第237号【よみがえる町名・銀屋町】
今、全国的にすすめられている「平成の大合併」。この市町村再編で1999年には3200を超えていた市町村数が、今年度中に1822になります。この合併で、何かにつけて話題になるのが、新自治体のネーミング。新しい名が生まれる一方で、消えるものもたくさんあって、ちょっと気になるところです。
すでに確定した各地の新市町村の名称を見てみると、あわら市(福井県)、かすみがうら市(茨木県)、いなべ市(三重県)、さつま町(鹿児島県)、みやき町(佐賀県)など、ひらがなが目立ちます。これは、今回の大合併の特長のよう。また、全国で唯一のカタカナ市名となった山梨県の南アルプス市の誕生や、結局は合併そのものが白紙にもどってしまった愛知県の南セントレア市など、いろいろと物議を醸したのも記憶に新しいところですね。
ふだんはあまり意識することのない市や町の名を、あらためて見直す機会になった「平成の大合併」。賛否両論、いろいろな意見がある中で、地域の歴史や文化の香りをとどめる地名が消えることを惜しむ声が多く聞かれました。
そんな中、先月、長崎市の中心部にある地区が、40年前に消滅した旧町名の復活を長崎市役所に陳情したという記事が地元新聞に掲載されました。町の名は「銀屋町(ぎんやまち)」。1962年に施行された長崎市内の町の再編の時、現在の古川町と鍛冶屋町の一部に組み込まれ、消滅した町名です。
語感が、ちょっと古風で粋な「銀屋町」。そのイメージ通り、町の誕生は江戸時代初期と古く、町名は金銀細工を手がける職人らがこの一帯に居住したことに由来するといわれています。ちなみに、日本の写真家の始祖とされる上野彦馬の父で、御用時計師だった俊之丞(しゅんのじょう)もこの町に住んでいて、金銀の細工が得意な人だっと伝えられています。
地図上からその名が消えた後も、旧町に深い愛着を持つ住民によって「銀屋町自治会」の名は存在し、7年に一度めぐってくる長崎くんちの「踊り町(おどりちょう)」のひとつとして、その伝統は継承されてきました。近年、銀屋町では、約1トンはあるという山車を男たちが勇壮に担ぐ「鯱太鼓(しゃちだいこ)」を奉納しています。
新聞報道によれば、長崎市側は、町名復活を願う住民の熱意の強さを感じ、前向きに取り組む考えを示したそうです。二年後の2007年に、くんちの踊り町が回ってくる「銀屋町」側は、それまでに町名復活をと、期待しています。
踊り町として、長崎くんちに登場する町名の中には、行政の都合による再編ですでに消えてしまった町名がまだいくつか残っています。かつて染物屋を営む人々が集まったことに由来する「紺屋町(こうやまち)」、筑後柳川の榎津とのつながりを物語る「榎津町(えのきづまち)」(江戸初期、川港であった榎津から、物資が船で長崎に運び込まれており、筑後方面からの移住者も多かった)など、旧町名にはその地域の歴史が刻まれています。
最近では、旧銀屋町界隈を含む長崎市中心部の磨屋(どぎや)地区で、古い町名のプレートが街角に貼られはじめています。これは、長崎の歴史散歩をかねた町歩きに役立てようというものだそうです。
ときに町のアイデンティティとして、人々の心を支え、絆を強める役割を果たす町名。時代は変わっても、失ってはいけないものがある、そんなことを考えさせる銀屋町の話でした。
◎参考にした本/長崎くんち(ナガサキインカラー)、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)