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  • 第209号【郷くんち~竹ん芸~】

     みこしを担いで町を巡行したり、神楽や奉納踊りを披露したりなど、全国各地が神社の秋祭りで賑わう10月。収穫を感謝し、神様にお供えものを捧げる秋祭りの表情は、それぞれの地域の歴史と風土を映し出し実に多彩です。あなたがお住まいの町では、どんな秋祭りが行われましたか? 長崎市では10月7~9日の「長崎くんち」が終わったあとも、市内の約30地区で「郷(さと)くんち」と呼ばれる秋祭りが行われています。11月下旬頃までは、市内のどこかで賑やかな祭り囃子が響き、郷土芸能が繰り広げられるのです。ここ数年、各町とも郷くんちに力を入れているのか、子供も大人も積極的に参加して出し物の練習にはげんでいる様子を見かけます。地域の人々の親ぼくを深めながら、町おこしにもつながる郷くんち。これからの人づくり、町づくりにどんどん活かせたらいいですね。 長崎の郷くんちは、龍踊りを披露する「滑石くんち」、浮立など郷土芸能を奉納する「三重くんち」、「式見くんち」などがあり、それぞれ地域にゆかりある出し物が行われ賑わいます。中でも人気を誇るのが、「若宮(わかみや)くんち」の「竹ン芸」(たけんげえ)です。長崎市伊良林にある若宮稲荷神社の奉納踊りで、長崎市の無形文化財に指定されています。 毎年、10月14、15に行われる「竹ン芸」は、白装束に狐のお面をつけた二人の若者が竹によじのぼって芸をするのですが、そのアクロバティックな妙技を一目見ようと年々見物客が増える一方です。今年もその舞台となる神社の境内には大勢の人が集まり、楽しみました。 200年ほど前、地元の八百屋町が諏訪神社へ奉納したのがはじまりと伝えられる「竹ン芸」。明治に入ってから現在の神社での奉納踊りになったそうです。使用される青竹は、10メートル以上もある太くて立派なもの。1本は強くしなる真竹。もう1本は孟宗竹(もうそうだけ)で、これにはカセと呼ばれる15本ほどの足掛けが、はしごのようについています。まずこの孟宗竹を雌狐が芸をしながら登っていきます。 そのあと雄狐も追い掛けるように登りはじめ、二匹の狐が逆さになったり、扇形をつくったりし、隣の真竹に移ると、泳ぐように両腕をぐるぐるまわしながら前後に竹をしならせます。観客は竹が折れはしないか、狐が足をすべらせはしないかと、冷や冷やしながら演技を見守ります。 狐たちの身体の動きは雄弁ですが、表情を変えない真っ白なお面は、間近で見ると、神秘的でちょっと怖い感じもします。二匹とも同じ面だと思っていたら、鼻の形に雄と雌の違いがあるようです。 「竹ン芸」は、狐の動きに合せて音色を奏でる囃子もすばらしい。この囃子は、長崎市田中町中尾地区の方によるもので、長崎県の無形民俗文化財になっています。唐笛や片側だけに皮をはった太鼓など唐楽器が奏でる音は、狐の芸に合せて曲調が変わります。そのタイミングは合図があるわけではなく、囃子方と狐役がお互いを感じ合いながら上手く合せていくのだそうです。今年見逃した方は、ぜひ来年ご覧ください。

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  • 第208号【秋の味覚 サツマイモと平戸】

     すっかり秋めいてきました。収穫の季節に身体も素直に反応して食欲も旺盛になってくる頃。旬をたーんと味わってこの季節を謳歌しましょう!旬といえばサツマイモもそろそろ収穫の時期。本来の甘さをいかした蒸かしイモや大学イモ、スウィートポテトなど、おかずよりおやつ系のメニューがすぐに頭に浮かぶのは、サツマイモの個性のひとつかもしれません。 甘藷ことサツマイモはいろいろな品種が各地で作られ現代の日本人には親しみ深い食材ですが、原産地は熱帯(中央)アメリカで、15世紀終わり頃コロンブスがトウモロコシなどといっしょにヨーロッパに伝え、それがきっかけでアフリカや東南アジアなど世界中に広がったといわれています。 日本へは中国から琉球(現在の沖縄県)を経て、薩摩(鹿児島県)へと伝わり、そこから江戸中期の蘭学者、青木昆陽(あおきこんよう)がこの作物に関する書を著し全国へ広めたというのが定説のようです。伝来のルートからそう呼ばれるようになったサツマ(薩摩)イモは、やはりそのルートに由来して「唐イモ」とも呼ぶ地域もあり、長崎では「琉球イモ」とか、「南蛮渡りの藷」を意味する「蕃藷」とも呼ばれていたようです。このサツマイモの伝来について、ウィリアム・アダムス(三浦按針)のエピソードもあることをご存知ですか? ウィリアム・アダムスは歴史の教科書でもご存知のように、1600年、オランダ船で豊後(大分県)に漂着した後、家康に外交の顧問として召し抱えられた人物です。1605年頃には、平戸へ来てオランダとイギリスとの通商に活躍しました。 「長崎洋学史」には、1615年に、ウィリアム・アダムスが初めて「蕃藷」を琉球から平戸へもたらしたことが記されているそうです。それは、彼がインドシナへ渡航中に船が破損したため琉球に立ち寄った際に、購入し持ち帰ったものだとか。当時の平戸英国商館長の日誌には、日本でまだ栽培されていない琉球の「蕃藷」を植え付けた、という内容の記載が残っているそうです。 歴史をひもとけばまだまだいろいろな話が出てきそうなサツマイモ。江戸時代には、荒れ地でもたくましく育ち飢餓を救い、戦後には食料不足のピンチを救ったというくらい生きる活力の源がいっぱいです。エネルギーの素となるでんぷんや糖分が主成分で、美肌づくりに欠かせないビタミンCも1本(200グラム)でほぼ1日分の必要量を摂取できます。実を輪切りにすると白い液がじんわり出てきますが、これはヤラピンという成分で便秘予防に効果があります。また、イモ類の中ではカルシウムが多く含まれているほうなので、カルシウム不足が気になる方にもうれしい食材です。煮物や天ぷらサラダなど、さっそく今夜の一品にいかがですか?◎ 参考にした本/ながさきことはじめ(長崎文献社)、からだによく効く食べもの事典(池田書店)

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  • 第207号【長崎さるく博】

     万博とか、博覧会と聞くだけで、何だかワクワクしてしまう。そんな方、多いのではないでしょうか。日本で初めて開催された万博(国際博覧会)は、昭和45年の大阪万博で、以後、沖縄海洋博、つくば万博、国際花と緑の博覧会が開催されましたが、来年はいよいよ「愛・地球博」(愛知博:平成17年3月25日~9月25日)。楽しみですね。 実は、長崎市でも再来年、『長崎さるく博’06』(平成18年4月1日~10月29日)が開催されます。「さるく」とは長崎弁で、「ぶらぶらとほっつき歩く」という意味で、まち歩きを通して長崎の歴史や文化、風俗、生活を体感してもらおうというユニークな博覧会です。国をあげて行われる万博のように先端の技術を展示したり、パビリオンなどを建ててゴージャスに行うものとはまったく違うもので、「さるく」という人間らしいスローな感覚で長崎を見つめ、市民が中心となって作り上げる日本で初めての「まち歩き」博覧会として注目されています。 『長崎さるく博’06』が開催される年は、現在、長崎港に建設中の女神大橋や出島復元の第二期工事、歴史文化博物館などが相次いで完成する予定で、長崎市にとっては節目の年。この博覧会で、「観光長崎」の素敵な未来へ向けて第一歩が踏み出せたら最高です。 長崎の街全体が博覧会の舞台となる『長崎さるく博’06』。今、開催に向けて市内の各所で「まち歩き」が楽しくなる仕組みや仕掛けづくりが行われ、準備が着々と進められています。単に散策するだけにとどまらず、遊びたい、学びたいなど、興味や好みに応じて楽しめるように、多彩な「まち歩き」のメニューが用意されるそうです。 この『長崎さるく博’06』で、大きな役割を果たすことになるのが、「長崎さるくガイド」と呼ばれる地元の案内役の方々です。史跡などの説明はもちろん、地元の人しか知らないとっておきの話もたっぷり聞かせてくれます。 開催に先駆けて、すでに4つの「まち歩き」のマップが作られ、市役所などで配付されています。内容は、南山手のグラバー園周辺をめぐる「居留地コース」、かつての日本三大花街のひとつだった「丸山コース」、お寺が続く通りや古い民家など風情ある佇まいが見れる「寺町・中島川コース」、かつて庄屋がおかれ長崎の中心地として栄えた「鳴滝・新大工コース」。それぞれのマップには、史跡やいろんなお店などの情報が盛り沢山で、いずれもスタートからゴールまで約1時間半ほどでめぐることができます。マップを手に入れて、健康づくりのウォーキングがてら歩いてみませんか? プレイベントも今年10月23日~11月23日と2005年7月30日~10月16日に行われます。今年のプレイベントの期間中は、長崎銀細工、長崎刺繍、ステンドグラスなど長崎の伝統工芸を体験できる催しなど長崎の文化に触れる催しが目白押しです。

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  • 第206号【ことしの長崎くんちの見どころ】

     今年はどんな奉納踊りが見れるのか、ふるまい酒に酔いしれながら本番への期待感に包まれた「庭見せ」。くんち行事のひとつである「庭見せ」は、今年の奉納踊りを担当する「踊り町」の家々が室内や庭を解放し、くんちで使用するだしものや傘ぼこ、衣装、道具などを公開することで、祭りの準備がしっかり整ったことを町内外の人々に知らせるものです。毎年10月3日の夕方から夜にかけて行われ、くんちの踊り町が点在する長崎市中心部は大勢の人出で賑わいます。 そして、いよいよ明日から3日間、長崎・諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)が本番を迎えます。寛永11年(1634)にはじまり、370年目を迎えた今年の踊り町とだしものは、本古川町「御座船」、東古川町「川船」、出島町「阿蘭陀船」、小川町「唐子獅子踊り」、大黒町「本踊り・唐人船」、紺屋町「本踊り」、樺島町「太鼓山(コッコデショ)」です。9月になっても猛暑が続いた今年、この7つ踊り町の本番に向けてのけいこは、とてもきつかったことでしょう。 それでは、各踊り町の見どころをご紹介します。本古川町の「御座船」は、約3トンはあるというヒノキ造りの美しい和船。「二本引き日の丸」の意匠を施した帆が印象的。右に三回転、逆に三回転半も回るという根曵の新しい技に注目です。東古川町の「川船」には、秋の川沿いの風景をイメージさせるススキや花が飾られています。その風情あふれる船の装いに反して、パワーとスピード感あふれる船回しがスゴイ!船歌に合せて船頭役の子供が網打ちをする姿も楽しみです。 出島町「阿蘭陀船」は、鉄琴やドラムなど洋楽器を用いた囃子で、ひときわ異国ムードが漂っています。オランダの国旗がはためく黒い船の重さは4トンを超えるとか。その船体をあえて、ゆっくり回す技が見もの。根曵衆の情熱と底力が伝わってきます。小川町「唐子獅子踊り」は、東長崎の中尾地区に200年以上も伝わる獅子踊り。華やかで、どこか愛嬌のある親子獅子の息の合った舞いが見どころです。獅子踊りの前に登場する、子供たちの愛らしい唐子踊りも見逃せません。 大黒町「本踊り・唐人船」では、その昔、唐人船が海を渡り、長崎に入港したときの風景を再現しています。唐人と日本人の友好を表したという踊りは、日舞とモダンバレエが融合したもの。ドラと鉦(かね)の音色が響く中、華やかな唐船が豪快な音をたてて回される様子も圧巻です。 江戸時代、中島川のほとりに染物屋が多く住んだことに由来する紺屋町の名。「本踊り」の長唄の題目は「稔秋染耀六彩色(みのるあきそめてかがやくむつのいろどり)」。江戸時代、中島川で染めもの仕事をする人々の様子を再現するそうです。最後にご紹介するのは、その勇壮さと豪快さで一番人気を誇る樺島町の「太鼓山(コッコデショ)」です。5色の大きな布団(宝)を乗せた太鼓山を、屈強な男たちが宙に放る技は、鳥肌が立つほど感動的です。 明日は、全国ニュースでも長崎くんちの様子が伝えられるはず。でも、生でご覧いただくのが一番。ぜひ、お出かけ下さい。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第205号【華やかに先祖を送りだす中国盆】

     秋空にくっきりと映える唐寺の黒い屋根と朱色の壁。その参道や境内にぎっしりと飾られた、赤、黄、ピンクの華やかなちょうちん。果物やお菓子が供えられた祭壇では、赤いロウソクの炎が風に揺れ、寺中に立ちこめる竹線香の香煙の中を、華僑の人々が列を作り、厳かに礼拝をしています…。長崎市鍛冶屋町にある唐寺・崇福寺(そうふくじ)で行われた中国盆の光景です。毎年旧暦の7月26日から3日間行われる伝統行事で、今年は9月10日からはじまりました。 朱色の御堂がいかにも唐寺らしい崇福寺は、国宝や国重要文化財などを擁した由緒あるお寺で、中国・福建省出身者のぼだい寺として知られています。毎年、中国盆がはじまると全国から同省出身の華僑の人々が集い、先祖の霊を供養しています。 この極彩色に包まれた中国のお盆は、日本のお盆にはない珍しい習わしが数々見られることもあり、観光客も大勢訪れます。たとえば、本堂そばの中庭には、質屋、文具店、タバコ屋、時計店、金物屋など、36軒のお店の“絵“がズラリと軒を列ねます。これはお招きした霊が利用する、いわば仮想冥界の商店街で、「三十六堂(サンスリュウロン)」と呼ばれるものだそうです。仮想冥界といえば、「五亭(ウーテン)」と呼ばれる小さな5つの祭壇も、そういった類いのものといえます。それぞれの祭壇が倶楽部、女室、男室、新舞台、沐浴室といった役割を担い、祭壇の中は役割に応じたミニチュアの設備が施されています。この「五亭」には、霊を招いて慰めることや、現世の住居に感謝するという意味があるそうです。どうやら中国のお盆は、先祖をもてなす心が、きちんと形になっているところが特長のようです。 先祖にお金を持たせるために、お金を模した紙を燃やすという風習も見られます。あの世用!?の紙幣の束を燃やしていた華僑の方が、「本物の一万円札を燃やした方がご利益があると思うかもしれないけど、この世で使われるお札は、あの世では使えないんですよ」と笑って話してくれました。 中国盆3日目の夜。境内では中国獅子舞が披露されます。子供たちが演じるかわいい獅子舞と、大人たちが演じる本格獅子舞。華僑の人々の間で脈々と受け継がれる伝統の踊りは圧巻です。 お坊さんたちのお経がすみ、中国盆もいよいよ終わりに近付いた夜10時頃、境内で「金山」「銀山」の飾りが燃やされました。「金山」「銀山」とは、円すいの形に仕上げた竹の骨組に、それぞれ金紙、銀紙を張り付けたもので、これも先祖があの世でお金に困らないようにする習わしだといいます。 この様子を見るために見物客が境内に集まっていたところ、点火前に一時的に激しい雨が降りました。ちゃんと燃えるだろうかと心配されましたが、約二百本はあるという「金山」「銀山」は、盛大に燃え上がりました。思わず後ずさりしてしまうほどの勢いで燃える炎と、耳をつんざくような爆竹の音。その中をくぐりぬけるように、先祖の霊は西方浄土へと送り出されていったのでした。◎参考にした本/「時中」(長崎華僑 時中小学校史・文化事誌編纂委員会」

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  • 第204号【ピエール・ロチと長崎】

     ピエール・ロチ(1850~1923)は、今から約100年以上も前のフランスの人気作家です。そのロチの記念碑が長崎市諏訪神社の月見茶屋そばに建っています。 白い円柱型をしたその碑には長崎の港を静かに見下ろすロチの横顔が刻まれています。今回は、このフランスの文豪と長崎の関わりについてご紹介します。 ブルターニュの港町で生まれたロチは、海軍兵学校を経てフランス海軍の軍人になり、小さい頃からの夢であった世界各国をめぐる機会を得ました。そうして訪れた国々を舞台にした数々の小説を書き、19世紀後半のフランスで売れっ子の作家になったそうです。 ロチは日本にも何度か滞在しています。初めて訪れた地は長崎で、1885年(明治18)夏のことでした。ロチはこの街で約1ヶ月ほどを過ごし、その経験をもとに、小説『お菊さん』を執筆しています。長崎滞在から2年後の1887年にフィガロ紙に発表された『お菊さん(マダム クリザンテエム)』は、主人公(作者)が、長崎の街を見下ろす高台の家で、長崎の娘「お菊さん」と共に過ごした日々(「小さな結婚」とロチはいう)について語り描いています。 その内容は、作者の経験をもとに率直に、感性豊かな文章で仕上げられていますが、当時の極東に対する西洋人の先入感がそうさせたのか、または作者自身の繊細さとメランコリーな性格からくるものなのか、主人公はどこか不安感のある憂鬱な感じで物事をとらえていて、日本人も醜く卑小なものとして描いています。 しかしながら、そこには、図らずも明治の長崎の風景や美しい日本の住まいや質素な人々の暮らしが描かれていて、たいへん興味深いものがあります。また、小説の内面的なテーマも、長崎の街での経験を通して「人間の不安感」を描いているように感じられ読みごたえもあります。 さて、長崎での滞在を終えいったん日本を離れたロチは、同年秋、再び1ヶ月ほど日本に滞在したようです。この時、神戸、京都、鎌倉、東京、日光などを訪れたロチは、日本の美術、工芸のすばらしさに感嘆し、『秋の日本的なもの』として書きまとめています。 さて、『お菊さん』には後日談があります。ロチは、初めて長崎に滞在した年から15年後の1900年(明治33)暮れから翌年にかけて再び長崎を訪れていて、この時の話を『お梅さんの三度目の春』「(1905年発表)という小説に書いているのです。お梅さんとは、以前「お菊さん」と暮らした家の家主の奥さんのこと。お菊さんはすでに他家へ嫁いでいて、再会した人々との新たなストーリーが記されています。 15年の歳月は、人も長崎の街も変えていました。この時、50才になっていたロチ自身にも前回とはまた違った哀愁が漂います。長崎とは?人間とは?といったことに興味のある方は、ぜひ、『お菊さん』、『お梅さんの三度目の春』を読んでみませんか。◎参考にした本/「お菊さん」(岩波書店)、「お梅が三度目の春」(白水社)、「長崎の文学」(長崎県高等学校教育研究会国語部会)、「異邦人の見た近代日本」(懐徳堂記念会編)

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  • 第203号【長崎の街に点在する昔ながらの溝】

     長崎市の中心市街地を歩き回っていると、表通りから少し入った路地などで、石組みの溝と出会うことがあります。その溝は、底に長方形の板石が敷かれ、それを両側から別の板石が斜め立て掛けるように組まれたもの。石と石の間は漆喰でふさがれています。 その形状から三角溝とも呼ばれているこの溝は、長崎の繁華街・浜町にほど近い築町や鍛冶屋町、長崎港にほど近い五島町あたりなどの数カ所で見ることができます。コンクリートのビルが建ち並ぶ中に、ふと現れるもの静かな石組みの表情。どこかほっとする風情が漂っています。この三角溝が造られたのは、明治時代のことです。 日本は、開港してから明治中期にかけて、外国人居留地からコレラなどの伝染病がはやりました。その対策として、神戸や横浜の外国人居留地では下水道が建設され、その後、東京でれんが造りの神田下水道が造られるなど、外国人居留地だけでなく日本各地の主要都市でも下水道建設が行われるようになります。 長崎では、1885年(明治18)にコレラが流行。それを機に、居留地以外の長崎市街地でも下水溝の対策が講じられました。長崎の場合は、東京・神田下水道のように地下につくられたものでなく、すでに市街地に張り巡らされていた溝を改修しました。溝を拡大し、板石を敷いて水が流れやすいように傾斜を持たせ、汚水が地下に浸透しないように、石と石の間を漆喰でふさいだのです。 この時の改修された下水溝の幹線は、6線ありました。第1線は今博多町から築町を経て中島川へ合流。第2線は麹屋町を起点に、ししとき川(現:鍛冶屋町付近)から銅座川へ合流。第3線は、万屋町を起点に銅座川へ合流。第4線は、寄合町を起点に丸山町を経て、銅座川へ合流。第5線は、本博多町(現:万才町付近)を起点に五島町を経て海へ入る。第6線は、鍛冶屋町を起点に第2線に合流。以上の6つの幹線で現在も残っているのは、第1線、第2線、第5線、第6線の一部です。 これらの下水溝は、明治初期、近代的な公衆衛生の考え方をもとに疫病対策を実践した証で、貴重な歴史的遺構と思われます。長崎市文化財課に問い合わせてみると、貴重な遺構であるということで調査はされたが、まだ保存されるべき文化財などとして指定されるには至っていないということでした。 ちなみに日本の下水道の生みの親といわれているのが、大村出身の長与専斎(ながよせんさい)です。専斎は1871年(明治4)に、岩倉具視欧米視察団に参加し、内務省の初代衛生局長時代には、疫病の根本的な予防は下水道をつくることだとして、神田下水道の建設に着手したそうです。また専斎は、「衛生」という言葉を生み出した人物としても有名です。 明治時代、新しい公衆衛生の武器として造られた三角溝。100年以上も現役でいるその丈夫さもすごいことですが、見た目も現代のコンクリートづくりよりセンスの良さを感じます。三角溝には現代人が見習うべきものがあるのかもしれません。◎参考にした冊子/「長崎県近代化遺産総合調査報告書」(長崎県教育委員会)

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  • 第202号【島原半島めぐり】

     今日からいよいよ9月。まだまだ暑さは続いていますが、朝晩には涼しい風も時おり吹くようになりました。秋はもうすぐそこです。夏バテに気を付けてお過ごしください。 今回は島原半島がテーマです。風光明美なこの地域は、その魅力も多彩。先日、避暑地あり、自然の脅威あり、歴史ありのスポットめぐりを楽しんできましたのでご紹介します。 まず最初に向かったのは高原の温泉地・雲仙です。長崎駅から車で1時間40分ほどで到着します。地図でみると島原半島のほぼまん中に位置する雲仙。その温泉街は、標高約七百メートルのところにあり、車を降りると、まずはその涼しさに感激します。聞けば、夏場の平均的な気温が22~24℃くらいだとか。下界で酷暑の日々を過ごしていた者としては、その快適な涼しさに心が癒されるようでした。 雲仙の温泉街を囲むようにして連なる山々は、春はツツジ、秋は紅葉、冬は霧氷と四季折々に美しい表情をみせ、登山を楽しむ人々も大勢います。温泉街から散歩がてら山道に入ると、ヤマホトトギスやキッコウハグマ、ノリウツギなど高原の植物たちの姿がありました。自然観察会にはもってこいの土地のようです。 日本で最初に国立公園になった雲仙は、昭和9年の指定から今年で70周年を迎えました。温泉街の中央に位置する「雲仙スパハウス・ビードロ美術館」ではそれを記念して「雲仙むかしの写真展(来年3/31迄)」と「ノスタルジックUNZEN展(~9/30迄)」が行われています。明治時代から外国人の避暑地として人気のスポットだった雲仙の歴史を垣間見れる素敵な展覧会で、ヘレン・ケラー女史が雲仙を訪れた際の貴重な写真も見ることができました。 さて、涼しい雲仙から東へ山を下り、国道251号線沿いにある「道の駅みずなし本陣ふかえ」へ。この道の駅は雲仙普賢岳噴火によって生まれた平成新山を一望できる場所にあり、土石流による被災家屋が保存された「遺構保存公園」もあるなど、自然の脅威を肌で感じることのできるスポットです。もちろん道の駅ですから、農業の盛んな島原半島ならではの特産品を味わえる食事処、お土産店も充実しています。 「道の駅みずなし本陣ふかえ」でひと休みしたら、国道251号線をいっきに北上。めざしたのは、国見町神代小路(こうじろくうじ)地区です。ここには、江戸時代初め頃の旧神代鍋島藩陣屋をはじめ立派な庭園を持つ「鍋島氏」のお屋敷や、鶴亀城跡などがあり、その一帯は武家屋敷群が整然と広がっています。広々とした通りの脇を流れる水路や生け垣や石垣、そしてかやぶき屋根の家など、今にもお侍さんが現れそうな風景が、現実に残っていることに感動を覚えます。 文化庁の補助事業の「伝統的建造物群保存対策調査」でも、その歴史的価値は、高く評価されているそうです。鍋島氏のお屋敷は私邸なので、庭園の公開は平日のみということ。武家屋敷の静かな通りを歩くだけでも江戸時代にタイムスリップできます。一度、訪れてみませんか。

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  • 第201号【長崎ロープウェイで、懐かしい感動と出会う】

     長崎ロープウェィに乗ったことはありますか?初めて乗ったのはいつでしたか?長崎ロープウェイとは、長崎市街の北西部にそびえる標高333メートルの稲佐山山頂とそのふもとを結ぶロープウェイのこと。ふもと側の乗り場「淵神社駅」は、長崎駅から車で5分ほどのところにあります。 長崎ロープウェイは、昭和34年にオープン。高度成長期に入って間もないこの時代、子供も大人もワクワクさせる特別な乗り物として、観光客はもちろん地元の人々にも大人気でした。現在は、稲佐山の新たな車道の開通や、いろんな乗り物を楽しめるレジャー産業の隆盛で、残念ながら乗車客は減少傾向にあり、ロープウェィに対する関心も以前と比べればずいぶん薄れてしまったようです。 とはいえ、長崎の観光で稲佐山のロープウェィをはずすことはできません。なぜなら、ふもとからいっきに上がるときのダイナミックな街の景色の変化は車道では体験できませんし、またその景色もロープウェイならではの独自のロケーションだからです。 「淵神社駅」から稲佐山山頂の展望台のそばにある「稲佐山駅」までの約1、096メートルの距離を5分ほどで登るこのロープウェイは、いわばゴンドラの空中遊覧。久しぶりに乗ってみると、家々や山の樹木を真下に見下ろしながら急な傾斜(勾配27度)を行く時のちょっとしたスリル感は、子供の頃、初めて乗った時の気分を思い出し、懐かしい気持ちになりました。 山頂の展望台からの眺めも相変わらず感動的です。山の稜線や長崎港沖合いの島々の姿は当然ながら昔のままですが、新しい建物や道路ができるなど刻々と変化してきた長崎の街が眼下に広がり、時の流れを実感。感慨深いものが込み上げてきます。ここから望む1000万ドルの夜景は変わらぬ人気です。夕刻からの時間帯はロープウェイの利用者が急増(朝9時から夜10時まで営業。冬場は夜9時まで。)し、恋人たちのデートスポットとしても好評です。稲佐山山頂であらためて気付かされるのは、この山が豊かな樹木に覆われた、自然を満喫できるところであるということ。特に市街地の反対側に見られる緑の尾根が続く景観は圧巻です。ここはハイキングコースとしても人気だそうです。 さて、稲佐山には8合目に「スカイウェイ」と呼ばれるから6人乗りのゴンドラリフトが稲佐山山頂まで片道2分半で運行しています。8合目には、コンサート等のイベントが行われる野外音楽堂や広場、大型駐車場があり、休日は市民の憩いの場になっています。「スカイウェイ」は、8合目までマイカーで出かける方に利用されているようです。 ロープウエイのゴンドラが動き出すと、子供たちの中には、遊園地の乗り物にでも乗ったように、歓声を上げて大喜びする子もいるそうです。夏休み最後の思い出づくりにお出かけになってみませんか?

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  • 第200号【出島は高い賃貸物件だった】

     長崎は夏の一大イベント、精霊流し(8/15)が終わってホッと一息…、と言いたいところですが、今年はそういうわけにはいきません。今、世界中がアテネオリンピックの話題でもちきり。長崎県(県内高校卒業者も含む)からは、野球の城島健治選手、女子バスケットの浜口典子選手、永田睦子選手、バトミントンの大束忠司選手、自転車の井上昌己選手、そしてサッカーは、国見高校OB大久保嘉人選手、徳永悠平選手、平山相太選手が出場。オリンピック生誕の地アテネに向かって連日エールを送っています!(^▽^)/ガンバレ、ニッポン! さて、当コラムの方は、感動満載のアテネからひとまず離れて、久しぶりに出島のお話をお届けします。夏休みともなると、観光客だけでなく、地元の人々も家族連れで訪れる機会が多くなるようですが、この話を知っていると、出島見学が少し面白くなるかもしれません。 出島にはその全貌を一目で見渡せる「ミニ出島」があります。東京ドームの約1/3の広さがある出島を、1/15に縮小したもので、江戸時代のシーボルトのお抱え絵師、川原慶賀が描いた絵をもとに建造物もミニチュアで再現。ガリバー気分で江戸時代の出島を眺めることができます。 「ミニ出島」を見ると、扇形の狭い敷地を有効利用して、古き良き町家風の家屋や蔵が整然と軒を列ねている様子がよくわかります。オランダ人は、そこに居住するにあたって、高い家賃を支払い続けていました。 出島は、江戸時代はじめ、長崎市中に自由に居住していたポルトガル人を住まわせるために造られた人工の島です。建設費用は、長崎の有力町人25人が出資しました。その金額は銀200貫目、現在のお金に換算すると約4億円ともいわれています。有力町人らは出島を賃貸物件にして、建設にかかった費用にあてることにしました。最初に出島に住んだポルトガル人、そしてのちに平戸から出島に移設されたオランダ商館も家賃を支払ったわけですが、その金額は、オランダ商館の場合、年間銀55貫目、今のお金にすると約1億円になるそうです。出島貿易でいかに大きなお金が動いていたかが、想像できる賃貸料です。 ところで、出島の和風家屋は、当時の長崎の大工さんたちによって建てられました。現在の出島には、江戸時代の「ヘトル部屋(商館長次長の居宅)」や「一番船船頭部屋(オランダ船船長の宿泊所)」、輸入したものを保管した蔵など、数棟がすでに復元されていますが、復元にあたっては、今も長崎の街に残る伝統的町家の造りを大いに参考にしたそうです。 当時の長崎らしい家屋の特長のひとつに屋根があります。幕末~明治期の長崎市街地の写真などでよく見かけるのですが、家々の黒い瓦屋根のふちを真っ白な漆喰で押さえた屋根が、遠目から見ると屋根の上に「口」の字を書いたいるように見えます。この漆喰でふちを押さえる技術が、長崎風といわれる屋根のおさめ方だそうです。その技術は、残念ながらミニ出島のミニチュアの家屋では見られませんが、復元された家屋の屋根には施されていました。そのほか、雨戸やひさしなどにも長崎風といわれる建築技術を見ることができます。ぜひ、現地でご覧になってください。◎参考にした本など/「よみがえる出島オランダ商館~19世紀初頭の町並みと暮らし~」(長崎市教育委員会)

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  • 第199号【丸山・梅園天満宮でぶうらぶら】

     夏、本番!皆さんお元気ですか?汗をかく前に水分補給をして、熱中症を予防しましょう。さて、当コラムでは8月に入ってから、長崎らしさを楽しめるスポットをご紹介しています。いずれも気軽に出かけられる場所ですので、夏休みを利用してぜひ、お友達やご家族とお出かけ下さい。今回は、数年前に映画「長崎ぶらぶら節」で一躍有名になった丸山界隈の一角にある「梅園天満宮」(梅園神社)です。 長崎の有名な民謡「ぶらぶら節」に、『♪遊びに行くなら花月か中の茶屋 梅園裏門たたいて丸山ぶーらぶら…』という一節がありますが、この中の゛梅園″というのは、梅園天満宮のこと。民謡にも登場するほど、江戸時代から丸山の住民に親しまれてきました。 この神社は、昔から心や体の悩みの身代わりになってくれるといわれ、地元では「身代わり天神」とも呼ばれているのですが、境内には参拝する人々の日常の悩みや願いを反映するかのように、ちょっとユニークなものがあります。 境内の中央付近に植えられたサルスベリの木。フリルのような可憐な夏咲きの花が今、満開です。その木のたもとに、「恵比須石」と呼ばれる大きな石があります。自然に刻まれたと思われる石の紋様が、満面の笑みをたたえた恵比須顔に見えます。こちらも思わずニッコリしてしまうほど、素敵な笑顔の恵比寿石。立て看板には、「この石を眺め、恵比寿様の笑顔を見ることができれば、笑顔が美しくなり、身体も心も美しくなるといわれています」と書かれていました。 神社に欠かせないのが、こま犬です。梅園天満宮の社殿前にも一対のこま犬がいますが、その内の一匹は口が開いていて、その口の中には、キャンデーらしきものが置かれています。これは「歯痛こま犬」と呼ばれているもので、説明書きには、『歯の痛みのある人が、こま犬の口に水飴を含ませるとたちまち痛みを取って下さるそうです』とあります。その昔、このいわれを聞いて全国各地から大勢の人々が参詣に訪れたそうです。痛み止めの薬を飲んだり、すぐに歯医者で診てもらえる現代とは違う時代の人々の切なる思いが伝わってきますが、今でも、キャンデーを含ませる人のあとが絶えないところを見ると、歯痛が人間につきものの身近な病であることをあらためて感じます。 梅園天満宮には、菅原道真公を祀る神社にみられる菅原道真公ゆかりの牛の像もあります。「御神牛(撫で牛)」と呼ばれるこの像を撫でてから自分の身体を撫でると身体が健全になるといわれ、頭を撫でると知恵がつくといわれているそうです。 ここにはもう一体、「撫で牛」がいました。その名も「ぼけ封じ撫で牛」。この牛と自分を交互に撫でさするとぼけを封じるといわれているそうです。 人を笑顔にし、歯痛を忘れさせ、高齢化社会にとって朗報!?ともいうべき「撫で牛」までいる梅園天満宮。何だか、ほほえましい気分にさせる不思議なところです。梅園の神様がみんなの願いを聞き入れて下さるといいですね。

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  • 第198号【何度でも出かけたいグラバー園】

     長崎の夏の恒例となったグラバー園の夜間開園が今年も好評のようです。帰省した友人や親戚たちと夕涼みがてら出かけている姿をよく見かけます。久しぶりの故郷だからこそ、もっとも長崎らしい雰囲気と景色を味わってほしい。来客を迎える側のそんな思いが伝わってくる光景です。 夜間開園の時間は夜9時30分まで。通常の夕方閉園の時期には見られない、ロマンチックにライトアップされた洋館や南山手の丘から見渡す美しい長崎港と市街地の夜景を楽しめるとあって、観光客もあとが絶えません。行くたびに新しい魅力が見つかり、長崎の歴史の奥深さに触れることができるなど、リピーターを飽きさせないのも大きな魅力です。当コラムでも何度も登場したグラバー園ですが、まだまだ紹介しきれていません。 グラバー園には、新しいものがどっと押し寄せた居留地時代を反映して、日本初のものがいろいろ残されています。たとえば、アスファルト道路。これはトーマス・グラバーの息子、倉場富三郎が日本で初めて造ったものだそうです。また、そばには大きな石製のローラーが置かれているのですが、実はこれ、テニスコート整地用のローラーで、リンガー邸の庭園内に設けられた日本で初めてのテニスコートで使用していたものだそうです。 また、江戸時代末期に造られた日本初の木造洋風建築グラバー邸(国重要文化財)では、天井裏に設けられた隠し部屋も見ることができます。グラバーは幕末、薩摩藩や長州藩といった倒幕派の若者を支援していましたが、いざという時に彼らをかくまうためのものだったと推察されています。 ところで、今年はグラバー園が開園して30周年(1974年9月4日開園)を迎えます。時代を経るにしたがって『異国情緒・長崎』の象徴である洋館が減ってきたことが危惧され、その保存のために、グラバー邸があった南山手の丘に、市内に残っていた洋館を移築、整備してグラバー園が生まれました。現在では、国内外から訪れる年間の来場者数は約130万人とも言われ、長崎観光を代表するスポットに成長しました。 30周年記念として素敵な催しがいろいろと予定されています。居留地時代にグラバー邸、オルト邸、リンガー邸などに暮らした人々の姿を写した、『古写真展~居留地生活した人々たち』(9/5~9/30)が行われます。また11月23日(祝)には、長崎ゆかりのオペラ、「マダム・バタフライ国際コンク―ルin長崎」の上位入賞者3名によるオペラコンサートも開催されます。 「蝶々婦人(マダム・バタフライ)」に関連して、現在、旧リンガー邸では、戦前のヨーロッパで、「マダム・バタフライ)のオペラ歌手として名を馳せた「喜波貞子(きわ ていこ)」の特別展が行われています。公演に使われた衣装や小道具などが展示され、幻のオペラ歌手といわれる彼女の生涯を垣間見ることができます。オペラファン必見です。

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  • 第197号【親子で出かけよう!夏のハウステンボス】

     子供たちの夏休みも1週間が過ぎました。元気いっぱいの彼らを早くももてあましている親御さんのために、「夏のハウステンボス」をご紹介します。コマーシャルでご存知の方もいらっしゃるように、ハウステンボスは今、本場ヨーロッパの洗練された空間やサービスをどんどん取り入れ、より魅力的な「ヨーロピアン・リゾート」をめざして「変身中」です。この夏は、そんなテーマをかかげる新生ハウステンボスのスタートとあって、期待を裏切らない素敵な催しが目白押し。今回は特に親子が楽しめるものをピックアップしました。この暑ささえも素敵な思い出に変わる楽しい時間が待っていますよ。 まず、親子でぜひ訪れていただきたいのが、ハウステンボス美術館で開催中の「ディック・ブルーナー展」です。「ミッフィー」に代表されるシンプルな線と明るい色彩で描かれたキャラクターは、きっとどこかで見たことがあると思います。公開されているのは、このキャラクターを生み出したオランダを代表するアーチスト、ディック・ブルーナー氏の絵本や原画、青年時代のグラフィックのデザイン画、絵画など約1300点です。かわいくて微笑ましいその絵の中に、作家の厳しいこだわりと、信念が込められていました。とにかく見応えたっぷりで、ミッフィーが世界中で愛されている理由がわかるようです。 夏の海を楽しみたいという方々には、帆船「観光丸」での洋上クルーズがおすすめです。大村湾の美しい景色を楽しめるだけでなく、デッキでのロープワークも体験できるとあって、親子連れに人気です。大村湾クルーズは、ヨットやボートなどでも行われています。好みのスタイルで海へ乗り出してみませんか。 この夏のハウステンボスでは、太陽の下で元気に遊ぶ子供たちを大勢見かけることができます。運河では、「バンパーボート」というタイヤのような丸い形をしたボートに乗ってはしゃいだり、広場では地面から噴き出す噴水や霧を浴びて笑顔いっぱい。人口の雪を積もらせた「サマースノーランド」では、炎天下で雪だるまづくりに夢中になる子など、エキサイティングで、涼しい遊びが街のあちらこちらに用意されています。 街の一角には、人気のテレビアニメ「マシュマロ通信(タイムス)」の世界を再現した「マシュマロタウン」もオープンしました。手作りドーナツがおいしい「ドーナツショップ」や「シナモンの占いの館」、グッズ販売、ゲームなど、お楽しみが満載の賑やかなタウンです。 夏休み期間中(~8月31日)毎日、日替わりで、ビーズストラップや万華鏡、麻ひも手提げ、手作りカレンダー、アロマ石鹸などの手作り体験ができる「SUMMERワークショッププログラム」(1プログラム1000円)も、親子に好評です。約1時間ほどで、手作りの作品を仕上げることができます。これを利用して、夏休みの図工の宿題を仕上げるのもいいかもしれません。その日によって、作品のアイテムが変わるのでチェックして参加してくださいね。

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  • 第196号【夏野菜ことはじめ~トマト、トウモロコシ~】

     暑中お見舞い申し上げます。全国的に梅雨明けが早かった今年。長崎も平年より約1週間ほど早い今月11日に明けました。いきなりやってきた蒸し暑い夏に、早くも夏バテぎみの人が続出。こんな時こそ、旬の食材から元気をいただいて暑さに負けない毎日を過ごしたいものです。 今回は、長崎がはじまりといわれる夏野菜を二つご紹介します。ひとつ目は、食卓を真っ赤な元気カラーで彩るトマトです。子供の頃、畑でもぎって食べたトマトは夏の太陽の匂いがしておいしかったですね。今ではスーパーなどで年中手に入り、私たちの毎日の食卓に欠かせない野菜になっています。 最近ではトマトの赤い色をつくるリコピンという色素が、ガンを防ぐ効果があるということで話題になりました。また美肌づくりに欠かせないビタミンCや体内の余分な塩分の排出を助けて高血圧を予防するカリウムも豊富など、栄養面ではたいへん優れた野菜です。 そんなトマトの原産地は南アメリカです。大航海時代にヨーロッパへ渡来したあと、17世紀にオランダ船が出島に運んできたのが日本での最初だといわれています。その頃は観賞用として栽培され、見た目のとおり、「あかなす」とか、「唐柿」などと呼ばれていたそうです。明治に入ってから食用の野菜として輸入されたそうですが、独特の臭いが日本人には好まれず、なかなか普及しませんでした。消費が増えたのは昭和30年代に入ってからで、この頃には改良され、気になるトマト臭がずいぶん緩和された品種になっていたようです。 もうひとつの長崎ゆかりの夏野菜は、トウモロコシです。お米や小麦とともに世界の三大穀物のひとつです。トウモロコシの原産はアメリカ大陸で、アメリカ先住民の主要穀物として栽培されていたそうです。日本へはトマトよりも少し早く16世紀の南蛮貿易時代に、ポルトガル船によって長崎に伝えられといわれています。当時、長崎では「ナンバンキビ(南蛮黍)」と呼ばれていました。 また、トウモロコシは今でも「トウキビ(唐黍)」とも呼ばれますが、その名からも想像できるように、中国から伝わったという説もあるようです。ただ、オランダ船が運んできたトマトを「唐柿」と呼んだように、とにかく当時の長崎では、海を渡ってきた珍しいものに対して、運んできた船の国籍にかかわらず「南蛮○○」「オランダ○○」「唐○○」というふうに称することがよくあったようです。余談になりますが、野菜の名に限らず、このような当時の人々のシンプル&アバウトな名前の付け方は、何かと深読みしがちな現代の歴史愛好家たちにいろいろと混乱を与えているような気がします。 トウモロコシはビタミンB1、B2、Eとリノール酸を含み、動脈硬化の予防にいいそうです。また、ヒゲや、芯の部分も利尿作用や血中の脂肪を減らす栄養分が含まれているとか。焼きトウモロコシの香ばしい匂いは食欲をそそり、茹でたトウモロコシも甘くてジュシーな種実がたまらなくおいしいですよね。 この夏も、トウモロコシやトマトなど旬の野菜を豊かな食生活と健康づくりにお役立てください。 ◎参考にした本や資料/「からだによく効く食べもの事典」(池田書店)、「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第195号【長崎ラムネ物語展(長崎市歴史民俗資料館)】

     りんご飴、わた菓子、お面に風船…夏祭りの出店に並べられたおもちゃやお菓子の中で必ず見かける飲み物といえば、「ラムネ」ですよね。ビー玉入りの個性的なスタイルと、甘くてちょっぴり苦味のある炭酸の味わいは、子供の頃の夏の思い出とも重なって懐かしい気分になります。そんなラムネと長崎との深い関わりについて紹介した「長崎ラムネ物語展」が、長崎市歴史民俗資料館(長崎市上銭座町)で今、開催されています(~7月31日迄)。 「日本清涼飲料史」によると、ラムネと日本の出会いは、嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航した際、船に積んでいたラムネを幕府の役人に飲ませたのが最初だとされ、それが定説になっているようです。このペリーより前か後かは定かではありませんが、実は長崎・出島にも江戸時代の後期にはラムネが輸入されています。長崎市内の発掘調査で出てきたラムネ瓶により、出島だけでなく、新地荷蔵や町家などでも飲まれていたことが確認されているそうです。 発掘されたラムネの瓶は、「キュウリ瓶」と呼ばれるタイプで、文字どおりキュウリのようなユニークな形をしています。この頃の口栓はコルクだったので、それを湿らせておくために横に置かれ、飲む時に専用の台に置かれていました。ラムネは当初、「オランダ水」と呼ばれていましたが、のちにコルクの栓を抜くとき「ポン」と勢いのいい音をたてていたことから「ポン水」と呼ばれるようになります。そして現在のラムネという名称がおおやけに長崎で使われるようになったのは、明治33年(1900)頃からで、「レモネード(Lemonade)」の名称で輸入されていたものが、訛ってラムネとなったといわれています。 さて、「長崎ラムネ物語展」では、日本でもっとも早い時期にラムネ製造を行ったとされる長崎の2つの製造元が紹介されています。製造者の名は藤瀬半兵衛氏、そして古田勝次氏という人物です。藤瀬氏は慶応元年(1865)、長崎で製造をはじめたのちに東京に移転。一方、古田氏は藤瀬氏より少し後に開業し昭和46年まで製造を続けていました。古田氏はラムネのトレードマークとして握手をしている図柄、その名も「お手引きラムネ」というマークを使っています。世界の人は仲良く手を握らなければという考えから生まれた図案だそうです。世界に目を向けた明治時代の商人の心意気が伝わるようです。「お手引きラムネ」のマークのついたラムネは現在も販売されていて、長崎市内の食事処や商店など置いているところもあるようです。(諏訪神社の月見茶屋にもあります)。 又、外国人では、長崎にウォーカー商会を設立した海運・貿易商のウォーカー兄弟が、「バンザイ・エアレイテツド・ウオーター・ファクトリー」という会社を立ち上げ、1904年にラムネ製造を開始しています。長崎市小曽根町には、その時の製造所だったレンガ造りの建物が現在も残されています。 「長崎ラムネ物語展」ではそんな先駆者たちが製造した時代の珍しいラムネ瓶が数タイプ展示されています。ぜひ、間近で御覧下さい。余談ですが、長崎市歴史民俗資料館は、小規模ながらもユニークな企画展を催すことで知られるミュージアムです。知的好奇心旺盛な方は今後の企画展も要チェックです。 ◎参考にした本や資料/「日本清涼飲料史」(東京清涼飲料協会編)、「歴史民俗資料館だよNo.47」(長崎市歴史民俗資料館)

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