第343号【キリシタンの里・外海地方をたずねて】

 長崎はいま秋の修学旅行シーズン。紅葉したナンキハゼが舞う石畳の坂道を、見慣れぬ制服姿の学生さんたちが楽しそうに行き交っています。南蛮貿易、出島、外国人居留地、原爆…、長崎という小さな街にギュッとつまった多様で特殊な歴史の数々。修学旅行生たちは、どんなふうに感じているでしょうか。


  さて、お出かけシーズンということで先日、長崎日本ポルトガル協会が主催する史跡見学会に参加しました。長崎日本ポルトガル協会は、毎年ポルトガルゆかりの史跡めぐりを行っています。長崎県内各地に点在するキリスト教関連の史跡は、もとをたどれば約450年前、ポルトガル船でやってきたフランシスコ・ザビエルら宣教師たちの布教活動に由来します。そうした動きの中で長崎は南蛮貿易港として歴史の表舞台に登場しました。長崎の歴史はポルトガル抜きには語れないほど、深いつながりのある国なのです。


  今回の史跡めぐりは、遠藤周作の「沈黙」の舞台としても知られる長崎市の外海地方です。長崎市街地から車で約40分。夕日の名所として知られる西彼杵半島の海沿いの道路(国道202号)を北上していきます。案内してくださったのは、長崎歴史文化協会の越中哲也先生(88)です。長崎の郷土史家として著名な越中先生は、現在のように道が整備されていない時代から、県内各地を歩き回り、地道に史跡調査を行ってきた方で、当時の状況や調査内容を今もつぶさに記憶していらっしゃいます。今回も、行く先々で観光パンフレットに載っていない貴重な話を聞くことができ、充実した史跡めぐりとなりました。




  外海の出津地区では、明治時代にこの地へ主任司祭として赴任してきたド・ロ神父に関連する史跡が数多く残されていました。ド・ロ神父は、出津教会(明治15年築・県指定有形文化財)を設計・施工。当時、外海の人々の困窮した暮らしを救うため、地域の教育や福祉に力をそそぎ、農耕地を開墾したり、イワシ網工場をつくったり、パンやマカロニの製法などを伝えるなどしています。ド・ロ神父記念館では、ド・ロ神父が愛用したというオルガンで、シスターが賛美歌を演奏してくださいました。






  出津地区から、さらに北上した山間には、ひっそりと「大野教会」(県指定有形文化財)が建っていました。この教会も明治期にド・ロ神父が設計・施工したもので、現地の自然石を積み重ねてつくられた通称「ド・ロ壁」が見られます。小さくて質素な教会を、マリアさまの白い像がやさしいまなざしで見守っていたのが印象的でした。




  このほか炭坑の島として繁栄した池島と結ぶフェリーの発着港がある神浦地区や、外海地方のキリシタンの聖地である枯松神社など10数カ所をめぐりましたが、もっとも印象に残ったのは、樫山(かしやま)地区でした。




  この地区には「天福寺(てんぷくじ)」があります。禁教の時代から隠れキリシタンたちと密接なつながりをもったお寺です。その近くの山のふもとには、江戸時代の信者たちが霊木とあがめた椿があると聞き、行ってみましたが、神社の鳥居の向こうに質素なほこらが祀られているだけで、とうとう確認できませんでした。ほこらの裏手に回ると山へ入るせまい道が見えました。「この山に3回登れば、ローマへお参りしたのと同じ功徳があるといわれ、浦上のキリシタンも密かに訪れ、登っていたそうです」と越中先生。お寺や神社の鳥居が違和感なくとけ込む外海地方の隠れキリシタンの足跡は、何とも不思議な空気を醸していました。



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