第511号【風雅を愛した何兆晋〜心田菴〜】
月が地球に最接近したときと、満月になるタイミングがあったときに観ることができるスーパームーン。今月14日でしたが、ご覧になられましたか?長崎はあいにくのお天気でしたが、翌々日くらいまで、大きく輝く月を拝むことができました。 月を愛でたり、紅葉を眺めたりと、風雅なシーンをいろいろ楽しめるこの時季に合わせて、今年も長崎では「心田菴(しんでんあん)」(長崎市片淵2丁目/長崎市指定史跡)の一般公開(11月17日〜12月13日迄)がはじまりました。日本庭園とかやぶき屋根の家屋が江戸時代の風雅を伝える「心田菴」。庭園では、松の大木、梅、桜、ヤブ椿など約50種類の植生が見られるとか。公開初日に足を運ぶと、色づきはじめた山紅葉、赤い実をつけた千両、万両、そして黄色いツワブキの花などが晩秋らしい彩りを添え、来場者の目を楽しませていました。 「心の田畑を耕すことが大切である」との思いから名付けられたといわれる「心田菴」。茶室を設けた家屋も庭園も簡素で控えめな印象です。建てたのは何 兆晋(が ちょうしん)(1627頃〜1686)という人物。字(あざな)は「可遠(かえん)」、号は「心聲子(しんせいし)」、日本名は仁右衛門(にえもん)といいます。兆晋は、この別荘を建てる前、唐小通事を10年ほどつとめています。唐小通事とは、江戸時代に中国との貿易交渉などにあたった通訳の「唐通事(大通事・小通事・稽古通事)」を構成する職務のひとつです。 兆晋の父は、何 高材(が こうざい)という福建省出身の帰化唐人で、日本との貿易で財をなした大富豪でした。高材は、崇福寺(長崎市鍛冶屋町)の大雄宝殿や清水寺本堂(長崎市鍛冶屋町)の建立、そして石橋築造などに寄進し、長崎のまちづくりに尽力。兆晋も父とともに寄進することがあったようです。兆晋が唐小通事職を辞した理由については、以前本コラムでも紹介した「伊藤小左衛門事件」に、兆晋の下人が関わっていたことによるものと推測されています。兆晋42歳の頃でした。その後、「心田菴」を建て風流人として暮らしたとされていますが、裕福であったとはいえ、どのような思いで当時の長崎のまちや人を見ていたでしょうか。 ところで兆晋は、中国の伝統楽器、七弦琴(しちげんきん)の名手であったそうです。そのご縁で、肥前鹿島藩の第四代藩主・鍋島直條(なべしま なおえだ)と交流がありました。直條は、近世初期の西国随一の文人大名と称される人物です。直條とその友人らの漢詩や和文などの作品を収めた『詩箋巻』には、直條との親密さがうかがえる兆晋(心聲)の作品が多く収められています。 兆晋亡き後、江戸時代後期の文人画家で長崎に遊学した菅井梅関が「心田菴図」を描いており、幕末の国学者・中島広足も心田菴を紹介する記述を残すなどしています。また、兆晋と交流があった長崎出身の儒学者・高玄岱(こうげんたい)は、『心田菴記』を記し、世俗の盛衰や存亡などとは縁はなく、倹約の暮らしがあった心田菴の様子や兆晋の人柄などについて次のように書き残しています。「……格別な一世界である。これはいわゆる心田と言うべきか。……君がもとより富む人でありながら世俗の垢や塵を棄て、山水の間に放って、楽しみながらも酒食や浪費をしないでくらしていることを知って友とするのである。この楽しみは、君と交わって尽きることはない。」心やさしき風流人、何 兆晋が残した心田菴。紅葉の見頃はこれからだそう。足を運んでみませんか。 ◎参考:「高玄岱 自筆巻子本『心田菴記』について」(若木太一/長崎歴史文化博物館『研究紀要』第七号)、『文人大名 鍋島直條の詩箋巻』(中尾友香梨、井上敏幸/佐賀大学地域学歴史文化研究センター)
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