第406号【ごま豆腐と呉豆腐】

 久しぶりに「ごま豆腐」を作りました。精進料理を代表する「ごま豆腐」は、少し手間ひまのかかる料理です。ごまを炒り、すり鉢で油が出るまですって、水を加えて布で漉す。だし汁、葛粉を加えよく混ぜて2030分ほど火にかけ練りあげてから、流し箱に入れて固めます。この作業を家庭で一からやるのはしんどい。ですので、もっぱら市販されている練り胡麻を使います。ごまを炒ったり、すったりの作業が省かれ手軽に作れます。







 

 長崎ではお盆に欠かせない「ごま豆腐」。長崎や佐賀などの一部の地域、つまり江戸時代でいう「肥前」エリア内では、「ごま豆腐」が郷土の伝統食ともいえる位置づけにある地域もあります。「肥前」と「ごま豆腐」には一体、どんなゆかりがあるのでしょう。探ってみると、話はいんげん豆を伝えた隠元禅師にまで遡りました。



 

 中国は明の時代の高僧・隠元禅師は、1654年7月、長崎に上陸。興福寺(長崎市寺町)に入り、約1年間を過ごしました。(のちに京都へ移り、「黄檗山萬福寺」を創建)。その隠元禅師が、長崎在住時に伝えたもののひとつに「普茶料理(ふちゃりょうり)」があります。この料理は、精進料理の中でも、中国の建築や儀礼作法をそのまま日本に取り入れた黄檗宗の料理とも言われるものです。たとえば、他の禅宗寺院の精進料理では、一人ひとりに膳が出されますが、普茶料理は円卓に数人が座し、一つの器に盛られた料理を皆で分け合って食すというスタイルです。一説には、この食事作法が長崎の卓袱料理の形式に受け継がれとも言われています。ちなみに普茶とは、「普く茶を施す」ということ。上下の関係なく和気あいあいと食事をいただくという意味合いも含まれているそうです。

 

 隠元禅師が伝えた卓袱式(中国様式)精進料理、「普茶料理」。黄檗宗では「ごま豆腐」は「腐(マフ)」と中国読みするそうですが、いまでも長崎ではお年寄りや卓袱に慣れ親しんだ方などは「ごま豆腐」ではなく「マフ」と言います。江戸時代、長崎を訪れたある人は、宿泊した乙名の家で卓袱料理のもてなしを受けたとか。また、とある名古屋の豪商は、長崎の両替商の家で卓袱料理を食べ、そのときの献立の中に「ごま豆腐」があったことを記しています。「ごま豆腐」はそんなふうにして、しだいに長崎そして近隣エリアの庶民の食生活に広がり根付いていったのかもしれません。

 



 ところで、長崎県でも島原や佐賀県の有田などでは「呉豆腐」と呼ばれるものがあります。豆乳をでんぷんで固めたもので、ニガリで固める豆腐とは違い、もっちりしています。「呉豆腐」は材料、作り方、食感など「ごま豆腐」の兄弟みたいなものです。砂糖も少し入るので、デザート感覚でいただけます。また、かつて島原半島や天草などでは、自家製の落花生とサツマイモで作ったでんぷんを原料に「落花生豆腐」(これも呉豆腐の一種)を作るところもありました。当時はカボチャやスイカの種を干して粉にしたものを原料にした「呉豆腐」もあったとか。いずれも主に法事などの際に作っていたそうで、やはり、精進料理の流れをくんでいるからでしょうか。



 

 ルーツを探れば、仏教やかつての人々の暮らしなど、いろいろな話につながっていく「ごま豆腐」。ま、何はともあれ、身体にもいいので、ぜひ、ご賞味ください。

 

 

 

◎参考にした本など/日本の食生活禅宗42~聞き書き・長崎の食事~(農文協)、長崎卓袱料理(長崎インカラー)、長崎町人誌・第三巻さまざまのくらし編・食の部(長崎文献社)

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