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  • 第526号【乗り越えていく】

     九州北部地方での記録的豪雨による被害に合われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。引き続き大雨や土砂災害の情報に注意して過ごされ、どんなときも身の安全に努めてください。そして、1日も早く安定した状況になることをお祈り申し上げます。  歴史を振り返れば、異常気象や地震などの自然災害で、わたしたちの生活は幾度も窮地に追い込まれました。自然の脅威には逆らえないことを思い知らされる一方で、人々は自然発生的に炊き出しや救護を行い、助け合いながら切り抜けてきました。全国各地にはそうしたエピソードがいくつも語り継がれ、ゆかりの品々などが大切に残されていることもあります。  長崎市鍛冶屋町にある唐寺・崇福寺の大釜(市指定重要文化財)もそのひとつです。大釜の重さは約1,200キログラム、直径1.86メートル、深さ1.7メートル。一見、五右衛門風呂のようでもあるこの大釜は江戸時代のもの。石畳の境内の一角に設置されていて、いつでもその姿を拝むことができます。  この大釜が造られたのは、延宝年間(1673-1681)に各地で不作が続き飢饉が発生したことがきっかけです。その流れで長崎では1681年(延宝9)に大飢饉が起き、餓死者が出ました。当時の崇福寺の住職は自分の衣類や道具を売ったり、托鉢をして浄財を得、庶民に粥を施したと伝えられています。そして、増える難民に応じるためだったのでしょう、翌年、同町内の鋳物師に、一度に十俵(約三千人分)の粥を炊くことができる大釜を造らせたのでした。  大釜は、その大容量で多くの難民を救ったと伝えられています。実際に目の当たりにすると、釜戸に乗せたり、米と水を入れたり、粥をついだりする作業はかなりたいへんだったろうと想像できます。まさに人々が協力し合っての施粥だったに違いありません。  近年、相次ぐ自然災害の折、被災地で人々が助け合い、協力し合う姿を報道などでよく見聞きします。人はきっと、危機にさらされた状況を見たとき、本能的に手をつなぐようにできているのかもしれません。そして、今回の豪雨の被災地に対しても、自分にも何かできることはないかと思う方も大勢いらっしゃることでしょう。  災被災された方々が元気をとりもどすことを願って、本当にささやかですが、長崎から「ハート」のある風景をお届けします。まずは、眼鏡橋のそばにあるハートストーン。ここは観光客の姿が絶えない場所。愛する気持ちをたくさん浴びたストーンですから、きっと縁起がいいはず。そして、ハト胸ならぬ、ハート胸のネコ。数年前、浦上天主堂の敷地内でひょっこり出会ったネコです。胸の毛並みを見るたびに、気持ちがゆるみます。   梅雨空の下、長崎港に出ると先月下旬に初入港した「ノルウェージャン・ジョイ」(167,725t)という大型客船が再び寄港していました。建造されて間もない船で、白い船体に描かれたイラストが目を引きます。長崎港にはこの夏も多くの客船が入港を予定しています。多くの人が笑顔で往来する平穏な風景のありがたさを感じるほどに、被災地への思いは募ります。被災された方々がこの窮地を乗り越え元気をとりもどすことを心から祈ります。

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  • 第525号【職人町だった界隈(魚の町)】

     前号でご紹介したウラナミジャノメと思われるチョウ。後になって、絶滅のおそれがある希少な動植物をまとめた長崎県のレッドデータブックに掲載されていたことがわかりました。それを機に、これまで以上にチョウの存在が気になるように。6月下旬、花期も終盤となったシロツメクサのまわりを飛んでいたのは、お馴染みのモンシロチョウと、オレンジ色系の翅を持つツマグロヒョウモン。翅の先端に黒、白、グレーのきれいな模様を持っていたので、これはメス。オスにこの模様はありません。ツマグロヒョウモンは、もともとは南方系のチョウでしたが、近年は温暖化の影響で近畿地方でもよく見られるとか。小さな昆虫たちの世界からダイナミックな気象の変化が垣間見えます。  長崎市中心部は、オフィスビルが建ち並ぶバス通りからせまい路地に入ると、古い側溝や石垣などがそこかしこに残り、季節まかせの草花がのんびりと咲いています。チョウたちは、そんなところにふわりと姿をあらわすのですが、長崎市桜町にある長崎市役所別館の裏手もそうした界隈のひとつです。まちの真ん中にありながら、静かな路地裏の風情が漂うそのエリアは魚の町(うおのまち)。一角ではいま、長崎市公会堂の解体工事が進められていて、跡地には長崎市役所本庁舎が建てられることになっています。  まちの表情が大きく変わろうとするなか、このあたりの江戸時代をふりかえってみると、今紺屋町、中紺屋町、本大工町というまちが隣接。町名からわかるように、それぞれ紺屋(染物屋)、大工職人が集まる職人町でした。  紺屋は大量の水を使う仕事なので、中島川沿いに発展しました。実は今紺屋町、中紺屋町より先に、慶長2年(1597)につくられた最初の紺屋町が少し下流にあって、それが本紺屋町。南蛮貿易で栄え、長崎の人口がどんどん増えるなか、紺屋は大繁盛。職人も増えて10年もしないうちに、今紺屋町ができ、間もなく中紺屋町も生まれたのでした。同じ頃、中紺屋町の隣には、桶職人らが集まった桶屋町もありました。  かつて大工職人が居住した本大工町。現在、長崎市内で、「大工」が付く町名は、新大工町と出来大工町の2つがありますが、そのルーツが、この本大工町です。長崎開港後、まちの発展に伴うもろもろの建設に大工職人は不可欠。次第に職人も増え、本大工町だけでは収まりきれなくなりました。慶長11年(1606)、近隣に新大工町ができ、その後さらに、新大工町は2分され一方は出来大工町と称しました。いずれもその当時とほぼ変わらぬ場所で、現在に至っています。   南蛮貿易の時代から江戸時代にかけて商人のまちとして発展した長崎。そこには貿易に携わる者だけでなく、まちを形造り、生活に欠かせない物をつくるさまざまな職人たちの存在もありました。史料には残されていないそうした職人たちの姿を想像すると、また違った長崎の歴史の表情が見えてくるようです。

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  • 第524号【6月長崎ネイチャー歳時記】

     6月1日、長崎くんちの始まりを告げる「小屋入り」が行われました。「小屋入り」とは、その年の踊町(おどりちょう)の世話役や出演者たちが揃って諏訪神社と八坂神社で清祓いを受け、くんちの無事達成を祈願するもの。この日から、それぞれの踊町は演し物の稽古に入るといわれています。今年の踊町は、馬町(本踊り)、東濵町(竜宮船)、八坂町(川船)、銅座町(南蛮船)築町(御座船・本踊り)の五カ町。小屋入りの様子を見ようと、早朝、諏訪神社を訪れると、参道脇ではザクロの花が咲きはじめていました。この花の果実が熟れる秋、長崎くんちは本番を迎えます。  長崎を含む九州北部地方が梅雨入りしたのは6月5日。その数日後の6月9日は満月でした。この日の満月は今年のうちで地球からの距離がもっとも遠いため、最小に見えるといわれていました。さらに月見好きの人たちの間では、「ストロベリームーン」が見られるとあって、ちょっとした話題に。「ストロベリームーン」とは、夏至の時期の満月が、地平線、水平線近くでいつもより赤みを帯びて見える現象のこと。しかし、天体の専門家たちは、この日の満月だけが特別に赤く見えるわけでないといっているとか。この日、住宅街からはさすがに地平線・水平線近くの満月はのぞめませんでしが、深夜、南の空を見上げると、満月はいつもよりかわいいサイズで、心なしかピンク色を帯びて見えたのでした。  この時期、身近な自然に目を向けると、雨と日差しをたっぷり浴びるからか、野の花はどれも元気いっぱい。そこへ、ひらひら、ちらちらと姿をあらわすのがチョウたちです。いまは、モンシロチョウより小ぶりで色彩豊かなシジミチョウ科の仲間をよく見かけます。濃いオレンジ色に黒褐色の斑紋が美しいベニシジミは特長的なので分かりやすいですが、青紫色のシジミチョウは、ヤマトシジミ、ルリシジミ、シルビアシジミなど似たような色あいと模様で判別がむずかしい。道脇の葉っぱに翅(はね)を開いてとまっていたのは、たぶん、ルリシジミ。それにしても青紫色のきれいなことといったらありません。  翅(はね)に魅力的な目玉模様を持つジャノメチョウ科の仲間たちも、小さくて目立たないけれど美しい姿をしています。目玉模様の数や茶褐色の濃淡などで種類が違ってきます。写真におさめたのは、後翅に3つの目玉模様がついているところからウラナミジャノメと思われます。けして珍しい種類ではありませんが、日本全国どこでも見られるジャノメチョウと比べ、生息地は限られてくるそうです。   かわいくて美しいチョウ。子どもの頃は平気でつかまえていたけれど、大人になってからは、触ることができなくなったという人もいるようです。チョウを追いかけていると、つかの間ですが童心に帰ることができますよ。ひらひらと目の前を横切るチョウがいたら、あとを追ってみませんか。案外めずらしいタイプのチョウかもしれません。

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  • 第523号【明治・大正の面影残る長崎公園】

     今年も「ながさき紫陽花まつり」(5/20〜6/11)がはじまりました。出島やグラバー園、眼鏡橋、シーボルト記念館などで、咲きはじめの初々しい紫陽花が市民や観光客をお出迎え。紫陽花の花色は「七変化」の異名のとおり、日毎に表情を変えながら人々の目を楽しませています。  雨の季節がはじまる前に、新緑を楽しもうと長崎公園(長崎市上西山町)へ行ってきました。長崎の市街地を見渡す丘稜地にあり、諏訪神社に隣接する長崎公園は、明治6(1873)年に太政官布告により制定された長崎でもっとも古い公園です。  そんな由緒ある公園だからか、園内には明治・大正時代のものが点在。そのひとつが、池に設置された装飾噴水です。これは、明治11年(1878)頃に造られた日本最古の装飾噴水だそう。ふだんは高く吹き出る水にばかり目が行きますが、噴水のデザインをよくよく見ると、モダンで美しい。ハイカラ好みの明治の名残でしょうか。また、池のそばで営業している月見茶屋は、明治18(1885)年創業。名物のぼた餅は、甘さ控えめの変わらぬおいしさでありました。  長崎公園は、長崎の歴史を物語る数々の顕彰碑や文学碑があることでも知られています。そのなかのひとつ「郷土先賢紀碑」は、いまから100年前の大正5年(1916)に建立されたもの。碑には海外貿易、医学、国文学、儒学、砲術、活版術、写真術、慈善などさまざまな分野で功績を残した日本人79人、外国人22人、合計101人の名が刻まれています。  漢字の古い書体のひとつである篆書体(てんしょたい)で刻まれた碑の題字「郷土先賢紀碑」は、徳川宗家16代目の徳川家達(1863〜1940)の書。家達は明治維新後、公爵を授けられ貴族院議長を勤めました。また、外国人の名はカタカナと合わせて洋字(ローマ字)でも刻まれているのですが、洋字は、長崎学の礎を築いた古賀十二郎(1879〜1954)によるものです。  「郷土先賢紀碑」を建立したのは、「長崎市小学校職員会」。郷土の先賢を後世に伝え、将来を担う子供たちの励ましにするのが目的だったよう。それにしても、なぜ、家達が題字を書くことになったのか。碑の近くには徳川家ゆかりの東照宮(安禅寺跡)があるのですが、何か関係があるのでしょうか。ちなみに、洋字を書いた古賀十二郎の記念碑は、公園そばの長崎県立図書館前に設けられています。  「郷土先賢紀碑」のある広場の片隅で、アメリカ合衆国大統領ゆかりのアコウの木が葉を生い茂らせていました。明治12年(1879)6月、第12代アメリカ合衆国大統領の任期(1869〜1877)を終えたグラント将軍が、軍艦で世界旅行の途中、長崎に寄港。5日間ほど滞在し、長崎公園で開催されていた長崎博覧会を視察するなどしました。アコウの木はその際にグランド将軍夫妻が記念に植樹したものです。日本側は夫妻を国賓待遇で迎え、迎陽亭で歓迎会を催しています。   歴史家たちは、グラント将軍を軍人としては高く評価していますが、大統領としては残念ながら真逆で、スキャンダルや汚職により、最悪の大統領のひとりともいわれているそうです。時はめぐり、いまは第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプ氏の時代。はてさて、後世の人々はどんな評価をするのでしょう。

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  • 第522号【長崎の庭から】

     鮮やかな赤い実に、甘い果汁がぎゅっとつまったサクランボ。産地として知られる山形県では、収穫の時期は6月に入ってからでしょうか。ひと足はやく初夏を迎えた長崎の家々では、ゴールンデンウィーク中に庭木として植えられたサクランボが摘み頃を迎えました。天候にめぐまれたのか、いつもより実がたくさんなっているように見えます。サクランボの季節が終わったら、梅雨前にウメやビワが収穫の時期を迎えます。いずれも、すでに青い実がたわわ。どうやら、今年の長崎の庭の果実は表年(豊作年)のようです。  「庭」といえば、ゴールデンウィークに、新緑を満喫できる庭園などへお出かけになられた方も多いのではないでしょうか。長崎駅から車で約7分。長崎市中心部にある「心田庵」(市指定史跡)も、そうしたスポットのひとつです。バス通りをそれた住宅街の一角にあり、かやぶき屋根の家屋と新緑におおわれた日本庭園を楽しむことができます。  心田庵の庭園には、ヤマモミジやツツジなど樹木約300本が植えられています。新緑(4月下旬〜5月初旬)と紅葉の季節(11月中旬〜12月中旬)の年に2回一般公開されていて、昨年の紅葉の季節にも、このブログでご紹介しました。  心田庵は、何 兆晋(が ちょうしん)という江戸期の唐小通事(とうこつうじ)が建てた別荘です。家屋には茶室が設けられています。庭園に面した和室のテーブルには、新緑にかがやくカエデが、逆さに映り込んでとてもきれい。しっとりとした風情の晩秋とはまた違った趣で、訪れる人々を魅了していました。  兆晋の父・高材(こうざい)は、もともと中国の商人で寛永の頃、長崎に移り住み商売をした人物です。お寺や石橋建設の際に寄進をして長崎のまちづくりに大いに貢献しました。裕福な家に生まれ育った兆晋は、風流を楽しむ心やさしき人物だったと伝えられ、心田庵の名称も、人は地位や名誉・財産などより、心の田畑を耕すことが大切だという意味から付けられたとか。また、心田庵は、長崎の茶道文化にも影響を与えたといわれていて、庭園の景色を楽しみながら、茶をたて、友と語らったのだということが想像できます。士農工商の時代にありながら、兆晋は身分を超えた人との交流をもったようで、そのことがうかがえる史料も残されています。  心田庵で新緑を堪能した帰り道、ひとさまの庭先からバニラのような香りが漂ってきました。オガタマノキの花の香りです。花期も、後半に入っているよう。そばの石垣では、アオスジアゲハの姿を確認。名前のとおり羽に青緑色の線が入ったこの蝶は、毎年5月頃から見かけるようになります。   日に日に様子が変わっていく植物や昆虫。そんな小さきものが棲む家々の庭は、地球サイズでめぐる季節を何気に映し出し、日々にうるおいを与えてくれるのでした。

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  • 第521号【初夏の陽気に包まれた長崎】

     桜前線がようやく北海道に上陸。一方、長崎はすっかり初夏の装いで、山々は新緑に覆われています。ゴールデンウィークに先駆けて、港では「長崎帆船まつり」が行われ、大勢の人出で賑わいました。青空の下、停泊する帆船の姿はとても優雅。外国からの観光客を乗せた大型客船も連日入港して、港はいつも以上に華やかに。長崎のまちは、一足はやく大型連休に突入したかのような開放感に包まれています。  長崎港は帆船がよく似合います。江戸時代にこの港にやってきた唐船やオランダ船はもちろん帆船でした。そんなことを思いながら足元を見たら、シロツメ草がかわいい花を咲かせていました。シロツメ草はヨーロッパ原産の植物。その昔、人知れずオランダ船に乗り込み大海原を渡って日本へやってきました。  というのも、シロツメ草は、交易品であった医療器具やガラス製品などのワレモノの間に詰められた干し草のひとつだったそうです。その種子がいつしか日本で花を咲かせるようになったといいます。どこかレンゲ草(ゲンゲ)にも似たシロツメ草が、「オランダゲンゲ」とも呼ばれるのは、そんなエピソードがあるからなのですね。  長崎港から中島川沿いを上流に向かって歩いていると、久しく見かけなかったマガモのつがいを発見。さらに新顔のコサギもいます。中島川の生き物たちも、春から新旧入れ替わったようです。  桃渓橋から川沿いを外れ、諏訪神社(長崎市上西山町)へ。参拝者を見守る大クスは、新緑をさやさやと揺らし、長坂(大門前の参道の階段)では、鯉のぼりが気持ちよさげに宙を泳いでいました。諏訪神社の端午の節句にまつわる行事といえば、5月5日「こどもの日」に行われる、「長坂のぼり大会」です。大人もきつい長坂を、子どもたちが一番札をめざして一斉にかけのぼります。その姿はとても微笑ましく、小さな感動も味わえます。  諏訪神社からほど近い長崎歴史文化博物館の広場へ行くと、長崎式だという鯉のぼりが設けられていました。それは、支柱から斜めにかけられた笹の旗竿に鯉のぼりを下げた形で、風向きに合わせて旗竿が自在に動いて鯉がなびくだけでなく、風がなくても鯉がきれいに見えるのだそうです。  ところで、端午の節句の行事食といえば、全国的に柏餅やちまきなどが知られていますが、長崎の場合は、「唐あくちまき」が郷土の味として食べ継がれています。唐あくで風味をつけたもち米を、棒状の木綿の袋に入れ、飴色に煮炊きあげたものです。糸を使って好みの大きさに切り、きなこや砂糖などをまぶしていただきます。唐あくは独特の風味があり、好き嫌いがあるかもしれませんが、クセになるおいしさです。子どもの頃から食べている人にとっては、ちまきといえば、これ。この時期は、地元の和菓子屋さんなどで手に入ります。   いよいよはじまるゴールデンウィーク。たっぷり休める方も、そうでない方も、何かひとつ、この季節ならではの楽しい体験、おいしい味に出会えますように。

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  • 第520号【サクラ、ツバメ、花まつり】

     3月末に開花した長崎のサクラ。1週間後には満開のときを迎えました。いまは、散りはじめた花びらがまちのあちらこちらで宙を舞っています。そんなやさしい春景色のなかで、何だか忙しげにビルの軒先と外を往復していたのがツバメです。巣作りの真っ最中でありました。  くちばしで泥や枯れ草を運んで作るツバメの巣。ツバメは一度作った巣の場所を覚えているそうで、翌年、同じところにもどったとき巣が残っていれば再利用します。その場合は修復するだけなので1〜2日間ほどで完成。新しく作るとなれば1週間ほどかかるそうです。  ところで、お天気に「ツバメが低く飛ぶと雨」ということわざがあります。これはちゃんと根拠のある話で、雨が降る前、湿度が高くなるとツバメの餌となる虫たちの羽が重くなって低いところを飛ぶようになり、それをねらってツバメも飛行するからだそうです。  さて、長崎のサクラが満開のときを迎えたのは先週8日土曜日。この日は、お釈迦さまの生誕を祝う「花まつり」(灌仏会)の日でもありました。「花まつり」は、全国各地で古くから行われている仏教行事です。誕生仏(釈迦)を祀った花御堂を設け、参拝者は竹のひしゃくで甘茶を仏像の頭上からそそぎかけて生誕を祝います。  いまから約2500年前の4月8日、北インドのルンビニーの花園でお生まれになったお釈迦さま。その生誕を祝う行事が、中国を経由して日本へ伝わったのは7世紀頃だそうです。ご存知の方も多いと思いますが、誕生仏の像が右手で天を指し、左手で地を指しているのは「天上天下唯我独尊」と宣言されたときのお姿をあらわしたもの。像に甘茶をそそぐのは、お生まれになったとき、甘露が産湯代わりに降り注ぎ、花々が芳しい香りを漂わせたという故事にちなんだものです。  シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀は、江戸時代の年中行事の様子をいろいろ描き残していますが、そのなかのひとつに「花まつり」もあります。屋根に花が飾られた4本柱の花御堂や、参拝者が水盤の中央に立つ誕生仏に甘茶を注ぐ様子など、いまとまったく変わらない光景です。  現在、長崎市内で行われている「花まつり」(主催:長崎釈尊鑽仰会・長崎市仏教連合会)では、毎年、花御堂を市内各所の商店街など全21カ所に設置し、参拝者に甘茶などを振舞います。こんなふうに各商店街と協力して行う「花まつり」は全国的にも珍しいケースだとか。お買い物がてら気軽に参拝の列に並ぶ人々の様子に、お釈迦さまが身近な存在であることが伝わってきます。  「花まつり」の法要には、毎年、各宗派のお寺の住職が集いますが、そこには、カトリック長崎大司教の姿もあります。今回も「平和な社会を築くためにみなさまと一緒に考えたい」などと記されたローマ法王庁からのメッセージが読み上げられました。   お釈迦さまの生誕を祝うために集った長崎の宗教指導者たち。宗教・宗派を超えて互いを尊重し、平和と幸福を祈願する姿を、長崎から発信しています。

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  • 第519号【長崎から春便り】

     めきめき春めくこの時期は、五島産や島原産など新ものが出回るアオサがおいしい。温めたダシ汁にアオサを入れるとふわりと潮の香が広がって、思わず笑みがこぼれます。日本各地で採れるアオサ。いま、あちこちの食卓に旬を届けているのでしょう。  温かな日が続いた3月中旬。眼鏡橋がかかる中島川沿いを歩けば、新顔の若いアオサギの姿がありました。後頭部から生えている黒く細長い羽毛やブルーグレーの翼がツヤツヤしています。そんなアオサギの脇を小さな黒い鳥がスーッと横切りました。ツバメです。今年の初見で、3月16日のこと。前日にはウグイスの初鳴きを耳にしたばかり。東北あたりではツバメ、ウグイスは4月に入ってからでしょうか。こうした鳥の初見、初鳴きは、季節の移り変わりを知る目安になります。地方気象台ホームページの「生物季節観測」などで確認することができます。  中島川沿いから寺町通りへ。石垣の隅にスミレが咲いていました。スミレの花言葉は「小さな幸せ、誠実、謙虚」。小さく可憐な花なので、弱々しく思われがちですが、実は丈夫でたくましい野草。女の子に「スミレ」と名付ける親心がわかります。スミレは紫、白、黄色、ピンクなどの花色があり、種類も多いので図鑑で名前を調べる楽しみがあります。スミレのそばでは、セイヨウタンポポや西日本で見られるシロバナタンポポも花盛りでした。  寺町通りの一角にある延命寺へ。ここは、1616年の建立時から長崎奉行所との関わりが深かったお寺です。その山門は、長崎奉行所立山役所の門が移築されており、現在、門扉のみ当時のものが残っています。参拝をすませ境内を散策すると、杏(あんず)の花が咲いていました。杏は、梅、桜と同じバラ科サクラ属の落葉高木。花は梅にも似て、実は梅よりもちょっと大きい。その種子は漢方で杏仁(きょうにん)と呼ばれ、咳止めに使われます。また、中国料理のデザートで知られる杏仁豆腐の原料でもあります。  家々の庭先ではハクモクレンも開花しています。同じモクレン属のコブシにも似ていますが、花びらはやや大きく厚め。上を向いて咲くのが特長です。また、長崎は、日本一のビワの生産地だけあってか、庭木としてビワを植えているお宅が多いのですが、この時期から、実を害虫から守るために袋かけをした木を見かけるようになります。  ジューシーでやさしい甘さのビワの果実は咳止めに効果があり、ビタミンAとCの相乗効果でお肌のトラブルにもいいといわれます。葉や種子もさまざまな薬効があり、古くから民間療法に用いられています。   路地ビワは春の間においしく育ち、食べ頃を迎えるのは梅雨前。待ち遠しいですが、まずは春を満喫するのが先。数日中には、長崎の桜が開花しそうです。

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  • 第518号【往時がよみがえる出島の表門橋】

     「あれ?出島って扇型の島じゃなかったの?」出島を初めて訪れた人から、ときおり聞かれる言葉です。ええ、たしかに鎖国時代は、小さな橋一本で対岸とつながった扇型の小さな人工島でした。現在の出島は、中島川に面した北側(扇型の内側の弧)以外の三方が明治以降に埋め立てられ、「島」の姿は見ることはできません。  出島の正式名称は「出島和蘭商館跡」(でじまおらんだしょうかんあと)。大正11年にシーボルト宅跡(長崎市鳴滝)や高島秋帆旧宅(長崎市東小島町)とともに国指定史跡になりました。「江戸時代、西洋に開かれた唯一の窓口」だった出島の歴史的な意義ははかりしれず、その特異な存在感で、いまも国内外からの観光客が絶えることはありません。  そんな出島に先月末、約130年ぶりに橋がかかりました。シンプル&モダンな美しい橋です。名称は「出島表門橋」。文字通り、出島の表門に通じる橋で、全長38.5メートル、幅4.4メートル。女性の足だと100歩くらいで渡れる長さでしょうか。実は昔、ほぼ同じ位置に架かっていた橋は、全長5メートルに満たない石橋だったとか。中島川の変流工事にともない撤去され、出島の北側も大きく削られたために川幅が大きく変わりました。また、出島が国の史跡ということで工事にもしばりがあり、そのため復元ではなく新たな橋のデザインになったそうです。  新しく架けられた「表門橋」。江戸時代にそこにあった橋は、「出島橋」と呼ばれていました。ちなみに、現在、同じ名称の橋がすぐそばの出島東側に架かっています。鉄製の道路橋で、1890年(明治23)の架設当初は、現在地よりも下流の河口近くに「新川口橋」の名称で設けられました。20年後、すでに撤去された旧出島橋に代わるものとして、1910年(明治43)に現在の場所に移設され、名称も「出島橋」となったようです。  「出島橋」は、現役の鉄製道路橋としては日本最古のものになるとか。鉄は当時アメリカから輸入したもの。水色に塗られた細い鉄骨を組み合わせた姿は、とてもシンプルで丈夫そうな印象です。明治の人たちのセンスの良さや意気込みが感じられます。「表門橋」と並んだことで、上流の石橋群とはまた違った橋の名所として、さらに注目されるようになるかもしれません。  さて、大きなクレーンで「表門橋」が架けられたとき、工事を見守った大勢の市民から拍手がわいたとか。江戸時代、長崎奉行の管理下にあった出島は、オランダ通詞や料理人など限られた日本人しか出入りできませんでした。長い時を経て架けなおされた橋は、誰でも渡ることができます。開通は周辺の整備を終えてからで、今年11月24日を予定しているそうです。「島」の出島にはもどれなくても、この「橋」を渡ることで、当時の感覚や人々の気持ちに近付けるような気がして、期待感が高まります。   余談ですが、出島近くの道路(NIB前付近)では、江戸時代の出島の絵図をモチーフにしたマンホールの蓋を複数見かけます。その絵図は、出島の商館医として1690年から1692年に来日したケンペルが著した「日本誌」に記載されたもの。対岸とつながる橋も略図ながらちゃんと描かれています。探してみませんか。

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  • 第517号【早春の小鳥たち】

     散歩中、小鳥を見かけるとつい目で追ってしまう。聞きなれないさえずりが聞こえると、思わず立ち止まりその姿を探してしまう…。そんな方はいませんか。名前は知らなくても、小鳥ってちょっと気になる存在です。小鳥たちの魅力は、かわいらしいその姿だけではありません。寒い日も暑い日も、したたかにシンプルに生きている、そんな姿がとてもたくましい。そして、何より、身ひとつでビュンと飛べるところが、かっこいい。そんなわけで、早春のこの時期、長崎のまちなかで見かける小鳥をご紹介します。  スズメ以外の小鳥で、最近よく見かけるのはナンキンハゼの白い実やウメの花をついばんでいるメジロです。全国各地に棲息しているメジロは、一年中見かける留鳥。ご存知のように、オリーブ色の羽毛に目の周りの白が映えて、とてもきれい。メジロは群れて移動する習性があり、お互いの身体をくっつけあって枝にとまることがあるそう。その様子から、「めじろ押し」という言葉が生まれたとのことですが、メジロたちの「めじろ押し」は、まだ見たことがありません。  河原をトコトコ歩いては、長めの尾を上下に振ったりして、落ち着きがないのが、ハクセキレイとキセキレイです。遊んでいるのか、それとも縄張りから追い出しているのか、ハクセキレイがキセキレイのあとを追う様子を見かけました。2羽とも、波を描くように飛ぶのが面白い。「チュチン、チュチン」という鳴き声もよく似ています。単体で行動していますが、それぞれ微妙に羽毛の色が違うタイプを近場で見かけます。図鑑で調べたら、それは雄雌の違い。もしかしたら、つがいかもしれません。  キセキレイの頭上をヒューとまっすぐに飛び、石橋の下をくぐって河原に留まったのは、カワセミです。コバルト色の美しい羽を持ち、お腹あたりはオレンジ色をしています。小さな体ながら、くちばしがけっこう長い。これで小魚をつかまえるのです。じっと、川面を見つめる姿が印象的でした。  こちらの視線に気付かないのか、生垣の下をのんきに歩いていたのは、ジョウビタキ。秋頃に大陸方面からやってくる渡り鳥です。雄と雌は、羽毛の色合いがはっきり違いますが、どちらも翼に白い斑があり、尾羽根の外側はだいだい色をしています。やさしいベージュグレーの羽毛を持つ雌は、ひときわ愛らしい。羽毛をふくらませた姿はヒヨコみたいです。   中島川の上流に位置する鳴滝へ。シーボルトの鳴滝塾があった界隈は、山林に囲まれた静かな住宅街で、さまざまな野鳥の鳴き声が聞こえてきますが、その姿は枝や葉に隠れてなかなか見ることができません。そんな中、カサコソと落ち葉の上を歩いていたのは、シロハラです。ムクドリほどの大きさで、ツグミの仲間。図鑑には、「暗い林を好む」「地上で採餌」とあり、見かけた状況から、納得。大陸からの渡り鳥で、日本で越冬します。そして、春は旅立ちの季節。鳴滝のシロハラも、もうすぐ渡りのときと知って準備をしていたのかもしれません。

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  • 第516号【めくるめく如月の暦】

     旧暦の新年を祝う「長崎ランタンフェスティバル」は今週の土曜日(2/11)まで。この期間中、とくに「立春」を過ぎてからは日差しがどんどん春めいてきました。その昔、一年のはじまりと考えられていた「立春」は、二十四節気のスタート。これから「雨水」「啓蟄」「春分」と時候を刻んでいきます。  暦に記される二十四節気は、太陽が1年でひとまわりする道(黄道)を24等分し、約15日ごとの時候を2文字の漢字で表現したものです。そのいちばん最後(24番目)は「大寒」で、今年は1月20日でした。  二十四節気をさらに分けて、季節の変化をよりこまやかによみとる目安となっているのが七十二候です。古代中国で生まれたものですが、日本に渡った後、江戸時代に日本の気候に合わせて改められています。七十二候も「立春」の日にはじまり、第1候は「東風解凍」(はるかぜこおりをとく)。それから約5日ごとに第2候「黄鶯睍睆」(うぐいすなく)、第3候「魚上氷」(うおこおりをいずる)と季節をめぐり第72候「鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)」まで続きます。  二十四節気や、七十二候でもないけれど、暦のうえでさらに季節の節目を教えてくれるのが「雑節」です。「立春」の前日の「節分」や、梅雨入りの目安となる「入梅」、新茶を摘む時期とされる「八十八夜」、台風など自然災害への備えを促す「二百十日」などがそれです。畑を耕したり、海や川で漁をするなど自然を相手に暮らした人々が生活に役立てるためにもうけた「雑節」は、現代の暮らしにもおおいに役立てられています。  2月3日の「節分」には、あちらこちらの社寺で「鬼火焚き」や「豆まき」が行われました。「鬼火焚き」は地域によっては、「左義長」、「どんど焼き」と呼ばれています。この日、お正月の注連縄や去年のお札などをもって近所の社寺へ出かけた方も多いことでしょう。長崎市の諏訪神社でも恒例の「鬼火焚き」と「豆まき」が行われていました。  消防車がそばで待機しての「鬼火焚き」。無病息災、家内安全を願って、じっと炎にあたる人々。炎のゆらぎやパチパチと燃える音が心地よく、自然に無口になります。手をかざせば身体もじんわりと温まり、気分もほっこり。屋外で大きな炎をみる機会があまりない現代人にとって、「鬼火焚き」は貴重なひとときです。人間が洞窟に暮らした時代から変わらない炎がくれるやすらぎのようなものをいまに伝えている気がします。  そして節分の日には、伝統の行事食をいただきます。ここ数年、関西発祥の恵方巻きが全国的に知られていますが、けんちん汁、こんにゃく料理、いわし料理を食べる地域もあるようです。長崎では、紅大根の酢の物、カナガシラの煮付けなどが知られています。   季節のさまざまな節目や行事が続く2月。来週はバレンタインデーも控えています。みろく屋の「皿うどんチョコレート」は、サクサクの皿うどん細麺と上質チョコレートのおいしいコラボ。もらった人は「へぇー」なんて言いながら、ほおばれば、きっとにっこり。大切な人、お世話になった方へ、贈ってみませんか?

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  • 第515号【中国文化と長崎の「よりより」な関係】

     長崎ではおなじみの中華菓子「よりより」。はじめてその名を聞く人は、「???」ですが、そういうときは、「小麦粉で作った生地を、ぐるぐると縒って、油で揚げたものよ…」なんて説明するより、「ほーら、これよ」と差し出したほうが早い。見た目通りの名称に「なるほどね」と笑顔がこぼれます。  きつね色に揚げられた「よりより」は、香ばしく、小麦粉の旨味がしておいしい。噛むと「カキン」と頭に響くほど固いのですが、近年、サクサクと心地よく噛めるタイプも出ていて、固いタイプとともに人気のようです。「よりより」は、長崎のお土産品の定番のひとつで、パッケージには中国語の名称「麻花兒」と書かれたものも見かけます。  さて、中国といえば、旧正月(春節)を祝う「長崎ランタンフェスティバル」が、もうすぐはじまります。開催期間は、1月28日(土)から2月11日(土)までの15日間。これは、旧暦の元旦(春節)から1月15日(元宵節)にあたります。長崎市中心部はすでに中国ランタンの装飾がほどこされイベント開催の気分が高まっているところです。  国内外からのおよそ百万人の来場者で賑わうようになった「長崎ランタンフェスティバル」。人気の理由のひとつは、まず圧巻ともいうべき1万5千個にも及ぶ中国ランタン装飾でしょうか。極彩色の灯りが醸す雰囲気は、日本でも、中国でもない、中国文化と融合した長崎ならではの幻想的な世界。凍てつく季節のなかにあっても、長崎のまちを不思議なぬくもりで包みます。  長崎市中心部7カ所に設けられた会場(新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、孔子廟会場など)では、中国獅子舞、中国雑技、龍踊り、二胡演奏など、中国ゆかりの催しが連日行われます。期間中の土・日には、華やかな衣装に身を包んだ皇帝パレード、媽祖行列が行われます。また、昨年もいち押しの催しとして紹介しましたが、今年も孔子廟会場では「中国変面ショー」が毎日行われます。一瞬で仮面が変わる特殊な技は見応えたっぷりです。  新地中華街会場では、干支の酉年にちなんだ高さ10メートルもある巨大オブジェが設置されます。眼鏡橋がかかる中島川界隈では黄色のランタン、新地中華街そばを流れる銅座川では桃色のランタンが出迎えてくれます。頭上にゆれるランタンの灯りを見上げて歩く時、その向こうの夜空も仰いでみましょう。長崎ランタンフェスティバルは、ちょうど新月から満月になる期間と重なるので、月が次第に満ちていく様子も楽しめます。   「長崎ランタンフェスティバル」に繰り出せば、店頭で「よりより」を見かけることもあるはず。2本の生地がひとつに縒られ、螺旋を描くその姿は、はからずも普遍的。それは、中国文化と長崎の関係のようにも思えるのでした。

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  • 第514号【良い年になりますように、社寺巡り】

     年末年始、いかがお過ごしでしたか。九州地方の三が日は天候に恵まれ、和やかな新年の幕開けとなりました。  年を越した場所は、長崎市寺町にある唐寺・興福寺です。除夜の鐘が鳴り響くなか山門をくぐると、境内も本殿も新年を迎える準備が整えられ、すがすがしい空気が漂っていました。1620年(元和6)に創建された興福寺は、日本最古の唐寺。朱色の建物や仏像の姿に、のどかでおおらかな大陸文化の影響が感じられます。  その本殿で、去年今年をまたぐ深夜の数十分間、箏と尺八による演奏が行われました。あたりに染み入るように響く日本の伝統の音色。新年を寿ぐその音色が唐寺の空気と混じり合うとき、おそらく長崎でしか味わえない豊かな時間が生み出されているようでありました。新春の定番曲「春の海」も奏でられ、初詣に訪れた大勢の人々が演奏に聴き入っていました。  興福寺での年越しの演奏会は、長崎在住の箏・尺八の奏者である竹山直樹氏とそのお弟子さんらによって数年前から行われているそうです。「年の初めに、日本人の感性が育んだ伝統の音色をあらためて感じてほしい」という竹山氏。異文化に美しく馴染む日本の音色の奥深さを感じた年の初めでありました。  元旦の午前零時台。興福寺での参拝をすませ、諏訪神社(長崎市上西山町)近くを通りがかると、初詣客のために深夜運行をしている路面電車から、大勢の人が降りてきました。出店で賑わう参道は早くも人々で埋め尽くされ、長崎県内でもっとも初詣客が多いといわれる神社の変わらぬ人気ぶりを目の当たりにしたのでありました。  初詣を終えても、新年を迎えたばかりの一月は折にふれ社寺に参拝したくなります。諏訪神社近くにある松森神社を訪れると、境内に植えられたロウバイが満開を迎え、あたりに甘くさわやかな香りを漂わせていました。学問の神様、菅原道真公を祀る松森神社は、この時期とくに受験を控えた学生たちの姿が目立ちます。拝殿横に植えられた梅を見ると、大半のつぼみが膨らんで開花も近いようでありました。  毎年、元日の頃に開花することで「元日桜」の呼び名で親しまれている西山神社(長崎市西山町)の寒桜。足を運ぶと五分咲きといったところ。これから満開を迎え、一月いっぱい楽しめるとのことでした。西山神社は1717年(享保2)、長崎聖堂の学頭で天文学者であった盧草拙(ろ そうせつ)が、妙見社を建てたことにはじまります。  妙見社は北辰(北極星)を信仰するもの。西山神社の鳥居の額束(がくづか)はちょっとめずらしい丸型をしていますが、これは北極星を現したものといわれています。江戸時代中期の長崎で活躍した盧草拙はたいへん有能な人物だったようで、書物改めなど唐船との貿易に関わる務めのほか、長崎奉行所にも勤務、さらに天文学者として江戸に招かれたこともあります。   学者になるほど星好きだった盧草拙は、ちょっと気になる長崎人のひとり。彼だったら、良い年になりますようにと、夜空の星を見上げ願ったに違いありません。

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  • 第513号【師走、ちゃんぽんを食べながら】

     師走半ば五島在住の方から、かんころもちが届きました。お礼の電話を入れると、「高齢なので、かんころもち作りはあと数年で引退かも…」とポツリ。5月、サツマイモの苗植えからはじまるかんころもち。秋の収穫やイモを蒸して干す作業も体力勝負で、家族や友人の「おいしかったよ」の声を励みに毎年作っているそうです。我が家では、かんころもちはすっかり師走の風物詩。届くと先方のお元気そうな様子が見えてきて、ほっとします。今年もありがたくいただきました。  何かと忙しい年末ですが、恒例の贈り物が届いたり、帰省した親戚の子や友人たちが、ひょっこり訪ねてくるとうれしいものです。久しぶりの顔ぶれが揃うとき、我が家では地元産の牡蠣などいつもよりちょっと贅沢な具材を使ったちゃんぽんで、もてなします。ちゃんぽんは、「おいしい」と喜ばれるのはもちろんですが、作る側にとっては手間がかからないので、ありがたい。手前味噌になりますが、麺もスープもやっぱり「みろくや」。試作と研究を重ねた絶妙な加減で、野菜やお肉、魚介類のおいしさを引き立てます。  お客さま用に加え、年越しそばならぬ、年越しちゃんぽん用など、年末年始はちょっと多めにちゃんぽん麺とスープを買い置きします。そのお買い物がてら眼鏡橋界隈へ出向くと、冬休みとあって若者の姿が多くみられました。護岸の一角にはめ込まれたハート・ストーンは、すっかり恋する人たちのパワースポットに。眼鏡橋の2つのアーチがくっきりと水面に映る光景が見られる、ひとつ下流にかかる袋橋には写真を撮る人が次々にやって来ます。この界隈で最近目立つのは、中国からの観光客です。ところで彼らは、眼鏡橋をはじめとする中島川の石橋群が、中国にゆかりのあることを知っているのでしょうか。  中島川にかかる眼鏡橋は、寛永11年(1634)、唐寺・興福寺の二代目住職で黙子如定という唐僧が浄財で架けた橋です。これを機に当時、長崎に居住していた中国人貿易商らの寄附により、中島川に次々に石橋が架けられました。石橋は、木の橋と違って洪水のたびに流されたり、腐ったりしません。当時、長崎港に入った唐船はその荷を小舟に移し、中島川上流の桃渓橋あたりまで漕いで来たそうなので、荷を上げ下ろしするためにも丈夫な石橋は必要だったのかもしれません。また、多額の寄附は、長崎を拠点にした商いで富豪となった彼らの恩返しであり、このまちに溶け込もうとした気持ちの表れであったかもしれません。いずれにしても、彼らがその財力を石橋にそそぎ、長崎のまちづくりに活かしたことは大きな意義のあることでした。  中島川の石橋群だけでなく、長崎には中国とゆかりのある場所がそこかしこにあり、興味をそそる謎めいたことも多々あります。たとえば、長崎市鳴滝地区にある唐通事の彭城(サカキ)家の別宅跡(現・県立鳴滝高校)。江戸時代、その庭園の一隅に置かれていたという陶製の織部灯篭(復元)がいまも残されています。十字のデザインが配され、別名キリシタン灯篭ともよばれるものを、禁教時代になぜ彭城家がもっていたのか。その真相は知る術もなく、謎が謎を呼ぶばかりです。  しかし、歴史の真相はわからないから面白いもの。長崎と中国の友好の証しでもあるちゃんぽんを食べ、ああだ、こうだといいながら、来年もその迷宮を右往左往して楽しみたいと思います。今年も読んでいただき、誠にありがとうございました。

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  • 第512号【肥前長崎かぼちゃ町!?】

     ご近所の庭先では柚子がたわわに実り、その黄色のあたたかさにほっこり。「冬至の柚子湯で風邪知らず」などと言いますが、この日は(今年の冬至は12月21日)習わし通りに柚子湯につかり、カロテンやビタミンCが豊富なかぼちゃを食べ、寒さに負けない心とからだを養いたいものです。  すぐれた栄養価で緑黄色野菜を代表するかぼちゃは、戦国時代、ポルトガル船が九州に運んできたのが最初の伝来で、「かぼちゃ」の語源は産地のカンボジアが転じたものといわれています。また、九州では「ぼうぶら」とも呼ばれ、その語源はポルトガル語でかぼちゃを意味する「abo(、)bora 」(アボブラ)からきたものだそうです。ちなみに、豊臣秀吉は九州に来た時かぼちゃを初体験。その甘さに喜んだというエピソードが伝えられています。  かぼちゃは、漢字では「南瓜」と書きます。これは「南蛮渡来の瓜」の意味からきたもので、これを「なんきん」とも呼ぶのは主に関西方面が多いそう。また、主に関東方面での異名として、「唐なす」があります。いずれにしても異国の野菜であることがその名に表されています。  さて、16世紀半ばから17世紀初め頃の長崎には、「ボウラ町」という町名が存在したようです。「ボウラ」とは、「ぼうぶら」のこと。つまり「かぼちゃ町」ということですが、場所は、長崎市役所近くにある長崎市立桜町小学校北側の道路を隔てた一帯(長崎市勝山町と八百屋町にまたがる)です。1745(延享2)年刊本の「肥之前州長崎図」(京都・林治左衛門版)に記載されています。  長崎市中を中心に長崎港沖合や近郊の様子までつぶさに描き、地名、町名、寺社、役所などの名称がこまかく記されたこの地図。ボウラ町の南側には高木代官屋敷(現・桜町小学校)、西側に長崎奉行所立山役所(現・長崎歴史文化博物館)が通りを隔てて建っています。地図には「古ハボウラ町ト云 南蛮人ボウラヲ作リシ故ニ」とある。その昔、南蛮人がボウラを作ったのでボウラ町と呼んだ、などとわざわざ記したところに、どこか観光マップ的な意図がうかがえます。当時は、長崎に限らず、各地のまちの地図が作られていて、けっこう売れていたのだそうです。  さて、高木代官屋敷の場所は、江戸時代初期には「サント・ドミンゴ教会」があり、長崎奉行所立山役所の場所には、天正年間に建てられた「山のサンタマリア教会」がありました。そうした教会跡からもわかるように、このあたりは当時、ポルトガル船でやってきた宣教師や船員などが盛んに往来したところであります。  かぼちゃは、サツマイモと同じく保存がきき、やせた土地にも育つそうです。そのすぐれた栄養価を経験的に知る南蛮人たちが、寄港先でその土地の人々と一緒に作るのは当然かもしれません。江戸時代に著された「長崎夜話草」(西川休林)には、長崎で作ったかぼちゃを唐人や紅毛人に売っていたという内容が記されています。  ポルトガル船が日本へ運んできたかぼちゃは、のちに「日本かぼちゃ」と呼ばれるようになり、「鶴首(つるくび)」「黒皮ちりめん」などたくさんの在来種を生み出しましたが、いまでは、明治以降に導入された「西洋かぼちゃ」(栗かぼちゃとも呼ばれる)に押され気味のようです。市場などをめぐると、数は少ないですがその地域でしか作られていない品種など、いろいろな種類のかぼちゃに出会います。一度手にとって味わってみませんか。   ◎  参考:「長崎やさいくだもの博物誌」(タウンニュース社)、「からだによく効く食べもの事典」(監修・三浦理代/池田書店)、「100万人の野菜図鑑 〜畑から食卓まで〜」(野菜供給安定基金)

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