第346号【長崎の町名をひもとけば…(内町編)】

 「長崎」という地名は、その地形に由来して「長い岬のあるところ」から「ながさき」となったという説や、戦国時代にすでにこの地に居住していた長崎氏の名前に由来するという説があります。こんなふうに、地名や町名の由来を調べると、その土地の地形や成り立ちなどがわかって面白いものです。


 長崎が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570)の開港からです。それに応じた町づくりは、翌年からはじまっています。まず、最初にキリシタン大名の大村純忠によって、その長い岬の先あたり(現在の長崎県庁周辺)に大村町、島原町、平戸町、横瀬浦町、外浦町、分知町の6町がつくられました。外浦町、分知町以外は、いずれもポルトガル船との貿易港が長崎に至るまでに、キリスト教の布教が行われた地域の名がそのまま町名になっています。つまり、その地域から長崎へ移った人々が住んだ町ということです。外浦町、分知町もキリスト教に関連した人々が居住したといわれ、最初の6町はキリシタンのために拓かれたともいえます。現在、これらの町名は、万才町などに編入され、残念ながら残っていません。




  ポルトガルとの貿易を行う中核として誕生した最初の6町。ときは江戸時代へと移り変わる中、6町に隣接してのちに26の町がつくられました。これらの町は、内町(うちまち)と呼ばれ公領として地租を免じられています。現在もこのとき生まれた町が残っていて、興善町(当時は本興善町、後興善町、新興善町)、江戸町、桜町、樺島町、五島町(当時は浦五島町、本五島町)、金屋町、築町などがそうです。内町が整う中、周囲には 

外町(そとまち)と呼ばれる地租免除外の町も54カ町つくられていきました(内町・外町の区分は1699年廃止)。内町だけの頃は1万人に満たなかったという長崎の人口は、外町が拡大していった1614年頃には、2万5千人以上になっていたそうです。






  内町にあった、本博多町、本興善町、後興善町などは博多商人ゆかりの町です。その位置は現在でいうと、長崎市立図書館(興善町)周辺になるでしょうか。長崎の町の歴史を詳しく且つわかりやすく著した「越中哲也の長崎ひとりあるき」によると、「長崎が貿易港として定期的にポルトガル船が入港するようになったとき、当時の九州の商都として栄えていた博多から商人団の大きい移住があったと考えられる」とあります。興善町は、商いのために博多から進出してきた興善家の人が建てた町だと伝えられています。




  内町のひとつで、出島と川をひとつ隔てた位置につくられた江戸町は、名前から想像できるように江戸幕府が生まれてから整備された町です。お江戸の繁栄にあやかって名付けたのでしょうか。町は、現在も当時と変わらぬ位置にあります。江戸時代、その近さから出島のオランダ人とは何かと関わりがあったようで、今も使用される江戸町の町章は出島のオランダ人がデザインして贈ったものと伝えられています。それは「J・D・M」の文字を配したもので、オランダ人が江戸町を「JEDOMATSI」と綴ったことに由来するとか。長崎県庁の裏手にある江戸町公園には、そのカタチから「タコノマクラ」とも称される町章が大きく記されています。






  今回は、内町からいくつかの町名の由来をご紹介しました(次回は外町です)。いたってシンプルに付けられた町名ですが、いずれもいろいろなエピソードが秘められていて、「町名=町のプロフィールを凝縮したもの」といった印象でした。あなたがお住まいの町も、由来を調べたら意外なエピソードが出てくるかも。ちょっと調べてみませんか。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 ◎参考にした本/越中哲也の長崎ひとりあるき~長崎おもしろ草5~(長崎文献社)、長崎県の歴史(外山幹夫 編/河出書房新社)

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