第153号【異国から届いた美少女からの手紙 ~ジャガタラお春~】
「あら日本恋しや、ゆかしや、みたや、みたや……」 日本への望郷の思いが綴られた手紙が長崎に着いたのは、今から350年程前のこと。
寛永16年(1639)10月、幕府の鎖国政策により、長崎市中に在住していた外国人と、 その家族287人がバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ)へ追放されます。 その中に14歳の少女「お春」がいました。青く大きな瞳に透き通るような白い肌。 お春は美しく、そして頭の良い少女だったそうです。 (□_□)/ジャガタラ=ジャカルタです。
冒頭の切ない手紙は、お春がバタビアからこっそりと送ったものです。 お春は明けても暮れても故郷へ帰ることを祈って年月を送りますが、 最期まで故郷の土を踏むことはできませんでした。
聖福寺(長崎市玉園町)の境内にあるお春の碑には、歌人吉井勇の句が刻まれています。 「長崎の鴬は鳴く いまもなほ しゃかたら文の お春あはれと」 また平戸観光資料館では、現存する4通の内、 3通のジャガタラ文(お春のではありません)が保存・展示されています。 (ノ_・、)望郷の想いにジ~ン…。
ところで、お春は異国の地でどのような生涯を送ったのでしょうか。 21歳の時、平戸生まれのシモンセンと結婚。 東インド会社へ入り、順調に出世したシモンセンは、退職後に持ち船貿易を営み、 バタビア教会長老も務める名士だったそうです。 お春は3男4女をもうけ、金銭的には裕福な生涯を送ったとのことですよ。
▲聖福寺境内にある
じゃがたらお春の碑
▲長崎の「唐四カ寺」の
ひとつ。聖福寺