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  • 第347号【地名、町名に秘められた歴史(外町ほか編)】

     前回に引き続き、長崎の地名、町名にまつわるお話です。江戸時代、人口の増加にともなってどんどん拡大していった長崎の町。今回は、全部で54カ町あったという外町から、いくつかの町名の由来をご紹介します。 内町を囲むように外町がつくりはじめられたのは、慶長2年(1597)の頃。最初は、中島川に架かる賑橋から上流の眼鏡橋あたりまでの川沿い(西側)に、材木町、本紺屋(もとこうや)町、袋町、酒屋町といった町が並ぶようにできたそうです。これらの町名は、現在は残っていませんが、材木町は町建てに欠かせない材木が集められた場所といわれ、本紺屋町は、紺屋(染物屋のこと)が集まった町、袋町は足袋屋など小間物類(袋物)商があった町、酒屋町も酒屋があったことに由来するといわれています。いずれも商売に関連する町名だというのが注目すべきところ。当時の長崎には、町の発展を見込んで全国から商人たちが集まって来たいたのです。  外町には、職人名にちなんだ町名も多くみられます。現在も残る町名でいうと、桶職人が住んでいたことに由来するという桶屋町、銀細工職人が住んだという銀屋町、鍛冶屋さんが集まった鍛冶屋町、大工さんが多く住んだという新大工町など。また、昭和41年までは、鏡や刀などを磨く職人がいたという磨屋(とぎや)町、紙すきが行われていたという本紙屋町などの町名も残っていました。こうした職人名にちなんだ町名からも、江戸時代の長崎の賑わいがうかがえます。  ところで、坂本龍馬が長崎で設立した貿易商社「亀山社中」の「亀山」の由来をご存知ですか?「亀山社中」は、長崎の市中にほど近い、長崎村伊良林の亀山(現在の長崎市伊良林2丁目)と呼ばれた小高い丘にありました。その家屋は、江戸期の長崎の名窯のひとつ「亀山焼」の作業場だったところです。それで、その組織は「亀山社中」とか「亀山隊」などと呼ばれたといわれています。  では、そもそも「亀山」の由来とは?三重県の亀山市の場合は諸説あり、ひとつは地形が亀の甲羅に似ていたからというものだそうです。長崎の「亀山」も周囲の山の形がそう見えなくはないのですが、実際はどうだったのでしょう。 この地で、亀山焼がはじまったのは文化4年(1807)のこと。窯の歴史は約60年と短いのですが、名陶として知られ、安政年間には御用陶器所にもなるほどでした。ちなみに龍馬が愛用したという白磁に龍の染付の飯碗も亀山焼です。また、亀山社中が設立されたのは、亀山焼が廃窯となった翌年の1866年のことでした。 実は窯が設けられる前、この地は垣根山(かきねやま)と呼ばれていました。開窯当初は、白磁の器などではなく、オランダ船に輸出するための水瓶を製作していたそうです。そこから「水瓶」の「かめ」が、「亀」に転じ「亀山」と呼ばれるようになったともいわれています。長崎歴史文化協会の越中哲也氏は、「当時、この地を亀山と呼びはじめたのは、木下逸雲ではないかと思っています」とおっしゃっていました。木下逸雲は、石崎融思らと並ぶ長崎三筆のひとりで、一時衰退した亀山焼の復興に尽力した人物です。逸雲が絵付けを施した亀山焼の茶碗も残されています。  「亀山」という地名の由来をたずねただけで、いろいろなエピソードがとめどもなく出てくる長崎。本当にユニークで奥の深い町です。 ◎参考にした本/越中哲也の長崎ひとりあるき~長崎おもしろ草5~(長崎文献社)

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  • 第346号【長崎の町名をひもとけば…(内町編)】

     「長崎」という地名は、その地形に由来して「長い岬のあるところ」から「ながさき」となったという説や、戦国時代にすでにこの地に居住していた長崎氏の名前に由来するという説があります。こんなふうに、地名や町名の由来を調べると、その土地の地形や成り立ちなどがわかって面白いものです。 長崎が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570)の開港からです。それに応じた町づくりは、翌年からはじまっています。まず、最初にキリシタン大名の大村純忠によって、その長い岬の先あたり(現在の長崎県庁周辺)に大村町、島原町、平戸町、横瀬浦町、外浦町、分知町の6町がつくられました。外浦町、分知町以外は、いずれもポルトガル船との貿易港が長崎に至るまでに、キリスト教の布教が行われた地域の名がそのまま町名になっています。つまり、その地域から長崎へ移った人々が住んだ町ということです。外浦町、分知町もキリスト教に関連した人々が居住したといわれ、最初の6町はキリシタンのために拓かれたともいえます。現在、これらの町名は、万才町などに編入され、残念ながら残っていません。  ポルトガルとの貿易を行う中核として誕生した最初の6町。ときは江戸時代へと移り変わる中、6町に隣接してのちに26の町がつくられました。これらの町は、内町(うちまち)と呼ばれ公領として地租を免じられています。現在もこのとき生まれた町が残っていて、興善町(当時は本興善町、後興善町、新興善町)、江戸町、桜町、樺島町、五島町(当時は浦五島町、本五島町)、金屋町、築町などがそうです。内町が整う中、周囲には 外町(そとまち)と呼ばれる地租免除外の町も54カ町つくられていきました(内町・外町の区分は1699年廃止)。内町だけの頃は1万人に満たなかったという長崎の人口は、外町が拡大していった1614年頃には、2万5千人以上になっていたそうです。  内町にあった、本博多町、本興善町、後興善町などは博多商人ゆかりの町です。その位置は現在でいうと、長崎市立図書館(興善町)周辺になるでしょうか。長崎の町の歴史を詳しく且つわかりやすく著した「越中哲也の長崎ひとりあるき」によると、「長崎が貿易港として定期的にポルトガル船が入港するようになったとき、当時の九州の商都として栄えていた博多から商人団の大きい移住があったと考えられる」とあります。興善町は、商いのために博多から進出してきた興善家の人が建てた町だと伝えられています。  内町のひとつで、出島と川をひとつ隔てた位置につくられた江戸町は、名前から想像できるように江戸幕府が生まれてから整備された町です。お江戸の繁栄にあやかって名付けたのでしょうか。町は、現在も当時と変わらぬ位置にあります。江戸時代、その近さから出島のオランダ人とは何かと関わりがあったようで、今も使用される江戸町の町章は出島のオランダ人がデザインして贈ったものと伝えられています。それは「J・D・M」の文字を配したもので、オランダ人が江戸町を「JEDOMATSI」と綴ったことに由来するとか。長崎県庁の裏手にある江戸町公園には、そのカタチから「タコノマクラ」とも称される町章が大きく記されています。  今回は、内町からいくつかの町名の由来をご紹介しました(次回は外町です)。いたってシンプルに付けられた町名ですが、いずれもいろいろなエピソードが秘められていて、「町名=町のプロフィールを凝縮したもの」といった印象でした。あなたがお住まいの町も、由来を調べたら意外なエピソードが出てくるかも。ちょっと調べてみませんか。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 ◎参考にした本/越中哲也の長崎ひとりあるき~長崎おもしろ草5~(長崎文献社)、長崎県の歴史(外山幹夫 編/河出書房新社)

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  • 第345号【龍馬が夢を描いたまち、長崎】

     年賀状はもう書き終えられましたか。大晦日まであと1週間あまり。振り返ると、今年の長崎は来年の大河ドラマ「龍馬伝」の話題で持ちきりでした。オンエアされる2010年は、ますます「龍馬」で明け暮れそうです。そこで、当コラムも来年に希望を託して「龍馬」をテーマに、長崎での足跡をご紹介します。 実は、龍馬の足跡については5年前にも取り上げています(※190号)。今回、同じ場所をいくつか訪れたところ、状況が変わって、以前より、龍馬と長崎のつながりが強く感じられました。たとえば、龍馬ファンが必ず訪れる「亀山社中跡」(長崎市伊良林)。この夏、往時に近い形で復元整備され、「長崎市亀山社中記念館」としてオープンしています。  亀山社中(のちの海援隊)が本拠地としたこの建物は、小さな切妻屋根の平屋で、江戸時代、この辺りで焼かれた亀山焼きにゆかりのある建物と推測されています。畳の部屋は10畳、8畳、3畳の3つ。柱や天井など簡素な木の造りに昔の風情が感じられます。海援隊士らが長崎の港や街を眺めたに違いない縁側や、隠し部屋などもありました。けして広いとは言えない部屋に立つと、龍馬たちがここで夢を語り合ったことがリアルに想像できます。龍馬の人柄がにじみ出た手紙をはじめ紋服、ブーツなどの複製品など、展示物も充実。たいへん見応えがありました。 「亀山社中跡」界隈は、龍馬関連の史跡や見所が集中しています。龍馬をはじめ海援隊士らも参拝したと思われる「若宮稲荷神社」、龍馬が盟友・佐々木三四郎と度々訪れたという西洋料理屋の「藤屋」跡。龍馬の片腕と呼ばれた近藤長次郎のお墓(晧台寺)、そして、地元の龍馬ファンや有志の方々によって設けられた龍馬のぶーつ像、坂本龍馬之像(風頭山)…。いずれの場所へ行くにも坂道、坂段は避けられないところが、また長崎らしいのでありました。 龍馬が長崎の地を初めて訪れたのは、土佐藩脱藩から2年後の元治元年(1864)のこと。このときは勝海舟とともに訪れ、1カ月以上滞在しました。そして、再び長崎を訪れ、慶応元年(1865)、亀山社中を結成。海外への志を胸に、貿易と海運業で実績を築く中、慶応3年(1867)1月、土佐藩参政の後藤象二郎と意気投合し、同年4月、社中は海援隊としてあらたなスタートをきりました。  まもなく、「いろは丸事件」が起きます。海援隊の持ち船「いろは丸」(160t)と御三家のひとつ、紀州徳川の「明光丸」(880t)という蒸気船どうしが起こした瀬戸内海上での衝突事故です。龍馬は、格が違い過ぎる相手に対し、驚くような行動に出ました。当時、長崎を訪れた諸藩の人々の情報交換の場でもあった、花街・丸山で「♪船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という歌を流行らせ、紀州藩のイメージダウンをねらったのです。 緊迫した交渉の舞台は聖福寺(長崎市玉園町)でした。最終的に龍馬たちは、8万3千両(のち7万両に減額)の賠償金を得たといいます。そんな史実を知って、あらためて聖福寺の参道を歩くと、龍馬の計り知れない度量を感じて、思わず立ち止まってしまいました。 龍馬が長崎を初めて訪れてから、京都で亡くなるまでの期間は4年弱。長崎でのさまざまな出会いは、龍馬を大きく成長させ、その想いは新時代の礎となりました。長崎は、短くも濃密に生きた龍馬の熱い想いに触れることができる街。時代が大きく変わろうとしている今、龍馬は再び長崎に大切なメッセージをよこしているのかもしれません。

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  • 第344号【エコできらめく長崎の夜を歩く】

     お天気の長期予報によると今年も暖冬。長崎では12月に入っても小春日和の過ごしやすい日が多く、師走らしい感じがいまひとつしません。暦をあらためて見ると、雪が降り本格的な冬を迎えるとされる二十四節気の「大雪」は、おとといの12月7日。一年で昼が一番短く、夜が一番長い「冬至」は12月22日です。つまり、寒さの本番はこれからということ。みなさん、年末に向けて、体調管理にはくれぐれもお気を付けください。  そんなわけで、いまのところ長崎は、夜も薄手のコートを1枚はおるだけで十分過ごせる温かさ。ちょうど先月末から、夜の市街地で「長崎ハートフル・イルミネーション」という催しが行われていると聞き、マフラーも、毛糸の帽子も、手袋も付けない軽装で、デジカメを片手に出かけてきました。  「長崎ハートフル・イルミネーション」は、長崎駅をはじめ出島、長崎水辺の森公園、大浦天主堂、グラバー園といった観光スポットをイルミネーションで飾り、クリスマスシーズンらしい演出をほどこした催しです。期間は、先月末から大晦日まで。点灯時間は夕方17時から22時までだそうです。(※出島、大浦天主堂、グラバー園は、開園(場)時間や点灯時間は施設によって異なりますので、チェックしてお出かけください。) ところで、この時期、こうしたライトアップは全国各地の観光スポットや商店街などで行われています。ここ数年、環境への配慮からグリーンエネルギーを利用したり、省電力で耐久性に優れたLEDライトを使用するところが増えています。「長崎ハートフル・イルミネーション」で使用されている電飾もLEDライトを使ったエコな明かりだそうです。LEDライトは、以前の白熱球の明かりと比べると、クールな印象。繊細なガラス細工にも似た美しいきらめきが特長です。  さて、長崎の夜の街歩きは、夕方、帰宅時間のざわめきがはじまった長崎駅からスタートし、出島、出島ワーフ、長崎水辺の森公園、大浦天主堂、グラバー園の順でたどりました。このルートは、単に歩くだけなら小1時間もあれば十分な距離です。今回は、2時間ほどかけゆっくりライトアップを楽しみました。 出島では、オランダ国旗をモチーフにしたクリスタルコーンがかわいらしかった。キリスト教が禁じられた江戸時代、出島のオランダ人たちは、キリスト教に由来するクリスマスパーティーを、阿蘭陀冬至と呼んで祝っていたという話を思い出します。長崎港の出島ワーフへ行くと、停泊したヨットが驚くほど華やかに飾られていました。聞けば、期間中、装飾艇のコンテストが行われているのだそうです。長崎県美術館の中央を流れる運河では、雪の結晶のような光のオブジェが水面の上に揺れ、映画のワンシーンのようなロマンチックな景色でした。 イルミネーションのきらめきは、厳かな聖夜の気分を思い起こさせます。仕事帰りの人々や、夕食を終えた家族連れ、おしゃべりがつきない学生たち…、いろんな人たちが楽しんでいる平和で美しい夜に、あらためて感謝したくなるのでした。

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  • 第343号【キリシタンの里・外海地方をたずねて】

     長崎はいま秋の修学旅行シーズン。紅葉したナンキハゼが舞う石畳の坂道を、見慣れぬ制服姿の学生さんたちが楽しそうに行き交っています。南蛮貿易、出島、外国人居留地、原爆…、長崎という小さな街にギュッとつまった多様で特殊な歴史の数々。修学旅行生たちは、どんなふうに感じているでしょうか。  さて、お出かけシーズンということで先日、長崎日本ポルトガル協会が主催する史跡見学会に参加しました。長崎日本ポルトガル協会は、毎年ポルトガルゆかりの史跡めぐりを行っています。長崎県内各地に点在するキリスト教関連の史跡は、もとをたどれば約450年前、ポルトガル船でやってきたフランシスコ・ザビエルら宣教師たちの布教活動に由来します。そうした動きの中で長崎は南蛮貿易港として歴史の表舞台に登場しました。長崎の歴史はポルトガル抜きには語れないほど、深いつながりのある国なのです。  今回の史跡めぐりは、遠藤周作の「沈黙」の舞台としても知られる長崎市の外海地方です。長崎市街地から車で約40分。夕日の名所として知られる西彼杵半島の海沿いの道路(国道202号)を北上していきます。案内してくださったのは、長崎歴史文化協会の越中哲也先生(88)です。長崎の郷土史家として著名な越中先生は、現在のように道が整備されていない時代から、県内各地を歩き回り、地道に史跡調査を行ってきた方で、当時の状況や調査内容を今もつぶさに記憶していらっしゃいます。今回も、行く先々で観光パンフレットに載っていない貴重な話を聞くことができ、充実した史跡めぐりとなりました。  外海の出津地区では、明治時代にこの地へ主任司祭として赴任してきたド・ロ神父に関連する史跡が数多く残されていました。ド・ロ神父は、出津教会(明治15年築・県指定有形文化財)を設計・施工。当時、外海の人々の困窮した暮らしを救うため、地域の教育や福祉に力をそそぎ、農耕地を開墾したり、イワシ網工場をつくったり、パンやマカロニの製法などを伝えるなどしています。ド・ロ神父記念館では、ド・ロ神父が愛用したというオルガンで、シスターが賛美歌を演奏してくださいました。  出津地区から、さらに北上した山間には、ひっそりと「大野教会」(県指定有形文化財)が建っていました。この教会も明治期にド・ロ神父が設計・施工したもので、現地の自然石を積み重ねてつくられた通称「ド・ロ壁」が見られます。小さくて質素な教会を、マリアさまの白い像がやさしいまなざしで見守っていたのが印象的でした。  このほか炭坑の島として繁栄した池島と結ぶフェリーの発着港がある神浦地区や、外海地方のキリシタンの聖地である枯松神社など10数カ所をめぐりましたが、もっとも印象に残ったのは、樫山(かしやま)地区でした。  この地区には「天福寺(てんぷくじ)」があります。禁教の時代から隠れキリシタンたちと密接なつながりをもったお寺です。その近くの山のふもとには、江戸時代の信者たちが霊木とあがめた椿があると聞き、行ってみましたが、神社の鳥居の向こうに質素なほこらが祀られているだけで、とうとう確認できませんでした。ほこらの裏手に回ると山へ入るせまい道が見えました。「この山に3回登れば、ローマへお参りしたのと同じ功徳があるといわれ、浦上のキリシタンも密かに訪れ、登っていたそうです」と越中先生。お寺や神社の鳥居が違和感なくとけ込む外海地方の隠れキリシタンの足跡は、何とも不思議な空気を醸していました。

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  • 第342号【シーズン到来!九十九島かき】

     佐世保の九十九島へ行ってきました。お目当ては、いよいよシーズンを迎えた「かき」。そう、九十九島は、長崎でも有数のかきの産地。北海道、宮城、広島など、全国的なブランドに引けを取らないおいしさで、いま食通たちの注目を浴びています。 九十九島は、長崎県の西北部に位置する西海国立公園の一部で、風光明媚な観光地として知られています。展望スポットのひとつ「展海峰(てんかいほう)」から眺めると、全部で200余りはあるという小さな緑の島々が、青い海にポコポコと浮かび、まるで神話の世界のようです。 「九十九島かきがおいしいのは、やはり、この美しい自然のおかげです。この辺りの海域は、緑の島々から養分が海水に流れ込み、エサとなる植物性プランクトンが豊富なんです」と話すのは、「マルモ水産」社長の末竹邦彦さん。「マルモ水産」のかきは、ここ数年、東京・品川のオイスターバーのメニューに並ぶなど全国でも屈指のかきブランドとして急成長しています。 少し小ぶりな殻の中いっぱいに育った乳白色の身。つややかで弾力があり、口にすると海水のしょっぱさのあとに、かき独特の旨味がたっぷりとこぼれ出て、思わず「ああ~、しあわせ」とためいきが出るほどです。「マルモ水産」のかきは、濃厚な旨味とえぐみのないジューシーな味わいが特長。そこには、消費者のおいしいという笑顔を見るために、チャレンジを続ける末竹さんの熱い思いがありました。 末竹さんが、かき養殖に取り組みはじめたのは5年ほど前のこと。「おじいさんの代から細々と営んではいましたが、本格的にはじめたのは自分の代からです」。後を継ぐ前は、真珠の養殖の仕事に携わっていました。「真珠の養殖技術は、かきの50年先を行くほど進んでいます」。その経験とノウハウを活かし、他が真似できない技術やアイデアを取り入れ、安全でおいしいかきの生産を実現したのです。 たとえば、成育中にマイクロバブルをあて、殻の開閉回数を増やして、貝柱の筋力を鍛える。そうすることで、貝柱は太く甘くなるといいます。安全性を高めるために、いったん水揚げしたかきをUV殺菌を施した安全な海水の中に入れ、体内の海水を入れ替えます。さらに出荷前に、超音波で余分なものを落とすという念の入れようです。また、ウイルスの検査も週に1度、専門機関を通して行うなど、とことん安全性の確保に努めています。 美しい九十九島の海を舞台に、完璧ともいえる養殖方法を実践する末竹さん。夢は、「海外の人にも九十九島かきを味わってもらうこと」。すでにこの秋、中国にも出荷し、確かな手応えを感じているそうです。ところで、末竹さんのお話はときに学術的で、まるで生物学者のようでもあります。聞けば、海洋や水産関係の学者などで構成される「世界かき学会」の会員で、そのシンポジウムなどを通していろいろ勉強をしているそうです。日々変わる自然を相手に、かき養殖を極めようとする生産者の真摯な姿が、そこにありました。

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  • 第341号【茂木くんちに、行ってきました】

     秋祭りのシーズンです。長崎では、10月7、8、9の「長崎くんち」が終わると、約1カ月間に渡って、「郷(さと)くんち」とよばれる祭りが市内各地で行われています。たとえば、竹ン芸が奉納される「若宮くんち」、獅子浮立が行われる「矢上くんち」、女相撲で知られる「式見くんち」など、その地域の歴史・風土を物語る伝統が残されていて、その数は確認されているだけでも30数カ所はあるといわれています。  つい先日、長崎市茂木地区の「茂木くんち」へ行ってきました。長崎駅から車で約20分。市街地から緑の山を越えたところにある茂木地区は美しい橘湾に面した地域で、古くから漁業が盛ん。長崎市内でもとくに魚のおいしいところとして知られています。茂木の港は、江戸時代には鹿児島や熊本方面へ通じる交通の要衝でした。また、明治時代には長崎の居留地に住む外国人の避暑地としても栄えるなど、たいへん個性的な歴史を持つ土地柄です。  「茂木くんち」は茂木地区の総鎮守である裳着神社(もぎじんじゃ)の祭礼です。長崎市内でもっとも古い神社といわれ、「裳着」の名は、日本書紀に登場する神功皇后が三韓出兵のときにこの地に立ち寄り、裳(衣装)を着けたことに由来するそうです。  「茂木くんち」は毎年10月中旬の土日(2日間)に行われています。以前は、決まった日にちがあったそうですが、平日だと人の集まりが悪くなるため、いまのように変わったそうです。私たちが訪れたのは2日目で、裳着神社でお参りをした後、沿道にくだって「お上り」の行列を見物しました。  行列の先頭を歩いてきたのは、5メートルほどはありそうな長い鉾(ほこ)を持った男性です。着流しに赤いズボン、草履という、どこか南方系を思わせる個性的な出で立ちです。ときどき立ち止まっては、長い棒をバランス良く持ったまま片足を前に伸ばし、もう片足を深く曲げるという、見るからにしんどそうなポーズをとります。   そのポーズが決まると、沿道の見物客から歓声と拍手がわき起こります。長い鉾の先には金色の鈴のような飾りが付いていて、動くたびに揺れる音がします。かつて、この鉾を持つ役を経験したという男性によると、「鉾の正式な名称は知らないが、揺れるとポロンポロンと鳴るので、僕たちはこの鉾のことを“ポロンポロン”と呼んでいます」とのこと。  長崎の歴史のよもやま話が集まる長崎歴史文化協会によると、「茂木くんち」に関する詳しい史料は、今のところ確認されていないとか。また鉾の長さは、電線などにひっかかるという事情から、近年1メートルほど短くされたそうです。  鉾持ちの男性が過ぎると、お上りの行列は地域の男たちに担がれた神輿、そして、ハッピ姿の子供たちをのせたペーロン船が続きました。時代の事情による変化を受け入れながら、地道に受け継がれてきた「茂木くんち」。子供たちがお小遣いを片手に出店に急ぐ姿や、沿道でお年寄りが神輿にお賽銭を投げ入れて手を合わせる姿に、ホッと和んだ良いお祭りでした。

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  • 第340号【五島に伝わる祝い菓子、じょうよかん】

     商店街へお買い物に出ると、店頭には旬の野菜や果物が盛りだくさん。収穫の秋を感じて幸せな気分になります。いつの季節にも売っているジャガイモ、サツマイモ、サトイモといったイモ類も、いまなら採れたてとあって、一段とおいしい。旬の力ってやっぱりすごいですね。 イモ類で思い出したのが、以前、五島列島の中通島(なかどおりじま)でいただいたことのある「じょうよかん」とよばれる手作りのお菓子です。主原料は、ツクネイモと米粉(上新粉)。「じょうよ饅頭」の皮や「かるかん」に似た真っ白で弾力のある生地が特長で、砂糖の甘さとツクネイモの風味が効いた素朴な味わいです。聞けば、昔からその土地の家々でお祝い事があるたびに作っている、いわばハレの日のお菓子だそうです。  美しい海に囲まれた五島列島は、土地が狭くやせているため、古くからそのような厳しい環境でも育つサツマイモが主に作られて来ました。サツマイモを主原料にしたカンコロモチは五島列島の味としてよく知られています。一方、米や米粉は貴重だったため、昔は祝い事のときにしか食べなかったといいます。「じょうよかん」には、今もそのなごりがあるのです。 ところで、「じょうよかん」や「じょうよ饅頭」の「じょうよ」は、漢字では「薯蕷」と書きます。それは、すなわち山のイモ(ジネンジョ、ツクネイモ、ヤマトイモなど)のことだそうです。また、そういった和菓子は、昔は身分の高い者しか食べることができなかったことから、上に用いるという意味の「上用」から来たともいわれています。 「じょうよかん」作りにチャレンジしてみました。ツクネイモ、上新粉、砂糖、酒、卵白を混ぜたものを型に流し、蒸し上げます。五島列島の知人によると、以前は、すり鉢にそれぞれの材料を加えながら丁寧にすり混ぜていたので、けっこう手間ひまがかかったそうですが、いまでは、フードプロセッサを使うので、あっという間です。気を付けるのは、強火で蒸すときに「す」がたたないように加減すること。小1時間ほどで、五島列島で食べたあの味を再現することができました。 実は今回作った「じょうよかん」は、ツクネイモよりも粘りと甘みがあるヤマトイモを使いました。というのも、ツクネイモが長崎で出回るのは今月中旬からで、手に入らなかったのです。八百屋のおばあさんに、「じょうよかん」を作ると話すと、「ちょっと上等になるけど、おいしく仕上がるよ」と東北産のヤマトイモをすすめてくれたのでした。  素朴でやさしい五島列島の風土に思いを馳せながら作る、「じょうよかん」。そのやさしい味わいは、秋のお茶のひとときにぴったりのおいしさでした。

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  • 第339号【もうすぐ、秋の大祭・長崎くんち】

     澄んだ青空に広がる、いわし雲。日ごとに秋めく中、長崎市民が楽しみにしているのが、諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」(国指定重要無形民俗文化財)です。今年も370余年の歴史をつないで、10月7、8、9の3日間、まちを挙げて開催されます。 「長崎くんち」の主役ともいえるのが奉納踊りを披露する「踊町(おどりちょう)」のみなさんです。7年に1回その役割が巡ってきます。今年の「踊町」は、上町(うわまち)、油屋町(あぶらやまち)、元船町(もとふなまち)、今籠町(いまかごまち)、鍛冶屋町(かじやまち)、筑後町(ちくごまち)の6カ町です。 9月中旬、いよいよ総仕上げのときを迎えたそれぞれの踊町のけいこを見に行ってきました。どこも本番さながらの熱気と迫力でいっぱい。その様子とともに、各踊町のだしものをご紹介します。 上町は、「紅葉花諏訪祭伊達競(もみじばなすわのまつりのだてくらべ)」という長唄とともに長崎検番の芸子さんたちがプロの舞いを披露。踊りのことはよくわかりませんが、思わず見入ってしまう不思議な魅力がありました。 油屋町は、川船を披露。屈強な根曳衆(ねびきしゅう)たちが豪快に川船を曳き回す姿は感動的です。油屋町は江戸時代、長崎で唯一油を販売した町で、今回、町の象徴ともいえる傘ぼこの垂幕は、その昔、油問屋の主人だった大浦お慶という人が寄進したものを復元したそうです。大浦お慶は長崎に集まった幕末の志士らを支援し、坂本龍馬とも親交があったといわれている人物です。 元船町は、唐人船をダイナミックに曳き回します。せまい踊り場で、船を回転させながら前進させる技が見事です。唐人船に乗り込んで中国の楽器を力いっぱい鳴らす子供たちの姿も見逃せません。また月琴や胡琴などを使った明清楽の演奏と踊りも盛り込まれ、異国情緒たっぷりのだしものが楽しめます。 今年の踊町の中で、もっとも注目を浴びているのは今籠町かもしれません。57年ぶりに本踊りを奉納。花柳のお師匠さんによる指導で、「秋祭賑諏訪乃獅子舞(あきまつりにぎわうすわのししまい)」を披露します。また、傘ぼこは実に78年ぶりの奉納だといいます。今籠町の熱心な練習風景から、奇をてらわない、古き良きくんちを彷佛させる味わい深さが感じられました。  鍛冶屋町は、宝船を披露します。正絹の帆布にサンゴなどを飾った宝船は、見るだけでも金運が上がりそうな華やかさと美しさで魅了してくれることでしょう。宝船を力強く曳き回す根曳衆のカッコ良さといったらありません。恵比須天、大黒天など七福神が登場する踊りも楽しみです。 筑後町は、龍踊です。3体の龍(青龍2体、白龍1体)が登場します。ドラや太鼓など中国の楽器で奏でる龍囃子に合わせ、3体の龍が一斉に踊る様子は鳥肌が立つほどドキドキします。どこかジャスを思わせる長ラッパの音色は、龍の鳴き声を表しているとか。秋の空に響き渡る龍の声。ぜひ、聞きに来てください。◎参考にした本/長崎事典~風俗文化編~(長崎文献社)

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  • 第338号【長崎に伝わる河童の話】

     夏休みの間、眼鏡橋など石橋群で知られる中島川では、子供たちが川面に降りて遊んでる姿をよく見かけました。無邪気にはしゃぐ様子を眺めていて、ふと思い出したのが、「河童」の話です。日が暮れるまで川や池で遊んでいると、大人たちに「河童が出るぞ」なんていわれ、早く家に帰るよう注意されたものです。そんな思い出、皆さんもありませんか? 頭の頂きにお皿があって、口は鳥のようにとがっていて、背中には亀のような甲羅がついている。河童と聞いて想像する姿は、きっとこんな感じではないでしょうか。河童に関する話は、全国各地にあるといわれ、その土地特有のむかし話となって今に語り継がれているようです。そこに登場する河童たちは、いたずら好きで人を困らせるかと思えば、貧しい家に食べ物を届けるなどの優しい面もあったりなど、善にも悪にも語られます。それは、まるで人間の姿を河童という不思議な生き物に置きかえているかのようです。 さて、長崎にも河童にまつわるものがいろいろあります。長崎の諏訪神社には、河童の姿の狛犬がいますし、中島川の阿弥陀橋の近くには、中島川河童洞というお堂があり、あぐらをかいた河童の像などが祀られています。眼鏡橋のひとつ下流にかかる袋橋そばには子クジラに乗った河童像もあります。また、中島川では戦前まで、河童祭りとも呼ばれた水神祭が行われていたそうで、その祭の由来というのが、次のような話でした。 江戸時代は享保(1716~1736)の頃。川にごみを捨てる者が増えていました。ちょうどその頃、地元の水神神社には河童が毎晩のように訪れて、門を叩いたり、小石を投げたりなどのいたずらが続きました。神社の神主さんは、きっと、川が汚れて河童たちが住みづらくなったことを訴えているのだと考え、川を清掃し、長崎奉行所にも願い出て、川に物を捨てないようにおふれを出してもらったそうです。すると、河童たちのいたずらはピタリと止み、それ以降、毎年水神祭を行って河童たちをなぐさめたということです。 もうひとつ、いかにも長崎らしい話があります。これも江戸時代の話で、つみ荷を満載にしたオランダ船が、いよいよイカリを上げて長崎港から出航しようとしましたが、イカリがとても重くて、上げることができません。驚いたオランダ人は、奉行所の役人に頼んで、水中の様子を見てもらいました。すると、10匹ほどの河童たちがイカリの上に座っていたとか。このままでは、河童たちに船まで沈められてしまうかもしれないと、水神神社の神主さんに何とかしてもらうよう頼みに行きました。神主さんは、お酒を飲んで酔っぱらっていましたが、何とか、オランダ船のところまで連れてきました。そこで神主さんは河童たちにイカリを放すよう一喝。すると、イカリがひとりでに上がってきて、オランダ船は無事に長崎港を出航できたということです。めでたし、めでたし。 2つの話に登場する水神神社の神主さんは、河童たちの総元締的存在です。水神神社は、中島川界隈の町を何カ所か移転し、現在、上流の本河内というところにあります。なぜ、河童たちが神主さんのいうことなら聞き入れるのか、その理由は、「読みがたり 長崎のむかし話」(編著者:長崎県小学校教育研究会国語部)の中の「カッパ石」の話を読むとわかります。興味のある方はぜひ、ご一読ください。◎参考にした本/「読みがたり 長崎のむかし話」((株)日本標準)、河童伝承大事典(和田寛)、長崎事典~歴史編~(長崎文献社)

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  • 第337号【夏の身体にうれしい冬瓜】

     暑い日が続いています。いかがお過ごしですか?先日、ご近所の方から「暑気払いに、どうぞ」と手作りのお惣菜をいただきました。干し大根、フキ、ミョウガを甘酢に漬け、さらに赤シソと梅酢を加えてあえたもので、口にすると、暑さでボーっとした気分が吹き飛ぶほどの酸っぱさ!噛むと、干し大根の甘味とフキの風味、そしてミョウガのさわやかな食感と香りが楽しめ、まさに、夏にうれしいおいしさなのでした。 ご近所さんは、長崎県北部に位置する生月島(いきつきじま)のご出身。島を離れたいまも夏になると作る故郷の味だそうで、「フキが入っているのが特長かな」とおっしゃっていました。その地域ではこの時期、旬の野菜などを売っている無人販売所などにも置かれていたりするそうです。 夏のメニューといえば、長崎の家庭で食べ伝えられてきた料理のひとつに冬瓜(トウガン)のスープがあります。冬瓜と鶏肉を煮込んだおつゆで、お盆が終わった16日に食べる精進落ちの一品として知られています。また、夏の卓袱料理にも大鉢で登場することがあります。 冬瓜は東南アジア原産のウリ科の植物。一説には古代、仁徳天皇の時代に朝鮮半島から伝えられたといわれています。長崎では「トウガ」とも呼ばれ、カボチャやスイカ、マクワウリ、シロウリといったウリ科の野菜たちといっしょにこの時期、店頭に並びます。温帯から熱帯地域に育つ冬瓜は、同じ日本でも寒い地方ではあまり馴染みがないかもしれません。余談ですが、収穫した冬瓜はその名にふさわしく、風通しのいい冷暗所に置けば冬まで持つそうです。 水分をたっぷり含んだ白くてやわらかな果肉。淡白でクセのない味と香り。冬瓜は、あっさりとしたものが欲しい夏にはぴったりの食材です。ビタミンCを含んでいるので風邪のときにいいそうで、さらに利尿効果にもすぐれ、むくみや暑気あたりのほか、肥満を防ぐ効果もあるといいます。旬のものは身体にいいとはよく聞きますが、まさにそんな食材のひとつなのです。 冬瓜のスープの作り方は、皮をむき種を除いた冬瓜、鶏肉、きくらげを1~3センチくらいの角切りにし、水から煮込んでいきます。冬瓜がやわらかくなったら、薄口しょうゆ、酒、塩、こしょうで味をつけて出来上がり。器に盛り、小ネギを散らしていただきます。 あっさりとしたスープと煮込んでやわらかくなった冬瓜は、冷やしてもおいしく、夏場に最適です。中華だしやコンソメを加えたり、具材を鶏肉から、豚肉やエビに変えてみたり、仕上げに片栗粉でとろみをつけるなど、それぞれの家庭の好みに応じたアレンジができます。夏バテで食欲減退気味という方は、お試しになってみませんか?◎参考にした本/野菜と豆カラー百科(主婦の友社)、からだによく効く食べもの事典(三浦理代/池田書店)

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  • 第336号【飼育ペンギン、海へ出る!(長崎ペンギン水族館)】

     どこか幼児を思わせる体形とかわいい歩き方、そしてタキシードに身を包んだかのような容姿で、多くの人々に愛されているペンギン。空を飛べない海鳥として知られていますが、水中では飛ぶような勢いで巧みに泳ぎ回ります。そんなペンギンのさまざな姿を間近で観察できるのが「長崎ペンギン水族館」です。 長崎駅から車で約20分。目の前に美しい橘湾が広がる海辺に建つ「長崎ペンギン水族館」は、前身である「旧長崎水族館」時代から、ペンギンの繁殖や飼育の技術の高さでは日本屈指の水族館として知られています。けして大きな水族館ではありませんが、アットホームな雰囲気が魅力で、ペンギンをはじめさまざまな魚介類の世界を楽しく観察することができます。 「長崎ペンギン水族館」でこの夏、大きな話題になっているのが、フンボルトペンギンが海に出て泳ぐ様子を観察できる『ふれあいペンギンビーチ』です。7月にオープンしたばかりのビーチで、飼育されたペンギンが、自然の海に出て泳ぐのは世界で初めての試みということもあり、注目を浴びています。 フンボルトペンギンは、体長60センチほどの温帯ペンギン(生息地は南米ペルーあたり)です。性格は温厚で、他の種類のペンギンほど警戒心は強くないそうです。それでも、生まれも育ちの水族館の「箱入りペンギン」ということで、飼育員さんたちは、春頃からペンギンたちが海に慣れるための訓練をはじめたそうです。またペンギンがケガをしないように、岩場についた貝を除いたり、クラゲ対策の網をはったりなど、安全対策に余念がありません。 夏休み期間中は毎日ビーチに出ているフンボルトペンギン(午前から午後にかけての数時間。天候によって変更あり)。訪れたこの日、ビーチに出たのは10羽ほど。飼育員の方々に見守られながら、小さな歩幅で海へと急ぐ姿のかわいらしさといったらありません。ペンギンたちを驚かせないように静かに観ていた人たちは、みんな顔がほころんでいました。 海を目の前にするやいなや一目散に海中へ入っていくペンギンたち。ダイバーのようにスイスイともぐっていく姿は、館内の水槽で見る姿とは違ってとても野生的です。海に浮かぶ様子は、まさに海鳥のようで、ときどき白いお腹をみせるところはラッコのようなユニークさがあります。干潮の時間帯だったため、網で仕切った遊泳範囲がせまかったのですが、海でのひとときをのびのびと楽しんでいる様子です。暑さもあってか、エサの時間になってもなかなか砂浜に上がってこないものもいました。 地球上には、全部で18種類のペンギンがいるそうで、ここ「長崎ペンギン水族館」には、そのうち8種類が大切に飼育されています。館内の水深4メートルの大きな水槽には、キングペンギン、イワトビペンギンなど4種類の亜南極ペンギンがいて、海中をダイナミックに泳ぐ姿を見ることができます。 水族館で大切に飼育されるペンギンたちの姿は、かわいいばかりでなく、人と動物とのしあわせな関係や、自然の豊かさ、不思議さなど、いろいろなことを考える機会を与えてくれます。子供たちはもちろん、多くの大人にも訪れてほしいと思いました。※「ふれあいペンギンビーチ」は諸事情により予告なく中止となる場合がございます。事前に開催状況をご確認いただくことをおすすめいたします。◎ 取材協力/長崎ペンギン水族館(長崎市宿町3-16)     https://penguin-aqua.jp/

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  • 第335号【この夏、体験!軍艦島クルーズ】

     明治期より炭鉱で栄え、1974年の閉山後、長く無人島になっていた端島(通称、軍艦島/長崎市高島町)。いま、この島が、近年の廃虚ブームや、世界遺産の候補として今年、暫定登録された「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産のひとつとして、大きな注目を浴びています。 長崎港から南西約19キロの沖合いに位置する軍艦島。いま島内は、見学通路が整備され、この春から35年ぶりに一般公開されています。先日、初めて軍艦島に上陸できる長崎港(大波止)発着のクルーズ(やまさ海運/要予約)に乗船しました。定員200人というクルーズ船は満席状態で、乗客は小学生からお年寄りまで幅広く、特に若い女性が多いのには驚きました。 この日の天候は曇り。少し波がありましたが、船が揺れるほどではありません。観光案内の船内アナウンスが流れる中、クルーズ船は女神大橋をくぐって外洋へ。伊王島、高島、中ノ島と小さな島々を通り過ぎ、約40分で軍艦島のそばまで近付きました。 空は青空が広がりはじめたものの、海上は風があり、少し白波が立っている状態。クルーズ船は、船を着ける「ドルフィン桟橋」付近の波を確認し、間もなく、波の様子が上陸可能な規定を超えているため、今回は上陸できないというアナウンスを流しました。参加者はみな落胆しながらも、状況によっては、そういう場合もあると前もって伝えられていたため、軍艦島の周囲をゆっくり一周しはじめた船上から食い入るように廃虚の島を眺めました。 軍艦島は、周囲わずか1.2キロの小さな島です。最盛期の昭和30年代前半には約5300人の島民が暮らし、その人口密度は当時の東京の9倍だったと言われています。学校、病院、商店、映画館、パチンコホール、そして神社やお寺もあり、子供たちの元気な声が絶えない賑やかな島でした。しかし、いまでは主人を無くした建物たちが、無言で朽ちて行く姿をさらけ出しています。コンクリートの荒野と化したこの光景は、日本が近代化に向けて走り抜いた夢の跡のよう。それをどう受け止めたらいいのかわからず、いろいろな思いをめぐらせました。 島内の建物が肉眼でしっかり見える近さで、島の周囲を回るクルーズ船。「ドルフィン桟橋」がある島の南東側は主に鉱業地区で、炭鉱関係の遺構が多く見られました。北東部には、7階建ての端島小・中学校や端島病院などの建物が残っていました。続いて北西部へ回ると、クルーズ船は少し島から離れて島全体が見える位置へ移動。戦艦土佐に似ているといわれる軍艦島の姿を一望しました。ここ北西部は主に鉱員さんたちの居住地区で、コンクリート造りのアパートが所せましと建っていました。その中には、日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートといわれる7階建ての建物もありました。夜には各家庭や炭鉱施設の電気が煌々と照らされ、さながら不夜城のようだったと伝えられています。 今回、上陸はかなわなかったものの海上から十分に堪能できた軍艦島。帰路では、何メートルも低空飛行するトビウオを見ることができました。近代産業の歴史を振り返りながら、爽快な海上の景色も楽しめる「軍艦島クルーズ」。この夏、お出かけになりませんか。

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  • 第334号【亀山社中の志士らが闊歩した通り】

     沖縄地方は一足先に夏を迎えました。長崎など九州北部地方の梅雨明けは、夏休みがはじまる直前になるパターンが多いのですが、今年はどうなのでしょう?入道雲がまぶしい季節が待ち遠しいものです。 梅雨の晴れ間を利用して、長崎の市街地の一角にある「若宮通り」、「寺町通り」を散策しました。この二つの通りは、坂本龍馬が慶応2年(1866)に長崎で結成した「亀山社中」跡に通じ、幕末、長崎に集まった若き志士たちが闊歩したであろうと想像されるところです。 「亀山社中」跡は、「伊良林」という長崎市街地を見渡す高台にあります。そこから右手に下れば「若宮通り」、左手に下れば「寺町通り」に出ます。二つの通りはつながっていて、その道筋には江戸時代に創建された10数の社寺が建ち並んでいます。人通りの少ない静かな界隈で、寄り道せずに歩けば15分ほどで通りぬけられる距離です。それぞれのお寺には、文化財や江戸時代の著名人のお墓などがあるので、時間があるときゆっくり訪ね歩くのもおすすめです。 ところで、長崎市街地の地図をみると、長崎港にそそぐ中島川の流れに平行する通りと、そこに直角に交わる通りが複数あり、碁盤の目のように町がつくられているのがわかります。たとえば、「寺町通り」は中島川にほぼ平行するようにあり、その間には、同じく平行して「中通り」(現在の中通り商店街)があります。それらの通りを横切るように、中島川にかかる石橋から「寺町通り」の各お寺に通じる道筋がきれいに整っているのです。 長崎歴史文化協会の古老によると、このように長崎の町が整備されたのは、江戸前期、寛文の大火(長崎の市中の50数カ町を焼き付くした)のあと、まちの復興の総指揮をとった当時の長崎奉行、牛込忠左衛門によるものだとか。学問や詩学に秀でた牛込氏は京都趣味だったそうで、都のつくりにならったのだろうということでした。 また古老は、亀山社中の若者たちは、「若宮通り」にある「光源寺」の横に出る道をよく利用したのではないかとおっしゃっていました。そこから中島川沿いの八幡町に出て、「中通り」を通っていたと考えられるそうです。 八幡町の界隈には「大井出橋」があります。現在はコンクリート橋になっていますが、江戸時代には風情ある石橋でした。古老は、この橋にまつわる宇和島藩士の二宮又兵衛綱宏のエピソードを教えてくれました。二宮氏は、1867年3月京都で龍馬が暗殺された後、亀山社中を運営した人物。しかし、同年8月には、不正を叱った相手に逆恨みされ、「大井出橋」付近で襲撃を受け亡くなったそうです。 享年29才。二宮氏のお墓は、光源寺にあります。よく学び、剣術にも長け、得がたい人物としてたいへん惜しまれという二宮又兵衛綱宏。彼はシーボルトの門下生のひとりとして知られる二宮敬作の甥でもありました。◎取材協力/長崎歴史文化協会

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  • 第333号【福沢諭吉が過ごした長崎】

    [福沢諭吉の「何にしようか」~100年目の晩ごはんレシピ集~](ワニマガジン社/2001年発行)というユニークな本があります。内容は、福沢諭吉が創設した「時事新報社」が発行した新聞「時事新報」に掲載された料理のレシピを、復刻料理として写真付きで紹介したものです。新聞掲載時は、日本の食卓に諸外国の味付けが広く取り入れられはじめた頃と思われ、近代化をめざして急激に世の中が変化していた当時の様子が、食の面からうかがえます。 そのレシピの中で特に気になったのは、明治26年10月21日付けで掲載された「土耳其めし」です。「土耳其」は「トルコ」と読みます。鶏肉(または牛肉)のスープで炊きあげたバターライスのことです。実は長崎には戦後、誕生したとされるローカル・フード「トルコライス」がありますが、その発祥は諸説あって定かではありません。この「土耳其めし」なるものが長崎のトルコライスのルーツの解明につながるかもしれません。 冒頭からちょっと回り道をしてしまいましたが、今回は、トルコライスではなく、福沢諭吉の話です。慶応義塾の創立者で知られる諭吉もまた、幕末、志に燃え長崎で学んだ若者のひとりでした。 中津(大分)藩士の次男だった諭吉は、1854年(安政1)、19才のときに長崎へやって来ました。同じ中津藩家老の子であった奥平壱岐(おくだいら いき)の世話で、光永寺(長崎市桶屋町)に約半年過ごし、その後、さらに砲術家として知られる高島秋帆門下の山本物次郎の家に半年過ごして蘭学を学んでいます。 長崎での滞在はわずか1年ちょっとではありますが、のちに「福翁自伝」(福沢諭吉の自伝で、山本物次郎の家の食客になったことを「私の生来活動の始まり。」と記し、そのほか長崎遊学時のエピソードをつぶさに語っています。また、諭吉はお酒がとても好きだったそうですが、長崎滞在中は自粛。勉学に励み、客人を相手にするとき以外は飲まなかったとも伝えられています。老年になった諭吉にとって、長崎で過ごした若き日々は間違いなくまぶしい青春の1ページだったようです。 長崎滞在中の諭吉の足跡をたどってみました。まずは、最初に過ごした光永寺。眼鏡橋より少し上流の中島川沿いにあります。そこから、徒歩3分ほど離れたところに山本物次郎の家があったようです。現在、その辺り(出来大工町)は、当時は町司(ちょうじ)と呼ばれた長崎奉行直属の下級地役人らが住んだ長屋があったところで、町司町(ちょうじまち)とか町司長屋と呼ばれていたそうです。諭吉が使用したと伝えられる井戸が残っています。「福翁自伝」には、諭吉がこの井戸端で、水を汲み、担いで一歩を踏み出そうとした瞬間、ガタガタと地震(安政の大地震)の揺れに合ったという記述が残されています。 かつての町司町から長崎奉行所立山役所跡(現在、長崎歴史文化博物館)まで徒歩2~3分。そこからさらに徒歩2分のところに諏訪神社があり、参道には諭吉の銅像が建てられています。長崎での諭吉は、いずれも徒歩2~3分でつながるこの界隈で多くの時間を過ごしたと思われます。ちなみに、長崎奉行所立山役所跡と諏訪神社の間には、1万円のユキチさんの産みの親である日本銀行の、長崎支店があります。こじつけではありますが、何だか不思議なご縁を感じるのでありました。

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