第405号【永井隆博士の足跡をたずねる】

 梅雨も後半に入りました。河川の氾濫やがけ崩れなど、この時期に多い災害には十分気を付けてお過ごしください。それにしても、待ち遠しいのは梅雨明けとロンドンオリンピックですね。今年の夏はアツアツの熱戦で幕開けです!

 

 さて先日、永井隆博士の生き方に感銘を受けたという女性(70代)とともに、長崎市浦上地区に残る永井博士の足跡を訪ねました。「博士が生きた浦上の地に立ち、その空気を肌で感じたかった」と言うその女性は、東京の方。持病の足腰の痛みをおして実現させた念願の長崎の旅でした。





 

 時を越え、人を動かす永井隆博士。いったい彼の何が、そうさせるのでしょう。博士は、1908年(明治41)島根県出身。努力型の勉強家で、松江高等学校を首席で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学。卒業後、同大で放射線医学を専攻。1934年(昭和9)軍医として満州事変に従軍。除隊後、長崎医大の物理的療法科(放射線医学)に復職します。その後、日中戦争に2年半従軍。無事帰還し、職場にもどると、博士は寝る間も惜しんで仕事に没頭します。その頃の日本では結核が流行っていて、毎日何百人ものレントゲン写真を撮って検査・診断を続けました。しかし、当時の不十分な医療環境や過労などが重なり、37才のとき「慢性骨髄性白血病」、「余命は3年」と宣告されたのでした。


 

 博士のここまでの人生も波乱に満ちたものですが、実は、このあとから、のちに博士が世界的にその名を知らしめることになる人生がはじまります。余命3年の宣告を受けた2カ月後の8月9日、原爆投下中心地からわずか700mの医大医院で被爆。自ら大けがを負い、浦上の自宅(原爆投下中心地から約600m)にいた妻も失いながら、被災者の救護活動にあたります。まもなく浦上川の上流地域にある「三ツ山の木場」と呼ばれる山里へ移り、「長崎医科大学第11医療隊救護所」を開設しました。ここには、妻の緑さんの母が住む家があり、そこが救護活動の拠点となりました。博士の2人の子供たちも原爆投下の3日前からこの祖母のもとにいて難を逃れたのでした。



 

 木場には、大勢の負傷者が避難していました。博士は頭の傷に布を巻き、木の杖をつきながら、朝から夜遅くまで近隣の山里を診療して回りました。そして、間もなく病床に伏します。周囲の援助で、浦上の自宅があったすぐそばに木造の小さな家屋が建てられました。その家に博士は「己の如く隣人を愛せよ」の言葉から「如己堂(にょこどう)」と名付け、2人の子供たちと生活。『長崎の鐘』『この子を残して』など十数冊の本を執筆。命の大切さや隣人愛を説き、世界中に平和の尊さを発信し続けました。そして原爆投下から6年後、43才で永眠。余命3年と言われていましたが、さらに3年を生き抜いたのでした。





 

 東京の女性は、1日だけという限られた時間のなか、博士がカトリックの洗礼を受けるために通った「浦上天主堂」、被爆直後に救護活動にあたった医大医院そばの「ぐびろが丘」、そして「如己堂」、「長崎市永井隆記念館」などを巡りました。それぞれの場所で、めいっぱい在りし日の博士に思いを馳せた彼女は「博士の残したメッセージを後世に伝えなければなりませんね」と話し、翌日名残惜しそうに帰路についたのでした。

 

◎参考にした本/「永井隆~長崎の原爆に直撃された放射線専門医師」(永井誠一 著)、「永井隆~平和を祈り愛に生きた医師~」(中井俊己 著)












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