第345号【龍馬が夢を描いたまち、長崎】

 年賀状はもう書き終えられましたか。大晦日まであと1週間あまり。振り返ると、今年の長崎は来年の大河ドラマ「龍馬伝」の話題で持ちきりでした。オンエアされる2010年は、ますます「龍馬」で明け暮れそうです。そこで、当コラムも来年に希望を託して「龍馬」をテーマに、長崎での足跡をご紹介します。




 実は、龍馬の足跡については5年前にも取り上げています(※190号)。今回、同じ場所をいくつか訪れたところ、状況が変わって、以前より、龍馬と長崎のつながりが強く感じられました。たとえば、龍馬ファンが必ず訪れる「亀山社中跡」(長崎市伊良林)。この夏、往時に近い形で復元整備され、「長崎市亀山社中記念館」としてオープンしています。




  亀山社中(のちの海援隊)が本拠地としたこの建物は、小さな切妻屋根の平屋で、江戸時代、この辺りで焼かれた亀山焼きにゆかりのある建物と推測されています。畳の部屋は10畳、8畳、3畳の3つ。柱や天井など簡素な木の造りに昔の風情が感じられます。海援隊士らが長崎の港や街を眺めたに違いない縁側や、隠し部屋などもありました。けして広いとは言えない部屋に立つと、龍馬たちがここで夢を語り合ったことがリアルに想像できます。龍馬の人柄がにじみ出た手紙をはじめ紋服、ブーツなどの複製品など、展示物も充実。たいへん見応えがありました。




 「亀山社中跡」界隈は、龍馬関連の史跡や見所が集中しています。龍馬をはじめ海援隊士らも参拝したと思われる「若宮稲荷神社」、龍馬が盟友・佐々木三四郎と度々訪れたという西洋料理屋の「藤屋」跡。龍馬の片腕と呼ばれた近藤長次郎のお墓(晧台寺)、そして、地元の龍馬ファンや有志の方々によって設けられた龍馬のぶーつ像、坂本龍馬之像(風頭山)…。いずれの場所へ行くにも坂道、坂段は避けられないところが、また長崎らしいのでありました。




 龍馬が長崎の地を初めて訪れたのは、土佐藩脱藩から2年後の元治元年(1864)のこと。このときは勝海舟とともに訪れ、1カ月以上滞在しました。そして、再び長崎を訪れ、慶応元年(1865)、亀山社中を結成。海外への志を胸に、貿易と海運業で実績を築く中、慶応3年(1867)1月、土佐藩参政の後藤象二郎と意気投合し、同年4月、社中は海援隊としてあらたなスタートをきりました。


  まもなく、「いろは丸事件」が起きます。海援隊の持ち船「いろは丸」(160t)と御三家のひとつ、紀州徳川の「明光丸」(880t)という蒸気船どうしが起こした瀬戸内海上での衝突事故です。龍馬は、格が違い過ぎる相手に対し、驚くような行動に出ました。当時、長崎を訪れた諸藩の人々の情報交換の場でもあった、花街・丸山で「♪船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という歌を流行らせ、紀州藩のイメージダウンをねらったのです。


 緊迫した交渉の舞台は聖福寺(長崎市玉園町)でした。最終的に龍馬たちは、8万3千両(のち7万両に減額)の賠償金を得たといいます。そんな史実を知って、あらためて聖福寺の参道を歩くと、龍馬の計り知れない度量を感じて、思わず立ち止まってしまいました。




 龍馬が長崎を初めて訪れてから、京都で亡くなるまでの期間は4年弱。長崎でのさまざまな出会いは、龍馬を大きく成長させ、その想いは新時代の礎となりました。長崎は、短くも濃密に生きた龍馬の熱い想いに触れることができる街。時代が大きく変わろうとしている今、龍馬は再び長崎に大切なメッセージをよこしているのかもしれません。















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