第525号【職人町だった界隈(魚の町)】
前号でご紹介したウラナミジャノメと思われるチョウ。後になって、絶滅のおそれがある希少な動植物をまとめた長崎県のレッドデータブックに掲載されていたことがわかりました。それを機に、これまで以上にチョウの存在が気になるように。6月下旬、花期も終盤となったシロツメクサのまわりを飛んでいたのは、お馴染みのモンシロチョウと、オレンジ色系の翅を持つツマグロヒョウモン。翅の先端に黒、白、グレーのきれいな模様を持っていたので、これはメス。オスにこの模様はありません。ツマグロヒョウモンは、もともとは南方系のチョウでしたが、近年は温暖化の影響で近畿地方でもよく見られるとか。小さな昆虫たちの世界からダイナミックな気象の変化が垣間見えます。
長崎市中心部は、オフィスビルが建ち並ぶバス通りからせまい路地に入ると、古い側溝や石垣などがそこかしこに残り、季節まかせの草花がのんびりと咲いています。チョウたちは、そんなところにふわりと姿をあらわすのですが、長崎市桜町にある長崎市役所別館の裏手もそうした界隈のひとつです。まちの真ん中にありながら、静かな路地裏の風情が漂うそのエリアは魚の町(うおのまち)。一角ではいま、長崎市公会堂の解体工事が進められていて、跡地には長崎市役所本庁舎が建てられることになっています。
まちの表情が大きく変わろうとするなか、このあたりの江戸時代をふりかえってみると、今紺屋町、中紺屋町、本大工町というまちが隣接。町名からわかるように、それぞれ紺屋(染物屋)、大工職人が集まる職人町でした。
紺屋は大量の水を使う仕事なので、中島川沿いに発展しました。実は今紺屋町、中紺屋町より先に、慶長2年(1597)につくられた最初の紺屋町が少し下流にあって、それが本紺屋町。南蛮貿易で栄え、長崎の人口がどんどん増えるなか、紺屋は大繁盛。職人も増えて10年もしないうちに、今紺屋町ができ、間もなく中紺屋町も生まれたのでした。同じ頃、中紺屋町の隣には、桶職人らが集まった桶屋町もありました。
かつて大工職人が居住した本大工町。現在、長崎市内で、「大工」が付く町名は、新大工町と出来大工町の2つがありますが、そのルーツが、この本大工町です。長崎開港後、まちの発展に伴うもろもろの建設に大工職人は不可欠。次第に職人も増え、本大工町だけでは収まりきれなくなりました。慶長11年(1606)、近隣に新大工町ができ、その後さらに、新大工町は2分され一方は出来大工町と称しました。いずれもその当時とほぼ変わらぬ場所で、現在に至っています。
南蛮貿易の時代から江戸時代にかけて商人のまちとして発展した長崎。そこには貿易に携わる者だけでなく、まちを形造り、生活に欠かせない物をつくるさまざまな職人たちの存在もありました。史料には残されていないそうした職人たちの姿を想像すると、また違った長崎の歴史の表情が見えてくるようです。