第347号【地名、町名に秘められた歴史(外町ほか編)】

 前回に引き続き、長崎の地名、町名にまつわるお話です。江戸時代、人口の増加にともなってどんどん拡大していった長崎の町。今回は、全部で54カ町あったという外町から、いくつかの町名の由来をご紹介します。


 内町を囲むように外町がつくりはじめられたのは、慶長2年(1597)の頃。最初は、中島川に架かる賑橋から上流の眼鏡橋あたりまでの川沿い(西側)に、材木町、本紺屋(もとこうや)町、袋町、酒屋町といった町が並ぶようにできたそうです。これらの町名は、現在は残っていませんが、材木町は町建てに欠かせない材木が集められた場所といわれ、本紺屋町は、紺屋(染物屋のこと)が集まった町、袋町は足袋屋など小間物類(袋物)商があった町、酒屋町も酒屋があったことに由来するといわれています。いずれも商売に関連する町名だというのが注目すべきところ。当時の長崎には、町の発展を見込んで全国から商人たちが集まって来たいたのです。


 


 外町には、職人名にちなんだ町名も多くみられます。現在も残る町名でいうと、桶職人が住んでいたことに由来するという桶屋町、銀細工職人が住んだという銀屋町、鍛冶屋さんが集まった鍛冶屋町、大工さんが多く住んだという新大工町など。また、昭和41年までは、鏡や刀などを磨く職人がいたという磨屋(とぎや)町、紙すきが行われていたという本紙屋町などの町名も残っていました。こうした職人名にちなんだ町名からも、江戸時代の長崎の賑わいがうかがえます。


 






 ところで、坂本龍馬が長崎で設立した貿易商社「亀山社中」の「亀山」の由来をご存知ですか?「亀山社中」は、長崎の市中にほど近い、長崎村伊良林の亀山(現在の長崎市伊良林2丁目)と呼ばれた小高い丘にありました。その家屋は、江戸期の長崎の名窯のひとつ「亀山焼」の作業場だったところです。それで、その組織は「亀山社中」とか「亀山隊」などと呼ばれたといわれています。


 


 では、そもそも「亀山」の由来とは?三重県の亀山市の場合は諸説あり、ひとつは地形が亀の甲羅に似ていたからというものだそうです。長崎の「亀山」も周囲の山の形がそう見えなくはないのですが、実際はどうだったのでしょう。


 この地で、亀山焼がはじまったのは文化4年(1807)のこと。窯の歴史は約60年と短いのですが、名陶として知られ、安政年間には御用陶器所にもなるほどでした。ちなみに龍馬が愛用したという白磁に龍の染付の飯碗も亀山焼です。また、亀山社中が設立されたのは、亀山焼が廃窯となった翌年の1866年のことでした。


 実は窯が設けられる前、この地は垣根山(かきねやま)と呼ばれていました。開窯当初は、白磁の器などではなく、オランダ船に輸出するための水瓶を製作していたそうです。そこから「水瓶」の「かめ」が、「亀」に転じ「亀山」と呼ばれるようになったともいわれています。長崎歴史文化協会の越中哲也氏は、「当時、この地を亀山と呼びはじめたのは、木下逸雲ではないかと思っています」とおっしゃっていました。木下逸雲は、石崎融思らと並ぶ長崎三筆のひとりで、一時衰退した亀山焼の復興に尽力した人物です。逸雲が絵付けを施した亀山焼の茶碗も残されています。


 


 「亀山」という地名の由来をたずねただけで、いろいろなエピソードがとめどもなく出てくる長崎。本当にユニークで奥の深い町です。


 


◎参考にした本/越中哲也の長崎ひとりあるき~長崎おもしろ草5~(長崎文献社)

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