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  • 第419号【五島でいただく冬の魚】

     旧知の五島の漁師さんのお宅で食事をいただく機会がありました。急におじゃましたのにも関わらず、刺身や煮付け、吸い物などいろいろな魚料理でもてなしてくれました。長崎県はほとんどの地域で新鮮な魚が手に入りやすいのですが、自然に恵まれた島の魚というのは、おいしさも格別です。脂ののった冬魚をお腹いっぱいいただきました。  いつも気さくな漁師さんご夫妻。「特別なものは何もなかけど、よかね」と言いつつ奥さんが最初に出してくれたのは、クロとカレイのお刺身です。いずれもご主人が数日前に釣り上げたもので、漁船のいけすで活かしていたとか。ちなみにクロというのは五島や長崎での呼び名で、メジナのことです。クロダイに似た白身魚で、独特の磯の香りがします。カレイは、身が柔らかく淡白で上品な味わい。五島では、ヒラメほどは獲れないらしく、ご主人や奥さんも「ちょっとめずらしかったね」といいながら、その味に目を細めました。  この日、早朝に漁に出たものの一匹も釣れず、地元の市場でカツオ、小アジ、エソを手に入れて来たというご主人。箱いっぱいの魚を、奥さんが慣れた手つきでウロコやゼイゴ、エラ、ワタをとり、下ごしらえをしていきます。漁師の妻の包丁さばきは、年季が入った腕前で見応えたっぷり。そうこうするうちに、カツオはたたき、小アジは刺身や南蛮漬けになり、エソは小アジと合わせてかまぼこへと変身したのでした。  奥さんが調理をしている合間に、港に停泊するご主人の漁船へ行ってみると、いけすからイサキを取り出したところでした。タイなどにも匹敵する味ともいわれるイサキ。よく出回るのは夏ですが、もちろん冬もおいしい。こちらも刺身でいただきました。  漁師歴60年以上のご主人によると、海の環境の変化で、昔に比べてまったく魚が獲れなくなったそうです。五島の美しい海もまた地球レベルの環境の変化の影響を受けているのでしょう。あらためて日常生活のなかで環境のためにできることをやっていこうと思ったのでした。  帰り際、お土産にいただいたのが水イカ(アオリイカ)です。肉厚で甘みのある水イカは、イカの王様なんていわれるほどのおいしさです。昨年末に獲って冷凍していたもので(冷凍すると甘みが増すそうです)、お刺身と湯びきでいただきました。   折々においしい五島の味を届けてくださるご夫妻。毎年、年末になると育てたサツマイモでかんころもちも作ります。漁や野菜作りの生活は、止めどなくやることがあって、思いのほか多忙のよう。軒先にはいま、切り干し大根が干されていました。新年早々、にこやかに迎えてくれたおふたりのご好意にしみじみと感謝。健康と幸せを願いながら帰路に着いたのでありました。

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  • 第418号【長崎よもやま話でコーヒーブレーク】

     皆さま、よい新年を迎えられたことと思います。七草がゆでお腹を休めたら、次はコーヒーブレーク。長崎にまつわるよもやま話にお付き合いください。  コーヒーといえば、日本では長崎・出島に伝わったのが最初と言われています。出島のオランダ商館員らは日常的に飲んでいて、彼らと接する機会のあった阿蘭陀通詞や出島に出入りする遊女などもその味を知っていたようです。前号でご紹介した大田南畝(1749-1823)は、長崎滞在中(1804-1805)のことをまとめた『瓊浦又綴』にコーヒーについても記しています。勘定方の仕事でオランダ船に乗り込んだとき「カウヒイ」を勧められたけれど、焦げくさくて味わえなかったとか。南畝は、コーヒーを飲んだ経験を初めて記した日本人でもあるようです。  お江戸の文化人・南畝の交友関係のひとりに平賀源内(1729-1779)がいます。風変わりな奇才として知られる源内は、長崎を2度訪れました。最初は1752年、高松藩の薬園掛足軽だった頃に遊学。このとき阿蘭陀大通詞の吉雄耕牛のもとでオランダ語と本草学を学んだそうです。2回目は16年後の1768年。幕府からオランダ語の翻訳御用を命じられて来ました。このとき手に入れた摩擦起電器を復原したものが、あの「エレキテル」です。源内は長崎で出会った新しい知識や技術に、独自の発想と工夫を加え、多方面でその才能を発揮したのでした。  南畝が幕府の命で長崎へ来たのは、源内が亡くなってから5年後のことです。(源内は誤って人を殺傷し獄中で亡くなった)。南畝より30~50年も前に源内は長崎を訪れているのですが、それぞれの足跡をたどると、二人に通じるものがありました。唐通事の彭城(さかき)家です。彭城家は長崎の鳴滝に別宅がありました。当時の鳴滝は、川が流れる田園で風光明媚な地でありました。源内は彭城家別宅の食客、つまり居候の身であったとも伝えられています。  一方、南畝も彭城家と交友があったようで、別宅を訪れ、酒を飲んだと思われる漢詩を残しています。詠まれた内容は、残暑厳しいなか、鳴滝で涼しげな水音を聞き、彦山の上にある月に見送られながら、酒に酔い帰路に着いたというようなもの。南畝にとって20才も年上であった源内は、師でもありました。ほろ酔いの鳴滝からの帰り道、時代の先を見つめながらも不遇の死をとげた師に思いを馳せることもあったのではないでしょうか。  さて、コーヒーに話をもどすと、日本で初めてのコーヒーに関する記述は、蘭学者の志筑忠雄が1786年に著した訳書『萬国管窺』のなかにあり、「阿蘭陀の常に服するコッヒィというものは、形豆の如くなれども、実は木の実なり」と書かれているそうです。その後、コーヒーには薬効があるなどと記した書物も出ましたが、江戸時代は日本人の嗜好品として広まることはありませんでした。  1823年に来日したオランダ商館医シーボルトは、のちに長寿をもたらす良薬であるとして日本人にコーヒー勧める一文を書いています。彼は、長きに渡ってオランダ人と交流がありながら、まだ日本にコーヒーを飲む習慣がないことに驚いていたそうです。そういえば、長崎市鳴滝にある「シーボルト記念館」の常設展示品のなかにはシーボルトが愛用したというコーヒカップがありました。シーボルトはコーヒー好きだったのかもしれませんね。  ◎参考/大田南畝(浜田義一郎/吉川弘文館)、江戸時代館(小学館)     UCCホームページ「コーヒーの歴史」

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  • 第417号【狂歌師大田南畝と長崎】

     『長崎の山からいづる月はよか こんげん月はえっとなかばい』。江戸後期の狂歌師、蜀山人(しょくさんじん)こと大田南畝(1749-1823)が作ったと伝えられている狂歌です。長崎の方言をたくみに操ったこの歌、現代語訳だと「長崎の山から出る月は本当に美しい。このような月にはなかなかお目にかかれないものだ」といった感じでしょうか。冒頭の「長崎の山」が「彦山の上」に変わったものがあるなど変形したタイプの歌もいくつかあり、いまも長崎市民に親しまれています。  幕臣として働く一方で、狂歌や漢詩文、洒落本などで才能を発揮し、お江戸の粋な文化人として知られる大田南畝。本名は覃(ふかし)。通称は直次郎。大田南畝というのは号で、別号の四方赤良、四方山人、蜀山人などでも全国的に名を馳せた人物です。  生まれは江戸の牛込。父は幕臣で、将軍の乗り物の周囲を警護したりする御徒(おかち)という役目だったそうです。南畝は子供の頃から知識欲が旺盛で、たいへんな記憶力の持ち主であったとか。文人としては10代半ば過ぎから頭角あらわし、19才のときの狂詩集「寝惚先生文集」が評判に。江戸文壇の中心人物のひとりになっていきました。  しかし、幕臣であった南畝が多いにその文才を発揮したのは田沼時代(1767~1786)まで。松平定信が寛政の改革を行う頃になると文壇とは縁を切り、幕臣として再起をはかるために猛勉強します。そして、40代半ばで人材登用試験を受け首席合格。ちなみに、この試験をあの遠山の金さんの父、遠山金四郎景晋も受けていました。彼も優秀で目見得(将軍に直接お目通りが許される身分。旗本)以上での首席合格者だったそうです。(南畝は目見得以下の身分の中での首席)。  試験合格後、勘定所の役人として出世した南畝。数年後の文化元年(1804)、56才のとき長崎へ支配勘定として赴任を命じられます。当時、長崎は輸出入に関連して何かと懐が暖まる機会が多く、誰もが赴任したがったとか。それなのに南畝は、自分はけしてそんな小器用なマネはしない、といった心構えを歌に詠むほどバカ正直な面がありました。滑稽で、気の利いた言葉を使った狂歌などからは、のんきな人、風変わりな人と思われがちですが、実は常識人で、身分を超えて交流を持てる円満な人柄であったとも伝えられています。  長崎滞在は9月から翌年の10月までの約1年間。勤務先となる長崎奉行所立山役所そばにある岩原屋敷に宿泊しました。主な仕事は長崎会所の監察です。オランダ屋敷、唐人屋敷、倉庫などの巡視、積み荷の検査立ち会いなど、仕事内容は激務だったとか。南畝は勤勉な役人として職務にあたったようです。折しも南畝が長崎に来た頃にロシア使節も来航。長崎奉行らとともにレザーノフにも会っています。余談ですが、このとき遠山金四郎景晋も応接係目付として長崎に送り込まれています(景晋はのちに長崎奉行として再来訪)。  長崎で多くの珍しい人やモノと出会った南畝。狂歌師としての名声はむろん長崎にも届いていて、地元の文化人らとも交流を深めたようです。当時、親しく交流のあった中村李囿が建てたと伝えられる南畝の漢詩を刻んだ石碑が、現在も烽火山山頂付近と鳴滝(李囿の意志を継いだ有志が建立か?)に残されています。  南畝が江戸へ帰るとき、長崎土産として買い求めたのは主に中国の書物で、身内には反物類を選んだとか。『故郷へ飾る錦は一とせをヘルヘトワンの羽織一枚』。この歌は、帰路に着くときを詠んだもの。ヘルヘトワンとは当時の舶来織物の一種。南畝は異国が香る羽織にどんな思いを託したのでしょう。それから8年後、60代半ばになった南畝は中村李囿宛ての手紙に、「よい時分に在勤いたし」と長崎での日々について記したそうです。 本年もご愛読いただき、誠にありがとうございます。どうぞ、良い年をお迎えください。  ◎参考にした本/大田南畝(浜田義一郎/吉川弘文館)、長崎の文学(長崎県高校国語部会編)、江戸時代館(小学館)

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  • 第416号【地球の不思議発見!島原半島ジオサイト】

     島原半島のジオサイトをめぐる機会がありました。島原半島は2009年、日本国内で初めて世界ジオパークに認定・登録されたところです。ジオパークとは、科学的、文化的に貴重な地質や地形を持った自然公園のこと。ジオパークのなかでとくに観察や体験ができるスポットをジオサイトといいます。火山と人々が共生する島原半島には、太古の噴火の跡や雲仙・普賢岳の噴火災害の爪あと、そして火山がもたらす温泉や湧水などの自然の恵みなど、200カ所近くのジオサイトがあるそうです。  まずは、島原半島の最南端に位置する早崎半島へ。ここの海岸は、島原半島のなかでもっとも古い約430万年前の溶岩が見つかったところで、「島原半島のはじまり」といわれる場所です。早崎漁港近くに、その噴火口跡がありました。周囲には噴火によって飛んできたという青黒い玄武岩がゴロゴロと積み重なっています。目の前に広がるのは急な海流で知られる早崎瀬戸。海岸へ下りると玄武岩の溶岩に、荒波が生み出した模様が刻まれていました。  玄武岩だらけの波打ち際の一角に、赤い石が混じった地層がありました。これはマグマ水蒸気爆発によって焼けた堆積物だそうで、地層の様子から、激しい噴火活動が穏やかになったことが判るのだとか。マグマの通り道だったというところもあり、地球のダイナミックな活動を肌で感じます。同時に、人間の想像をはるかに超える地球時間の壮大さに圧倒されるのでした。ところで、この海岸そばの畑は赤土でした。これは玄武岩が風化してできた土で鉄分を多く含んでいるのだとか。おいしいジャガイモ作りに適した土だそうです。  早崎半島から国道を加津佐方面へ走ると、海沿いに両子岩(ふたごいわ)が見えてきます。この岩の俗称は「岸信介岩」。下唇にあたる部分が今年9月の台風で崩れ落ちてしまったそうですが、よく似ています。この岩は大昔に安山岩の土石流でできたもの。波の浸食で偶然に人面をかたどったのです。近くの海岸に下りると、色とりどりの小石が周囲を敷き詰めていました。その多くはチャート(微生物が沈んでできた岩石)とよばれる石。もともと海底にあった岩石が押し上げられたものだそうで、よく見ると緑や赤などさまざまな色合いの小石がありました。大昔、火山活動などで大きく変動した陸地。この近くの地層からは約150万年前は、島原半島付近は大陸と陸続きだったことの証しとなる脊椎動物の化石がたくさん出土しているそうです。  島原半島をさらに北上して国崎半島の付け根にある漁港へ。恵比寿様が祀られたその先の海沿いの遊歩道をいくと約130万年前の噴火による輝石安山岩の土石流がたまったものだという地層がありました。この安山岩は橘湾をはさみ13km先の北東に位置する有喜(うき)という地域で見られる安山岩と同じだとか。もしかしたら橘湾がなかった頃は、ひとつの大きな火山だったかもしれないと考える学者もいます。また、橘湾沿いの海岸線を走ると、海に面して切り立ったような地形が何カ所か見られますが、これは海底火山の力が加わったことで、絶壁の先にあった地形が海に沈みこんだものと考えられています。  島原半島のジオサイトは、ほかにも平成新山、島原の湧水、小浜温泉、雲仙温泉、そして唐子の湿地帯など見どころは尽きません。太古の地球に触れると、自然の偉大さ、ありがたさを感じずにはいられません。ぜひ、お出かけください。   ◎参考にした本/長崎游学マップ7~島原半島ジオパークをひと筆書きで一周する~

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  • 第415号【懐かしい味わいのご飯】

     70代の知り合いの女性から手作りの干し柿をいただきました。実家が農家で、庭に大きな柿の古樹があり、毎年たくさんの実をつけるとか。今年は500個近く実り、お孫さんらと一緒にせっせと皮をむき、紐を結び付けて軒下に吊す作業を繰り返したそうです。その方にとって干し柿作りは秋の恒例行事。素朴で懐かしい味が好まれ、お裾分けを楽しみにしている人が何人もいるようです。たくさんいただいたので、何個かは柿なますにしました。旬の美味に感謝です。  北風が郷愁を誘うのか、いま頃の季節は干し柿のようにどこか懐かしさを感じるご飯が無性に食べたくなります。たとえば、「零余子(むかご)ご飯」。「零余子」とは山イモ(ジネンジョ、長イモ、ツクネイモなど)の葉腋にできる緑褐色の粒のことです。子どもの頃、野山でツルにいっぱいなっている零余子を摘んで帰り、炒ったり、蒸したりして食べた記憶のある方もいらっしゃることでしょう。  零余子が店頭に出回るのは秋のほんの短い期間です。見かけたときに買い求めないと、食べ損ねてしまう年もあります。先日、長崎の市場で青森産の零余子が売られていました。八百屋の女将さんによると「青森産のほうがおいしいと言うお客さんがいるのよ。あちらは山イモの主産地だから、零余子もうまいのかもね」とのこと。  イモ類を炊き込んだご飯も懐かしさを感じます。島原地方の農家では、サツマイモ、アワ、米の三種類を混ぜて炊いた「三品飯(さんちんめし)」を、農作業がひと区切りつくごとに食べていたそうです。また、佐世保の農家に育ったある方は、サトイモを収穫するとゴボウを一緒に炊き込んだご飯を必ず作っていたそうで、秋になると思い出すという方もいらっしゃいました。  かんころもちで知られる五島には、「かんころ飯」というご飯もあります。かんころもちの原料になる干しイモをお米と一緒に炊き込んだもので、お米が貴重な時代にはそうやってご飯の量を増やしたという話です。  さて、長崎あたりでは「ササゲ」も秋の一時期に出回ります。見た目も栄養価も用いられ方もアズキとあまり変わりません。ただ、アズキより皮が破れにくく崩れないので、餡やぜんざいにするより、赤飯などにしていただくほうがいいようです。「ササゲ」好きのある方は、出回る時季は店頭を日々チェックして見逃さないようにしているとか。お米と一緒に炊くと、ご飯がほんのりとピンク色になるところが良く、アズキとは微妙に違う食感を楽しむそうです。   長崎県の北に位置する対馬地方には、アズキを使った「かけならちゃ」というちょっと変わった名前の郷土料理があります。ゆでたアズキをごはんにかけていただくもので、折々のハレの膳に用いられてきました。お椀に盛られた様子はどこか京風な感じ。もしかしたら対馬独自の歴史に由来するのかもしれません。いまでは郷土の味を子どもたちに伝えようと地域の学校給食にも出されているとか。昔懐かしのご飯は、地域の農作物や歴史をあらためて見直すいい機会でもあるようです。

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  • 第414号【まごころで、温まろう】

     急に寒くなりました。街路樹の落ち葉が日に日に増えて、長崎にも初冬の気配。まわりでは気温の変化に付いていけず、風邪をひいたり、ちょっと体調をくずしたりした人がちらほら。あなたは大丈夫ですか?  風邪気味のとき、玉子酒や葛湯などで身体を温める方も多いはず。ある60代の女性は、「子どもの頃は父が玉子酒を作ってくれたの。ふだんは台所に立たないのに、それだけはなぜか、父の役目だったのよね」と言います。よくよく話をうかがうと、お父さまはもともとお酒が好きな方だったよう。女性はいまになって、「ああ、だから父が作っていたのね!」と気付いたのでした。風邪気味の子を心配しながら、ちゃっかりお酒を愉しんだ亡き父。半世紀以上も経って、そのことに気付く娘さん。思わず笑みがこぼれます。  この時季、ちょっと食欲がなくてもムリなく口にできて、身体をやさしく温めてくれる長崎の郷土料理といえば、ヒカドでしょうか。その名は、食材をこまかく切ることを意味するポルトガル語の「Picado」からきたものです。まぐろ(またはぶり)と、だいこん、にんじん、さつまいもなどの野菜を煮た料理で、すべての具材は火が通りやすくて食べやすい、さいの目に切ります。だし汁は具材から出るうま味を、塩、酒、薄口醤油で整えただけのあっさりとしたもの。ほどよいトロミがあって(おろしたさつまいもを加えるため)、のどを通りやすい。和洋風な長崎シチュウです。  玉子酒も、ヒカドも、相手を気遣う作り手のやさしさがしみじみ感じられる料理ですが、この冬みろくやからも、そんな思いで作った商品が新しく登場しました。その名も「まごころちゃんぽん」。野菜や魚介類などの具材がたっぷりで、これまでのちゃんぽんと同じような食べ応えがありながら、カロリーは約半分の247kcal。食物繊維もしっかりとれて、もちろん、おいしいのです。  控えめのカロリーとおいしさの秘密は特製の和風スープにあります。「ちゃんぽんらしい」おいしさをつくるのに不可欠といわれる高カロリーな動物性脂肪(ラードや豚肉など)の材料をギリギリまで押さえつつ、かつおをベースに数種類の魚介類のエキスをあれこれ組み合わせて試作を重ねました。商品開発室の中華鍋は使い込まれ、試行錯誤の跡を残すかのように黒光りが増していきました。そうして、生まれた新しい和風スープ。「ちゃんぽんらしい」おいしさのある、やさしくて滋味あふれる味わいです。  「まごころちゃんぽん」開発のきっかけは、お客さまの声にありました。高齢で食が細くなった方、病気などでカロリー制限のある方、そしてダイエット中の方々などから、「これまでのちゃんぽんを食べたくても食べられない」というような声が多く聞かれ、それに何とか応えたいという思いからはじまったのです。   「まごころちゃんぽん」は調理も容易です。このちゃんぽんに込めたみろくやの思いがみなさまに伝わり、玉子酒やヒカドのように長く愛されますように。どうぞ、お召し上がりください。※まごころちゃんぽんは販売終了いたしました。

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  • 第413号【稲佐山のふもとのまちを歩く】

     長崎港にそそぐ浦上川の河口に架かる旭大橋(あさひおおはし)。港湾のいちばん奥から長崎港を見渡せるこの橋は、観光客があまり知らないビュースポットのひとつです。橋上から港の沖をのぞむと、左手に長崎市の中心市街地で、江戸時代に出島を擁して発展したまちがあり、右手対岸には稲佐山のふもとのまちが連なっています。  旭大橋は1987年(昭和57)に開通。橋の東側は長崎駅にほど近く、市中心部から稲佐山方面へ抜けるときに利用されます。橋の途中から歩道が整備されていて5分足らずで対岸へ渡ることができます。  稲佐山側の橋のたもとは、かつて「志賀の波止場」と呼ばれところです。志賀とは庄屋の名前。江戸時代、稲佐山のふもとは浦上村渕(ふち)と呼ばれ、志賀家は代々この地の庄屋を勤めていました。「志賀の波止場」は、志賀家が支配していた海運業の船だまりだったところです。実はこの界隈、幕末・明治期はロシア艦隊が越冬するための停泊地でもありました。海岸近くにはロシア将校クラブや料亭などがあり、「ロシア村」と呼ばれるほどの賑わいだったそうです。いまでは海岸線は埋め立てられ、当時の面影はほとんど見られません。  「ロシア村」の繁栄を語るとき必ず登場するのが「稲佐のお栄さん」こと道永栄さんです。当時、この地でホテルを経営したことで知られています。天草生まれのお栄さんは美しい顔立ちの人で、社交的で気前のいい性格だったとか。はじめロシア将校クラブで働いていたところ、たちまちロシア人たちの人気の的に。その評判はロシアの宮廷にまで及んだそうです。お栄さんは、のちに高台にある烏岩神社(からすいわじんじゃ)のそばに木造平屋建てのホテルを建設。ここにはステッセル将軍(のちの日露戦争のときの旅順要塞司令官)をはじめロシアの高官たちが多く宿泊したそうです。  烏岩神社の参道の登り口には、「お栄さんの道」の碑が建てられています。曲がりくねりながら続く階段は300段以上。登りきるとお栄さんのホテルがあったと思われる付近に小さな公園がありました。対岸の南山手、東山手の旧居留地も遠くに見渡す景色はすばらしく、TVドラマのロケ地になったこともあるそうです。   烏岩神社から小さな谷をくだった先に、悟真寺(ごしんじ)があります。1598(慶長3)に開かれたこのお寺は唐人の菩提寺とされました。悟真寺の墓地は長崎に3つある国際墓地のひとつで、その墓域には唐人墓地、ロシア人墓地、オランダ人墓地があります。ロシア人墓地にはロシア正教の小さなチャペルがあり、往時を偲ばせます。庄屋志賀家のお墓もロシア人墓地の隣にありました。ちなみに幕末の頃の志賀家の当主親朋(ちかとも)は露語の通訳になり、ロシアにも留学。維新後はロシアとの外交交渉に通訳として関わったそうです。悟真寺の国際墓地は、稲佐の個性的な歴史をいまも静かに物語っています。

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  • 第412号【城下町・深堀を散策】

     澄みきった秋空のもとを歩けば、ご近所の風景も遠くの山もいつもよりくっきり見えます。まちに出て、あれこれと古きをたずね新しきを知りたくなるのは、季節のせいでしょうか。今回は深まる秋を感じながら、長崎市内で唯一、城下町の歴史を持つ深堀地区を散策しました。  「深堀」という地名は、鎌倉幕府の御家人で1255年にこの地に下ってきた深堀能仲(ふかほりよしなか)に由来します。能仲は、上総国深堀(かずさのくにふかほり/現・千葉県大原町)の人。承久の乱の手柄で、この地の地頭となったのでした。深堀地区は目の前に海、背後には緑豊かな山を擁した小さなまちです。ちなみに能仲の故郷である千葉県大原町も、太平洋に面した自然豊かなまち。初めてこの地にやってきたとき、その風景と重なったのではないかと想像します。  能仲以来、深堀家は代々この地を治め、のちに佐賀鍋島藩の重臣となり、深堀鍋島家に。江戸時代、佐賀藩は福岡藩と隔年で長崎警備を義務づけられていましたが、深堀領は地形的にも長崎港の入り口をおさえる位置にあり、警備の重要な拠点でありました。  深堀のまちなかを歩けば、車両の往来が少なくたいへん静か。深堀氏の居城があった「深堀陣屋跡」には、現在、カトリック系の幼稚園が建っていました。かつてはここを中心に城下町を形成。周囲には武家屋敷跡の石塀や側溝など、旧藩時代の風情があちらこちらに残っていました。幕府直轄領だった長崎とは違う雰囲気を実感します。  まちを少し山手の方に歩くと、「金谷山菩提寺」がありました。能仲が下ってきた年に建立したお寺です。能仲はもともと関東の三浦氏の一族。この地に来て深堀姓になる前は三浦姓を名乗っていました。山号の金谷山は、三浦氏発生の地である相模国三浦荘金谷(現・横須賀市金谷町)に因んだもの。故郷の地名や一族発祥の地名を新たな土地にも刻んだ能仲。はるばる西国にやってきた心情がうかがえるようでもあります。  金谷山菩提寺には、「長崎喧嘩騒動」に関わり処分を受けた「深堀義士の墓」があります。「長崎喧嘩騒動」とは、元禄13年に深堀の武士らが長崎で起こした事件で、いわば上司の仇を部下が討つという話です。江戸城殿中で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶという事件が起きたのは、その翌年のこと。地元ではこの「長崎喧嘩騒動」が赤穂事件になぞらえたりします。いずれの事件も武士のメンツがどんなものであったかを垣間みることができます。  まちなかには、海辺のまちらしく、きれいに彩色された恵比寿様が往来する人々を見守っていました。その色使いは派手だけどどこか素朴で、なぜか古賀人形を彷彿させます。   今回、深堀の鎌倉時代以降の歴史にふれましたが、実は縄文時代の遺構も各所から出土。自然に寄り添って生きた原始時代の人々が生活の拠点とした深堀には、まだまだ知られざる歴史が潜んでいそうです。

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  • 第411号【もうすぐ、長崎くんちです】

     秋の味覚、ナシがおいしそうに店頭に並んでいます。「ナシはリンゴ酸やクエン酸を含み、疲労回復に役立つのよ。夏の疲れが出るこの時期に食べるのは、理にかなったことなの」と教えてくれたのは、料理教室の先生。旬の食材って、本当にありがたいものですね。  9月も終盤に入り、日に日に秋めくなか、日本は祭りのシーズンに突入。長崎も諏訪神社の大祭「長崎くんち」が10月7、8、9日に行われます。地元の60代、70代の方々に子どもの頃の「長崎くんち」についてうかがうと、当日は晴れ着や新しく買った洋服を着せられ、食卓には、ざくろなます、お煮染めが並んだとか。また、甘酒も専用のカメに必ず作ったそうです。  そんな「長崎くんち」の家庭料理には、「さらさ汁」というものもあります。豆腐、ちくわ、板付けかまぼこを具材とした白みそ仕立ての汁碗です。料理名は、江戸時代に輸入されていた文様柄の木綿布、「更紗」に由来するそうですが、なぜこの料理の名に転じたのか、詳しくはわかりませんでした。  さて、寛永11年(1634)にはじまった「長崎くんち」。奉納する演し物を担当する町は「踊り町」と呼ばれ、7年に1回その当番が巡ってきます。それぞれの町内で趣向を凝らした演し物は、各町の歴史を物語り、東洋と西洋が混在する長崎の歴史絵巻にふれるような魅力があります。  今年の「踊り町」は5カ町。町名(演し物)は次のとおりです。今博多町(本踊り)、魚の町(川船)、玉園町(獅子踊り)、江戸町(オランダ船)、籠町(龍踊り)。  今博多町の「本踊り」では、6羽の鶴に扮した踊り子たちが優雅に舞います。町内の小さな子どもたちも踊りに参加。本番に向け、夜、ゆかた姿で一生懸命稽古に励んでいました。  眼鏡橋がかかる中島川沿いに位置する魚の町。昔、魚市があったことに由来する町名です。奉納する演し物「川船」では、屈強な根引き衆による船回しが見どころのひとつ。また、子どもが扮した船頭による「網打ち」にも注目です。  玉園町の「獅子踊り」は、日本の獅子舞とはまた違った風貌の獅子が登場。江戸町の「オランダ船」は、鮮やかなブルーの船体が目を引きます。西洋楽器によるリズム(囃子)がいかにも長崎らしい。そして、籠町の「龍踊り」。辰年でもある今年、熟練の龍衆らによる迫力いっぱいの演技が今から楽しみです。   長崎くんちは、10月7、8、9日がメインイベントですが、実は10月3日の庭見世(にわみせ)も大事なくんち行事のひとつです。この日、夕方から夜10時くらいまで、それぞれの踊り町で本番に使う衣装や道具、お祝いの品々を披露します。長崎っ子たちは家族や友人、職場の仲間たちと踊り町を渡り歩きながら、くんち話に花を咲かせるのでした。

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  • 第410号【皿うどんサラダでアートにチャレンジ!】

     ずいぶん朝夕が過ごしやすくなりました。気持ちのいい涼風は、今年の猛暑を乗り越えたご褒美のようでもあります。でも、九州・長崎はまだまだ日中の残暑は厳しいです。北の地方では、ずいぶん暑さがおさまったようですね。季節の変わり目です。体調に気を付けてお過ごしください。  今回は先月末に行われた長崎県美術館でのワークショップ『「皿うどんサラダ」で皿うどんアートに挑戦!』の様子をご紹介します。これは、夏休み期間中に同美術館で開催された「メアリー・ブレア原画展」(2012年7月28日~9月2日迄)の関連イベントのひとつで、皿うどんサラダの麺と野菜を使って、親子で絵を描いてもらおうという催しです。   メアリー・ブレアは、アメリカのアーティストで、数々の名作アニメを世に送り出したディズニー・スタジオの草創期に活躍した女性です。「シンデレラ」、「不思議の国のアリス」などのコンセプト・アートのほか、ディズニーランドのアトラクションとして親しまれている「イッツ・ア・スモールワールド」のデザインを担当したことでも知られています。また、2人の息子に恵まれたメアリーは、母としての愛情を通してさらに創造性あふれる作品を残しました。その豊かな色彩感覚とデザインは、いまも多くのアーティストに影響を与えています。  そんなメアリーのようにカラフルで創造性豊かな作品をつくろうと、会場に集まった子どもたち。衛生のためのフィルムでくるんだ画板に、ピーマン、パプリカ、ブロッコリー、レタス、トマト、コーンなど、色鮮やかな野菜と麺を配しながら、絵を描いていきます。最初はとまどい気味の子も、すぐに夢中に。途中、麺や野菜をつまみぐいする子もいたりして、会場は、楽しくほほえましい空気に包まれました。  作品のテーマは自由。大好きな「お母さん」や「キャラクター」のほか、「花火大会」、「山」、「海」など家族とのこの夏の思い出などを、のびのびと仕上げていました。参加した子どもたちの感想は、「たいへんだったけど、面白かった!」(7才男子)、「がんばって良かった」(5才女子)、「家ではこんなことできないから、楽しかった」(11才女子)「少しむずしかったけど、またやってみたい」(5才男子)などなど。それぞれに楽しんでくれたようです。  それぞれの作品は、最後はちゃんと食べる、というのがこの催しの大切なポイントです。嫌いだったはずの野菜も、何度も手にとって親しみがわいたのか、「おいしそうに食べていますね」とお母さん。別のテーブルでは、ふだんは食べないというパセリを、パクパク食べている男の子の姿が印象的でした。  もともと、皿うどんサラダの麺は、子どもたちに野菜をいっぱい食べてほしいという思いから開発された商品です。パリパリの食感の麺と一緒に食べれば、きっと苦手だった野菜もおいしく食べてくれるはず。こうしたアートを通して、いろんな野菜、食材と触れ合うことは、現代の子どもたちにとって、食を知り、もっと親しむ大切なきっかけのひとつになるのかもしれません。  ◎取材協力/長崎県美術館、KTNテレビ長崎

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  • 第409号【長崎の精霊流し】

     先週はお盆で、久しぶりに里帰りしたという方もいらっしゃることでしょう。長崎のまちも観光客の方々に、帰省した人々も加わっていつも以上の賑わいに。家族揃ってお墓参りする光景が、あちらこちらで見られました。  先祖の霊を迎えて供養するお盆。盆踊りや灯籠流しなど、各地にはいろいろな盆祭りがありますが、なかでも長崎は、その規模と豪華さで全国でも屈指の盆祭りだといわれています。  8月13、14、15日に行われる長崎のお盆で特徴的なもののひとつが、お墓参りの光景です。お墓の前には小さなスペースがあり、お参りに来た家族や親戚たちは、そこで爆竹を鳴らし、花火を楽しみます。また大人たちは静かに酒を酌み交わすなどして、亡き人と一緒に和やかなひとときを過ごすのです。  そして、長崎のお盆を全国的に知らしめているのが、お盆最終日に行われる「精霊流し」です。故人の霊を船に乗せ、西方浄土へ送るという意味を持つ行事ですが、その盛大さ、賑やかさは目を見張るものがあります。   300年以上の伝統がある長崎の「精霊流し」。長崎の郷土史家、越中哲也氏(長崎歴史文化協会理事長)によると、1596年頃、キリシタンのまちだった長崎に、まず浄土宗のお寺が入り(その後まもなく、キリスト教は禁教令が出される)、「浄土には船に乗っていくのがいい」という浄土宗の考えから、「精霊流し」がはじまったといいます。また、現在の「精霊流し」は爆竹や花火でたいへん賑やかなのですが、その昔は、しめやかなもので、男衆が船を担ぎ、ゆっくりと流し場へ向かったそうです。江戸時代後期の画家でシーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀が描いた精霊流しの絵からも、そうした光景が伝わってきます。  さて、この1年間で亡くなられた方の霊を乗せる精霊船。その大きさは、両腕で抱えられるくらいの藁船(わらぶね)から、十数メートルはある木製の大船までさまざまです。船上には遺影のほか故人にゆかりのものが飾られ、一隻ごとに個性が見られます。また精霊船には町内で出す、もやい船もあります。最近では、小型トラックを使ってもやい船を出すところも増えてきました。「もやい船は10人から20人の引き手が必要。いまは、その人数がなかなか揃わないので、トラックで出すんです」と、ある町の世話役の方が残念そうにおっしゃっていました。  地元の女性(70代)は、「精霊流し」がはじまると、必ず沿道に出て一隻、一隻、どこの家から船が出ているかを確認するとか。というのも、この行事を通じて、知人が亡くなったことを知ることも少なくないからだそうです。   今年の長崎の「精霊流し」は、3,500隻以上の船がまちをねり歩きました。爆竹と花火、カネの音、そして「ドーイドイ」という掛け声が響くなか、故人への思いを乗せた船は、大勢の沿道の人々に見守られながら西方浄土へ送られたのです。

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  • 第408号【夏にうれしい、皿うどんサラダ】

     残暑お見舞い申し上げます。この夏も長崎の港では伝統のペーロン選手権大会が行われました。炎天下、ドラの音が響くなか懸命に櫂をさばく選手たち。勇壮さに感動しながら、ふと岸壁の一角に目をやると、満開のコスモスが風に揺れていました。海上の熱戦をやさしく涼しげな表情で見守るその姿。すでに季節は次へと向かっているのでした。  とはいえ、まだまだ暑さは続きます。陽がジリジリ照りつけるお昼どきなどは、なるべくガスも電気も使わずにササッと食事を作りたいものです。そんなときにおすすめなのが、パリパリの皿うどん麺に好みの具材をのせていただく「皿うどんサラダ」です。  旬の野菜をはじめお豆腐などの大豆加工品、チーズなどの乳製品、海藻や野菜の乾物、魚介類の缶詰などをうまく組み合わせれば、夏バテ防止につながる栄養バランスのとれたオリジナルな一品が作れます。  たとえば、ボウルにトマト、パセリ、クリームチーズ、ピーナツを適宜刻んで入れ、好みのドレッシングで混ぜておきます。お皿にホウレンソウなどを敷き、その上に「皿うどんサラダ」の麺をほぐしてのせます。そこに、ボウルに混ぜておいたものをトッピングして出来上がりです。  ちなみにトマト、パセリ、ホウレンソウ、ピーナツは、長崎ゆかりの食材です。南米アンデスが原産地のトマトは、江戸時代にオランダ船がはじめて日本に運んできました。当時は赤茄子、唐柿とも呼ばれ、いまのように甘いトマトではなかったようです。地中海原産のパセリも17世紀にオランダ船が運んできたもの。ホウレンソウとピーナツ(落花生)は、江戸時代に唐船が運んできたのが最初と言われています。  さて、具材の組み合わせ次第でいろいろなおいしさが楽しめる「皿うどんサラダ」をもう一品。アボガドとキュウリを合えたものをトッピング。敷き野菜には、水菜、コーン(とうもろこし)、キャベツを使ってみました。このメニューでは、南蛮貿易時代にポルトガル船が運んで来たコーンと、オランダ船で渡ってきたキャベツが長崎ゆかりの食材です。  「皿うどんサラダ」をよりおいしくいただくコツは、具材を一口大よりも少し小さめに刻むこと。パリパリの麺とよく絡み食べやすくなります。手前味噌になりますが、我が社の「皿うどんサラダ」の麺はあっさりとしたパリパリの細麺で、具材やドレッシングの味がひきたちます。また、添付の白ごまドレッシングもぜひお試しください。  口の中でパリパリと麺を噛みくだく音は、心地よい刺激となって食欲をそそります。この夏、好きな食材を盛り合わせて、オリジナルの「皿うどんサラダ」を作ってみませんか。   ◎参考にした本/たべもの語源辞典(清水桂一 編/東京堂出版)、ながさきことはじめ(長崎文献社 編)

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  • 第407号【涼を求めて中の茶屋へ】

     梅雨が明け、暑さもひとしお。外出時はついつい建物や木の影を探しながら歩いてしまいますね。身も心も涼を求めるこの季節。眼鏡橋などの石橋群が架かる中島川にいくと、気持ち良さげに泳ぐコイや、水面でエサを採る青サギ、コサギ、ゴイサギの姿が見られます。そこは、まちのなかの小さな自然界。暑さや喧噪をよそに、涼やかな景色が楽しめます。  いま夏休み中とあって涼を楽しむレジャー&観光スポットは、どこも子供たちでいっぱいです。長崎観光で心静まる大人の涼を楽しみたいという方は、かつての丸山花街の一角にある「中の茶屋」を訪れてみませんか。洗練された数寄屋風の住宅と江戸時代中期に築かれたという小さな庭園のあるところで、和やかなひとときを過ごすことができます。  「中の茶屋」は江戸時代の丸山の遊女屋「中の筑後屋」が、裏手の高台に茶屋として設けたもの。当時は「花月楼」と並び知られ、多くの文人墨客が訪れたと伝えられています。長崎奉行も市中を巡検する際には休憩所として指定していたとか。ちなみに「中の茶屋」のお隣には丸山の芸者衆が参拝していた梅園天満宮があります。この界隈は石畳の路地や石塀、飾り格子のある家屋など、あちらこちらで遊郭時代の名残りを見ることができます。  「中の茶屋」の現在の建物は、昭和46年に近所で起きた火災により全焼。のちに火災前の家屋が復元されたものです。江戸時代の茶屋の建物についてはよくわかりませんが、復元された玄関の広さ、炉がきられた奥座敷、次の間、広い縁側などから、茶屋として利用された時代の雰囲気が感じられます。冷房の効いた和室から縁側のガラス越しに見る庭園の涼しげなこと。各地に残される大名庭園とは違い、ある意味、名もなき小規模な庭園ですが、江戸期から続く景色かと思うと感慨深いものがあります。  松、梅、桜、サツキ、柿など四季折々に楽しめる植栽。敷石、飛び石、石灯籠、手水鉢など長崎では珍しく純和風な趣きです。江戸時代、庭園造りは全国的にブームになったと聞いたことがありますが、中の茶屋の庭園は、幕末・明治期に入ってくる西洋庭園の影響を受けていない庭園といえるのかもしれません。  現在、「中の茶屋」は「清水崑展示館」にもなっていて、昭和の時代の懐かしいかっぱの絵も楽しむことができます。  さて、中の茶屋から徒歩で3、4分ほどのところには「玉泉神社」があります。軒周辺の装飾には中国の影響と思われる極彩色の龍や獅子が彫られるなど、神社らしからぬ雰囲気を漂わせています。「玉泉神社」はもとは天台宗・聖護院の末寺だったそうで、のちにこの地に祀られていた稲荷社と合祀されたとか。中国風の飾りの由来については不明ですが、もしかしたら江戸時代、唐船主からの寄進によるものかもしれません。それにしても、いかにも長崎らしい神仏混合的な姿でありました。   ◎参考にした資料や本など/長崎市中の茶屋(リーフレット)、長崎市史~地誌・佛寺部(下)編~、よくわかる日本庭園の見方(JTBパブリッシング)

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  • 第406号【ごま豆腐と呉豆腐】

     久しぶりに「ごま豆腐」を作りました。精進料理を代表する「ごま豆腐」は、少し手間ひまのかかる料理です。ごまを炒り、すり鉢で油が出るまですって、水を加えて布で漉す。だし汁、葛粉を加えよく混ぜて20~30分ほど火にかけ練りあげてから、流し箱に入れて固めます。この作業を家庭で一からやるのはしんどい。ですので、もっぱら市販されている練り胡麻を使います。ごまを炒ったり、すったりの作業が省かれ手軽に作れます。  長崎ではお盆に欠かせない「ごま豆腐」。長崎や佐賀などの一部の地域、つまり江戸時代でいう「肥前」エリア内では、「ごま豆腐」が郷土の伝統食ともいえる位置づけにある地域もあります。「肥前」と「ごま豆腐」には一体、どんなゆかりがあるのでしょう。探ってみると、話はいんげん豆を伝えた隠元禅師にまで遡りました。  中国は明の時代の高僧・隠元禅師は、1654年7月、長崎に上陸。興福寺(長崎市寺町)に入り、約1年間を過ごしました。(のちに京都へ移り、「黄檗山萬福寺」を創建)。その隠元禅師が、長崎在住時に伝えたもののひとつに「普茶料理(ふちゃりょうり)」があります。この料理は、精進料理の中でも、中国の建築や儀礼作法をそのまま日本に取り入れた黄檗宗の料理とも言われるものです。たとえば、他の禅宗寺院の精進料理では、一人ひとりに膳が出されますが、普茶料理は円卓に数人が座し、一つの器に盛られた料理を皆で分け合って食すというスタイルです。一説には、この食事作法が長崎の卓袱料理の形式に受け継がれとも言われています。ちなみに普茶とは、「普く茶を施す」ということ。上下の関係なく和気あいあいと食事をいただくという意味合いも含まれているそうです。  隠元禅師が伝えた卓袱式(中国様式)精進料理、「普茶料理」。黄檗宗では「ごま豆腐」は「蔴腐(マフ)」と中国読みするそうですが、いまでも長崎ではお年寄りや卓袱に慣れ親しんだ方などは「ごま豆腐」ではなく「マフ」と言います。江戸時代、長崎を訪れたある人は、宿泊した乙名の家で卓袱料理のもてなしを受けたとか。また、とある名古屋の豪商は、長崎の両替商の家で卓袱料理を食べ、そのときの献立の中に「ごま豆腐」があったことを記しています。「ごま豆腐」はそんなふうにして、しだいに長崎そして近隣エリアの庶民の食生活に広がり根付いていったのかもしれません。  ところで、長崎県でも島原や佐賀県の有田などでは「呉豆腐」と呼ばれるものがあります。豆乳をでんぷんで固めたもので、ニガリで固める豆腐とは違い、もっちりしています。「呉豆腐」は材料、作り方、食感など「ごま豆腐」の兄弟みたいなものです。砂糖も少し入るので、デザート感覚でいただけます。また、かつて島原半島や天草などでは、自家製の落花生とサツマイモで作ったでんぷんを原料に「落花生豆腐」(これも呉豆腐の一種)を作るところもありました。当時はカボチャやスイカの種を干して粉にしたものを原料にした「呉豆腐」もあったとか。いずれも主に法事などの際に作っていたそうで、やはり、精進料理の流れをくんでいるからでしょうか。  ルーツを探れば、仏教やかつての人々の暮らしなど、いろいろな話につながっていく「ごま豆腐」。ま、何はともあれ、身体にもいいので、ぜひ、ご賞味ください。    ◎参考にした本など/日本の食生活禅宗42~聞き書き・長崎の食事~(農文協)、長崎卓袱料理(長崎インカラー)、長崎町人誌・第三巻さまざまのくらし編・食の部(長崎文献社)

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  • 第405号【永井隆博士の足跡をたずねる】

     梅雨も後半に入りました。河川の氾濫やがけ崩れなど、この時期に多い災害には十分気を付けてお過ごしください。それにしても、待ち遠しいのは梅雨明けとロンドンオリンピックですね。今年の夏はアツアツの熱戦で幕開けです!  さて先日、永井隆博士の生き方に感銘を受けたという女性(70代)とともに、長崎市浦上地区に残る永井博士の足跡を訪ねました。「博士が生きた浦上の地に立ち、その空気を肌で感じたかった」と言うその女性は、東京の方。持病の足腰の痛みをおして実現させた念願の長崎の旅でした。  時を越え、人を動かす永井隆博士。いったい彼の何が、そうさせるのでしょう。博士は、1908年(明治41)島根県出身。努力型の勉強家で、松江高等学校を首席で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学。卒業後、同大で放射線医学を専攻。1934年(昭和9)軍医として満州事変に従軍。除隊後、長崎医大の物理的療法科(放射線医学)に復職します。その後、日中戦争に2年半従軍。無事帰還し、職場にもどると、博士は寝る間も惜しんで仕事に没頭します。その頃の日本では結核が流行っていて、毎日何百人ものレントゲン写真を撮って検査・診断を続けました。しかし、当時の不十分な医療環境や過労などが重なり、37才のとき「慢性骨髄性白血病」、「余命は3年」と宣告されたのでした。  博士のここまでの人生も波乱に満ちたものですが、実は、このあとから、のちに博士が世界的にその名を知らしめることになる人生がはじまります。余命3年の宣告を受けた2カ月後の8月9日、原爆投下中心地からわずか700mの医大医院で被爆。自ら大けがを負い、浦上の自宅(原爆投下中心地から約600m)にいた妻も失いながら、被災者の救護活動にあたります。まもなく浦上川の上流地域にある「三ツ山の木場」と呼ばれる山里へ移り、「長崎医科大学第11医療隊救護所」を開設しました。ここには、妻の緑さんの母が住む家があり、そこが救護活動の拠点となりました。博士の2人の子供たちも原爆投下の3日前からこの祖母のもとにいて難を逃れたのでした。  木場には、大勢の負傷者が避難していました。博士は頭の傷に布を巻き、木の杖をつきながら、朝から夜遅くまで近隣の山里を診療して回りました。そして、間もなく病床に伏します。周囲の援助で、浦上の自宅があったすぐそばに木造の小さな家屋が建てられました。その家に博士は「己の如く隣人を愛せよ」の言葉から「如己堂(にょこどう)」と名付け、2人の子供たちと生活。『長崎の鐘』『この子を残して』など十数冊の本を執筆。命の大切さや隣人愛を説き、世界中に平和の尊さを発信し続けました。そして原爆投下から6年後、43才で永眠。余命3年と言われていましたが、さらに3年を生き抜いたのでした。  東京の女性は、1日だけという限られた時間のなか、博士がカトリックの洗礼を受けるために通った「浦上天主堂」、被爆直後に救護活動にあたった医大医院そばの「ぐびろが丘」、そして「如己堂」、「長崎市永井隆記念館」などを巡りました。それぞれの場所で、めいっぱい在りし日の博士に思いを馳せた彼女は「博士の残したメッセージを後世に伝えなければなりませんね」と話し、翌日名残惜しそうに帰路についたのでした。  ◎参考にした本/「永井隆~長崎の原爆に直撃された放射線専門医師」(永井誠一 著)、「永井隆~平和を祈り愛に生きた医師~」(中井俊己 著)

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