ブログ

  • 第120号【野母崎町の水仙まつり】

     白く凛とした姿と清楚な香り。冬枯れのこの季節に開花して、私たちを楽しませてくれるニホンスイセンは、 古くから茶花としても利用され日本人にはたいへんなじみのある花です。 今回はこのニホンスイセンをおもいっきり楽しめる場所へ行って来ました。 ┌( ^∀^)┘♪出カケルゾ~ 九州本土の最西端にある長崎半島(野母半島)の先端に位置する長崎県野母崎町。 長崎駅からバスで1時間ほど南下したところにあるこの町には、 五島灘を見渡す海際の小高い丘に「水仙公園」が設けられています。 そこには約1千万本といわれるニホンスイセンが一面に植えられ、 開花のこの時期、「水仙まつり(12/15~1/12迄)」が催されているのです。▲水仙公園(長崎県野母崎町) 「水仙まつり」の初日に出かけてみるとまだ5分咲きでしたが十分楽しめました。 時折、潮風が吹くと花の芳香が鼻先をくすぐります。 ニホンスイセンの香りはアロマテラピー効果があるそうで、心身をリラックスさせてくれるとか。 ちなみに昨年、環境省が全国規模で実施した「かおり風景100選」にも、 この花の甘い香りと潮の香りが混ざりあった独特の香りが選ばれています。 (´ー`)香リデ、リラクゼーション▲花言葉は自己愛(主義)野母崎のニホンスイセン 香りもさることながら公園内にある展望所からは沖合いに軍艦島(西彼杵郡高島町の端島)を望む美しい海原を見渡せ景色もばっちり。 町内外から小さな子供からお年寄りまで大勢の人々が集い、さらには北九州や広島方面からのバスツアーも何台か来ていました。 皆、水仙の丘の小道を和やかな表情で行き交っていました。▲水仙公園の丘から望む景色。左上に軍艦島が見える。 町役場の人によると「水仙まつり」は平成3年から毎冬行われ、今年で11回目になるそうです。 植えられたニホンスイセンは、もともと野母崎町に自生していたもので、その数は約1千万本と公に発表していますが、 それはあくまでも当初に植えた球根数で、 今では年々分球しているため1千5百万本はあるのではないかと言っていました。 水仙公園は3つのなだらかな丘が続いています。 園内には椿も所々に植えられ、そろそろ見頃を迎えようとしていました。かわいらしい小鳥たちとも出会いました。 途中、道で一緒になったおばあさんが「このスイセンは1本に9つくらい花がつくけど、 今はまだ半分くらいね」とこれから先が楽しみだという感じで話していました。 帰りに水仙公園のそばの「のもざき物産センター」で「野母崎水仙の石けん」を購入。 水仙の天然精油が配合され、そのナチュラルな芳香を楽しめる肌にやさしい石けんです。 ( ’∇ ’)/オ土産ニオススメ

    もっと読む
  • 第119号【黄金郷の夢の跡!?】

     ヨーロッパ人が新しい航路や大陸を次々に発見していった大航海時代(15~17世紀前半)。 オランダと日本が長崎出島を通して貿易を始めたのはその時代が終盤を迎えようとする1641年でした。 この頃すでに、日本だけでなくアジア諸国にオランダ、ポルトガル、イギリスなどヨーロッパの国々の船がやって来て交易が行われています。 それにしてもヨーロッパの国々をはるばる東方の彼方まで至らしめた大航海時代の原動力は何だったのでしょう。 それは当時のヨーロッパ人の根底に、東の彼方にあるという黄金郷発見の夢があったからという説があります。 その黄金郷と聞いて私たち日本人がすぐに思い浮かべるのは、やはりマルコ・ポーロ(1253~1324)です。 (^∇^)冒険商人!▲冒険家? マルコ・ポーロ イタリアはベネチアの商人マルコ・ポーロは東方に旅した際、 大帝国(元)を治めていたフビライ・ハンの下で17年間を過ごしました。 その時の体験などを綴った「東方見聞録(とうほうけんぶんろく)」という本で彼は日本をジパングとよび「黄金の国」と紹介しています。 ところでヨーロッパにおける、東方の彼方にあるという黄金郷伝説は、 実はすでに紀元1世紀の頃からあり、当時の地理書にも登場しているそうです。 さらにそれ以前にもギリシャやローマでもそういった伝説が存在していたというから驚きです。 もしそれが事実なら少なくとも2000年近くにわたり、 東方の黄金郷伝説への憧れをヨーロッパ人は抱き続けていたことになります。 ( ’.’)人間ノ欲ヤ希望ガ生ンダ伝説カモ? マルコ・ポーロが亡くなり15世紀に入るといよいよ大航海時代へ突入。 ヨーロッパの国々は競って未知の海にのりだしました。 「東方見聞録」のジパングに憧れを抱き、東洋への航海を夢見ていたコロンブスがスペインの船に乗り、 アメリカ大陸を発見(1492年)したのはこの時代のことです。▲オランダ船は長崎近海でも黄金の島を探したかも!? そして16世紀半ばポルトガル人が日本の種子島に上陸します(1543年、鉄砲伝来)。 そしてこの時以来、ポルトガル人は日本の事情を知ることとなり、 日本はいわゆる「黄金郷」でないことがわかったといわれています。 それから約100年後、さまざまな局面を経てオランダと日本における出島貿易が始まるわけですが、 これでヨーロッパ人の黄金郷の夢は消滅したわけではありません。 何と日本よりさらに東方の海や大平洋上にまで探索は行われ、それは19世紀初頭にまで及んだそうです。 人間の未知なるものへの強い夢や憧れが、黄金伝説をつくったとしたら、長崎出島の時代は、 その夢を追った壮大な歴史の跡のひとつともいえ、夢を追い続けることのすごさを感じます。 /( ’ ’ )マダ黄金郷ヲ探シテル?●参考にした本/「世界の歴史8~ルネサンスと大航海時代~」(集英社)「探訪・大航海時代の日本4」(小学館)「黄金伝説ジパングの謎」(多賀一史著:PHP研究 所)

    もっと読む
  • 第118号【坂の町の新しい工夫】

     深く入り込んだ長崎港。それを取り巻く標高300~400m級の山々。 長崎の市街地はその山の斜面上と、ふもとのわずかな平坦地に形成されています。 江戸時代と今の長崎の地図を見比べると、ずいぶん港や河川が埋め立てられて来たことがわかります。 それだけ平坦地が少なかったという証しです。 長崎の斜面市街地を訪れたことがありますか? そこは民家の間を縫うように狭い階段がくねくねと迷路のように続いています。 斜面で暮らす人々の中には稲佐山も顔負けの美しい長崎の景観を毎日眺めている人もいることでしょう。 しかし良いことばかりではありません。 車の入らない住宅地も多く、ちょっとした買い物にも一苦労という方が大勢います。 特にお年寄りや身体の不自由な方々にとっては大きな問題になっているようです。 ( ’’;)急ナ階段ハキツイ グラバー園の近くの南大浦地区では、そんな斜面市街地での歩行を少しでも楽にしようと今年7月、斜行エレベーターが完成・運行しています。その名も「グラバースカイロード」。 石橋の電停近くの上田町とその高台にある相生町を結ぶこのエレベーターは17人乗り。 高低差50m、31度の急斜面を3分45秒で往復します。 階段をテクテク歩いて登れば20分以上はかかるところを約75秒で行くのですからとても便利です。 (^∇^)/朝6時~夜11時30分迄、無料運行中!▲グラバースカイロード 実際に乗ってみて、その快適さに驚きました。静かでスムーズなのです。 途中3ケ所の乗降場所を経て、終点の市立南大浦小学校下(相生町)に着きます。 学生、OL、主婦、お年寄りなど、周辺に住む人々が大いに利用していました。 また、上からの景色はなかなかのもので、今後ちょっとした観光スポットになるかもしれません。 (^ー^)/グラバー園モ近イ!▲東山手から見たグラバースカイロード 宝町電停から歩いて数分のところにある天神町にも、 斜面地で暮らす人々のためにユニークな斜面移送機器が設けられています。町名にちなんで「てんじんくん」と名付けられたそれは、 リフトで昇降するタイプで2人乗りのコンパクトな設計です。 ( ’ー ’)スキー場ノリフトミタイ?▲天神町の「てんじんくん」 地元自治会の管理のもと、朝8時30分から夕方6時半まで運行。60mの区間をゆっくり約3分半で移動します。 利用するお年寄りにはとても好評のようで、口を揃えて「ずいぶん助かってる」と言ってました。 長崎市内に点在する斜面地域の道は狭いので、こういった機械を設置できないところもあるようです。 今後も斜面いろんなアイデアや工夫の実現が望まれるところです。 ( ’∇ ’)/他ニモアル斜面地ナラデハノ工夫ハ、イズレマタ…

    もっと読む
  • 第117号【大浦のお慶さん】

     今回は幕末~明治にかけて活躍した長崎の商人「大浦 慶(おおうら けい)」という女性の話です。 お慶さんは日本における茶輸出の先駆けをつくり、財を成した人として地元では知られています。 ( ’.’)/女傑トシテ有名▲大浦のお慶さん お慶さんは1828年(文政11)、思案橋にほど近い長崎市油屋町の旧家の生まれ。 家は代々油を売る商売をしていたそうです。 しかしお慶さんの時代には家業は傾いていたらしく、 茶の輸出を始めたのもその再興のためだったと一説には言われています。 茶の取り引きはイギリスの貿易商人ウィリアム・オールトとの間で行われました。 当初、オールトからの発注を受けて、お慶さんは一万斤(6トン)もの嬉野茶を手配し、アメリカへ輸出。 そうして嬉野茶はイギリスやアラビアにも輸出されるようになり、 お慶さんは30代にして茶貿易商として莫大な富みを得たのでした。▲オルト邸(グラバー邸そば)それにしても当時の女性としては珍しく、大胆にも外国人を相手に商売で成功したお慶さん。 きっと国際的な感覚を持ち合わせていたのだと思います。 余談ですが、17世紀初めから19世紀頃まで世界の茶市場は中国茶が独占。 その中で日本茶は中国茶と一緒にヨーロッパなどへ運ばれたそうです。 イギリスは紅茶の本場として有名ですが、それはこの中国茶の時代を経てからのことだといいます。 (・・;)意外ダナ ところでお慶さんには坂本竜馬や大隈重信といった、維新の志士たちのスポンサーであったとか、 一晩で婿を追い出した!?というような、まさに女傑と呼ばれるにふさわしい伝説がまことしやかに伝えられています。しかし実際は志士たちとの関わりを示す史料はなく、 婿を追い出したというのも大正の頃に面白おかしく作られた講談から生まれた虚像のようです。 (^o^)ソレダケ突出シタ人物ダッタト… お慶さんは43才の頃、商取り引きで詐欺行為に合います。 これは遠山事件と呼ばれるもので、その取り調べに際し、長崎商人として、 ひとりの人間として義を持って戦ったといわれていますが、 騙した側が士族や役所関係者だったため結果的に不当な責任を負わされ、 その後、大浦家は没落の道を辿ったのでした。 (´`)時代ガ悪カッタ… そうしてお慶さんは不遇のうちに57才で亡くなります。 「大浦お慶」の名が今も語り継がれる最大の理由は、幕末志士や婿とのエピソードではなく、 茶貿易を成功させる源となったボーダレスな感覚を持つ人柄と、 相手が誰であれ、人として信義を貫こうとした生き方が、時代を越えて心を打つからかもしれません。 (⌒ー⌒*)私モ打タレマシタ…▲お慶さんのお墓(高平町)◎参考にした本/図説・長崎県の歴史(発行/河出書房新社)大浦慶女伝ノート(発行・著/本馬恭子)長崎事典~風俗・文化編(発行/長崎文献社)

    もっと読む
  • 第116号【ちゃんこ鍋のルーツ!?】

     12月も近くなりどんどん寒くなっていくとばかり思っていたら、 長崎では寒さが緩み再び秋にもどったような天気が続いています。 そんなお天気の気まぐれは別として、これからの季節は何と言っても鍋料理。 あったかい鍋をみんなで囲んでふうふう言いながら食べるのはこの季節のお楽しみのひとつです。 ( ̄∇、 ̄;)タベタカ~ 長崎ゆかりの鍋といえば「ちゃんこ鍋」。相撲部屋で作られるあの鍋料理です。 季節の魚や野菜、お肉などいろいろな食材をたっぷり煮込むから、おいしくて栄養バランスが良いのが特長です。 これは相撲部屋ごとにいろいろな工夫と味わいがあるようです。 ▲鶏ガラスープであっさり仕立てのちゃんこ鍋ちなみにお相撲さんの作る料理はすべて「ちゃんこ」と呼び、“食事”という意味で使われています。 ところで、なぜ「ちゃんこ鍋」が長崎と関係あるのだろうかと不思議に思われる方も多いことでしょう。 九州場所といえば福岡ですし、その他の地方巡業でも長崎へ来る機会はとても少ないのです。 しかし江戸時代、長崎と相撲界とはたいへん関係が深く、江戸時代の一時期、 長崎は九州で最初の巡業場所だったそうです。 ( ’o ’)意外?▲江戸時代、相撲や見世物などが行われていた梅園天満宮 長崎と当時の相撲界のつながりを示すものとして、ある力士のお墓が長崎市の蛍茶屋近く(本河内町)にあります。 その力士の名は丸山権太左衛門(まるやまごんたざえもん)。 宮城県出身のこの力士は大関(当時の最高位)にまで進んだ強い力士でしたが、 江戸・京・大坂を経て長崎へ着き、小島の梅園で興行した後、病にかかり亡くなりました。 権太左衛門は、今も故郷の宮城県米山では銅像もつくられるほどよく知られた力士のようです。▲丸山権太衛門の墓(長崎市本河内町) さてちゃんこ鍋ですが、そのルーツは中国。 江戸時代に長崎にやって来た中国人が唐人屋敷で作るようになった鍋料理で、その名も「鉗鍋(チャンクヲ)」。 そしてもうご推察のとおり、長崎に巡業で来ていた力士が、手軽でボリュームもあり、 さらに煮込むので伝染病などの心配がいらないこの料理法を持ち帰ったのが、 ちゃんこ鍋のはじまりだと一説ではいわれているのです。 「鉗鍋(チャンクヲ)」が味も呼び名も日本風にアレンジされ「ちゃんこ鍋」へ転じたということですが、 それにしても"ちゃん"という言葉が気になりませんか?  同じ中国がルーツで、いろんな具材を入れるという意味でもちゃんこ鍋は「ちゃんぽん」と共通するものがあります。 これはきっと何か関連があるに違いありません!?  (⌒∇⌒)/ドッチモ、オイシイ、ソレデイイ!

    もっと読む
  • 第115号【ライトアップでキラキラ、長崎の歩道】

     10月から長崎の夜の街並が今、あちらこちらで美しくライトアップされています。 これは『夜も歩いて楽しめる観光地・長崎』をテーマにした県の観光事業のひとつ。 JR長崎駅から長崎港沿いの大波止~出島。 そして長崎県庁から繁華街・浜町を結ぶ歩道の各所で、 ロマンチックな光の演出が往来する人々の目を楽しませてくれています。☆ . 。. : * ・ ° ☆ .。 (*^▽^*)/キレカヨ~※日没~24時(来年3月末日迄) さっそく出島~大波止~浜町周辺を歩いて来ました。 この辺りの光の演出はその世界では著名な照明デザイナーによるものだそうです。 あちらこちらで樹木の形を活かしたライトアップが見られます。 ちなみにライトアップに使用する器具は、樹木や自然環境に配慮したものを使用しているそうです。▲長崎港と稲佐山 長崎港・大波止の大型商業施設「夢彩都(ゆめさいと)」近くにある遊歩道(元船町)は、 幹線道路から建物に隔てられた静かな通路で、 その道沿いに植えられた樹木にはイルミネーションの装飾が施され、 一足早いクリスマスのようです。 ( ’ー ’)♪ジングルベルガ、聴コエテキソウ▲元船町歩道の樹木に施されたイルミネーション 出島も夜の暗さと静けさを邪魔しない程度のほどよいライトがあたっていました。 出島の扇型のカーブを描く中島川沿いの白壁が、昼とは違った幻想的な表情で浮かび上がっています。 近くに架かる出島橋も光のお化粧でとびきりの美人に。シンプルモダンなその姿が中島川の川面に揺れて、 これまた素敵です。▲出島と中島川 あらためてライトアップされた箇所を見て回りながら感じたのは、光の色や明るさの加減、 そして光をあてられる建物しだいで、ずいぶんいろんな表情が楽しめるものだなということです。中でも他と違った雰囲気を醸していたのは県庁坂。 他の場所が黄色や白っぽいライトが多かったのに対し、そこはグリーン系のライトが使用され、 どこかクラシカルな雰囲気が漂っています。 (^ー^)グリーンッテ目ニ優シイネ▲荘厳な雰囲気!?夜の県庁坂 県庁坂から繁華街・浜町を抜け眼鏡橋のある中島川の石橋群へ。 眼鏡橋、魚市橋、東新橋、すすきはら橋など、 各橋の形を上手くいかしたライトアップが見られ、光の演出者の工夫の跡を感じます。▲おなじみ、眼鏡橋 この他、南山手・東山手の洋館などをはじめ浦上天主堂や駅前の西坂公園と26聖人殉教地にも施されています。 これから寒くなるほどに、ますます市民や観光客の心をホットに灯してくれることでしょう。 今回、健康づくりのため、夜のウォーキングをしている人の姿もけっこう見かけました。 ライトアップを楽しみながら歩けるなんて最高です。 ~~~┌( ^ー^)┘イッチニ、っと。▲石橋群

    もっと読む
  • 第114号【路面電車(5系統・石橋~蛍茶屋)】

     長崎の路面電車は市中心部をこまやかにつなぐ足。 市民生活にも観光にも欠かせない大切な存在です。 今回は5つの路線系統の中から観光客の姿がもっとも目立つ「5系統・石橋~蛍茶屋」をご紹介します。 ( ’∇ ’)/長崎観光スルナラ要チェック!▲蛍茶屋で発車を待つ電車 グラバー園へ行く唯一の路線で、 沿線には観光スポットがたくさん点在するこの「5系統・石橋~蛍茶屋」は全長3.5km。 所要時間は約18分と、とても短い区間です。ルートを簡単に辿ってみましょう。 まず孔子廟やグラバー園のすぐ近くにある始発の『石橋』、『大浦天主堂下』を経て、 長崎港を一望する『大浦海岸通り』、そして長崎駅方面へ行く1系統の路線と接続する『築町』へ。 ここで乗り換えする際、忘れずに「乗りつぎ券」を貰えば目的の電停迄100円で行けます。 ┌( ^^)┘新地中華街ハ築町カラ徒歩1分▲唯一の単線区間大浦海岸通り-石橋 『築町』から繁華街のある『西浜町』、そして眼鏡橋や寺町界隈へ行くのに便利な『賑橋』、『公会堂前』、 長崎市民の総鎮守『諏訪神社前』、シーボルト記念館が近い『新中川町』を経て、終点『蛍茶屋』へ到着です。 『蛍茶屋』の名前は江戸時代から大正にかけて、その辺りに蛍茶屋という名の料亭があったことに由来しているそうです。 当時の人々はここで宴会を催したり、長崎街道に入ってすぐのところにあったため旅立つ人を見送ったりしていたそうです。 この「5系統・石橋~蛍茶屋」でもっとも特長的といえるのは 始発『石橋』~『大浦天主堂下』~『大浦海岸通り』が全路線の中で唯一の単線区間だということです。 『築町』方面から『大浦海岸通り』に来た電車は、先に『石橋』へ入った電車がもどって来なければ、先へ進めません。 長崎の路面電車は「信号待ち」もしますが「電車待ち」もするのです。 ( ’ー ’)電車ノ信号待チッテ、珍シイ? この路線では数カ月前、大きな変化がありました。 『公会堂前』の電停にあった陸橋が無くなったのです。それに気づいた時はホントにうれしかった。 電停を利用する度に陸橋の階段を昇り降りするのは、誰にとってもキツイこと。 陸橋のない電停を選んで乗り降りする人もいるといいます。 目の前に市民が集う催しの多い長崎公会堂や市民会館があるので、これからますます利用客が増えることでしょう。▲陸橋がはずされてスッキリした公会堂前 近年、陸橋がとりはずされた電停は他にもいくつかあり、電停自体もきれいに整備されて来ているようです。 利用者にとってはうれしい限りです。

    もっと読む
  • 第113号【長崎の秋の食卓を彩る魚たち】

     代表的な秋の魚といえばサンマ。脂がのったこの時期はやっぱり塩焼きが一番。 あの香ばしい匂い、ホントにたまりません。 そのサンマ以上に魚屋の店頭で目立っているのは、やはり今が旬のサバです。 どれも目が澄み、尾の方までぷっくり太っていておいしそう。 シメサバや味噌煮などいろんなメニューが頭に浮かびます。 (^∇、^)“カマス“もオイシソー▲お店に並んだきれいなサバ サバは青背魚の中でも「頭がよくなる」と話題になった栄養素、 EPAやDHAが多く含まれ、ガンやボケ防止にも効果があるといわれています。 健康のために家族でたくさん食べたいものです。 ちなみにこれから冬にかけて五島沖や対馬海峡などで獲れるサバは、 非常に脂がのっておいしく「旬(とき)サバ」というブランド名で長崎県外に出回っているそうです。あなたの街の魚屋さんで「旬サバ」を見つけたらぜひ味わってみて下さい。 (’▽‘)/ヒト味違ウ美味シサ 「モチ魚(ウオ)」もおいしい季節。関東方面ではイボダイと呼ばれている魚です。 エラの上に黒い斑点を持ち、ちょっと丸みのある姿をしています。甘鯛に似た淡白な味わいです。 関東では「イボダイの開き」はちょっとした高級品らしいのですが、長崎では割合リーズナブル。 ちなみに選りすぐりの塩干品を置いている長崎の某デパートでは、五島沖産モチ魚の一夜干しは2匹で500円でした。 一般家庭では刺身やカラ揚げ、煮付けなどでいただくことが多い魚です。 (^^)肉厚デ、美味!▲五島沖産のモチ魚とカマスの開き 長崎で「アゴ」の名で親しまれている「飛び魚」も旬です。 最盛期(9月下旬~10月上旬)は過ぎましたが平戸周辺で行われているアゴ漁は特に有名で、初秋の風物詩。 山陰沖を季節風にのって南下して来たアゴの群れが飛行機の翼のように胸びれと腹びれを広げて海面上を泳ぎ、 青い身体をキラキラ輝かせる光景が見られるそうです。それを地元の人々が網ですくってとり、焼きアゴ、塩アゴに加工して全国に出荷します。 上品な風味のあるアゴのだしは、長崎のお正月の雑煮や五島うどんに欠かせません。 ところで一年通して新鮮な魚に恵まれている長崎の家庭では、かまぼこを手作りしているところが多いです。 つい先日も我が家ではエソ、サワラが手に入ったのでさっそく作りました。母はすり鉢を使います。 機械混ぜに比べ手間がかかり、夏などは汗だくになるのですが、仕上がりが違うのだそうです。 家庭で作るかまぼこは味や形など家ごとに個性があります。 かまぼこ一切れでその家の味つけの好みやセンスが見えて来るような気がして面白いです。 (^~、^)ンマカ、カンボコばい。▲我が家の手づくりかまぼこ

    もっと読む
  • 第112号【東山手のオランダ坂】

     秋の冷んやりと澄んだ空気がとても心地よい今日この頃です。 観光&修学旅行シーズンの真っ只中ということもあり、 今回訪れた東山手のオランダ坂にも多くの観光客が異国情緒あふれる風情を満喫していました。 (^∇^)/東山手ハ、コラム10号デモ紹介シテマス▲中腹から見たオランダ坂 この一帯は安政の開港(1859年)後、外国人居留地のひとつとして栄えたところで、 今も幕末~明治期の洋館が建ち並んでいます。 当時、居留地には各国の領事館が競うように建てられ、商社、ホテル、倉庫なども次々に造られたのですが、 高台の東山手やグラバー園のある南山手といったところには個人の住宅が多く建てられたようです。 ( ' ∇')>眺メガイイデスカラネ 東山手一帯の石畳の坂道や坂段は、どこもたいていオランダ坂とかオランダ通りなどと地元では呼ばれています。そのオランダ坂のスタート地点ともいえるのが活水学院下にある切り通しの坂。 長崎の観光パンフレットや旅行雑誌などでもよく紹介されるので、ご存じの方も多いことでしょう。 この近くにある東山手十二番館(国指定重要文化財)に行くと、長崎を代表するこの坂の昭和30年代の写真を見る事ができます。▲東山手十二番館(国指定重要文化財) 写真では当時の切り通しの坂が今よりもずいぶん狭かったのがわかります。 時代の要請で道幅が広げられたようです。他にも昭和30年代の東山手の風景写真が十数点ほどあり、 素朴で健やかな人の笑顔と懐かしい坂の風景を楽しむことができました。 この東山手十二番館は明治元年(1868)に建設されたもので、ロシア領事館、アメリカ領事館、 アメリカの宣教師などの住宅として使用されました。 広々としたベランダや廊下に威風堂々とした領事館の面影が感じられます。 現在は長崎市旧居留地私学歴史資料館として利用されています。 オランダ坂をさらに高台へ歩いていくと、2枚の平らな石をV字に組んだ溝が残っています。▲オランダ坂の端にある三角溝三角溝と呼ばれる現役の排水溝です。この形だと雨水や汚物が流れやすいとか。 長崎市内では他の数カ所にも残っています。 グラバーさんの別荘があった長崎港沖の高島やオランダ商館が最初につくられた平戸にも同じような溝があるそうですが、 この溝についてはまだ歴史的には詳しく解明されていないというから残念です。 ( ’o ’)鋭角ナ溝ッテ珍シイデスヨネ 東山手の高台の活水学院や海星学園の裏手をまわると、平地へ下る長い石段があります。 ばってん坂ともいわれているその石段の途中にあった小さな商店は、行き交う人々の休憩&井戸端会議所です。 「登ったり降りたりたいへんだけど、あたしゃココが好きだよ」。 坂や石段に鍛えられたおばあちゃんのおおらかな笑顔がとても素敵でした。 (=´∇`)健康ニモ良カヨ。

    もっと読む
  • 第111号【長崎・斎藤茂吉の歌碑をたずねて】

     日々深まりゆく秋。ふだんは見向きもしない文学書を開いてみたくなるのはなぜでしょう。 今回はそんな季節にふさわしく(!?)長崎ゆかりの歌人・斎藤茂吉の歌碑を訪ねました。 斎藤茂吉は明治15年(1882)、山形県生まれの有名歌人。医者としても大成した方です。 (□_□)/作家北杜夫ハ、茂吉ノ次男。▲斎藤茂吉寓居の跡 茂吉が長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)の精神病学科教授として長崎へやって来たのは大正6年(1917)12月。 前年、長男の茂太も生まれており、妻と子を東京に残しての単身赴任でした。 着任当初、しばらく宿泊したのが長崎駅にほど近い金屋町にあった「みどり屋」という旅館でした。 余談ですが、この「みどり屋」は明治時代に乃木希典や東郷平八郎といった、当時の陸軍関係者が定宿としていたところだそうです。 長崎に来たばかりの頃、茂吉は「あはれあはれここは肥前の長崎か 唐寺の甍に降る寒き雨」という歌を詠んでいます。まだ不馴れな町でのさびしい想いが感じとれます。 翌年の春、旅館などでの仮住まいを経て、やはり長崎駅に近い上町の一角に移り住みました。 現在、そこには「斎藤茂吉寓居(ぐうきょ)の跡」という碑があります。 茂吉は大正10年(1921)3月に帰京するまでここに住み、時折、歌人の集いなどを催していたそうです。 ( ’o ’)長崎デ多クノ歌ガ詠マレマシタ。 寓居跡から少し歩いた場所に緑の芝生に包まれた「桜町公園」があります。 ここにも長崎に来た当初に詠まれた歌を刻んだ碑がありました。 「朝あけて船より鳴れる太笛(ふとぶえ)の こだまはながし竝(な)みよろふ山」。 長崎で聞いた汽笛がよほど印象に残ったのでしょうか。 事実、後に茂吉は『作歌四十年』に、長崎に一夜寝た翌朝からこの汽笛の反響にひどく感動し、 長崎を去った後も忘れることができないでいるという話を記しているそうです。▲緑に包まれた桜町公園 茂吉は、長崎にいる間、丸山あたりでもよく遊んだようです。丸山には「斎藤茂吉遊地」と記された碑もあります。 またちゃんぽんも好きでよく食べていたとか…。 茂吉はしっかり長崎を遊び、味わっていたようです。 興福寺にも歌碑がありました。 「長崎の昼しづかなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花」。 人けも絶え静かな夏の昼下がりの唐寺の趣を詠ったものです。 ( ̄∇ ̄;チャンポンノ歌はナイノカナ? 茂吉は帰京する約1年ほど前より身体をこわし、養生のため雲仙や小浜、 そして佐賀県の古湯、嬉野といった温泉地へも行っています。 小浜には大正9年(1920)に二度訪れたそうで、町には記念の歌碑がありました。 「ここに来て落日を見るを常とせり 海の落日も忘れざるべし」。 小浜の夕日の美しさは茂吉に大きな感動を与えたようです。 (・_;)ソノ感動、シミジミ伝ワリマス▲小浜の美しい夕日を詠んだ歌碑◎参考にした本「長崎の文学」(長崎県高等学校教育研究会国語部会発行)「長崎事典~風俗文化編~」(長崎文献社発行)

    もっと読む
  • 第110号【西洋医学を日本で最初に伝えたアルメイダ】

     先日、著名な長崎の郷土史家の方と同席していた時のこと。某テレビ局からその方へ問い合わせの電話が入りました。 「先生、アルメイダって何ですか?」。何かの番組の下調べだったのでしょうか。「昔のどこかの地名ですか?」。 先生は笑いながら「それは人の名前。室町時代に長崎で最初にキリスト教の布教を行った人です」。 ( ’◇ ’)アナタハ、ゴ存ジデシタカ?▲ルイス・デ・アルメイダ(記念碑説明版より) アルメイダ(1525~1583)はポルトガルの貴族出身で、外科医の免許を持つ青年でした。 大航海時代だった当時、東インドを中心に貿易商として活躍。20代初めには膨大な資産を蓄えたそうです。 ある日、リスボンから東インドに向かう船中で、彼は運命的な出会いをします…。(“)? 運命の相手はイエズス会の神父と修道士でした。 実は彼らは日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの弟子たちで、 『信仰』と『ジパング(日本)』への熱い思いをアルメイダに話しました。 それが縁で1555年、日本(平戸)へ上陸。戦国時代の最中で、戦火に巻き込まれ苦しむ貧しい人々を見た彼は翌年、 人々を救うためにイエズス会の修道士へと転身したのでした。 アルメイダは西洋医学を最初に日本に伝えた人物といわれています。 というのも西日本各地で布教と同時に医療活動も行ったからです。 長崎へ来る前には豊後で、殿様の大友宗麟(おおともそうりん)に、 自らの資産を提供し病院や育児院までつくり、治療にあたっています。 キリスト教の布教はポルトガル貿易とともに行われ、その港は諸事情で各地を転々としていました。 そんな中、アルメイダが長崎に派遣されたのは、1567年の初冬のこと。 さっそく現在の春徳寺付近(長崎市夫婦川町)に布教所を設けると、すぐに500人近くの人がキリシタンなったそうです。 活動情況は具体的にはわかりませんが、他の地でもそうだったように、 医者としての力を発揮していたのかもしれません。 (゛)タブン、ソウダト…。▲アルメイダ渡来碑(夫婦川町) 長崎で多くの信者を得たアルメイダの滞在はたいへん短く、翌年の春には長崎を離れています。 それから1年後には長崎で最初の教会「トードス・オス・サントス教会」(現:春徳寺)が造られました。▲トードス・オス・サントス教会跡の碑(春徳寺の前) 実はイエズス会の宣教師らは布教活動と同時に長崎港の水深を計るなど港の調査も行っていました。 そしていよいよ教会、信者、港と条件の揃ったところで藩主・大村純忠へ開港を要請。 そうして1571年4月、長崎港は開港します。もしアルメイダの長崎での布教が上手く行ってなかったら…。 イエズス会は別の土地を探し、長崎は開港しなかったかもしれません。 (^∇^)マッ、開港ニ至ルニハ、他ノ要因モアッタデショウガ。

    もっと読む
  • 第109号【発掘!ワクワク、長崎奉行所!】

     9月初旬、長崎の歴史ファンをワクワクさせる催しがありました。 それは長崎奉行所跡地の一般公開です。 発掘場所となった県立美術博物館の敷地内(長崎市立山)には2日間の公開期間中、 残暑が厳しい最中にも関わらず約2,300人の市民が訪れ、その歴史的遺構を目の当たりにしたのでした。゜〇゜)コレガ長崎奉行所…。▲長崎奉行所跡(長崎市立山) 長崎奉行所が設けられたのは安土・桃山時代の1592年のこと。 その頃すでに海外貿易で栄えていた長崎は豊臣秀吉の直轄領で、 まもなく徳川の時代になってからも天領として奉行所は継承されました。 その場所は当初、本博多町(もとはかたまち/現在の万才町)にありましたが、 1663年、大火で焼失後、外浦町(ほかうらまち:現在の江戸町)に東役所と西役所の2つを設置。 さらに1671年には東役所が今回の発掘場所となった立山に移され、名称も立山役所と改称。▲発掘された階段が描かれている以後、立山役所と西役所が明治維新で廃止されるまで、長崎奉行所としての役割を果たしたのでした。 (□o□)/役所ガ2ケ所、オ奉行モ2人イタンダヨ。 長崎奉行所は、長崎の歴史にとって出島同様、重要な存在であったにも関わらず、 その面影を偲ぶような建造物の遺構はほとんど残されていませんでした。 しかし今回、発掘現場に行ってみると、奉行所の正門付近にあたる高さ約4mの石垣と、 幅7.8mもある広々とした階段が出土されていました。 その階段は素人目にも丈夫で上等そうな石でできています。 この階段を当時の役人らが行き交ったのかと思うと、つい何度も登り降りしたり、 階段を手で触ったりしてしまいました。 ( ’ー ’)歴史好キナラ分カルヨネ? 奉行所の東側には水の溜まった壕(ほり)が発掘されていました。 その水は発掘後に雨水が溜まったものではなく、背後にある山の水が地下から沸き出たものとか。 濠へ降りる石段もあることから生活用水として利用されていたようです。▲生活用水に使われていた壕また、この濠からは有田焼や波佐見焼などの国内の陶磁器だけでなく、 中国製の急須やドイツ製のボトルなど海外製品も数多く出土しています。 出島貿易を支配した長崎奉行所らしく、インターナショナルで豊かな暮しぶりが垣間見えます。 今回の発掘は、今年度で閉館となる長崎県立美術博物館の後に新しく建設さ れる歴史文化博物館(仮称)の建設にあたり、敷地を試し掘りした際に出土した ものだそうです。発掘された建造物の遺構が今後、利用されるかどうかは安全 面を考慮して検討されるとか。見学者からは「なぜ、このような重要な遺構が 埋められたままなのか」という声が多く聞かれました。しかし過去に埋めてし まった時代があったのは事実。江戸時代、出島貿易の盛衰に翻弄された長崎奉 行所は、今も尚、時代に翻弄されているようです。 ( ’o ’)/モット上手ニ残シテホシイデス。

    もっと読む
  • 第108号【くんちの心意気が伝わる、庭見せ】

     いよいよ来週の10月7・8・9日は、長崎くんちです。 今年の踊り町は上町(うわまち)の本踊り、元船町(もとふなまち)の唐船祭、 鍛冶屋町(かじやまち)の宝船・七福神、油屋町(あぶらやまち)の川船、筑後町(ちくごまち)の龍踊りで、 全部で5ケ町。本番を目前に、それぞれの町が最後の練習に励んでいます。 o(^ー^)o 今カラ、ワクワク ところで、くんちはこの3日間だけが注目を浴びがちですが、実はその前後にも、いろいろなくんち行事が行われています。 その中から今回は、本番前の10月3日に行われる「庭見せ」をご紹介します。 長崎以外では、あまり知られていませんが、 くんちファンの中には本番よりこの「庭見せ」の方が楽しみという人もいるほど見応えのある行事です。 (^▽^)/今年ノ庭見セハ明日!▲豪華絢爛の飾り物 「庭見せ」とは、各踊り町の家々で祭り当日に着る衣装や小道具、楽器などを飾り、一般市民にお披露目する行事です。 鯛やお菓子など踊り町に届いたお祝いの品々も一緒に所狭しと並べられ、とても豪華。 くんちに対する心意気を見せる行事だといわれるだけのことはあります。(`д´)ヤルバイ 「庭見せ」は江戸時代には「庭おろし」といわれていたそうで、 庭見せする家々では道に面した側の格子や障子を取り払い、小庭も含め堂々と中を見せていました。 キリシタンの取締が厳しかった時代、家の中をオープンにすることは「我が家はキリシタンではありませんよ」というのを暗に証明していたという説もあります。 現在では、民家よりも商店などの店先を利用した「庭見せ」が多いように感じます。 「庭見せ」は夕方から夜にかけて行われます。 仕事を終え、夕食を済ませた市民は、まるで散歩に出るかのように庭見せ見物に繰り出すのです。▲親子連れも多い、見物客たち庭見せをやる家では入り口に家紋入りの幕を張り、豪華絢爛な飾り物を、どうぞご覧あれとばかりにドドーンと並べています。 押すな押すなの大盛況の中、振るまい酒を出す所もあり、町はすでにお祭り気分。 気持ち良い秋の夜風に吹かれて、ホロ酔い気分で、庭見せ巡りを楽しむ人もけっこういらっしゃいます。 (*^ー、^*)オ酒ハ、ホドホドニ▲栗、柿、そして長崎の祝いに欠かせない桃カステラ 「庭見せ」いちばんの楽しみは、手の込んだ傘鉾やだしもの、衣装などを間近でじっくり見れること。 伝統芸能を支える人々の姿が垣間見え、それを受け継ぐ町の人々の熱い思いも伝わって来て、改めてくんちの素晴らしさを感じます。 モッテコーイヽ(▽⌒ヽ)(ノ⌒▽)ノモッテコーイ!

    もっと読む
  • 第107号【キリシタンの島・黒島へ】

     長崎県はキリシタンの里。 県内各地に戦国時代から江戸時代にかけて迫害を逃れた信者たちが密かに暮らした集落があります。 今回、ご紹介する佐世保・黒島もそのひとつ。信仰とともにある、静かで美しい島を巡ります。 長崎県佐世保市の相浦港からフェリーで約50分。 黒島は西海国立公園九十九島を構成する170余りある島のひとつで、 海路は風光明美な西海の島々の景色を楽しみながら行くことができます。 緑に覆われた黒島が前方に見えて来ました。その昔、海から見ると生い茂った樹木のせいで、 島が真っ黒に見えることから「黒島」と呼ばれるようになったとか。豊かな自然は今も変わらないようです。 ( ’∇ ’)ビューティフル・アイランド!▲海から見た緑豊かな「黒島」 黒島は周囲12.5km、面積5.37km2の小さな島。 現在、約770人が暮らしていて、その約8割がカトリック信者だといわれています。島の中心部に建つ「黒島天主堂」(国重要文化財)へ行ってみました。 素朴な中に神々しさを感じるこの天主堂は全国で17棟しかないといわれるレンガ造りの天主堂のひとつ (ちなみに17棟内、16棟は長崎県にあります)。 キリスト教解禁後の明治33~35年にかけて創建されたもので、 美しいステンドグラスや祭壇の床に施された有田焼のタイル、フランス製の聖鐘などが、 当時のまま備えられていました。▲黒島天主堂(国重要文化財) ステンドグラスの窓を開け放した教会内の空気はとても爽やかで、 信者の方々の日頃の掃除・手入れが行き届いているのが分かります。 ミサは日曜日だけでなく、毎朝6時からも行われていて、 熱心な信者の方々が島のあちこちから通って来るそうです。 ( ’_ ’)祈リノ島デス 車もめったに出会わない静かなこの島をひととおり巡っていて、気づく事がありました。 民家が島内のあちこちにポツン、ポツンと点在しているのです。しかも生い茂る樹木に覆い隠されるようにヒッソリと。 島の人の話によると、これはかつて潜伏キリシタンとして密かに信仰を続けた先祖たちの知恵で、 それぞれが目立たぬよう離れて暮らしていた名残りだということでした。 黒島には天主堂の他にも見所があります。島の北部の海岸にある県の天然記念物「串ノ浜岩脈」です。 800万年前の地殻変動によって地下のマグマが地表の岩盤のさけ目に入り込んで冷え固まったもので、 地球の大きな活動を感じる、ダイナミックな地質の姿を見ることができます。▲串の浜岩脈(長崎県天然記念物) この他、島内には手付かずの自然林や、黒島特産のミカゲ石の産出場などもあります。 街中の観光地とは違った素朴な風情が魅力の黒島。今度はゆっくり訪れようと思います。 (・▽・)/黒島デ、ノンビリシマショウ!

    もっと読む
  • 第106号【幻想的な中国盆会】

     9月はじめ、唐寺・崇福寺(長崎市鍛冶屋町)では赤や黄色、 桃色の灯篭(ていろん=提灯)が飾られ、幻想的な雰囲気に包まれました。 伝統行事の「中国盆会(ちゅうごくぼんえ)」が行われたのです。これは中国式の盆祭り。 毎年、旧暦の7月26日から3日間、地元長崎や全国各地の華僑の人々が大勢集います。 (□o□)/崇福寺ハ、福健省北部出身者の菩提寺▲期間中、朝夕読経が行われた崇福寺(大雄宝殿) 長崎市民はこの行事を「中国盆(ちゅうごくぼん)」と呼び親しんでいます。 正式には「普度蘭盆勝会(ぽーるらんぼんしょうえ)」というそうで、華僑の 人々は頭部分だけとって「ぽーる」と呼んでいます。もともと中国の方では、 「普度」を「プオトウ」と発音していて、それがのちに「ぽーる」と割り切っ た言い方になったそうです。(`ー´)長崎版ノ中国語? このお盆の間、崇福寺は異国のお盆を一目見ようとする地元市民や観光客で賑わいます。 境内は帰って来た御霊にゆっくりくつろぎ遊んでもらうためのお風呂や劇場などをデザインした小さな家と、金紙、銀紙でこしらえた高さ1m ほどの「金山」、「銀山」などが飾られます。 お堂の中は、果物や中国菓子など白い器に盛られた何種類ものお供物でいっぱいです。▲金銀財宝を意味する金山・銀山 この「ぽーる」では、先祖だけでなく「施餓鬼供養(せがきくよう)」といっ て、死後も苦しんでいる霊をはじめ、動物、植物、虫にいたるまで全世界の生 きものを対象に供養します。日本のお盆が先祖や身内の霊だけを供養するのに 対し、たいへん大きな意味があります。(/\)全テノ生物ニ感謝 亡くなった人が、あの世でお金に困らないようにと、お金に見立てた長方形の紙を燃やし、 あの世へ送金するという独特の風習も見られました。 あたりには中国の線香の煙がたちこめ、日本のお盆では見られない光景が繰り広げられ、 まさに異国情緒・長崎といった感じです。 華僑の人々が静かに線香をたむけて祈る中、境内をあちこち動き回るアマチ ュアカメラマンたちの姿が目立ってました。毎年この行事を撮影しているとい う地元の80代の男性は「昔は華僑の人々はみな中国の服を着て参加してたけど、 今はあまり見なくなったよ」と懐かしそうに話してくれました。 この中国盆会の見どころは、何といっても最終日の夜。金銀財宝を意味する 約2百本の「金山」「銀山」を燃やし、お金を先祖に持たせて送り出す習わし です。午後10時頃、火をつけられた金山・銀山は、爆竹のはじける音と同時に 勢い良く燃え上がりました。こうして華僑の人々に手厚く見送られた御霊は、 きっと満足して帰ったに違いありません。(^o^)/~~マタ来年▲最終日、燃え上がる金山・銀山◎参考にした本/「時中」(長崎華僑時中小学校史・文化事誌編纂委員会刊)「長崎事典・風俗文化編」(長崎文献社刊)

    もっと読む

検索