第412号【城下町・深堀を散策】

 澄みきった秋空のもとを歩けば、ご近所の風景も遠くの山もいつもよりくっきり見えます。まちに出て、あれこれと古きをたずね新しきを知りたくなるのは、季節のせいでしょうか。今回は深まる秋を感じながら、長崎市内で唯一、城下町の歴史を持つ深堀地区を散策しました。



 

 「深堀」という地名は、鎌倉幕府の御家人で1255年にこの地に下ってきた深堀能仲(ふかほりよしなか)に由来します。能仲は、上総国深堀(かずさのくにふかほり/現・千葉県大原町)の人。承久の乱の手柄で、この地の地頭となったのでした。深堀地区は目の前に海、背後には緑豊かな山を擁した小さなまちです。ちなみに能仲の故郷である千葉県大原町も、太平洋に面した自然豊かなまち。初めてこの地にやってきたとき、その風景と重なったのではないかと想像します。



 

 能仲以来、深堀家は代々この地を治め、のちに佐賀鍋島藩の重臣となり、深堀鍋島家に。江戸時代、佐賀藩は福岡藩と隔年で長崎警備を義務づけられていましたが、深堀領は地形的にも長崎港の入り口をおさえる位置にあり、警備の重要な拠点でありました。

 

 深堀のまちなかを歩けば、車両の往来が少なくたいへん静か。深堀氏の居城があった「深堀陣屋跡」には、現在、カトリック系の幼稚園が建っていました。かつてはここを中心に城下町を形成。周囲には武家屋敷跡の石塀や側溝など、旧藩時代の風情があちらこちらに残っていました。幕府直轄領だった長崎とは違う雰囲気を実感します。



 

 まちを少し山手の方に歩くと、「金谷山菩提寺」がありました。能仲が下ってきた年に建立したお寺です。能仲はもともと関東の三浦氏の一族。この地に来て深堀姓になる前は三浦姓を名乗っていました。山号の金谷山は、三浦氏発生の地である相模国三浦荘金谷(現・横須賀市金谷町)に因んだもの。故郷の地名や一族発祥の地名を新たな土地にも刻んだ能仲。はるばる西国にやってきた心情がうかがえるようでもあります。



 

 金谷山菩提寺には、「長崎喧嘩騒動」に関わり処分を受けた「深堀義士の墓」があります。「長崎喧嘩騒動」とは、元禄13年に深堀の武士らが長崎で起こした事件で、いわば上司の仇を部下が討つという話です。江戸城殿中で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶという事件が起きたのは、その翌年のこと。地元ではこの「長崎喧嘩騒動」が赤穂事件になぞらえたりします。いずれの事件も武士のメンツがどんなものであったかを垣間みることができます。



 

 まちなかには、海辺のまちらしく、きれいに彩色された恵比寿様が往来する人々を見守っていました。その色使いは派手だけどどこか素朴で、なぜか古賀人形を彷彿させます。



 

 今回、深堀の鎌倉時代以降の歴史にふれましたが、実は縄文時代の遺構も各所から出土。自然に寄り添って生きた原始時代の人々が生活の拠点とした深堀には、まだまだ知られざる歴史が潜んでいそうです。













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