ ̄;)ガーン!



▲飽の浦町にある

長崎製鉄所跡の碑


 とてもあっけない長崎海軍伝習所の幕切れでしたが、その2年前から建設中だった長崎熔鉄所の建設は継続され、文久元年(1861)に落成しました。後に民間に払い下げられますが、この造船所こそが日本の重工業の起源で、造船の町・長崎のスタートだったのです。長崎海軍伝習所はわずか数年で閉鎖されましたが、地元にとても大きな産業を残したのでした。

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