ブログ

  • 第404号【長崎くんちの小屋入り】

     梅雨空の下、大きな花を咲かせたアマリリス。通りすがりの人の足を止めるほど、ハッとさせる美しさです。紫陽花や花菖蒲にしても、この時期に咲く花々は、どれも曇り空に映える色、姿をしています。すっきりしない天候が続くとき、気分を晴れやかにしてくれるありがたい存在です。  6月は衣更えにはじまり、窓に簾を掛けたり、カーペットを籐製のものに変えるなど部屋の方も涼しげに模様替え。また、出回りはじめた梅やらっきょうを買い求めて、梅酒、梅干し、らっきょう漬け作りに精を出すなど、夏に向かって衣食住を整えるのに、何かと忙しい月でもあります。  一方、長崎の伝統行事に目を向けると、6月は「小屋入り」で幕が開けました。「小屋入り」とは、諏訪神社の秋の大祭、「長崎くんち」に関わる行事のひとつで、毎年6月1日に踊り町(おどりちょう:その年に奉納踊りを披露する当番の町)の方々が、諏訪神社と八坂神社で清祓(きよはらい)を受け、演し物を無事奉納できるよう祈願します。  「小屋入り」はその年の「長崎くんち」のはじまりを告げる大切な行事です。この日から各踊り町は本番(10月7・8・9日)に向けて演し物の稽古に入ります。なぜ「小屋入り」というかというと、昔は文字通り、小屋を建て、その中で身を清めて稽古に挑んだからだそうです。  「小屋入り」の日の朝、各踊り町の男性は紋付きはかまやスーツ、女性は着物に身を包み、行列をなして諏訪神社、そして八坂神社へ参拝します。午前中に清祓を終えると、午後は3時頃から「打ち込み」があります。「打ち込み」とは、ほかの踊り町や年番町(くんち運営の手伝いをする当番の町)など、関係先への挨拶回りのことをいいます。  「打ち込み」では、町の長老らを中心とした男衆が、軽快な唐人パッチに着替え町名が入った提灯を片手に、シャギリ(囃子)をともなってふたたび町を練り歩きます。今年の踊り町は、今博多町(本踊)、魚の町(川船)、江戸町(オランダ船)、玉園町(獅子踊)、籠町(龍踊)の5町。今回、今博多町の「打ち込み」に同行させていただきましたが、町や関係先など20カ所近くを約3時間かけての挨拶回りは、かなり体力を使いました。しかし、踊り町のみなさんに弱音を吐く人は一人もおらず、むしろ晴れ晴れとした表情です。故郷の祭りを愛する人々の心に触れたような気がしました。    ところで、「小屋入り」の日は、長崎の人にとって「厄入り」の日でもあります。厄年に関する慣習は地域によって異なると思いますが、長崎では、昔からこの日に厄入りの祈祷を行う人が多いのです。厄入りの酒宴では、厄に入った当人をその日の内に自宅に帰してはならないという言い伝えもあります。最近の若い人は早々と切り上げる方も増えたと聞きますが、それを口実に遅くまで飲む方もまだまだいらっしゃるようです。

    もっと読む
  • 第403号【美しくておいしい紫陽花】

     長崎は紫陽花のシーズンがはじまりました。まだ固いつぼみが多いのですが、葉は瑞々しくしげり、道行く人の目を楽しませています。また、ビワもシーズンを迎えています。路地ビワの樹には実がたわわです。住宅街などでも庭木のビワに袋がけをしたところを多く見かけます。ビワの産地・長崎ならではの光景かもしれません。  紫陽花の季節には必ず訪れたい場所があります。長崎市鳴滝にある「シーボルト記念館」です。出島の商館医シーボルトは、ある紫陽花の品種に、彼が愛した日本人女性「お滝さん」の愛称から「オタクサ」と名付けました。同記念館ではこのエピソードにちなんだ小さな企画展を毎年開催しているのです。  今年の企画展「シーボルトとオタクサ展」(平成24年5 月18日~6月17日まで開催)では、世界で最も美しい図鑑のひとつといわれている『日本植物誌』(シーボルトほか 著)をはじめ、シーボルトにとって出島の商館医の大先輩で、日本の植物について先に著したケンペルやツュンペリーの関連資料、さらに幕末の日本の植物学者が著した書などが展示されています。  なかでも目を引いたのは、デンマークの名窯ロイヤルコペンハーゲン・ポーセリン製のカップとソーサーです。『日本植物誌』からアジサイをはじめクロマツ、サザンカ、ハマナスなど10種類の花をモチーフにした優雅な陶器でした。  シーボルトの生涯を知る貴重な資料が展示された「シーボルト記念館」は、シーボルトの学塾兼診療所だった「鳴滝塾」跡にあります。周囲を豊かな緑に覆われた静かなところで、いまでは紫陽花の名所としても知られています。時を経て語り継がれる「お滝さん」への愛情物語とともに、心に刻まれる美しい風景に出合える場所です。  ところで、見目麗しい紫陽花ですが、食べておいしい紫陽花もあります。長崎の味を代表する卓袱料理の小菜のひとつ「紫陽花揚げ(あじさいあげ)」です。エビのすり身を丸め、小さく角切りした食パンを衣にして揚げたもので、形が紫陽花に似ています。いつ頃から卓袱料理に出されるようになったのかはわかりませんが、古いものではなさそうです。同じく卓袱料理で出されるハトシ(エビのすり身を食パンではさみ揚げたもの)を、長崎にゆかりの深い紫陽花の形に転じたものともいわれています。   エビの風味とサクサクした衣がおいしい「紫陽花揚げ」は、長崎の惣菜屋さんでも時折見かけます。見て美しく、食べておいしい紫陽花をお楽しみください。

    もっと読む
  • 第402号【かつては海だった大波止界隈を歩く】

     ゴールデンウィーク直前に沖縄地方が梅雨入り。その数日後、北海道の桜が開花。そして長崎はいま、新緑の季節を謳歌中です。いろいろな季節が同時進行する日本。四季の味わいもそれぞれの地域によって異なり、人々の営みもその風土や歴史に培われてきました。そのなかで育まれる「土地柄」という個性は、昔もいまも旅人の好奇心をくすぐります。  全国から多くの旅人が集う長崎。その土地柄を語る時、「港」は重要なキーワードのひとつです。このまちが歴史の表舞台に登場したのも、1570 年にポルトガルとの貿易港として開かれたことがきっかけでした。はじめに緑に覆われた岬の突端が開かれ町がつくられました。場所は、いまの長崎県庁があるあたりです。その後、海岸線を埋め立てるなどして土地を広げ、町の数を増やしながら発展。鎖国時の貿易港時代を経た後も、居留地時代(明治期)、上海航路開設の時代(大正~昭和初期)など、折々に開発が行われ現在に至っています。  その昔の岬の突端あたりから県庁坂を下ると、「南蛮船来航の波止場跡」の碑があります。ここは、江戸時代には長崎奉行所西役所の船着き場(大波止)が設けられていました。現在、周りは幹線道路が通り、ビルが建ち並んでいます。かつて目の前は海だったなんて、なかなか想像できません。  大波止界隈の変貌はめざましく、近年では、出島ワーフ、長崎水辺の森公園などが整備され、新たな賑わいが生まれています。これまでの時代の変遷は、あちらこちらに史跡として残されています。そのなかで不思議な存在感を放っているのが「大波止の鉄玉」です。直径約56cm、重量約560kgの丸い鉄の玉で、台座の上に供えられ、鉄格子で囲われています。通りの角に鎮座するその様子は、目立たないけれど際立っている、そんな感じです。  近所に住む知人は「テッポンタマ」と呼んでいます。大波止が開発されるたびに、この界隈を転々として現在地に至っているとか。長年の雨ざらしで、よく見ると表面がところどころ剥がれて世界地図のように見えます。別の角度からはクレーターの跡がくっきりのお月さまみたいです。説明板によると、島原の乱のとき原城攻略のために長崎で鋳造された石火矢玉だという言い伝えがあるそうですが、製造された時期も含めて本当のところは定かではないそうです。  長崎奉行所西役所の大波止を描いた江戸時代の地図に、海に向かって設置されたこの鉄砲玉が描かれています。こんなものを作れる、使える、ということを入港する船に誇示したのかもしれません。ときをくだって戦争中には、金属供出でお寺の梵鐘から個人の指輪、タンスの取手といったものまで回収されたと聞きますが、そんな時代さえもくぐり抜けてきました。   なぜ、無事に生き残ったのか、その強い生命力(!?)の理由を問いたくなる「大波止の鉄玉」。きょうも静かに人々の往来を見守っています。

    もっと読む
  • 第401号【南蛮渡来のビスケット】

     小腹が空いたときや仕事が一段落ついたとき、お茶といっしょに甘いお菓子をいただくと、ちょっと幸せな気分になります。そんなティータイムによく添えられるのがビスケット。カステラやコンペイトウと同じく400年以上も前にポルトガル船によって日本に運び込まれたのが最初ではないかといわれています。  ビスケット(英語・ラテン語biscuit)は、ポルトガル語では「ビスコイト(biscout)」といい、江戸時代には「ヒスカウ」、「ビスカウト」などと称されました。ビスケットは、ラテン語では「二度焼かれたもの」を意味する言葉で、「保存食用の堅いパン」という意味合いも含まれています。文字通り、大航海時代には船に積み込まれ、船員たちの長い航海を助けました。現代に至っても、堅(乾)パンやビスケットは非常用としても利用されています。  江戸時代のはじめ頃、長崎でビスケットを作り、ルソン(フィリピン)に輸出していたという話があります。また平戸にもビスケットを焼いて売る店があったそうです。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川正休編)の中の「長崎土産物」の項には、眼鏡細工や時計細工などの工芸品にまじって「南蛮菓子色々」とあり、そのなかにカステラボウル、コンペイトウ、タマゴソウメン、パンなどと並んでビスカウトが記されています。  オランダ商館での宴に出された料理のデザートにもビスケットのようなお菓子が出されていました。それらは、「ヲペリィ」、「スース」、「カネールクウク」と記されています。ちなみに「スース」は肉桂(シナモン)が入ったビスケット、「カーネルクウク」は花型に抜かれたビスケットのことだそうで、どうやら風味付けに使った香辛料や型の違いで名称が異なるようです。  八代将軍吉宗(1684~1751)に、ビスケットにまつわるエピソードがあります。外国の文化に強い関心を示した吉宗は、江戸参府で滞在中のオランダ人のもとへ奉行をやり、彼らが持参していたビスケットやバターなど数種の品をそれぞれの名称を付けて出させたとか。オランダ人はそんな将軍の嗜好を知ってか、その後、バターやお菓子、ブドウ酒など西洋の食べ物や飲み物を数々献上したようです。  ひとくちにビスケットといっても小麦粉、バター、砂糖、牛乳を混ぜて作るシンプルなタイプから、チョコレートやナッツ類、香辛料などを加えたものまでいろいろあります。そんな材料のひとつであるアーモンドも、南蛮船によって輸入されていました。もともとはペルシャあたりから運ばれてきたものらしく、江戸時代には「あめんどう」と称して将軍へ献上されていたようです。また、風味付けに用いられたのが、肉桂(シナモン)や丁字(クローブ)といった香辛料です。これらも南蛮渡来の品々で、薬用にも用いられました。  南蛮菓子には、ほかにもボウロやアルヘイトウなどがあります。いずれにしても当時の庶民にとってはたいへん珍しく貴重なものでした。   ◎参考にした本など/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、南蛮から来た食文化(絵後迪子著/弦書房)、長崎出島の食文化(親和文庫第17号)

    もっと読む
  • 第400号【長崎の春2012】

     先週、満開を迎えた長崎の桜。八分咲きの頃に春の大嵐に見舞われましたが、よく耐えました。嵐が過ぎ去った翌日、桜の名所として知られる風頭公園へ足を運ぶと、大勢の人々が桜の樹の下でお弁当をひろげていました。東北や北海道の桜の見頃はゴールデンウィーク前後でしょうか。長崎は早くも葉桜の季節へ移りはじめました。山の緑も日に日に濃くなっています。 春もたけなわのこの季節、江戸時代から続く長崎の風物詩といえば「ハタ揚げ」です。ハタ揚げの日ともなると前日の夜から参加者が会場となる山の頂きに集まり、たいへんな賑わいだったと伝えられています。江戸時代の風俗を描いた長崎名勝図絵にもその様子は描かれていて、当時の熱狂ぶりが伺えます。 現代の「ハタ揚げ」はというと、やはり相変わらずの人気ぶり。毎年4月はじめ頃に開催される地元新聞社主催のハタ揚げ大会では、世代を問わず大勢の市民が集います。会場は長崎港と市街地を見渡す景勝地「唐八景」の山頂。かつて「ハタ揚げ」はもっぱら男子がするものでしたが、いまでは女性の姿も大勢見かけます。  ただ、「ハタ合戦」となると、やはり男の世界です。手元での巧みなヨマ(ハタを揚げる糸)さばきで、遠く上空にのぼったハタを操縦。空中で相手のハタに交差させ「ビードロヨマ」(粉状に砕いたビードロを塗った糸)で相手のハタを切り落とすのです。大勢の観客が手をかざしながら勝負を見守っていました。  「子供の頃は、みんな自分でハタを作って揚げていた」と話す地元の80代の男性は、ハタの骨組み(縦骨1本と横骨1本を十字に交差させたシンプルな構造)となる竹の弾力や、よまの付け具合など自分なりに工夫する楽しみがあり、ハタを揚げるときには風を読んだり、技を競い合ったりするところが面白いといいます。  また、70代の男性は、「ハタ揚げは男のロマン」と言います。「子供の頃、しつけに厳しかった祖父はお小遣いをくれない人だったけど、ハタを買うと言うと快く出してくれたものです」。  ところで、男子がハタ揚げに興じるそばで、ワラビ摘みに夢中になっている女性がいました。声をかけると、「灰汁抜きは面倒だけど、おいしいものね」と照れ笑い。そう、いつだって女性は現実的なのです。   ハタ揚げ見物を終え、土の感触を楽しみながら山道を歩けば、土手にツワブキがいっぱい生えていました。長崎では「ツワ」と呼ばれ、煮しめや味噌漬けなどにして食べます。そして、足下に目をやれば、スミレやジロボウエンゴサク、オキザリス、オドリコソウなど野山の小さな花たちが元気に花を咲かせていました。さあ、次の休日はお弁当を持って春を散策しませんか。ツワブキジロボウエンゴサクオキザリス オドリコソウ

    もっと読む
  • 第399号【ウチワエビのウチワ話】

     老夫婦が営む小さなおまんじゅう屋の前を通りかかると、店先で摘んできたばかりの蓬(よもぎ)の若葉が香気を放っていました。毎年その光景を見るたびに思い出すのが「おらが世やそこらの草も餅になる」という一茶の句。春のパワーをおいしくいただくのは、昔から変わらぬものなのですね。  蓬が山の幸なら、今回ご紹介するウチワエビは海の幸。冬からいま頃にかけて、とくにおいしくなる魚介類です。ウチワエビはイセエビ亜目セミエビ科。比較的温かい海域の水深100メートルほどの泥砂底に生息し、以西底引船などで漁獲されます。体長は15センチ前後、扁平で団扇のような形をしています。エビらしからぬそのユニークな姿はウルトラマンシリーズに出てくる怪獣を思わせます。  長崎県内各地で水揚げされ、地元の市場やスーパーなどに並ぶウチワエビ。けして珍しいものではないのですが、県外の方からは、「見たことがない」「食べたことがない」という声をよく耳にします。また、昨今のサカナ離れの傾向もあってか、長崎でも若い世代になると「知らない」という人も少なくありません。  近所の魚屋さんは、「味は伊勢エビと一緒たい!」と長崎弁で太鼓判を押します。確かに刺身でいただくと「プリップリ」して、「あま~い」のです。ウチワエビが好きで、よく食卓に上げるという地元の女性(60代)は、「刺身、味噌汁、天ぷらなどにしていただきます。そんなに安いものではないけれど、伊勢エビよりは求めやすい」といいます。先日の時価は一尾495円でした。  「ウチワエビには常連のお客さんがいる」という魚屋さんに、プロのさばき方を見せていただきました。まず、裏返して頭の付け根を押さえ、軽くひねるようにして胴体からはずします。意外だったのは、この後です。胴とその周りにあるギザギザの腹肢や尾肢との間に包丁を入れ、固い殻を外していくのかと思いきや、包丁を使わず、デザートナイフを胴内に入れ、殻に沿って切り回し、あっと言う間に身を取り出しました。「このやり方はあまり知られていないんですよ」と店主。目からウロコが落ちるような光景でした。  見た目は淡白な印象ですが、食べてみると濃厚な旨味があるウチワエビ。身はもちろん殻からもおいしい出汁が出るので、味噌汁や寄せ鍋におすすめです。また、外観の大きさに比べ、身は小さいと感じるかもしれませんが、インパクトのある姿と伊勢エビに負けないおいしさで、十分満足できるはずです。   長崎では、和食処などで名物のひとつとして出しているところも多いウチワエビ。未体験の方は、ぜひ一度ご賞味ください。

    もっと読む
  • 第398号【南蛮渡来の武士の内職】

     3月に入り雨の日が多い九州地方。菜の花が咲きはじめる頃の長雨だから、菜種梅雨(なたねづゆ)と言われます。東北地方の天気予報を見るとまだ雪のマークがちらほら。でも、じきに春は北上。温かな日差しを浴びる日ももうすぐです。  今回は南蛮貿易時代に長崎に伝えられ、その後、武士の内職となったある技術をご紹介します。それは「莫大小」というものなのですが、この漢字、何と読めばいいのでしょう。「ボダイショウ?」イエ、イエ。ヒント1、毛糸を使う手工芸。ヒント2、ポルトガル語のmeias、またはスペイン語のmediasが語源といわれ、その発音に漢字を当てて「目利安」「女里弥寿」などと表記されました。そうです。答えは「メリヤス」。  「莫大小」とは、「大も小も莫(な)い」という意味です。毛糸を複数の細い棒を使って編み上げる「メリヤス」は、それまで日本にあった麻や木綿織りの布地と比べ伸縮性が高く、身に付ける人やものの大小を問わず合わせることができました。そこから「莫大小」という表意語が生まれたといわれています。  前述のmeias、mediasは、「靴下」を意味しました。当然ながら長崎に伝えられた当初の「メリヤス」も編んでつくる靴下のことでした。江戸時代の長崎の景観、風俗、工芸など写生風に描いたものを集めた「長崎古今集覧名勝図絵」のなかにも、「メリヤス」の項目があり、編み物をしている女性が描かれています。縁側そばで日中の明かりをとりながら編む姿、かたわらでネコがくつろぐ様子など、いまも変わらぬ編み物のシーンがそこにありました。  南蛮渡来の技法を教わり長崎の女性らが編んだ「メリヤス」は、江戸時代中期以降になると、内職として武士の間に広がり、家計を助けました。「目利安」「女里弥寿」が、「莫大小」と表記されるようになったは、この頃だといわれています。武士たちが、3本の鉄串を使い絹糸や綿糸で編みあげていたのは、靴下、肘おおい、手袋、鍔袋(つばぶくろ)、じゅばん、股ひきなど。この内職で知られたのは、松前藩や仙台藩竜ケ崎など。さらに徳川御三卿として知られる田安家、一ツ橋家などでも行われ、メリヤスの名手いわれる武士もいたと伝えられています。  ところで一般に編み物をするのは女性というイメージが強いようですが、たとえばフィッシャーマンニットを代表するアランセーター(アラン島発祥のセーター)などは、漁の合間に男たちも編んだと言われています。また現在も仕事や趣味で編み物をする男性は、意外に多いようです。  手先で同じ動作を繰り返す編み物は、気持ちが落ち着く効果があるといわれています。武士たちは家計のために懸命に編む一方で、ときに無心になり、小さなやすらぎを感じることがあったかもしれません。  ◎参考にした本など/「長崎古今集覧名勝図絵」(註釈/越中哲也、発行/長崎文献社)の「靴下の歴史」(内外編物株式会社)、世界の伝統の編み物図鑑(主婦と生活社)  ◎協力/長崎歴史文化協会、ニットワーク長崎

    もっと読む
  • 第397号【ノスタルジックな赤レンガの風景】

     「長崎ランタンフェスティバル」の期間中、大勢の人出で賑わった新地中華街や唐人屋敷周辺。ランタンの装飾が取り払われたとたん、あの幻想的な雰囲気はまぼろしのように消えてしまいました。また来年が楽しみです。  いつものまちの風景にもどったとはいえ、唐人屋敷(館内町)や隣接する東山手、そして南山手は、やはり独特で個性的なエリアです。石畳の坂道や赤レンガ塀、御堂や洋館など、中国や西洋の文化に影響を受けた時代の名残りがあちらこちらに見られます。そうした景色は初めて長崎を訪れた人でも、なぜかしら郷愁を誘うから不思議。なかでも赤レンガのある風景はノスタルジックです。  唐人屋敷から東山手に続く斜面地の住宅街に足を踏み入れると、年期の入った赤レンガ塀の通りがあります(ピエル・ロチ寓居跡近く)。積まれたのはいつ頃でしょうか。年期の入ったレンガ色の眺めは、何の変哲もない生活道を味わい深くしています。  明治期、近代化という大きな時代の流れのなかで、全国に広がったレンガの建造物。いまも各地に当時のものが残されているようですが、長崎市小菅町には日本最古ともいわれる赤レンガ建築があります。修船場のウインチ小屋の外壁で、明治元年につくられたものです。その修船場は、船台がそろばんに似ているところから「そろばんドック」と呼ばれています。   この日本最古の外壁は、幕末にオランダ人技師が伝えた厚さ4センチほどの「こんにゃく煉瓦」です(本コラム393号で紹介。)ちなみにレンガというと赤色と思いがちですが、白レンガと呼ばれるタイプもあります。それは耐火レンガで古い洋館などにいくと暖炉などで見ることができます。  東山手や、南山手のグラバー園そばでも石畳の通りに沿って赤レンガ塀が見られます。当時の職人さんたちが一つひとつ規則的に積んだ赤レンガをよく見ると、積み方に違いがあることがわかります。小口(もっとも面積の小さい面)を手前にして積み上げる「小口積み」、長手(レンガの横側の長い面)だけで積み上げる「長手積み」、小口を並べた段の上に長手を並べる「イギリス積み」、同じ段に小口と長手など幅の違う面が並ぶ「フランス積み」など。この界隈で見かける多くは、「イギリス積み」のよう。なかにはアーティスティックな表情もあって面白いです。  ところで石畳の坂道を上ったり下ったりしていると、道の真ん中で寝そべっている路地ネコたちとよく遭遇します。このあたりのネコたちは、気のせいか毛の長さや色、表情など、どこか異国風が目立ちます。奈良時代(もしくはそれ以前)に日本に渡ってきたといわれる唐ネコの多くは短尾だったそうですが、長崎でも、ボンボンのように丸まった短尾種を多く見かけます。江戸時代に唐船が運んできた唐猫の子孫なのでしょうか。個性的な尻尾を見て回るのも、長崎のまちを散策する楽しみのひとつでもあります。  ◎参考にした本など/赤レンガ近代建築」(佐藤啓子/青幻社)

    もっと読む
  • 第396号【トルコライスをさかのぼる】

     ヨーロッパとアジアにまたがるトルコ。かつてオスマン帝国として栄えたこの国に親日的な人が多いのは、120年前のエルトゥールル号遭難事件の影響だといわれています。この事件は、明治23年(1890)9月、来日していたオスマン帝国の特使らを乗せた軍艦エルトゥールル号が、帰路、台風で和歌山県串本町の沖で遭難し、乗組員581人が死亡するという大惨事となったもの。そんな中、69人が救出され、地元住民の救護と日本政府の尽力などにより無事生還することができました。このときの日本人の献身的な救護活動に、オスマン帝国の人々は大いに心を動かされたのでした。  それから3年が経った明治26年(1893)。10月21日付けの「時事新報」(福沢諭吉創設の新聞社発行)の晩の献立を紹介するコーナーに、「土耳其(とるこ)めし」の作り方が掲載されました。この料理は、鶏肉(または牛肉)のスープで炊いたごはんにバターを混ぜ合わせた、いわゆるバターライスのことで、現代のわたしたちがピラフ(Pilaf)とも呼ぶものです。ちなみにピラフは、トルコではごく一般的な料理だそうで、「ピラヴ(Pilav)」と呼ばれます。実はこれがピラフの語源なのだそうです。  さて、この「土耳其(とるこ)めし」が、エルトゥールル号遭難事件で救助された乗組員が伝えたかもしれないと想像するのは、飛躍が過ぎるでしょうか。いや、それ以前にヨーロッパ各国を訪ねた当時の政府関係者によって伝えられたかもしれませんが…。そうでなくとも、エルトゥールル号遭難事件を機にトルコと日本の友好の気運が高まっていた時代であることは確かのよう。史実は別にして、歴史の点と点を突拍子もない想像力で結ぶのは楽しいものです。  さて、ここまでのお話は長崎名物「トルコライス」のルーツ探しの途中で出てきたものです。「トルコライス」とは、ピラフ、パスタ(主にナポリタン)、トンカツの三種類がひとつのお皿に盛られた料理で、昭和の時代におおいに流行ったローカルフードです。それにしてもなぜ、「トルコライス」というのか。いわれには諸説あります。地元でよく聞くのは、チャーハン(ここではピラフのこと)は中国。ナポリタンはイタリア、その中間にトルコがあるから「トルコライス」という説。また、ピラフ、パスタ、トンカツの三種類は三色旗を意味する「トリコロール」という言葉にも通じ、転じて「トルコライス」になったなど。  「トルコライス」は長崎のローカルフードとして愛されながら、その作り方が郷土料理の本で紹介されることはほとんどありません。なぜなら、トルコライスは家庭の料理というより、洋食屋さんの料理だから。その店独自の趣向を凝らしたトルコライスがあるのです。  自分で作れば、いろんなバージョンが楽しめるトルコライス。バターライスとナポリタン、そしてトンカツはお肉を薄く伸ばしてサクサクに仕上げたミラノ風に。また、カロリー制限などを無視するならば、オムレツ風カレーピラフ、ペペロンチーノ、そしてトンカツにはカレーソースをかけて、という組み合わせも。けれど、やっぱり街角の洋食屋さんでいただくのがいちばんおいしいようです。   ◎参考にした本など/「福沢諭吉の何にしようか~100年目の晩ごはん[レシピ集]~」、外務省ホームページ「各国・地域情勢」

    もっと読む
  • 第395号【2012長崎ランタンフェスティバル】

     ふくふくと極彩色のぬくもりがまち中を包んでいます。旧正月を祝う「長崎ランタンフェスティバル」がはじまりました。今年は1月23日(月)から2月6(月)までの15日間開催されます。この期間は、中国で「春節(しゅんせつ)」と呼ばれる旧暦1月1日から、元宵節(げんしょうせつ)の1月15日にあたり、中国では大勢の人が正月休みで故郷へ帰省し、新年を祝います。  ランタン(中国提灯)の幻想的な明かりに導かれて歩く冬の長崎。いにしえの中国の偉人や霊獣たちのオブジェが行き先々で出迎えてくれます。何だか中国絵巻の中に迷い込んだような気分に。古くから中国とのゆかりの深い長崎の歴史をあらためて実感します。  毎年、開催前から話題になるのが湊公園(新地中華街となり)に設置される干支の巨大オブジェ(高さ約8メートル)です。今年は3体の龍が「珠(たま)」と戯れる姿がダイナミックに表現されています。平和や希望を象徴するという龍。東日本大震災の復興への願いが込められています。  「長崎ランタンフェスティバル」の舞台となる長崎市中心部には、新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場など複数の会場が設けられ、連日夕刻からさまざまな催しが繰り広げられています。昨年から会場のひとつとなった孔子廟では、中国の古い建築様式を堪能できます。孔子廟を訪れたら、ぜひ隣接する中国歴代博物館へも足を運んでみてください。日本ではここでしか見る事ができない貴重な史料の数々が展示されています。  龍踊り、中国獅子舞、中国雑技、二胡の演奏、太極拳など中国色豊かな催しを楽しめる「長崎ランタンフェスティバル」。特にステージを設けた新地中華街会場と中央公園会場には大勢の観客が集まり、真冬の夜とは思えない熱気に包まれています。また、今年から新地中華街の北側の入り口付近を流れる銅座川一帯には桃色のランタンが飾られています。黄色いランタンで彩られる中島川とはまた違った新しい景色です。  中国ゆかりのこのお祭りで毎年感じるのは、人々の幸せを求める思いの強さです。龍や麒麟などの聖獣をはじめ縁結びの神様「月下老人」や民間信仰の「福の神」などのオブジェ、文字を逆さに飾ることで幸せを呼ぶという「逆さ福」、幸福を願って食べる「元宵団子」など、飾るもの、口にするもののあれこれが幸福につながる縁起を担いでいます。ほほえましく、いじらしささえ感じるそうしたものに、どんなときも希望を失わずに生きようとする人間の底力、たくましさを感じて、元気が出ます。   「長崎ランタンフェスティバル」の舞台は、江戸時代に出島や新地周辺に築かれた「長崎」のまちだったところと重なります。当時もいまも、オランダとの貿易以上に、中国との貿易が長崎の人々の暮らしに多大な影響を及ぼしたことをあらためて感じるのでした。

    もっと読む
  • 第394号【初春、諏訪神社と淵神社へ】

     明けましておめでとうございます。長崎市民の総鎮守・諏訪神社の新年は、龍踊りの奉納で幕が開けました。古来、霊獣として知られる龍は、おめでたいことの前兆でもあるとか。長坂をいきおいよく駆け上った龍は、異国情緒あふれる舞を披露。大勢の初詣客に新年のうれしい予感をもたらしてくれました。  今年は稲佐山のふもとにある淵神社(ふちじんじゃ)にも参拝し、久しぶりに長崎ロープウェイに乗車しました。昨年秋、リニューアルしたゴンドラのデザインは、工業デザイナー奥山清行氏によるもので、全面ガラス張り。車内から360度の市街地の眺望を楽しみました。  ところで、長崎ロープウェイのふもと側の駅に隣接する淵神社は、昔ながらの素朴な雰囲気が残る神社です。「何だか落ち着く」と、参拝がてら境内のベンチでほっこりされる方もいらっしゃいます。この神社は長崎ならではの興味深い歴史を数々擁したところでもありました。  江戸時代、出島近くに形成されていた長崎のまちに対し、淵神社はその対岸に位置する浦上村渕(ふち)というところにありました。当時は、「宝珠山・万福寺」(明治維新後、渕神社に改称)と称し、弁財天を勧請したことから稲佐弁天社とも呼ばれました。  現在の神社周辺は埋め立てられ昔の面影はありませんが、江戸時代は海に面した景勝地として知られ、安藤広重の「六十余州名所図会」、また「長崎名勝図絵」にも描かれています。境内にはそれらがパネル展示されており、往時の様子がうかがうことができます。  実は、淵神社にはキリシタンゆかりの歴史があります。万福寺創建は、寛永11年(1634)ですが、それ以前に同地に祀られていた妙見社は、天正年間のキリシタン隆盛の時代にその信徒らによって焼かれたと伝えられています。また、境内の一角に祀られている「桑姫社(くわひめしゃ)」はキリシタン大名として知られる豊後の大友宗麟の二女とも、孫娘ともいわれる姫を祀ったもの。  姫は大友氏が豊臣秀吉に滅亡されたとき、大村公を頼って長崎へ。この地の近くに隠れ住み、桑を植え、蚕を飼い、糸の紡ぎ方を近隣の女性たちに教えたそうです。のちにその徳が讃えられ祀られたといわれています。  掘り起こせば、和洋中が混在するいろんな歴史が出てきそうな淵神社。明治時代には、岩崎弥太郎が三菱の安全祈願のために毎年訪れていたとか。また境内にある宝珠幼稚園は、福山雅治さんが通ったことでも知られています。同神社には万福寺の「福」に由来する「福運御守」がありますが、「福」つながりということもあってか、福山ファンの間で話題になっているそうです。  本殿を裏手にまわると、知る人ぞ知る十二支神社(えとじんじゃ)があります。生まれた干支の守護神で、縁結び、学業成就、安産祈願にご利益があるとか。どうぞ、参拝にお出かけください。   ◎取材協力/淵神社(長崎市淵町8-1)

    もっと読む
  • 第393号【長崎の願掛けスポット】

     きょうは仕事納め。「来年はいい年になりますように」と願いながら職場や家の大掃除にいそしんでいる方も多いことでしょう。一年をふりかえれば、いろいろな思いがこみあげてきます。こうして無事に過ごしていることへの感謝と新しい年への希望。そんな思いを胸に願掛けスポットを巡りました。  シーボルトの鳴滝塾跡のある地域には「高林寺」という小さなお寺があります。ここには長崎でもっとも古いといわれるお地蔵さまが祀られています。観音さまのような優しい表情をしたこのお地蔵さまは、衣が赤く塗られているので「赤地蔵」とも呼ばれています。この赤色は祈願して病気が治ると塗られるそうで、お地蔵さまのパワーが発揮された証しなのでした。  ところで、「高林寺」の入り口付近にはかつて煉瓦造りアーチ型の山門がありました。明治時代のものだったそうですが、いまはその一部と思われる跡があるのみ。使われた煉瓦は長崎で俗に「こんにゃく煉瓦」と呼ばれたタイプのようです。 「こんにゃく煉瓦」は、幕末の安政年間にオランダ人技師ハルデスの指導のもと長崎で焼かれたのがはじまりで、それが日本の一般の建築物に使う赤煉瓦の最初といわれています。4センチほどの薄さが特長で、こんにゃくの形に似ていたこことから、そう呼ばれるようになりました。  煉瓦づくりアーチ型の山門は、大音寺(長崎市鍛冶屋町)の境内でも見られます。こちらは折にふれ修理・修復がなされてきたようできれいなアーチ型を残しています。長崎の郷土史の古老によると、明治時代の長崎では、煉瓦を使った門をつくるのが流行り、それ自体はけして珍しくなかったとか。しかし、時代とともに数が減っていることを思えば、当時の長崎の風物を伝える貴重なものといえるかもしれません。  話を本題にもどしましょう。長崎で初詣の参拝者数がもっとも多い諏訪神社にも、さまざまな悩みをきいてくれる願掛けどころがいくつもあります。そのなかのひとつが、本殿の裏手に祀られている「トゲ抜き狛犬」です。心にトゲのように突き刺さっていることがある方は、この狛犬さんにお願いしてみませんか。  諏訪神社から徒歩5分のところにある松森神社には、願掛けではありませんが、松竹梅の燈籠があります。胴のあたりは松の木肌、上部に竹や梅の花のデザインを組み合わせたおめでた尽くしの燈籠で、思わず手を合わせたくなります。   神社やお寺ではありませんが、観光客を中心に多くの人々の幸せになりたい思いを受け止めたのが眼鏡橋そばの「ハートストーン」です。願掛けされた恋の数だけ、ハートストーンのパワーが増しているような気がしないでもありません。  昔もいまも絆を求め、幸福を願うわたしたち。『幸福は義務である』と語ったのはフランスの哲学者アランでした(『幸福論』)。家族や友人、日々の生活を大切に、きょうも、あしたも、来年も、一歩ずつ前に進んでいきたいものです。  ◎本年も、ご愛読いただきまして誠にありがとうございました。

    もっと読む
  • 第392号【ヒカドに似た全国各地の根菜料理】

     あたたかい汁物が恋しい季節です。たとえば、ちゃんぽん。盛りだくさんの具材や麺のほうに気を取られがちですが、そのスープは野菜や魚介類、お肉などの旨味がたっぷり染み込んだ滋味あふれる味わい。具を食べた後、スープも残さず飲み干せば、身も心もポッカポカになります。  あたたまる長崎の郷土料理といえば、「ヒカド」があります。サツマイモ、ダイコン、ニンジンなどの根菜類と、シイタケ、キクラゲ、煮干し、ブリ、鶏モモ肉などの具材を全部さいの目に切って煮込み、すりおろしたサツマイモでとろみをつけた醤油仕立ての料理です。「ヒカド」という名称は、「物をこまかく切る」を意味するポルトガル語のピカド(picado)が語源で、16世紀に南蛮人から伝えられた料理といわれています。ちなみに具材をさいの目に切ると、食べやすくなるだけでなく、調理の際には火が通りやすくなるのでちょっとした燃料の節約にもつながります。  「ヒカド」によく似た郷土料理が福島にありました。「ざくざく汁」です。ニンジン、ダイコン、ゴボウ、サトイモ、コンニャク、シイタケ、鶏モモ肉、焼き豆腐を主な材料とし、あれば煮干し、豆、大豆なども一緒に煮込みます。こちらはヒカドよりも具だくさん。同じ醤油仕立てですが、とろみを付けないすまし汁です。使う材料も「ヒカド」に似ていて、その切り方も一口大のさいの目切り(乱切りやいちょう切りするところもある)なので、お椀に盛ったときの姿はヒカドのようでもあります。  「ざくざく」という名の由来は、材料をざくざくと切るからとか、黄金がざくざく貯まるようになど縁起を担いだ説もあるようです。ちなみにこの料理は汁物と煮物の間のような料理なので「ざく煮」「ざくざく煮」とも呼ばれています。また同じ福島でも奥会津あたりではクルミを煮汁で溶いたものを加えることもあるとか。お国柄が忍ばれます。  ヒカドに似た実だくさんの郷土料理は、全国各地にまだまだたくさんあります。青森県の郷土料理「粥の汁(けのしる)」もそうです。特に津軽地方では冬の料理として親しまれている料理で、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、ワラビ、フキ、コンニャク、凍み豆腐、油揚げなどをさいの目に切り、イワシのだしで煮たます。仕上げに青大豆をすって入れたり、山菜を使うところに土地柄が感じられます。こちらは味噌仕立てですが、さいの目に切った多種類の具材をお椀に盛った様子はやっぱり「ヒカド」似なのです。  このほか、高知の「ぐる煮」、鳥取の「こにもの」なども具材がさいの目に切られているので、見た目が「ヒカド」にそっくりです。だからと言って、こうした料理の発祥が「ヒカド」というわけではないはず。でも、もしかしたら、江戸時代などに長崎から伝わったものもひとつくらいはあるかもしれません。また、さいの目にこだわらなければ、おなじみのけんちん汁、さつま汁、のっぺい汁も仲間と言えるでしょう。  全国津々浦々に伝わる具沢山の根菜類料理。そのルーツをたどると、収穫の祭りやお正月などの行事食だったというものも少なくありません。あなたのお住まいの地域ではどのような料理が食べ継がれていますか。  ◎参考にした本/日本料理由来事典(同朋舎)、聞き書きふるさとの家庭料理(農文協)

    もっと読む
  • 第391号【秋の植物を見て歩く】

     11月の長崎は、修学旅行シーズン。この時期の密かな楽しみは、電車や街角ですれちがう修学旅行生たちの制服です。最近の制服はデザインや色あいなど、ずいぶんお洒落になりました。制服から、校風やお国柄も伝わってくるような気がします。こんな楽しみがあるのも観光地ならではなのでしょう。  さて、木々が色づく秋は植物観察が楽しい季節でもあります。かわいいドングリを見つけたり、石垣を這う植物が絵画のように見えたりなど、何かと発見があります。修学旅行生が必ず訪れる浦上地区(原爆資料館や平和公園、永井隆記念館などがある)へ足を運ぶと、街路樹のナンキンハゼが赤や黄色に染まりはじめていました。ナンキンハゼは中国原産の落葉樹。江戸時代に長崎に渡来したといわれ、1975年に「ながさきの木」に指定されています。今年は11月に入っても温かい日が続いたせいか、紅葉が遅れ気味のようです。  「永井隆記念館」では、永井隆博士が晩年を過ごした小さな木造家屋「如己堂(にょこどう)」の脇に植えられた植物が目を引きました。長くて広さもある葉が特長の「芭蕉」です。戦後まもなく如己堂が造られましたが、それ以前から今の場所に植えられていたと聞いたことがあります。いまでは高さ3メートル近くまで成長しています。「芭蕉」は、中国原産の植物で、日本にはかなり古い時代に渡来。また、松尾芭蕉の名の由来となった植物としても知られています。秋も末頃になると「破芭蕉(やればしょう)」といって、葉が枯れて葉脈に沿って破れてくるのですが、まだ青々と繁っていました。  浦上天主堂のたもとでは、芙蓉(ふよう)が満開でした。芙蓉は、朝咲いて夕方にはしぼむ「一日花」で、この時期、毎日新しい花を咲かせます。浦上天主堂の芙蓉は1本の木に白とピンクの両方の花が咲いていました。はじめに白く咲いて、時間が経つにつれてピンク色に変わるタイプのようです。  浦上地区界隈を流れる浦上川沿いを行くと、四方に大きく枝を広げた樹木がありました。「センダン」というアジア各地に自生する落葉高木です。春には青葉、初夏にはうす紫色の小さな花をつけ、現在は小さな黄色の実をたくさん付けていました。もう少し秋が深まると葉が落ちてしまいます。季節ごとの変化がよくわかるこの木は、ご近所の方々に大切にされているようでした。   さらに上流に向かって歩いていたら、「チッツー」という鳴き声がしました。川面に目をやると、カワセミの姿が…。しかも2羽。「渓流の宝石」と異名を持つこの野鳥はご存知の通り、青緑色をした小鳥です。何だか得した気分になりながら、このあと、写真に撮ろうと再びカワセミを探したり、マガモを追いかけたりして、もうヘトヘトに。のんびり楽しむはずの散策が、いつしか足が棒になるほど歩き回ってしまい、翌日は筋肉痛でイタイ思いをしたのでした。

    もっと読む
  • 第390号【サツマイモを使った伝統食】

     11月の五島列島は、特産品であるかんころもちの主原料「干しイモ(ゆで干しかんころ)」作りの最盛期です。島の畑で収穫したサツマイモの皮をむき、スライスして茹で、数日、天日で乾燥させたものが「干しイモ」です。干されることで甘みが増し、この段階で、すでにおいしいおやつになります。この後もち米と一緒に蒸し、つきあげてかんころもちにします。  五島列島のかんころもちに代表されるように、長崎県はサツマイモを原料にした郷土料理が多彩です。その種類は九州のなかでも特に多いとか。幅広く奥深いサツマイモの世界。今回も「長崎」という窓からのぞいてみました。  カンショ、唐イモ、琉球イモのほか、八ちゃん(島原など)、孝行イモ(対馬)などいろいろな呼び名で親しまれているサツマイモ。やせた土地にも育つ栄養豊富なこのおイモは、江戸時代の飢饉にも、戦中・戦後の食料難の時代にも大きな役割を果たしてきました。現在、世界での生産量は約1億2700万トン(2002年のデータ)。これは、大豆やトマトに次ぐ7番目くらいの多さだとか。世界三大穀物(小麦、米、トウモロコシ)には含まれないものの、堂々たる生産量です。  サツマイモの原産は中央アメリカ。15世紀の終わり頃、コロンブスがヨーロッパへ持ち帰り、日本へは17世紀初め頃に伝えられたといわれています。その経緯は、東南アジアから鹿児島へ、または沖縄(琉球)から平戸へ入ったなど諸説ありますが、いずれにしても九州はサツマイモ栽培の先進地でした。  戦中・戦後に子供時代を過ごした方々によるとサツマイモは主食のほか、「イモ水飴」、「イモ飴」、「イモかりんとう」などのおやつにして食べていたとか。また、正月もちの残りなどを、茹でたサツマイモの中に入れて熱々の状態で練り上げていただく「びょうたれ」(諫早)、米粉の団子とかんころの粉で作った団子を交互に串にさした「かべかべ団子」(五島)、さつまいもにそば粉を加え練ったものに、きな粉をかけていただく「かまほぐり」、蒸したさつまいもに小麦粉または米粉を加えてつくる「どんだへもち」(島原)、さつまいもを発酵させてつくる保存食の「せん」(対馬)など、創意工夫の伝統食が県下各地に残っています。  なかでも島原地方の「ろくべえ」は個性的な料理のひとつかもしれません。サツマイモ粉とすったヤマイモでこねた麺を、カツオ節やイリコ、アゴなどのダシで作ったすまし汁でいただく料理で、黒っぽい麺が特長です。天保の大飢饉のとき、島原の名主の六兵衛さんという人が考案した料理だと伝えられています。また、対馬にも「ろくべえ」があります。前述の「せん」を柔らかくこねなおしてつくる麺は、島原のものより弾力があるともいわれています。季節の貝類や干し椎茸のダシで作ったすまし汁でいただきます。  各地に受け継がれるサツマイモを使った料理。それは、かつての厳しい生活環境を生き抜くために培われた、知恵の味でもありました。  ◎参考にした本/「九州・沖縄 食文化の十字路」(豊田謙二/築地書館)、「聞き書 長崎の食事」(月川雅夫ほか編/農山漁村文化協会)

    もっと読む

検索