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  • 第299号【美しい冬景色・2008長崎ランタンフェスティバル】

     一年でもっとも寒いといわれる大寒の時季、いかがお過ごしですか?ブルブル震えるような寒さの中でも、風や日射しにときおり早春の気配が感じられます。そういえば2週間ほど前、九州では4月のような温かい日がありました。「えっ、もう春?」と驚きましたが、やはり一時的なもの。本物の春は、まだちょっと先の方で待ってくれているようです。  誰もがコタツで丸くなっていたいこの時季ですが、長崎の街は逆にソワソワとして、人々は屋外へ目を向けはじめています。というのも、中心市街地の各所で、「2008長崎ランタンフェスティバル」の準備がはじまっているからです。長崎市民は、ランタン(中国提灯)や中国ゆかりのオブジェの装飾など、日に日に極彩色に彩られていく街の様子を肌で感じながら、「もうすぐ、はじまるぞ」とうれしい期待感に包まれています。 昨年は、全国から約92万人もの人々が訪れた「長崎ランタンフェスティバル」。旧暦の元旦から約2週間行われるこの一大イベントは、もともと長崎在住の華僑の方々が、旧正月(春節)を祝う行事として長崎新地中華街を中心に行っていたもので、平成6年から現在のように官民一体となり街をあげて祝うようになりました。旧暦元旦を初日とする開催期間は、今年は2月7日(木)~2月21日(木)。旧暦元旦は新暦だと1月下旬の年もあれば、2月中旬になる年もあり、開催期間が毎年変わります。ちなみに来年の旧暦元旦は1月26日、再来年の2010年は2月14日バレンタインデーだそうです。 ところで、同時期に中国や韓国などアジアの国々でも「春節」を祝う行事が行われています。ニュースでその様子を見るたび、「長崎ランタンフェスティバル」は、華やかさではどこにも負けてないぞと思ってしまうのです。長崎の中心市街地一帯にぎっしりと飾られる約15,000個のランタンは、夜になると温かくてやわらかな光を放ち、街の表情は一段と幻想的になります。徒歩5~10分圏内でつながる6ケ所の会場(湊公園・中央公園・唐人屋敷・興福寺・浜んまち・鍛冶市)では、中国雑技や龍踊り、中国獅子舞、二胡の演奏、太極拳などが毎日展開され、悠久の歴史を持つ中国の多彩な魅力をたっぷり楽しむことができます。 「2008長崎ランタンフェスティバル」のいくつもある見どころの中で、見逃せないのはメイン会場の湊公園に登場する干支の巨大オブジェです。「老鼠娶親(ラオ・スー・チィー・チィン)」という名前で、正月の3日に「ねずみ」が嫁にいくという中国の言い伝えにちなんだもの。8メートルの高さです。 眼鏡橋がかかる中島川界隈へもぜひ、足をのばしてください。たくさんの黄色いランタンが水面に揺れて、他の会場とはひと味違った美しい光景です。川沿いには、金魚や鴛鴦(おしどり)など、水にちなんだオブジェが並べられています。どこか愛嬌のある縁起のいいオブジェたちが、新年に福を運んでくれそうです。 今年こそ素敵なご縁を願う方は、中国の縁結びの神様「月下老人」にお願いしてみましょう(浜んまちの浜屋デパート前)。白髪、白眉、白髭の素敵な爺様です。特製の「赤い糸のお守り」(100円)も用意されています。 それから、興福寺、崇福寺などの唐寺めぐりや、週末なら江戸時代の唐人屋敷跡で、点心を食べたり、中国茶を飲んだりしながら古き良き中国を訪ねるのもおすすめです。新しい年をアジアらしく祝う「2008長崎ランタンフェスティバル」。新暦で出遅れた方は、長崎で新たな年をスタートさせましょう!◎ 取材協力/長崎ランタンフェスティバル実行委員会

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  • 第298号【言葉のことはじめ(方言と外来語)】

     あけましておめでとうございます。今年もみろくや「ちゃんぽんコラム」では、いろいろな長崎の魅力を探してお届けいたします。本年もよろしくお願いいたします。さて、今年最初のテーマは「言葉」。方言や長崎由来の言葉などをご紹介します。 さて、お正月、故郷へ帰省された方々は、迎えてくれたご家族や友人たちと、楽しいひとときを過ごされたと思います。ある方は、故郷の方言を思いきり使って会話をしていると、温かい気持ちになり、素にもどるようだとおっしゃっていました。方言はその地域の風土の中で生きる人々が長い間に育んだ言葉。人々の感覚や考え方が言語化されているといいます。端正に整えられた共通語よりも親しみを感じたり、素にもどったりするのは、より人間味のある言葉だからなのでしょう。 ところで、旅先などで土地の人が何を言っているのか全くわからなくて困ったことはありませんか?土地のお年寄りが話す筋金入りの方言は、まるで外国語。カルチャーショックをうけますよね。話が少しそれますが、外国語と言えば、英語、韓国語、中国語などいろいろありますが、そういった国や民族の言語は、世界におよそ6000ないし7000もあるそうです。しかし、今、その内の90~95%が、民族や話し手の減少などによって絶滅寸前あるいは消滅の危機に瀕しているとか。言語にはその国や民族の文化が宿っているだけに、1つの言語が消えることは人類にとって大きな悲劇だと学者さんは言っています。日本でいえば、アイヌ語も消滅の危機が懸念されているそうで、近年アイヌ語を残そうとする活動が展開されているようです。 絶滅危機の問題は、動物や植物の世界だけでなく言語の世界にも起きていたのですね。言語も多様性がある方がいい、専門家でなくても、そう思う人は多いのではないでしょうか。日本語の場合、全国津々浦々、たくさんの方言を擁していますが、方言を大切にすることは、地域の人々や文化を大切にすることにほかならず、最近では、方言が見直されているそうです。「おいしい」は、長崎では「うまか」、青森では「め」、岩手や秋田、山形は「んめぁー」島根は「んまい」、宮崎や鹿児島では「んめ」沖縄は「まーさん」。「大きい」は、長崎や福岡、佐賀、熊本では「ふとか」、同じ九州でも宮崎では「おっこね」、福島は「ずなぇー」、静岡は「いかい」、東京は「でっけー」、福井は「いけー」です。方言は基本的に「話し言葉」。実際に現地で耳にしたいですね。 長崎県・五島では驚いた瞬間に思わず「あっぱよ」といいますが、同じ長崎県でも他の地域にはない言葉です。こんなふうに津々浦々で独特の言葉が見られ、同じ言葉でも微妙にイントネーションやニュアンスが違ったりします。本当に方言って不思議で面白いものですね。 お次は、長崎ゆかりの外来語について。古く中国、ポルトガル、オランダとの貿易港として繁栄した長崎には、さまざまな海外の文物が持ち込まれました。同時にやって来た外国語も長崎人の耳が聞き取り、訳して生活に溶け込んでいったのです。中国ゆかりでいえば、たとえばトンスイ(湯匙)。中華料理で使うチリレンゲのことですが、長崎ではトンスイと呼ぶ人がまだまだいらっしゃいます。他には、サジ(茶匙)、ジタバタ(七転八倒)、ヒョウキン(剽軽)なども中国渡来。すっかり日本語として定着しています。 約400年も前の南蛮貿易時代にもたくさんの言葉が伝わりました。カステラ、カルタ、コーヒー、トタン屋根のトタン、パン、ボタンなど。オランダからは、おてんば娘のオテンバ、苦い薬を飲む時に欠かせないオブラート、ガス、コップ、コルク、ポンプなど。海外との交流で新しい言葉にあふれた当時の長崎は、おおいに人々の心を刺激したはず。こうした言葉の面からも、当時のこの街の豊かさ、華やかさが想像できるようです。◎参考にした本/世界の先住民族10~失われる文化・失われるアイデンティティ(明石書店)、長崎事典~風俗・文化編(長崎文献社)、いろんな方言がわかる本(メイツ出版)

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  • 第297号【長崎の古き良き果実・ゆうこう】

     クリスマスが過ぎていよいよ今年もあとわずか。新年を迎える準備でお忙しい中、当コラムを読んでくださってありがとうございます。さて、今回は、新しい年に向けて、夢と希望のつまった長崎の果実「ゆうこう」をご紹介します。現代人が気にする健康づくりにも役立つ可能性を秘めたうれしい果実です。 「ゆうこう」は、ユズ、カボス、スダチ、レモンといった香酸柑橘類の一種です。見た目はユズや日向夏に似て、冬場の収穫時の色合いはレモンイエローならぬ「ゆうこうイエロー」と表現したくなるような明るくてやさしい黄色です。香りは、ユズよりも甘くまろやか。果肉は瑞々しくやわらかで、苦味がほとんどなく、レモンをかじった時のようなしかめっ面にはなりません。他の香酸柑橘類と同じように、主に肉料理、魚料理、酢の物などの調味料や薬味として使います。 「ゆうこう」は、もともと長崎市の限られた地域に分布していたもので、その独自性から長崎赤カブ、長崎白菜(唐人菜)、辻田白菜などと並んで、長崎の伝統的な農作物のひとつになっています。ところで、その分布地域は、土井ノ首(どいのくび)地区周辺、外海地区という、いずれもかつて深堀・鍋島藩領だった地域です。また、それらの地域の教会周辺などで多く見られたことから、同藩やかくれキリシタンに関係した歴史があるのではと想像したのですが、長崎市ゆうこう振興会会長の中尾順光さんによると、「残念ながら今のところそういった史料は見つかっていません。また、長崎という土地柄、中国、ヨーロッパなど、海外から渡ってきた可能性もありますが、ルーツは定かではないのです。ただ、江戸時代後半にはすでにこういった地域の家々の庭先などに植えられていたというのはわかっています」。 その「ゆうこう」が、専門機関の調査で新種の果実と判明したのは数年前のことです。それまで、地元の人にとってはあまりに身近な果実だったので、わざわざ調べることもなかったのでしょう。また、時代とともに日本の食が多様になる中、他の調味料に押され、「ゆうこう」の木は伐採されるなどして次第にその数は減ってきたのだそうです。 ここにきて、「ゆうこう」があらためて注目を集めているのは、新しい品種だったからだけではありません。長崎県果実試験場や地元大学で主要フラボノイドの量を調べた結果、身体にいい成分がユズ、日向夏などより多いことがわかり、機能性食品としての可能性が見えてきたからです。たとえば、果肉、果皮、種子には、血液中と肝臓の中性脂肪濃度を低下させたり、活性酸素の生成を抑制する働きのある成分が認められています。また、果肉には血液中のコレステロールを下げる効果もありました。中尾さんは、「健康飲料、化粧品、そして薬品など、いろいろな可能性を秘めています」と大きな夢をふくらませています。 現在、「ゆうこう」は、長崎市西山木場地区で栽培している中尾さんをはじめ市内の認定農業者8人による栽培がはじまったばかりです。「本年度の収穫は約1,000個を見込んでいます。まだ、生産量が少ないため、欲しいと思っても手に入らない方もいらっしゃるかもしれません。これから、がんばって生産を拡大していきます」。そんな中、ゆかりの地・外海地区にある「道の駅・夕陽が丘そとめ」では、今月初旬に「ゆうこう」の初売りまつりが行われました。「ゆうこう」をはじめ、パン、クッキー、ママレード、こんにゃく、ちらし寿司など、「ゆうこう」のやわらかな酸味と香りをいかした食品がいろいろ販売されていました。 「ゆうこう」から生まれるおいしい食は、人と人との「友好」のきっかけをつくり、身体にも「有効」と、良いことづくめ。来る新年、長崎ブランドのひとつとしての発展に大きいな期待が寄せられています。◎ 「ゆうこう」など長崎市の伝統的な農作物に関するお問い合わせは、長崎市水産農林部水産農林政策課 ◎参考資料/「ゆうこう」リーフレット(長崎市農林部地産地消推進課・長崎市農林部農林振興課)

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  • 第296号【長崎の甘く優しい香り~マダム・バタフライ】

     すれちがった人からの香りに、ふと足を止め、思わず振り返る。それは、かつての恋人や気になる人と同じものだったり、懐かしい思い出のシーンの香りだったりして、一瞬にして過ぎ去ったことがよみがえってきます。香りはまるで記憶を呼び覚ます魔法のよう。香りに導かれた思い出にせつなくなったり、やさしい気持ちになったり。この世に香りがなかったら、どんなにつまらないものだったでしょう。 国内外の化粧品メーカーなどからいろいろな種類が出回っている香り。そのタイプも表情も実に多彩です。そんな香水界に、この秋、またひとつ魅力的な香りが誕生しました。その名もオードパルファム『マダム・バタフライ』。長崎を舞台に一途な愛に生きた女性を描いた名作オペラ「マダム・バタフライ」にちなんでつくられた長崎限定の香水です。資生堂と長崎国際観光コンベンション協会の共同開発で、発売から一ヶ月ほどしか経っていませんが、すでにその香りのとりこになってリピータになった女性もいるほど、やさしく素敵な香りです。  長崎港を一望する庭とテラスのある家からストーリーがはじまりまる、オペラ「マダム・バタフライ」は、幕末から明治にかけての物語です。当時の長崎は、開港により多くの外国人がやってきて、街は西洋と東洋がブレンドしたハイカラな空気に包まれていました。そんな時代背景の中、アメリカからやってきた海軍士官ピンカートンと日本人女性の蝶々夫人は出会い、結ばれます。が、やがて夫は本国へ帰ることとなり、彼女は3年以上も待ちわびることに。彼女の心の支えは、夫が別れぎわに残した「バラが咲き、コマドリが巣を作るころ帰ってくる」という約束でした。そして、ようやく長崎にもどってきたピンカートン。しかし、彼は本国で再婚した妻も連れていたのです…。 蝶々夫人の悲恋に多くの人が涙したオペラ「マダム・バタフライ」。そのストーリーの中に、ピンカートンが長崎にくることを知った蝶々夫人が、庭に咲いたバラ、桜、スミレなどたくさんの花々を残らずつんで居間中にまくというシーンがあります。その花々は夫を待つ間、必ず帰ってくると信じて大切に育てていたものでした。ひたむきにひとりの人を思い続けた蝶々夫人。オードパルファム「マダム・バタフライ」は、そんな蝶々夫人の「純愛」をイメージしたのです。 オードパルファム「マダム・バタフライ」の香りは、バラの香りをベースにしたフローラルブーケタイプです。桜や梅などの日本的な香りも配合され、西洋的であり東洋的でもある、まさに長崎らしい香りです。香り立ちは、つけたときから時間の経過によってトップノート(つけてから30分くらい)、ミドルノート(つけてから30分~1時間くらい)、ラストノート(つけてから3時間以上)という3段階に分けられますが、オードパルファム「マダム・バタフライ」の場合、桜・梅・バラの優雅で気品のあるトップノートから、すみれ・ラズベリー・バラのひかえめな甘さに安らぐミドルノート、あやめ・白檀・ホワイトムスクの豊かで温もりのあるラストノートと変化して、つけた人を楽しませてくれます。 ところで、世界中で愛されるバラは、アロマテラピーの世界では、リラクゼーション効果があり、なごやかな気分にしてくれる香りだといわれています。だからなのか、その香りをベースにしたオードパルファム「マダム・バタフライ」をつけると、心地良さに包まれ日常的に愛用したくなります。冬の冷たく乾いた空気の中も、この温かみのある香りがほっと気分をなごませてくれることでしょう。 オードパルファム「マダム・バタフライ」をつけた感想として、「いろんな花の香りが楽しめていい」「どこか懐かしい感じがして好き」「個性が強すぎず、好ましい」「気分が落ち着く」などの声が聞かれました。もうすぐ、クリスマス。バラ好きの女性へ、長崎を懐かしがる方へ、そして自分へ、素敵な香りのプレゼンはいかかですか?記憶に刻まれるロマンチックな香りの思い出が生まれますように。◎参考にした本/ジャコモ・プッチーニ生涯と作品(春秋社)、香水の事典(成美堂出版)

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  • 第295号【長崎の紅葉と帰化植物】

     北の方では大雪、九州では初氷と、急激に冷え込んだ11月中旬過ぎ。いきなりやってきた真冬に、あわてて冬物のをコートをひっぱり出した方もいらっしゃるのではないでしょうか。極端な気候の変化で、風邪をひく方も多いようです。野菜や魚介類がたっぷりのちゃんぽんで、身も心も温かくしてお過ごしください。 気温は徐々に下がってはいるものの例年より温暖に感じられる長崎の初冬。稲佐山など長崎港を囲む山々を見渡せば、今年の紅葉はいまひとつ。地元で昔から、『春は中川カルルスの桜、秋は妙相寺(みょうそうじ)の紅葉』といわれるほど、紅葉の名所として知られる長崎市本河内の妙相寺へも行ってみましたが、例年のような美しい紅葉は見られませんでした。ご近所の方も、「今年は暑い日が長く続いたせいでしょう」と残念がっていました。 1679年に開創された妙相寺は、異国風の立派な石門で知られています。ここは中国ゆかりのお寺で、江戸時代後期は長崎にいる中国人たちの、何か異変が起きた際の避難所とされていたとか。石門はもともとは近くの長崎街道沿いにあったものを現在の場所(境内)に移したのだそうです。手入れをされた石門前の植木を見ると、「おや?」。紫陽花が季節外れの花を咲かせていました。ところで、前述の春は桜とうたわれた「中川カルルス」とは、今の長崎市の中川、新中川地域にあった憩いの場のことです。かつては数千本もの桜が植えられ、温泉場や茶店などがあったそうです。「カルルス」とは、カルルスバート(チェコスロバキア)の鉱泉を結晶させたカルルス水で沸かしていたことに由来しています。 長崎の繁華街にほど近い寺町通りの一角にある大音寺の大イチョウは、きれいな黄色に染まっていました。こちらは例年通りかなと思っていたら、「紅葉はいつもより遅れています。本当ならみごとな黄金色になるけれど、今年は、色づきが足りない。このまま落葉するかもしれません」とお寺の方はおっしゃっていました。 いつもと違う秋を感じながら、今度は足下の植物に注目して、長崎の街を歩いてみました。石を敷いて造った古い溝の石と石の間からはホウライシダといわれる帰化植物がかわいい葉を出していました。世界の熱帯亜熱帯に広く分布している植物で、観葉植物の「アジアンタム」によく似ています。江戸時代には観賞用に栽培されていたそうです。また、電柱や建物のたもとや空き地などでは、ヒメツルソバ(ヒマラヤ原産)がたくさん見られました。直径1センチほどの白やピンクの球状をした花は、本来は夏場に盛るらしいのですが、まだまだねばって咲いています。さらに、ハゼラン(西インド諸島原産)、サフランモドキ(中央アメリカ原産)などもまだ花が見られました。 実は、ホウライシダやヒメツルソバなど、ふだんよく目にしていたのに、長い間、名前は知りませんでしたが、先日、植物の専門家の方と長崎の街の帰化植物をたずね歩く催しに参加した時に教えていただきました。その時、身近にある多くの植物が帰化植物であることを知りました。アサガオ(インド~ヒマラヤ原産)、ハナカタバミ(南アフリカ原産)、コスモス(メキシコ原産)、キバナコスモス(熱帯アメリカ原産)などもそうです。また、クローバーことシロツメクサ(ヨーロッパ原産)は、オランダ船がガラス製品などのわれものを運ぶ時、クッション代わりに詰め込まれ、その種子が広がったというのは、長崎ではよく知られています。専門家の話によると、「古くから中国や出島でオランダとの貿易が行われていた長崎には、特に帰化植物が多い」ということでした。 たんに雑草としてかたずけていた身近な植物も、その名前を知れば、親しみがわいてくるもの。それに、意外な歴史を持っていたりすると、ますます興味がわいてきます。木枯らしに負けないで、植物図鑑を片手にちょっとご近所を歩いてみませんか?◎ 参考にした本/長崎の史跡(長崎市立博物館)、日本帰化植物写真図鑑(全国農村教育協会)、ながさきことはじめ(長崎文献社)

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  • 第294号【世界で認められた長崎・明治屋商店のソーセージ】

     数カ月前、長崎の地元紙にうれしいニュースが掲載されました。長崎のハム・ソーセージ製造販売の老舗、「明治屋商店」のソーセージが、ドイツ・フランクフルトで5月に開かれた国際食肉産業専門見本市「IFFA2007」の『ハム・ソーセージ国際品質コンテスト』ソーセージ部門で金賞と銀賞を受賞したのです。 ドイツといえばビールの本場で知られていますが、同時に「ヴルストラント(ソーセージの国)」と言われるほど、たくさんの種類のソーセージがあることでも知られています。3年に1度開催されているこのコンテストは、本場ドイツで130年の歴史を誇り、安全性、品質、味など何項目も審査され、おいしくて誠実な製品が選ばれるといいます。世界中からその道の職人たちが競って出品する中での今回の受賞。まさに世界に認められた明治屋商店のソーセージなのです。 「明治屋商店」は、大正10年(1921)創業。長崎で生まれ育った会社ですが、業務用の商品が中心だったため、一般消費者にはその名はあまり知られていなかったようです。「長崎市内の方でしたら、学校給食などでうちのハム、ソーセージ、ベーコンなどを食べていただいたと思います。また、地元のホテルやレストラン、福岡など九州各県のコンビニのお弁当にも使っていただいています」と代表取締役の田川俊幸氏。 今回、受賞したのは金賞がリオナソーセージ、ハンターソーセージ、銀賞がビアシンケンの全3品で、いずれもヨーロッパではオーソドックスなタイプです。ハム・ソーセージ作りの職人でもある田川氏がドイツ式の製法にこだわって作りました。「牛肉と豚肉をなめらかな絹びきにしたものをベースにしたソーセージで、増量剤、化学調味料、合成着色料などは添加していません。豚肉は新鮮な長崎県産。牛肉は安全性で信頼できるオーストラリア産のモモ肉。どちらも自然な熟成でソーセージの結着力を高め、肉本来の力で固まらせています」。食べてみると、ほどよい弾力で口当たりがやさしい。デンプンやその他の添加物などを使用したタイプにあるプリプリ感とは違う食感です。 リオナソーセージは、ドイツの香辛料と塩味がほどよく効いた味わい。ハンターソーセージは、なめらかなソーセージに粗びき豚ウデ肉を混ぜ、ピスタチオをちりばめています。ビアシンケンは、角切り豚モモ肉を混ぜ、ビールによくあうスパイスの効いたおいしさです。「日本ではソーセージを焼いて食べる方が多いようですが、まずは、そのままクラッカーやパンなどにのせて食べていただきたいですね」。 風味豊かな香辛料、特殊なケーシング(詰め物)はドイツ製。塩は天草の天日塩を使っています。「ドイツ製の塩は、辛さにカドがあるのです。それで、まろやかな辛さの天草の天日塩にしました」。また、田川氏がドイツ式の製法にこだわったのは、「素材を大切にした作り方をするから」だといいます。手間がかかり大量生産がしにくい製法ですが、製品のひとつひとつに目が行き届くこのやり方を貫いているのです。「食品の仕事に携わるものとして、常にお客様の喜ぶ顔を想像して、おいしく、安全なものをと思っています」。 今回、初めての出品で、めでたく受賞を果たした明治屋商店のソーセージ。しかし、当初は出品する予定はなかったそうです。「同業の方々との研修ツアーで『IFFA2007』を見学することになっていて、せっかくだから出品してみたらとすすめられたのがきっかけです」。長年、手作りにこだわって作り続けてきた職人の技が、こうして世界に認められたのでした。◎取材協力/(有)明治屋商店◎ 参考にした本/FOOD ‘S FOOD 食材事典(小学館)

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  • 第293号【浦上へ、キリシタンの史跡を訪ねて】

     北の方では初雪が降るなど早くも冬が足音をたてて近付いています。南国・九州の長崎は、さすがに朝晩は冷えますが、日中はまだ汗ばむほどの暑さ。秋らしさを感じさせる金木犀の芳香も、遅れ気味でようやく漂いはじめたところです。そんな長崎の今はまさに、観光シーズンたけなわ。長崎市内を走る路面電車の電停では、脱いだジャケットを片手に市内観光を楽しむ方々の姿が目立ちます。 そんな人々に混じって路面電車に乗りこみ、平和公園のある浦上地区へ行ってきました。この一帯には、原爆落下中心地公園、長崎原爆資料館、如己堂、永井隆記念館などがあり、いわゆる平和のゾーンとして、国内外からの観光客が絶えないところです。今回は、そういった有名な施設の周辺にありながら、足を止める機会が少なかった史跡をいくつかご紹介したいと思います。 それらは長崎のキリスト教に関する史跡です。まずは、簡単に歴史から。時代は400年以上も前、戦国大名の大村純忠が1570年に長崎を開港。ポルトガル船との貿易港として新しい町づくりがはじまった長崎は急速に発展していきました。それから10年後、純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進。それから4年後の1584年、島原の領主・有馬晴信は、ここ浦上をイエズス会に寄進しました(※戦国末期、浦上は有馬領だった)。 そうして長崎は、当時の日本におけるキリスト教の中心地となりましたが、その黄金時代は長くは続きませんでした。信長の後、政権を掌握した秀吉は、1587年に伴天連追放令を出し、各地で活動していた宣教師を追放したり、教会を破壊しはじめます。そして、翌年にはイエズス会領となっていた長崎、茂木、浦上を没収し直轄地にしたのです。ただ、その頃はまだ、長崎におけるキリスト教弾圧は行われておらず、逆に、長崎の市中には教会が増えていたといいます。江戸時代に入り徳川幕府の天領となった長崎は、1612年に禁教令が出され、2年後には長崎にあった教会がほとんど破壊されるなど、激しい弾圧がはじまったのでした。 長崎駅前から約10分。「大橋」電停で下車。その近くの国道206号線沿いに「サンタ・クララ教会跡」があります。説明版によると、徳川家康が江戸に幕府をひらいた1603年に建てられた教会で、当時としては浦上で唯一の教会だったそうです。幕府の禁教令で破壊された後、神父を失った村人たちは、帳方(ちょうかた)、水方(みなかた)、聞役(ききやく)という潜伏キリシタンの地下組織をつくり、その後250年間、ひそかに信仰を続けました。この場所では、仏教徒を装わざるをえなかった信者たちが、盆踊りと称して集まり、祈りを捧げていたそうです。 「サンタ・クララ教会跡」からサントス通りと呼ばれる道路から脇道に入り浦上川の上流へ数分歩くと、山里小学校にほど近い住宅街の一角に、「ベアトス様の墓」と呼ばれる史跡がありました。信長、秀吉の時代には村人のほとんどがキリシタンであったという浦上地区。江戸初期の弾圧時に捕われ、激しい責め苦にも屈しなかった3人の親子、ジワンノ、ジワンナ、ミギルのお墓です。信仰と愛に生きたというこの一家は、敬けんな生涯をおくった人々を意味する「ベアトス」様と称され、この地のキリシタンの間でずっと語り継がれてきたのでした。 強固な地下組織で信仰を続けた浦上の信徒たち。江戸時代も終わりに近い1865年、大浦天主堂で浦上の信徒らがキリシタンであると神父に申し出たときも、厳しい禁教の下にあったため、信徒たちは密かに秘密教会を設け、神父を迎えました。そのときの教会のひとつが、山里小学校にほど近いところにある、「聖フランシスコ・ザベリオ堂」です。しかし、1867年、ここでの活動が見つかり、信徒が捕らえられます。それが最後の弾圧として知られる「浦上四番崩れ」につながっていくのでした。 あわただしく過ぎて行く現代の日々の中で、ふと立ち止まり、「信仰」とは?「愛」とは?ということを考えさせられる、浦上地区のキリシタンの史跡。時代背景や人々の暮らしぶり、心情など、想像しがたいものが多々ありながらも尚、胸を打ち、語りかけてくるものがありました。◎ 参考にした本/長崎の教会(カトリック長崎大司教区司牧企画室)、旅行の手びき(長崎市観光課)

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  • 第292号【純忠とキリシタンの史跡を訪ねて~大村~】

     シャギリの音色と熱気に包まれた長崎くんちの3日間が昨日で終わりました。長崎の秋は、このくんちが終わってからやってくると言われています。今年は厳しい暑さが長引いたこともあって、本格的な秋の到来が本当にうれしいですね。 さて、今回は先月末に行われた長崎日本ポルトガル協会主催の「大村市史跡見学会」を通して、街の歴史をご紹介します。長崎県の空の玄関口・長崎空港がある大村は、歴史的には日本初のキリシタン大名・大村純忠(すみただ)が治めた地として知られています。今回の見学会では、主に純忠や当時のキリスト教弾圧に関連する史跡を訪ねました。 約450年前、ポルトガル船が来航したとき伝えられたキリスト教。ときは16世紀半ば(室町末期~安土桃山前期)、大村領内(横瀬浦)で南蛮貿易がはじまると、純忠は自らもキリスト教の洗礼を受けました(1563)。純忠がポルトガルとの貿易に期待したのは、貿易でもたらされる莫大な利益と西洋の進んだ利器で、当時、家督争いなどでゴタゴタしていた大村家の安泰をはかり、戦国大名として力をつけることであったといわれています。 純忠がキリスト教を保護したこの頃、大村では家臣や領民などほとんどの人々が信徒であったと伝えられています。その後、純忠はポルトガルとの貿易のために長崎を開港(1570)、さらにイエズス会に長崎と茂木を寄進したり(1580)、有馬氏、大友氏らとローマへ少年たちを派遣(1582)するなどしました。 大村駅から歩いて10分くらいの場所に、純忠が1564年に築城した三城城(さんじょうじょう)跡がありました。そこは平地から30メートルほど高くなった丘で、その地形を利用して周囲には急な崖やいくつもの深い堀が造られていたそうです。発掘調査では、鉄砲の弾や家臣たちが使ったらしい食器も多く出土しています。戦いに明け暮れた戦国の世に生きた純忠の心中を思いました。現在、城跡の敷地内には長崎県忠霊塔や富松神社があります。 純忠の子で初代藩主となる喜前(よしあき)が1599年に築いた「玖島城(くしまじょう)跡」も訪ねました。こちらは時代劇で見るような立派な石垣が残っていました。春はサクラの名所、初夏には花菖蒲が咲き誇る大村公園内にあり、多くの市民に親しまれています。 玖島城の近くには5つの武家屋敷街があります。そのひとつの旧円融寺に通じる「草場小路武家屋敷通り」で大村の郷土史家の方が、たいへん興味深いお話をしてくれました。「この界隈のどこかに、バルトロメオ教会という1601年(または1602年)頃に建てられた教会があったようです」とおっしゃるのです。このことは、宣教師がポルトガルに送った書簡に記されているそうで、当時としては長崎で2番目に大きい教会だったそうです。 純忠の洗礼名は「ドン・バルトロメオ」。まさに、純忠にちなんだ教会だったのでしょう。大村領でキリスト教の禁教がはじまったのは1605年で、「その頃にこの教会は壊されたようです」とのことでした。江戸時代に入ると島原の乱(1637)もあり、キリスト教弾圧は厳しさを増し、大村領でも宣教師や信者たちが激しい迫害を受けました。彼らが捕らえられた「鈴田牢跡」や、多くのキリシタンが亡くなった斬罪所跡の放虎原(ほうこばる)殉教地など、大村市内には殉教の遺跡が数多く残されていました。 江戸時代に入ってまもなく、初代藩主・喜前は、キリスト教から日蓮宗に改宗。大村家の菩提寺として本経寺を建立し、大村家墓所(国指定史跡)を設けました。それまでのキリスト教がらみのさまざまな出来事を思えば、当時の社会ではお家断絶の危機があったかもしれないと想像しますが、大村家は明治維新を迎えるまで絶えることなくこの地を治めました。大村藩にはあまり知られていない事実がまだまだあるのかもしれない、そんな思いにかられた見学会でした。◎ 取材協力/長崎日本ポルトガル協会 095―828―8859  

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  • 第291号【平成19年長崎くんちの見どころなど】

     日中はまだ真夏の日射し。とても暑いですが、吹く風は意外に涼しく、大気も秋らしく澄んでいます。高台から長崎港をのぞめば、視界くっきり、気持ちのいい眺めです。 さて、長崎の秋といえば諏訪神社の大祭「長崎くんち」です。10月7、8、9日の3日間行われます。今年の奉納踊を受け持つ「踊町(おどりちょう)」は、興善町(こうぜんまち)、八幡町(やはたまち)、西濱町(にしはままち)、万才町(まんざいまち)、銀屋町(ぎんやまち)、五嶋町(ごとうまち)、麹屋町(こうじやまち)の7ケ町。各町の「傘鉾(かさぼこ)」や、奉納踊の見どころなどをご紹介します。 興善町の傘鉾の飾(だし/傘鉾上部の飾り)は、烏帽子と神楽鈴、そして鮮やかな紅葉が配されています。垂れ幕には五彩の雲と、金糸で三社の紋がほどこされ格調の高さが感じられます。奉納踊は「石橋(しゃっきょう)」。能に由来した舞で、獅子が長い毛を振りまわす様は圧巻です。 八幡町は、傘鉾も奉納踊も「弓矢八幡」に因んだものです。長い弓と矢立てがスマートに配された傘鉾の飾は、江戸時代、この町に住んでいた長崎三大文人のひとり、木下逸雲(きのしたいつうん)のアイデアだとか。奉納踊の「弓矢八幡祝い船」では、勇ましい引きまわしが見られます 華やかさで特に目をひくのが西濱町です。中国姑蘇十八景図と詩文を長崎刺繍で施した贅沢な傘鉾の垂れ幕。黒い輪の部分には、明治12年に来日したスウェーデンの北極探検隊長による英字の町名が記されています。奉納踊は豪華な龍船。2階部分は本踊りの舞台にもなっています。ときに煙りも吐く龍船。その勇壮な引きまわしは必見です。 万才町の傘鉾は、深紅の大きな盃が目印です。盃の「萬歳」の金文字は、長崎平和記念像の作者・故北村西望氏百歳の時のもの。奉納踊は長崎のわらべ歌や民謡などを組み合わせたノリのいい曲で「本踊(ほんおどり)」を披露。三味線の演奏や踊子さんたちのあでやかな舞いなど伝統とモダンを感じる出しものです。 銀屋町は、今年初め念願の旧町名が復活。そんな記念すべき年ということもあり、くんちにかける思いもひとしおのよう。傘鉾の飾は、金の鯱(しゃち)。奉納踊りは、鯱を台座に載せた太鼓山を、屈強な男たちが力一杯宙へ舞い上げます。 五嶋町の傘鉾の飾は、虫籠を中心に、芒と白い菊が配され風雅な趣です。奉納踊は、前回(7年前)から出している「龍踊」です。龍を翻弄する玉使いの動きや龍の尻尾の扱いなど、のびのびとして楽しく、五嶋町「龍踊」の個性が感じられます。  麹屋町の町名は、かつて大きな泉や井戸があり、水が豊富で麹屋さんが多かったことに由来するとか。傘鉾の飾には、麹屋町の名を記した麹ぶたが付けられています。奉納踊では大きな川船が登場。根曳衆がゴロゴロと大きな地響きをたてて引きまわす様は感動的です。 さて、長崎くんちと同時に楽しんでいただきたいのが、シーボルト記念館(長崎市鳴滝2―7―40)で開催中の『シーボルトと長崎くんち展』(平成19年10月14日迄)です。「諏訪神社と神事の歴史」をはじめ、シーボルトやケンペルなど江戸時代に、長崎くんちを西洋に紹介した外国人の記述など、貴重な資料を展示しています。興味深いのが、初公開資料の鎧と兜(黒漆塗紺糸威二枚道具足)です。長崎奉行所の御貸具足で、明治元年の長崎くんちでお神輿の行列に使用されたと伝えられています。 また、各町の傘鉾を描いた絵はがき(画:野田照雄氏/7枚1組1,000円・税込)や各町の出しものに因んだ図案が描かれた「長崎くんち手拭いセット」(7本・化粧箱入り/2,500円・税込)など、今年の長崎くんちグッズも販売されています。中でも「長崎くんち手拭いセット」は人気商品。数に限りがありますので、お早めにお求めください。◎ 取材協力/長崎歴史文化協会  シーボルト記念館 TEL095―823―0707長崎伝統芸能振興会(長崎商工会議所内)https://nagasaki-kunchi.com/#about

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  • 第290号【パウロのカステラ ~400年の時を超えて里帰り~】

     ポルトガルの首都リスボンは、大航海時代、冒険家や船乗りたちが新世界をめざして命がけの航海に出た街。世界の大海原を渡ったポルトガル船は、やがて日本にもたどり着き、1570年には長崎開港。まもなくこの街には、ポルトガル人が自由に居住するようになりました。当時の様子は西洋風の建物がたち、街角ではパンを焼く匂いが漂うなど、まさに異国のようであったと伝えられています。この時代、ポルトガル船はコップ、ボタンなどの日用品から、カステラ、テンプラなどの食、そして天文学や西洋美術など幅広い分野の文物、いわゆる南蛮文化を日本にもたらしたのでした。 観光でリスボンを訪れた長崎の人たちは、石畳の坂道をゴトゴトと音を立てて走る路面電車やオレンジ色の屋根が連なる景観の美しさについて語りながら、「どこか、長崎に似ている」、「なぜか、懐かしい感じがする」と、口々にそう言います。はるか400年以上も前の交流のなごりなのでしょうか、時を超えてつながる不思議なご縁があるようです。そんな思いを強くさせるお店が、リスボンの街にありました。ヨーロッパで唯一カステラを製造・販売している、「Castella do Paulo(パウロのカステラ)」というティーサロンです。 このお店を経営しているのは、ポルトガルの菓子職人であるパウロ・ドゥアルテさんと、京都出身の智子さんご夫妻です。「ありがたいことにパウロのカステラは、ヨーロッパ各地からわざわざ買いに来てくれる方がいらっしゃるほど評判がいいんです」と智子さんは、うれしそう。場所は、ポルトガルの歴史的保存地区にもなっている『バイシャ』の、観光客などで賑わうコメルシオ広場の一角です。「ポルトガル人はとにかくコーヒーが好き。一日に何度もいらっしゃる方も多いですよ」。 智子さんは島根大学在学中に長崎を旅し、異国情緒あふれる食文化にふれて、そのルーツのひとつであるポルトガルのお菓子や料理に興味を持ちました。そして大学を卒業後、単身ポルトガルに渡り、パウロさんと出会い、結婚。その間、ポルトガルのお菓子づくりを学び、また、ポルトガルの各地方の伝統のお菓子を訪ね、『ポルトガルのお菓子工房』という一冊の本も出しています。「素朴で奥深いポルトガルのお菓子を、日本に伝えたいという一心でやってきました」。 パウロさんは、12才からポルトガルの菓子職人の道へ入り、その実力は39才の若さにして、すでに熟練の域です。若い頃からより高度な技術をパリに学びに行くなど仕事への情熱は人一倍。結婚してからは、ポルトガルのお菓子や南蛮菓子を紹介するイベントを日本各地で行ったこともあります。そんな折、かつてポルトガル人が長崎に伝えたカステラと出会い、そのおいしさに感動。‘96年に長崎のカステラの老舗、『松翁軒』さんでカステラづくりの修行をし、母国に帰ってカステラ工房をオープンしました。それから10年余り。「おそらく、今も日本人以外のカステラ職人は、パウロだけではないでしょうか」と智子さんはおっしゃいます。 16世紀、ポルトガル人によって長崎にその製造方法が伝えられたカステラ。そのカステラのルーツは、ポルトガルの各地で現在も焼かれている『パォン・デ・ロー』というお菓子だといわれています。しかし智子さんによると、意外なことにカステラはポルトガルでは、ほとんど知られていないそうです。 カステラのルーツ、『パォン・デ・ロー』は、地域によって形や焼き具合が異なり、生地がパサパサになるほどしっかり火をとおしたタイプ、逆に生地がクリーム状になった部分を残した生焼けタイプなどいろいろあるそうです。「現在、ポルトガルのスーパーマーケットや街のカフェで売られているパォン・デ・ローはお世辞にもおいしいとは言えません。ポルトガル人はつくる側も食べる側も、まあまあで良しとして、おいしくつくる努力をしなかったようです。でも、日本人は長い時間をかけておいしいく進化させ、今のカステラを生み出しました」という智子さんの話から、両国の国民性の違いが垣間見れるようです。 カステラ職人が、材料を見極め、技を駆使し、丁寧に焼き上げるカステラ。きめこまやかで、しっとりとしたおいしさはまさに日本人ならではのもの。その技と精神を受け継いだ「パウロのカステラ」は、ポルトガル産の材料を吟味して丁寧に焼き上げられています。400年以上の時を超えて、再び海を渡り里帰りしたカステラ。そのダイナミックな時空のうねりの中で、パウロさんと智子さんの小さなお店は、ポルトガルで新しいカステラの歴史を地道に刻んでいます。 

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  • 第289号【クスノキと長崎】

     日傘や帽子、サングラス…、日射し対策万全で出かけても、この暑さをしのぐのはむずかしく、ついつい日陰を探しながら歩いてしまいます。そんな時、葉をいっぱい茂らせた樹木の下は、かっこうのオアシスです。汗をふきふき木陰の涼に浸りながら、ふと頭上を見上げ、「この木、何の木?」などと思ったりするのもこんな時。毎日見てるのに、意外に知らなかったりします。 長崎市街地では、夏の緑をたくわえたイチョウやプラタナス、ケヤキなどの街路樹をはじめ、いろいろな樹木が心地よい木陰を提供しています。その中で、ひときわ大きな木陰をつくっているのが、クスノキの巨木です。モリモリ、のびのびと伸ばした太い枝に、たっぷりと緑を茂らせた姿は、その1本がまるでひとつの森のようでもあります。 常緑高木のクスノキは、長崎ではたいへん馴染みのある樹木。神社やお寺、公園や校庭などの広場でもよく見かけます。そういった所のクスノキは、幹周りを3~4人の大人が手をつないでもまだ足りないくらいの巨木も珍しくありません。実際、日本の樹木のうち、樹齢ではスギにかなうものはないけれど、幹回りの太さではクスノキに及ぶものはないと言われるほど大きく育つそうです。また、てっきり、日本全国で見られる樹木だと思っていましたが、温かい地域の植物で、西日本に広く見られ、特に九州や沖縄に多く、海外では台湾や中国南部に自生しているそうです。 長崎市内には、長崎県一の大きなクスノキがあります。「大徳寺の大クス」(だいとくじのおおくす/県指定天然記念物)です。推定樹齢は800年。太い枝がうねるようにグングンと伸び、雄々しい表情をしています。この近くの公園や神社にも大きなクスノキが何本もあり、あたりを涼しい木陰で包んでいました。ここは、花街・丸山からほど近く、大クスのたもとでは名物の梅ケ枝焼餅のお店もあります。クスノキの木陰で一服するのにおすすめです。 長崎くんちで知られる諏訪神社と、その周辺にも多くのクスノキが見られます。民家や建物などが少なかったであろうその昔、玉園山と呼ばれたこの一帯を、当時、この地を訪れた外国人らが「マウント・オブ・キャンファ」と呼んだそうです。クスノキは英語でキャンファ・ツリー(Camphor tree)。彼らが、そうした名称で呼びたくなるほど、鮮やかな緑をたたえたクスノキの風景は美しく、長崎を代表するほどの景観であったようです。 ところで「キャンファ」とは、「樟脳」のこと。ご存知の方も多いと思いますがクスノキは、昔ながらの防虫剤、「樟脳(しょうのう)」の原料です。葉を切るとあの独特の匂いがします。樟脳は、南蛮時代から江戸時代にかけて重要な日本の輸出品のひとつでした。ポルトガルも、唐も、オランダも競うように買い付けたそうです。その樟脳は、ヒンズー教徒のお祭りやペルシャなどの毛織物の防虫剤として利用されたとか。オランダ船はこれでおおいに利益をあげたといいます。 当時、長崎から海外へ渡った樟脳は薩摩産でした。南国・薩摩には原料のクスノキが豊富だったのでしょう。薩摩藩はその利益でのちに西洋式の軍備を整えることができたといわれているそうです。ちなみに日本一大きいクスノキは、鹿児島県にある「蒲生のクス」(かもうのくす/国指定特別天然記念物)で、推定樹齢は1500年、高さ30メートル、幹周り約24センチだそうです。 大きくなっても、威圧感はなく、さりげなくていいなあと思うクスノキ。余談ですが、月桂樹(ローリエ)、シナモンも同じクスノキ科。いずれも独特の香りと効能で、人類になくてはなならない存在です。◎ 参考資料/長崎県の天然記念物(外山三郎)、小学館の図鑑 NEO 植物、長崎事典・産業社会編(長崎文献社)

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  • 第288号【銅にまつわる長崎の町名】

     今日8月8日は、立秋。暑い盛りの中でも、朝、夕の風の音に早くも秋の気配を感じている方もいらっしゃることでしょう。お天気の長期予報によると、今年は残暑が長引くとのこと。具沢山のちゃんぽんでスタミナをつけて、この夏を元気に乗りきってください! 前回の「銀」にまつわる長崎の町名のお話に続いて、今回は、「銅」のつく町名、「銅座町」についてご紹介します。江戸時代、花街・丸山の門前橋で、行こうか、もどろうか思案したという「思案橋」の近くにある町で、札幌のすすきの、京都の先斗町、大阪の北新地などと同じく、夜の歓楽街・飲み屋街。誰かと飲みたい気分の日は、「今日、銅座に行かん?」といって誘います。 町名は、江戸時代に「銅座」と呼ばれていたことに由来しています。「銅座」とは、江戸中期以降、各地で産出された銅の精錬とその専売をおこなった役所のことです。はじめ大坂に設けられ、その出張所として、享保10年(1725)に長崎に設けられました。ここには貿易用の棹銅(直径2センチ、長さ70センチ位)を鋳造する銅吹所があったそうです。 ところで、前回、江戸時代前期頃まで石見銀が盛んに輸出されたことをご紹介しましたが、その後は、次第に産出量が減少し、寛文8年(1668)には日本からの銀の輸出が禁止されました。その後、金の小判(元禄小判)も輸出されたようですが品質はよくなく、当時の貿易相手であったオランダは、もともと日本の良質の銀が目当てだったので、あまり喜ばなかったそうです。 長崎の歴史に詳しい方によると、「元禄年間(1688~1704)の頃、銀や金に代わって輸出されるようになったのが、銅だった」といいます。さらに「17世紀末期のこの時期、中国との貿易では銀に代わって、煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)などの俵物(干した海産物を俵に詰めたもの)が、長崎から盛んに輸出されました」。 のちに俵物を収集したり、加工した役所ができますが、それは、「出島」や「新地」にほど近い、現在の「築町」電停のそばにありました。貿易のための荷物の出入りを考えたら当然といえる場所です。そこには今、「俵物役所(ひょうもつやくしょ)跡」の石碑が立っています。 さて、銅座町にかつてあった「銅座」は、わずか13年ほどで廃止されています。それ以後は「銅座跡」と称されていたそうで、正式に町名となったは、明治元年のことです。現在、「銅座跡」の碑が飲み屋さんなどがひしめく町の一角に建っています。 ところで、長崎の「銅座」のあった土地は、その「銅座」を設けるために、海中を埋め立てて造られました。さらに、「俵物役所」のあった辺りも、「新地」も「出島」も、江戸時代に造成されました。現在、商業ビルやマンションなどが多く建ち並ぶその一帯を歩けば、かつて海だったとは想像しづらいのがとても残念なことです。しかし、当時の埋め立ての技術のすごさは何だか想像でき、その工事に名もない大勢の人々がたずさわったことを思ったのでした。◎取材協力/長崎歴史文化協会◎ 参考資料/長崎の史跡・南部編(長崎市立博物館)、図説長崎県の歴史(外山幹夫/河出書房新社)、長崎歴史散歩(原田博二/河出書房新社)長崎町尽し~総町編(長崎文献社)

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  • 第287号【銀にまつわる長崎の町名】

     先ごろ、晴れてユネスコの世界遺産に登録された島根県の「石見銀山」。16世紀から約400年にわたって採掘された日本有数の銀鉱山です。ここでは灰吹法(はいふきほう)といわれる精錬技術で、良質の銀を大量に生産していました。最盛期の16世紀から17世紀にかけては、日本から輸出される銀の大部分がこの「石見銀」で、その量は世界の産出量の3分の1を占めるほどだったといわれています。 石見銀山最盛期は、長崎がポルトガルとの南蛮貿易で栄えた時代から、オランダや中国との貿易が盛んに行われた時代(江戸前期)にあたります。当時の長崎港からの主な輸出品は、銀でした。長崎の郷土史家の方によると、その頃、石見銀山で生産された銀は、上方に集められ、堺の港から船で瀬戸内海を渡って長崎へと運ばれてきたそうです。国内には他にも銀の産地はありましたが、当時、長崎から海外へ渡った銀は、やはりほとんどが石見銀だろうというお話でした。 同時代を世界史で見ると、スペインやポルトガルといった強国が世界の大海原をかけめぐった大航海時代(15世紀~17世紀前半)とも重なります。ポルトガル船は、日本で手に入れた銀をもとに、東南アジアで大いに利益を上げたそうです。オランダや中国の船も、最大のお目当ては日本の銀だったといいますし、当時のジパングは、「黄金の国」ならぬ「銀の国」として世界の注目を浴びていたようです。 ちなみに、当時、銀と交換する形で日本が輸入した主なものは東南アジア産の生糸(きいと)や絹織物などでした。当時の長崎の繁栄を支え、日本に海外の文物をもたらした石見銀。そう思うと、ますます世界遺産・石見銀山への興味がわいてきませんか。 さて、上方から長崎に集まるようになった銀は、まもなく市中にも出回りはじめ、武具の飾りやかんざし、帯留めなどの銀細工にたずさわる職人たちが出てきました。そうした人たちが多く集まって住んだところが中島川沿いにあり、白銀町(しろがねまち)と称したそうです。この町は寺町方面へとさらに広がって新白銀町が生まれ、江戸初期(寛永時代)にはそれらの町が合わさって銀屋町となったそうです。 その銀屋町は、40年ほど前の町界町名変更で、他の町に組み込まれ町名が消えていましたが、うれしいことに地元住民の熱心な運動で、今年1月に復活しました。故郷の歴史や文化を語りつぐ町名は、長崎に限らず、残していきたいものですね。 長崎には、他にも銀にちなんだ町名があります。「炉粕(ろかす)」という町です。くんちで知られる諏訪神社の参道そばにある小さな町で、古くは「ルカス町」と呼ばれていたと伝えられています。ルカスとは「留加須(るかす)」のことで、灰吹法で銀を精錬する際に炉の底にたまったものをいうそうです。当時、銀細工に使う銀などには、精錬を必要とするものもあり、その精錬所があったことにちなんだ町名のようなのです。場所も、入港した本船の荷物を、小舟が運び降ろした小川町(現在の桜町)にほど近いことから、銀の運搬にも都合が良かったと推察されます。 他説として、南蛮貿易時代、長崎の町にはいくつも教会が建ちましたが、そのキリスト教に関連して、「クルス」が転じて「ルカス」になったという説や、セントルカス教会があったことにちなんだという説もあるようです(実際にそういう名の教会はなかった)が、どうやら銀にまつわる「留加須(るかす)」説が有力のようです。◎取材協力/長崎歴史文化協会◎ 参考資料島根県ホームページhttps://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/越中哲也の長崎ひとりあるき(越中哲也/長崎文献社)大日本百科事典6巻(小学館)

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  • 第286号【絶滅危惧種と出会う、黒崎永田湿地自然公園】

     爽やかな自然の空気に触れて、たまった疲れやストレスを解消しませんか。今回、ご紹介するのは、気分がリフレッシュするネイチャー・スポット「黒崎永田湿地自然公園」です。ここは、のどかな湿地の自然に親しみながら、植物、昆虫、野鳥をウオッチングできる公園で、トンボに関しては日本有数の生息地と評価されています。また、ミズカマキリ、ニホンアカガエル、デンジソウなど長崎県で絶滅のおそれの高いいろんな生物に出会えるのも魅力です。 長崎駅から路線バスで約1時間。「黒崎永田湿地自然公園」は、西彼杵半島の西海岸側に位置する長崎市外海地区にあります。地元サーファーが集う黒崎海岸そばの「永田浜(ながたはま)バス停」で下車。そこからわずか3分ほど歩けば、海辺の景色が、緑豊かな里の風景に変わり、9.8ヘクタールの「黒崎永田湿地自然公園」が姿を現します。 梅雨の真只中ということもあり、公園には青葉が生い茂り、生気がみなぎっていました。目立ったのは、ガマやヒメガマなど背丈のある植物です。また、白く小さい花が涼し気なセリの群生やミズオオバコの花も満開。湿地の植物たちはすっかり盛夏の装いでした。 公園の入り口には、木造の「休憩所」があり、公園の成り立ちや生息する生物について写真付きの説明板が掲げてありました。うれしいことに、公共施設にありがちな施設案内のAV機器やジュース類の自動販売機などは一切ありません。近くの車道も交通量が少なく、おおむね静か。自然の音に耳を澄ますことができました。 園内には木道が通され、敷地全体をめぐりながら、植物や生物を間近に見たり、触れたりすることができます。木道に足を踏み入れると、いきなり、草むらからバサバサッとキジが現れ、「ケーン、ケーン」と鳴きながら飛び去っていきました。ここでは、モズ、ヒクイナ、サギ類、ツグミ、オオジュリンなどの野鳥とも出会えるとか。さらに、足を進めると、草むらの陰から「モー、モ」というウシガエルの鳴き声も聴こえてきました。 平成15年の春に開園した「黒崎永田湿地自然公園」は、湿地の生物や生態系を保全する目的で、荒れ地となっていた水田の跡地を整備したものです。今、全国各地で荒れた休耕地を再生・活用させようという動きがあるようですが、ここも、そのような時代の流れで生まれたようです。 日本の原風景でもある水田。人との関わりを強く受けたそのような土地、自然は、その後も人による適度な管理が必要になるそうで、放置していると、乾燥化が進みどんどん荒れていくといいます。ここも、整備する際には、なるだけ人工的にならないように配慮する中で、数カ所に池を設けてトンボ類の生息に適した環境をつくり、またいろいろな植物が生えるように、池の深さに変化を持たせるなどの工夫をしたそうです。そうした試みが功を奏し、当初はヨシやガマ類など少ない種類の植物で大部分が占められていたのが、今では、いろいろな生物が入り込み、多様性のある自然に変化し続けています。 この公園内を毎日ウオーキングしているという近所のご婦人は、「公園の表情が季節ごとに大きく変わるので、面白いですよ」とおっしゃっていました。人が、心ある手を加え、緑豊かな里の風景に溶け込んだこの公園。本当は、手つかずの自然というのが理想なのかもしれませんが、こんなふうに、人間が自然と仲良くなるために働きかけて、いい関係を生み出すというやり方も「あり」なのかもしれません。◎黒崎永田湿地自然公園/開園時間9:00~17:00(入園無料)◎取材協力/外海町行政センター(建設課)0959-24-0211

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  • 第285号【長崎とジャガイモ】

     おふくろの味を代表する肉ジャガをはじめ、揚げ物、汁もの、サラダなど、日々の献立に欠かせないジャガイモ。育てやすくて栄養があり、味もクセがなく、いろいろな味付けや調理方法が可能なので、アジアではスパイスを効かせた料理、アフリカでは塩やトマトのシンプルな味付けで煮込んだもの、欧米ではオーブンで焼いたり、チーズを加えたものなど、世界各国にその土地ならではジャガイモ料理があります。ドイツやポーランドなどでは主食的な存在ですし、小麦などと並ぶ世界の四大主要作物のひとつという地位も、うなずけますね。 ジャガイモの原産は、南米アンデス高地。先住民(インディオ)によって古くから栽培されていたそうです。ヨーロッパへ伝わったのは16世紀半ば頃で、アンデスを支配していたインカ帝国をスペインが征服したときだといわれています。この時、大航海時代という追い風にのって、ジャガイモは大海原を渡り各地に伝えられました。日本へは、同世紀後半の1570年代~90年代に南蛮船が長崎にもたらしたのが最初だといわれています。 ジャガイモという名の由来をご存知ですか?一説によるとその昔、ジャガイモを運び込んだオランダの船が、東洋貿易の拠点のひとつ、ジャワ島のジャガタラ(現在のジャカルタの古称)から長崎へ来ていたので、当時の人々は、「ジャガタライモ」と呼んでいたそうで、それが、いつしか「ジャガイモ」になったというわけです。ちなみに、現在、ジャガイモと同じくらいよく使われる「馬鈴薯(ばれいしょ)」という名は、その形が、馬に付ける鈴に似ていることに由来するそうで、江戸時代の学者が中国の文献をもとに名付けたと言われています。こちらは「ジャガタライモ」よりも後の話です。 ところで長崎は、歴史だけでなく、今もジャガイモと深く関わり続けています。というのも、現在の日本でジャガイモの産地といえば北海道が有名ですが、実は長崎県は、北海道に継ぐ全国第2位の産地で、島原半島や諫早市、五島などが主な産地として知られています。北の大地では気候上、春に植え、秋から冬にかけて収穫するという年に1回の栽培ですが、温暖な気候の九州などでは2期作が行われ、長崎も春~初夏、そして秋~冬には、穫れたてのジャガイモを楽しむことができます。 ちょうど今は新ジャガの季節で、長崎の八百屋では新鮮なジャガイモが最前列に並べられています。品種では、「男爵イモ」、「メークイン」、そして近年、長崎県総合農林試験場愛野馬鈴薯支場で育種された「デジマ」や「アイノアカ」などが見られます。「デジマ」は、火が通りやすく、いろいろな料理に合う品種で、適度なホクホク感があり、特に肉ジャガにするとおいしいです。「アイノアカ」は、皮が赤いのでサツマイモと間違えそうですが、味はもちろんジャガイモです。煮崩れしにくいので、カレーなど煮込み料理によく合います。八百屋の女将さんによると、「私らは、赤ジャガって呼んでる。他の品種より出回る量が少なくて、いつもあるわけじゃないよ。これが、おいしくってね。見かけたら必ず買っていくファンもいるよ」。 知り合いの女性(60代)は、新ジャガの季節には、必ず作って食べるという料理がありました。ジャガイモの団子汁です。ジャガイモを擦りおろしてしぼったものを団子にし、吸い物や味噌汁の具にしていただきます。「長崎では昔からある料理だけど、今頃の人はあまり作らないみたいね」。素朴で懐かしい口あたりのジャガイモの団子汁。その一椀に至るまでの壮大なジャガイモの歴史を思うと、ありがたくて、しょうがなくなります。◎参考にした本/ビジュアル ワールドアトラス(同朋社出版)、長崎県文化百選~事始め編~(長崎新聞社)

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