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  • 第137号【中国寺で動物探検!?】

     日本のお寺は白黒・グレーのモノトーンの世界ですよね。 これはこれでとても美しい、厳粛で清浄な趣がありますね。 ところで長崎には俗に「あかでら」と呼ばれる朱色の美しいお寺がいくつかあるのをご存知ですか。 これらはその昔、長崎に渡来した中国人らが建立した中国寺なのです。 中でもとりわけ有名なのが鍛冶屋町にある崇福寺。大雄宝殿と第一峰門がそれぞれ国宝。 その他にも護法堂、三門などの建築物の5つが重要文化財という、 その道の専門家にとっては垂涎の的の歴史的遺産なのです。 ところが、そうした見事な細工や意匠にまぎれて、私が気になるのは、魔可不思議な動物たちの存在。 中国の三大聖獣といえば龍、鳳凰、麒麟。 龍は天を駆け巡る力の象徴、鳳凰は聖徳を備えた天子が現れる吉兆、麒麟は聖人の出現の予兆と言われています。 魚とコウモリは、福を運んでくる縁起の良い生き物として、今もお祝い事に欠かせない生き物です。 これらの聖獣、生き物の意味合いを考えながら、建築物のあちこちに装飾として隠れているものを発見していくと、 当時の時代背景や人々の思いなどが、かいま見えてくるようです。 ちなみに、私が発見した生き物は獅子(ライオン)3頭、シャチ18頭、魚1尾、龍5匹、コウモリ8匹、麒麟12頭、鳳凰2羽でした。▲彩色が美しい崇福寺、第一峰▲天(上)にシャチと龍▲石碑に彫られた一対の麒麟▲おまけ1蝙蝠、龍▲おまけ2獅子(ライオン)

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  • 第136号【空と海と大地の力 (牧場の里あづま)】

     こんにちは。学校、会社、サークル活動、習い事…4月から新生活が始めた人も多いですよね。 そろそろ、緊張がピークに達する頃では、ありませんか? こんな時、私こみくらは、空と海と大地に、だあぁと溶けに行きます。 牧場の里あづまは雲仙に向かうグリーンロードを車で10分。 南に分かれる道に入ると、段々畑の、のどかな風景。 やがて、いくつかのなだらかな牧草地の丘を越えて辿りつくのは、なぜか万里の長城。 ミニ版だけど、風景になじんでいい感じです。 車を降りて草の上に腰を下ろし、彼方を眺めれば、 島原半島の根元にある森山町と愛野町が広大な海を二分しています。 こちらもミニ天の橋立といったところでしょうか。 左に橘湾と右に有明海。水平線の向うに心が飛んでいきます。 仰向けに寝転ぶと、草のひんやり感と、徐々に伝わってくる大地のぬくもり。 頭上にはどこまでも広がる果てしない空。白い雲がゆっくりと少しずつ、形を変えていきます。 地球の一部になった自分に、空と海と大地の力が注ぎ込んでくるようです。 再生してきた自分がむくむく起き上がってきましたよぉ。 片手を腰に、こぶしを振り上げここで一発。 「がんばるぞぉ!」さあ、5月に向けてGO!(モーレツに走り出すこみくらであった…)▲万里の長城の形をした展望▲広い敷地に遊戯施設や牧場もあります。

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  • 第135号【レトロ&ハイカラ気分はいかが?】

     こんにちは。G.Wを目前に控え、お出かけの計画は決まりましたか?  今回、私こみくらがオススメしますのは、お金も時間もかけずに、ハイカラ &レトロな気分に静かに浸れる場所です。 観光客がひしめくグラバー園から浪の平町の方へ5分ほど歩いたところに、 ペパーミントグリーンのペンキ塗りの小さな洋館があります。通称、南山手乙 9番館。明治中期に現在地に住宅として建てられたものを復元したものです。 現在は、須加五々道(すか ごごどう)氏の作品を展示する美術館として利用 されています。 作品は、水墨画の技術に西洋美術の遠近法を取り入れた空間の美しさ。そう いえば、この洋館も、日本人大工が造ったもの。和と洋が混ざりあうことで、 ハイカラなのに、どこか懐かしい独特の雰囲気を感じます。 隣にあるレンガ造りの建物は、明治30年代頃、当時南山手の居留地に住んで いた英国人のウォーカー兄弟が、工場として造ったもの。日本初のジンジャー エールやラムネなどの清涼飲料水が、ここで生産されました。2階の重厚な鉄 窓と1階のアーチ型窓のコントラストがレトロな雰囲気を醸し出してます。 今でも、地元の人が親しみを込めて呼ぶ「ウォーカーさんのラムネ工場」その ままの姿で、現在は綱(ロープ)を作る工場になっています。▲通称、南山手乙9番館長崎市須加五々道美術▲須加五々道作品の展示中▲レトロな雰囲気の寶製綱さんは元ラムネ工場

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  • 第134号【神々の集う場所(なかよし神様トリオ)】

     こんにちは。桜の花をかわきりに、つつじに菖蒲、お花見シーズン真っ盛りですね。 さて、「神様」と言ったら、あなたはどんな神様をイメージしますか? 私の場合、受験の時は神社で願かけて、見事合格! 結婚式は教会がいいなぁ。 お葬式は、きっとお寺のお坊さんに来てもらって…。と宗教お構いなしの人生です。(^ ^;)ゞ クリスマスに初詣、七五三、精霊流し、おくんち…。年中行事も、節操なく全て楽しんでおります。 宗教戦争なんてとんでもない! みんなまとめておおらかに楽しむ。 それが長崎っ子の心意気!! そんな気概を感じさせる場所がここです! あの有名な国宝大浦天主堂(1865年建立)。お隣にあるのは、日本中を歩いて測量し、 日本地図を作り上げたという伊能忠敬も立ち寄ったり(1812年)、 日本初の英国領事館にもなった(1859年)という東本願寺派法嶺山妙行寺!  そして、もう1件! 天正年間(1529~1573年)に創建され、 長崎を治めていた大村藩主が武運長久・子孫繁栄のため社殿を建立した(1693年)という大浦諏訪神社。 いやはや、さすがおおらかな土地柄でしょうか。それとも神様のお人柄なのでしょうか。 なんともスケールの大きなお隣さんだと思いませんか?▲お寺から見た大浦天主堂▲お寺と神社の間の道は大浦天主堂に続く

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  • 第133号【長崎は龍の街】

     初めまして!今回からちゃんぽんコラムの新テーマ、★☆ガイドブックにない長崎☆★を担当します、こみくらくみこです。 読んで下さった方が、今よりもっと、 長崎のことが好きになっちゃうような‥そんなお話をお届けできたらシアワセ です。どうぞ、よろしくお願いします。(^0^)/ 思案橋の街灯・ダムのシンボル・ちゃんぽんの丼・神社。この4つに共通す るもの!何だか、わかりますか?実は、「龍(竜)」なんですよ。他にも、ビ ルの壁、商店街のゲート・おくんちの竜踊りなど…、街を歩けば、りゅうにあ たる?!日本全国探してみても、こんなにりゅうを身近に感じる街はないかも しれません。 ところで、「竜」と書くと日本の民話や昔話に登場する水神様の化身、ドラ ゴンといえば、西洋の翼のある火を吐くヤツ、龍は中華料理店やちゃんぽん・ 皿うどんを連想しちゃうのは私だけでしょうか?中国では、龍は古来権力の 象徴とされ、皇帝の住む宮廷の装飾として用いられてたそうです。長崎の竜踊 りは、中国から伝わったものですが、氏神様への五穀豊穣の祈願という点、ど うやら日本の昔話に登場する庶民派の竜のようですね。 さあ、竜が出るか、龍が出るか、はたまたドラゴンが出るか…暖かい日差し を背中にしょって、あなたも街に出かけて探してみませんか?折りしも大陸か ら風にのってやってきた黄砂と春霞にもやった春の空。こんな日はの~んびり 空を散歩する「りゅう」に逢えるかもしれませんよ。▲街灯の上に発見▲町中で見た案内板▲ガードレールの見事な細工

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  • 第132号【勝海舟と長崎】

     明治という新時代の到来に大きな役割を果たした坂本龍馬。 彼と同じ時代を生き、日本を動かした重要人物のひとりに勝海舟(1823~1899)がいます。 海舟といえば1860年「咸臨丸」の艦長として、日本初の大平洋横断航海を達成したことや、 1868年西郷隆盛との話し合いで「江戸城無血開城」を成し遂げた話がよく知られています。 また攘夷論者だった龍馬が、海舟の人柄と先見の明に感銘し、弟子になったことも有名です。 ( ’∇ ’)エピソード多彩ナ人物!▲本蓮寺。この境内にあった庵に海舟は住んだという。 海舟はお江戸の下町、貧乏旗本の生まれ。若い頃、剣術や禅の修行をして心身を鍛え、 オランダの兵学の知識を得るため蘭学を学び、西洋と日本の文化の違いを早くから認識していたようです。 幕末、長崎海軍伝習所(79号参照)の頭取として、30代前半の5年ほどを長崎で過ごしているのですが、 その時、寝泊まりしていた筑後町(長崎駅前)にある本蓮寺には現在、「勝海舟寓居の地」の石碑があります。 (`▽´)/チャキチャキノ江戸ッコデイ。▲海舟寓居の地の碑 下っぱ侍だった海舟が一躍、表舞台へ出るきっかけとなったのは、1853年ペリーの来航でした。 浦賀沖で開国を求める黒船の対応に困り果てた幕府は、その対応策を大名や武士たちだけでなく、町民まで広く求めます。 この時、海舟は、軍制の改革と人材育成、 そして江戸湾における台場建設と軍艦の調達を急いで行うべきだという意見を提出したのでした。 もともと鎖国や士農工商の身分制度をナンセンスだと考えていた新時代の男・海舟の意見は、幕府を動かす力があったようです。海舟はペリー来航から2年後には長崎の海軍伝習所に派遣されたのでした。 そして当初、2年のつもりが、5年も伝習所に勤務したのは、海舟自身、 長崎に留まることで海軍の知識を学び、世界情勢をオランダの教官らから得るためであった、ともいわれています。 長崎での海舟の日常の足取りをちょっとたどってみます。 宿舎の本蓮寺から徒歩20分ほどのところに長崎奉行所立山役所が。 そこからさらに中島川へ下って石橋を渡ると寺町通りに出て、 さらにその先には江戸時代の日本三大花街のひとつだった丸山があります。 このルートで海舟も丸山に通った可能性は大いにあります。 ( ̄∇ ̄;イヤ、キットアル!?▲丸山へ続く思案橋通りで海舟のオブジェ発見 さて寺町通り近くには龍馬の亀山社中があります。 龍馬は海舟が長崎を離れた後、来崎しているのでここでの接点はないようですが、 長崎という町を介して、二人が新時代への夢や希望をふくらませたのは想像に難く有りません。 テヤンディ!(  ̄ O ̄) (^_ ^; )ゲニマコト…◎参考にした本/「長崎事典」、「長崎遊学の標」(長崎文献社)「日本史新聞」(日本文芸社)

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  • 第131号【職人の心映え伝わる長崎刺繍】

     世界各地には民族性がしのばれる伝統刺繍がたくさんあります。 日本には総じて「日本刺繍」と呼ばれるものがあり、 主に着物や帯など和の装いや小物などに施され、その伝統は大切に受け継がれています。 その日本刺繍をベースに、江戸時代に中国等の影響を受けて生まれたのが今回ご紹介する「長崎刺繍」です。 ( ’o ’)ゴ存ジデスカ? 長崎刺繍の代表的な作品はくんちの傘鉾や衣装に見る事ができます。 例えば万屋町の傘鉾の垂れで、海老や鯛などの魚を何匹も繍(ぬ)った「魚づくし」。 そして以前使用されていた桶屋町の傘鉾の垂れで「十二支」を刺繍したもの。 同じく東古川町の川船の船頭の衣装に施された「龍」などです。▲東古川町(川船)、船頭の上着 こよりや和紙で厚みや膨らみを作り、ときにガラスや金属を使って生み出す立体的な表情。 華やかな金糸・銀糸をふんだんに、シルク糸の光沢も存分に活かした独特の刺し方で、 龍や魚などの絵柄は今にも動き出しそうな躍動感にあふれています。 貿易で栄えた長崎の町の裕福ぶりが伝わる贅沢な美しさはまさに豪華絢爛。 (☆o☆)日本刺繍ヨリ、キラビヤカ!▲同じく川船、船頭用 現在、長崎でただひとり、その伝統を受け継いでいる嘉勢照太(かせてるた)さんにお話を伺いました。 「長崎刺繍は、絵師、彫師、摺り師がいる木版画に似て、絵師、繍師(ぬいし)、そして全体を仕立て上げる人がいます。 その中で絵師の力というのはとても大きかった。 いわば長崎絵師の力の上に成り立っていたという事がひとつ言えるでしょう」。 当時の長崎は海外の絵や文物を模写していた唐絵目利きをはじめ、川原慶賀に代表される町絵師たちも、 当時の日本にはない奥行き感のある絵を描くなど、爛熟した文化がありました。 そうした絵を元にさらに繍師が糸という素材から創造を重ねたのです。 「100年や200年経ても魅力を発し続ける作品があります。 そこには職人の気骨、ものづくりに対するこだわりがあるんです」。 長崎刺繍は、効率一辺倒の時代からすれば正反対の位置にあり、本当に贅沢なものだとおっしゃる嘉勢さん。 現在は万屋町の「魚づくし」のレプリカづくりに取りかかっています。 ( ’∇’)「魚づくし」ハ長崎刺繍ノ代表的作品デス▲嘉勢さんが制作している万屋町「魚尽し」の鯛の下絵。 「ありがたい縁でこの仕事に出会いました。制作は10年程かかる予定です」。 嘉勢さんは、熟達した職人の作品は見れば見るほど新しい発見があると言います。 一針一針に精魂込める職人の息遣いや心映えが伝わって来る長崎刺繍。 「皆さんに、よく見て楽しんでいただくことが何よりの応援です」とおっしゃっていました。 <(_ _)>貴重なお話、ありがとうございました。

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  • 第130号【みさき道は、抜け荷の道?】

     長崎から長崎半島を南下して西彼杵郡野母崎町脇岬に至る約28kmの古い街道をご存じですか? この道は「みさき道」と呼ばれ、江戸時代は脇岬にある観音寺へ参詣するための道でした。 この観音寺は京都の御室仁和寺(おむろにんなじ)の末寺とされ、当時の観音信仰の一大霊場だったそうです。▲野母崎町脇岬の観音寺風待港もすぐ近くです。 鎖国時代の長崎の人々は物見遊山、今でいうハイキングに近い感覚で参詣し、 おおむね1泊2日の行程で行き来していました。 中には朝暗いうちに出発して参詣を済ませ、 夕方には戻ったという健脚もいたというから驚きです。(^^; みさき道は唐人屋敷にほど近い十人町から始まります。 そこの坂段を上り、東山手から石橋へ下り、出雲町~二本松~戸町中学校~ダイヤランド~土井首 郵便局~深掘町~大籠町~三和町(西彼杵郡)~蚊焼峠~黒岳~野母崎町殿隠山 ~堂山峠~観音寺というルートです。( ’ー’)分カル人ハカナリノ長崎通!?▲十人町の坂段に残されたみさき道の道標(緑の掲示板横) 現在のみさき道は、車道になってるところもありますが、山あいや小高い丘をいく土の道も多く、 便利なハイキンググッズに身を固めた現代人でもその道のりはかなり大変そうです。 道筋にはこの街道の整備に出資した「今魚町」(現在の魚の町)の町名が記された道塚が数カ所残されています。 みさき道のスタート地点、「十人町(じゅうにんまち)」の町名はちょっと変わってます。 江戸時代、脇岬にほど近い権現山で長崎港に入港する外国船を見張るための「遠見番所」に勤める役人が10人いて、 交代で勤務する彼らの役宅10軒がこの町にあったからだそうです。 ( ̄∇ ̄;;通勤ガ大変ダネ この「権現山遠見番所」は、島原の乱で一揆軍を攻め落とした直後、 幕府がポルトガル船の来航を見張る為に設けたのが始まりです。 さらに長崎半島には海防警備のため台場や番所が全国に類を見ないほど何カ所も設置されました。▲遠見番所があった権現山からの眺め。左端に軍艦島が見える。いわばこの一帯は日本屈指の要塞地帯だったのです。 みさき道はそういったところへ勤める役人らの通る道、いわば軍事の道でもあったといえます。 またみさき道は、抜け荷(非合法な商取引)の道ともいわれています。 脇岬が唐船の風待港だったことから、その時を利用して抜け荷をやる人が観音参りと称してこの道を往来したというのです。 抜け荷は発覚すると遠島(島流し)などの厳しい処罰を受けましたが、 それでも魅力は大きかったらしく、あとを断ちませんでした。 抜け荷といえば、もと遠見番が、仕事を辞めた後も役宅の近くに住み、 そこから唐人屋敷まで穴を掘って品物を得、抜け荷をしたという珍事件が長崎奉行所の犯科帳に記されているそうです。 (・・)/遠見番ハ薄給デ暮ラシモ厳シカッタヨウデス。◎参考にした本と資料「わが町の歴史散歩(1)」(熊 弘人著)「長崎ぶらり散歩」(原田博ニ著)「白帆注進」(旗先 好紀・江越弘人著)「第65回みろくや長崎食文化講座~岬道って何?~」(講師 中島勇)

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  • 第129号【武蔵と島原の乱と出島】

    今、大河ドラマの影響で時代を越えた国民的ヒーロー!? となっている剣豪・宮本武蔵。 その生涯は謎が多いといわれていますが、佐々木小次郎との厳流島での戦いや、 剣の修行のため諸国を巡る旅をしていたこと等はよく知られています。 その足跡をたどると、島原の乱に参戦するため長崎(島原半島)へも来ていました。((^。^;ノナント…▲原城、城壁跡 江戸時代はじめ1637年(寛永14)に起きた島原の乱は、 島原藩主の厳しいキリシタン弾圧と過酷な年貢の取り立てに苦しむ地元民の不満を背景に起こった一揆です。 約3万人ものキリシタンや農民らの一揆軍が原城(南有馬町)に立てこもり、幕府軍の度重なる攻撃にも強く抵抗。 その戦いは約120日間にも及び幕府を震撼させました。(゜0゜;; 武蔵が幕府軍としてこの乱に参戦する時、小倉から鍋島藩(佐賀)、そして海路を渡り、 同じく鍋島藩で島原半島北部にある国見町神代(こうじろ)の港に上陸し、同半島の南側に位置する原城へ出向いたかもしれないという説があるそうです。 海岸の絶壁にあった神代鍋島藩の船着場は現在、神代橋が架けられ島原鉄道も通っています。 橋の下には小さな船が数隻停泊し、その名残りが感じられます。 (’’;)モシヤ、ココニ武蔵ガ…▲国見町神代。ここに武蔵が? ところで島原の乱の起きる前年、長崎港内には人工島・出島が完成しています。 すでに南蛮貿易で栄えていた長崎に幕府はこの出島に市中にいるポルトガル人を住まわせることで、 彼らによるキリスト教の布教活動の取り締まりをしながら、南蛮貿易も掌握しようと考えていたのです。 しかし出島の完成で鎖国の基礎が固まったと思っていた矢先に起きた島原の乱に、 幕府は大きなショックを受け、まもなくポルトガル船の日本渡航は全面禁止。 ポルトガル人は国外追放となります。そして出島には平戸にあったオランダ商館が移転。その後200有余年にも渡り貿易が行われることになります。 ちなみに島原の乱では幕府の依頼によりオランダ船から砲撃も行われています。 ( □o□)/ 砲撃デ幕府ノ信頼ヲ得タヨウデス▲城跡から望む南有馬 さて養子の伊織とともに参戦していた武蔵は、 一揆軍による城壁からの投石でスネに怪我したというエピソードが残されています。 既に54歳だった武蔵は剣豪というより、兵法に優れた軍師として招かれたようで、 島原での体験は晩年に執筆した『五輪書』にも影響を及ぼしたかもしれません。 武蔵と島原の乱と出島。 戦国末期から江戸初期という変化に富んだ時代に生まれ起きたこの三つをつなげると、 まだまだ新たな興味や謎が生まれて来そうです。 (^ー^)武蔵ハ西洋ニ興味ナカッタノカナァ

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  • 第128号【浦上(時津)街道を行く】

     長崎市の北隣で、西彼杵半島の付け根に位置する西彼杵(にしそのぎ)郡時津(とぎつ)町。 近年、長崎市のベッドタウンとして成長したこの町は、古くから交通の要所として知られ、 江戸時代は浦上街道(別名、時津街道)の道筋として栄えたところでもあります。 (^ー、^)名物 "時津饅頭" オイシカヨ 江戸時代、海外の文物を求めて全国の商人や文人墨客が往来した長崎街道は、 長崎から東に位置する日見峠を経て、矢上~諫早~大村~松原~彼杵、 そして佐賀県の嬉野、福岡県小倉へと続くルートがよく知られています。 しかしこのルートは時代によっていくつかのコースがあったそうで、 その最も古いコースといわれているのが長崎~時津を結ぶ「浦上街道(別名、時津街道)」です。 長崎から北上し、同市内を浦上、滑石を経て時津に至り、そこの港から大村湾を舟で渡って彼杵へ。 それから嬉野へと辿る「浦上街道」は江戸時代の中頃まで大いに利用されていたそうです。 旅人らが海路へと乗り換える時津港の近くには今も大名が休憩や宿泊に利用したといわれる茶屋跡があります。▲1817年に建造された茶屋の跡1817年に建てられたというその古い家屋は改築・修理がされていますが、 石垣や屋敷の門に当時を偲ぶことができます。 (´ー` )街道筋ラシイ風情デス そこから1kmちょっと長崎市方面へ向かったところに、この街道で一番の名所があります。 それは「継石坊主(ツギイシボウズ)」、別名「鯖腐岩(さばくさらかしいわ)」と呼ばれる奇岩で、 高さ20mはある大きな岩の上に、さらに不安定そうに岩が載っていて、今にも落ちてきそうなのです。 (;° ロ°) オトロシカ~(怖い)▲奇岩、鯖腐岩 江戸時代の文芸作家で狂歌師として名を馳せた、太田蜀山人(太田南畝)が、 長崎奉行所の役人として在勤していた時、 この奇岩を見て「岩かどに立ちぬる石を見つつをれば になへる魚もさはくちぬべし」と、 落ちてきそうな岩を怖がり、 とうとう鯖を腐らせたという意味の歌を詠ったのが「鯖腐岩」という名の由来だそうです。 ( ’.’)今モ当時ノママ この奇岩を眺め通った後、旅人らはこの街道最大の難所と呼ばれた「打坂峠」を越えなければなりませんでした。 現在は国道が通り、当時の様子は分かりませんが、起伏が激しい峠道だったようです。 そこを抜けるといよいよ滑石、浦上と長崎の市街地へ入ることになります。 ところでこの街道は1597年に、 豊臣秀吉のキリスト教禁止令によって西坂の丘で殉教した「日本二十六聖人」たちが通ったことでも知られています。 京都や大阪で捕らえられた彼らは、長崎で処刑される前夜、 彼杵から大村湾を横断して時津へ着き、舟中で一夜を過ごしています。 浦上街道は彼らの聖なる足跡を残した最後の道だったのです。 (・_・、) 悲シクモ感動的ナ聖人タチデシタ▲「日本ニ十六聖人上陸の地」の碑

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  • 第127号【松田雅典と缶詰】

     スーパーに並ぶたくさんの缶詰。果物、魚介類、野菜、飲み物、etc…。 現在日本で800種ほどの缶詰があるそうです。 そのまま飲んだり、食べたり、料理の材料や非常食として常備しているご家庭も多いことでしょう。 (^^)缶チャンポンハアリマセンガ。 加工した食材を缶に入れて加熱滅菌。 密封して永く保存するというその作り方を最初に考案したのはニコラ・アペールというフランス人です。 それは19世紀はじめ皇帝ナポレオンが活躍していた時代で、フランス軍の食糧として大いに活用されました。 当初は缶ではなくビンに詰められていましたが、間もなくイギリスでブリキ缶が発明され缶に詰められるようになったそうです。 日本で初めて缶詰を製造したのは長崎の松田雅典という人物で、19世紀後半、明治時代のことです。 雅典は長崎会所の吟味役を務めていた馬田家の次男として天保2年(1832)に生まれました。 成人して婿養子となり、姓が松田に変わっています。 勤め先は長崎の外国語学校「広運館」(※第88号参照)で、 仕事柄、外国人との接触が多かった影響で、日頃から外国製品に高い関心を寄せていたそうです。 そんなある日、フランス人教師のレオン・ジュリーが、本国から持ち込んだ 牛肉の缶詰を食べている場面に遭遇。なぜ、何ヶ月も前にフランスから持って 来た牛肉が食べられるのかとたいへん驚き、ジュリーからその製法を聞き出し ました。そうして試作品としてイワシの油漬け缶詰をつくったのが日本の缶詰 の始まりだといわれています。(^∇^)雅典ハ“日本の缶詰製造の父”!▲日本最初の罐詰製造の地ちょっと登ると県立図書館が。 その当時、長崎は開港して、港周辺に欧米各国の領事館が次々に立ち並びは じめていた頃で、雅典は長崎にやってくる外国船を眺めながら、缶詰ビジネス が、長崎の重要な産業になると考えます。そうして県知事にかけあい、日本初 となる缶詰工場、「長崎県缶詰試験場」をつくったのでした。 (□□)/場所ハ立山ノ県立図書館ソバ 缶詰製造にあたっては外国から機械を取り寄せたり、何度も試行錯誤を重ね るなど相当苦労したようですが、その甲斐あって、のちに外国へ輸出されるま でになります。さらには日清戦争では兵食にも利用されたそうです。 雅典が明治28年に亡くなった後、長崎では大正初期に「トマト・サージン」 が初めて試作され、製品化。昭和30年頃まで海外に広く輸出されています。 もちろんこのトマト・サージンには、雅典の時代に培った缶詰製造の技術が活 かされていたに違いありません。 (^ー^)長崎ハ、イワシ(サージン)ガイッパイ捕レルカラネ▲2種類のイワシの缶詰缶切不要タイプも増えました。

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  • 第126号【ザボンと西山神社】

     冬、食べ頃となるザボンの実。グレープフルーツにも似た爽やかで甘い香りが魅力の果実です。 ザボンの名はポルトガル語のザンボア(Zamboa)に由来。 またブンタン(文旦)とか、それが訛ってボンタンとも呼ばれることもあります。 (〇_〇?ザボン≒ブンタン▲食べ頃のザボンとザボン漬け 2月初め、ザボン発祥地である西山神社(長崎市西山本町)へ行って来ました。 諏訪神社から北の方の高台へ歩いて15分。発祥といわれるザボンの木が、緑に囲まれた静かな境内の下段にありました。 すでに4代目というそのザボンの木は高さ5mほど。大きな実が細い枝をしならせて、沢山ぶら下がっています。 数えると25個もありました。\(’- ’)1.2.3…♪▲ザボン発祥の地・西山神社 ザボンの種子がジャワから唐船に揺られて長崎に渡って来たのは、1667年のこと。唐船船長が種子を唐通事だった廬 草拙(ろ そうせつ:西山神社を建てた人物)へ譲り、 それを境内に蒔いて成長させたものが最初です。 この初代の木は100年近く生き、その間生まれた新たな種子が長崎周辺や島原半島、鹿児島などへ渡って行きました。 時は移り昭和23年、「長崎のザボン売り」という歌謡曲が大ヒットしました。 が、じつは当時、長崎にザボンは少なかったそうです。 というのも大正5年に害虫が発生し、ほとんどのザボンの木が伐採されていたのです。 しかしこの歌のヒットでザボン人気も急上昇。あわてて長崎駅前にザボン売りが登場します。 この時、急きょ用意されたザボンの多くは、かつて初代の種が渡った鹿児島から取り寄せたものだったそうです。 しかし、その後は長崎のザボンも増産され今では特産品となっています。▲西山神社のザボンの木(^o^)鐘ガ鳴ル鳴ル マリアノ鐘ガ… (--;ウ、歌エルノ? ザボンといって忘れてはならないのが、その皮を砂糖漬けにした、こちらも特産品のザボン漬けです。 その昔、贅沢品だった砂糖をたっぷり使う所が、いかにも長崎らしい気がしますが、 本格的に作られるようになったのは明治時代に白砂糖が輸入されるようになってから。 とはいえ、江戸時代には唐伝来の果物や野菜の蜜漬物の手法があった長崎。 たぶんザボンもその材料になっていたと推測され、現代のザボン漬けにつながる下準備がすでに出来ていたようです。 さてザボンの話ではありませんが、西山神社は正面に彦山を望む、知る人ぞ知る初日の出の名所。 そして毎年、元旦くらいに見頃を迎えることから「元旦桜」の愛称を持つ寒桜があるのでも知られています。 訪れたその日、元旦桜が美しい花びらを境内に散りばめていました。 (^ー^)It's Beautiful !!

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  • 第125号【2003長崎ランタンフェスティバル】

     今年で10年目を迎えた長崎の冬まつりは、いつしか“北の札幌雪まつり、 南の長崎ランタンフェスティバル”とまで称されるようになりました。 夕暮れとともに1万2千個のランタンが一斉にきらめきはじめると、 この寒さもどこへやら、皆、明かりに誘われるように街に繰り出しています。 (^∇^)/只今、好評開催中!2/15迄。▲今年から新設された中央公園会場(メルカ築町近く) 今年はメイン会場の湊公園(新地中華街そば)と同規模の新会場として中央公園会場(賑町電停そば)も設けられました。 そのせいか毎年たいへん混雑していた新地中華街周辺もスムーズに人が流れています。 会場はこの他、眼鏡橋会場、鍛冶市会場、興福寺会場など町の各所にあります。▲いろとりどりのランタン 色鮮やかな容姿とアクロバティックな踊りが見事な中国獅子舞、 しなやかな身体で伝統の妙技を次々に繰り広げる中国雑技、そしてお馴染みの龍踊りなど中国の新年を祝う多彩なイベントが各会場で繰り広げられています。 イベント日程は各会場で配布されているリーフレットやホームページを参考にして下さいね。 ( ̄∇ ̄)/人気イベントハ少シ早メニ行クベシ 極彩色の衣装を身にまとい街を練り歩く「皇帝パレード」や「媽祖(まそ)行列」はこのまつり恒例の人気イベントですが、 さらに今年は10周年記念として「中華大婚礼」(2/11、17:20~19:00)が行われます。 これは中国宮廷風の結婚式を再現したもので、 新郎・新婦がのったお神輿を担いで総勢100名がパレードするそうです。 ( ^o^)/媽祖行列ノ蒔キ物ニハみろくやちゃんぽんモアルヨ。さて、メイン会場で楽しんだ後は近くの唐人屋敷会場へ。 会場の道沿いでは中国茶が振舞われていたり、飲茶を気軽に楽しめるお店もありました。 地元の商店街も通常より長く営業しているようです。 福建会館入口には夜の闇に中国の赤いロウソクが灯って、とても幻想的な雰囲気。 会館の奥から中国民族音楽が聴こえて来ました。 人垣で演奏している人の姿は見えなかったのですが、ランタンの夜にふさわしく、 どこか怪しく切ない悠久の音色を響かせていました。▲中国音楽の演奏が行われている福建会館 新たな節目を迎えた10年目のランタンフェスティバル。 各会場をめぐる中で、人の波に飲み込まれるようにして少しずつ進む一台の車椅子利用者の姿がありました。 今後このまつりが少しでもバリアフリー化され、より多くの方をもてなせるように期待を込めて、 『新年快楽&万事如意』!! (^∇^)(訳:あけましておめでとう&願いが叶いますように)▲ランタン装飾された電車▲中国の赤いローソク▲今年の干支羊のオブジェ▲中国茶をふるまう地元の方

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  • 第124号【長崎の節分】

     春の節分が近いこの時期、スーパーなどでは鬼のお面がセットになった節分用の豆がいろいろ売られています。 邪気を払い、春を告げる行事として古くから行われている節分の豆まき。 「鬼は外、福は内」と年男年女がまいた豆を、自分の年の数だけ食べると1年間病気にならないといわれています。 (´ー`)/イツモ食ベ過ギテマス▲スーパーで良く見る節分セット 長崎の人々に親しまれている節分の行事といえば、おくんちで有名な諏訪神社で行われる「節分祭」です。 夕方から豆まきや古い神札の焚き上げ神事等が行われ、大勢の人々で賑わいます。 年男年女による豆まきは、3回位に分けて盛大に行われます。 1年間お世話になった神札やお守りの焚き上げは、地元消防団が見守る中ではじまり、 人々は暖をとりながら燃え盛る様子をしばし見つめます。 炎と一緒にさまざまな想いも昇華させているのでしょう。▲豆まきが行われる諏訪神社の舞殿 ところで長崎の年配の方には節分のことを「年越し」と呼ぶ人がいます。 節分はもともと中国から渡来した歳末の行事。 立春を新しい年のはじまりとする中国の暦からいえば、その前日の夜をいう節分は、いわば大晦日のようなものなのです。 ( ’∇ ’)中国版大晦日デスネ 江戸時代の長崎にはこの「年越し」に行う「お化け」というユニークな習俗があったそうです。 「お化け」といっても幽霊のことではありません。 例えば女性は男装、男性は女装したり、まさに化け合うというもの。 いつもと違う自分になって大いにはしゃいだそうです。 ヒュ~|||-_||Γ (--;違ウッテ 節分では古くから鬼に仮装する者がいて、その仮装に工夫を凝らすうちにこの「お化け」なる習俗が生まれたという説があります。残念ながら長崎では、もう見聞きしなくなりましたが、京都や大坂方面では伝統的な行事として残っているところがあるそうです。▲諏訪神社で売ってる節分の豆(升入り) さて節分の日のユニークな行事といえば、平戸の最教寺で行われる伝統行事「子泣き相撲」も有名です。 紅白のねじり鉢巻きをした1才位の赤ちゃんを向かい合わせて座らせ、早く泣いた方に軍配を上げます。 これは赤ちゃんのけがれのない泣き声が、厄を払う力があるとして無病息災を祈るもの。 土俵に上がっても、眠って起きない子や、なぜかずっとニコニコしている子もいたりして、勝負がつかないこともあるそうです。 行司役のお爺さんと初々しい赤ちゃんとのコントラス!?も微笑ましいかぎりで、見てる方も気分が明るくなります。 まさに春を告げる節分らしい行事です。エーン( ;ロ;)--> ☆ <--(-.、- )ZZZ…Smile-( @^ー^)--> ☆ <--(>0<; )ワーン

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  • 第123号【キリシタンの村・外海町出津へ】

     美しい岬と入り江の村の風景が交互に続く国道202号線。 西彼杵半島の海岸を北上するこの道路は夕日の名所としても知られる風光明美なドライブコース。 その途中に外海町出津(そとめちょう しつ)はあります。 ( ^∇^)/長崎駅カラ、バスデ約1時間30分▲自然が美しい外海町出津(港) 海岸際まで山が迫り、平坦地が乏しい出津の村。 民家と小さな段々畑が山の斜面に点在し、中央の谷間には出津川が流れ、その先に角力灘(すもうなだ)が広がります。 天から光のカーテンが差し込むその紺碧の海と山の緑に包まれたこの谷間の村で、 一際美しい佇まいを見せているのがマルコ・マリ・ド・ロ神父(1840~1914年)ゆかりの出津教会です。 村を見渡す小高い丘に建つ教会は1882年(明治15)建立。 台風の被害をさけるため、高さは低めで堅牢な造りになっています。▲1882年ド・ロ神父は自ら設計・施工した出津教会。白を基調にした教会の外観は日に照らされて輝き、 屋内も信者さんたちによる掃除が行き届いて、きれいで厳かな空気に包まれていました。 (‘ -‘)神聖ナ気持チニナレマス 出津を含むこの外海の地は、かつてキリシタンの迫害に耐えながら信仰を密かに守って来た、隠れキリシタンの里。 フランス人宣教師のド・ロ神父が主任司祭として外海の地へ赴任したのは、1879年(明治12)。 明治政府がキリスト教禁制を廃止した直後の事でした。 当時、ひっそりと貧しい生活をしていたこの地の人々を救おうと、ド・ロ神父は自ら設計・施工して出津教会を建てます。 さらにイワシ網工場や授産施設を設け、診療所を開いたり、ソーメンやマカロニの製造、 メリヤス織機の技術も教えるなど、まさに万能ともいえる知識を注いで村人の生活向上に尽しました。 (^o、^)特産品ノ、「ド・ロさまソーメン」ハ美味シカヨ!▲シスターが奏でるオルガンの音色に感激 もともとはフランスの貴族出身というド・ロ神父。 これらの活動は私財を惜しみなく投じて行われたそうです。 神父の深くて広い人類愛の精神を垣間見る当時の資料は、 出津教会近くにある「ド・ロ神父記念館」で見る事ができます。 この記念館にはド・ロ神父が弾いた貴重なオルガンもあります。 昨年春、修復されたそのオルガンを館内にいらしたシスターが弾いて下さいました。 とても柔らかくやさしい音色が心を打ちます。♪~(;-;)ジーン 帰り際、教会のそばでアマチュアカメラマンの方に出会いました。 「出津の人々は皆、優しくて素朴」、そんな魅力にひかれ、20年近くもこの地に通い、撮り続けているそうです。 ド・ロ神父の精神が時代を越えて出津の人々に息づいているのでしょう。 m(_ _)m案内シテクレタ地元ノ中学生ノ方、アリガトウ!

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