第155号【ピントコさんの恋 ~ピントコ坂~】
長崎は坂の町、港を見下ろす南山手の丘に「どんどん坂」、墓地へ続く寺町 の斜面に「ヘイフリ坂」…なんとも不思議な呼び名ですね。そして茂木街道の 一部(上小島~田上付近)、「ピントコ坂」。前者二つについては、ちゃんぽん コラムの読者の皆さんはご存じですよね? (^^;バックナンバーデ探シテネ。
さて、このピントコ坂、これはでこぼこな道という本来の意味よりも、長崎 では唐の貿易商人、何旻徳(カ・ピントク)さんが語源となっています。元禄 2年(1689)に完成した唐人屋敷には、中国経由のキリスト教思想輸入の禁止と 密貿易の取り締まり、長崎の婦女子との風紀上の問題を起こさぬように、との 目的がありました。
ところが、唐人屋敷内でも富裕な「何」氏は、筑後屋(引田屋とならぶ丸山 で最高の茶屋)の遊女登倭(とわ)となじみになり、子をなしましたが、元禄 3年(1690)、偽金づくりの疑いで死罪になってしまいます。哀しみの中、登倭 は亡きがらを坂の近くへ葬り、自らも命を絶ったと伝えられています。その後 二人をいたみ、坂道の途中に「阿登倭(おとわ)の石碑」が建立されました。 (□-□)/近クニハ愛八サンノオ墓モアリマス。
最期に唐人さんが丸山遊女に伝えた、九連環(きゅうれんかん)の歌をご紹介 しましょう。「みよみよ、我にたまいし九連環を、九つ九つ連なる鎖の指輪。 もろ手かけても解きほどかれぬ、小刀で切りても割きかねる、えい、なんとし よう」…唐人と丸山遊女の愛情を唄った俗謡ですが正しい解釈とピントクさん との関連を探して、コミクラは今、奮闘中です。 (><;調ベキレナカッタノ…
▲閑静な住宅街の中に
ある、現在のピントコ坂
▲ピントコ坂と愛八さんの
お墓の案内板
▲ピントコさんと
阿登倭さんの墓碑