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  • 第89号【日本初の鉄橋・くろがね橋】

    先日東京へ出かけた際、隅田川の水上バスに乗りました。 隅田川には勝鬨橋(かちどきばし)、佃大橋(つくだおおはし)、永代橋(えいだいばし)など、 新旧合わせて30余りの橋があります。 大きくて個性的なその橋群の下をくぐりながら思い浮かべたのは、長崎の中島川のことです。 大都会の大きな川と地方都市の小さな川。両極端な存在ですが、違う景色を結び、 人や物の流れを生む「橋」そのものの機能は当然ながら同じで、 橋はその土地柄に応じた表情をするものなんだなとあらためて感じました。 (・・)/水上バスハ、爽快デス! さて話の舞台は長崎・中島川へ。川沿いに民家が軒を連ね和やかな雰囲気が漂っています。 有名な眼鏡橋を中心とした石橋群のあたりは相変わらず観光客の姿が後を絶ちません。 その石橋群からちょっと下った所に今回ご紹介する「くろがね橋」はあります。▲くろがね橋全景 くろがね橋は繁華街・浜町商店街の入り口にあるため、一般市民から観光客までとにかく人通りの多いのが特長です。 今でこそ鉄筋コンクリートの橋ですが、明治元年(1868)に造られた当初は鉄製でした。しかも日本で最初の鉄橋 だったのです。ですから名前も「くろがね=鉄」というわけです。 (^▽^)「テツバシ」トモ呼バレテマス▲当初、橋の両端にあった石柱(現在のくろがね橋のたもと) 鉄でつくられる以前は木の橋がかけられ「大橋」と呼ばれていたそうです。 当時中島川はまとまった雨が降るとよく洪水をおこし、その度にこの「大橋」 を初め多くの橋が流されたといいます。慶応3年(1867)の洪水でまたもや大破 した際に、街の中心部で繁華街に通じるこの「大橋」は堅牢なものにしよう、 ということで鉄橋の建設が決まったのでした。 くろがね橋はオランダ人の技師が設計し、本木昌造らによってかけられまし た。本木昌造といえば「近代印刷の祖」として知られる人物です。なんと当時、 彼は橋の建設にあたった長崎製鉄所の頭取だったのです。そして長崎製鉄所と いえば「軍艦」の修理のため幕末に海軍伝習所がらみで生まれた施設です。こ の長崎製鉄所がなかったら、長崎に日本初の鉄橋は誕生しなかったかもしれま せんね。 ヽ《``》イロイロ、ツナガッテマス▲浜町アーケード入り口から見た「くろがね橋」(向こう側は「築町」) ところで「大橋」から「くろがね橋」にかけかえられた時期は、徳川幕府が 崩壊し、王政復古となった時でした。最後の長崎奉行となった河津伊豆守祐邦 (かわづいずのかみすけくに)は「大橋」が壊れた年(慶応3年)の夏に長崎に 着任し、翌年(明治元年)の正月には江戸へ帰っています。 最後の長崎奉行が去った同年まもなく、新しい時代を象徴するかのように生 まれたくろがね橋。激動の時代を目にした当初の姿から、鉄筋コンクリートに かけかえられたのは昭和6年(1937)のことでした。さらに現在の姿にかけかえ られたのは平成2年(1990)のことです。浜町あたりへ出かけると、必ず渡る 「くろがね橋」。普段は何げに渡っていた橋ですが、歴史を知ってその姿がよ り鮮明に見えてくるようです。(‘’)人ニ歴史アリ、橋ニモ…。※参考にした本/「長崎県文化百選~事始め編~」(長崎新聞社)「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)

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  • 第88号【時代の要請で生まれた英語伝習所】

     最近、英語を勉強している人がますます増えているようです。旅行やインターネットなど国境を越えた交流の機会が増えたからでしょう。ちなみにインターネットの世界で使用されている言語の約80%は英語で、日本語はわずか1%くらいだとか。それにしても日本人はいつから英語を学ぶようになったのでしょう。そのひとつの答えのようなものが長崎にありました。(◎◇◎)Can you speak English? 時代は開国と倒幕の動きに世の中が揺れはじめた幕末。ペリー来航(1853)後、 長崎港にもロシアやイギリスなどの諸外国の船が通商を求めて入港するようになっていました。それまで中国語とオランダ語だけで間に合っていましたが、幕府は英語、フランス語、ロシア語の必要性を感じ、1857年長崎奉行所の西役所(現:長崎県庁)に「語学伝習所」を設けました。特に英語は世界の通用語として重要視され、「語学伝習所」は翌年には奉行支配組頭の永持享次郎宅(現:立山町)に移り「英語伝習所」と改称。これが日本における系統的な英語教育の最初となったのでした。▲英語伝習所碑(立山町:県立美術博物館前) 「英語伝習所」の教師にはオランダ人やイギリス人が雇われ、オランダ通詞や唐通詞、そして地役人の子など一般の有志たちが学びました。当時の授業風景を知る史料は見つけられませんでしたが、きっとチョンマゲ姿の若者たちは英語の文字の上にカナで読み方を入れ、何度も発音しながら学んだに違いありません。(‘▽’)アイ・シンク・ソォ 英語伝習所はその後、「語学所」、「洋学所」、「済美館」など何度も名称変更・移転が行われます。幕末を経て明治に入ると長崎府の管轄となって「広運館(こううんかん)」と改称。後に文部省の管轄となったこの「広運館」は西日本における洋学教育の中心だったそうです。その間、宣教師フルベッキが英語の教鞭に立ち、のちの総理大臣・西園寺公望、大隈重信や副島種臣などもここで学ぶなど、明治維新後活躍する人々が大勢やって来ています。▲西園寺公望が広運館に通った時の仮住まい跡(玉園町) 「広運館」は、さらに改称・移転が続き「長崎外国語学校」となっていた明治19年には「公立長崎商業学校」に合併されました。ちなみにこの商業学校は現在、高校野球の古豪として有名な「長崎市立長崎商業高等学校」の前身です。(^^)みろくやスタッフには同校出身者多数! 「英語伝習所」の、特に幕末から明治期の短い期間に相次いだ改称・移転は、サムライの時代が終わり、世の中が急激に変ぼうしていくスピード感のようなものが感じられます。ところで“伝習所“といえば「海軍伝習所」、「医学伝習所」なども長崎にはありましたが、いずれも幕末に洋学を学ぶための公の機関です。まもなく明治維新を迎え近代教育が始まろうとする時、これらの“伝習所“は日本の近代教育の礎であり、準備期間だったといえるのかもしれません。(・・)ナルホド…。※参考にした本/「長崎県文化百選~事始め編~」(長崎新聞社)「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)

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  • 第87号【唐船が運んで来た、けん玉】

     ゴールデンウイークはいかがでしたか? 前半は晴れ、後半は雨だった長崎ですが、お天気に関わらず観光スポットは様々なイベントが行われ大勢の人出で賑わいました。長崎港での「帆船まつり」や「はさみ陶器まつり」(東彼杵郡波佐見町)などこの時期、恒例のお祭りも大盛況。長崎市民は近場で賢く楽しんでいたようです。(^〇^)! さて今回のテーマ・けん玉は、昔懐かしい玩具の代表的な存在ですが、誰もが一度は手に取って遊んだ記憶があるのではないでしょうか。私の場合は、左右にある大小の皿には何とか玉を乗せられましたが、細いけん先に入れることがどうしても出来ませんでした。玉を自由に操り、得意げになっている男の子をうらやましく思ったものです。▲なつかしいけん玉 ところで、そのけん玉を日本古来の玩具だと思っている方はいませんか? どうやらそれが間違いで、日本のけん玉は1777年(安永6)頃、唐船によって長崎に伝えられたのが最初ではないかといわれています。当時のけん玉は1830年刊の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』という本によると、糸でつながったボールを引き上げて、おチョコのようなくぼみに乗せたり、けん先で受けたりして遊ぶもので、うまく出来ない者には酒を飲ませた、というようなことが記されているそうです。(〃∀〃)~● 今でこそけん玉は子供の玩具というイメージがありますが、当初は大人の酒の席のものだったようですね。けん玉が長崎に伝えられたという年は唐船がたくさん入港したそうで、丸山あたりで唐人さんらがお酒を飲む時、けん玉を持ち込んで遊んだことが、全国に広がるきっかけになったのではという説もあるようです。▲復元された唐船飛帆(フェイファン) 日本へ伝わったけん玉。そのルーツをたどるとヨーロッパの「カップアンドボール」という遊びがベースになっていることが分かりました。「カップアンドボール」はコーヒーカップのような「カップ」と、糸をまいて作ったような「ボール」を糸で結んだもので、そのボールをカップに受け入れて遊ぶものです。ヨーロッパでは17世紀初め頃、大流行したそうです。 日本で大人の遊び道具から子供たちのそれへと変わったのは明治になってからでした。「カップアンドボール」は、当時の文部省が翻訳したイギリスの子女教養書「童女筌(どうじょせん)」の中でも「盃及ヒ球」と訳され紹介されているそうです。そして大正初期になると、けんのようなの棒に太鼓型のものを横に刺して十字に組み合わせた、いわゆる私たちが現在けん玉と呼んでいる型が登場します。それは「日月ボール(にちげつぼーる)」の名で売り出され、昭和初期まで子供達の人気を集めたそうです。 現在、スポーツ感覚で楽しまれているけん玉は、技がたくさんあり、奥深い遊技として子供から大人まで愛好家の方も増えているとか。どうやらけん玉は古くて新しい玩具のようです。●~\(“)選手権大会もあるんだって※参考にした本/「長崎県文化百選~事始め編~」(発行/長崎新聞社)

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  • 第86号【日時計と林子平】

     GW真っ只中、いかがお過ごしですか? 今回は出島にある日時計にまつわるお話です。太陽の動きと共に変化する陰の位置で時間を計る日時計。私達が小学生の時に習ったそのシンプルな仕組は、人類が手にした最古の科学装置といわれているそうで、歴史は紀元前1500年までさかのぼるのだそうです。(‘○‘)相当、古イナア 現在、復元工事が進められている出島内には、すでに復元を終え、史料館として利用されている石倉があります。そこには江戸時代の貿易の様々な資料や遺物が展示されていますが、その中に漬け物石にでもなりそうなほどドッシリとした長方形の石が展示されています。これは我が国初といわれる石造りの日時計で、18世紀、出島内の庭園にオランダ商館長が作らせたものです。▲出島にあった日時計唐蘭館絵巻(川原慶賀筆)より(長崎市立博物館蔵) まるで大きな碁盤を想わせる出島の日時計。その表面をよーく見ると、放射状の線が何本も刻まれてあり、時を知らせる日陰棒を立てる穴も空いています。この日時計を作らせた商館長は1766年に出島に赴任したヘルマン・ クリスチャン・カステンスという人ですが、なぜ作らせたのかは分かっていません。この頃、商館長などは機械仕掛けの時計をすでに持っていましたので、庭で作業をする使用人に時を知らせるため?とか、出島の庭を知的に装飾するため?などいろいろ想像がふくらみます。> ┐(゛)┌時間ニ厳シイ人ダッタ?▲日時計がおかれた出島の庭 日本初の出島の日時計。実はそれを模写して作られたものが長崎から遠く離れた宮城県塩竈市の塩竈神社の境内にあります。模写したのは江戸時代の思想家、林子平(はやし しへい/1738~1793)です。子平はもともとは江戸生まれですが、縁あって仙台藩へ仕えました。割合、自由の身であった彼は、たびたび江戸や長崎に遊学。長崎では蘭学者らと親交を持ち、旺盛な知識欲が赴くままに世界地図や地理書を写したそうです。そういう中で子平は出島の庭に設けられた日時計を知り、興味をもったのかもしれません。子平はそれを模写し、仙台へ持ち帰って作ります。そしてそれは後に塩竈神社へ奉納されたのでした。▲日本初の日時計が展示されている石倉(出島史料館分館) 子平は長崎遊学で得た知識をなどをもとに「海国兵談(かいこくへいだん)」という日本全体の国防を説いた著書を出しますが、鎖国中の当時としては世を惑わす思想ととらえられ、幕府に弾圧を受けます。その後、不遇の内に56才で病死しますが、亡くなる直前まで海外へ目を開かぬ幕府に対し、悔しい思いを募らせていたといいます。子平の警告は、まもなく現実となり、幕府は開国を迫る諸外国との交渉に頭を悩ます日々が続くことになります。(・・)ペリーによる開港は1854年のこと かの塩竈神社は学問の府として知られる神社です。子平が模写した日時計は、海外から広く知識を求めた彼の形見であると同時に、大切な事は時を越えて語り継がれていくものであることを教えてくれるようです。

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  • 第85号【初夏の果実・茂木(もぎ)ビワ】

     小さな電球を思わせるやさしいフォルムと、太陽のような色、そしてなによりジューシーなおいしさがたまらない「ビワ」。初夏の味覚として知られるこの果物が長崎で出回るのは、5月中旬から梅雨入り前のわずか3週間ほど。もっともこれは路地ものの場合で、ハウス栽培の早いものでは2月頃から出回っています。▲出荷を待つばかりのビワ ビワといえば子供の頃、近所の庭先に実ったのをこっそり食べ、叱られた事があります。温暖な気候を好むビワを長崎では庭木として育てている家も少なくありません。毎日の食生活にまだ「旬」を楽しむ雰囲気が残っていたその頃、我が家にはビワの木がなかったので、毎年のようにご近所からいただき、「今年もうまかね~」なんて言いながら食したものでした。(^〇^)ビワ、ダイスキ! じつは長崎県はビワの生産量日本一で、とくに「茂木ビワ」は全国的にも有名です。この「茂木ビワ」は江戸時代末期、唐船が長崎にもたらしたといわれています。▲橘湾を臨む茂木の山々当時、長崎の代官の家に奉公していた茂木村の三浦シオという女性が、唐通詞からその種をもらいうけ、自宅の庭に蒔き、成長したものが現在の「茂木ビワ」の原木なのだそうです。このビワは現在「茂木」という品種名がつけられ、全国各地で栽培されています。 その茂木ビワ発祥の地は、長崎駅から車で30分ほどのところにあります。美しい橘湾を見おろす海沿いにあるこの地域は、陽光がまんべんなく当たる山の斜面のほとんどがビワ畑になっています。ビワの木は、実を雨風から守るために袋がけが施され、ちょっと遠めだとそれは白いモクレンの花にも見えます。(“)キレイデス▲袋がけが施されたビワの木々 ビワ畑の続くせまい道路で小さなトラックに出会いました。ハウス栽培で収穫したビワを積んでいたのですが、歩いた方が速いくらいノロノロ運転。聞けば、ビワはとてもデリケートなので、輸送の振動で痛めないためにそうしていたのでした。美しい自然の中、減農薬で手間ひまかけて栽培されているビワ。収穫・出荷も大切に扱われて店頭へ並びます。他の果物に比べて値段がちょっと高い理由はその辺にあるのかもしれません。 価格のこともあってか一般的にビワは、ちょっと高級な果物というイメージがあります。実際、お客様用とか、贈答品、お見舞品などとして購入する人が多いそうです。長崎もそういう傾向は確かにありますが、旬ともなれば外観はちょっとぶこつでも安くておいしいものがけっこう出回ります。ご近所からいただいたり、差し上げたりすることが少なくなったこの頃では、もっぱら“ふぞろいのビワたち“を求めて近所の果物屋さんをこまめにのぞくことになります。これはこれでけっこう楽しいものです。(^^)ゞハイ

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  • 第84号【長崎ことはじめ(チューリップ&クローバー)】

     例年より早く訪れた春に、県下各地の入学式では満開の桜は既になく、まだ芽吹いたばかりのさわやかな新緑が新入生たちを出迎えてくれました。日増しに温かくなるこの時期、アスファルトやコンクリートが施されていない狭い路地や石垣、そして空き地などは、小さな草花たちの初々しい姿でいっぱいです。そんな素朴でありふれた“草ボウボウ“の風景も、自然のたくましさや美しさが感じられ、気持ちのいいものですよね。((o(^◇^)o))元気ガデル感ジ! そんな春から夏にかけての雑草の風景の中に必ずあるのがクローバー(Clover)です。クローバーといえば小学生の頃、幸運のシンボルといわれる「四葉」を必死になって探した経験があります。やっと見つけたのにいつの間にか忘れ、何年も経ってから辞書の間から出て来た、なんて経験のある方も多いのではないでしょうか。▲四つ葉は探せませんでした。クローバー(和名/白詰草) 以前、このコラムでクローバーはオランダ船がガラス製品を長崎港に運ぶ際、輸送時の衝撃から守るためクッション代わりに使ったという話をしたことがあります。だから和名が「シロツメクサ(白詰草)」というのだと。江戸時代にはるばる日本に渡って来たクローバーの原産はヨーロッパで、そこでは四葉は新郎新婦の祝福に使われ、三葉はキリスト教の三位一体の象徴とされるなど、とても神聖なものとされているようです。日本人の私たちにとってクローバーはとても身近な植物だけに渡来種という事実は意外ですよね。 さて今が盛りの花、チューリップ(Tulip)も、クローバーと同じくオランダ船で長崎に運び込まれたのが日本での最初だといわれています。原産は地中海沿岸、中央アジア。語源はトルコ人が頭に巻く「Tulipant(ターバン)」だそうです。確かに形がよく似ていますよね。(⌒^⌒)b ナルホド▲庭先に可愛く咲いたチューリップ チューリップがトルコからヨーロッパに伝えられたのは16世紀の頃だそうで、その後オランダを中心に盛んに品種改良が行われ、17世紀になるとイギリスやフランスなどにも普及しました。この頃からチューリップはヨーロッパで異常なほどの人気を集め、盛んに投機売買されるようになります。これがいわゆる「チューリップ狂時代」です。当時の記録に、高値の球根1個とビール工場が交換されたという話が残っているそうです。まさに常軌を逸した話ですね。 チューリップの生産量が増えて、庶民にも気軽に手が届くようになったのは19世紀に入ってからだそうです。オランダ船が出島へ運んだのが18世紀(1720年)頃だといわれているので、まだまだ貴重な時代に日本へやって来たのだということがわかります。(・・)/日本デノ本格的ナ栽培ハ大正時代カラ 今では日本でも春の花としてたいへんポピュラーなチューリップ。童話の世界にもちょくちょく登場するからでしょうか、小さい子供が描く花もなぜかチューリップが多いような気がします。また愛らしいその姿は見ているだけで幸せな気分にしてくれますよね。縁あって大海原を旅し日本にやって来たクローバーとチューリップ。日本の春を美しく彩ってくれるこの植物たちに心から感謝します。

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  • 第83号【桜と歴史の城下町・大村】

     長崎空港に降り立つと、ほとんどの人が空港からリムジンバスに乗り込み、長崎や佐世保、諫早といったそれぞれの目的地へ向かいます。ですからバスに乗る人にとって空港のある街・大村市がどんな所なのか知らない人が多いのではないでしょうか。 大村市の人口は約8万7千人。波静かな大村湾に面し、背後をなだらかな山々に囲まれたのどかな土地で、江戸時代は代々大村氏を藩主に栄えた城下町でした。歴史の教科書にもある日本初のキリシタン大名・大村純忠はこの大村家の18代目の当主です。(・_・)/純忠ニツイテハ別ノ機会ニ… 大村の名所を訪ねてみました。まずは長崎県内でも屈指の桜の名所といわれる「大村公園」へ。例年ならこれから満開という時期でしたが今年は早くも散りはじめていました。でも園内は春休みとあって花見客でいっぱいです。大村公園には国指定の天然記念物「オオムラザクラ」をはじめ約2000本の桜の木があるそうです。▲約2000本の桜がある大村公園 この公園は第19代大村家当主で、初代の大村藩主になった大村喜前(よしあき)が1599年築城した玖島城(くしまじょう)跡を中心に作られていて、現在、城は残っていませんが、城を囲む石垣はほとんど往時のまま残されています。桜の花びらが舞う中を年期の入った石垣を眺めながら歩くと、今にもお侍さんが出てきそうです。玖島城は幕末までの270年間も大村氏の居城でした。公園となった今では、春から初夏にかけてサクラ、ツツジ、ハナショウブ、サツキ、アジサイなどが咲き誇る花の名所として、市民の憩いの場になっています。(^_^)/ツツジは長崎県ノ県花デス。 お城のあった大村公園から20分ほど歩いたところに旧武家屋敷街があります。閑静な雰囲気が漂うこの一帯には、石垣が続く通りや当時の家老の屋敷跡などが残され往時が偲ばれます。緑も多くのんびり散歩するのにちょうどいい街並です。その武家屋敷の一角にある旧楠本正隆邸へ行ってみました。楠本正隆は幕末の大村藩士の一人で、明治維新後、東京府知事や衆議院議長を務めた人物です。▲旧楠本正隆屋敷 その正隆が明治3年に建てた屋敷は、近世武家住宅の系譜を引くものだそうで、母屋と渡り廊下で結ばれた離れ家、そして石垣や庭園も含めた屋敷全体がそのまま残されています。その佇まいは一見、簡素なのですが、柱などはたいそう良いものが使用されているそうです。建築の際『華美な装飾はしないで』という大村家の意向もあったためか、いかにも質実剛健な武家らしいしつらえが印象的でした。(○○)楠本正隆、ゴ存ジデシタカ? ところで大村の名物料理といえば「大村寿司」です。これは、ほどよい甘さの寿司飯とたっぷりのった錦糸卵が特徴の押し寿司で、今から500年ほど前の戦国時代から伝わる料理だそうです。当時は外国から輸入され、貴重品だった砂糖を使ったこの料理が途絶えなかった理由は、大村が長崎街道筋の宿のひとつだったため、長崎に入った砂糖を手に入れやすかったからだという話を聞いたことがあります。貿易港・長崎の影響はこんなところにもあったんですね。(^〇^)▲500年の歴史、大村寿司

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  • 第82号【長崎の伝統工芸・べっ甲細工の行方】

     おばあちゃんのかんざし、母のブローチやネックレス、居間に飾られた置き物。これが我が家にあるべっ甲細工です。べっ甲はちょっと高価な印象がありますが、長崎に生まれ育った私にとっては、普段の暮しの中にあるとても身近な存在です。江戸時代に唐より伝わり、以来長崎の伝統工芸品として現代に受け継がれているべっ甲細工。三百年もの伝統を誇る長崎のこの業界に、今から約10年ほど前、たいへんなことが起こりました。(・・▲美しいべっ甲細工の髪飾り(長崎市立博物館蔵) ご存じの方も多いと思いますが、べっ甲細工の原料となるタイマイの輸入が野生生物の保護と資源確保の問題からワシントン条約によって1993年以降全面的に禁止になってしまったのです。 タイマイは小型のウミガメで、主に熱帯・亜熱帯に生息しています。このタイマイの甲羅が、べっ甲細工の原料となるのですが、今、タイマイを含むウミガメの仲間は海の汚染や産卵場所となる海岸の開発による破壊、さらに甲羅や卵を目的とする捕獲などで、その数が激減。中でもタイマイは絶滅のおそれが高いといわれているそうです。( ̄□ ̄;)ナント! べっ甲細工の産地・長崎では原料は輸入でまかなっていたため非常に困った状況に追い込まれました。輸入が絶えた後は、在庫のタイマイを原料に何とか伝統工芸の灯を絶やさないよう努力が続けられています。また卵や子ガメの保護で増殖を図ろうという声もあるなど、存続のためにいろいろと試行錯誤しているようです。▲創業290年、べっ甲の老舗江崎べっ甲店さん さてここでべっ甲細工の歴史を見てみると、長崎でそれがはじまったのは元禄年間(17世紀後半)と伝えられています。唐船が運んで来た原料と細工の技術を、長崎人が習得。そして工芸品として売られるようになりました。当時、作られていたクシ、カンザシなどの髪飾りはべっ甲独特の美しいあめ色と華麗なデザインが女性の心をとらえ、高価だったにも関わらずちょっとしたブームになったといわれています。また遊廓のあった丸山あたりには、きれいどころたちが買ってくれるからでしょうか、べっ甲職人が多く住んでいたという話です。(∩_∩;)昔モ今モ女性ハアクセサリニ弱イ!? ところで私は以前、老舗のべっ甲店で作業場を見学したことがあります。職人さんが昔ながらの素朴な道具で、べっ甲を削ったりしている様子はとても新鮮でした。べっ甲細工は接着剤を使わず熱と圧力を加えて加工。そこに伝統の技能が活かされているのだそうです。▲作業場での真剣な眼差しが印象的でした。(江崎べっ甲店) もともと美しいタイマイの甲羅。それに惹かれた人間はもっと美しく魅力的なものにしようと、工夫をし、技を磨いて、甲羅に新たな生命を吹き込みました。自然の美しさと人の技の素晴らしさを伝えるべっ甲細工。今後、タイマイの保護とべっ甲細工の伝統の継続という相反する両者が、それぞれ上手くいくことを願ってやみません。(-_-)難シイ問題ダ……

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  • 第81号【めがね細工のはじまり】

     今年は全国的に桜の開花が早いですね。長崎も例年より1週間ほど早く咲きました。観光客の方もこの温かさには驚いているようで、皆、上着を脱いで観光巡りを楽しんでいるようです。(^▽^)/長崎ハ今、春ノ観光シーズン! さて今回は眼鏡細工のお話です。江戸時代の長崎を知る貴重な資料のひとつに当時書かれた「長崎夜話草」という書物があります。その中には出島貿易で賑わう長崎の代表的な土産物が全39種類紹介されています。天文道具、外科道具、南蛮菓子などいかにも日本で唯一の西洋の情報発信地らしい品々が記載されているのですが、その中のひとつに眼鏡細工という記述があり、さらに、長崎の浜田弥兵衛という人が東南アジアの国へ渡った際、眼鏡づくりを習い、帰国後、生島藤七という人物に教えて作らせたというような記述もあります。浜田弥兵衛とは朱印船の船長で、台湾やフィリピンなどへ渡り交易を行っていた人です。▲水面に映る2つのアーチが一体に見え、美しい眼鏡橋 この「長崎夜話草」の記述は江戸時代初期には、眼鏡細工が長崎で行われていたことを示すもので、日本での眼鏡づくりの始まりといわれています。また当時はビードロやギヤマンといったガラス細工の店が商品のひとつとして眼鏡を扱うのが普通だったそうで、眼鏡の種類は、鼻眼鏡、遠眼鏡、虫眼鏡、数眼鏡(玩具の一種?)、磯眼鏡(水中メガネ?)、透間眼鏡(??)、近視眼鏡等、結構いろいろあったようです。 じつは眼鏡づくりの始まりについては前述の浜田弥兵衛の話とは別に、中島川の眼鏡橋を築いた唐僧・黙子如定(もくしにょじょう)が職人を連れて来て、眼鏡を作らせたという説もあります。また、眼鏡自体の伝来は、1551年にイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが周防(山口県)の殿さま大内義隆へ贈ったものが最初だといわれいます。耳かけがなく手で持つメガネだったそうです。(O-O)▲ひも付き眼鏡もなかなかお洒落!? いずれにしても江戸時代に長崎で眼鏡づくりが発達したのは、眼鏡の縁に使用されるべっ甲細工の技術が長崎にあったこと、また貿易の相手であるオランダがヨーロッパでも有名な眼鏡の産地だったこともあり、優れた技術が長崎に入って来たからであろうと考えられているそうです。とにかく眼鏡細工の技術が入って間もない1661年には眼鏡専門店が長崎にはあったということですから、たいしたものですよね。(◎◎)熱心ナ職人サンガイタ!? ところで時代劇などで、丸いレンズのヒモ付タイプの眼鏡をかけた人物を見かけることがありますが、当時の眼鏡は大変な貴重品で、よほど偉い人物でない限り持っていなかったそうです。またそのヒモ付眼鏡は鼻の低い日本人がかけると顔にくっつくため、眼鏡の中央部分に鼻あてを付ける工夫がされました。今では当たり前の鼻あて(パッド)ですが、まさか日本人が発明したとは、ちょっと驚きですよね。 (^<^)鼻高々ナオ話デス※参考本/「ながさきことはじめ」(発行/長崎文献社)「眼鏡の社会史」白山晰也 著(発行/ダイヤモンド社)

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  • 第80号【医学伝習所とポンペの功績】

     先週ご紹介した「長崎海軍伝習所」は、海軍だけでなく造船、重機械工業など、幕末の技術推進の中核として幅広い分野に影響を与えました。今回ご紹介する「医学伝習所」も「長崎海軍伝習所」がらみで生まれたものです。近代医学の発展に大きな功績を残したといわれる「医学伝習所」とはどんなところで、その初代医官として活躍したポンペとはどんな人だったのでしょう。▲ポンペのレリーフ(長崎大学医学部内) 幕府は長崎海軍伝習所のためにオランダ海軍に軍医の派遣を要請しました。そして1857年、軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトが来日します。ポンペはオランダのユトレヒト大学で医学を学んだ若干28才の若者。卒業と同時にオランダ海軍の軍医となった彼はオランダ領東インドを経て日本の海軍伝習所へ。それから5年間を長崎で過ごしています。 「医学伝習所」は海軍伝習所があった長崎奉行所内に設けられ、そこで西洋医学の講義が行われました。実はこの医学伝習所こそ長崎大学医学部の前身で、ポンペは我が国における「近代西洋医学教育の父」と呼ばれることになります。ちなみに長崎大学医学部では、ポンペが最初の講議を行った11月12日を創立記念日にしています。 ( ̄▽ ̄;) 偉大ナ人ナンダ…。▲医学伝習所跡(長崎市万才町)本木昌造宅跡が隣にありました。 ポンペ来日の翌年、コレラが流行り多数の死者が出ました。この時ポンペは大勢の患者の治療にあたる中で、民衆の為の病院設立を熱望するようになります。そして1861年、長崎港を見下ろす小島(現:長崎市西小島)の丘に日本初の近代的な病院といわれる「小島養生所」さらに翌年にはその隣に「医学所」が新設されました。ポンペは医学所でも引き続き内科・外科の講義を行ったそうです。その後、この医学所は何度かの名称変更を経て、浦上地区へ移設。現在の長崎大学医学部・付属病院へと発展していくことになります。▲小島養生所跡(現:長崎市立佐古小学校) 余談ですが、ポンペは日本初の営業写真家で知られる上野彦馬とも交流がありました。彦馬は医学伝習所の生徒としてポンペに化学を教わっていたのです。ある日、彦馬は蘭書で見た「フォトガラヒー」という言葉の意味についてポンペに質問します。その事がきっかけで彦馬は写真への道を歩みはじめたのだそうです。(°◇°)ポンペハ彦馬ノ先生ダッタ! 貧しい人は無料で診察し、身分や国籍による差別もなかったといわれるポンペ。その医療に対する真摯な姿勢を垣間見る言葉が残されています。『医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい』。(・▽・)感動的ナ教エデスネ

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  • 第79号【造船の町のきっかけをつくった「長崎海軍伝習所」】

     ほんの数十年前、長崎は造船の町として大いに栄えた時期がありました。現在、昔のような勢いはないものの、造船業が長崎の大切な産業のひとつであることに変わりはありません。観光で訪れた人々はグラバー園から見渡す港の景色の一角に造船所の大きなドッグを見て、ここが造船の町だということを再認識する方も多いのではないでしょうか。(・〇・)大キナ造船所ダナア▲グラバー園から臨む長崎港 ところで長崎が造船の町となったきっかけは何だったのでしょう。その理由をたどっていくと「長崎海軍伝習所」という幕末に生まれた組織の存在がありました。「長崎海軍伝習所」は、幕府が洋式海軍の創立や軍艦の購入、そして人材を養成するために1855年(安政2)に設立したものです。これはアメリカのペリーが浦賀に来航した2年後のことでした。 ペリー来航で黒船の威力にあわてた幕府は新たな防衛策のため、オランダ商館長に軍艦についての相談をもちかけ、いきなり7~8隻の軍艦を注文したといいます。しかし、すぐには無理だということで、蒸気艦「スンビン号」(のちの観光丸)を一隻幕府へ寄贈、しかもオランダ海軍から、教官約20名も一緒に派遣してくれたのでした。(¨)長イ付キ合イダモンネ。 こうして「長崎海軍伝習所」は長崎奉行所内(場所は現在の長崎県庁)に教室が設けられました。伝習生たちは幕臣を中心に、長崎の地役人をはじめ佐賀、福岡、鹿児島の各藩から送り込まれ、総勢100人を超えたそうです。そしてこの中には艦長要員として幕府から派遣されていた勝麟太郎(かつりんたろう/のちの勝海舟)もいたのでした。(^^)勝サン32歳頃デス▲長崎県庁。ここに海軍伝習所はあった。 伝習所の授業は日曜日を除き毎朝8時~12時、午後は1時~4時迄びっしり。内容は航海・機関・砲術・数学などで、先生はオランダ人ですから、通訳を介して行われました。生徒らでオランダ語ができるのはわずか。しかも講義中の筆記は許されなかったので、相当な集中力を持って挑まなければならなかったようです。余談ですが、勝はオランダ語がよく出来たので、通訳代わりを努めることもあったそうです。周囲からは「カツリン(勝麟)さん」と呼ばれ親しまれていたとか。 さて、開所から2年後(安政4年)、オランダに発注していた軍艦ヤパン号(のちの咸臨丸)が新たな教官たちを乗せてやって来ます。さらに、軍艦の修理を行うため、造船所「長崎熔鉄所」(のちの長崎製鉄所)の建設も長崎港で始まり、伝習所は順調に基盤を固めつつありました。しかし安政6年(1859)、幕府の方針変更があり、伝習所は突如、閉鎖されてしまいます。( ̄□ ̄;)ガーン!▲飽の浦町にある長崎製鉄所跡の碑 とてもあっけない長崎海軍伝習所の幕切れでしたが、その2年前から建設中だった長崎熔鉄所の建設は継続され、文久元年(1861)に落成しました。後に民間に払い下げられますが、この造船所こそが日本の重工業の起源で、造船の町・長崎のスタートだったのです。長崎海軍伝習所はわずか数年で閉鎖されましたが、地元にとても大きな産業を残したのでした。

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  • 第78号【忠臣蔵・長崎版 「長崎喧嘩騒動」】

     ランタンフェスティバルも終え、春も間近。暖かな日差しが待ち遠しいですね。さて今回は『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたといわれる、長崎でのあだ討ち話をご紹介します。「長崎喧嘩騒動」、「深掘騒動」などといわれるこの事件が起きたのは、1700年12月。浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及ぶわずか3ヶ月前のことです。忠臣蔵とは異なり町人と武家の間で起きた「長崎喧嘩騒動」は、士農工商の厳しい時代にありながら、長崎の町人らがいかに力を持っていたかを伺わせる話です。( ̄^ ̄)エッヘン 「長崎喧嘩騒動」の詳細はこうです。大雪だったその日、諏訪神社で用事を済ませて帰路についた熟年の藩士2名の姿がありました。滑りやすい雪解けの道に1人は69才の高齢だったこともあり竹の杖をついています。2人は長崎近郊に領土を構える深掘氏の家臣。深掘氏は当時は佐賀藩に属しその家老を務める由緒正しい武家で、長崎の五島町(長崎港近く)にも屋敷を構えていました。この藩士らはその屋敷へもどる途中だったのです。 2人が五島町の屋敷に近い「天満坂」と呼ばれる石段(現:興善町)を下った時でした。杖をついていた藩士がつまずいて倒れ、その時はねあがた泥が、たまたま通りかかった長崎の町年寄り・高木彦右衛門貞親(たかぎひこえもんさだちか)の使用人にかかってしまいました。(><)アチャー▲長崎喧嘩騒動の発端となった石段「天満坂」(興善町) 高木彦右衛門貞親とは唐蘭貿易において幕府直轄の役人を命ぜられ、「権勢並ぶものなし」とまで言われた有力町人。泥をはねられた使用人風情の男は、主人の威光を笠に藩士らに文句をつけ出します。藩士らは丁寧に頭を下げ、その場は収めたのですが、なんとその日の夕方、泥をかけられた者をはじめとする高木家の使用人ら約20名が五島町の深掘屋敷に押しかけ、乱暴・狼藉の上、石段で出会った2人の藩士の刀を奪い去ったのでした。(゛)エエッ、町人ガ武士ニ!!▲近づいて見ると確かにつまづきそうですね。 刀は武士の魂。大きな恥辱を受けた2人は、話を聞き集まった深掘の仲間ら19名と共に翌早朝、高木邸に討ち入りします。討ち入りはご法度、死を覚悟してのことでした。高木家の多くの使用人の中には腕自慢の強者もいたと思いますが、2人は見事に本懐を遂げ、その誇りを胸にそれぞれ別の場所で切腹して果てたそうです。 事件はすぐに通報され、長崎奉行所は幕府にも伺いをたてました。結局、両者とも死罪、追放、島流しなどの重い処分を受けます。しかし、高木氏を優遇していた幕府は事件後はなぜか終始、武士である深掘氏側に好意的だったそうです。また町民らは前々から高木氏の使用人らの横柄な態度に反感を持っていたので同情する者はいなかったそうです。▲石段を登ると裁判所があって何だか因縁めいている? 赤穂浪士らが討ち入りの参考にしたとも言われている「長崎喧嘩騒動」。あなたはどう思われましたか? ( ̄~ ̄;)ウーン……

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  • 第77号【湯どころ、小浜(おばま)めぐり。】

     “お寒いですね、温まりたいですね“というわけで行ってまいりました、温泉へ。場所は、湯どころ・島原半島の小浜。長崎駅から車で70分と気軽に行ける小浜は雲仙岳のふもと、橘湾に面した海辺の温泉地です。海岸沿いには旅館やホテルがズラリと軒を連ね、あちこちの道端からは湯煙がモクモク出ています。ここは江戸時代から続く歴史ある温泉街。街を歩けば、ちょっとひなびた古き良き風情が漂っていて、いかにも温泉に来たぞーって感じになります。o(^-^)oワクワク▲いかにも温泉街という風情が漂う「小浜温泉」 安くて料理もおいしいと評判の国民宿舎に着くと、露天風呂へ直行。屋外ならではの開放感と、とろけるような湯触りに極楽気分。小浜温泉の泉温は80~100度と高温で泉質は食塩泉。なめるとちょっとしょっぱい。でも海水のようなベタベタ感はなく、ホントにいいお湯でした。婦人病や神経痛、リューマチに効能があるそうですよ。(※^^※)湯アガリ、ホカホカ。 ところで小浜温泉は橘湾に沈む夕日の美しさでも有名なところで、昔から多くの著名人が温泉と夕日を堪能しに訪れています。歌人・斉藤茂吉もそのひとりで『ここに来て落日(いりひ)を見るを 常とせり 海の落日も 忘れざるべし』という歌を残しています。今回は曇天だったので夕日は楽しめませんでしたが、いつか露天風呂につかりながら夕日を眺めるという絵に描いたようなシーンを経験したいなと思っています。 ( -_-)誰ト? (〃∇〃) ヒミツ☆ さていつもなら温泉に入って、食べて、飲んで、帰るところですが今回は観光名所をいくつか訪ねてみました。まずは温泉街から少し離れた小さな海辺の人里にある「金浜眼鏡橋」へ。この橋は長崎の石橋群とよく似たアーチ橋で、1846年にかけられもの。それ以前は木橋を何度もかけては流されていたそうですが、石橋になってから150年あまり、今も現役です。(“)サスガ、メガネ橋▲丈夫で長持ち「金浜眼鏡橋」 次に大正時代から昭和初期にかけて愛野~小浜間を走っていた『小浜鉄道』の跡へ行ってみました。バスとの競争に負けて廃線になったという線路跡は、今では海辺を走る絶好のドライブコースになっています。途中には「緑のトンネル」と呼ばれる、切り通された道路上に木々が覆いかぶさりトンネルのようになった所があります。150mほど続くこの通りは、新緑の季節はたいそう美しいそうですが、今はちょうど冬枯れの季節。それでもなかなか素敵なトンネルでした。▲新緑が楽しみな「緑のトンネル」 最後は『小浜町歴史資料館』へ。ここでは江戸時代から代々、小浜温泉の管理を引き継いだ「本多湯太夫(ほんだゆたゆう)」の紹介をはじめ、昔懐かしい温泉グッズなどを展示。小浜の歴史やそれを支えてきた人達の努力が良く分かり、私たちが今こうして温泉を楽しめるのも、この地を愛した人々のおかげなんだなぁと、しみじみ込み上げて来たのでした。(\∪∪/)資料館ノ方、オ世話ニナリマシタ。

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  • 第76号【長崎ランタンフェスティバル2002、好評開催中!】

     「ああ、きれかねー」。日が暮れると同時に街へ繰り出した人々がにこやかな表情でランタンを見上げながら歩いています。ランタンフェスティバルが始まって間もなかったその日は平日だったせいか、観光客や家族連れの姿よりも会社帰りの人たちが目立ちました。それでもけっこうな人出で、みな龍踊りや中国雑技などのイベントを見にメイン会場の湊公園へ向かっている様子。C= C=┌(;・_・)┘トコトコ▲興福寺から続くランタン それにしてもここ浜町から新地中華街、そして湊公園までびっしりと飾り付けられたランタンの美しさといったらありません。全部で12,000個と言われていますが、冬の寒さの中に灯るその優しい光は、気分をホットにロマンチックに盛り上げてくれます。 ☆.。.:*・°(゜. ゜* ウットリ 街中を灯しているこのランタンは、日本のちょうちんのような形をはじめ、色も形も様々なタイプが見られます。今回はその中から中国の言い伝えに由来する不思議な動物や歴史上の人物などをかたどった、ユニークなランタンオブジェをご紹介します。 まずひとつめは、中国の子供がオレンジ色の大きな鯉を抱いて座っている、高さ1m位のランタンです。これは中国の人々の間で受け継がれて来た図柄で「童子抱魚」というタイトル。新年を迎える時、豊かで良い運に恵まれますようにという意味が込められているそうです。ちなみに中国では魚は富みと良き未来を表す縁起ものとされ、何かにつけて魚の装飾が用いられるそうですよ。▲童子抱魚 三国志もありました。物語の主要人物である劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)が並んで立っています。それぞれ2m以上はあるでしょうか。いずれも個性的な顔だちとなのですが、残念ながら私にはどれが誰か見分けがつきませんでした。(・◇・)1800年も前の中国の古典です▲三国志を題材にしたオブジェ写っているのが劉備? 蛇と亀が合体したような姿のオブジェもありました。これは「玄武(げんぶ)」という伝説の神獣。未来を予知し、天界の北を守護し、水をつかさどるという言い伝えがあるそうです。それからレンゲ(中国のスプーン)やひしゃく、お椀など、磁器類だけで組み立てられた珍しいランタンもありました。これは中国独特の技だそうで、伝説の生き物、龍と鳳凰をかたどった非常に美しいものでした。▲玄武▲鳳凰 この他、麒麟(きりん)や飛馬(天馬)、竜魚(らいぎょ/頭が龍で体が鯉)など、不思議な姿のランタンが優しく輝く様子はまさにファンタジーワールド! ランタンのひとつひとつに長い中国の歴史が感じられるようでしたよ。今年の開催期間は2月24日(日)までです。ぜひ、実物をご覧下さい。▲迫力ある美しさの麒麟(きりん)▲飛馬(天馬)

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  • 第75号【オランダ通詞、免職事件簿!!】

     今回は江戸時代に起きたオランダ通詞の免職事件についてのお話です。これはオランダ通詞らが、幕府の意向を故意に誤訳してオランダ側へ伝えた疑いで免職になったという事件です。オランダ通詞といえば主に出島で通訳と翻訳の仕事をし、オランダとの貿易に関する事務・雑務を行っていた役人です。いわゆる外交の事務方的存在で、今でいう外務省のような仕事をしていたといえるのかもしれません。(□_□)エリート官僚? オランダ通詞らは上の階級から大通詞、小通詞、小通詞助、そして稽古通詞など細かく分けられた組織が形成されていました。そして、この事件で罰を受けたのは、いわゆる組織のトップクラス、大通詞ら数人を含む多くの通詞たちでした。その中には蘭学の分野で名を馳せた、前野良沢、杉田玄白、平賀源内などを門下とし、「解体新書」の序文まで寄せた大ベテラン通詞、吉雄耕牛がいました。▲通詞界の大御所吉雄耕牛(長崎市立博物館蔵) 誤訳事件の経緯はこうです。まず寛政2年(1790)11月に樟脳(しょうのう)貿易の不手際で、耕牛は他の大通詞2人と共に30日の押込(おしこめ/監禁)の刑に処せられました。そして直後の同年12月に誤訳事件が発覚します。これは日本の主な輸出品であった銅の減少を理由に、オランダ船の入港を2隻から1隻とし取引量を約半分に減らす、という幕府の方針を、正確にオランダ側へ伝えなかったという事件です。これにより耕牛ら数名は取放(とりはなち/免職)となり5年間の蟄居(ちっきょ/謹慎)を命じられたのでした。(><)キビシー ではなぜ彼等は故意に誤訳をしたのでしょう。その真相ははっきりせず、あくまでも憶測ですが、オランダ側と最前線でつきあう通詞らは相手国の事情を詳しく知る立場にありました。これまでのつきあいの流れもある中で幕府側の言い分をそのまま伝えたのでは都合の悪い事もあったのでしょう、現場での臨機応変な対応ということで誤訳したのではないかと言われています。そしてそういう事は、それまでも行われていたようです。▲吉雄耕牛宅跡の石碑は長崎県警前にあります。 今回の発覚では処罰の鉾先が周囲の通詞にも向けられ、連座してオランダ通詞幹部を含むたくさんの仲間が巻き込まれました。その背景にはこの頃に起こった外国を排除し鎖国を主張するいわゆる「攘夷論(じょういろん)」の推進が大きな影響を与えたと言われています。幕府は外国語を知り、その文化を伝える通詞は危険な存在だと思っていたようです。(--;耕牛サンハ罠ニハマッタ? しかし間もなく幕府は諸外国の使節の対応に頭を悩ます時が来て、通詞の必要性を痛感することになります。時代は外国を排除する運動に専念している場合ではなかったのです。耕牛らは5年後に罪を免じられ復職しています。もともと世襲制の職業で人材が限られた通詞職。時代の波は開かれた海へ目を向けていた人の味方だったようです。(^^ 黒船来航ヨリ60年程前ノオ話デシタ。※参考資料/◎長崎文献社 発行「長崎事典・歴史編」、「長崎町人誌・第一巻」◎長崎市 発行「出島生活」

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