第245号【南蛮船渡来の地、横瀬浦へ】
長崎では10月中旬に入ってようやく秋らしくなりました。「天高く馬肥ゆる秋」。グルメや旅行など、この季節を満喫したいですね。
今回はプチ旅気分で、南蛮船渡来の地、西海市横瀬浦(よこせうら)を訪ねました。西彼杵半島の北端に位置し、佐世保市に近い横瀬浦へは、JRと高速船を利用します(JR長崎駅からJR佐世保駅まで約1時間30分。佐世保駅裏手の船着き場から横瀬浦港まで高速船で約15分)。小さな桟橋がある横瀬浦の入江は、穏やかな波をたたえる天然の良港。港を囲む小高い丘の合間を縫うように民家が建ち並んでいます。車も少なく、静かでのどかな土地柄のようです。
この地は、戦国時代末期の1562年、日本で最初のキリシタン大名として知られる大村藩の領主、大村純忠(おおむらすみただ)によって開港され、ポルトガル船との貿易やキリスト教の布教が行われたところです。ポルトガル船は以前は平戸に入港していましたが、トラブルなどがあり横瀬浦へ移ってきたのです。それまで一寒村に過ぎなかった横瀬浦には、各地から貿易商人が集まり、キリスト教徒やポルトガル人などでたいへん賑わったそうです。
土地の管理は宣教師にまかせ、商人には10年間免税をするなど、貿易港として繁栄していった横瀬浦でしたが、ある日、大村藩の内乱により一夜にして焦土と化し、わずか1年余りで南蛮貿易港としての歴史は閉ざされました。その後、ポルトガル船の入港地は、福田浦(長崎市の西海岸)、そして1571年、長崎へと移ったのです。
現在、横瀬浦港の入り口に浮かぶ八ノ子島(はちのこじま)の頂きには、当時、ポルトガル人宣教師が建てたといわれる十字架が復元されています。港のすぐそばには、キリスト教徒の集落だったという「上町」、「下町」の跡もありました。
横瀬浦の港や地域全体を見渡す丘の上には、横瀬浦公園が整備されていました。眺めのいいこの場所には当時、天主堂があったそうです。公園内には、開港当時の様子について書かれた『街道をゆく』の一節を記した「司馬遼太郎の碑」も建っています。近くには大村純忠が教会に通うために建てたといわれる「大村館」の跡もありました。
あちこちに当時の名残が点在する中、ちょっと驚かされたのは、長崎市内にある「思案橋」や「丸山」と同じ名称があったことです。遊廓があったといわれる横瀬浦の「丸山」は、「上町・下町」の集落から西側に続く丘の上にありました。そこへ向かう途中の小川に「思案橋」が架けられていたそうです。案内版によると、長崎と同じく「丸山」を前にして思案したから「思案橋」なのだそうです。
大村氏の家臣で、当時、長崎をおさめていた長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)も、横瀬浦で純忠とともに洗礼を受けたといわれています。後に秀吉のキリシタン禁教令で長崎を没収された後、筑後柳川藩に一時仕え、その後、また横瀬浦へ戻っています。彼の居宅跡の碑が横瀬浦のコミュニティセンターの前に建っていました。
地元の方の話によると、当時、キリスト教の布教が盛んに行われた土地ですが、現在、信者の方はひとりもいないそうです。この地の歴史を振り返ると、もし、内乱が起こらず横瀬浦の港が存続したら、長崎開港はなかったかも…などと、想像がふくらみます。歴史のロマンと面白さを感じさせる横瀬浦でした。
◎参考にした資料や本/横瀬浦南蛮浪漫(横瀬浦公園リーフレット)、長崎県の歴史散歩(長崎県高等学校教育研究会社会科部会)