第239号【日蘭友好のシンボル、江戸町のたこのまくら】

 夏休みがはじまって1週間。長崎の観光&歴史スポット・出島にはいつも以上に子供たちの姿が多く見られます。5年後の2010年をめどに、江戸時代の建造物全25棟の復元整備が進められている出島。その西側にはすでに、輸入品を収めた蔵をはじめオランダ人が寝泊まりした部屋など数棟が完成し、往時の町並みが一部蘇っています。


 出島を訪れた際、ぜひ見てほしいのが中島川をはさんだ江戸町側からの眺めです。ゆるやかなカーブを描く石垣護岸が見渡せ、扇形の人工島を再確認できます。その中央部分には表門も見え、かつてそこに出島と長崎市中を唯一結んだ橋があったことを想像する楽しみもあります。




 鎖国時代、出島の隣町、江戸町につながるこの橋は、日本の中の国境のようなもので、常に番人が常駐し、厳しい監視のもとにありました。もちろん、出島のオランダ人らは自由に市中に出ることは禁じられ、江戸参府やくんち見物など特別な行事でもない限り、橋を渡る機会はありません。せまい出島での窮屈な生活を強いられた彼らにとって、ささやかな救いとなったのが、どうやら川を隔てた江戸町の人々との交流だったようです。




 江戸町は、現在、長崎県庁の所在地として大勢の人々が行き交う市の中心地。もともと、この一帯は港へ突き出た小さな岬の高台で、長崎がポルトガルの貿易港として開港(1570年:室町時代)した時、最初に建てがはじまったところです。次々に新しい町が生まれて行く中、その岬の先端を切りくずして造成されたのが江戸町でした。江戸時代に入る直前の頃、誕生したようです。


 江戸時代に入ってまもなく、江戸町の海を隔てた突端に出島が築かれました(1636年)。出島の住人は、はじめポルトガル人でしたが、キリシタン弾圧でわずか3年で国外に追放。その後、彼らに変わって200年以上もこの島に住んだのがオランダ人でした。彼らは出島への出入りの際には、必ず江戸町を通らなければならないため、自然と江戸町の人々との親交が生まれたようです。役人の目をかいくぐり日常的な所用を頼んだりすることもあっただろうと想像できます。また、当時の犯科帳には、江戸町のある男がオランダ人と貿易品にからむ密談をして盗みをしたり、売買をしたということが記されているそうです。




 江戸町の人々とオランダ人にどのような付き合いがあったか、他に具体的なことはわかりませんでしたが、親交の証は残っています。それは寛政年間(1789~1801)の頃、オランダ商館長が江戸町に贈ったといわれる江戸町の紋章です。J、D、Mの3文字を組み合わせた洒落た紋章で、その形から「たこのまくら」と称されています。3文字は当時のオランダ人が、江戸町を「JEDOMATSI」と綴ったことに由来しています。


 また、江戸町には、「オーフローファイノヘー、ノーフィヤーホーロセ…」で、はじまる不思議な語感の唄やかけ声も残っています。これは、オランダ人からの聞き伝えだといわれ、江戸町の人も意味はわからないままくんちの際に唄い伝えられてきたそうです。耳を澄ませば、オランダや東アジアの貿易の中継点にある地名らしき言葉も聞き取れます。そこには、大海原を渡り、異国で窮屈な生活をよぎなくされた当時のオランダ人の心情が込められているのかもしれません。


 今年、江戸町はくんちの踊り町です。演し物のオランダ船には「たこのまくら」の町旗が飾られ、江戸時代から唄い継がれてきた不思議な言葉も聞けるはず。今から楽しみです。





◎ 参考にした本/郷土歴史大事典~長崎県の地名(平凡社)、角川日本地名大事典、長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、長崎町づくし(長崎文献社)

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