ブログ

  • 第434号【雨の中国盆】

     竜巻や大雨の被害にあわれた地域の皆様方に心よりお見舞い申し上げます。しばらくは台風の発生も気になるところ。今後も気を付けてお過ごしください。  長崎でも数日大雨が続いた9月初めの夕方。雨がっぱ姿で寺町通りを抜け、長崎市鍛冶屋町にある唐寺「崇福寺(そうふくじ)」へ向かいました。この日は旧暦7月28日。3日間行われた「中国盆」の最終日です。「中国盆」は江戸時代から続く伝統祭事で、正式には「普度蘭盆勝会」といいます。期間中、全国各地から集まるという華僑の人々が崇福寺の祭壇で竹線香をあげ、静かに手を合わせます。日本のお盆とは違う独特の飾り付けや儀式をひと目見ようと見物客も大勢訪れます。                                    話がそれますが、崇福寺の山門をくぐる前に、近くにある浄土真宗のお寺、「大光寺」へ寄りました。実はこの日(新暦9月3日)は、日本の活版印刷の創始者として知られる本木昌造(もときしょうぞう)の命日。大光寺にお墓があり、毎年、地元の印刷業関係者によって法要が営まれています。幕末、オランダ通詞だった本木は、明治になると日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」を発刊、製鉄の分野も関わるなど激動と混乱の時代に多方面で活躍しました。本殿裏手にある本木家のお墓には、すでに何人もの参拝者が訪れたらしく、線香の匂いが漂っていました。  大光寺から徒歩1分の崇福寺へ。朱色の門をくぐると参道階段の頭上を覆うように真っ赤なランタンが飾られていました。その階段をのぼれば、だんだん現世から離れていくような不思議な感じ。出迎えた「第一峰門」(国宝)前にも赤いろうそくが灯され、お盆のしつらえ。どこもかしこも精霊を迎えるために整えられた崇福寺は雨に濡れ、いつも以上に幻想的な雰囲気に包まれていました。  先祖の霊はもちろん、ご縁の有る無しに関わらず、亡くなったすべての人々の精霊が極楽浄土へ行けるように供養するという中国盆。崇福寺内には、大小いくつもの祭壇が設けられていました。雨の中、順々に参拝して回る華僑の人々。ときおり、「久しぶり!」「元気だった?」という声が聞こえてきます。この祭事のときにしか会えない知り合いもいるとのことです。  白飯、キクラゲ、寒天、高野豆腐など、十数種類の精進料理が白いお皿にズラリと並べられたお供え物は圧巻。唐寺の軒下で極彩色の光景を眺めていると、ときどき竹線香やジャスミンに似た甘い香りを風が運んできます。お坊さんたちの歌うような読経にも何となくうっとりしてしまい、時間を忘れてしまいそうです。   最終日の夜は例年なら中国獅子舞が奉納されるのですが、雨のため中止に。でも、お供えの「金山・銀山」を燃やす供養は行われました。狭い境内の一角で、盛大に燃やされ、天にのぼるその煙とともに精霊たちは極楽浄土へ送り出されるのでしょう。すべてが燃え尽きたところで、長崎市の消防団がすみやかに放水に取りかかります。雨で十分に濡れていても、念には念を入れ鎮火するのです。この消防団の現実感あふれる勇姿によって、毎回、中国盆の幻想的な世界から、ようやく抜け出た気分になるのでした。

    もっと読む
  • 第433号【長崎まちなかネイチャーガイド(チョウや鳥)】

     今年の夏の暑さには、本当にまいってしまいますね。皆さんはいかがお過ごしですか?食も細くなりがちですが、冷し中華なら野菜や肉類など好みの具材を盛ってツルツルッといただけるのでおすすめです。栄養バランスのよい食事をとって、夏バテしないようにしてください。  さて夏休みももうすぐ終わり。長崎のまちなかを流れる中島川界隈では、今年も昆虫採集などをしている子どもたちをよく見かけました。川は子どもたちにとって絶好のネイチャースポット。魚類はもちろん、昆虫や鳥類などいろんな生き物とふれあうことができます。  ある日、河原で子どもたちが追いかけていたのはアゲハチョウ。夏場は特にいろいろな種類が飛んでいますが、「キアゲハ」、「クロアゲハ」などよく見かけるタイプから、南方からはるばる海を渡ってくる「アサギマダラ」ではないかと思われるものも見かけます。  また、「クロアゲハ」に似た「ナガサキアゲハ」という種類もいます。「ナガサキアゲハ」は、江戸時代にシーボルトが名付けたもの。本州西部から九州・沖縄にかけて分布し、オスは黒地にブルー、メスは黒地にイエローの紋様が入ったきれいなチョウです。赤い花を好むのでハイビスカスの蜜を吸っているチョウがいたら、それが「ナガサキアゲハ」かもしれません。   カワセミに似たきれいなブルーグリーンの太い線が入ったチョウは「アオスジアゲハ」です。中島川にかかる石橋のひとつ「一覧橋」(光永寺そば)付近でよく見かけました。橋のたもとには大きなクスノキがあるのですが、この葉を「アオスジアゲハ」が好んで食べるのだそうです。  中島川付近でお馴染みの鳥類は、カワラバト、スズメ、ムクドリ、アオサギ、シラサギ、そしてカワセミやキセイレイ、ハクセキレイなど。しかし8月に入ると猛暑を逃れたのか、ムクドリやカワセミとなかなか出会うことができません。スズメたちは、真冬には丸くふくれていますが、いまはスマートな姿。甲羅干し中のカメたちは、この暑さにのびてしまっていました。  中島川がそそぐ長崎港界隈では、頭から背にかけて青くお腹がレンガ色をしたイソヒヨドリをよく見かけます。また、上流の森林の多い地域にいくと、「デデーポオポオ」と鳴く「キジバト」や「ツツピー、ツツピー」と鳴く「ヤマガラ」などとも気軽に出会えます。  目を凝らし、耳を澄ませば、まちなかにも小さな自然がたくましく息づいている長崎。あなたのまちでも、探してみませんか。  ◎参考にした本/生きもの出会い図鑑~日本のチョウ(学研)、野鳥博士入門(全国農村教育協会)

    もっと読む
  • 第432号【江戸時代に思いを馳せるお墓参り】

     ご先祖さまの御霊を迎えて供養するお盆。故郷に帰省して家族揃ってお墓参りに出かけている方も多いことでしょう。長崎のまちでも、そうした光景があちらこちらで見られます。お墓では、静かに祈りをささげ語り合う一方で、爆竹を鳴らしたり、矢火矢をあげたりなど賑やかなことも行います。そして明日15日は「精霊流し」。江戸時代から伝承される長崎の「精霊流し」は、爆竹を激しく鳴らしながら船を引いていきます。それは、まるで一夜の夢のような盛大さ。哀しみは爆竹の音とともに空に紛れていくのでした。  さて、江戸時代、諸国から大勢の人々が訪れた長崎。当時の旅は、徒歩が基本。成人男性で1日10里(40km)ほど歩いたと言われています。当時は、身体をこわして旅先で亡くなる人も少なくなかったとか。かつての街道沿いには、そんな人たちが葬られた墓石(塚)が数多く残されています。  長崎の本河内(ほんごうち)という地域には、かつての街道沿いに、長崎で客死した将棋指しのお墓があります。墓石には、「六段上手・大橋宗銀居士」とあり、東武(武蔵国)出身で、天保10年(1839)11月23日に亡くなったと刻まれています。ちなみに、お江戸で幕府が援助した将棋の初代家元が「大橋宗桂」。「大橋」という名と、「宗」の字がある宗銀さんは、どうやら将棋の師匠だったようです。将棋は、江戸時代後期には地方の庶民にも広まり将棋所などもあったとか。宗銀さんは長崎で指導したり、地元の名士と盤上の闘いを繰り広げたりしたのかもしれません。  宗銀さんのお墓から街道沿いを少し下ると、「碁盤の墓」とも呼ばれる「南京房義圓」という人物のお墓もあります。中国出身の棋士の名人だったそうで、墓石の蓮華座下の台石が碁盤型をしています。また花筒が碁石入れ(碁け)の形です。亡き人を惜しむ江戸時代の人々の心が伝わるようです。  本河内の街道沿いあるお寺の墓域内には、大関丸山権太左衛門(宮城出身)、雲早山森之助(熊本出身)など、江戸時代に亡くなった「力士の墓」があります。当時、各地には力士集団があり、勧進興行が行われていたとか。長崎にもそうした力士が巡業していたようです。ちなみに丸山権太左衛門は、身長197㎝、体重は161kgもある巨漢。長崎の大徳寺(別説では丸山の梅園芝居所)での興行中に病にかかり、亡くなったそうです。  この時代に長崎を訪れた人物として紹介されるのは、西洋の知識を得ようとした学者や諸藩の武士の名前があげられがちですが、棋士や力士など江戸時代の庶民文化を支えた人たちも大勢訪れて、長崎を賑やかにしていたようです。  最後に、禁教令が敷かれたこの時代を物語るお墓をご紹介します。長崎市三ツ山地区で見かけた隠れキリシタンを葬ったと思われる複数のお墓です。大村藩と隣接するこの地区には、伊達政宗が1613年に派遣した遣欧使節に随行した人物も迫害を逃れて隠れ住んだと伝えられています。その墓石は表面がほぼ平らな自然石。いまでこそ十字架や小さなぐい呑みらしき器が墓石の上に置かれてますが、他の似たような石に紛れるようにして置いてあり、それがなかったらお墓とは気付きにくい。厳しい弾圧をくぐり抜けた信仰は、いまも子孫たちが守り受け継いでいます。      ●参考/『江戸の旅は道中を知るとこんなに面白い!』(菅野俊輔)、『江戸時代館』(小学館)

    もっと読む
  • 第431号【近代通信網のはじまり(郵便・電信)】

     長崎の路地裏を歩いていると、昭和の雰囲気を残す丸型ポストを見かけることがあります。鉄製のこのタイプは、戦後、物資が行き渡りはじめた頃の昭和24年から実用化されたもの。戦後の復興から現在に至るまで情報伝達の役割を果たしながら、ずっと私たちの暮らしを見守ってきたのですね。  ポストといえば、ちょっと珍しいタイプが長崎県庁そば(長崎市江戸町)に設置されています。「黒ポスト」と呼ばれる角柱型の郵便箱で、明治期に使用されたデザインを復元したもの。通常のポストと同様に利用されています。  日本の郵便制度が生まれたのは、明治4年(1871)3月1日(新暦4月20日)。まず東京 ・京都・大阪の3都市に現在の郵便局を意味する「郵便役所」と、その間を結ぶ東海道筋の各宿駅に「郵便取扱所(62カ所)」を設けスタートしました。同年12月には九州で最初の「郵便役所」が長崎につくられ、東京~長崎間の郵便線路が開通。このとき長崎~小倉を結ぶ長崎街道沿いに「郵便取扱所(16カ所)」が設けられ、郵便ネットワークは九州全域へと広がっていきました。  東京~長崎間の郵便線路は、東海道、山陽道、西海道の各宿駅を継ぎ渡していくもので、それまでの飛脚による所要時間が190時間ほどかかっていたのが、半分の95時間に短縮されたそうです。現在、「長崎郵便役所」があった場所(長崎市興善町)には、「長崎東京間郵便線路開通起点の跡」の碑が建てられています。  一方、電信の分野では、郵便制度スタートの同年にデンマーク系の大北電信会社が、長崎~上海間と長崎~ウラジオストック間に海底電線を開通させました。当時、世界の通信網のトレンドは海底電線で、その敷設によって世界をひとつにつなげようとしていたのです。さらに当時の先進諸国は、日本国内における海底電線敷設権をめぐって競争を展開。明治政府は、通信主権を守るため、自らの手で国内電信線の架設を試み、技術的にはイギリスの力を借りながらも郵便線路開設から2年後の明治6年に、東京~長崎間の電線を架設。東京から長崎・上海経由で、ヨーロッパ諸国へ電信を交わせるようになりました。  現在、グラバー園(長崎市南山手)へ向かう坂の登り口に、「長崎電信創業の地」「国際電信発祥の地」という2つの碑が建っています。当時、ここにあったベルビューホテルの一角に大北電信社の通信所が設けられ、世界との交信が行われたのです。  江戸時代、主に出島を通じて西欧諸国の情報を入手していた日本。明治という新しい時代にとって、郵便線路や電信など情報・通信網の整備は、近代国家を築くうえで不可欠な課題でした。長崎はそうした動きの重要な拠点のひとつだったのです。    ●参考/『日本郵便創業の歴史』(藪内吉彦)

    もっと読む
  • 第430号【気になる形や文様(中国編)】

     七夕に夜空を見上げた方は、どれくらいいらっしゃるでしょうか。織女星と彦星が年に一度だけ出会うこの日、「成績が上がりますように」「逆上がりができますように」と短冊に書いた思い出のある方もいることでしょう。ちなみに、願い事を記した短冊を笹竹に付けるようになったのは、寺子屋が普及した江戸時代のこと。当時の人も手習いの上達を星々に祈願したそうです。その頃、長崎にも多くの寺子屋があり、七夕(旧暦)は賑やかな年中行事のひとつでした。師匠が、師弟やその親を招いてしっぽく料理をふるまったと伝えられています。  ところで夜空の星を見上げたとき、つい北の空にある北極星を探してしまうという方も多いはず。見つけやすく、常にそこにある北極星は、方位の目印。古く「北辰(ほくしん)」と呼ばれ信仰の対象でもありました。西山神社(長崎市西山)には、この星をかたどったと思われる鳥居の額束(がくづか)があります。額束は通常、長方形ですが、ここのは円形です。西山神社(当時は妙見社)は、唐通事を祖とする家柄で、長崎聖堂(学問所)の学頭であった盧草拙(ろ そうせつ)が中国から持参したという「北辰妙見尊星」を祀るために1717年に建てたもの。盧草拙は天文学者で、西川如見らとともに将軍吉宗に招かれるほどの人物でした。  まちを歩けば、行く先々で気になる形や装飾文様と出会う長崎。唐寺・聖福寺(長崎市玉園町)では、境内そばの石造りの柵に「蝙蝠(こうもり)」の文様が刻まれていました。蝙蝠は、中国語では「蝙」と「福」の発音が同じことから、吉祥文とされています。また、聖福寺は本堂の扉にある「桃」の彫刻でも知られていますが、この「桃」も延命長寿の吉祥文です。  崇福寺(長崎市鍛冶屋町)で、ひときわ色鮮やかな第一峰門には、牡丹の花や青い蝙蝠など縁起のいい文様が描かれています。門の軒下に組まれた木の一つひとつには「雲」が描かれていました。「雲」もまた古代中国以来、瑞祥を意味する文様です。  玉泉神社(長崎市寄合町)では、唐寺にも負けない色鮮やかな文様をいくつも見ることができます。たとえば、拝殿の軒下には魔除けの役割として「獏」と「獅子」と思われる霊獣の彫刻がほどこされています。周辺には長寿の象徴である「亀」や愛嬌のある表情をした「獅子」もいます。唐人屋敷や丸山にもほど近いこの神社。江戸時代は中国の人々との関わりもあったのでしょう。唐寺の面影のある長崎らしい神社です。  長崎のまちでもっとも多く見かけるのが、龍の文様です。古代中国で創られた想像上動物で、中国とゆかりの深い長崎のシンボル的な存在です。建物や看板、お土産品、喫茶店のコースターなど、龍の姿を数え出したらキリがありません。神獣・龍は、あらゆる場面で長崎のまちや人々を見守っているのでした。  ●参考/『すぐわかる日本の伝統紋様』(並木誠士 監修/東京美術)、『長崎事典~歴史編~』、『江戸文様図譜』(熊谷博人 編著)

    もっと読む
  • 第429号【長崎~江戸を旅したゾウ】

     雨が小休止した昼下がり、諏訪神社(長崎市上西山町)に隣接する長崎公園内の「動物ひろば」へ立ち寄りました。そこは、ウサギやニホンザルなど数種類の動物を観察できる小さな動物園。目を止めたのは、いまにも羽根を広げそうなしぐさをするクジャクでした。  美しい羽根を持つクジャクは、東南アジアや南アジア、アフリカなどに生息する動物です。日本に運ばれてきたもっとも古い記録は『日本書紀』にあり、6世紀末の推古天皇の時代だとか。古来、「珍しい動物=珍獣」のひとつとして人々の関心を惹き付けてきたクジャクは、江戸時代も将軍へ献上されています。また当時、一部の富裕層や西洋かぶれの学者などが、その羽根をあしらった装飾品や文具を珍重したと伝えられています。  江戸時代、長崎には唐船やオランダ船で、ダチョウやオランウータン、南国の鳥類などがいろいろ運び込まれています。特に珍しかったり、美しいものなどは将軍へ献上されていて、その中にはゾウやラクダなどの大型の動物もありました。 享保14年(1729)、8代将軍吉宗へ献上されたゾウは、長崎からお付きの人間とともに街道をテクテクと歩き、川を渡り、約2カ月半かけて江戸へ入ったと伝えられています。ちなみに献上されたのはオス。大人のゾウではなかったそうですが、3トン近くはあったと言われています。実はこのゾウ、前年ベトナムから唐船で長崎へ運ばれてきたときはメスも一緒でした。しかし、残念なことに長崎滞在中にメスだけ亡くなっています。  さて、吉宗のもとをめざして街道を行くゾウ行列には、いろいろなエピソードが残されています。京都では天皇の上覧があり、このゾウに『広南従四位白象』の官位が与えられました。また、愛知県の浜名湖近くを通る姫街道(見附宿と御油宿を結ぶ東海道の脇街道)には、道中の様子を物語る地名がいまも残されています。その名も「象泣き峠(または象泣き坂)」。勾配が急で、足下も悪かった峠道をゾウが悲鳴をあげ、涙を流しながら歩いたことから、そう呼ぶようになったと伝えられています。  江戸に入る直前の「六郷川」(多摩川)では、ゾウを無事に通すようにと幕府からお触れが回っていたため、村人らは川に30隻の舟を並べて、その上に板を敷き、杭を打って固定させるという大工事を行いました。村人たちは、ヒヤヒヤしながらゾウを出迎えたに違いありません。大勢の人々に迷惑(!?)をかけながらようやく江戸に付いたゾウ行列。見物人が後を絶たず、「享保のゾウ」と呼ばれ、人気を博したそうです。  ゾウと同じく江戸っ子たちを熱狂させた動物がラクダです。オランダ船で長崎に運ばれたラクダは、各地で興行しながら江戸へ。当時、「駱駝(ラクダ)」は、「大きくてノロマ」を意味する言葉として江戸っ子たちの間でおおいに流行ったそうです。   ●参考/『~長崎から江戸へ~象の旅』(石坂昌三/新潮社)

    もっと読む
  • 第428号【幕末・明治期の長崎~草野丈吉ほか~】

     こんにちは!長崎はいま、紫陽花の季節。長崎市の花ということもあり、まちのいたるところに咲いています。この時期、紫陽花ほどではありませんが、長崎の家々の庭先でよく見かけるのがザクロの花です。6月1日の「小屋入り」(長崎くんちの今年の踊町が諏訪神社、八坂神社で無事達成を祈願し、稽古に入る日のこと)の頃に咲きはじめる橙色をした小ぶりの花で、秋のくんちの頃に実を付けます。その実はくんちのときの装飾やくんち料理のひとつ「ザクロなます」に使います。地元ではザクロの花が咲くと、秋のくんちへの期待感が密かに高まるという人も少なくないよう。ザクロもまた長崎の歳時記を彩る植物のひとつなのでした。  秋の大祭・長崎くんちを行う諏訪神社。江戸時代は、近くに長崎奉行所もあり、参道下の隣接する界隈は要人らが行き交ったところでもあります。幕末から明治にかけては、長崎港に面した居留地とともに、にわかに欧米化していく時代の影響を大きく受けたところのひとつといえるかもしれません。  日本初の商業写真家、上野彦馬が1862年(文久2)に開いた「上野撮影局」もこの界隈を流れる中島川沿いの一角にありました。彦馬は、龍馬など当時長崎を訪れた幕末の志士らの写真を撮ったことでも知られています。この撮影局から10分ほど歩いて南側の高台に登ったところに、亀山社中の跡(長崎市伊良林)があります。  新時代を画策する若者たちが、日々往来したこの界隈。亀山社中が結成される2年前の1863年(文久3年)には、草野丈吉なる人物が、伊良林の若宮神社そばに日本初の西洋料理店「良林亭」を開店しています。  草野丈吉は伊良林の農家の生まれ。利発でまじめな人物だったそうで、若い頃、出島に出入りする商人の使用人として雇われると、その働きぶりが認められ、オランダ公使の使用人となり、その後、オランダ船の調理師見習いになって西洋料理人としての腕を磨いたそうです。  丈吉が開いた「良林亭」は、自らの生家でわらぶきの家。六畳一間の部屋で客は6人までとし、料金は現在でいうと1万3千円ほど。要人など良い客筋に恵まれ、おおいに繁盛したとか。その後、店を諏訪神社近くの平坦地に移し、「自由亭」と改称。そのときに建てた洋風建築は、現在グラバー園内に移築されています。  まもなく丈吉は店の客で交流のあった薩摩藩の五代友厚の助言もあって、明治元年に大阪にも進出し、洋食屋を開業。ちょうどその頃は、大阪遷都論が唱えられた頃で、長崎から大勢の政財界関係者が大阪に移ったといわれる時期と重なります。丈吉は、五代などとのつながりもあってか、大阪の居留地に外国人止宿所ができたとき、その司長に任命されたり、政府の要人が出席する大阪・神戸間の鉄道開通式の宴会を担当するなどしています。また、明治14年には、中之島に進出しホテル兼西洋料理店を開き、さらには京都にも支店を出すなど活躍しました。  丈吉は明治19年、47才の若さで亡くなっています。江戸時代の身分制度の気風が残るなか、一料理人の名が表に出ることはあまりなかったようで、史料も少なく、あいまいな点も多いのですが、丈吉は関西のホテル業界の創始期に刻まれる重要な業績を残したようです。  ●参考/『明治西洋料理起源』(南坊洋/岩波書店)、『近代日本食文化年表』(小菅桂子/雄山閣)、京都ホテルグループ公式ウェヴサイト「京都ホテル100年ものがたり」、みろくやHP「長崎の食文化/長崎開港物語」

    もっと読む
  • 第427号【家庭で焼くカステラ】

     長崎のまちを歩いていると、修学旅行生らしき中高生のグループによく出会います。先日、路面電車内で遭遇した女子高生たちは、お昼にちゃんぽん、皿うどんを食べたそうで、その腕にはカステラ入りの紙袋を下げていました。スマホ時代の若者も、長崎の旅の定番は固定電話時代とまったく変わっておりません。よくよく振り返ってみればカステラは、星々と羅針盤を頼りに海を渡った大航海時代に日本に伝わって以来、GPSで誰もが手軽に地球上での位置を確認できる現代まで、ずっと長崎名物として食べ継がれてきました。本当にすごいことだなあと思います。  現在、長崎では、冠婚葬祭をはじめ、ちょっとしたお礼や手土産など、日常的にカステラをさしあげたり、いただいたりすることが多いのですが、戦後から東京オリンピック(1964年)の頃までは、そうした機会は今よりもうんと少なく、自家用に買うなんて、とても贅沢なことでした。  長崎に生まれ育った熟年世代の女性たちに聞いてみると、子どもの頃、母親が焼いてくれたとか、自分自身も家族のためにカステラを手作りしたことがあるという方がけっこういらっしゃいます。それは、卵の風味が強くて、何となく食パンのような口当たり。当時の自家用カステラは、生地を膨らますのに本来のカステラでは使わないイーストを使うことがあったそうです。もちろん、見た目も味もお店のものにはかないませんが、それなりにおいしく、焼いているときのあの甘い香りは忘れることができない、という方もいました。  卵、砂糖、小麦粉、ザラメ、水飴を使って作るカステラは、甘くてもっちり、しっとりとしています。カステラが長く愛されているのは、この材料のシンプルさにあるような気がします。カステラの老舗では、そこに材料を見極める目や技など、長い年月によって磨かれたものが加わるわけです。  自分で焼くカステラは、同じ材料を使っても作るたびに見た目や食感が微妙に変わります。気温や湿度に加え、卵の泡立て加減や材料の混ぜ方に、出来具合が大きく左右されるよう。本当にデリケートなお菓子です。  各材料の分量は、他のレシピサイトにゆずるとして、諸先輩方から聞いた作るときのポイントは、卵白の泡立て加減だそうで、泡をもちあげたときツノが出きるくらい泡立てます。すると生地がふんわりするそうです。また、生地を焼き型に流し込んだ後、表面にできた空気の泡をヘラで切るように消していく「泡切り」という作業も重要です。表面が均一に焼き上がります。   自分で手作りするカステラは、何だかほのぼのとした味。市販のバニラアイスをはさめばカステラアイス、生地であんこを巻けばカス巻きになり、バリエーションも楽しめます。…でも、やっぱり、買ったほうが早くて、おいしい…ですね。

    もっと読む
  • 第426号【長崎開港時のお殿さま、長崎甚左衛門】

     仙台でようやく桜が見頃を迎えた先週、長崎では早くも庭木のサクランボや青梅がたわわに実っていました。風に運ばれてくるのは、新緑や花々の甘い匂い。まちへ出て、ぶらぶらと歴史散策するのにはもってこいの季節です。  緑に包まれた諏訪神社に隣接する長崎公園に出かけると、遠く長崎港を見つめる男性の銅像が目に留りました。胸には十字架を下げています。400年余前、長崎が南蛮貿易港として開港した当時の領主、「長崎純景(すみかげ)」こと、通称「甚左衛門(じんざえもん)」です。  甚左衛門(1548?-1621)は、鎌倉時代以来、長崎を治めていた長崎氏の14代目。その砦は、春徳寺(長崎市夫婦川町)の裏山で、「城の古址」と呼ばれる丘にあり、ふもとに館を構えていました(現在の桜馬場中学校あたり)。当時、館の周囲には、たいへん素朴な集落が形成されていました。それが、開港前の長崎の姿。中央では、その地名を知るものもないような九州の一寒村でありました。  そんな土地の領主だった甚左衛門。群雄割拠の戦国時代にあって、領地拡大を狙う周囲の豪族に、たびたび攻撃を受けていました。甚左衛門は、大村の領主であった大村純忠の家臣となり、その支援を得て領地を守ったといわれています。純忠といえば、日本初のキリシタン大名として知られていますが、甚左衛門も1563年純忠とともに横瀬浦(当時、純忠が南蛮貿易港として開いたところ)で、洗礼を受けたと伝えられています。その後、純忠の娘「とら」を妻としたことからも、純忠との親密さがうかがえます。  キリスト教の普及に熱心だった甚左衛門は、館の近くにあった寺社をイエズス会の神父に提供。そこには、トードス・オス・サントス教会という長崎最初の教会が建てられました。まもなく純忠と甚左衛門は、長崎を南蛮貿易港として開くことをはかります。彼らは、貿易による大きな利益に加え、キリスト教による精神的な喜びと、教会の勢力とを背景に、領民を守り、戦乱の世を生き抜こうと考えたようです。  1570年、長崎開港が決定すると、純忠の意向で、港に突き出した岬の先端に6つの町がつくられました。甚左衛門はこの町建てを直接指揮することはなかったそうですが、その間、近隣豪族の攻撃から、長崎を守り続けたといわれています。   開港から十数年後の1587年、秀吉は禁教令を出し、長崎を没収。同年、純忠も亡くなります。まもなく徳川の世となり、あらためて長崎は幕府直轄の地に。大村藩主・喜前は、その代償として時津の700石を領地として与えようとしましたが、甚左衛門はそれを受けず、長崎を去りました。筑後の田中吉政(キリシタンだったと言われる)、横瀬浦などを転々とし、最晩年には時津に移り住み、70余年の生涯を閉じたと伝えられています。  長崎市中心部から車で30分。西彼杵郡時津町の山あいの小島田という地域に長崎甚左衛門のお墓があります。昔から甚左衛門の墓守をしているという家の方によると、毎年、命日の12月12日近くの土曜日に、近所の法妙寺(日蓮宗)のお坊さんにお経をあげてもらっているそうです。この日は、ご近所の方々がそれぞれ農作物を持ち寄り、地域の公民館で炊きまかないをし、子ども相撲(33番の取り組み)を行うなど、地域の絆を育む行事として定着しているとか。領民思いだった甚左衛門の影響力は、時空を超えて生き続けているようです。  ◎参考にした本/長崎県大百科事典(長崎新聞社)、時津町郷土史(時津町)

    もっと読む
  • 第425号【おいしい野菜の事始め】

     江戸時代、出島を擁した土地柄もあり、何かにつけ「日本初」とか「発祥の地」といったものが多い長崎。地元にいても未だに知らないことも多く、先日も長崎の料理研究家の方から、ふだん店頭に並んでいるイチゴ(もともと日本にあった野生種とは別のもの)も、長崎に最初に伝わったのだと教えていただきました。  江戸時代末期の1840年頃、オランダ船で渡ってきたというイチゴ。当時の人は、野生種よりも一段と大きいその実に恐れをなし、「毒があるかも」と思ってもっぱら観賞用として育てたそうです。その頃は「オランダイチゴ」と呼んでいました。  イチゴが食用として栽培されるようになったのは明治になってから。現在では、すっかり一般的な果菜のひとつになっています。最近ではクリスマスシーズンに目立って出回るので、旬は冬だと思っている方もいらっしゃるのでは?実際は露地物の旬は5月頃。ハウス栽培などの技術や品種の改良が進み、出回る時期が早くなっているそうです。  料理研究家の方によると、イチゴは10粒で1日に必要なビタミンC(85mg)を摂取できるとか。ちなみに、いちごの生産量は、栃木県がダントツ1位ですが、2位福岡、3位熊本、そして4位に長崎と九州勢が続きます(平成23年度農林水産省の統計)。長崎は甘くてビタミンCの含有量も高い「さちのか」が多く栽培されているようです。  イチゴと同じような伝来のエピソードを持つのが、トマトとキャベツです。いずれも江戸時代にオランダ船で長崎に運び込まれたといわれ、はじめは観賞用植物、明治以降になって食用として栽培されるようになりました。  17世紀に渡ってきたとされるトマトは、「唐柿」また「オランダナスビ」などと呼ばれていました。その真っ赤な色が、江戸時代の人には血のようで不気味だったらしく、食べるに至らなかったとも伝えられています。  また、キャベツは、18世紀の文献に「オランダナ」と記されているそうですが、これはキャベツと同じ種類で観賞用の「ハボタン」(葉が結球しない種類)のことだとか。食用の結球性のキャベツは幕末に伝わったといわれています。  慶長年間の頃、オランダ船によって、まずは平戸のちに長崎にも運ばれたのが「ジャガイモ」です。オランダ船にゆかりがあるので、当時は「オランダイモ」とも呼ばれたとか。ジャガイモは、ヨーロッパから東南アジアのジャカトラ(現在のジャカルタ)を経て、日本へ伝来したことから、「ジャガタライモ」と呼ばれ、それが転じて「ジャガイモ」になったそうです。長崎県はジャガイモの生産が北海道に次いで全国第2位。この時期、地元では収穫されたばかりの「デジマ」という品種が出回っています。肉じゃがや味噌汁の具などにすると特においしいタイプです。長崎ゆかりの野菜をぜひ、お召し上がりください。   ◎参考にした本/からだによく効く食べ物事典(監修 三浦理代/池田書店)、野菜と豆カラー百科(主婦の友百科シリーズ)

    もっと読む
  • 第424号【春を告げる長崎の魚介類】

     春は海草や貝類がおいしい季節。採取が解禁になり、各地の海辺がにわかに賑わいはじめているようです。3月中旬、平戸島の「薄香」という地域を訪れたときは、港でヒジキが天日干しされている風景に出会いました。また、3月下旬には、五島の知り合いから刈り採ったばかりのワカメをいただき、あらためて春の到来を実感したものです。  潮の干満の差が大きい春は、潮干狩りのシーズンでもあります。自分で採ったアサリやハマグリで潮汁(うしおじる)を作ったことのある方も多いのではないでしょうか。貝から滲み出す潮の香とうま味。これも春を告げる味ですね。  長崎の市場をのぞくと、アサリやハマグリなど旬の貝類が最前列に並べられていました。酒蒸し、バター焼き、煮付け、酢の物、スパゲティ…あれこれメニューを思い浮かべながら買い求める量を見計らっていると、店の女将さんが、アサリの殻を割って見せてくれました。現れたのは、しっとりとしたプリプリの身。殻からはみ出しそうなほど肉厚です。有明海に面した小長井産(諫早市)のものだそうで、「近頃こんなに身の詰まったものは、なかなか無いんですよ」と女将さん。関西など遠方の知人にも送ってあげているそうです。  アサリの隣には、アゲマキ貝が並んでいました。殻の長さ7~8cmほどの二枚貝で、身には角のようなもの(水管)が2つ付いています。その姿が、古代の少年が頭髪を左右に分け、頭上に角のように巻き上げた「総角(あげまき)」という髪型に似ていることから、この名で呼ばれるようになったとか。長崎では有明海の貝としてよく知られていますが、残念なことに昔に比べずいぶん減ってきたと聞きました。洗ってゆでるだけという簡単な調理でいただくことが多く、独特の甘みがあります。ひと昔前の地元では、春から初夏にかけての定番おかずのひとつだったようです。ゆで汁は、あっさりとしたうま味があります。その汁で素麺をゆで、アゲマキ貝の身をのせていただく「アゲマキ素麺」が郷土の味として残っています。  アゲマキ貝と同時期に出回りはじめるのがマテ貝です。先日、大村湾の出入り口に位置する佐世保の針生(はりお)というところで採れたマテ貝を手に入れました。10cm前後の細長い貝で、干潮時には、砂の奥深いところに潜っています。採り方を聞いたところ、マテ貝がいる砂の表面には穴ができるので、そこに塩をふりかけ、飛び出してきたところを捕まえるとか。さっとボイルして、酢みそなどでいただくことが多く、アゲマキ貝とは微妙に違う甘みとうま味があります   波静かな大村湾に面した長崎市琴海町では、ノコギリ貝が春の海の幸のひとつです。殻の表面が「のこぎり」のようにギザギザしているので、地元では昔からそう呼んでいますが、正式な名前ではないとか。味はアサリに似ているそうです。ノコギリ貝の本当の名前はさておき、今年も、そしてこれからも、春を告げる魚介類を、おいしくいただくことができますように。

    もっと読む
  • 第423号【長崎サクラ便り】

     3月中旬、九州地方のほとんどの地域で桜(ソメイヨシノ)が開花しました。今年は早めの開花となったところが多かったようですが、長崎も平年より8日も早い3月16日に開花。観測史上2番目の早さだったそうで、花見の予定を急きょ繰り上げた人もいました。この分だと4月初めの入学式は、新緑がすがすがしい葉桜が新入生を迎えることになりそうです。気象庁の発表によると、東北地方の開花日は平年より早いか平年並み。こちらはいつもの年のように、はじまったばかりの新学期を満開の桜が彩ってくれそうですね。  長崎では開花直後に、春の嵐、晴天、雨天と短い周期で天候が変わり、気温も大きく上下しました。この荒れ模様に咲きかけた花が散ってしまうのではと思われましたが、心配は無用でした。中島川の枝垂桜も、春休みの校庭やご近所の庭の桜も、そして人知れず咲く山中の1本桜も、いま満開のとき迎えています。  桜の開花のニュースを聞いた翌日、長崎から平戸へ小旅行。車で西彼杵半島を北上する途中、「西海橋」を通りました。日本三大急潮のひとつである伊ノ浦(針尾)瀬戸に架かる「西海橋」は、全長316メートル、海面からの高さ43メートル。1955(昭和30)年建造された頃は東洋一のアーチ橋として注目されました。  そして、2006年には「新西海橋」が西海橋と並ぶように架けられました。それぞれ新旧の味わいがある両橋の姿。東京タワーと東京スカイツリーを見比べるときの感慨にも似ています。この橋のたもとは公園になっていて、毎年1千本ともいわれる桜が咲き誇ります。大きなうず潮が見られる春の大潮の時期にも重なるので、花見客も大勢訪れます。今年は3月25日~4月1日、4月8日~4月14日がうず潮の見頃だそうです。  西海橋を後にして、平戸に到着。高倉健さん主演の映画「あなたへ」のロケ地となった「薄香(うすか)」という地域を訪ねました。平戸市街地から少し離れた小さな漁港のある集落です。港を囲むように木造の家々が建ち並ぶ光景は、どこか昭和を思わせる雰囲気。そのひなびた佇まいがロケ地に選ばれた理由だったとか。ちなみに「薄香」という地名は、その昔、大陸から持ち込んだ梅の木を植えたところ、花が咲き、梅の香がほのかに漂ってきたことに由来するそうです。  平戸市街地にもどり、「平戸オランダ商館」へ。長崎より前にオランダとの貿易港として栄えた平戸。1641年、オランダ商館が長崎移転を命じられるまでの33年間の様子がうかがえる展示内容です。建物は、1639年に築造された日本初の洋風建築の倉庫を復元したもの。のちの出島貿易の時代とはまた違った往時が偲ばれました。   平戸は、平安時代末に禅宗や製茶・喫茶を大陸から学び伝えた栄西ゆかりの地でもあります。駆け足でめぐるには、あまりにも奥深い平戸路。この日、桜の名所の亀岡公園(平戸城そば)の桜はまだ固いつぼみ。次は満開の頃にゆっくり訪れたいと思いました。

    もっと読む
  • 第422号【キビナゴづくし】

     長崎ではほぼ1年中出回るキビナゴ。体長10センチ前後の小さくて細長い青魚です。頭から尾にかけて濃い青色の線と、銀色の帯状の線が入っているのが特長です。キビナゴは、大きな群れをつくって温かな海を回遊します。水族館でその様子を見たことがありますが、群れはまるで巨大な魚のようでした。  きれいな海でしか生息できないといわれるキビナゴ。長崎県内ではイワシやサバ、アジなどと同じ大衆魚のひとつとして昔から親しまれてきました。特に五島列島近海のものが鮮度の良さ、味の良さで知られています。旬は夏といわれていますが、冬場も身が引き締まっておいしいです。  キビナゴは脂肪が多くて、身が柔らかいのが特長です。刺身やしょうが煮、南蛮漬けなどいろいろな料理がありますが、郷土料理として特に知られているのは、「いり焼き」と呼ばれる鍋料理です。醤油味の出し汁で煮た野菜鍋に、キビナゴを箸でつまんで入れ、身が白くなる程度にさっと火を通していただきます。食べる時は、頭から尾に向かうと身離れがよいです。普段から食べ慣れている漁師さんなどは、歯で軽くしごくようにしてきれいに中骨を抜き取ります。  五島列島では食べ物が現在のように豊富でなかった時代から、サツマイモと並ぶ主要な食材のひとつとしてキビナゴを食べてきました。煮干し、素干し、塩漬け、湯引き、塩ゆで、刺身、酢もみ、味噌田楽など伝えられる調理法はシンプルながら多彩です。キビナゴはその小さい身体に青魚独特の旨味がつまっています。かつて昭和天皇が福江島へいらしたときに、キビナゴの味噌田楽をたいへん喜んで召し上がれたというエピソードが伝えられています。  刺身などにするときは、手開きで内蔵を取り出します。ちなみに長崎では、「手開きする」ことを「おびく」と言います。頭を取り、親指を使って腹側から中骨に沿って開いていきます。中骨は尾の方から取るときれいに除けます。皿に盛り付けるときは、銀の帯模様を表にするときれいです。刺身醤油や酢みそなどでいただきます。  漁を営む家庭などでは、まとまった量が手に入ると骨ごとすり身にして、さつま揚げやつみれなどにしているようです。長崎の惣菜屋などで目にするのは、キビナゴの天ぷらです。鮮度のいいキビナゴを丸ごと使います。長崎天ぷらの特長である甘い衣が、キビナゴのおいしさを引き立てます。  魚は、必須アミノ酸をバランス良く含んだ良質のタンパク質として知られていますが、なかでも青魚は、血流を良くするといわれるEPA、脳を活性化するといわれるDHAが含まれています。キビナゴは青魚ですから、そうした栄養価が期待できそうです。      ◎日本の食生活全集42『聞き書き 長崎の食事』(発行 農山漁村文化協会)

    もっと読む
  • 第421号【フェートン号と松平図書頭康平】

     長崎市民の総鎮守、諏訪神社。多くの市民が訪れる拝殿から、裏手に回り登ったところに、いくつかの祠(ほこら)があります。そのひとつは、先祖の神霊を祀った「祖霊社(それいしゃ)」と呼ばれるもの。文化5年(1808)の「フェートン号事件」に深く関わったある人物も祀られています。  歴史の教科書にも載る「フェートン号事件」。当時、オランダ船と唐船とだけ交易を行っていた長崎に、イギリス船フェートン号が、オランダ船と偽って侵入。食料や薪水などを要求し奪い取って行ったという出来事です。  通常、交易を行うオランダ船は夏に長崎へ入港。2カ月ほど滞在して秋に出航しました。フェートン号は時期外れの10月(新暦)にやって来て長崎港の沖合に停泊。入港手続きのために近付いたオランダ商館員を人質にするや、船上のオランダ国旗を降ろし、イギリス国旗を掲げ、食料などを要求したのです。  まさに不敵ともいえるフェートン号側の態度。その背景には、フランス革命が起きた当時のヨーロッパ情勢がありました。オランダ本国は、フランス軍の侵入を受けて支配されており、イギリスとは敵対する関係にあったのです。その頃のイギリスは、アジア各地に進出し勢いを強めており、ときにオランダ船を襲うこともあったとか。フェートン号も、日本へ通商を求めるために来たのではなく、オランダ船の捕獲が目的だったと言われています。  フェートン号が長崎に現れてから、出航するまでわずか3日。その間、長崎のまちはたいへんな騒ぎだったことでしょう。ましてや、この騒動をおさめなければならない長崎奉行の松平図書頭康平(まつだいらづしょのかみやすひら)、そして人質をとられたオランダ商館長ドゥーフの動揺は計り知れません。  このとき松平図書頭康平は、フェートン号を焼き討ちにしたいと考えたようです。しかし、このとき長崎警備の当番だった佐賀鍋島藩の兵たちは、オランダ船は来ないと判断して7月のうちに引き上げていたのです。兵力不足のうえ、人質の身の安全のこともあり、結果的には相手の要求を全て飲むかたちとなりました。  フェートン号が長崎を去ったその日。松平図書頭康平は、いつものように夕食をとると、月見の酒宴をひととき催しました。その後、みんなを帰したあと、ひとり武士としての責任をとり自刃。41才でした。遺書には、人質をとられたことなどで国を辱めたことを謝り、佐賀鍋島藩の兵がいなかったことが無念だったことなど、ことの顛末と思いがしたためられていたそうです。    松平図書頭康平のお墓は大音寺(長崎市寺町)に設けられました。一方、長崎の人々は、人柄の良い長崎奉行の死を深く悲しみ、翌年、諏訪神社に図書明神霊社(康平社)を勧請。長谷川権六郎(江戸初期の長崎奉行)や氏子先霊とも合祀され、その後、「祖霊社」と改称して現在に至っています。          ◎参考にした本/長崎事典~歴史編~(長崎文献社 刊)、出島(片桐一男 著/集英社新書)

    もっと読む
  • 第420号【長崎に残る外来語(中国語)】

     3月中旬のような温かい日があったかと思えば、急激に気温が下がって真冬にもどったり。春へ向かう合図、三寒四温。そんな季節のなか、長崎では旧正月を祝う「長崎ランタンフェスティバル」がはじまりました。長崎市の中心部に約1万5千個にも及ぶランタンが飾られ、まちは幻想的な雰囲気に包まれています。防寒着に身を包んで歩く人々も、赤、黄、桃色のランタンを見上げれば、思わず表情がゆるみます。中国雜技、龍踊り、胡弓演奏など、毎日のイベントも盛りだくさん。今年は2月24日(日)まで開催中です。どうぞ、お出かけください。  日本の中でとくに中国の影響を大きく受けた長崎のまち。地理的な近さもあって古くから交流があり、鎖国下の江戸時代にはオランダ船そして唐船との貿易港として栄えました。長崎に居留する中国人が増え、市中には唐寺が建設されるなど、中国文化が長崎に根付くようになります。そうしたなかで、中国の言葉がそのまま長崎の言葉となったものもありました。  たとえば、中華料理のときに使う陶製の匙、「チリレンゲ」。長崎では「トンスイ」とも呼びます。これは中国語でスープを飲むための匙を意味する「湯匙(トンスイ)」から来たものです。ちなみに「匙(サジ)」という発音も、中国語の「茶匙(サジ)」の発音がそのまま使われたものとか。また、戸口などにかける「暖簾(ノレン)」も中国語の発音がそのまま日本語になったものだそうです。  長崎の特産品「枇杷(ビワ)」も、中国語では「枇杷(ピィハァ)」と発音。これもまた外来語といえるでしょう。また、長崎では落花生のことを「ドウハッセン」ともいうのですが、これも中国語の「落花生(ロウハッセン)」から。和菓子の定番のひとつ「饅頭(マンジュウ)」は、中国語で「饅頭(マントウ)」と発音。長崎のお年寄りのなかには、いまも「マントウ」と呼ぶ人がいます。尚、「マンジュウ」というと日本では餡が入ったものをイメージしますが、中国では入っていないものをいうそうです。また「羊羹(ようかん)」も中国語の発音が日本語として定着した言葉のようです。  江戸時代、中国のいろいろなものをもたらしてくれたのが隠元禅師です。1654年、招かれて長崎最古の唐寺・興福寺へ。このとき中国から持って来たいんげん豆は、その後の飢饉時に多いに助けとなりました。そのほか、たけのこ、れんこん、すいか、普茶料理、煎茶なども持ち込み伝えています。また、現代の日本人になじみのある書体のひとつ「明朝体」(明の時代の木版印刷の文字)や原稿用紙(20字×10行)なども、隠元禅師とともに海を渡ってきたものです。   その昔に伝わった中国文化が残る長崎。「長崎ランタンフェスティバル」では、古き良き中国を感じることができるはず。新地中華街に隣接する湊公園会場では、「トンスイ」など中国の食器類を積み重ねてつくったオブジェが飾られています。興味のある方は、探してみてくださいね。

    もっと読む

検索