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  • 第149号【長崎のホテル王は美貌の才人 ~稲佐お栄~】

     明治中期。長崎市稲佐(いなさ)は冬の間、氷に閉ざされるウラジオストックに代わって、 ロシア極東艦隊の基地として栄えていました。 その稲佐でホテルを経営した「稲佐のお栄」こと道永栄(1860~1927年)は、 天草出身で代々庄屋の家柄でしたが、12歳の頃に相次いで両親を失い、親戚を頼って長崎に入りました。 20歳頃から稲佐のロシア村で働き始めたお栄さんは、旅館の女中や食堂の給仕をしながら、 独学でロシア語を身につけるほど賢くて努力家でした。 (^∇^)長崎三大女傑ノ1人デス。 その上、生来きっぷがよく、社交的、色白で目鼻立ちが整った大変な美人であったお栄さんは、 下は水兵から上は将官までロシア海軍の憧れの的でした。 稲佐のお栄さんの名は、ウラジオストック、遠くはモスクワまで聞こえていたそうです。 明治24年(1891)、後の帝政ロシア最後の皇帝、ニコライ皇太子や、ロシア東洋艦隊指令長官クロパトキン少将が、 稲佐を訪問した際も心のこもったもてなしをしたお栄さんは、稲佐にロシア人向けホテルを、 茂木にも外国人向けのリゾートホテルを造り繁盛させます。 経営手腕もさることながら、彼女の人柄が多くの人々を魅了したのだと言われています。 日露戦争(1904~1905年)が始まると、お栄さん一家も数々の迫害を受けますが、 終戦後は延べ9000人以上のロシア軍捕虜の世話を引き受け、ロシア人墓地にも私財を投じました。 国境を越え、地位や名誉にとらわれず、真心込めて人と接したお栄さん…そんなお栄さんに思いを馳せながら、 「お栄さんの道」をそぞろ歩いていたら、さわやかな一陣の風が通り過ぎていきました。 (^ー^)ゴルバチョフ元大統領モ墓地ヲ訪レマシタ。▲ロシア人墓地のある悟真寺(長崎市稲佐)▲お栄さんの碑(長崎市稲佐)▲ゴルバチョフ元大統領も訪れた、ロシア人墓地

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  • 第148号【困ったときのプチだのみ ~お諏訪の森の狛犬さんたち~】

     「苦しい時の神頼み」という諺がありますが、こみくら的には「苦しい時だけ神頼み」という不信神者?! 「苦しい」というほどではないけれど、「困ったなあ」という時には「困った時のプチだのみ」はいかがでしょうか?  秋の大祭「おくんち」で有名な諏訪神社には、いろんなご利益を持った狛犬さんがたくさんいます。 今回は、そんなプチな願いを聞き届けてくれそうな諏訪神社の狛犬さんたちをご紹介します。 まずは、本殿に向かって左手に一対の向き合う狛犬さんたち。足には白いコヨリがたくさん巻かれています。 家出止め、借金止め、さらには受験のすべり止め、禁酒・禁煙など、止めたいことを願う場合は、 狛犬さんの足にコヨリを巻いて、神様にお願いしましょう。 お次は、鳥居の真ん中に鎮座して、口にくわえた筒から水を滴らす狛犬さん。 ここの水は、何でも倍に増やすご利益があるそうです。お金を洗えばお金が増えて、女性が飲むと安産になるとか。 (^ー^;所持金全部洗ッチャイマシタ。 さて、次の狛犬さんは、御用とお急ぎのある方には、とってもありがたい狛犬さん。 お百度参りは願をかける人が境内を百回巡ってお参りするものですが、こちらの狛犬さんは、台座ごとくるくる回ります。 一回転させると、お百度参りの一度に相当するとか。くるくるませば、お百度参りもあっと言う間。 (^。^;)アァ、アリガタヤ。 最後にご紹介するのは、刺抜き地蔵ならぬ、刺抜き狛犬さんです。 お口の中に手を差し入れると、心に刺さった棘(トゲ)を抜いてくれるそうですよ。 ( ̄∇ ̄;抜キタクナイ棘モアル?▲コヨリがブーツみたいな狛▲何でも倍返し!?太っ腹な狛犬さん▲回り舞台で祈願成就▲強面でも癒し系…

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  • 第147号【近未来的廃墟の島 ~軍艦島~】

     灰色の海に重く垂れ込める雲。今にも一雨来そうな不穏な空気の中、船は一路軍艦島へ。 「軍艦島」は、長崎県西彼杵郡高島町にある端島の異名です。 島の周囲をぐるりと取り囲んだコンクリートの防波堤と高層の建築物からなる島影が、 戦艦「土佐」に似ているところから、「軍艦島」と呼ばれるようになりました。 ( ̄o ̄;戦時中、米軍ニ攻撃ヲ受ケタ事モ…。 もともとは小さな無人島に過ぎなかった端島ですが、江戸時代に石炭が発見され、 佐賀鍋島藩が陶磁器つくりの燃料として石炭を採掘するため、人が住むようになります。 その後、三菱が鍋島氏から買取り(明治23)、八幡製鉄所へ製鉄用原料炭を供給するようになりました。 端島は幅160m、長さ480mという小さな島で、最盛期には5000人を越える人がここで暮らしました。 これは当時の東京の10倍近く、世界一の人口密度でした。 住宅不足を解消するために、大正5年に日本最初の鉄筋コンクリート高層アパートが建設され、 以降も次々と高層アパートが建設され、果ては建物の上にまた建物を建築する等され、 独特の立体迷路のような空間を造り上げました。海上産業都市としての往時の活況ぶりが偲ばれます。 やがて、燃料需要が石炭から石油に取って代わるエネルギー改革の合理化の波にのまれ、 昭和49年に閉山し、島は再び無人化しました。跡には昔の名残の高層建築群が残されました。 今なお、映画やドラマに登場したり、写真集が発行されたり、 人々の思いを掻き立てる不思議な廃墟の島は、何かを象徴するかのように、 激しい雨に打たれながら沈黙しています。▲あいにくの曇り空。灰色の海に浮かぶ軍艦島▲日本最初の高層アパート群▲近くで見ると、圧倒されるような迫力ェ

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  • 第146号【伝説の古代樹をめぐる冒険 ~サザンパーク野母崎~】

     博物学者のバックスター博士は、伝説の巨木「古代樹」を探していました。 ある日博士は、東方のある国で発見された古い石版を骨董屋で見つけます。 調べてみると、中から光り輝く種の化石が出てきました。 どうやら化石は探し続けた古代樹の種!? すぐに博士は東方の国へと旅立ちます。 そして、ヤシやアコウ、サボテンなどが生い茂る中、辿り着いたところには、 巨大な木や恐竜の骨が!! \(〇_o)/ こんにちは! まるで、映画「インディ・ジョーンズ」のような物語から始まりましたが、ここは「サザンパーク野母崎」。 長崎の人には、「亜熱帯植物園」と言った方がピンとくるかもしれませんね。 対馬暖流の影響をうけた亜熱帯のような気候をうまく利用された天然の景色に、テーマパークの面白さが加わった広大な県立植物園です。 園内には家族連れが中心ですが、カップルもチラホラ。 かく言うこみくらが誰と来たかはさておき、温室の中の初めて見る不思議な植物に感心したり、 バックスター博士が探した光る種の化石や目のない魚などを探検できる洞窟にわくわくしたり、 岬の突端から大海原を眺めて思いを馳せたり…。こども心と冒険心が甦るような場所です。 さて、冒頭に登場のバックスター博士、地中海風のビジターセンターの中に、冒険の数々がジオラマで再現されていました。 そして博士の書斎は資料室として解放され、貴重な化石見本や多くの書物が展示されています。 ちょっと早いけど夏休みにはイベントも盛りだくさん。要チェックですよ。( ̄∇ ̄)※サザンパーク野母崎は2017年3月に閉園いたしました▲恐竜の骨を象った滑り台良く出来てます。▲映画に出そうな古代樹と吊り橋▲伝説の古代樹を探すバックスター博士の部屋

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  • 第145号【理由ありユ~レイは甘いもん好き?!】

     先週は早々と台風6号が九州地方を襲いましたが、皆様の地域はいかがでしたか?  被害に遭われた方には心よりお見舞いを申し上げます。 さて季節的にはこちらも少々早めですが、今回は長崎に伝わる昔話「飴屋の幽霊」をお届けします。 ひゅ~~(m --)m 時は江戸時代中頃、長崎の麹屋町にある一軒の飴屋に、夜な夜な飴を買いにくる女。 不審に思った主人が後をつけていくと、女は墓場の中で消え、そこから赤ん坊の泣き声が!  急いで墓を掘り返すと、飴を買いに来ていた女の亡骸に抱かれるように生まれて間もない赤ん坊…。 母親の死後、生まれた赤ん坊を幽霊となってまで育てたという、 母の深い愛情と命の大切さを伝える民話として、光源寺(長崎市伊良林)に伝えられています。 光源寺には、幽霊の木像や掛け軸があり、毎年8月16日に開帳して飴を供えます。 この時、お参りに来た方々にも飴が配られ、お参りすると安産になるとか、 この飴を食べると母乳がよく出るという、ご利益があるそうです。 さてさて、幽霊話の続きです。 母の墓の中で生まれた赤ん坊は、父親に引き取られ、大切に育てられたそうで、 そのお礼に再び幽霊が飴屋の主人の枕元に現れ、当時水不足で困っていた町の人のために水の出る場所を教えます。 そこは幽霊井戸と呼ばれ、町の人たちは幽霊に感謝しながら大切に使いましたとさ。 なんだか心がほんわか温まる長崎の幽霊のお話でした。 (^^;全国ニモ似テイル話ガアルソウデス。▲子育て幽霊の民話と幽霊像がある光源寺▲幽霊井戸のあった場所▲飴屋があった麹屋町の一角

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  • 第144号【長崎の気になる木?!】

     夏には心地よい木陰を、秋には美しい紅葉を提供してくれる街路樹。 長崎市の街路樹で一番多いのはナンキンハゼだそうです。 ナンキンハゼは長崎市の木に指定されていますが、名前からも分かるように中国原産の帰化植物です。 帰化植物とは原産国から運び出され、異国の地で繁殖した植物。 古くから、外国との交流のあった長崎には、食用・薬用・観賞用という目的で持ち込まれ、 全国的に栽培されるようになったものもあれば、すっかり野生化して、 長崎の街のそこここで、たくましく繁殖しているものも数多くあります。 長崎には国内唯一という珍しい木もあります。 長崎公園(諏訪神社そば)のトックリノキと出島のデジマノキ(県指定天然記念物)。 文字通り長崎に根を張って、市民に親しまれています。 こうした植物たちが、異国情緒漂う長崎の風景に一役かっていると思うのは私だけでしょうか。 逆に、長崎から遠い国々へ旅立った植物もたくさんあります。 江戸時代にオランダ商館医として来日したツェンペリ(1775年来日)とシーボルト(1823年来日)は、 それぞれ長崎で採取した植物を標本にして「日本植物誌」をつくりあげました。 どちらにも長崎が標本原産地として記録されており、これらの標本の多くはスウェーデンのウプサラ大学、 ドイツのライデン国立植物標本館に今も良好な状態で保存されているそうです。 (´・` )行ッテミタイ……。▲ナンキンハゼの街路樹奥に浦上天主堂が見える▲ユニークなトックリノキ▲天然記念物のデジマノキ

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  • 第143号【クサっちゃう話!  ~鯖腐らかしの岩と尻腐れの浜~】

    降っては止み、止んでは降るスッキリしないお天気ですね。 こんにちは、こみくらです。こんなお天気じゃ、あぁ身も心もクサりそう…と思っている方はいませんか?  この際、思い切ってクサっちゃいましょう!!  さあさあ、こみくらがご案内するクサっちゃうスポットへどうぞおいでくださいませ。 まずは、国道206号線から見える奇妙な岩。俗名「鯖腐らかしの岩」。 今も昔も時津街道の名物です。「ほら、あれが鯖腐らかしの岩」と言うと、 ほぼ間違いなく相手から「知っとっさ!」と返されるくらい長崎では有名。 ( ̄∇ ̄)/Back No.128号(WEB版)モゴ覧下サイ。 次は、大瀬戸町の尻腐れの浜(尻久砂里浜)… え、お尻がくさっちゃうの!?  面白い名前ですが、「お尻が腐れるまでずっと座って眺めていたいほど、きれいな浜」ということに由来しているそうです。 名前に反して、いえ名前の通りというべきでしょうか…(ややこしいなぁ)澄んだ水と白い砂は本当にきれい。 木陰を渡る風はさわやか。彡彡(´ー` )ウットリ… 引き潮になると、岩場の潮溜まりでは、イソギンチャクや小魚なども発見! 砂浜のすぐそばには、炊事棟やトイレ、シャワーなどの設備をはじめ、 テントサイトもあり、海水浴やキャンプもOK! d(≧∇≦) 街の喧騒もここまでは届きません。夜になると、聞こえてくるのは虫の音と波音だけ。 星空も眺めながら、身も心もリフレッシュ!!う~ん、梅雨明けが待ち遠しいですなぁ。※施設のご利用は事前予約が必要です。詳細は尻久砂里海浜公園キャンプ場へお問い合わせください。▲今も昔も長崎街道のシンボル▲キレイな海に青い空取材日、天気で良かった~▲遠浅の静かな入江には親子連れがチラホラ。

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  • 第142号【雨の日は雨と遊ぶ ~龍頭泉と小崎侃美術館~】

     6月に入り梅雨も間近。こんにちは、こみくらです。 梅雨を好きな方は少ないと思いますが、自然にとっては恵みの雨そのもの。 ひと雨ごとに緑も濃くなっていく今の時期にこそ、外に出て自然観賞はいかがでしょうか? 東彼杵町の千綿渓谷の上流にある「龍頭泉(りゅうとうせん)」と呼ばれる滝は、 江戸時代の儒学者、広瀬淡窓(ひろせ・たんそう)が渓谷を訪れたとき、 この景観を伝説の龍に例えて命名したそうです。 龍のように轟々とうなる滝や岩の上を流れる渓流の「動」と緑の木々の「静」の対比が、別世界に誘います。 しとしとと、そぼ降る雨の中に佇むと、まるで山水画の中にいるような気分。、ヽ`、ヽ``、ヽ```ヽ、T(^-^)傘ハオ忘レナク。 雨がひどくなったら、山の中腹にある侃(かん)美術館へ、急ぎましょう。 龍頭泉の奥、巨大な奇岩と原生林の中に朱色の屋根が見えてきます。 長崎在住の版画家・小崎侃さんの美術館です。 侃さんの作品は「山頭火」「原爆」「葉隠」シリーズの作品が有名ですが、 美術館には版画の他、油絵、書、彫刻なども展示されています。 山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし  山頭火 漂泊の俳人、種田山頭火の詩と小崎侃の版画、そして窓から見える渓谷の 自然に心を縦横無人に遊ばせたなら、渓谷にかかる虹を見ることができるかもしれませんよ。※侃美術館へ入館は事前予約が必要です。▲四季折々、様々な表情を見せる滝(龍頭泉)▲千綿渓谷には48の淵がある▲大正モダンを感じさせる和風建築の侃美術館

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  • 第141号【♪ほ・ほ・ほ~たる・来い。】

     え?!もうそんな時期?と驚いているあなた。 ホタルといえば、夏の風物詩なんてのんびり構えていませんか?  ホタル観賞時期は、地域や種類で多少、異なりますが、5月下旬をピークに前後の約一ヶ月。 今が一番、美しく輝いていますよ。 長崎のホタル観賞スポットは数々あれど、こみくらオススメは… あぁ、教えたいような、教えたくないような…ゆれる女心ですわ… (思い切って)ええい、ここだぁ!西彼杵郡多良見町西河内名。 目指すは「遊びの家共同保育園」。 高速道多良見インターチェンジ近くから、喜々津川沿いを山奥目指してどん詰まりにある、 昔ながらの民家を利用した保育園です。 この保育園の前を流れる川には、毎年かなりの数のホタルが出没とのこと。 こみくらも期待をふくらませて川辺へ。時計は7時半を少し回った頃、 日暮とともに、ほのかな蛍光グリーンの瞬きが少しずつ増えてきました。 静かに灯る姿はとても幻想的です。 そして日もとっぷり暮れた頃、クリスマスツリーのように、 沢山の灯りがリズムを合わせて輝きだしました。 (☆ー☆)ンー大満足!▲左側にある川がお薦めホタルスポットです▲民家を利用した遊びの家共同保育園(..;ホタルの写真が撮れなくてゴメンナサイ……

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  • 第140号【チャッチャカ・ちゃっちゃ・長崎のお茶!!】

     夏も近づく八十八夜♪ 新茶のおいしい季節ですね。 長崎とお茶の歴史は古く、平安時代末期の頃、 遣唐使の時代に禅僧・栄西が大陸から平戸の地に禅とお茶を持ち帰ったのが始まりで、 それらが後に本格的なお茶の栽培として、全国各地に広まったといわれています。 幕末には、長崎市油屋町に住む大浦慶(おおうらけい)という女性が、 日本で始めてお茶の貿易を手がけ、一代で巨万の富を築きました。 当時、世界市場においては、お茶は嗜好品として珍重され、 日本に来た外国商人たちは、喜んで日本緑茶を買い求めたそうです。 かの有名なトーマス・グラバーも、大浦海岸居留地に、大規模な製茶工場を建て、お茶を輸出しました。 長崎県産のお茶は、霧の発生しやすい山間で主に生産されており、 その代表的な銘柄には「そのぎ茶」と「世知原茶」です。 ともに「蒸製玉緑茶」で深みの有るふくよかな香りが特徴です。 八十八夜、つまり5月の初旬に収穫される新芽が、一番茶。 梅雨明け後、7月に収穫されるのが、二番茶。最後に8月ごろに収穫されるのが三番茶。 美しい緑色と格別の香りが味わえるのは一番茶。 二番茶、三番茶となるにしたがって、黄色になってきます。黄色はカテキンの色。 動脈硬化、老化防止、発ガン性予防などの効果があるといわれるカテキンが一番多く含まれるのは、三番茶です。 お茶をおいしく入れるコツは、一杯分をじっくり愛情込めて入れることだそうです。 さて、とっておきの一杯を、あなたは誰に入れてあげますか?▲美しく刈り込まれた緑の茶畑▲摘みたての生茶(なまちゃ)▲生茶を蒸しているところ

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  • 第139号【初夏の味と女の子 ~シオちゃんはエライ!!~】

     こんにちは。初夏を迎え、日差しもギラギラしてきました。 この時期、期間限定の長崎の味と言えば、ズバリ茂木ビワ!  冷蔵庫でほどよく冷やすと、最高にうまぁい!!  今日は、茂木ビワにまつわる女の子のお話をご紹介します。 1818年(文政元)、三浦シオは、現在の長崎市北浦町(もと茂木町)の百姓、吉右衛門の次女として生まれました。 シオが代官屋敷に奉公に出されたある日のこと、代官へ唐人船船主から中国のビワが贈られました。 シオはその種を持ち帰り、自宅の庭に蒔いて育てました。 当時、日本には在来の野生種のビワがありましたが、実も小さく渋い味でした。 もしかすると、おいしそうに食べる代官たちの様子を、シオはそばで見ていたのかもしれませんね。 シオの育て方が良かったのか、気候に恵まれたのか…中国ビワは異国の地でも甘く美味しく育ちました。 1850年(嘉永3)、隣家の山口権之助が枝をもらい、接ぎ木をします。 その後も、三浦万次郎や三浦八十八らをはじめ、接ぎ木は繰り返され、中国ビワは次々と繁殖しました。 (^-、^)オイシイ噂ハ早カッタ!? まさか時を経て長崎県を代表する果実にまで成長するとは、シオも予想だにしなかったことでしょうね。 ちなみに、明治30年2月21日、シオは家族に囲まれ、80才の高齢で亡くなったそうですよ。 ( ̄∇ ̄)長寿もビワのお陰?※参考文献 文献社発行「長崎の女たち」長崎女性史研究会著▲私たち傷つきやすい青い果実なの▲傷つきやすいビワの実は袋の中で育ちます。▲採れたての茂木ビワ

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  • 第138号【激動の歴史とそろばんドック】

     こんにちは、G.W.はいかがお過ごしでしたか? 今回は、5月の風に揺れる新緑と赤レンガの美しさに惹かれて訪れた、 小菅町(こすげ)のそろばんドックをご紹介します。 頃は幕末、ペリー来航を機に日本は鎖国を解き、国防を目的とする海軍の設置、軍艦の建造が始まります。 当時、幕府をはじめ、土佐や薩摩なども軍艦を有しますが、修船場がなく、 せっかく購入しても就航できない船も多かったことから、この地に白羽の矢が立てられました。 そして、まさに歴史の転換期の明治元年12月竣工。 以来、数多くの傷ついた船がここで癒され、再び大海へと船出しました。 あの有名な咸臨丸がここで修理された折には、明治天皇も訪れたそうです。 その後、対岸地区に官営の造船所(長崎三菱造船所の前身)ができ、 次第に業務は先細り、大正9年には廃止状態となりました。 再び、活躍したのは大戦を機に昭和12年。またもや歴史の転換期でした。 大戦中は軍用艦艇や魚雷艇を建造しましたが、終戦後は細々と漁船の補修場として利用され、 昭和28年に完全に閉鎖されました。 その後、昭和44年に重要史跡として国指定を受けましたが、 グラバー園等の観光施設からも離れているため、訪れる人も無く、ひっそりとしています。 多くの船を送り出すという仕事から解放された今は、静かに時の移り変わりを見守っているのかもしれませんね。▲小菅修船場跡通称「そろばんドック▲現存する日本最古のレンガ作り建物「曳揚小屋」▲護岸の石積みは幕末のもの

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  • 第137号【中国寺で動物探検!?】

     日本のお寺は白黒・グレーのモノトーンの世界ですよね。 これはこれでとても美しい、厳粛で清浄な趣がありますね。 ところで長崎には俗に「あかでら」と呼ばれる朱色の美しいお寺がいくつかあるのをご存知ですか。 これらはその昔、長崎に渡来した中国人らが建立した中国寺なのです。 中でもとりわけ有名なのが鍛冶屋町にある崇福寺。大雄宝殿と第一峰門がそれぞれ国宝。 その他にも護法堂、三門などの建築物の5つが重要文化財という、 その道の専門家にとっては垂涎の的の歴史的遺産なのです。 ところが、そうした見事な細工や意匠にまぎれて、私が気になるのは、魔可不思議な動物たちの存在。 中国の三大聖獣といえば龍、鳳凰、麒麟。 龍は天を駆け巡る力の象徴、鳳凰は聖徳を備えた天子が現れる吉兆、麒麟は聖人の出現の予兆と言われています。 魚とコウモリは、福を運んでくる縁起の良い生き物として、今もお祝い事に欠かせない生き物です。 これらの聖獣、生き物の意味合いを考えながら、建築物のあちこちに装飾として隠れているものを発見していくと、 当時の時代背景や人々の思いなどが、かいま見えてくるようです。 ちなみに、私が発見した生き物は獅子(ライオン)3頭、シャチ18頭、魚1尾、龍5匹、コウモリ8匹、麒麟12頭、鳳凰2羽でした。▲彩色が美しい崇福寺、第一峰▲天(上)にシャチと龍▲石碑に彫られた一対の麒麟▲おまけ1蝙蝠、龍▲おまけ2獅子(ライオン)

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  • 第136号【空と海と大地の力 (牧場の里あづま)】

     こんにちは。学校、会社、サークル活動、習い事…4月から新生活が始めた人も多いですよね。 そろそろ、緊張がピークに達する頃では、ありませんか? こんな時、私こみくらは、空と海と大地に、だあぁと溶けに行きます。 牧場の里あづまは雲仙に向かうグリーンロードを車で10分。 南に分かれる道に入ると、段々畑の、のどかな風景。 やがて、いくつかのなだらかな牧草地の丘を越えて辿りつくのは、なぜか万里の長城。 ミニ版だけど、風景になじんでいい感じです。 車を降りて草の上に腰を下ろし、彼方を眺めれば、 島原半島の根元にある森山町と愛野町が広大な海を二分しています。 こちらもミニ天の橋立といったところでしょうか。 左に橘湾と右に有明海。水平線の向うに心が飛んでいきます。 仰向けに寝転ぶと、草のひんやり感と、徐々に伝わってくる大地のぬくもり。 頭上にはどこまでも広がる果てしない空。白い雲がゆっくりと少しずつ、形を変えていきます。 地球の一部になった自分に、空と海と大地の力が注ぎ込んでくるようです。 再生してきた自分がむくむく起き上がってきましたよぉ。 片手を腰に、こぶしを振り上げここで一発。 「がんばるぞぉ!」さあ、5月に向けてGO!(モーレツに走り出すこみくらであった…)▲万里の長城の形をした展望▲広い敷地に遊戯施設や牧場もあります。

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  • 第135号【レトロ&ハイカラ気分はいかが?】

     こんにちは。G.Wを目前に控え、お出かけの計画は決まりましたか?  今回、私こみくらがオススメしますのは、お金も時間もかけずに、ハイカラ &レトロな気分に静かに浸れる場所です。 観光客がひしめくグラバー園から浪の平町の方へ5分ほど歩いたところに、 ペパーミントグリーンのペンキ塗りの小さな洋館があります。通称、南山手乙 9番館。明治中期に現在地に住宅として建てられたものを復元したものです。 現在は、須加五々道(すか ごごどう)氏の作品を展示する美術館として利用 されています。 作品は、水墨画の技術に西洋美術の遠近法を取り入れた空間の美しさ。そう いえば、この洋館も、日本人大工が造ったもの。和と洋が混ざりあうことで、 ハイカラなのに、どこか懐かしい独特の雰囲気を感じます。 隣にあるレンガ造りの建物は、明治30年代頃、当時南山手の居留地に住んで いた英国人のウォーカー兄弟が、工場として造ったもの。日本初のジンジャー エールやラムネなどの清涼飲料水が、ここで生産されました。2階の重厚な鉄 窓と1階のアーチ型窓のコントラストがレトロな雰囲気を醸し出してます。 今でも、地元の人が親しみを込めて呼ぶ「ウォーカーさんのラムネ工場」その ままの姿で、現在は綱(ロープ)を作る工場になっています。▲通称、南山手乙9番館長崎市須加五々道美術▲須加五々道作品の展示中▲レトロな雰囲気の寶製綱さんは元ラムネ工場

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