第402号【かつては海だった大波止界隈を歩く】
ゴールデンウィーク直前に沖縄地方が梅雨入り。その数日後、北海道の桜が開花。そして長崎はいま、新緑の季節を謳歌中です。いろいろな季節が同時進行する日本。四季の味わいもそれぞれの地域によって異なり、人々の営みもその風土や歴史に培われてきました。そのなかで育まれる「土地柄」という個性は、昔もいまも旅人の好奇心をくすぐります。
全国から多くの旅人が集う長崎。その土地柄を語る時、「港」は重要なキーワードのひとつです。このまちが歴史の表舞台に登場したのも、1570 年にポルトガルとの貿易港として開かれたことがきっかけでした。はじめに緑に覆われた岬の突端が開かれ町がつくられました。場所は、いまの長崎県庁があるあたりです。その後、海岸線を埋め立てるなどして土地を広げ、町の数を増やしながら発展。鎖国時の貿易港時代を経た後も、居留地時代(明治期)、上海航路開設の時代(大正~昭和初期)など、折々に開発が行われ現在に至っています。
その昔の岬の突端あたりから県庁坂を下ると、「南蛮船来航の波止場跡」の碑があります。ここは、江戸時代には長崎奉行所西役所の船着き場(大波止)が設けられていました。現在、周りは幹線道路が通り、ビルが建ち並んでいます。かつて目の前は海だったなんて、なかなか想像できません。
大波止界隈の変貌はめざましく、近年では、出島ワーフ、長崎水辺の森公園などが整備され、新たな賑わいが生まれています。これまでの時代の変遷は、あちらこちらに史跡として残されています。そのなかで不思議な存在感を放っているのが「大波止の鉄玉」です。直径約56cm、重量約560kgの丸い鉄の玉で、台座の上に供えられ、鉄格子で囲われています。通りの角に鎮座するその様子は、目立たないけれど際立っている、そんな感じです。
近所に住む知人は「テッポンタマ」と呼んでいます。大波止が開発されるたびに、この界隈を転々として現在地に至っているとか。長年の雨ざらしで、よく見ると表面がところどころ剥がれて世界地図のように見えます。別の角度からはクレーターの跡がくっきりのお月さまみたいです。説明板によると、島原の乱のとき原城攻略のために長崎で鋳造された石火矢玉だという言い伝えがあるそうですが、製造された時期も含めて本当のところは定かではないそうです。
長崎奉行所西役所の大波止を描いた江戸時代の地図に、海に向かって設置されたこの鉄砲玉が描かれています。こんなものを作れる、使える、ということを入港する船に誇示したのかもしれません。ときをくだって戦争中には、金属供出でお寺の梵鐘から個人の指輪、タンスの取手といったものまで回収されたと聞きますが、そんな時代さえもくぐり抜けてきました。
なぜ、無事に生き残ったのか、その強い生命力(!?)の理由を問いたくなる「大波止の鉄玉」。きょうも静かに人々の往来を見守っています。