ブログ

  • 第511号【風雅を愛した何兆晋〜心田菴〜】

     月が地球に最接近したときと、満月になるタイミングがあったときに観ることができるスーパームーン。今月14日でしたが、ご覧になられましたか?長崎はあいにくのお天気でしたが、翌々日くらいまで、大きく輝く月を拝むことができました。  月を愛でたり、紅葉を眺めたりと、風雅なシーンをいろいろ楽しめるこの時季に合わせて、今年も長崎では「心田菴(しんでんあん)」(長崎市片淵2丁目/長崎市指定史跡)の一般公開(11月17日〜12月13日迄)がはじまりました。日本庭園とかやぶき屋根の家屋が江戸時代の風雅を伝える「心田菴」。庭園では、松の大木、梅、桜、ヤブ椿など約50種類の植生が見られるとか。公開初日に足を運ぶと、色づきはじめた山紅葉、赤い実をつけた千両、万両、そして黄色いツワブキの花などが晩秋らしい彩りを添え、来場者の目を楽しませていました。  「心の田畑を耕すことが大切である」との思いから名付けられたといわれる「心田菴」。茶室を設けた家屋も庭園も簡素で控えめな印象です。建てたのは何 兆晋(が ちょうしん)(1627頃〜1686)という人物。字(あざな)は「可遠(かえん)」、号は「心聲子(しんせいし)」、日本名は仁右衛門(にえもん)といいます。兆晋は、この別荘を建てる前、唐小通事を10年ほどつとめています。唐小通事とは、江戸時代に中国との貿易交渉などにあたった通訳の「唐通事(大通事・小通事・稽古通事)」を構成する職務のひとつです。  兆晋の父は、何 高材(が こうざい)という福建省出身の帰化唐人で、日本との貿易で財をなした大富豪でした。高材は、崇福寺(長崎市鍛冶屋町)の大雄宝殿や清水寺本堂(長崎市鍛冶屋町)の建立、そして石橋築造などに寄進し、長崎のまちづくりに尽力。兆晋も父とともに寄進することがあったようです。兆晋が唐小通事職を辞した理由については、以前本コラムでも紹介した「伊藤小左衛門事件」に、兆晋の下人が関わっていたことによるものと推測されています。兆晋42歳の頃でした。その後、「心田菴」を建て風流人として暮らしたとされていますが、裕福であったとはいえ、どのような思いで当時の長崎のまちや人を見ていたでしょうか。  ところで兆晋は、中国の伝統楽器、七弦琴(しちげんきん)の名手であったそうです。そのご縁で、肥前鹿島藩の第四代藩主・鍋島直條(なべしま なおえだ)と交流がありました。直條は、近世初期の西国随一の文人大名と称される人物です。直條とその友人らの漢詩や和文などの作品を収めた『詩箋巻』には、直條との親密さがうかがえる兆晋(心聲)の作品が多く収められています。  兆晋亡き後、江戸時代後期の文人画家で長崎に遊学した菅井梅関が「心田菴図」を描いており、幕末の国学者・中島広足も心田菴を紹介する記述を残すなどしています。また、兆晋と交流があった長崎出身の儒学者・高玄岱(こうげんたい)は、『心田菴記』を記し、世俗の盛衰や存亡などとは縁はなく、倹約の暮らしがあった心田菴の様子や兆晋の人柄などについて次のように書き残しています。「……格別な一世界である。これはいわゆる心田と言うべきか。……君がもとより富む人でありながら世俗の垢や塵を棄て、山水の間に放って、楽しみながらも酒食や浪費をしないでくらしていることを知って友とするのである。この楽しみは、君と交わって尽きることはない。」心やさしき風流人、何 兆晋が残した心田菴。紅葉の見頃はこれからだそう。足を運んでみませんか。   ◎参考:「高玄岱 自筆巻子本『心田菴記』について」(若木太一/長崎歴史文化博物館『研究紀要』第七号)、『文人大名 鍋島直條の詩箋巻』(中尾友香梨、井上敏幸/佐賀大学地域学歴史文化研究センター)

    もっと読む
  • 第510号【西海キリシタンゆかりの地を訪ねて】

     「北海道の各地では積雪…」というニュース映像が流れていましたが、九州では小春日和が続き日中は20度を超える日もあります。そんな晴天に恵まれた先週末、「長崎日本ポルトガル協会」が主催するバスツアー「西海キリシタン史跡めぐり」に参加。自然豊かな西彼杵半島(にしそのぎはんとう)に息づく歴史を味わってきました。  九州の北西部に位置する西彼杵半島。南北に伸びる半島の西岸は角力灘・五島灘に面し、北岸は佐世保湾、東岸は大村湾に面しています。農業が盛んな地域で、行き先々で収穫した稲を天日干ししている風景が見られました。  江戸時代、この半島一帯をおさめていたのは、日本初のキリシタン大名・大村純忠で知られる大村藩です。今回訪れた室町から江戸時代にかけての史跡は、藩主・純忠が洗礼を受け、その後間もなく禁教の時代がやってきて、すでにキリシタンとなっていた人々が迫害を受けた歴史の跡でありました。  長崎市街地を出て間もなく、遠藤周作の『沈黙』の舞台となった長崎市外海地区(黒崎・出津)へ向かう途中でバスを下車。国道202号そばの山の斜面にある「垣内の潜伏キリシタン墓碑」(長崎市多以良町垣内地区)を見学しました。長方形の石を伏せた「長墓」がいくつも並んだこの墓碑群は、キリシタンが厳しい迫害を受けた江戸初期のものといわれていますが、破壊されることなくほぼ完全な形で残っているとか。迫害を免れた理由は、垣内地区が佐賀藩深堀領の飛び地であったため、周囲の大村藩領に比べ取り締まりがゆるやかで見逃されたという説や「平家の落人の墓」と伝承されていたため、という説があるそうです。  国道をさらに北上。天正遣欧使節のひとり、中浦ジュリアンの出生の地である西海市中浦へ。畑に囲まれたのどかな場所に「中浦ジュリアン記念公園」があり、海原の向こうのローマを指差す中浦ジュリアンの銅像が建っていました。1582年(天正10)、長崎港を出帆した使節団。ローマ教皇に謁見し日本にもどったのは8年後の1585年。キリスト教の布教が禁じられた時代でした。帰国した中浦ジュリアンは迫害のなか布教活動を続けますが、その後捕えられ長崎・西坂で殉教します。西果ての小さな村に生まれ育った中浦ジュリアン。波乱に満ちた人生をおくり、まさか400年以上も先の未来で語られる人物になるとは想像だにしなかったことでしょう。  半島の北端に近づくと、大根畑が目立つようになりました。「ゆでぼし大根」の産地として知られる面高(おもだか)地区です。冬、収穫された大根は短冊に切って大釜で茹でられ、空っ風にさらされておいしい「ゆでぼし大根」になります。栄養価も優れ、素朴な味わいが人気です。   史跡めぐりでは、大村純忠を支援した多此良領主小佐々氏の墓所(敷地内に数基のキリシタン墓碑がある)、純忠が長崎に先駆けて南蛮貿易港として開港した横瀬浦、さらに大村湾に面した場所にある小干浦キリシタン殉教碑なども訪ねました。各所を案内してくれた方がツアーの最後に、キリスト教関連の史跡に対する土地の人々の言い伝えは、激しい弾圧を逃れるために、口をとざした部分があったり、事実がゆがめられたりしているものが多く、真相は闇の中というケースがほとんどではないだろうか、という話が印象的でありました。

    もっと読む
  • 第509号【秋めく長崎でシーボルトを想う】

     鳥取地震の被害に合われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。1日も早く余震が収束し、平穏な生活をとりもどすことができますようお祈りいたします。  10月も中旬を過ぎてから、ようやく本格的に開花した長崎のキンモクセイ。町中に香りを漂わせたちょうどその頃、関東から来た人に、「東京のキンモクセイは、すでに時期は過ぎましたよ」と言われました。長崎では、9月下旬から一部咲きはじめたのですが、その後、夏日が続いたことで開花が先延ばしになったものが多かったようです。いまは秋雨が橙色の小さな花をおとし、甘い香りを消しているところ。日に日に秋が深まっています。  めくるめく季節のなかで四季折々にさまざまな植物の姿を楽しめる日本。その多彩で豊かな自然に魅せられたのが、江戸時代に日本を訪れたシーボルトでした。  ドイツ生まれの医師で、博物学者であったシーボルト(1796-1866)。1823年(文政6)27才のときにオランダ商館医として来日。翌年には鳴滝塾を開き、門人として集まった全国各地の俊英たちに近代的な西洋医学を伝えました。一方で、日本の自然や地理、人々の生活の様子などに関するさまざまな資料を、門人などを通して収集。江戸参府に同行した際には、日本を知る絶好の機会とばかりに、旅の途中で動植物の採取をし、各地の植木屋などにも立ち寄るなどして、さまざまな観察調査を行ったと伝えられています。  シーボルトが集めた資料は、のちの「シーボルト事件」で一部没収されたものの、監視の目を逃れた多くの資料がヨーロッパに持ち帰られました。シーボルトは、その資料をもとに日本研究に没頭。そして著した『日本』や『日本植物誌』などは、江戸時代の日本を知る貴重な史料としていまも活用されています。  ところで、今年はシーボルト没後150年の節目にあたり、今年から来年にかけてシーボルト関係の催しが各所で行われているようです。長崎では、この秋、「国際シーボルトコレクション会議」が開催され、国内外のシーボルト研究者が集いました。またこの夏、国立歴史民俗博物館で開催した「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」という企画展が、来年には長崎歴史文化博物館でも開催(2017年2月18日〜4月2日まで)される予定。いままであまり紹介されてこなかった展示物もあるとのこと。長崎での開催が楽しみです。  シーボルトゆかりの地である長崎は、これまで生誕や没後の節目の年に記念行事などが行われてきました。鳴滝塾跡にある「シーボルト記念館」(長崎市鳴滝)の庭園入り口には、1897年(明治30)にシーボルト生誕100年を記念して建てられた石碑が残されています。当時の長崎県知事の発議によって建立されたもので、使用した石は、塾舎の礎石だったとも伝えられています。  生誕200年にあたる1996年(平成8)には、日本とドイツ両国で記念郵便切手が発行されました。ちなみに7年後の2023年は、シーボルトが初めて出島に降り立った日からちょうど200年目にあたります。このときは、どんな記念行事が行われるでしょうか。  シーボルトの多岐にわたる日本研究や、それを支えた鳴滝塾の門人らのことなどについて、知れば知るほどその全体像は広範で複雑になり、人物像も功績もどこかつかみどころがなくなってきます。節目節目の記念行事は、時間によってひもとかれたシーボルトのあらたな一面を知るいい機会になっているようです。   ◎参考にした本/『ケンペルとシーボルト』(松井洋子 著/山川出版社)、『長崎市史 地誌編』

    もっと読む
  • 第508号【時を超え天空を翔ける青龍】

     7世紀末から8世紀初め頃に造られたとされるキトラ古墳(奈良県明日香村)。近年、その石室内に天文図や四神像、そして十二支像の美しい絵が確認され、大きな注目を浴びました。はるか昔のものとは思えないほどの繊細で色鮮やかなその絵に驚かされた方も多いのではないでしょうか。  大陸文化の影響を受けたキトラ古墳。中国にゆかりの深い建造物や行事がまちを彩る長崎で暮らしていると、キトラ古墳にも描かれている四神像については、折に触れ、見聞きする機会があります。四神像とは、四つの方位を守る神のこと。東の青龍、西の百虎、南の朱雀、北の玄武。いずれも人間のイマジネーションから生まれたいわゆる霊獣(れいじゅう)です。長崎新地中華街の東西南北に設けられた中華門にも、これらの霊獣が描かれています。  四神像のなかでも「青龍」は、長崎ではなじみ深い存在です。毎年10月7、8、9日に開催される諏訪神社の伝統の大祭「長崎くんち」の演し物のひとつである龍踊(じゃおどり)を通じて、その姿や舞いはよく知られています。長崎の「龍踊」は、江戸時代に唐人屋敷に居住した中国人から伝えられたといわれています。今年の「長崎くんち」では、筑後町が龍踊を奉納。2体の「青龍」と1体の「白龍」が大迫力の舞いを見せてくれました。  さて、キトラ古墳の「青龍」と、龍踊の「青龍」。物ごとは長い時の流れのなかで、しだいに姿かたちが変化していくものですが、キトラ古墳に描かれた「青龍」は、足の長さなど多少の違いはあるものの、馬やラクダに似た長い頭、雄鹿のような角、蛇のような長い胴体と舌、鷲のようなするどい爪など、複数の動物をあわせたような姿をして、いまの私たちが知る「青龍」とほとんど変わっていません。  悠久の時を軽々と超えてくる「青龍」。神話や伝説として語られるこのような幻獣は、古今東西に存在するようです。よく知られるのが西洋の「ドラゴン」です。物の本によると、「龍」や「ドラゴン」は、畏敬、脅威、恐怖など、人間の内面を象徴するものが形になったともいわれているそうです。興味深いのは、中国神話では「青龍」は神々しいものとして語られ、皇室の象徴とされたりしましたが、西洋の「ドラゴン」は、人々に恐怖をもたらすというパターンの物語が多いそうです。いずれにしても、時代を超え、国を超え、こんなにも長く人間とともにあるのは、この幻獣に普遍的な何かがあるからなのでしょう。  晴天に恵まれた「長崎くんち」の最終日、東の天空を仰ぎ見れば、雲の形にドッキリ。数体の「青龍」が、シャギリの音色と歓声が響くまちを見下ろしながら、気持ち良さげに蛇行しているようでありました。  ◎参考にした本/『ドラゴン』(久保田悠羅とF.E.A.R.著/新紀元社)、『幻獣辞典』(ホルヘ・ルイス・ボルヘス著/晶文社)

    もっと読む
  • 第507号【伊藤小左衛門・350年の時を超えて】

     9月も終わりに近づき、ずいぶん朝晩が涼しくなりました。とはいえ九州は、日中の気温が30度近くまで上る日もあり、長崎の路面電車はまだまだ冷房をきかせて走っています。夏の名残と秋が入り混じるこの時期、長崎駅に近い電停に降り立つと、「金木犀(きんもくせい)」の香りが鼻先をくすぐりました。ふとした瞬間に感じる小さな秋。きょうは、どんな秋に出逢うでしょうか。  先日の秋彼岸の頃には、申し合わせたかのように曼珠沙華(彼岸花)があちらこちらで咲きはじめました。この花を眺めながら法要やお墓参りなどに出かけた方も多いと思います。博多の妙楽寺本堂では、江戸時代に長崎で活躍した博多の豪商、伊藤小左衛門の350年忌法要が営まれました。「17世紀中葉の長崎情勢と伊藤小左衛門事件」をテーマに、本馬貞夫先生(長崎県 長崎学アドバイザー)のご講演もあり、350年を経てなお注目され愛される伊藤小左衛門の姿を垣間見ることができました。  黒田藩の御用商人であった伊藤小左衛門。中世以来、東アジアの海を大胆にかけめぐり商売をした博多商人の末裔といわれています。その活躍の名残として、玄界灘に浮かぶ対馬では、小左衛門のことを歌った民謡が残されています。また、壱岐島では小左衛門は地蔵として祀られているそうです。  南蛮貿易の頃、長崎に出店した伊藤小左衛門。出島に近い五島町あたりに居をかまえました。初代伊藤小左衛門の亡き後を継いだ二代目も商才にたけ、西日本一帯で活躍したといわれています。承応元年(1652)6月24日のオランダ商館日記には小左衛門のことが次のように記されているそうです。「小左衛門は毎年銀十貫を消費できる身分で、通事や乙名(地役人)の話では、銀七千貫以上の資産を持つ豪商である…」。その当時(江戸初期)、銀千貫以上の資産を持つ者を豪商といったそうですので、小左衛門の富豪ぶりがうかがえます。  しかし、寛文7年(1667)、小左衛門は密貿易の罪に問われ、長崎の西坂で処刑されました。犯科帳に記されたこの「伊藤小左衛門事件」。実はその背景には表沙汰にはできない黒田藩や対馬藩との複雑なからみがあり、小左衛門ばかりに非があるわけではないといわれています。  「伊藤小左衛門事件」に関連する史跡が、稲佐の悟真寺(ごしんじ)の境内に残されています。小左衛門と定家(ていか)という丸山遊女を祀った比翼塚です。定家は、処刑された小左衛門のあとを追い、この近くにある海岸に入水し果てました。その約200年後、偶然、海岸の工事に入った男性が、定家のものとされるクシや経文が書かれた小石などを発見。その晩、男性の夢に定家が現れ、見つかった遺品と小左衛門の骨とを一緒に埋葬してくれるよう告げたというエピソードが伝えられています。  初代も二代目も、そのひととなりついては、残された史跡や史料から想像するしかありませんが、定家とのエピソードからは情に厚い人物像が浮かび上がります。また、「小左衛門は人望があった」と長崎郷土史家の古老も言います。財や行いを通していろいろな人に恩恵を与えた人柄が、目に見えない縁に導かれ、魅力的な博多豪商としていまに語られているのでありましょう。  ○  参考:「福岡の通史」(青木晃)

    もっと読む
  • 第506号【夏から秋へ。中国ゆかりの行事】

     先月末から相次いで発生した台風。被害にあわれた方々には心よりお見舞い申し上げます。一日も早く元気になり日常をとり戻されることを祈っています。  地震や雨風による自然災害はいつどこで起きてもおかしくありません。防災士の資格をもつ知人によると、やはり事前の備えが大切だと言います。避難場所の確認と、緊急時用の食料やグッズなどあらためて見直したいものです。  自然はときに大きな災害をもたらす一方で、季節の美しい移ろいを見せながら、日々の平安や愉しみも与えてくれます。また、人々は自然が与えるさまざまな状況に柔軟に対応しながら折々の行事をすすめ生活を営んできました。  先月末、九州をそれた台風の影響でときおり強い風が吹くなか、崇福寺(長崎市鍛冶屋町)では中国盆が行われました。崇福寺は福建省出身の華僑の人々の菩提寺で、中国盆は毎年、旧暦7月26日〜28日(新暦8月28日〜30日)までの3日間行われます。境内に設けられたテーブルには、豪華なお供え物がずらり。最終日には、「金山・銀山」という、大人の身長ほどもある円すい状の飾りを盛大に燃やしてご先祖さまの霊を見送りました。  中国盆が終わると季節がひとくぎり。そしていま、「中秋節(ちゅうしゅうせつ)」のお祝い(9月10日(土)〜16日(金)まで)が長崎新地中華街で行われています。「中秋節」とは日本でいう「お月見」の行事のこと。中国では春節・端午節とならぶ三大節句のひとつとして古くから親しまれているそうです。  旧暦8 月15日の「中秋の名月」は、今年は新暦9月15日にあたります。実はこの日、暦上のズレで満月ではありませんが(満月は9日17日)、晴れれば丸く満ちる寸前の名月を拝むことができるはずです。  長崎新地中華街では、「満月灯籠」と呼ばれる黄色いランタンを見上げながら大勢の人々が行き交っています。隣接する湊公園では、五穀豊穣や家族の団欒を願って、龍踊りや中国獅子舞が行われていました。   上弦の月の頃から満月へ向かう期間に行われる「中秋節」。ところで、日本ではお芋や団子、ススキなどをお供えして祝いますが、その習俗は平安時代にはあったともいわれています。満月の翌日からは、十六夜月(いざよいづき)、立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、寝待月(ねまちづき)と続きます。月と寄り添う暮らしから生まれたいろんな月の名前。秋の夜長、お月さまを見上げながら、昔の暮らしに思いを馳せてみるのもいいかもしれません。

    もっと読む
  • 第505号【夏も後半戦!清水寺で暑気払い】

     江戸時代から続く長崎のお盆の伝統行事「精霊流し」。先週8月15日、夕方から車両が通行止めになった長崎市中心部の道路には、大小さまざまな精霊船が連なりました。大勢の見物客に見守られながら「ドーイ、ドーイ」の掛け声とともに流し場へ向かう精霊船。「チャコン、チャコン」と鳴り響く鉦(かね)の音、「バチバチバチ」と激しくうち鳴らされる爆竹、そして花火の煙があたりを包むなか、故人の霊が西方浄土へ送られました。  「精霊流し」が終われば、夏も後半戦。とはいえ、連日30度越えの暑さが続き、疲れはたまる一方です。そこで今年も、清水寺(長崎市鍛冶屋町)の「千日大祭」で暑気払いと無病息災を祈願してきました。  清水寺の「千日大祭」は、毎年8月17・18日に行われています。この日にお参りすると、千日間お参りしたのと同じ功徳を受けることができるといわれています。普段はなかなか足を運べなくても、このときばかりは都合をつけて参拝するという方も多いようです。  「千日大祭」の楽しみが、暑気払いの「そうめん」のご接待と、縁起物の「人形いも」です。「そうめん」の出し汁は、清水寺の観音さまのお経が上がったお酒を使って作っています。ですから、「そうめん」を食べることで、その御利益をお受けすることができるのだそうです。  「人形いも」とは、細長い小ぶりのさつまいものことです。指のように細いものや何かを形どったような可愛らしいものもあり、それで「人形いも」と呼ばれるようになったとか。この種のおいもは、長崎市内のスーパーなどでは宮崎県産や鹿児島県産のものをよく見かけますが、清水寺で出されるのは地元、長崎市飯香浦(いかのうら)で作られたもの、というこだわりがあります。  飯香浦は橘湾に面した地域。その昔、京都のとあるお姫さまの一行が長崎へ向かう途中、海上で難破。流れ着いた飯香浦で村人に手厚い看護を受け、収穫したばかりのさつまいもを食べて元気をとりもどしました。その後、一行は無事に長崎入りし、清水寺に住むことに。お姫さまは、飯香浦のさつまいもの味が忘れられず、「千日大祭」で用いるようになったそうです。  シンプルな蒸しいもですが、お姫さまの気持ちが分かる、と思うくらい甘くておいしい「人形いも」。友人用にも購入(1パック300円)し、安堵して帰路に着きました。   夕方吹く風にときおり秋の気配が感じられる夏の後半戦。涼みがてら港へ出ると、タグボートに先導されながらゆっくりと港を出る大型クルーズ客船の姿がありました。この8月長崎港へ入ったクルーズ客船は10数隻。早朝入港し、その日の夕方に出航する船が多いようです。予定では、8月24日(水)「コスタ・セレナーデ(約114,147t)」、8/27(土)「スカイシー・ゴールデン・エラ(72,458t)」、8/30(火)「サファイア・プリンセス(115,875t)」、8/31(水)「クアンタム・オブ・ザ・シーズ(168,666t)」と寄港が続きます。大海原を旅する白く大きな船体を眺めていると、暑さも忙しさもしばし忘れます。お出かけになりませんか。

    もっと読む
  • 第504号【美しい長崎の眺望。稲佐山と鍋冠山】

     残暑お見舞い申し上げます。日中、厳しい暑さではありますが、夜ベランダに出て虫の声を聞くと、かすかに秋の気配が感じられます。夜風に揺れる風鈴の音色に、心もからだもクールダウン。平和な夏の夜です。昨日8月9日は長崎原爆の日。71年前のこの日の夜をこの街の人々は一体どのように過ごしたのでしょう。当時を知る身内や原爆を体験した語り部の方々の話を思い出しながら想像します。普段は忘れてしまっているけれど、大きな犠牲をはらって、いまがある。原爆の日は、戦争のない普通の日々の尊さをあらためて気付かせてくれます。  炎天下、長崎のまちのあちらこちらできれいな花を咲かせているのが夾竹桃(キョウチクトウ)です。インド原産で、日本へは江戸時代に中国経由で入ってきたそうです。花は桃の花に似て、葉は竹の葉に似ているのがその名の由来だとか。排気ガスなどに強いとされ温かい地域では街路樹として利用されています。広島市では、原爆投下後いち早く花を咲かせ人々に希望を与えた花として、市花に制定されています。長崎でもあの夏の日につながる慰霊の花のひとつです。  夾竹桃の花が揺れるまちを行き交う人々。夏休みの真っ只中ということもあり、お子さん連れの観光客の姿が目立ちます。長崎の夜景スポットとして知られる稲佐山(標高333m)へひさしぶりに出かけると、ロープウェイの駅舎がリニューアルされ、すっきりした装いに。乗り場では、アジア各国の観光客が行列をつくって乗車待ちをしていました。  そろそろ日没という時刻に全面ガラス張りのかっこいいゴンドラで山頂へむかうと、展望台はすでに人でいっぱい。この時期、日本の西端にある長崎の日没は19時過ぎ(東京より30分以上も遅い)。刻一刻と変化する市街地の眺めは新たな道路や建物の光も加わって、美しさを増したようでした。  稲佐山から港をまたいだ向こうに側には、この春、リニューアルしたばかりの鍋冠山(なべかんむりやま)の展望台の電灯が見えました。鍋冠山は、グラバー園(南山手)の背後にある山で標高169m、稲佐山の半分ほどの高さです。新しい展望台は、半円形を描く広い眺望スペースが設けられています。市街地や長崎港内をより近くに見渡し、港の沖合に浮かぶ世界文化遺産の軍艦島も望むなど、稲佐山とはまた違った長崎の景色を楽しめます。ふだんは人も少なめでのんびり展望を楽しめるのですが、大型クルーズ船の入出港時は、展望台が混み合うほど大勢の人が訪れるそうです。  鍋冠山の展望台へは、長崎バスの「うみかぜ」というコミュニティバスで行くと便利(二本松団地バス停下車、徒歩約15分)です。もうひとつのルートで、グラバー園の第2ゲートから10分ほどで登れる階段もありますが、この秋くらいまで整備のための工事が入り利用できないそうです。   長崎観光のパンフレットやハガキでおなじみの景色を楽しめる稲佐山や鍋冠山。日常が美しい平和な長崎の景色を、この夏、ライブで眺めてみませんか。

    もっと読む
  • 第503号【夏到来!鳴滝で司馬作品と出会う】

     先週、梅雨明けした九州。本格的な夏がはじまって、連日セミの鳴き声で目を覚ますという方も多いことでしょう。日中、暑さを逃れひと息ついた公園の木陰で、ふと、幹に目をやると、シャワシャワシャワと鳴くクマゼミが何匹もいて、びっくり!足元を見るとセミが抜け出た穴があちらこちらに。持っていた日傘を差し込んで深さをさぐったところおよそ5〜6センチ。この土の中で数年を過ごしたことを思い再びセミを見上げると、いきなりオシッコをかけられ、あやうくシリモチをつきそうになりました。  家事や仕事に明け暮れる大人になっても、セミの鳴き声に包まれると、童心に返り当時の夏の記憶が鮮やかによみがえることがあります。昆虫採集に夢中になったこと、毎日のように海で泳いだこと、蚊帳のなかでお化けの話を聞かされ泣く泣く眠った夜のこと…。あなたはどんな夏の思い出がありますか。  長崎のまちを歩けば、夏を告げるサルスベリがあちらこちらの庭先で花を咲かせています。眼鏡橋がかかる中島川のアオサギは、水しぶきを浴びて気持ち良さそう。中島川の支流のひとつが流れる鳴滝地区へ足を運べば、山々の緑は強い日差しのもとでいっそう濃く見えます。足元の畑には、俳句で秋の季語とされる、「えのころぐさ」(ねこじゃらし)が生い茂っていました。ちなみに、来月7日は「立秋」です。  野山はめくるめく季節を教えてくれます。この暑さも、ずっと続くわけではありません。ならば、季節に寄り添いつつ、暑さを忘れる日々の楽しみを見つけながら過ごしたいものです。この夏、「シーボルト記念館」で開催中の企画展「司馬遼太郎と幕末維新の群像」は、司馬作品のファンや幕末・明治の歴史に関心のある方々にとっては、そんな楽しみのひとつになるのではないでしょうか。  今年、没後20年を迎えた司馬遼太郎(1923-1996)。『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』など名作の数々を世に送り出し、いまも新たなファンを生みながら読み継がれています。長崎やシーボルトにとくにゆかりのある作品としては、『竜馬がゆく』のほか、日本近代兵制の創始者・大村益次郎を描いた小説『花神』、医療の視点で幕末から明治維新の時代を描いた『胡蝶の夢』などがあります。  この企画展では、そうした作品の引用文に、シーボルトの娘イネ、シーボルトを尊敬したポンペ、長崎で蘭学を学び大坂で「適塾」を開いた緒方洪庵、そして坂本龍馬など、小説に登場する人物の資料を添えて紹介しています。登場人物にまつわる史実を知れば、初めて読む方はもちろん、既読の方も、より深く、広く小説を楽しめると思います。  かつて西欧の医学を学ぼうと日本各地の俊英たちが足繁く通った「鳴滝塾」。その跡地にたつ「シーボルト記念館」では、緑陰に包まれたシーボルトの像が迎え入れてくれます。「司馬遼太郎と幕末維新の群像」は小さな企画展ですが、今回のような司馬作品関連の展示は長崎では初めてのことだとか。平成28年8月28日(日)まで開催です。  ◎取材協力:シーボルト記念館 (長崎市鳴滝2-7-40)TEL095-823-0707        月曜日休館

    もっと読む
  • 第502号【ハスの花咲く唐比へ】

     泥水のなかからスクスクと長い茎を伸ばし白やピンクの多弁の花を咲かせるハス。仏教にゆかりの深い花として知られていますが、その姿はやはりどこか神秘的で美しい。清しい芳香とともに、古くから人々に愛されてきた花です。  ハスの名所として知られる「唐比ハス園」(長崎県諫早市森山町唐比)へ行ってきました。「唐比ハス園」は、橘湾に面した唐比海岸そばの唐比湿地公園内にあります。長崎市街地からは、国道251号線を雲仙方面へ走るバスに乗って小1時間ほど。諫早駅からは唐比行きのバスで約40分です。  「唐比ハス園」の広さは約2.5ha。地元のボランティアグループが長年コツコツと手入れを続けながら、その規模を徐々に拡大してきたそうです。ハスの花と同じくらいの高さに木造りの通路が張り巡らされているので、どこからでもハスを一望できます。園内には十数種類のハスと数種類のスイレンが植えられていて、ハスは8月上旬まで、スイレンは初秋まで楽しめるとのことでした。  この日、花を咲かせていたのは、「唐比古代ハス」、「ミセススローカム」、「王子ハス」、「誠ハス」など。色合いや花弁の形にそれぞれの美しさがあります。おおぶりのハスの花を引き立てているのが、さらに大きな緑の葉っぱです。露を受けて水玉を転がしている光景が涼しげでした。  花びらを落とし、花托があらわになったものもありました。花托の表面に空いた複数の小さな穴は蜂巣を思わせます。これが、ハスの古名である「ハチス」の由来ともいわれています。ちなみに花托の穴は、その中で育っているハスの実の通気口の役目を果たしています。ドングリくらいの大きさに育つハスの実は、自律神経を整えたり、疲労回復にも効果があるとして薬膳の食材として利用されます。地下にのびる茎は、おなじみのレンコン。また葉も食用に用いられ、花びらも花茶として楽しめます。ハスは花も実も葉も根も利用できるすごい植物なのです。  すごいといえば、ハスの生命力です。その強さを証明するきっかけのひとつとなった「大賀ハス」を園内で見ることができました。美しいピンク色をしたこのハスは、戦後、土器や石器が出土する落合遺跡(千葉県)で発掘されたハスの実を、植物学者の大賀一郎博士が発芽に成功させたものです。その実は、二千年前の弥生時代のものと推定されるものでした。  ハス園を訪れる際のポイントは、午前中に楽しむということ。「花は日の出とともに咲きはじめて、昼を過ぎたら閉じてしまうからね」と近くで農作業をしていた地元の方が教えてくれました。   島原半島に入る直前に位置する「唐比ハス園」一帯は、「島原半島ジオパーク」に含まれています。「島原半島ジオパーク」とは、地球のダイナミックな営みを観察できる公園のことで、海岸や温泉、田畑など、たくさんのジオサイトが点在するネイチャースポットです。ここ唐比湿地からは25万年前の火山灰も見つかっています。また、ハス園に隣接する唐比海岸は、橘湾と島原半島、天草の島々を一望する眺めがすばらしく、新観光百選にも選ばれています。とにかく、静かでのんびりできる唐比。この夏、足を運んでみませんか。

    もっと読む
  • 第501号【東洋と西洋のドラゴン・アイズ】

     すももが出回る季節になりました。すももの酸味(リンゴ酸、クエン酸)は疲労回復に効果があり、食物繊維の働きでお腹の調子も整えてくれます。何となく気分も体調もスッキリしない梅雨どきにうれしい果物です。  すももは、バラ科サクラ属の落葉小高木。枝に小ぶりの実が付いた様子は梅にも似てかわいいですね。ところで、沖縄にはすももと同時期の果実で、「竜眼(リュウガン)」と呼ばれるものがあるそうです。こちらはムクロジ科ムクロ属の木。ライチに似て、とってもジューシーだとか。名の由来はその形が「竜の眼」を思わせるからだそう。  長崎には、この果物と同名のかまぼこがあります。ゆで玉子をアジやイワシ、サワラなどのすり身で包み、油で揚げたものです。名前の由来もやはりその形が竜の眼に似ているからなのでしょう。てっきり、どこでも作っていると思っていたら、転勤族の知人らに聞いてみると、長崎以外では見たことがないという人ばかり。ということは、長崎の郷土料理ということでしょうか。  70代の地元の女性数人に話をうかがうと、「竜眼は、伝統料理とまでは言わないけれど、比較的新しい長崎の行事食かもしれないね」とおっしゃる。というのも、戦後間もない頃までは、玉子はとても貴重で、竜眼は作られていなかったと思われること。その方々が竜眼を食べるようになったのは、食生活が豊かになりはじめた昭和30年代半ば以降で、その頃から主にお正月や運動会、行楽時に作る行事食のひとつであったそうです。  ところで洋食に、「スコッチ・エッグ」というものがあります。イギリスでは惣菜の定番のひとつで、ゆで玉子をミンチで包み、パン粉を付けて揚げたものです。18世紀にロンドンのデパートで作られはじめたのが、イギリス中に広まるきっかけになったという説があります。ルーツをさらに辿ると、大航海時代にイギリスが拠点のひとつとした東南アジアから伝わったという説もあります。  長崎の「竜眼」も、「スコッチ・エッグ」も、玉子を包む素材がお肉か、魚かの違いだけで、作り方も姿もよく似ています。さしずめ「西洋と東洋のおいしいドラゴン・アイズ」といったところでしょうか。もしかしたら、長崎で竜眼が根付いたそもそものきっかけは、江戸〜明治期に全国でもいち早く西洋料理を見たり味わったりする機会があった歴史のなかで、すでに玉子をお肉で包んだ料理を目にしていて、手に入りやすかった魚のすり身で応用したということも考えられます。  一方で、「竜眼」はその名前も姿も、どこか中国料理っぽさがあります。長崎の郷土料理には、同じ「竜(龍)」が付く料理で、「飛竜頭(ヒリュウズ、ヒロウス)」があります。中国ゆかりの普茶料理(精進料理)の一品ですが、その名はポルトガル語で揚げ物の一種を意味する「フィリョース」に由来し、漢字を当てたものともいわれています。ちなみに、「飛竜頭」とは豆腐にニンジンやゴボウなどを混ぜて作る「がんもどき」のことです。   料理の名の由来や作られはじめたきっかけを辿っていくと、たくさんの枝葉に分かれ、収集がつかなくなります。ただ、ひとつ言えるのは、おいしいものは時代や地域性に応じた変化を遂げながら食べ継がれるということ。昔ながらの郷土の味をいただくことは、そうやって時代をくぐり抜けてきたパワーをいただくことでもありました。

    もっと読む
  • 第500号【人々と風土のたまもの】

     庭に植えられたザクロの花が咲きはじめた6月1日は、秋の大祭「長崎くんち」の稽古始めの日とされる「小屋入り」。今年の踊町である六カ町(上町・筑後町・元船町・今籠町・鍛冶屋町・油屋町)は、午前中に諏訪神社と八坂神社にお参りを済ませ、午後からは「打ち込み」(くんち関係先への挨拶)に廻りました。紋付の黒い羽織に唐人パッチ(ステテコ)姿の役員さんたち、担ぎ手や演者、そしてシャギリ(囃子)の人たちがまちを練り歩く姿は颯爽として、本番(10月7・8・9日)への期待感が高まりました。  賑やかな小屋入りの行列が通り過ぎた街角で、静かに咲いていたのが中南米原産の「トケイソウ」です。花のつくりが時計の文字盤に見えたのがこの和名の由来です。一方、英名は「passion flower」(パッション・フラワー)で、「キリストの受難の花」を意味するとか。16世紀、中南米に派遣されたイエズス会の宣教師が、この花の個性的な姿が十字架やイバラの冠などキリストの受難を象徴するものに見えたことから、そういう意味を持つラテン語の名前で呼び、のちに英語に訳されてパッション・フラワーになったそうです。  宣教師たちによって布教活動にも利用されたというパッション・フラワー。この花が日本へ渡来したのは享保年間(1716〜1736)だといわれています。当時の日本は鎖国下にあり、キリスト教は禁止の時代です。こんな曰く付きの花が一体どのようなルートで日本へやって来たのでしょうか。トケイソウは、ちょっと不思議なその容姿も相まって、いろいろな物語を想像させる花であります。  眼鏡橋がかかる中島川のそばに咲いていたトケイソウ。川面に目をやると、アオサギが獲物の小魚をじっと待つ姿がありました。中島川では、これまで数種類のサギを見かけましたが、毎年春になると新しい顔ぶれに変わるよう。現在、常連で見られるのは2羽のアオサギのみ。ここ数年、どこかペンギン似のゴイサギの姿はなく、半年前に見かけたシラサギもいません。サギ類は、各地に生息していて田んぼやあぜ道に限らず、まちなかを流れる川などでも見かけます。あなたのまちのサギはどんな様子でしょうか。  6月4日、九州地方は梅雨入り。タイサンボクの大きな白い花や、南天の小花がそぼ降る雨にぬれています。めぐる季節のなかで、港に出て海上から長崎のまちを見渡せば、恵まれているばかりとは言えない風土のなかで、長い寒村の時代を経て、16世紀からは商人のまちとして栄え、伝統の祭りやカステラ、ちゃんぽんなどのおいしい名物を生み、さらには平和の尊さを伝え継ぐまちとなった怒涛の歩みに感慨のようなものがこみあげてきます。   どの時代にも言えるのは、長崎はつねに近隣の地域や日本各地、さらには世界各国の人々とのさまざまな関わりやつながりに支えられてきたということ。人知れず大海原を越え長崎港を渡る潮風は、何にも記されることのない星の数ほどの人々の営みの先に私たちがいて、未来の人たちがいることを教えてくれるのでした。

    もっと読む
  • 第499号【去来と長崎】

     中島川の上流では、オシドリがこの春生まれの子どもたちを連れて、のんびり泳いでいます。沖縄は一足早く梅雨入りしましたが、長崎はまだ五月晴れの爽やかな日が続いています。そんな中、紫陽花の季節がはじまって、夏服姿の人も増えてきました。  紫陽花や帷子時の薄浅葱(あじさいや かたびらどきの うすあさぎ)  芭 蕉 帷子とは夏用の麻の着もののこと。夏衣になった梅雨前、うっすらと青緑色を帯びた咲きはじめの紫陽花の初々しい姿を詠んでいます。長崎の紫陽花もちょうどいま、この句のような感じ。これから梅雨にかけて色合いが濃くなり七変化を楽しめます。  蕉門十哲のひとりである向井去来(1651-1704)に、紫陽花の句を見つけることはできませんでしたが、この季節の山の緑を詠んだものがありました。みずみずしい若葉におおわれた山の表情がまっすぐ伝わってきます。  ひかりあふ二つの山のしげりかな   去 来  芭蕉の信頼も厚かったと伝えられる去来は、長崎生まれ。長崎市立図書館そば(長崎市興善町)に「去来生誕の地」の碑が立っています。父、向井元升(げんしょう)は、儒学者で儒医でもありました。また出島に輸入されてきた海外の書物の内容を確認する「書物改め」もつとめていました。また、私塾の輔仁堂を開いて民間の子弟へ学問を教え、さらに長崎聖堂(学問所)を建立するなどしています。元升は、去来ほど知名度はありませんが、長崎の歴史に大きな影響を及ぼした人物です。別の機会にあらためてご紹介したいと思います。  さて、去来は8歳のとき父の意向で一家そろって京都に移住。十代後半には母方の親戚である福岡の久米家に身を寄せ武芸に励み上達するも、思うところあって二十代半ばで京都の家にもどります。そこでは、儒医としての名声を高めていた父の医業を継いだ兄・元端をサポート。その一方で天文学や暦数の知識を活かし、皇族や公家の家に出入りしていたそうです。  その後、去来が芭蕉に師事するようになったのは三十代半ばのこと。芭蕉は去来を高く評価し、「鎮西俳諧奉行」とまで言わしめたほどでした。去来は、身内が居住していたこともあり、たびたび故郷・長崎を訪れたといわれていますが、はっきりとした記録に残っているのは、40歳(1689年)のとき(約2カ月滞在)と、49〜50歳のとき(約15カ月滞在)の帰郷です。40歳のときの短い滞在中は、身内に問われるままにおしみなく俳諧の奥義を説いたとか。長崎を去るとき、日見峠まで見送りにきた卯七(義理従弟)との別れを惜しみ、「君が手もまじるなるべし花薄」の句が詠まれました。この句は約100年のちの1784年に長崎の俳人たちによって句碑が建立され、現在も日見峠に近い場所に残されています。  49歳のときの帰郷では、いろいろな人に招かれて度々句会に参加。長崎の俳壇に大きな影響を及ぼしました。高潔で恩愛の人であったといわれる去来。諏訪神社、春徳寺、梅香崎町、飽の浦町など長崎市内には去来ゆかりの場所がいくつも点在しています。興味のある方は、訪ねてみてはいかがでしょうか。  ◎  参考にした本/「俳諧の奉行 向井去来」(大内初夫・若木太一 著)、「向井去来の句碑・足跡を訪ねて」(宮川雅一 著)

    もっと読む
  • 第498号【大きなクスノキをめぐる】

     長崎港を囲む山々は青葉若葉におおわれて、すっかり初夏の装い。なかでも目を引くのが黄緑色のみずみずしい葉を茂らせたクスノキです。この時期は小さな白い花がたくさん付くので、若葉がますます輝いて見えます。あらためて長崎にはクスノキが多いことを実感する季節でもあります。  クスノキ(楠)は南の木と書くように、暖かい地域に育つ樹木です。「緑の国税調査」(環境省の自然環境保全基礎調査のこと)によると、クスノキの分布範囲は関東以南の太平洋側、とくに九州地方に多く見られるとのこと。九州のなかでも鹿児島は、特にクスノキとのゆかりが深いところのようです。江戸時代、出島を通して西洋に輸出された品物には銀や銅、漆製品、伊万里焼などがありますが、クスノキを原料に作られる樟脳もそのひとつでした。当時の樟脳の主な製造・輸出元は薩摩藩。そうした歴史もあって、クスノキは鹿児島の県木にもなっています。  クスノキは寿命が長く、巨木になる樹種です。スギ、ケヤキ、イチョウなども大きく育ちますが、「緑の国税調査」の全国巨木リストをみると、1位の鹿児島県蒲生町の大クス(幹回り24.2m)を筆頭に、上位の大半をクスノキが占めていて、ダントツで日本の巨木を代表する樹木であることが分かります。  さて、地元長崎の県下各地には樹齢数百年ともいわれる大クスが数多くあります。長崎市中心部では、「大徳寺の大クス」(西小島町)がよく知られています。樹齢は800年くらいと言われ、幹回りは約13m。長崎県内では島原市有明町の「松崎の大クス」と1、2位を競う巨木です。ところで、クスノキは常緑樹ですが、葉の寿命は約1年で、春、新葉が出る頃に落ちます。「大徳寺の大クス」の下は、この春の落ち葉でいっぱいでした。  諏訪神社や松森神社がある上西山町の山の斜面もクスノキが多く見られます。クスノキは英語で「カンファ・ツリー」といいますが、居留地時代、長崎にやって来た外国人が、この一帯の山を「マウント・オブ・カンファ」(クスノキ山)と呼ぶほど目立っていたようです。松森神社の境内にはクスノキが群れ、もっとも巨大なものは「松森の大クス」と呼ばれています。8mはあるという太い幹から天に伸びた枝葉、がっしりとした根はどこか神聖さを帯び、思わず手を合わせてしまいます。   浦上駅近くの山王神社境内入り口にそびえる2本の「被爆クスノキ」も長崎市内でよく知られる巨木です。数年前、このクスノキをモチーフにした歌が注目され参拝者が増えました。被爆する直前まで葉を茂らせ涼しい木陰を提供していたであろう2本のクスノキは、強烈な爆風と熱線を受け無残な姿になりました。しかし2年後、息を吹き返したかのように新芽が出て、71年後の今日に至っています。五月の風が吹き抜ける昼下がり、この木の下で耳を澄ませば、心地良い葉ずれの音が聞こえてきます。この音は、長崎県で唯一「日本の音百景百選(環境省)」に認定されたとか。いつまでも奏でてほしい平和の葉音でありました。

    もっと読む
  • 第497号【崇福寺の吉祥文様と大釜】

     熊本地震で被災された方々には心からお見舞い申し上げます。長崎にとって熊本はお隣の県。熊本が揺れるとき、長崎はその余波を受けながらも日常生活への影響はなく、熊本・大分で避難生活をおくる方々へ多くの人が思いを寄せています。いま現地へはボランティアが入れるようになり、各地の自治体などで被災地への支援物資の受付がはじまっています。状況を見極めながら、微力でもできる支援を続けていきたいと思います。  クスノキの若葉がまぶしいこの季節。九州ではツツジが満開。アヤメ属の花々もあちらこちらで咲きはじめています。長崎市鍛冶屋町にある唐寺、崇福寺へ足を運ぶと花期を迎えた「カラタネオガタマ」がバナナに似た甘い香りを漂わせていました。モクレン科オガタマノキの仲間のひとつで、やや黄色をおびた花びらをもつ「カラタネオガタマ」は中国原産。江戸時代に日本に伝わったといわれています。ちなみに日本のオガタマノキの花びらは白です。  崇福寺の「カラタネオガタマ」は、参道の階段を上った先にある「第一峰門」(国宝)のそばに植えられています。1696年頃に建てられた「第一峰門」は、吉祥文様が彩り豊かに描かれた朱色の門扉です。扉に施された青いコウモリ、白いボタンの花が目を引きます。軒の部分にも、瑞雲、丁子、方勝(首飾り)、霊芝など、福につながる意匠がぎっしり描かれています。この絵のタッチは、いまどきのイラストめいていて楽しい。崇福寺ではこうした縁起かつぎの意匠が各所に見られます。そのご利益が被災者の方々に届くことを願いながら境内をめぐります。  江戸時代初期、長崎在住の福州のひとたちが唐僧・超然を招いて創建した崇福寺。境内はどこかおおらかでのんびりとした空気が漂い、日本の寺院とは違う趣き。国宝の大雄宝殿(本殿)をはじめ三門、媽祖堂、鐘鼓楼など多くの建造物が重要文化財や史跡に指定されているだけあって見応えがあります。  境内の一角には、大きな釜が祀られています。4石2斗のお米を炊くとされるこの大釜は、二代目住職の千がいが飢餓救済のためにつくったもの。そのきっかけは、延宝8年(1680)の全国的な不作による米不足でした。お米を諸国に頼っていた長崎は翌年には餓死者が出るという状況に見舞われます。大釜は不作の影響が続いていた2年後に完成。多い日には3千から5千人に及ぶ人々に粥を施したそうです。   いつの時代もさまざまな天災に見舞われ、日常生活を脅かされてきた日本。その度に、人々は助け合い、のりこえ、いまに繋いできました。未曾有の災害といわれるものでも、必ず復旧・復興の日は来ます。たいへんな状況にある被災者の方々が、まずは、きょう一日を無事に過ごされることを祈っています。

    もっと読む

検索