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  • 第239号【日蘭友好のシンボル、江戸町のたこのまくら】

     夏休みがはじまって1週間。長崎の観光&歴史スポット・出島にはいつも以上に子供たちの姿が多く見られます。5年後の2010年をめどに、江戸時代の建造物全25棟の復元整備が進められている出島。その西側にはすでに、輸入品を収めた蔵をはじめオランダ人が寝泊まりした部屋など数棟が完成し、往時の町並みが一部蘇っています。 出島を訪れた際、ぜひ見てほしいのが中島川をはさんだ江戸町側からの眺めです。ゆるやかなカーブを描く石垣護岸が見渡せ、扇形の人工島を再確認できます。その中央部分には表門も見え、かつてそこに出島と長崎市中を唯一結んだ橋があったことを想像する楽しみもあります。 鎖国時代、出島の隣町、江戸町につながるこの橋は、日本の中の国境のようなもので、常に番人が常駐し、厳しい監視のもとにありました。もちろん、出島のオランダ人らは自由に市中に出ることは禁じられ、江戸参府やくんち見物など特別な行事でもない限り、橋を渡る機会はありません。せまい出島での窮屈な生活を強いられた彼らにとって、ささやかな救いとなったのが、どうやら川を隔てた江戸町の人々との交流だったようです。 江戸町は、現在、長崎県庁の所在地として大勢の人々が行き交う市の中心地。もともと、この一帯は港へ突き出た小さな岬の高台で、長崎がポルトガルの貿易港として開港(1570年:室町時代)した時、最初に建てがはじまったところです。次々に新しい町が生まれて行く中、その岬の先端を切りくずして造成されたのが江戸町でした。江戸時代に入る直前の頃、誕生したようです。 江戸時代に入ってまもなく、江戸町の海を隔てた突端に出島が築かれました(1636年)。出島の住人は、はじめポルトガル人でしたが、キリシタン弾圧でわずか3年で国外に追放。その後、彼らに変わって200年以上もこの島に住んだのがオランダ人でした。彼らは出島への出入りの際には、必ず江戸町を通らなければならないため、自然と江戸町の人々との親交が生まれたようです。役人の目をかいくぐり日常的な所用を頼んだりすることもあっただろうと想像できます。また、当時の犯科帳には、江戸町のある男がオランダ人と貿易品にからむ密談をして盗みをしたり、売買をしたということが記されているそうです。 江戸町の人々とオランダ人にどのような付き合いがあったか、他に具体的なことはわかりませんでしたが、親交の証は残っています。それは寛政年間(1789~1801)の頃、オランダ商館長が江戸町に贈ったといわれる江戸町の紋章です。J、D、Mの3文字を組み合わせた洒落た紋章で、その形から「たこのまくら」と称されています。3文字は当時のオランダ人が、江戸町を「JEDOMATSI」と綴ったことに由来しています。 また、江戸町には、「オーフローファイノヘー、ノーフィヤーホーロセ…」で、はじまる不思議な語感の唄やかけ声も残っています。これは、オランダ人からの聞き伝えだといわれ、江戸町の人も意味はわからないままくんちの際に唄い伝えられてきたそうです。耳を澄ませば、オランダや東アジアの貿易の中継点にある地名らしき言葉も聞き取れます。そこには、大海原を渡り、異国で窮屈な生活をよぎなくされた当時のオランダ人の心情が込められているのかもしれません。 今年、江戸町はくんちの踊り町です。演し物のオランダ船には「たこのまくら」の町旗が飾られ、江戸時代から唄い継がれてきた不思議な言葉も聞けるはず。今から楽しみです。◎ 参考にした本/郷土歴史大事典~長崎県の地名(平凡社)、角川日本地名大事典、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、長崎町づくし(長崎文献社)

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  • 第238号【長崎骨董屋物語展(長崎市歴史民俗資料館)】

     もうすぐ子供たちの夏休み。海や山など家族揃ってのレジャーを計画中の方も多いことでしょう。たっぷり約6週間もあると思っても、あっという間に過ぎ去ってしまうのが夏休み。某CMのキャッチコピーではありませんが、「モノより思い出」を大切に、子供たちを見守っていきたいですね。 さて、今回は、「長崎市歴史民俗資料館」(長崎市上銭座町)で開催中の「長崎骨董屋物語展(ながさきこっとうやものがたりてん)」をご紹介します。この資料館は、長崎の歴史や風物を、ユニークな視点でとらえた企画展が多いことで知られています。去年の今の時期には、「長崎ラムネ物語」が開催され、地元でもあまり知られていないラムネ発祥にまつわる長崎の歴史が解き明かされました(※コラム195号に掲載)。 「長崎骨董屋物語展」では、明治~大正の頃、長崎で骨董屋を営み活躍した池島正造(いけしましょうぞう:1844~1907)氏、尾張榮太郎(おわりえいたろう:1871~1938)氏という二人の人物を紹介しています。 池島正造氏は、中島川沿いにある麹屋町で、江戸時代から続く家業の骨董屋を営みました。彼は、「池正(いけしょう)」の名で、地元はもとより、東京、大坂、京都にも名を馳せる豪商だったそうです。ちなみに彼は、当時の傘鉾町人(かさぼこちょうにん)のひとり。傘鉾町人とは、長崎くんちの踊り町の先頭に立つ傘鉾の費用を個人で負担する裕福な家で、その当時、人々の尊敬を集めた町内の実力者のことです。明治天皇が長崎にいらっしゃった際には、珍宝を天覧し、ロシアのニコライ皇太子が訪れた際には、この池正から骨董品を購入したそうです。 また、芥川龍之介が大正11年5月に長崎を訪れた際、東京のさる人物に宛てた書簡には、長崎で画を観たり丸山へ行ったりして過ごす中、「蘇東坡」という画家の作品を求め長崎中探したが見つからず、その名を知っていたのは、骨董屋の池正だけだったといったことが記されています。池正は、自らも画を描き(長崎の三筆のひとり、木下逸雲に手ほどきを受けたらしい)、茶道もたしなむ文化人でした。展示室では、彼が描いた「芦雁(ろがん)」の図を見ることができます。 もうひとりの骨董屋、尾張榮太郎氏は、麹屋町にほど近い諏訪町に1910年(明治43)に開業。創業時から亡くなる前年の1937年(昭和12)までの帳簿、「古物商明細帳」が展示されていました。そこには、「亀山焼」、「赤絵オランダ皿」、「朝鮮焼皿」、「唐物青磁一輪生」など、日本国内はもとより、中国やオランダの品々がひとつひとつ書き出され、いつ、いくらで、誰から購入し、誰に売ったかが細かく記されています。当時の骨董品の流れの一端が見えると同時に、開港後の激動の時代の中、外国商人が行き交い豊かだった長崎の町の気配も感じられ、興味深いものがあります。ちなみに「長崎ラムネ物語」もほぼ同時代(幕末~明治~大正)の話です。 展示室には、当時、流通し骨董屋の店頭にも並んだかもしれない(?)、亀山焼の香炉や、中国製と思われる「象」をかたどったトンボ(ガラス)の置物、古渡(こわたり)の色絵硝子器などが展示されています。たいへん貴重な品々だそうです。 「長崎骨董屋物語展」は7月31日まで開催。骨董には興味がないとおっしゃる方でも、「長崎市歴史民俗資料館」には、原始~古代の土器や石器など考古学資料をはじめ、昔の農機具や漁具、酒造りの道具など、長崎の民俗資料も豊富に展示されています。お子さんとご一緒にお出かになりませんか?◎取材協力:長崎市歴史民俗資料館◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、芥川龍之介全集第11巻(岩波書店)

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  • 第237号【よみがえる町名・銀屋町】

     今、全国的にすすめられている「平成の大合併」。この市町村再編で1999年には3200を超えていた市町村数が、今年度中に1822になります。この合併で、何かにつけて話題になるのが、新自治体のネーミング。新しい名が生まれる一方で、消えるものもたくさんあって、ちょっと気になるところです。 すでに確定した各地の新市町村の名称を見てみると、あわら市(福井県)、かすみがうら市(茨木県)、いなべ市(三重県)、さつま町(鹿児島県)、みやき町(佐賀県)など、ひらがなが目立ちます。これは、今回の大合併の特長のよう。また、全国で唯一のカタカナ市名となった山梨県の南アルプス市の誕生や、結局は合併そのものが白紙にもどってしまった愛知県の南セントレア市など、いろいろと物議を醸したのも記憶に新しいところですね。 ふだんはあまり意識することのない市や町の名を、あらためて見直す機会になった「平成の大合併」。賛否両論、いろいろな意見がある中で、地域の歴史や文化の香りをとどめる地名が消えることを惜しむ声が多く聞かれました。  そんな中、先月、長崎市の中心部にある地区が、40年前に消滅した旧町名の復活を長崎市役所に陳情したという記事が地元新聞に掲載されました。町の名は「銀屋町(ぎんやまち)」。1962年に施行された長崎市内の町の再編の時、現在の古川町と鍛冶屋町の一部に組み込まれ、消滅した町名です。 語感が、ちょっと古風で粋な「銀屋町」。そのイメージ通り、町の誕生は江戸時代初期と古く、町名は金銀細工を手がける職人らがこの一帯に居住したことに由来するといわれています。ちなみに、日本の写真家の始祖とされる上野彦馬の父で、御用時計師だった俊之丞(しゅんのじょう)もこの町に住んでいて、金銀の細工が得意な人だっと伝えられています。 地図上からその名が消えた後も、旧町に深い愛着を持つ住民によって「銀屋町自治会」の名は存在し、7年に一度めぐってくる長崎くんちの「踊り町(おどりちょう)」のひとつとして、その伝統は継承されてきました。近年、銀屋町では、約1トンはあるという山車を男たちが勇壮に担ぐ「鯱太鼓(しゃちだいこ)」を奉納しています。 新聞報道によれば、長崎市側は、町名復活を願う住民の熱意の強さを感じ、前向きに取り組む考えを示したそうです。二年後の2007年に、くんちの踊り町が回ってくる「銀屋町」側は、それまでに町名復活をと、期待しています。 踊り町として、長崎くんちに登場する町名の中には、行政の都合による再編ですでに消えてしまった町名がまだいくつか残っています。かつて染物屋を営む人々が集まったことに由来する「紺屋町(こうやまち)」、筑後柳川の榎津とのつながりを物語る「榎津町(えのきづまち)」(江戸初期、川港であった榎津から、物資が船で長崎に運び込まれており、筑後方面からの移住者も多かった)など、旧町名にはその地域の歴史が刻まれています。 最近では、旧銀屋町界隈を含む長崎市中心部の磨屋(どぎや)地区で、古い町名のプレートが街角に貼られはじめています。これは、長崎の歴史散歩をかねた町歩きに役立てようというものだそうです。 ときに町のアイデンティティとして、人々の心を支え、絆を強める役割を果たす町名。時代は変わっても、失ってはいけないものがある、そんなことを考えさせる銀屋町の話でした。◎参考にした本/長崎くんち(ナガサキインカラー)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第236号【日本初の英語のネイティブ・ティーチャー】

    「語学ブーム」といわれて久しい昨今。本屋さんには英語、ハングル、中国語、ドイツ語、フランス語、イタリア語など多種多様な語学のテキストが売られ、語学教室も盛況のようです。なかでも英語を学ぶ人は相変わらず多く、「英語がペラペラ」という人もずいぶん増えてきましたね。 それにしても日本人は一体、いつ頃から英語を学び始めたのでしょうか。そのヒントが長崎の諏訪神社(長崎市上西山町)近くにありました。日本初の英語のネイティブ・ティーチャーといわれるラナルド・マクドナルド(1824~1894)の碑です。 アメリカ人であるマクドナルドが日本へやってきたのは幕末、ペリー来航の5年前(1848年)のことです。アメリカの捕鯨船に乗り込んで日本に近付き、北海道の利尻島に上陸。そこで密航者として捕らえられ、取り調べののちに長崎に送られました。 マクドナルドはアメリカを経つ前から、日本では国交のない外国人が捕まると殺されると聞かされていましたが、日本行きをあきらめませんでした。理由は彼の特異な生い立ちにあったようです。彼はオレゴン州アストリア出身。アメリカ先住民のチヌーク族の王の血筋をひく人物で、ヨーロッパ系アメリカ人との間に生まれました。マクドナルドは日本に対し、アメリカ先住民の人種的なルーツを求める気持ちがあったようです。『私はいつも、私の血のなかに、自由な放浪を求める野性的な血筋をあらがいがたく感じていた』と、のちに出版される『マクドナルド「日本回想記」』に述べています。また、マクドナルドが生まれ育ったアメリカの大平洋沿岸部の北部地域には、日本人の漂流民が打ち上げられたことがあり、彼らとの出会いも日本を志す大きなきっかけであったようです。 さて、諏訪神社の近くにあった大悲庵(だいひあん)の座敷牢に収容されたマクドナルドはどのような様子だったかというと、囚われの身でありながら礼儀正しく、落ち着きがあり、日本語を積極的に憶えようとするなど、周囲の日本人に好感を抱かせました。まもなく、座敷牢を教室に14名のオランダ通詞を相手に英語のレッスンが始まったのでした。  この頃の日本は、欧米の船が相次いで出没し、にわかにロシア語、フランス語、英語の通訳者の必要に迫られていました。なかでも英語については、イギリス船がオランダ船を装って長崎湾に入港したフエートン号事件(1808)をきっかけに、幕府は英語学習をオランダ通詞に命じていました。この時、オランダ通詞らはオランダ商館長ブロンホフ(オランダ人)の指導で英語を学び、「諳厄利亜(アンゲリア)語林大成」という日本人による日本初の英和辞書も完成させています。ブロンホフは日本における英語教師の最初の人といえますが、その英語はオランダ語訛りで、ネイティブの人には通じにくかったという話もあります。 さて、日本初のネイティブの英語教育者として、長崎で約7ヶ月間若きオランンダ通詞らのクラスを担当したマクドナルド。この時の生徒のひとりで優秀だった森山栄之助(多吉郎)は、のちのペリー来航時に日米交渉の主席通詞として重要な役割を担っています。 マクドナルド自身は、日本滞在の約10ヶ月後に、アメリカに引渡されています。時を経て70才で亡くなった彼の墓石(ワシントン州スポーキャン市郊外)には、彼が息をひきとる直前につぶやいたといわれる「SAYONARA(サヨウナラ)」の文字が刻まれているそうです。◎参考にした本/『マクドナルド「日本回想記」』(刀水書房)、辞書遊歩(園田尚弘、若木太一編・九州大学出版会)、海の祭礼(吉村昭著・文藝春秋)、長崎の史跡~長崎学ハンドブック(長崎市立博物館)

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  • 第235号【長崎・清水寺の石の言い伝え】

     「縁結びの石があるらしいわよ」と聞いて、さっそく鍛冶屋町にある清水寺(きよみずでら)へ行ってきました。清水寺は、風頭山のふもと、寺町界隈の一角に建つ真言宗のお寺です。1623年(元和9)、京都の清水寺の僧侶だった慶順(けいじゅん)によって開創されました。  地元の人々に「キヨミズさん」と呼ばれ親しまれている清水寺。くだんの石は、参道の階段の途中にありました。苔むしたの石の正面には、『奇縁氷人石』(きえんひょうじんせき)と刻まれています。「奇縁」とは文字どおり思いがけない縁、不思議な縁といった意味。「氷人」とは、中国の故事にちなんだ言葉で、男女の仲を取り持つ人のことをいうそうです。石の左側には『たつぬるかた』、右側には『をしゆるかた』と刻まれていて、結婚をのぞむ人は左側に、世話をする人は右側に、それぞれ名前や年齢、趣味などを書いた紙を貼り付けて縁結びに役立てたそうです。  「この石は明治以前のものです。男女の仲を取り持つだけでなく、行くへ知れずの人を尋ねるのにも利用されたようですよ」と教えてくださったのは、清水寺のご住職。テレビやインターネットなどで瞬時に大量の情報が行き交う現代人には、石を頼りにする当時の社会は想像しにくいところがあります。しかし、良縁を求める人々の切なる思いは、時代を経ても変わらぬ人情。江戸時代の人々がぐっと身近に感じられます。「今でも、願かけをされて石の上やたもとに5円玉を置いていかれる方がいらっしゃいます」。 興味深い言い伝えや長崎ならではの歴史の痕跡を残す清水寺の「石」は、他にもいろいろあります。たとえば、「瑞光石(ずいこうせき)」と呼ばれる岩。光を放ったといわれるこの岩がきっかけで、この地を寺地と決めたと伝えられています。本堂の前に設けられた「石造りの欄干」も見応えがあります。慶順が、京都の清水寺以上の名所をめざし、その舞台をなぞらえて造ったと言われています。京都の方は木組ですが、こちらは石組。当時の長崎の石職人たちの心意気が伝わってきます。 この石造りの欄干から望む長崎市街地の眺めは抜群です。現在はビルが乱立して見えなくなっていますが、昭和60年頃までは、長崎港を見渡せたとご住職はおっしゃいます。欄干のそばには、はにわを思わせるユニークな形をした常夜灯があります。長崎市内に3つしかないという珍しい形だそうで、絶妙なバランスで石が組み上げられていました。「先日、地震があった時、この常夜灯がくずれていないかという問い合わせの電話がありました(笑)」。この常夜灯がいつ頃のものか詳しいことはわからないそうですが、「江戸時代はこの寺の近くまで海だったんです」というように、燈台の役目を果たしていたようです。 「本堂(県指定有形文化財)は、中国人の棟梁のもとで、日本人の大工さんたちが築きました。唐寺に見られるような黄ばく宗の建築様式が混入しているのが特長です」。天井や沓石に見られる異国の趣。おおらかな大陸の雰囲気が感じられたのはそのせいでした。 本堂には国宝級のものもあるという研究者もいる清水寺には、まだまだ興味深い歴史がつまっています。実は、今年の秋頃から、地盤沈下や老朽化による建物の痛みを補強するため、解体作業がはじまるそうです。専門家を交えて行われる解体作業によって、新たな事実が浮かび上がることが期待されます。◎ 取材協力/長崎山 清水寺 長崎市鍛冶屋町8―43◎参考にした本/長崎の史跡~長崎学ハンドブック2、3~(長崎市立博物館)

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  • 第234号【月の美術館へ、ようこそ】

     ゴールデンウィークの遊び疲れを癒せぬまま、いつもの忙しい日々にもどられたあなたへ。今宵、空を見上げてお月さまの神秘的な世界に思いを馳せてみませんか?「5月11日は4日月(よっかづき:新月から4日目の月)です。満月に向かってだんだんエネルギーが満ちていくこの時期は、何か新しいことをはじめるのにいいといわれるんですよ」と話すのはヤマサキユズルさん。月を描く画家として今、静かに注目を浴びている方です。 唐人屋敷で知られる長崎市館内町にご家族と暮らすヤマサキさん。一戸建ての住まいに、アトリエと《月の美術館》と名付けたスペースを設けて創作活動を続けています。「ごめんください」と訪ねた《月の美術館》は、二間続きの和室を解放した空間で、ヤマサキさんの心に浮かんだままに描いたというさまざまな「月」の絵が展示されています。まるで友人の家に遊びに来たかのような楽ちんな雰囲気が漂う室内には、ヤマサキさんお気に入りのジャズがいつも流れているのですが、思わずCDのタイトルを尋ねてしまうほど、いい感じの曲ばかり。聞けば、相当のジャズ好き。手に入れたCDも4千枚以上と半端ではありません。「音楽も僕にとってはとても大事なものなんです」。 ヤマサキさんの絵は不思議です。見ていると絵の中の月の光を浴びているような気分になります。月の光を意識的に浴びて、心身を癒したり、パワーをもらう「月光浴」というものがあるそうですが、描かれた月での月光浴もあるのかもしれません。来場された方々が口々に「何だか元気が出てきました」とおっしゃって帰って行かれるという話にもうなづけます。 ジャンルや好みを超えて、どこか普遍的な力が感じられるヤマサキさんの絵。「自分の意思で描いていますが、何かに描かされているような感じもします」。ヤマサキさんは、かつて中学の美術の教師でした。教育者として多忙な日々をおくる一方で、自分だけの絵を模索していたある日、脳腫瘍が見つかりました。「死」と隣り合わせの危険な状態を乗り越えて復職するも、またもや繰り返されたストレス漬けの日々と決別すべく退職、まもなくお父様が急死、そして、「月の詩」と題した絵を描いたのをきっかけに、「一年間で100枚、とりつかれたように月ばかり描き続けました」。 人生の大きな曲面を経て、「本音で生きる」ということを心に決めたヤマサキさん。現在、頼りがいのある奥さまと2歳になるやんちゃな息子さんと一緒に、毎日楽しく暮らしています。「経済的な贅沢はできませんが、気持ちはとてもラク。何ものにも変え難い自由な時間やいろいろな方との出会いがあります。本物の贅沢をしてると思います」。 「月を眺めていると、自然との共存を体感したり、本来の自分をとりもどすような感じがしませんか」とおっしゃるヤマサキさん。来場者は畳にあぐらを組んで絵を眺めたり、月について延々と語り合ったり、なぜか身の上話をはじめたりなど、ここで思い思いの時間を過ごしていかれるそうです。さて、あなたはどんなふうに「月の美術館」で過ごされるのでしょう。◎ 取材協力/月の美術館◎ ヤマサキユズルさんは、「月の美術館」館長をはじめ各分野のアーチィストと交流し活動を支援する「雑アート21」の主宰や「月の会・長崎」の世話人など多彩な活動をしています。

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  • 第233号【焼きものの里、三川内皿山を訪ねて】

     佐世保駅から東へ車で約25分。緑豊かな山あいののどかな風情が漂う佐世保市三川内。ここは、かつて肥前・平戸藩の御用窯として発達した歴史ある焼きものの里。今もたくさんの窯元が「三川内焼」400年の伝統を受け継いで創作活動を続けています。 佐賀県との県境にもほど近い三川内の周辺には、全国的に有名な有田焼(佐賀県有田町)や波佐見焼(長崎県波佐見町)など、古くからの窯業地が点在しています。江戸時代に肥前と呼ばれたこれらの地域で焼かれた磁器は、有田から北に十数キロ離れた伊万里港に集められ、船で各地に運ばれていました。その磁器たちが、消費地では、積み出された港の名前から伊万里焼と呼ばれていたことはよく知られています。 三川内焼は、約400年前、豊臣秀吉が起こした朝鮮の役の際、連れ帰った朝鮮の陶工に、26代平戸藩主の松浦鎮信(まつら しげのぶ)が平戸で焼かせたのがはじまりです。藩主の命を受けた巨関(きょかん)という陶工は当初、平戸の中野のという所に窯を築いて焼いていましたが、よりよい陶石を求めて平戸領内を探索し、最終的に藩領の南端に位置する三川内に落ち着いたのでした。 その後、藩窯として整備されていったこの地には、木原山、江永山、三川内山の3つの皿山(※陶磁器が焼かれる窯場一帯のこと)があります。いずれも人目を避けるかのように小さな山に隔てられた地形の中に窯元があります。「当時、焼きものの技術は秘法で、藩外へ流出しないよう厳重に取り締まられました。奥まったところにある三川内は地理的にも適していたのでしょう」と地元の方が教えてくれました。また、三川内焼の特長について、「天草の陶石を調合して生まれる純白の白磁に、呉須による繊細な染め付けが真髄。本当に飽きのこない美しさなんですよ」とのこと。それは当時、朝廷や将軍家にも献上されるほどの繊細優美な白磁でした。 三川内焼で代表的な絵柄として知られているのが「唐子絵」です。唐子が戯れる構図は、今でこそお馴染みですが、江戸時代は「お止め焼き」と言って平戸藩窯でしか焼くことを許されず、幕府や諸大名への贈答品として使われていました。 また三川内焼は、茶道具としても発達しました。29代平戸藩主で茶道・鎮信流の流祖でもある松浦鎮信(まつら ちんしん)は、この地に藩窯を整えた人物で、多くの精巧優雅な名品をつくらせています。優れた焼きものづくりへの情熱は、陶工たちの技を高め、透かし彫りやひねり物、細工物といった多様な技法を生み出していきました。当時の貴重な作品は、「三川内焼美術館」(※JR三川内駅近く)で見ることができます。 三川内では窯元めぐりも楽しみのひとつです。先祖が平戸藩御用窯の創立時に多大な貢献をしたという「平戸洸祥窯」で、ユニークな作品に出会いました。八画面という珍しい形をしたちゃんぽん専用の白磁の丼です。「具材が映え、食べやすい形をめざして創りました」という17代目の中里一郎氏。伝統を大切にしながら新たな焼きものづくりへ意欲を燃やす現代の三川内焼の陶工の姿がそこにありました。◎平成17年5月1~5日「三川内焼はまぜん祭り」。三川内皿山にて開催。◎ 取材協力:平戸洸祥窯、三川内美術館◎ 参考にした資料や本/三川内焼窯元巡り~皿山三味(佐世保市)

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  • 第232号【長崎のハタ職人】

     長崎の春は、ハタ揚げのシーズン。市街地を囲む山々では週末ごとにハタ揚げ大会が開かれるなど、大勢の市民が新緑の風を受けてハタ揚げに興じています。「ハタ」とは、ご存知の通り「凧」のこと。凧上げは、お正月の遊びというイメージですが、長崎のハタ揚げは昔から旧暦の2月から4月にかけて行われてきました。 16世紀半ば頃、出島に住んでいたインドネシア人やマレーシア人たちによって伝えられたといわれる長崎のハタ。その種類は中国系や南方系など数種類ありますが、現在、一般的に長崎のハタといわれているのは、ひし形をした「あごばた」と呼ばれるタイプです。 ハタの紋様は、家紋や動植物、天体などを表現した伝統柄で、いずれもたいへん洗練されたデザインです。大空に遠く高く揚げられた時も、印象的な美しい姿を見せてくれます。しかし、長崎のハタは単に揚げて楽しむだけのものではありません。その優雅な姿とは裏腹に、空中でハタとハタの糸(ヨマ)を絡ませ合い、切りあって遊ぶという戦闘的な姿が本来の長崎のハタなのです。糸(ヨマ)は、麻糸に砕いたビードロをごはん粒で塗り付けて、相手の糸が切りやすくなったものを使います。 「長崎のハタ揚げはとても奥が深い。子供より大人の方が夢中なる遊びなんですよ」と話すのは、長崎で数少ないハタ職人のひとりで、明治40年から3代にわたって伝統のハタづくりを受け継いでいる高比良ハタ店のご主人、高比良辰登さんです。そのハタづくりは、「簡単そうに見えるかもしれませんが、とても手間ひまがかかるんです」とおっしゃいます。 ハタづくりの工程は《(1)竹を削ってハタの骨組をつくる (2)和紙を貼ってハタの紋様をつくり骨組みに貼り付ける (3)糸(ヨマ)をつける。(4)ハタの両サイドにヒュウという飾りをつけて完成》ですが職人さんにとっては、材料となる竹を自ら山に出かけて探すところからハタづくりははじまっています。「3~4年ものがいいんです。今はどこも伐採されてしまい、良い竹が見つけにくくなりました」。ようやく取ってきた竹は、競技用として強度を増すために、「ジワーッと軽く焼いて竹から油を出します。そうしてから竹を割り、削りはじめるんです」。 白地のハタに使う模様の色は、主に赤と青。それら色は和紙を染色してつくります。そこにも高比良さん独自のこだわりがありました。「青の染め方がいちばんむずかしい。つくる度に微妙に色が違うんですが、先代から伝わった技術を、さらに改良してより良い色を出す努力を続けています」。高比良ハタ店オリジナルの青は、陽に透けない鮮やかな紺色。青空でも、部屋の中でもくっきりと映える美しさです。 ハタづくりに関しては、ハタ店ごとに秘密の技法がいろいろあるという高比良さん。「祖父さんから受け継いだものを失いたくない。この伝統工芸を、ぜひ若い人に伝えたいですね」と、意欲のある後継者が現れることを期待しています。◎ 取材協力:高比良ハタ店◎ 参考にした資料や本/長崎事典~風俗・文化編(長崎文献社)

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  • 第231号【浦上そぼろを作る】

     行楽の季節です。おいしいお弁当を作って野や山へ出かけませんか。今回は、夕食のおかずにはもちろん、お弁当にもおすすめの長崎の郷土料理、「浦上そぼろ」をご紹介します。この料理は、カトリック信者が多いといわれる長崎の浦上地区に伝えられるもので、その昔、神父様から豚肉を食べることを習った信者さんたちの間で作られるようになった料理だといわれています。 たっぷりの野菜類に、ゴマの風味と豚肉から出るだしがしっかりしみておいしい「浦上そぼろ」。各家庭によって材料や調味料に微妙な違いがあります。今回作ってみたのは、知人から教えてもらった簡単レシピ。今どきの長崎人が、「子供の頃よく食べたわ」と喜んでくれる甘めの味わいです。材料は4、5人分です。豚肉(200g)、タケノコ(ゆでたもの300g)、ゴボウ(300g)、モヤシ(300g)、コンニャク(300g)、ニンジン(200g)、干シイタケ(8~10枚)、インゲンマメ(適宜)、すりゴマ(大さじ3杯弱)、ゴマ油(適量)、砂糖(大さじ5~7杯)、酒・みりん・醤油(各大さじ4~5杯)。各調味料の量は好みに応じて適宜加減してください。[作り方](1)豚肉、ニンジン、もどした干シイタケは、がんばって千切りにします。(2)コンニャク、タケノコも細く薄切り。ゴボウも薄くそぎ切りにします。(3)フライパンでゴマ油を熱し、豚肉とゴボウ、ニンジンを強火で炒めます。(4)豚肉に火が通ったところで、タケノコ、干シイタケ、コンニャクを加え中火で炒めます。(5)全体に火が通ったら砂糖、酒、みりん、醤油で味をつけ、モヤシを入れます。(6)水分がなくなるまで炒ったら、火を止め、すりゴマを混ぜ入れて出来上がり。盛り付けの時、彩りにインゲンマメなどを散らします。 伝え聞くところによると、当初、信者たちは豚肉を多く使うのを遠慮したため、野菜たっぷりの料理になったのだとか。砂糖が多く入り甘いのは、その昔、砂糖が手に入りやすかったという歴史を持つ長崎ならではの特長のなのでしょう。 また、ちゃんぽんや皿うどんなど、中国にゆかりのある長崎の郷土料理に欠かせないモヤシがたっぷり入っているということ、材料の肉や野菜類をいっきに千切りや細切りにするところがチンジャオロースのような中華料理を彷佛させるなど、中国の影響もしっかり感じられるところも長崎らしい。 ちなみに「そぼろ」とは、今どきの料理書ではあまり見かけない「そぼろ切り」という切り方からくる名だそうで、乱切りをもっと細かくしたような切り方だとか。浦上地区以外でも、単に「そぼろ」と呼んで、ギンナン、春雨、キクラゲなどの食材を使うご家庭もあるようです。 「浦上そぼろ」は、シャキシャキとした食感を楽しめる太めのモヤシを使うのがおいしさの秘けつだとか。冷えても、おいしいのでお弁当のおかずにもぴったりです。たくさん作って残ったら、マヨネーズであえると、ひと味違った別のおかずに変身します。ぜひ、お試し下さい。◎ 参考にした資料や本/聞き書き長崎の食事(社・農山漁村文化協会)、「たべもの語源辞典」(清水佳一編・東京堂出版)、

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  • 第230号【歴史と風情ある石畳を歩く】

     入学シーズンは、なぜか大人たちにとっても、新しいことをはじめたくなる季節。ずっと胸の中で温めていたことに着手するいい機会です。思いきってチャレンジしてみませんか。ご近所のある方は、定年後の健康づくりもかねて、町の歴史散策をはじめました。長年住み慣れた町なのに知らなかったことが多く、地元を見る目も変わってきたとイキイキとした表情でおっしゃっていました。 今回は一般にはまだそれほど知られていない、歴史ある「石畳」を二ケ所ご紹介します。長崎の歴史散策をはじめたばかりの方々や、有名な長崎の観光スポットはひととおり巡ったという方々に訪れてほしいところです。 一つめは、長崎市に現存する石畳の中で、最古のものだろうといわれる坂段道です。長崎駅前に位置する筑後町から玉園町にぬける「筑後通り」の閑静な一角。江戸時代に長崎奉行所や諸藩の用達などを勤めたという料亭、「迎陽亭(こうようてい)」跡(玉園町:聖福寺そば)があります。その敷地を囲う石塀に隔たられたところにくだんの坂段道があります。 この坂段道は江戸時代に造られたといわれ、道幅は大人4人くらいが肩を並べて歩けるくらいの広さがあります。地元の歴史に詳しい方によると、その石畳の中央に縦に敷かれた長方形の板石(天草石らしい)の部分だけが造成当初のもので、その周囲に敷かれた石は、長い年月の中で消耗したりして何度も張り替えられたのではないかということでした。 江戸時代、長崎一の料亭だと称されたという「迎陽亭」には、明治から大正時代にかけても夏目漱石をはじめ、小松宮彰仁親王、西園寺公望など多くの著名人が宿泊し、宴席などを行ったとか。今、自分が立っているこの坂段道をそういた人々が歩いたかもしれないと思ったとたん、この日常的な石畳の風景がずしりと重く感じられるから不思議なものです。 玉園町のこの石段から3分ほど歩いたところに、今度は、長崎で最初につくられたといわれる・石畳の通り・があります。正確には・石畳だった通り・で、現在はアスファルトになっていて、そこの町名にちなんで「八百屋町通り」と呼ばれています。八百屋町から長崎市役所のある桜町方面へ向けてまっすぐ伸びたこの通りは、1、2分で通り抜けられるほどの距離で、のんびりとした裏路地の風情が心地いい通りです。 「長崎町人誌~第6巻~」(長崎文献社)によると、1601年、キリシタン墓地へ通る道として、ここに石畳の道が造られたということが、当時の神父書簡に記録されていて、それが、長崎の石畳が記録にでる最初のものだと一般にはいわれているとのこと。長崎が南蛮貿易で栄えていた時代の話です。その後、長崎の町のいたるところに石畳が普及していったようです。 日本のほとんどの道は鎖国が終わった頃になっても、せまくて、鋪装されていなかったとか。しかし、長崎の町の人々はかなり早い時期から、土ぼこりで足袋を汚すこともない板石で舗装された道を、日常的に往来していたのでした。◎参考にした資料や本/長崎の史跡~北部編(長崎市立博物館)、「長崎町人誌~第6巻~」(長崎文献社)、長崎オモシロ道ブック(国土交通省長崎工事事務所)

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  • 第229号【長崎ことはじめ:クレソン、ほうれん草】

     桜の開花が待ち遠しい今日この頃。あと数日もしたら長崎は咲きそうです。あなたの町の桜開花予定日はいつ頃ですか? さて、今回は野菜のお話です。長崎の地元新聞によると、長崎市では長崎由来の伝統野菜の復活をめざして、新年度から『ながさき原種野菜等育成、活用事業』の取り組みをはじめるとか。鎖国時代、長崎には外国の野菜がいろいろ伝来し、その後、全国各地に広がったものがたくさんあります。その中から赤カブ、赤ダイコン、長崎タカナ、唐人菜(長崎ハクサイ)、辻田ハクサイ、長ナス、大ショウガの8品目を伝統野菜に選定し、本格的な育成をはじめるようです。長崎の歴史もいっしょに味わえる野菜たちの今後の展開が楽しみですね。 この伝統野菜8品目にはありませんが、香味野菜のクレソンも長崎にゆかりがあります。ステーキなどのつけあわせやサラダなどに利用されるクレソンは、ピリッとした辛みとさわやかな芳香が特長で、別名「オランダからし」とも呼ばれています。 クレソンの原産地は中部ヨーロッパ。日本へは明治時代に入ってきたようです。その来歴は諸説あり定かではありませんが、一説には明治12年に長崎・外海町に主任司祭として赴任してきたフランス人宣教師のド・ロ神父が、 貧しく質素な生活を強いられていた外海の人々のために故国からクレソンの種子を取り寄せて育て、それが日本各地に広がったといわれています。 キリストを意味する耶蘇(ヤソ)にあやかってか、クレソンをヤソ芹という呼ぶ地域もあるらしいので、この説は有力かもしれません。クレソンはカルシウムや鉄分が含まれ栄養的に優れた野菜です。生のままのサラダもいいですが、ひと手間かけてポタージュにしていただくとまた格別ですよ。 ホウレンソウもまた長崎ゆかりの栄養豊富な野菜です。日本へは江戸時代の初め頃(それ以前という説もあり)、唐船によって長崎に運び込まれたのが最初といわれています。ホウレンソウの原産地はアフガニスタン附近で、冷涼な気候を好む野菜です。そういえば、日本でもかつては冬の野菜を代表していた時代がありました。今では栽培技術の向上で一年中手に入ります。 ホウレンソウには、アクが少なくおひたしに向いた東洋種(葉が薄く、刃先がとがって深い切れ込みがあるタイプ)と、バター炒めなどにするとおいしい西洋種(葉が肉厚で丸みを帯びたタイプ)があります。現在市場に多く出回っているのは、東洋種と西洋種を交配させた一代雑種だそうで、おひたしにもバター炒めにも適しているタイプです。 江戸時代、長崎に持ち込まれたホウレンソウは、アクの少ない東洋種だったようです。元禄時代の有名な浮世草子作者の井原西鶴の小説にもホウレンソウのおひたしが登場します。当時のお味は改良されていない分、野性味あふれる味だったのではないでしょうか。◎参考にした資料や本/ながさきことはじめ(長崎文献社編)、グラフィック100万人の野菜図鑑(野菜供給安定基金)日本大歳時記~春~(講談社)

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  • 第228号【長崎市立博物館・桃の節句展へ】

     陽暦の3月3日は、桃の花の季節にはまだ早く、地方によっては今も陰暦3月3日または陽暦の4月3日に桃の節句の行事を行っているところがあります。そこで今週も、ひなまつりの季節にちなんだ催しとして、長崎市立博物館(長崎市平野町)で開催中の「桃の節句展」をご紹介します。 桃の節句は、中国の古い風俗のひとつで、三月の上巳(じょうし:三月最初の巳の日)に水辺に出て災厄を払ったという行事がルーツだといわれています。この風習が780年代頃に日本へ伝わり、貴族たちが自分の厄を人形(ひとがた)にうつして川へ流すという「お祓い」の儀式を行うようになり、その人形がいつしか美しく着飾られて雛遊びをする風習へと変化。女児のための節句として盛大になっていったのだそうです。 ところで、桃は不老長寿の霊果として中国では古くから親しまれていますが、その由来は、「西王母(せいおうぼ)」、「東方朔(とうぼうさく)」の故事にあるそうです。「西王母」とは、崑崙(こんろん)山に住む女の仙人で、その庭には三千年に一度しか実らないという「蟠桃(ばんとう)」の樹がありました。三千年分のパワーがつまったその蟠桃の実を食べると不老長寿になるとして、中国の人々の信仰を集めたそうです。 「東方朔」は実在の人物で、武帝(前141~前87)に仕えた役人で学者でもありました。伝説では、仙人となり西王母の蟠桃を盗んで食べ長寿をほしいままにしたのだそうです。展示室では、江戸時代の長崎派の画人が描いた蟠桃の絵、「三千歳図」をはじめ、「西王母」「東方朔」の絵などを見ることができます。 長崎と中国とのゆかりの深さが感じられる展示物として、「蟠桃」をデザインした木製の古い扉がありました。その扉は長崎の大音寺という浄土宗のお寺にあったもの。唐寺でもないのに桃のデザインが使われるのはとても珍しいそうです。 このほか、長崎の画壇の大御所として活躍した石崎融思の「桃図」や川原慶賀による「雛人形図」、古賀人形のおひなさま、三河内焼の桃型の器など、長崎のこの季節にぜひ見ておきたい絵画や工芸品が展示されています。 また、市民から寄贈された由緒あるひな飾りもあります。大正時代に婚礼の調度品として京都で製作された「有職雛(ゆうそくびな)」や、京都御所を忠実に再現したといわれる「御殿造雛飾」など、いずれも見応えのあるものばかりです。さらに、同博物館の長崎県所蔵品展示コーナーでは、「来舶清人展」を同時開催中です。江戸時代の中・後期に貿易のために長崎にやってきた中国・清朝期の人々による書や絵画を展示。彼らの高い教養と芸術的センスは、当時の日本に新たな影響を与えたといわれています。 長崎市立博物館は、今秋に開館予定の「長崎歴史文化博物館」(立山1丁目)へ移転するため4月1日から休館します(「長崎歴史文化博物館」の開館に合わせて閉館予定)。この「桃の節句展」は3月27日まで行われ、最後の3日間は、一階の常設展示室(1階)のみご覧いただけます。入館料は大人100円、小中学生50円です。(なお、長崎市民は無料。入館の際は、公的な身分証明書を呈示してください)。ぜひ足を運んでください。◎参考にした資料や本/長崎市立博物館だより(平成17年3月号)、日本大歳時記~春~(講談社)

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  • 第227号【城下町島原でのんびりひなめぐり】

     有明海に面した静かな城下町、島原。町のいたるところに湧水が流れ、ゆったりとした雰囲気が漂う気持ちのいい町です。今、「島原城下ひなめぐり」(~4/3)が行われていると聞いて出かけてきました。 島原へのアクセスは、JR長崎駅から特急で約17分。諌早駅で島原鉄道に乗りかえて、約一時間。列車から降りると、瓦葺きに白壁の島原駅が出迎えてくれ、気分はいっきに武士の時代へタイムスリップ。城下町めぐりへの期待感が高まります。 2月中旬からはじまった「島原城下ひなめぐり」は、来月3日まで行われる長丁場の催しで、主に地元の商店などが、それぞれの家にあるひな人形を店頭に飾り、地元の人や訪れた観光客に島原城下の散策をもっと楽しんでもらおうというものです。島原城、武家屋敷、湧水が流れる水路で泳ぐ鯉など、この町ならではの観光スポットをめぐりながら、同時におひなさまも楽しめるとあって、若い人からご年配の方まで、女性たちの姿が目立ちます。 おひなさまを飾っている「森岳商店街」、「サンシャイン中央街」「一番街アーケード」といった島原城下の商店街は、どこか昭和の風情が残る店構えが多く、通りを歩くだけで気分が和みます。いずれの商店街も島原駅から徒歩圏内にあり、仲間とそぞろ歩きながらのんびりスムーズにおひなさまめぐりはすすみます。 ふだんはなかなか見る機会のない珍しいおひなさまにも出会えた「島原城下ひなめぐり」。その中で、ぜひ訪れていただきたいお店を二つご紹介します。一つ目は、島原駅から徒歩二分の場所にある「林屋京染店」です。北は北海道から南は鹿児島までの郷土色豊かなおひなさまから、かわいいキャラクターものまで、約230種類が勢揃いしています。「けして高価なものとか、歴史あるものがあるわけではないのですよ…」とご謙遜なさるご主人。すべて奥様がご趣味で約30年ほどかけて集めたものだそうで、「どのおひなさまも自分の子供のようなもの。全部好きなんですよ」と奥様はおっしゃいます。長崎で手に入れたという「箱入りびな」やモダンなスタイルの「春慶塗」のおひなさま、岩手県の「まゆびな」など、アイデア多彩なおひなさまたちに、とにかく驚きの連続。しかもみんなかわいらしいので見ていて本当に飽きません。 もう一つのお店は、「一番街アーケード」の一角にある「白山履物店」です。明治から昭和の初め頃にこちらの家で作っていたという「押し絵人形」のおひなさまを見ることができます。「訪れたお客さまが、昔は自分の家にもあったと懐かしがってくれます。当時の庶民は豪華な段飾りは手に入らず、押し絵びなをつくって飾っていたようですね」とご主人。そのご主人のお祖母さん、曾お祖母さんが作ったという「押し絵びな」は、手作りの温もりが伝わるやさしい表情がとても印象的。島原の町の風情を映し出しているようでした。 お友達同士で、家族でのんびりと楽しめる、「島原城下ひなめぐり」。この春のお出かけスポットに加えてみませんか?

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  • 第226号【長崎・五足の靴】

     長崎市万才町にある長崎県警本部の裏路地の一角にひっそりと建つ「五足の靴」の碑。目立たない場所なので、長崎市民でもこの碑の存在を知らない方は多いと思います。 「五足の靴」とは、与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人が、1907年(明治40)の夏(7月28日~8月27日)に九州西部(博多、柳川、佐賀、佐世保、平戸、長崎、天草、島原、熊本など)を旅した際、そのメンバーが交代で新聞に執筆した紀行文のタイトルのことです。彼らは、この旅でキリシタン関連の遺跡を訪ねるなど、おおいに異国文化に触れたようです。 「五足の靴」一行が、平戸から佐世保を経て長崎へ到着したのは東京を出発してから10日後のことでした。宿泊したのは、「上野屋旅館」というところで、現在の長崎家庭裁判所(万才町6番)附近にありました。残念ながら昭和20年の戦災で焼失し廃業になりましたが、それまでは長崎を代表する旅館として知られ、多くの著名人が宿泊。約1、000坪の敷地には、本館(約100坪)をはじめ別館、倉庫、車庫など全部で8棟の建物があったそうです。 「五足の靴」の一行は、この旅館で一泊し翌朝には天草へ渡るため、乗合馬車で山道を辿り、茂木の港へ向かっています。茂木は、長崎市の東部に位置する町で、天草灘に面したその港は、古くは肥後、薩摩に渡る海路の要所として利用されていました。現在も茂木~富岡(天草)を結ぶ航路として知られています。 この茂木~富岡の航路が、定期航路となったのは明治初めの頃だそうで百年以上の歴史があります。現在は天草側からの利用者が多く、長崎市内の病院へ通ったり、買い物に出たりといった生活の足になっているそうです。しかし、乗客の減少で、昨年11月でフェリーが運休。現在は一日4本の高速船のみが茂木港から出ています。(富岡港からも一日4本)。一時は、この高速船の運航も危ぶまれていましたが、何とか今後1年間は継続することになったそうです。 茂木港の小さなターミナルの窓口では、この航路の存続署名が集められていました。航路が存続することを願って著名していく文学ファンもけっこういるそうです。 さて、「五足の靴」の旅は、参加者の創作意欲をくすぐったようです。北原白秋の「邪宗門」「天草雑歌」や木下杢太郎の「天草組」などは、この旅の影響を受けて生まれた作品だといわれています。 冒頭の「五足の靴」の碑の案内版には、「長崎の円き港の青き水 ナポリを見たる目にも美し」(与謝野鉄幹)の歌が記されていました。当時の長崎は洋館などが今より多く建ち並びもっとハイカラな風情が漂っていたはず。異国情緒に酔いしれる作者の心情が伝わってくるようです。◎参考にした本/長崎の史跡・北部編(長崎市立博物館)

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  • 第225号【早春を満喫!ハウステンボスのチューリップ祭】

     時おり厳しい寒さを感じる一方で、日脚が確実に伸びて、日ざしも少しずつ強くなってきているようです。冬と春が同居したようなこの季節は、体調もくずしがち。適度な運動と、バランスのとれた食事で元気にのりきりましょう。 今回は一足先に春を満喫したくて、チューリップ祭がはじまったハウステンボスへ行ってきました。全部で100万本もあるというハウステンボスのチューリップ。オランダの田園に迷いこんだような気分になる花畑では、色とりどりのチューリップたちが早春の光を浴びてうれしそうです。今年は国内最多の400品種を楽しめるとか。街角のガーデンも、窓際に置かれた鉢もみんなチューリップですが、色も形も多彩でまったく飽きることがありません。 場内のフラワーショップでは、日本ではまだ入手しにくいといわれている「レッドハンター」、「ホンキートンク」といった新種や原種系のチューリップの苗が売られていました。一昨年ここで青い色のチューリップ(原種系)の苗を買いましたが、あまり世話をしなくてもちゃんと花が咲きました。意外に丈夫で育てやすいようです。あなたもチャレンジしてみませんか? この街では今、2005年春限定のかわいいテディベアが人気を呼んでいます。桜をイメージした優しいボディカラーがとても愛らしく、その名も「SAKURA」。「テディベアショップ・リンダ」で販売しています。 レンガ造りの街を歩けば春風にのって鼻先をくすぐるチューリップの香り。その香りをとじこめたアロマキャンドル(1個390円)を見つけました。昨年からチューリップ祭の期間限定で販売されているそうです。ピンク色したチューリップ型のキャンドルに火を灯せば、甘く優しく爽やかなチューリップの香りが部屋中に広がります。お土産におすすめです。 場内の各レストランでは、春の食材をたっぷり使った季節限定のメニューをいろいろ楽しめます。今回はパスタ好きの友人から評判を聞いて、「イタリアレストラン・プッチーニ」の自家製の手打ちパスタ「ビゴリ」をいただきました。1日30食限定というこのメニュー、手打ちならではのもっちりとした食感がたまりません。自家製カラスミと旬の魚介類との相性もよく、海の香漂う爽やかなおいしさ。パスタ好きには見逃せない一品です。 見応えのある企画展で毎回楽しませてくれるハウステンボス美術館では今、「~バロックの光と影~華麗なる17世紀ヨーロッパ絵画展」を開催しています(3月6日まで)。ポーランドのヨハネ・パウロ2世美術館が所蔵するバロック絵画50点を展示。作品はイタリア、スペイン、フランドル、オランダ、フランスなどヨーロッパの各地域で描かれたもので、お国柄や宗教に対する考え方などが反映されています。同時代の日本は江戸時代で、庶民的な題材をモチーフに浮世絵が描かれていました。芸術は時代を反映するといいますが、社会背景の圧倒的な違いをあらためて感じる絵画展でした。 ハウステンボスのチューリップ祭は4月10日まで開催しています。たくさんのチューリップに囲まれて、とびきり素敵な春のひとときをお過ごしください。

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