第89号【日本初の鉄橋・くろがね橋】
先日東京へ出かけた際、隅田川の水上バスに乗りました。 隅田川には勝鬨橋(かちどきばし)、佃大橋(つくだおおはし)、永代橋(えいだいばし)など、 新旧合わせて30余りの橋があります。 大きくて個性的なその橋群の下をくぐりながら思い浮かべたのは、長崎の中島川のことです。 大都会の大きな川と地方都市の小さな川。両極端な存在ですが、違う景色を結び、 人や物の流れを生む「橋」そのものの機能は当然ながら同じで、 橋はその土地柄に応じた表情をするものなんだなとあらためて感じました。 (・・)/水上バスハ、爽快デス! さて話の舞台は長崎・中島川へ。川沿いに民家が軒を連ね和やかな雰囲気が漂っています。 有名な眼鏡橋を中心とした石橋群のあたりは相変わらず観光客の姿が後を絶ちません。 その石橋群からちょっと下った所に今回ご紹介する「くろがね橋」はあります。▲くろがね橋全景 くろがね橋は繁華街・浜町商店街の入り口にあるため、一般市民から観光客までとにかく人通りの多いのが特長です。 今でこそ鉄筋コンクリートの橋ですが、明治元年(1868)に造られた当初は鉄製でした。しかも日本で最初の鉄橋 だったのです。ですから名前も「くろがね=鉄」というわけです。 (^▽^)「テツバシ」トモ呼バレテマス▲当初、橋の両端にあった石柱(現在のくろがね橋のたもと) 鉄でつくられる以前は木の橋がかけられ「大橋」と呼ばれていたそうです。 当時中島川はまとまった雨が降るとよく洪水をおこし、その度にこの「大橋」 を初め多くの橋が流されたといいます。慶応3年(1867)の洪水でまたもや大破 した際に、街の中心部で繁華街に通じるこの「大橋」は堅牢なものにしよう、 ということで鉄橋の建設が決まったのでした。 くろがね橋はオランダ人の技師が設計し、本木昌造らによってかけられまし た。本木昌造といえば「近代印刷の祖」として知られる人物です。なんと当時、 彼は橋の建設にあたった長崎製鉄所の頭取だったのです。そして長崎製鉄所と いえば「軍艦」の修理のため幕末に海軍伝習所がらみで生まれた施設です。こ の長崎製鉄所がなかったら、長崎に日本初の鉄橋は誕生しなかったかもしれま せんね。 ヽ《``》イロイロ、ツナガッテマス▲浜町アーケード入り口から見た「くろがね橋」(向こう側は「築町」) ところで「大橋」から「くろがね橋」にかけかえられた時期は、徳川幕府が 崩壊し、王政復古となった時でした。最後の長崎奉行となった河津伊豆守祐邦 (かわづいずのかみすけくに)は「大橋」が壊れた年(慶応3年)の夏に長崎に 着任し、翌年(明治元年)の正月には江戸へ帰っています。 最後の長崎奉行が去った同年まもなく、新しい時代を象徴するかのように生 まれたくろがね橋。激動の時代を目にした当初の姿から、鉄筋コンクリートに かけかえられたのは昭和6年(1937)のことでした。さらに現在の姿にかけかえ られたのは平成2年(1990)のことです。浜町あたりへ出かけると、必ず渡る 「くろがね橋」。普段は何げに渡っていた橋ですが、歴史を知ってその姿がよ り鮮明に見えてくるようです。(‘’)人ニ歴史アリ、橋ニモ…。※参考にした本/「長崎県文化百選~事始め編~」(長崎新聞社)「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)
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