第242号【芭蕉と去来】

 『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』。初秋の夕日が照りつけ残暑は衰えないが、風は秋の涼しさが感じられるという情景を詠んだ松尾芭蕉(1644~1694)の句です。季節の変わり目を描いたこの句は、今時分の長崎にぴったりきます。すでに秋めいている北国とは違い、「長崎の秋は、くんちが終わってから」と言われ、本格的な秋の到来まで、もう半月ほど待たなければなりません。


 「おくのほそ道」などで知られる松尾芭蕉は、江戸時代の有名な俳人。『秋深き 隣は何を する人ぞ』は、俳句に興味がない人でもご存知のはずです。芭蕉が残したたくさんの名句は、時代を超え多くの人々に共感と感動を与え続けています。


 芭蕉は生涯、長崎の地を踏むことはありませんでしたが、その高弟に長崎ゆかりの人物がいます。「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」(※芭蕉の10人の優れた弟子たちを称する言葉)のひとりで、「去来抄」、「旅寝論」などの名著を残した向井去来(むかいきょらい:1651~1704)がその人です。




 去来は、長崎の後興善町(うしろこうぜんまち:現在の興善町)に、儒医、向井元升(げんしょう)の子として生まれました。幼名は慶千代、のち兼時、通称を平次郎といいました。去来が8才の時、向井家は京都へ移住。16才の頃、福岡の叔父の家に養われ、仕官をめざして武芸に励みますが、10年後、その望みを捨て京都へもどり父の医業を継いでいた長男を助けました。


 天文や暦数の知識を身に付けていた去来は、家業を手伝う一方で、有職家(※朝廷や武家の礼式や典故に通じている人)、陰陽家として、摂政親王家の家に出入りしていたとか。その後、榎本其角(えのもときかく:蕉門十哲のひとり)を通じて芭蕉に入門。去来の力量は次第に認められ、師にも篤実に仕えて信任も厚く、「鎮西俳諧奉行」の称号を与えるとまで言われたほどでした。


 師を心から尊敬していた去来は、京都嵯峨にある自らの草庵、「落柿舎(らくししゃ)」にも芭蕉を迎えるなどして師弟関係の親密さを深めました。また芭蕉の臨終まぎわにもすぐにかけつけ、誠意を尽くして看護をしたそうです。


 家族や友人、同門の人々に対しても情愛と心遣いのある人だったという去来。故郷長崎には、蕉門の俳人でもある弟の魯町(ろちょう)や従弟の卯七をはじめ伯母の田上尼(たがみのあま)などがおり、幾たびか訪れたようです。去来は、帰郷すると魯町や卯七などから問われるままに、芭蕉から会得した俳諧の奥義を説いたとか。また田上尼の別宅であった千歳亭(せんざいてい)には度々止宿。「旅寝論」は、ここで書いたそうです。


 長崎市内には去来ゆかりの地が数カ所あり、句碑が建立されています。日見峠に近い長崎市薄塚町にある句碑(1784年建立)には、1687年に日見峠で卯七や門人らとの別れを惜しんで詠んだ『君が手も まじるなるべし 花薄』が刻まれています。また、旧長崎街道沿いには1813年に長崎蕉門の俳人たちが建立した「渡鳥塚」、春徳寺には「時雨塚」、丸山の料亭花月には「稲妻句碑」、諏訪神社には『ふるさとを 京でかたるも 諏訪の月』の句碑があります。








 長崎市田上の徳三寺の境内にある「千歳亭」跡の句碑には、1698年、去来がここで詠んだという『名月や たかみにせまる 旅こころ』が刻まれています。そういえば、数日後の9月18日は十五夜、仲秋の満月です。芭蕉も、『名月や 池をめぐりて 夜もすがら』などの句を詠んでいます。その昔、芭蕉や去来も見上げた月を眺めながら、あなたも一句つくってみませんか?





◎参考にした本:新訂・長崎の文学(長崎県高等学校教育研究会国語部会)、俳諧の奉行・向井去来(大内初夫、若木太一著)、新版・社会人のための国語百科(大修館書店)、去来抄・三冊子要解(森山泰太郎著)

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