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  • 第407号【涼を求めて中の茶屋へ】

     梅雨が明け、暑さもひとしお。外出時はついつい建物や木の影を探しながら歩いてしまいますね。身も心も涼を求めるこの季節。眼鏡橋などの石橋群が架かる中島川にいくと、気持ち良さげに泳ぐコイや、水面でエサを採る青サギ、コサギ、ゴイサギの姿が見られます。そこは、まちのなかの小さな自然界。暑さや喧噪をよそに、涼やかな景色が楽しめます。  いま夏休み中とあって涼を楽しむレジャー&観光スポットは、どこも子供たちでいっぱいです。長崎観光で心静まる大人の涼を楽しみたいという方は、かつての丸山花街の一角にある「中の茶屋」を訪れてみませんか。洗練された数寄屋風の住宅と江戸時代中期に築かれたという小さな庭園のあるところで、和やかなひとときを過ごすことができます。  「中の茶屋」は江戸時代の丸山の遊女屋「中の筑後屋」が、裏手の高台に茶屋として設けたもの。当時は「花月楼」と並び知られ、多くの文人墨客が訪れたと伝えられています。長崎奉行も市中を巡検する際には休憩所として指定していたとか。ちなみに「中の茶屋」のお隣には丸山の芸者衆が参拝していた梅園天満宮があります。この界隈は石畳の路地や石塀、飾り格子のある家屋など、あちらこちらで遊郭時代の名残りを見ることができます。  「中の茶屋」の現在の建物は、昭和46年に近所で起きた火災により全焼。のちに火災前の家屋が復元されたものです。江戸時代の茶屋の建物についてはよくわかりませんが、復元された玄関の広さ、炉がきられた奥座敷、次の間、広い縁側などから、茶屋として利用された時代の雰囲気が感じられます。冷房の効いた和室から縁側のガラス越しに見る庭園の涼しげなこと。各地に残される大名庭園とは違い、ある意味、名もなき小規模な庭園ですが、江戸期から続く景色かと思うと感慨深いものがあります。  松、梅、桜、サツキ、柿など四季折々に楽しめる植栽。敷石、飛び石、石灯籠、手水鉢など長崎では珍しく純和風な趣きです。江戸時代、庭園造りは全国的にブームになったと聞いたことがありますが、中の茶屋の庭園は、幕末・明治期に入ってくる西洋庭園の影響を受けていない庭園といえるのかもしれません。  現在、「中の茶屋」は「清水崑展示館」にもなっていて、昭和の時代の懐かしいかっぱの絵も楽しむことができます。  さて、中の茶屋から徒歩で3、4分ほどのところには「玉泉神社」があります。軒周辺の装飾には中国の影響と思われる極彩色の龍や獅子が彫られるなど、神社らしからぬ雰囲気を漂わせています。「玉泉神社」はもとは天台宗・聖護院の末寺だったそうで、のちにこの地に祀られていた稲荷社と合祀されたとか。中国風の飾りの由来については不明ですが、もしかしたら江戸時代、唐船主からの寄進によるものかもしれません。それにしても、いかにも長崎らしい神仏混合的な姿でありました。   ◎参考にした資料や本など/長崎市中の茶屋(リーフレット)、長崎市史~地誌・佛寺部(下)編~、よくわかる日本庭園の見方(JTBパブリッシング)

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  • 第406号【ごま豆腐と呉豆腐】

     久しぶりに「ごま豆腐」を作りました。精進料理を代表する「ごま豆腐」は、少し手間ひまのかかる料理です。ごまを炒り、すり鉢で油が出るまですって、水を加えて布で漉す。だし汁、葛粉を加えよく混ぜて20~30分ほど火にかけ練りあげてから、流し箱に入れて固めます。この作業を家庭で一からやるのはしんどい。ですので、もっぱら市販されている練り胡麻を使います。ごまを炒ったり、すったりの作業が省かれ手軽に作れます。  長崎ではお盆に欠かせない「ごま豆腐」。長崎や佐賀などの一部の地域、つまり江戸時代でいう「肥前」エリア内では、「ごま豆腐」が郷土の伝統食ともいえる位置づけにある地域もあります。「肥前」と「ごま豆腐」には一体、どんなゆかりがあるのでしょう。探ってみると、話はいんげん豆を伝えた隠元禅師にまで遡りました。  中国は明の時代の高僧・隠元禅師は、1654年7月、長崎に上陸。興福寺(長崎市寺町)に入り、約1年間を過ごしました。(のちに京都へ移り、「黄檗山萬福寺」を創建)。その隠元禅師が、長崎在住時に伝えたもののひとつに「普茶料理(ふちゃりょうり)」があります。この料理は、精進料理の中でも、中国の建築や儀礼作法をそのまま日本に取り入れた黄檗宗の料理とも言われるものです。たとえば、他の禅宗寺院の精進料理では、一人ひとりに膳が出されますが、普茶料理は円卓に数人が座し、一つの器に盛られた料理を皆で分け合って食すというスタイルです。一説には、この食事作法が長崎の卓袱料理の形式に受け継がれとも言われています。ちなみに普茶とは、「普く茶を施す」ということ。上下の関係なく和気あいあいと食事をいただくという意味合いも含まれているそうです。  隠元禅師が伝えた卓袱式(中国様式)精進料理、「普茶料理」。黄檗宗では「ごま豆腐」は「蔴腐(マフ)」と中国読みするそうですが、いまでも長崎ではお年寄りや卓袱に慣れ親しんだ方などは「ごま豆腐」ではなく「マフ」と言います。江戸時代、長崎を訪れたある人は、宿泊した乙名の家で卓袱料理のもてなしを受けたとか。また、とある名古屋の豪商は、長崎の両替商の家で卓袱料理を食べ、そのときの献立の中に「ごま豆腐」があったことを記しています。「ごま豆腐」はそんなふうにして、しだいに長崎そして近隣エリアの庶民の食生活に広がり根付いていったのかもしれません。  ところで、長崎県でも島原や佐賀県の有田などでは「呉豆腐」と呼ばれるものがあります。豆乳をでんぷんで固めたもので、ニガリで固める豆腐とは違い、もっちりしています。「呉豆腐」は材料、作り方、食感など「ごま豆腐」の兄弟みたいなものです。砂糖も少し入るので、デザート感覚でいただけます。また、かつて島原半島や天草などでは、自家製の落花生とサツマイモで作ったでんぷんを原料に「落花生豆腐」(これも呉豆腐の一種)を作るところもありました。当時はカボチャやスイカの種を干して粉にしたものを原料にした「呉豆腐」もあったとか。いずれも主に法事などの際に作っていたそうで、やはり、精進料理の流れをくんでいるからでしょうか。  ルーツを探れば、仏教やかつての人々の暮らしなど、いろいろな話につながっていく「ごま豆腐」。ま、何はともあれ、身体にもいいので、ぜひ、ご賞味ください。    ◎参考にした本など/日本の食生活禅宗42~聞き書き・長崎の食事~(農文協)、長崎卓袱料理(長崎インカラー)、長崎町人誌・第三巻さまざまのくらし編・食の部(長崎文献社)

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  • 第405号【永井隆博士の足跡をたずねる】

     梅雨も後半に入りました。河川の氾濫やがけ崩れなど、この時期に多い災害には十分気を付けてお過ごしください。それにしても、待ち遠しいのは梅雨明けとロンドンオリンピックですね。今年の夏はアツアツの熱戦で幕開けです!  さて先日、永井隆博士の生き方に感銘を受けたという女性(70代)とともに、長崎市浦上地区に残る永井博士の足跡を訪ねました。「博士が生きた浦上の地に立ち、その空気を肌で感じたかった」と言うその女性は、東京の方。持病の足腰の痛みをおして実現させた念願の長崎の旅でした。  時を越え、人を動かす永井隆博士。いったい彼の何が、そうさせるのでしょう。博士は、1908年(明治41)島根県出身。努力型の勉強家で、松江高等学校を首席で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学。卒業後、同大で放射線医学を専攻。1934年(昭和9)軍医として満州事変に従軍。除隊後、長崎医大の物理的療法科(放射線医学)に復職します。その後、日中戦争に2年半従軍。無事帰還し、職場にもどると、博士は寝る間も惜しんで仕事に没頭します。その頃の日本では結核が流行っていて、毎日何百人ものレントゲン写真を撮って検査・診断を続けました。しかし、当時の不十分な医療環境や過労などが重なり、37才のとき「慢性骨髄性白血病」、「余命は3年」と宣告されたのでした。  博士のここまでの人生も波乱に満ちたものですが、実は、このあとから、のちに博士が世界的にその名を知らしめることになる人生がはじまります。余命3年の宣告を受けた2カ月後の8月9日、原爆投下中心地からわずか700mの医大医院で被爆。自ら大けがを負い、浦上の自宅(原爆投下中心地から約600m)にいた妻も失いながら、被災者の救護活動にあたります。まもなく浦上川の上流地域にある「三ツ山の木場」と呼ばれる山里へ移り、「長崎医科大学第11医療隊救護所」を開設しました。ここには、妻の緑さんの母が住む家があり、そこが救護活動の拠点となりました。博士の2人の子供たちも原爆投下の3日前からこの祖母のもとにいて難を逃れたのでした。  木場には、大勢の負傷者が避難していました。博士は頭の傷に布を巻き、木の杖をつきながら、朝から夜遅くまで近隣の山里を診療して回りました。そして、間もなく病床に伏します。周囲の援助で、浦上の自宅があったすぐそばに木造の小さな家屋が建てられました。その家に博士は「己の如く隣人を愛せよ」の言葉から「如己堂(にょこどう)」と名付け、2人の子供たちと生活。『長崎の鐘』『この子を残して』など十数冊の本を執筆。命の大切さや隣人愛を説き、世界中に平和の尊さを発信し続けました。そして原爆投下から6年後、43才で永眠。余命3年と言われていましたが、さらに3年を生き抜いたのでした。  東京の女性は、1日だけという限られた時間のなか、博士がカトリックの洗礼を受けるために通った「浦上天主堂」、被爆直後に救護活動にあたった医大医院そばの「ぐびろが丘」、そして「如己堂」、「長崎市永井隆記念館」などを巡りました。それぞれの場所で、めいっぱい在りし日の博士に思いを馳せた彼女は「博士の残したメッセージを後世に伝えなければなりませんね」と話し、翌日名残惜しそうに帰路についたのでした。  ◎参考にした本/「永井隆~長崎の原爆に直撃された放射線専門医師」(永井誠一 著)、「永井隆~平和を祈り愛に生きた医師~」(中井俊己 著)

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  • 第404号【長崎くんちの小屋入り】

     梅雨空の下、大きな花を咲かせたアマリリス。通りすがりの人の足を止めるほど、ハッとさせる美しさです。紫陽花や花菖蒲にしても、この時期に咲く花々は、どれも曇り空に映える色、姿をしています。すっきりしない天候が続くとき、気分を晴れやかにしてくれるありがたい存在です。  6月は衣更えにはじまり、窓に簾を掛けたり、カーペットを籐製のものに変えるなど部屋の方も涼しげに模様替え。また、出回りはじめた梅やらっきょうを買い求めて、梅酒、梅干し、らっきょう漬け作りに精を出すなど、夏に向かって衣食住を整えるのに、何かと忙しい月でもあります。  一方、長崎の伝統行事に目を向けると、6月は「小屋入り」で幕が開けました。「小屋入り」とは、諏訪神社の秋の大祭、「長崎くんち」に関わる行事のひとつで、毎年6月1日に踊り町(おどりちょう:その年に奉納踊りを披露する当番の町)の方々が、諏訪神社と八坂神社で清祓(きよはらい)を受け、演し物を無事奉納できるよう祈願します。  「小屋入り」はその年の「長崎くんち」のはじまりを告げる大切な行事です。この日から各踊り町は本番(10月7・8・9日)に向けて演し物の稽古に入ります。なぜ「小屋入り」というかというと、昔は文字通り、小屋を建て、その中で身を清めて稽古に挑んだからだそうです。  「小屋入り」の日の朝、各踊り町の男性は紋付きはかまやスーツ、女性は着物に身を包み、行列をなして諏訪神社、そして八坂神社へ参拝します。午前中に清祓を終えると、午後は3時頃から「打ち込み」があります。「打ち込み」とは、ほかの踊り町や年番町(くんち運営の手伝いをする当番の町)など、関係先への挨拶回りのことをいいます。  「打ち込み」では、町の長老らを中心とした男衆が、軽快な唐人パッチに着替え町名が入った提灯を片手に、シャギリ(囃子)をともなってふたたび町を練り歩きます。今年の踊り町は、今博多町(本踊)、魚の町(川船)、江戸町(オランダ船)、玉園町(獅子踊)、籠町(龍踊)の5町。今回、今博多町の「打ち込み」に同行させていただきましたが、町や関係先など20カ所近くを約3時間かけての挨拶回りは、かなり体力を使いました。しかし、踊り町のみなさんに弱音を吐く人は一人もおらず、むしろ晴れ晴れとした表情です。故郷の祭りを愛する人々の心に触れたような気がしました。    ところで、「小屋入り」の日は、長崎の人にとって「厄入り」の日でもあります。厄年に関する慣習は地域によって異なると思いますが、長崎では、昔からこの日に厄入りの祈祷を行う人が多いのです。厄入りの酒宴では、厄に入った当人をその日の内に自宅に帰してはならないという言い伝えもあります。最近の若い人は早々と切り上げる方も増えたと聞きますが、それを口実に遅くまで飲む方もまだまだいらっしゃるようです。

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  • 第403号【美しくておいしい紫陽花】

     長崎は紫陽花のシーズンがはじまりました。まだ固いつぼみが多いのですが、葉は瑞々しくしげり、道行く人の目を楽しませています。また、ビワもシーズンを迎えています。路地ビワの樹には実がたわわです。住宅街などでも庭木のビワに袋がけをしたところを多く見かけます。ビワの産地・長崎ならではの光景かもしれません。  紫陽花の季節には必ず訪れたい場所があります。長崎市鳴滝にある「シーボルト記念館」です。出島の商館医シーボルトは、ある紫陽花の品種に、彼が愛した日本人女性「お滝さん」の愛称から「オタクサ」と名付けました。同記念館ではこのエピソードにちなんだ小さな企画展を毎年開催しているのです。  今年の企画展「シーボルトとオタクサ展」(平成24年5 月18日~6月17日まで開催)では、世界で最も美しい図鑑のひとつといわれている『日本植物誌』(シーボルトほか 著)をはじめ、シーボルトにとって出島の商館医の大先輩で、日本の植物について先に著したケンペルやツュンペリーの関連資料、さらに幕末の日本の植物学者が著した書などが展示されています。  なかでも目を引いたのは、デンマークの名窯ロイヤルコペンハーゲン・ポーセリン製のカップとソーサーです。『日本植物誌』からアジサイをはじめクロマツ、サザンカ、ハマナスなど10種類の花をモチーフにした優雅な陶器でした。  シーボルトの生涯を知る貴重な資料が展示された「シーボルト記念館」は、シーボルトの学塾兼診療所だった「鳴滝塾」跡にあります。周囲を豊かな緑に覆われた静かなところで、いまでは紫陽花の名所としても知られています。時を経て語り継がれる「お滝さん」への愛情物語とともに、心に刻まれる美しい風景に出合える場所です。  ところで、見目麗しい紫陽花ですが、食べておいしい紫陽花もあります。長崎の味を代表する卓袱料理の小菜のひとつ「紫陽花揚げ(あじさいあげ)」です。エビのすり身を丸め、小さく角切りした食パンを衣にして揚げたもので、形が紫陽花に似ています。いつ頃から卓袱料理に出されるようになったのかはわかりませんが、古いものではなさそうです。同じく卓袱料理で出されるハトシ(エビのすり身を食パンではさみ揚げたもの)を、長崎にゆかりの深い紫陽花の形に転じたものともいわれています。   エビの風味とサクサクした衣がおいしい「紫陽花揚げ」は、長崎の惣菜屋さんでも時折見かけます。見て美しく、食べておいしい紫陽花をお楽しみください。

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  • 第402号【かつては海だった大波止界隈を歩く】

     ゴールデンウィーク直前に沖縄地方が梅雨入り。その数日後、北海道の桜が開花。そして長崎はいま、新緑の季節を謳歌中です。いろいろな季節が同時進行する日本。四季の味わいもそれぞれの地域によって異なり、人々の営みもその風土や歴史に培われてきました。そのなかで育まれる「土地柄」という個性は、昔もいまも旅人の好奇心をくすぐります。  全国から多くの旅人が集う長崎。その土地柄を語る時、「港」は重要なキーワードのひとつです。このまちが歴史の表舞台に登場したのも、1570 年にポルトガルとの貿易港として開かれたことがきっかけでした。はじめに緑に覆われた岬の突端が開かれ町がつくられました。場所は、いまの長崎県庁があるあたりです。その後、海岸線を埋め立てるなどして土地を広げ、町の数を増やしながら発展。鎖国時の貿易港時代を経た後も、居留地時代(明治期)、上海航路開設の時代(大正~昭和初期)など、折々に開発が行われ現在に至っています。  その昔の岬の突端あたりから県庁坂を下ると、「南蛮船来航の波止場跡」の碑があります。ここは、江戸時代には長崎奉行所西役所の船着き場(大波止)が設けられていました。現在、周りは幹線道路が通り、ビルが建ち並んでいます。かつて目の前は海だったなんて、なかなか想像できません。  大波止界隈の変貌はめざましく、近年では、出島ワーフ、長崎水辺の森公園などが整備され、新たな賑わいが生まれています。これまでの時代の変遷は、あちらこちらに史跡として残されています。そのなかで不思議な存在感を放っているのが「大波止の鉄玉」です。直径約56cm、重量約560kgの丸い鉄の玉で、台座の上に供えられ、鉄格子で囲われています。通りの角に鎮座するその様子は、目立たないけれど際立っている、そんな感じです。  近所に住む知人は「テッポンタマ」と呼んでいます。大波止が開発されるたびに、この界隈を転々として現在地に至っているとか。長年の雨ざらしで、よく見ると表面がところどころ剥がれて世界地図のように見えます。別の角度からはクレーターの跡がくっきりのお月さまみたいです。説明板によると、島原の乱のとき原城攻略のために長崎で鋳造された石火矢玉だという言い伝えがあるそうですが、製造された時期も含めて本当のところは定かではないそうです。  長崎奉行所西役所の大波止を描いた江戸時代の地図に、海に向かって設置されたこの鉄砲玉が描かれています。こんなものを作れる、使える、ということを入港する船に誇示したのかもしれません。ときをくだって戦争中には、金属供出でお寺の梵鐘から個人の指輪、タンスの取手といったものまで回収されたと聞きますが、そんな時代さえもくぐり抜けてきました。   なぜ、無事に生き残ったのか、その強い生命力(!?)の理由を問いたくなる「大波止の鉄玉」。きょうも静かに人々の往来を見守っています。

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  • 第401号【南蛮渡来のビスケット】

     小腹が空いたときや仕事が一段落ついたとき、お茶といっしょに甘いお菓子をいただくと、ちょっと幸せな気分になります。そんなティータイムによく添えられるのがビスケット。カステラやコンペイトウと同じく400年以上も前にポルトガル船によって日本に運び込まれたのが最初ではないかといわれています。  ビスケット(英語・ラテン語biscuit)は、ポルトガル語では「ビスコイト(biscout)」といい、江戸時代には「ヒスカウ」、「ビスカウト」などと称されました。ビスケットは、ラテン語では「二度焼かれたもの」を意味する言葉で、「保存食用の堅いパン」という意味合いも含まれています。文字通り、大航海時代には船に積み込まれ、船員たちの長い航海を助けました。現代に至っても、堅(乾)パンやビスケットは非常用としても利用されています。  江戸時代のはじめ頃、長崎でビスケットを作り、ルソン(フィリピン)に輸出していたという話があります。また平戸にもビスケットを焼いて売る店があったそうです。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川正休編)の中の「長崎土産物」の項には、眼鏡細工や時計細工などの工芸品にまじって「南蛮菓子色々」とあり、そのなかにカステラボウル、コンペイトウ、タマゴソウメン、パンなどと並んでビスカウトが記されています。  オランダ商館での宴に出された料理のデザートにもビスケットのようなお菓子が出されていました。それらは、「ヲペリィ」、「スース」、「カネールクウク」と記されています。ちなみに「スース」は肉桂(シナモン)が入ったビスケット、「カーネルクウク」は花型に抜かれたビスケットのことだそうで、どうやら風味付けに使った香辛料や型の違いで名称が異なるようです。  八代将軍吉宗(1684~1751)に、ビスケットにまつわるエピソードがあります。外国の文化に強い関心を示した吉宗は、江戸参府で滞在中のオランダ人のもとへ奉行をやり、彼らが持参していたビスケットやバターなど数種の品をそれぞれの名称を付けて出させたとか。オランダ人はそんな将軍の嗜好を知ってか、その後、バターやお菓子、ブドウ酒など西洋の食べ物や飲み物を数々献上したようです。  ひとくちにビスケットといっても小麦粉、バター、砂糖、牛乳を混ぜて作るシンプルなタイプから、チョコレートやナッツ類、香辛料などを加えたものまでいろいろあります。そんな材料のひとつであるアーモンドも、南蛮船によって輸入されていました。もともとはペルシャあたりから運ばれてきたものらしく、江戸時代には「あめんどう」と称して将軍へ献上されていたようです。また、風味付けに用いられたのが、肉桂(シナモン)や丁字(クローブ)といった香辛料です。これらも南蛮渡来の品々で、薬用にも用いられました。  南蛮菓子には、ほかにもボウロやアルヘイトウなどがあります。いずれにしても当時の庶民にとってはたいへん珍しく貴重なものでした。   ◎参考にした本など/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)、南蛮から来た食文化(絵後迪子著/弦書房)、長崎出島の食文化(親和文庫第17号)

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  • 第400号【長崎の春2012】

     先週、満開を迎えた長崎の桜。八分咲きの頃に春の大嵐に見舞われましたが、よく耐えました。嵐が過ぎ去った翌日、桜の名所として知られる風頭公園へ足を運ぶと、大勢の人々が桜の樹の下でお弁当をひろげていました。東北や北海道の桜の見頃はゴールデンウィーク前後でしょうか。長崎は早くも葉桜の季節へ移りはじめました。山の緑も日に日に濃くなっています。 春もたけなわのこの季節、江戸時代から続く長崎の風物詩といえば「ハタ揚げ」です。ハタ揚げの日ともなると前日の夜から参加者が会場となる山の頂きに集まり、たいへんな賑わいだったと伝えられています。江戸時代の風俗を描いた長崎名勝図絵にもその様子は描かれていて、当時の熱狂ぶりが伺えます。 現代の「ハタ揚げ」はというと、やはり相変わらずの人気ぶり。毎年4月はじめ頃に開催される地元新聞社主催のハタ揚げ大会では、世代を問わず大勢の市民が集います。会場は長崎港と市街地を見渡す景勝地「唐八景」の山頂。かつて「ハタ揚げ」はもっぱら男子がするものでしたが、いまでは女性の姿も大勢見かけます。  ただ、「ハタ合戦」となると、やはり男の世界です。手元での巧みなヨマ(ハタを揚げる糸)さばきで、遠く上空にのぼったハタを操縦。空中で相手のハタに交差させ「ビードロヨマ」(粉状に砕いたビードロを塗った糸)で相手のハタを切り落とすのです。大勢の観客が手をかざしながら勝負を見守っていました。  「子供の頃は、みんな自分でハタを作って揚げていた」と話す地元の80代の男性は、ハタの骨組み(縦骨1本と横骨1本を十字に交差させたシンプルな構造)となる竹の弾力や、よまの付け具合など自分なりに工夫する楽しみがあり、ハタを揚げるときには風を読んだり、技を競い合ったりするところが面白いといいます。  また、70代の男性は、「ハタ揚げは男のロマン」と言います。「子供の頃、しつけに厳しかった祖父はお小遣いをくれない人だったけど、ハタを買うと言うと快く出してくれたものです」。  ところで、男子がハタ揚げに興じるそばで、ワラビ摘みに夢中になっている女性がいました。声をかけると、「灰汁抜きは面倒だけど、おいしいものね」と照れ笑い。そう、いつだって女性は現実的なのです。   ハタ揚げ見物を終え、土の感触を楽しみながら山道を歩けば、土手にツワブキがいっぱい生えていました。長崎では「ツワ」と呼ばれ、煮しめや味噌漬けなどにして食べます。そして、足下に目をやれば、スミレやジロボウエンゴサク、オキザリス、オドリコソウなど野山の小さな花たちが元気に花を咲かせていました。さあ、次の休日はお弁当を持って春を散策しませんか。ツワブキジロボウエンゴサクオキザリス オドリコソウ

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  • 第399号【ウチワエビのウチワ話】

     老夫婦が営む小さなおまんじゅう屋の前を通りかかると、店先で摘んできたばかりの蓬(よもぎ)の若葉が香気を放っていました。毎年その光景を見るたびに思い出すのが「おらが世やそこらの草も餅になる」という一茶の句。春のパワーをおいしくいただくのは、昔から変わらぬものなのですね。  蓬が山の幸なら、今回ご紹介するウチワエビは海の幸。冬からいま頃にかけて、とくにおいしくなる魚介類です。ウチワエビはイセエビ亜目セミエビ科。比較的温かい海域の水深100メートルほどの泥砂底に生息し、以西底引船などで漁獲されます。体長は15センチ前後、扁平で団扇のような形をしています。エビらしからぬそのユニークな姿はウルトラマンシリーズに出てくる怪獣を思わせます。  長崎県内各地で水揚げされ、地元の市場やスーパーなどに並ぶウチワエビ。けして珍しいものではないのですが、県外の方からは、「見たことがない」「食べたことがない」という声をよく耳にします。また、昨今のサカナ離れの傾向もあってか、長崎でも若い世代になると「知らない」という人も少なくありません。  近所の魚屋さんは、「味は伊勢エビと一緒たい!」と長崎弁で太鼓判を押します。確かに刺身でいただくと「プリップリ」して、「あま~い」のです。ウチワエビが好きで、よく食卓に上げるという地元の女性(60代)は、「刺身、味噌汁、天ぷらなどにしていただきます。そんなに安いものではないけれど、伊勢エビよりは求めやすい」といいます。先日の時価は一尾495円でした。  「ウチワエビには常連のお客さんがいる」という魚屋さんに、プロのさばき方を見せていただきました。まず、裏返して頭の付け根を押さえ、軽くひねるようにして胴体からはずします。意外だったのは、この後です。胴とその周りにあるギザギザの腹肢や尾肢との間に包丁を入れ、固い殻を外していくのかと思いきや、包丁を使わず、デザートナイフを胴内に入れ、殻に沿って切り回し、あっと言う間に身を取り出しました。「このやり方はあまり知られていないんですよ」と店主。目からウロコが落ちるような光景でした。  見た目は淡白な印象ですが、食べてみると濃厚な旨味があるウチワエビ。身はもちろん殻からもおいしい出汁が出るので、味噌汁や寄せ鍋におすすめです。また、外観の大きさに比べ、身は小さいと感じるかもしれませんが、インパクトのある姿と伊勢エビに負けないおいしさで、十分満足できるはずです。   長崎では、和食処などで名物のひとつとして出しているところも多いウチワエビ。未体験の方は、ぜひ一度ご賞味ください。

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  • 第398号【南蛮渡来の武士の内職】

     3月に入り雨の日が多い九州地方。菜の花が咲きはじめる頃の長雨だから、菜種梅雨(なたねづゆ)と言われます。東北地方の天気予報を見るとまだ雪のマークがちらほら。でも、じきに春は北上。温かな日差しを浴びる日ももうすぐです。  今回は南蛮貿易時代に長崎に伝えられ、その後、武士の内職となったある技術をご紹介します。それは「莫大小」というものなのですが、この漢字、何と読めばいいのでしょう。「ボダイショウ?」イエ、イエ。ヒント1、毛糸を使う手工芸。ヒント2、ポルトガル語のmeias、またはスペイン語のmediasが語源といわれ、その発音に漢字を当てて「目利安」「女里弥寿」などと表記されました。そうです。答えは「メリヤス」。  「莫大小」とは、「大も小も莫(な)い」という意味です。毛糸を複数の細い棒を使って編み上げる「メリヤス」は、それまで日本にあった麻や木綿織りの布地と比べ伸縮性が高く、身に付ける人やものの大小を問わず合わせることができました。そこから「莫大小」という表意語が生まれたといわれています。  前述のmeias、mediasは、「靴下」を意味しました。当然ながら長崎に伝えられた当初の「メリヤス」も編んでつくる靴下のことでした。江戸時代の長崎の景観、風俗、工芸など写生風に描いたものを集めた「長崎古今集覧名勝図絵」のなかにも、「メリヤス」の項目があり、編み物をしている女性が描かれています。縁側そばで日中の明かりをとりながら編む姿、かたわらでネコがくつろぐ様子など、いまも変わらぬ編み物のシーンがそこにありました。  南蛮渡来の技法を教わり長崎の女性らが編んだ「メリヤス」は、江戸時代中期以降になると、内職として武士の間に広がり、家計を助けました。「目利安」「女里弥寿」が、「莫大小」と表記されるようになったは、この頃だといわれています。武士たちが、3本の鉄串を使い絹糸や綿糸で編みあげていたのは、靴下、肘おおい、手袋、鍔袋(つばぶくろ)、じゅばん、股ひきなど。この内職で知られたのは、松前藩や仙台藩竜ケ崎など。さらに徳川御三卿として知られる田安家、一ツ橋家などでも行われ、メリヤスの名手いわれる武士もいたと伝えられています。  ところで一般に編み物をするのは女性というイメージが強いようですが、たとえばフィッシャーマンニットを代表するアランセーター(アラン島発祥のセーター)などは、漁の合間に男たちも編んだと言われています。また現在も仕事や趣味で編み物をする男性は、意外に多いようです。  手先で同じ動作を繰り返す編み物は、気持ちが落ち着く効果があるといわれています。武士たちは家計のために懸命に編む一方で、ときに無心になり、小さなやすらぎを感じることがあったかもしれません。  ◎参考にした本など/「長崎古今集覧名勝図絵」(註釈/越中哲也、発行/長崎文献社)の「靴下の歴史」(内外編物株式会社)、世界の伝統の編み物図鑑(主婦と生活社)  ◎協力/長崎歴史文化協会、ニットワーク長崎

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  • 第397号【ノスタルジックな赤レンガの風景】

     「長崎ランタンフェスティバル」の期間中、大勢の人出で賑わった新地中華街や唐人屋敷周辺。ランタンの装飾が取り払われたとたん、あの幻想的な雰囲気はまぼろしのように消えてしまいました。また来年が楽しみです。  いつものまちの風景にもどったとはいえ、唐人屋敷(館内町)や隣接する東山手、そして南山手は、やはり独特で個性的なエリアです。石畳の坂道や赤レンガ塀、御堂や洋館など、中国や西洋の文化に影響を受けた時代の名残りがあちらこちらに見られます。そうした景色は初めて長崎を訪れた人でも、なぜかしら郷愁を誘うから不思議。なかでも赤レンガのある風景はノスタルジックです。  唐人屋敷から東山手に続く斜面地の住宅街に足を踏み入れると、年期の入った赤レンガ塀の通りがあります(ピエル・ロチ寓居跡近く)。積まれたのはいつ頃でしょうか。年期の入ったレンガ色の眺めは、何の変哲もない生活道を味わい深くしています。  明治期、近代化という大きな時代の流れのなかで、全国に広がったレンガの建造物。いまも各地に当時のものが残されているようですが、長崎市小菅町には日本最古ともいわれる赤レンガ建築があります。修船場のウインチ小屋の外壁で、明治元年につくられたものです。その修船場は、船台がそろばんに似ているところから「そろばんドック」と呼ばれています。   この日本最古の外壁は、幕末にオランダ人技師が伝えた厚さ4センチほどの「こんにゃく煉瓦」です(本コラム393号で紹介。)ちなみにレンガというと赤色と思いがちですが、白レンガと呼ばれるタイプもあります。それは耐火レンガで古い洋館などにいくと暖炉などで見ることができます。  東山手や、南山手のグラバー園そばでも石畳の通りに沿って赤レンガ塀が見られます。当時の職人さんたちが一つひとつ規則的に積んだ赤レンガをよく見ると、積み方に違いがあることがわかります。小口(もっとも面積の小さい面)を手前にして積み上げる「小口積み」、長手(レンガの横側の長い面)だけで積み上げる「長手積み」、小口を並べた段の上に長手を並べる「イギリス積み」、同じ段に小口と長手など幅の違う面が並ぶ「フランス積み」など。この界隈で見かける多くは、「イギリス積み」のよう。なかにはアーティスティックな表情もあって面白いです。  ところで石畳の坂道を上ったり下ったりしていると、道の真ん中で寝そべっている路地ネコたちとよく遭遇します。このあたりのネコたちは、気のせいか毛の長さや色、表情など、どこか異国風が目立ちます。奈良時代(もしくはそれ以前)に日本に渡ってきたといわれる唐ネコの多くは短尾だったそうですが、長崎でも、ボンボンのように丸まった短尾種を多く見かけます。江戸時代に唐船が運んできた唐猫の子孫なのでしょうか。個性的な尻尾を見て回るのも、長崎のまちを散策する楽しみのひとつでもあります。  ◎参考にした本など/赤レンガ近代建築」(佐藤啓子/青幻社)

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  • 第396号【トルコライスをさかのぼる】

     ヨーロッパとアジアにまたがるトルコ。かつてオスマン帝国として栄えたこの国に親日的な人が多いのは、120年前のエルトゥールル号遭難事件の影響だといわれています。この事件は、明治23年(1890)9月、来日していたオスマン帝国の特使らを乗せた軍艦エルトゥールル号が、帰路、台風で和歌山県串本町の沖で遭難し、乗組員581人が死亡するという大惨事となったもの。そんな中、69人が救出され、地元住民の救護と日本政府の尽力などにより無事生還することができました。このときの日本人の献身的な救護活動に、オスマン帝国の人々は大いに心を動かされたのでした。  それから3年が経った明治26年(1893)。10月21日付けの「時事新報」(福沢諭吉創設の新聞社発行)の晩の献立を紹介するコーナーに、「土耳其(とるこ)めし」の作り方が掲載されました。この料理は、鶏肉(または牛肉)のスープで炊いたごはんにバターを混ぜ合わせた、いわゆるバターライスのことで、現代のわたしたちがピラフ(Pilaf)とも呼ぶものです。ちなみにピラフは、トルコではごく一般的な料理だそうで、「ピラヴ(Pilav)」と呼ばれます。実はこれがピラフの語源なのだそうです。  さて、この「土耳其(とるこ)めし」が、エルトゥールル号遭難事件で救助された乗組員が伝えたかもしれないと想像するのは、飛躍が過ぎるでしょうか。いや、それ以前にヨーロッパ各国を訪ねた当時の政府関係者によって伝えられたかもしれませんが…。そうでなくとも、エルトゥールル号遭難事件を機にトルコと日本の友好の気運が高まっていた時代であることは確かのよう。史実は別にして、歴史の点と点を突拍子もない想像力で結ぶのは楽しいものです。  さて、ここまでのお話は長崎名物「トルコライス」のルーツ探しの途中で出てきたものです。「トルコライス」とは、ピラフ、パスタ(主にナポリタン)、トンカツの三種類がひとつのお皿に盛られた料理で、昭和の時代におおいに流行ったローカルフードです。それにしてもなぜ、「トルコライス」というのか。いわれには諸説あります。地元でよく聞くのは、チャーハン(ここではピラフのこと)は中国。ナポリタンはイタリア、その中間にトルコがあるから「トルコライス」という説。また、ピラフ、パスタ、トンカツの三種類は三色旗を意味する「トリコロール」という言葉にも通じ、転じて「トルコライス」になったなど。  「トルコライス」は長崎のローカルフードとして愛されながら、その作り方が郷土料理の本で紹介されることはほとんどありません。なぜなら、トルコライスは家庭の料理というより、洋食屋さんの料理だから。その店独自の趣向を凝らしたトルコライスがあるのです。  自分で作れば、いろんなバージョンが楽しめるトルコライス。バターライスとナポリタン、そしてトンカツはお肉を薄く伸ばしてサクサクに仕上げたミラノ風に。また、カロリー制限などを無視するならば、オムレツ風カレーピラフ、ペペロンチーノ、そしてトンカツにはカレーソースをかけて、という組み合わせも。けれど、やっぱり街角の洋食屋さんでいただくのがいちばんおいしいようです。   ◎参考にした本など/「福沢諭吉の何にしようか~100年目の晩ごはん[レシピ集]~」、外務省ホームページ「各国・地域情勢」

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  • 第395号【2012長崎ランタンフェスティバル】

     ふくふくと極彩色のぬくもりがまち中を包んでいます。旧正月を祝う「長崎ランタンフェスティバル」がはじまりました。今年は1月23日(月)から2月6(月)までの15日間開催されます。この期間は、中国で「春節(しゅんせつ)」と呼ばれる旧暦1月1日から、元宵節(げんしょうせつ)の1月15日にあたり、中国では大勢の人が正月休みで故郷へ帰省し、新年を祝います。  ランタン(中国提灯)の幻想的な明かりに導かれて歩く冬の長崎。いにしえの中国の偉人や霊獣たちのオブジェが行き先々で出迎えてくれます。何だか中国絵巻の中に迷い込んだような気分に。古くから中国とのゆかりの深い長崎の歴史をあらためて実感します。  毎年、開催前から話題になるのが湊公園(新地中華街となり)に設置される干支の巨大オブジェ(高さ約8メートル)です。今年は3体の龍が「珠(たま)」と戯れる姿がダイナミックに表現されています。平和や希望を象徴するという龍。東日本大震災の復興への願いが込められています。  「長崎ランタンフェスティバル」の舞台となる長崎市中心部には、新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場など複数の会場が設けられ、連日夕刻からさまざまな催しが繰り広げられています。昨年から会場のひとつとなった孔子廟では、中国の古い建築様式を堪能できます。孔子廟を訪れたら、ぜひ隣接する中国歴代博物館へも足を運んでみてください。日本ではここでしか見る事ができない貴重な史料の数々が展示されています。  龍踊り、中国獅子舞、中国雑技、二胡の演奏、太極拳など中国色豊かな催しを楽しめる「長崎ランタンフェスティバル」。特にステージを設けた新地中華街会場と中央公園会場には大勢の観客が集まり、真冬の夜とは思えない熱気に包まれています。また、今年から新地中華街の北側の入り口付近を流れる銅座川一帯には桃色のランタンが飾られています。黄色いランタンで彩られる中島川とはまた違った新しい景色です。  中国ゆかりのこのお祭りで毎年感じるのは、人々の幸せを求める思いの強さです。龍や麒麟などの聖獣をはじめ縁結びの神様「月下老人」や民間信仰の「福の神」などのオブジェ、文字を逆さに飾ることで幸せを呼ぶという「逆さ福」、幸福を願って食べる「元宵団子」など、飾るもの、口にするもののあれこれが幸福につながる縁起を担いでいます。ほほえましく、いじらしささえ感じるそうしたものに、どんなときも希望を失わずに生きようとする人間の底力、たくましさを感じて、元気が出ます。   「長崎ランタンフェスティバル」の舞台は、江戸時代に出島や新地周辺に築かれた「長崎」のまちだったところと重なります。当時もいまも、オランダとの貿易以上に、中国との貿易が長崎の人々の暮らしに多大な影響を及ぼしたことをあらためて感じるのでした。

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  • 第394号【初春、諏訪神社と淵神社へ】

     明けましておめでとうございます。長崎市民の総鎮守・諏訪神社の新年は、龍踊りの奉納で幕が開けました。古来、霊獣として知られる龍は、おめでたいことの前兆でもあるとか。長坂をいきおいよく駆け上った龍は、異国情緒あふれる舞を披露。大勢の初詣客に新年のうれしい予感をもたらしてくれました。  今年は稲佐山のふもとにある淵神社(ふちじんじゃ)にも参拝し、久しぶりに長崎ロープウェイに乗車しました。昨年秋、リニューアルしたゴンドラのデザインは、工業デザイナー奥山清行氏によるもので、全面ガラス張り。車内から360度の市街地の眺望を楽しみました。  ところで、長崎ロープウェイのふもと側の駅に隣接する淵神社は、昔ながらの素朴な雰囲気が残る神社です。「何だか落ち着く」と、参拝がてら境内のベンチでほっこりされる方もいらっしゃいます。この神社は長崎ならではの興味深い歴史を数々擁したところでもありました。  江戸時代、出島近くに形成されていた長崎のまちに対し、淵神社はその対岸に位置する浦上村渕(ふち)というところにありました。当時は、「宝珠山・万福寺」(明治維新後、渕神社に改称)と称し、弁財天を勧請したことから稲佐弁天社とも呼ばれました。  現在の神社周辺は埋め立てられ昔の面影はありませんが、江戸時代は海に面した景勝地として知られ、安藤広重の「六十余州名所図会」、また「長崎名勝図絵」にも描かれています。境内にはそれらがパネル展示されており、往時の様子がうかがうことができます。  実は、淵神社にはキリシタンゆかりの歴史があります。万福寺創建は、寛永11年(1634)ですが、それ以前に同地に祀られていた妙見社は、天正年間のキリシタン隆盛の時代にその信徒らによって焼かれたと伝えられています。また、境内の一角に祀られている「桑姫社(くわひめしゃ)」はキリシタン大名として知られる豊後の大友宗麟の二女とも、孫娘ともいわれる姫を祀ったもの。  姫は大友氏が豊臣秀吉に滅亡されたとき、大村公を頼って長崎へ。この地の近くに隠れ住み、桑を植え、蚕を飼い、糸の紡ぎ方を近隣の女性たちに教えたそうです。のちにその徳が讃えられ祀られたといわれています。  掘り起こせば、和洋中が混在するいろんな歴史が出てきそうな淵神社。明治時代には、岩崎弥太郎が三菱の安全祈願のために毎年訪れていたとか。また境内にある宝珠幼稚園は、福山雅治さんが通ったことでも知られています。同神社には万福寺の「福」に由来する「福運御守」がありますが、「福」つながりということもあってか、福山ファンの間で話題になっているそうです。  本殿を裏手にまわると、知る人ぞ知る十二支神社(えとじんじゃ)があります。生まれた干支の守護神で、縁結び、学業成就、安産祈願にご利益があるとか。どうぞ、参拝にお出かけください。   ◎取材協力/淵神社(長崎市淵町8-1)

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  • 第393号【長崎の願掛けスポット】

     きょうは仕事納め。「来年はいい年になりますように」と願いながら職場や家の大掃除にいそしんでいる方も多いことでしょう。一年をふりかえれば、いろいろな思いがこみあげてきます。こうして無事に過ごしていることへの感謝と新しい年への希望。そんな思いを胸に願掛けスポットを巡りました。  シーボルトの鳴滝塾跡のある地域には「高林寺」という小さなお寺があります。ここには長崎でもっとも古いといわれるお地蔵さまが祀られています。観音さまのような優しい表情をしたこのお地蔵さまは、衣が赤く塗られているので「赤地蔵」とも呼ばれています。この赤色は祈願して病気が治ると塗られるそうで、お地蔵さまのパワーが発揮された証しなのでした。  ところで、「高林寺」の入り口付近にはかつて煉瓦造りアーチ型の山門がありました。明治時代のものだったそうですが、いまはその一部と思われる跡があるのみ。使われた煉瓦は長崎で俗に「こんにゃく煉瓦」と呼ばれたタイプのようです。 「こんにゃく煉瓦」は、幕末の安政年間にオランダ人技師ハルデスの指導のもと長崎で焼かれたのがはじまりで、それが日本の一般の建築物に使う赤煉瓦の最初といわれています。4センチほどの薄さが特長で、こんにゃくの形に似ていたこことから、そう呼ばれるようになりました。  煉瓦づくりアーチ型の山門は、大音寺(長崎市鍛冶屋町)の境内でも見られます。こちらは折にふれ修理・修復がなされてきたようできれいなアーチ型を残しています。長崎の郷土史の古老によると、明治時代の長崎では、煉瓦を使った門をつくるのが流行り、それ自体はけして珍しくなかったとか。しかし、時代とともに数が減っていることを思えば、当時の長崎の風物を伝える貴重なものといえるかもしれません。  話を本題にもどしましょう。長崎で初詣の参拝者数がもっとも多い諏訪神社にも、さまざまな悩みをきいてくれる願掛けどころがいくつもあります。そのなかのひとつが、本殿の裏手に祀られている「トゲ抜き狛犬」です。心にトゲのように突き刺さっていることがある方は、この狛犬さんにお願いしてみませんか。  諏訪神社から徒歩5分のところにある松森神社には、願掛けではありませんが、松竹梅の燈籠があります。胴のあたりは松の木肌、上部に竹や梅の花のデザインを組み合わせたおめでた尽くしの燈籠で、思わず手を合わせたくなります。   神社やお寺ではありませんが、観光客を中心に多くの人々の幸せになりたい思いを受け止めたのが眼鏡橋そばの「ハートストーン」です。願掛けされた恋の数だけ、ハートストーンのパワーが増しているような気がしないでもありません。  昔もいまも絆を求め、幸福を願うわたしたち。『幸福は義務である』と語ったのはフランスの哲学者アランでした(『幸福論』)。家族や友人、日々の生活を大切に、きょうも、あしたも、来年も、一歩ずつ前に進んでいきたいものです。  ◎本年も、ご愛読いただきまして誠にありがとうございました。

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