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  • 第496号【教会のある里山の植物】

     桜前線は青森あたりに到達したでしょうか。長崎のソメイヨシノは葉桜へ移行中。残りわずかな桜の花びらが静かに舞う春の休日、長崎市は外海(そとめ)地方へ足を運び、教会めぐりとのどかな里山の風景を楽しんできました。  西彼杵半島の南西部に位置する外海地方は、長崎駅から車で小1時間ほどのところにあります。半島の海岸沿いをいく国道202号線は、サンセットロードと呼ばれ、五島灘に沈む美しい夕日の名所として知られています。その道路沿いに、南から黒崎教会(上黒崎町)、出津教会(西出津町)、大野教会(下大野町)が点在。いずれも海に近い静かな里山の風景のなかに建っています。  「黒崎教会前」のバス停から石段を登ったところに建つ黒崎教会(1920年完成)。山の緑を背景にした煉瓦積みの外観が目をひきます。この地域は遠藤周作の小説『沈黙』の舞台となったことでも知られています。車から降りて最初に出迎えてくれたのは、イソヒヨドリです。教会の屋根の十字架の上から、まるでおしゃべりでもしているかのように鳴き声を響かせていました。鳥好きの知人によるとイソヒヨドリは、ヒトが鳴き声をマネすると、それに返答することもあるそうです。  黒崎教会から国道を北上。途中、遠藤周作文学館があり、その向こう側に丘の上に建つ出津教会(1882年完成)が見えてきます。出津教会は、風あたりの強さに耐えられるよう建物は低めで堅牢な設計になっているとのこと。出津文化村とよばれる教会周辺を散策していたら、ムサシアブミ(サトイモ科)を見かけました。黒紫色で縞模様のある花は、葉や茎とともにおおぶりで目立ちます。地域によってはレッドデータブックに記載される植物です。  出津教会から202号線をさらに北上して、山の中腹に建つ大野教会(1893年完成)へ。途中、山の斜面から海側を見渡せば、沖合にかつて炭鉱の島として栄えた池島が見えます。大野教会は石造りの小さな教会堂。出津教会もそうですが、フランス人のド・ロ神父が私財を投じ、信者さんたちの奉仕によって建造されています。ド・ロ神父は建築に造詣が深く、黒崎教会も敷地造成や設計などで関わっているそうです。  新緑と土の香に包まれた大野教会周辺の土手や道端では、紫色の小さな花をつけたキランソウ(シソ科)がたくさん生えていました。「ジゴクノカマノフタ」という別名を持つこの植物は、咳を鎮め、痰をのぞき、解熱や健胃の効果もある生薬にもなるとか。ちょっと怖い別名は、「病気を治し、地獄の釜に蓋をする」という意味なのだそうです。   近くには、四方竹(しほうちく)も生えていました。中国南部が原産の細めの竹で、茎部分が四角なのが特長です。長崎市では鳴滝塾跡(現・シーボルト記念館)の庭園の一角でも見られます。めずらしい竹だと思っていたら、高知県にも生えているらしく、煮物や炒めものなどにして食べている地域があるそうです。四方竹のタケノコは秋採れ。アクが少なく、歯ざわりも良いとのこと。江戸時代、密かに信仰を続けた大野教会周辺の集落でも食べられていたかもしれません。

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  • 第495号【長崎四福寺めぐり】

     先週末(3/19)、福岡でソメイヨシノが開花。いよいよ桜前線がスタートしました。今年の天気予測では、九州は見頃を迎える3月末頃までに気温が下がる日があるそう。花冷えが功を奏し、春の嵐にも見舞われず、桜を長く楽しめるといいですね。  日に日に温かくなっていくと散歩に出たくなります。そこで今回は、観光もかねて唐寺めぐりを楽しんできました。足を運んだのは、「長崎四福寺」と称される興福寺(1624年創建)、福済寺(1628年創建)、崇福寺(1629年創建)、そして聖福寺(1677創建)です。初代の住職が中国僧で、江戸初期につくられた興福寺、福済寺、崇福寺は、特に「長崎三福寺」とも呼ばれています。ちなみに、聖福寺の初代は中国人と長崎人の間に生まれた鉄心という僧侶でした。  まずは、長崎の桜の名所のひとつとして知られる風頭山の西側山麓へ。そこは「崇福寺通り」、「寺町通り」が続くところで、10数のお寺が並び建っています。通りの一角で出迎えてくれるのは、崇福寺の赤い山門です。三つの門があり装飾の美しさから竜宮門とも呼ばれていますが、正式には「三門」といい国指定重要文化財です。崇福寺には、国宝の「第一峰門」と「大雄宝殿」(本堂)をはじめ、いくつもの文化財を擁し、明末期の建築様式や吉祥模様など見どころ満載です。  「崇福寺通り」から「寺町通り」に抜け、興福寺へ。その山門では、大きな隠元禅師のお顔が出迎えてくれます。ここは、明末の1654年、約30人の弟子を伴って日本へ渡ってきた隠元禅師が初めて入山した由緒あるお寺です。隠元禅師は、黄檗宗の開祖として知られています。「長崎三福寺」は、隠元禅師の渡来後、黄檗宗に移行。隠元禅師の影響力がいかに大きかったかが分かります。風格ある興福寺の大雄宝殿(国指定重要文化財)は、大陸的なおおらかさが感じられます。境内の一角には三江会所門(県指定有形文化財)という門があります。三江(江南、浙江、江西)は、揚子江の下流に位置する地域で、興福寺はこの地域出身の中国人の社交場でもあったそうです。  寺町通りから徒歩約10分。長崎歴史文化博物館ある立山の麓へ。この界隈にはいずれも長崎駅へつながる「筑後通り」と「上町通り」があり、10近くのお寺が点在。福済寺と聖福寺は「筑後通り」にあります。  長崎駅により近い福済寺は、福建省は漳州、泉州の人々によって建てられました。かつては国宝を有する建造物もあり文化財の宝庫でしたが、原爆により焼失。現在は、亀の甲羅の上にたつ大きな観音像が目を引きます。この観音像は平和のシンボルとして建てられたものです。  最後は聖福寺。2014年に大雄宝殿、天王殿、山門、鐘楼の4棟が国の重要文化財に指定され話題となりました。建物の配置は、黄檗宗の大本山「萬福寺」(京都)に倣ったもの。一見、地味な印象ですが、随所に黄檗宗の建築様式が見られ、日本の寺院との違いを感じられます。    それぞれの唐寺は、長崎の歴史に大きく関与しています。一つひとつ、たっぷり時間をかけてめぐるのがおすすめです。

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  • 第494号【春めく長崎市中に飛び交う中国語】

     3月に入ってから、ぐんぐん気温が上昇。土のなかで冬を過ごした虫たちも啓蟄(今年は3月5日)前には地上に顔を出しはじめたようです。黄砂や春霞のない晴天の日に長崎港を見渡す高台へ登れば、はやくも4月を思わせる陽気。長崎地方気象台は、先週(3/2)タンポポの開花を告げました。次はソメイヨシノの開花日が待たれるところです。気象台はこうした植物の開花や鳥・昆虫の初見、初鳴などの観測を通して刻々と変化する季節を折々に発表しています。これを「生物季節観測状況」というそうで、気象台のホームページで公開しています。その観測記録から、長崎ではそろそろウグイスの初鳴が聞こえる頃で、さらに、今月中旬にはツバメやモンシロチョウの姿も見られるようになることが分かります。  「生物季節観測状況」の対象となる植物は、基本的には気象官署構内に植えた標本を使い、動物は同構内およびその付近で観測が行われるそうです。長崎地方気象台は、長崎港を見渡す南山手の丘の中腹にあります。洋館や石畳の景観で知られるこの界隈には、大勢の観光客が訪れるグラバー園もあるのですが、ほとんどの方はグラバー園を楽しむと引き返すので、そのすぐ先にある長崎地方気象台あたりの通りは、人もまばらでたいへん静かです。  話が横道にそれますが、長崎地方気象台で思い出すのは、日系イギリス人作家のカズオ・イシグロ氏のことです。『日の名残り』という作品で、イギリス最高の文学賞「ブッカー賞」を受賞した作家です。長崎地方気象台は、前身である長崎海洋気象台の時代にイシグロ氏の父親が勤めていました。1960年、父親の仕事の関係で一家は渡英。イシグロ氏が5歳のときでした。のちに作家となり、日本でも名を知られるようになって久しいのですが、雑誌などのインタビュー記事を読む限り、幼少期を過ごした長崎での記憶はほとんどないようなのが、残念ではあります。イシグロ氏の小説はとても読み応えがあり、映画化されたり、日本でもドラマ化されるなどしていますので、興味のある方はご一読ください。  さて、あす3月10日は、七十二候(二十四節気を3つに分け、約5日ごとに気候に応じた名称を付けたもの)でいう「桃始笑」(ももはじめてさく)の日。「笑」は「咲く」ことを意味していて、桃の蕾がほころんで、笑顔もほころぶ、という感じでしょうか。観光客で賑わう眼鏡橋そばの桃の花も笑っていました。  眼鏡橋を背景に記念撮影をしている人たちから聞こえてくるのは、中国語です。この日長崎港に寄港していた国際クルーズ船「スカイシー・ゴールデン・エラ」の乗客でしょうか。思えば江戸時代初めの長崎では、貿易でやってきた中国人は市中に自由に雑居していたので、まちなかではごく普通に中国語が飛び交っていたはずです。出島の築造から半世紀後の1689年以降は、中国人は「唐人屋敷」というエリア内で暮らさなければならなかったとはいえ、出島のオランダ人とくらべれば、市中への出入りは比較的ゆるやかであったといわれています。  眼鏡橋界隈に飛び交う中国語に、江戸時代の風景が重なる眼鏡橋。時代はめぐるということでしょうか。

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  • 第493号【桃カステラ、寿桃、マーラカオ!】

     三寒四温。日によって大きく揺れる気温差にひとの体はとまどいがち。スズメやイソヒヨドリ、ムクドリなど、日差しのなかで遊ぶ中島川の鳥たちも、まだまだ体をふくらませて防寒体制。甲高くチィー、チィーとさえずっているのはメジロでしょうか。名前の由来となった目のまわりの白い輪と黄緑色のきれいな羽を生垣からのぞかせていました。ここ数年、住宅街でもよく見かけるようになったメジロ。冬場、庭の小枝にリンゴやミカンを刺していると、目ざとくやってくるかわいい小鳥です。メジロの鳴き声は、「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛(チョウベエ、チュウベエ、チョウチュウベエ)」と聞こえるといわれ、鳥好きの人は、その声を頼りに姿を探します。ただ、この長めの美しい鳴き声はもうちょっと温かい季節にならないと聞けないようです。  長崎のまちは、「長崎ランタンフェスティバル」が終わったばかり。期間中、厳しい寒さに見舞われる日も多かったのですが、今年も大勢の人々がランタンの下に集いました。中国ゆかりのさまざまな催しが行われるなか、孔子廟で連日開催された中国変面ショーは、一瞬で仮面が変わる妙技を間近で観られ、大盛況でした。  ランタンが片付けられ静かになった長崎のまちをズンズン歩けば、気持ちはすでに次の季節へ向かい、あちらこちらの店頭に出ている「桃カステラ」が気になります。  縁起物の長崎の郷土菓子、桃カステラ。南蛮貿易時代に伝えられたカステラの生地の上に、桃をかたどった砂糖細工がのったお菓子で、長崎では桃の節句や出産祝いの贈答に用いられます。桃は不老長寿の象徴、魔除けのフルーツとされ、中国では桃の形をした「寿桃(スートゥ)」というおまんじゅうが、いまも長寿のお祝いや結婚式などのおめでたい席に用いられるそうです。「寿桃」は、長崎では「桃まんじゅう」と呼ばれ、黒あんや白あんのおまんじゅうと並べて売っているお店もよく見かけます。中国の文化が色濃く残る長崎ならではの光景かもしれません。  中国ゆかりのお菓子といえば、「マーラカオ(馬拉糕)」があります。中国語の「馬拉」は、「マレーシア」を意味し、「糕」は、蒸しケーキのことだそうです。生地がふんわりしているのはカステラと同じですが、卵の風味が効いたカステラとちがい、こちらは、調味料に「しょうゆ」や「酢」を使ったり、またはちゃんぽん麺にも使う「かん水」を用いたりします。これらの調味料が、あの茶系の色合いとアジアらしい香りを生んでいるのです。   ほおばれば、どこか懐かしい風味と味わいがする「マーラカオ」。日本の食文化が、中国の影響を大きく受けた証のひとつかもしれません。

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  • 第492号【雪景色から一転、極彩色の長崎ランタンフェスティバルへ!】

     1月下旬、九州各地で記録的な寒波が訪れた日、大雪に見舞われた長崎市は、観測史上最高の17センチの積雪を記録。交通がマヒし、水道管も凍結するなど生活に影響がありました。被害に合われた方々には心からお見舞い申し上げます。慣れぬ雪に大人たちが右往左往する一方で、子どもたちは一面の雪景色に大喜び。雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりして歓声をあげる姿が見られました。  いつもなら観光客で賑わう眼鏡橋や出島界隈は、雪に埋もれて人の気配はなく、南蛮貿易時代、長崎の領主の居城があった高台から見渡せば、まちは白く静まりかえっていました。長崎が雪景色に包まれるたびに思い出すのは、江戸時代に川原慶賀が描いた『長崎港雪景』(ライデン国立民族学博物館所蔵)です。長崎港を囲む山々も出島も新地も雪に覆われ、シンとした空気まで伝わってくるような絵図です。きっと、このときも大雪だったと想像され、慶賀も子どものようにドキドキする気持ちを抑えながら静かな雪景色を描いたのではないでしょうか。  この冬いちばんの出来事と思えた大雪も、どこか遠い日のことのように思えるのは、いま長崎のまちを埋め尽くしているランタンのせいでしょうか。春の訪れを告げる極彩色のあたたかな灯りが、凍てついた気持ちを溶かすようです。  2月8日(月)からはじまった、「長崎ランタンフェスティバル」。国内外から100万人が訪れる長崎の冬の風物詩です。旧正月(春節)を祝うこのお祭りは、2月22日(元宵節)まで開催されます。長崎の中心市街地に、約1万5千個にも及ぶランタンや中国の故事にちなんだ多彩なオブジェが各所に設置されています。  物語やゆかりを知っていれば、なお一層楽しめるオブジェの中で、ぜひ見てほしいのが干支の巨大オブジェです(長崎新地中華街に隣接する湊公園の会場に設置)。今年は申年にちなんで「西遊記」がモチーフに。高さ10メートルもあり、孫悟空や三蔵法師、猪八戒、沙悟浄などが登場する楽しいオブジェです。  期間中、中国獅子舞、中国雑技、龍踊りなどの催しが行われたり、中国らしい雰囲気を満喫できる会場は全部で7カ所(長崎新地中華街、中央公園、唐人屋敷、興福寺、鍛冶市、浜んまち、孔子廟)。孔子廟では、なかなか見る機会のない中国伝統芸能の「中国変面ショー」が毎日公演されています。   ランタンの色は朱色が中心ですが、眼鏡橋がかかる中島川は黄色のランタン、長崎新地中華街そばを流れる銅座川は桃色のランタンと、それぞれの川でまったく違う雰囲気の灯りを楽しむことができます。灯りは夕方になると灯されますが、昼間青空を背景にしたランタンもきれいです。長崎のまち中にくまなく丁寧に施されたランタン装飾は、期間中、雨風や雪にさらされながらも、ほとんど乱れることがありません。いつもすみやかに設置や解体をして、この祭りを支える黒子さんたちに感謝したくなります。

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  • 第491号【冬の海の幸(寒ブリ、ナマコ、カキ)】

     「ブリ大根」がおいしい季節です。「寒ブリ」は脂が乗り、大根も寒さのおかげで甘みが増しています。食堂のお昼の日替わり定食で「ブリ大根」を食べながら、「やっぱり、長崎の魚や野菜って最高よね!」と一緒にいた知人に言うと、「いやいや、野菜はさておき、魚は北陸のほうがおいしいかも。それにね、ブリ大根といえば、富山県よ。富山湾沖で取れる寒ブリで作ると、すごくおいしいんだから」と、のたまう。知人はかつて富山県で暮らしたことがあり、北陸方面の歴史や食についても詳しい。聞けば、「ブリ大根」は富山県氷見市の代表的な郷土料理のひとつなのだそうです。  知人によると、氷見市の郷土料理には「氷見うどん」といって、「五島うどん」に似た細いタイプの乾麺もあるそうです。「氷見うどん」は、江戸時代に同じ北陸の「輪島そうめん」の製法が伝わり作られるようになったらしい。「氷見うどん」と「輪島そうめん」、そして「五島うどん」は、麺を手で縒りながら竹にかけていくという製造工程が同じだそうで、その昔、海道を通じて「五島うどん」の製法が輪島に伝えられたのではないかという説もあるそうです。  さて、件の「ブリ」ですが、ご存知のように出世魚。氷見では、「コズクラ」、「フクラギ」、「ガンド」、「ブリ」と成長に応じて呼び名が変わります。長崎では、「ヤズ」、「ハマチ」、「メジロ」、「ブリ」の順でしょうか。ほかにも地域によって呼び名がいろいろあるようです。また、長崎ではブリは養殖も盛んです。魚屋さんの話では、養殖ものは「ハマチ」、天然ものは「ブリ」と呼び分けているそうです。  寒ブリに限らず、この季節の魚介類は寒さに鍛えられ、ひときわおいしそうに見えます。たとえば、クロ(メジナ)もこの時期は「寒グロ」と呼ばれ、脂がのりおいしくなります。そして、ナマコ。荒れた外海の影響を受ける五島産のアカナマコはコリコリとした食感。波静かな大村湾のアオナマコは少し柔らかい歯ごたえで、アカナマコとは微妙に違います。ナマコは、新陳代謝を促進し、お肌にもいいといわれるコラーゲンやコンドロイチンをはじめ、ビタミンB群・Eや、カルシウム、亜鉛などの栄養成分がバランス良く含まれています。滋養強壮にもおすすめです。  また、有明海や大村湾、橘湾などでとれる養殖のカキもいまが旬で、それぞれの産地の道路沿いではカキ小屋が立ち並ぶ光景がみられます。カキは、ビタミンやミネラルが豊富。薬膳的には、体質を改善したり、免疫力を高める食材のひとつとされ、めまいや耳鳴り、不眠や空咳などにも効果があるといわれています。   食いしん坊の女ふたりが、この時期の魚介類の話で盛り上がった昼飯の時間。「ブリ大根」でお腹も心も満たされると、「長崎と北陸の魚、どちらもおいしいよね」ということで話はまとまり、笑顔で食堂を後にしたのでありました。

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  • 第490号【真冬に咲く花々(スイセン、ロウバイ)】

     温かく穏やかな天候に恵まれた長崎の年末年始。先週、寒の入りしてからは、真冬らしい冷え込みがもどりつつあります。来週21日は「大寒」で、一年でもっとも寒い時期に。多くの草花が冬眠中ですが、寒さに刺激されて開花する花もあります。そんな花を代表するスイセンが見頃を迎えたと聞いて、長崎市野母崎町へ出かけてきました。  長崎半島の南端に位置する野母崎町。長崎駅からバスで1時間ちょっとかかります。一千万本のスイセンが咲き誇る「水仙の里」(野母崎総合運動公園内)をめざして半島の西海岸沿いを走るバスからは、美しい海原と伊王島、高島、そして昨年、世界遺産になった軍艦島をのぞみ、その眺めだけでも得した気分になります。余談ですが、同海岸沿いは昨年、ティラノザウルス科の大型恐竜の化石が発見され注目を浴びました。古代の地層があらわになっているところがある長崎半島は、今後も何かと話題を集めそうです。  到着した「水仙の里」では、丘の斜面に群生するスイセンがいっせいに花開いていました。スイセンの種類は、ニホンズイセン(日本水仙)一種のみ。一重咲きの白い6枚の花びらの中央に、濃い黄色の花びら(副花冠)が付いています。その姿はラッパズイセンのような華やかさはないものの、清々しい香りとともに楚々とした美しさで、日本人好みの風情を漂わせています。  潮風にやさしく揺れるスイセンの向こう側に広がる海上には、ゴツゴツとした姿の軍艦島が見えます。聞こえてくるのは、潮騒の音と野鳥の鳴き声。丘の上で羽を休めていた野鳥は、寒風にさらされ、ぷっくりと体を膨らませていました。頭が銀灰色で翼に白斑があるので、オスのジョウビタキでしょうか。冬の里山でよく見られる野鳥です。  スイセンは潮風と相性がいいらしく、各地の海岸で群生しているのが見られるそうです。ここ「水仙の里」も、もとは野生のスイセンの群落が、地元の人に大切にされ続けたことで現在の大規模な群落につながったと聞きます。いまでは、見頃になる時期に合わせて、毎年「水仙まつり」が開催されています(今年は1月9日から1月31日まで)。   スイセンが咲く頃、ロウバイも開花します。長崎市内でロウバイといえば、松森神社(長崎市上西山町)がよく知られています。毎年1月中旬頃に開花し、さわやかで甘い香りを漂わせるのですが、この冬は年末には開花したようで、寒の入りにはすでに見頃を迎えていたようです。  松の森神社は、学問の神として知られる菅原道真公を祀っていて、受験生やその家族らしい人たちが次々に参拝に訪れていました。本殿脇に植えられた梅は、これから咲き誇るとばかりに、つぼみをたくさん付けていましたよ。受験生のみなさん、笑顔の春はもうすぐそこまで来ています。頑張って!   本年もみろくやの「ちゃんぽんコラム」をどうぞよろしくお願い申し上げます。

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  • 第489号【長崎版・冬至の七種】

     きのう12月22日(旧暦11月12日)は二十四節気のひとつ「冬至」。南瓜(かぼちゃ)や小豆粥を食べたり、柚子を浮かべたお風呂に入ったりして、季節の行事を楽しまれた方もいらっしゃることでしょう。「冬至」は、一年でいちばん昼間の時間が短い日。この日を境に、また日が長くなっていくことから「一陽来復(いちようらいふく)」とも称されます。暗いもの、衰えていたものが太陽の力で再び明るさを帯びてパワーが増し、良い方へ転じるという意味合いがあるそうです。  「冬至」の期間は、その15日後にやってくる「小寒」までで、寒気が本格的に厳しくなりはじめる頃です。今年は暖冬傾向にありますが、極端に気温が低くなる日もあり、体調をくずしやすい方、高齢の方などは、油断できません。  先日、料理教室の先生からこの時期に積極的に食べたい食材として、「冬至の七種(ななくさ)」を教えていただきました。いつの頃からか民間で伝えられてきたこの七種は、「南瓜(なんきん)」「人参(にんじん)」「蓮根(れんこん)」「金柑(きんかん)」「銀杏(ぎんなん)」「寒天(かんてん)」「饂飩(うんどん)」と、いずれも「ん」が二つ付く食材です。これには、「運」が開けるようにという願いが込められているそうで、旧年と新年にまたがる「冬至」の時節にふさわしいチョイスになっています。  「冬至の七種」のなかで長崎ゆかりのものは、ここでは「なんきん」と呼ばれる南瓜(かぼちゃ)です。天正年間に、ポルトガル人がカンボジアから長崎に伝えたのが日本での最初だといわれています。ちなみに「かぼちゃ」の名称は「カンボジア」が転じたものですが、ほかにも、「唐なす」や「ぼうぶら」と呼ぶ地域もあります。また、「寒天」も長崎ゆかりの食材です。1654年、隠元禅師が中国から長崎に渡ってきた際、もたらしたもののひとつといわれています。  ところで、「饂飩(うんどん)」ですが、これは「うどん」のこと。実は、同じ漢字で「わんたん」とも読みます。「わんたん」は、ご存知のように中国の点心料理のひとつで小麦粉を練って作った薄い生地に豚ひき肉を包んだもの。スープに入れたり、揚げたりしていただきます。  「わんたん」は、長崎ではすでに江戸時代に、唐人屋敷(現:長崎市館内町周辺)に居住した中国の人々が作っていたことから、「わんたん」が日本で最初に伝えられたのは長崎という説もあるようです。「わんたん」の具材となる豚肉は、薬膳では発熱時の無気力、から咳、便秘のときに食べると良いとされています。はからずも「わんたん」も「ん」が二つ。長崎の「冬至の七種」は「うんどん」ではなく「わんたん」の方がいいかもしれないと思いきや、名物「ちゃんぽん」だって「ん」が二つ付く縁起のいい食べ物なのです!野菜たっぷりに豚肉や魚介類も加わって、真冬の体を芯から温めてくれます。  長崎の「冬至の七種」は、「うんどん」に代えて、「わんたん」か「ちゃんぽん」ということにいたしまして、まずは、きょうのランチか晩ごはんは、明日の運が開けることを願って、ぜひ、「ちゃんぽん」をお召し上がりくださいませ。  本年もみろくやの「ちゃんぽんコラム」を読んでいただき、ありがとうございました。どうぞ、心温まるクリスマス、そして新年をお迎えください。  ◎参考にした本/「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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  • 第488号【師走のひといき、柿とツュンベリー】

     師走に入ったとたん、気温は急降下。いっきに真冬になってしまい体調をくずす方も多いようです。バランスのとれた食事と十分な睡眠で、寒さと忙しさを乗りきりましょう。ときには雑事をちょっと脇に置いて小休止するのもいいと、ご近所さんからいただいた干し柿を囲んで、友人とコタツでほっこりすれば、柿にまつわる長崎ゆかりの話が出てきました。  柿は東アジア原産で日本も特産地のひとつです。ヨーロッパへ旅行した時に、果物屋の店先で「kaki」と商品名が書かれているのを見かけたことがある方もいらっしゃると思います。その呼び名はもちろん日本語の「柿(かき)」からきたものなのですが、そもそも柿の学名が「Diospyros  kaki  Thunberg(ディオスピロース カキ ツュンベリー)」。「Diospyros」は「神の食べ物」を意味し、「kaki」は「柿」。「Thunberg」はこの学名の命名者であるツュンベリー博士のことです。  ツュンベリー博士は、スウェーデンの植物学者リンネの高弟で、江戸時代に長崎にやってきたオランダ商館医のひとりです。ケンペル、シーボルトらとともに、出島の三学者として長崎では知られています。日本にいる間に、多くの日本の植物を採取し、帰国後に学名を定めて分類。このとき柿にも学名をつけました。ツュンベリー博士は、日本で出会った柿に「神の食べ物」と名付けたところをみると、よほどその美味しさに感動したのでしょうね。  分類などの功績で、のちに日本の植物学界の父とも称されるようになるツュンベリー博士。日本の植物に学名をつけるとき、「kaki」のように日本名をそのまま使ったものがほかにもあるようです。学名「Cammellia sasanqua  Thunberg」(サザンカ)もそのひとつ。長崎県立図書館前にある苔むした「ツュンベリー記念碑」の背後には白いサザンカが植えられています。  多忙なこの季節、しばし現実逃避したいなら、夜の長崎を散歩するのもいいかもしれません。徒歩圏内でつながるグラバー園〜大浦天主堂〜長崎水辺の森公園は、いまロマンティックなイルミネーションに彩られています(〜12月27日まで)。夕方5時を待ってグラバー園に出かけると、豊かな緑のなかに点在する幕末から明治にかけて建てられた洋館がライトアップされ、昼間とは違ったドラマチックな風情をかもしていました。  今年7月、世界遺産として登録された旧グラバー住宅もライトアップされ幻想的な雰囲気に。時空を超えて、激動の幕末を生きるグラバーさんや薩摩藩士らが現れそうな感じです。旧グラバー住宅の前には薩摩藩主がグラバーさんに贈ったというソテツが存在感たっぷりに枝葉を伸ばしていました。樹齢300年で、国内最大級だそうです。   旧グラバー住宅の前庭にはハートストーンが埋め込まれています。園内にはもうひとつハートストーンがあって、夕暮れのなかを探している方々がけっこういました。見つけて触れば、恋が叶うかもとか、良いことがあるかも、なんて言われています。人はいつだってloveやluckyを求めるものなのですね。皆さんがつつがなく師走を過ごせますようにと、ハートストーンにお願いしてきました。

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  • 第487号【南蛮の食文化〜黄飯と浦上そぼろ〜】

     大分県臼杵市には、「黄飯(おうはん)」という郷土料理があります。くちなしの実のつけ汁で炊き上げたごはんで、文字通り、目にも晴れやかな黄色をしています。「黄飯」は、豆腐やごぼう、にんじん、エソ(白身魚)のミンチなどを炒め煮た「かやく」をかけていただく汁かけ飯で、一説にはスペインはバレンシア地方の郷土料理パエリアがルーツともいわれています。ちなみにパエリアの場合、お米を黄色に染めるのにサフランを使います。  戦国時代の臼杵藩は、キリシタン大名として知られる大友宗麟の城下町でした。時代は16世紀後半、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸後、平戸、博多、山口、堺など西日本各地で布教活動を行っていた頃です。豊後でも宗麟の庇護のもと布教活動が行われ、そのさなかに宣教師のひとりがつくったのが「パエリア」だったと伝えられています。  当時、キリスト教の布教のため日本に渡ってきた宣教師は、スペインやポルトガルの出身者が多かったそうで、そのなかにバレンシア地方に生まれ育った者もいたのかもしれません。ちなみにザビエルは、スペインとフランスの間に位置するバスク地方(当時ナバラ王国)の出身。バレンシア地方(東部は地中海に面している)とはまた違う食文化なので、黄飯のきっかけはザビエルではないような気がします。  古くから漢方薬にも用いられ、現在もお漬物や栗きんとんなど食品を黄色に染めるときなどに使われる、くちなしの実。遥か昔、臼杵藩で「パエリア」を作った宣教師がサフランに代えてくちなしの実を使ったのは、日本へ渡る前、東南アジアあたりですでに知っていたのかもしれません。  「黄飯」にかける「かやく」は、見た目と醤油仕立ての素朴な味わいが、どこか長崎の浦上地区に伝わる「浦上そぼろ」を彷彿させます。浦上地区は、戦国時代にキリシタン大名の有馬晴信が治めたこともあり、一時期はイエズス会に寄進されていたこともあるところです。長崎港が南蛮貿易で賑わうなか、浦上川のほとりにはポルトガル船の船員たちによって教会も建てられました。「浦上そぼろ」は、その頃に宣教師によって伝えられたと言われています。  「かやく」は白身魚、「浦上そぼろ」は豚肉を使いますが、野菜は似たり寄ったり。拍子切りや細切りにして炒め煮るという調理法も似ています。戦国時代のキリスト教布教のつながりで、もしや何か関係があるのではないかと勝手な想像をしてしまいます。ただ、古く中国や西洋の影響を受けた長崎県下各地の郷土料理を調べてみても、お米を黄色に染める料理は見つけることはできませんでした。  さて、宗麟は秀吉の九州征伐後に病で倒れ死去したといわれています。大友家の没落後、その身内や家臣らのなかには、長崎へ亡命した者もいました。そのひとりが、宗麟の孫といわれる桑姫(くわひめ)です。桑姫はキリシタンが集う長崎市中を対岸にのぞむ浦上地区(当時の浦上村渕)にひっそりと暮らしました。桑を植え、蚕を飼って糸を紡ぎ、そのやり方を近隣の娘たちにも教えていたそうです。その生き方、人柄は地域の人々の心を動かすものがあったのでしょう。没後は塚がつくられ、いまも淵神社(長崎市淵町)に「桑姫社」として祀られています。  ◎参考にした本/「日本の食生活全集〜宮崎〜」(農山漁村文化協会)

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  • 第486号【長崎のリトル❤オータム】

     今年の秋は全国的に晴天の日が多いよう。ありがたい一方で、空気の乾燥が気になります。近頃のお肌のカサつき、喉のイガイガは、そのせいかもしれませんね。気分までカサつきそうになったなら、家事や仕事の手を休めて散歩に出ませんか。  長崎の中島川にかかる石橋群のひとつ、桃渓橋(ももたにばし)のたもとでは、夏のはじめに根元近くまで刈られたカンナが、早くも1メートルほどに丈を伸ばし鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていました。大雨のときは全身川に浸かり勢いのある水流になぎ倒されることもしばしば。しかし、水が引けば何事もなかったように、すくっと太陽に向かって茎を伸ばす、本当にたくましい植物です。そこに「ツーン、ツーン」と少し甲高い小鳥の声が。数年前からこの界隈で見かけるようになった翡翠(カワセミ)です。カンナのつぼみにチョコンと羽を休めました。文字通り翡翠(ヒスイ)色の美しい羽。すぐそばでアオサギが小魚をねらっていました。  散歩に出ると、思わず頬がゆるんでしまう光景にしばしば出会います。住宅街の一角で、ミドリガメを日向ぼっこさせている方がいました。正式には「ミシシッピアカミミガメ」という種類で、20年ほど前にお祭りの出店で手に入れたとか。体長5cmもなかったのに、いまでは約20cmまで成長。ほぼ毎日、屋外で散歩させているそうです。人懐っこい性格で、水槽から出すと、人のあとを追ったり、名前を呼ぶと甲羅から首を出して反応します。飼い主の方にとてもかわいがられて、幸せなカメさんでした。  顔の横に黄色や赤い線が入ったそのカメと同種と思われるものを、中島川でよく見かけます。お天気がいい日には、何匹も甲羅干ししています。そのなかには飼い主によって川へ放されたものもいるかもしれません。ミシシッピアカミミガメは繁殖力が強く、川の生態系を乱す可能性もあるそうです。ご縁があって手に入れたカメ。最後まで自宅でかわいがってあげてほしいものです。  中島川上流から眼鏡橋へ下れば、石垣に埋め込まれたハートストーンを指差しながら記念撮影をする観光客の姿がありました。魚市橋のたもとから川へ降りたところにあるハートストーンがよく知られていますが、実は眼鏡橋をはさむ魚市橋(上流側)から袋橋(下流側)あたりの石垣には、複数のハートストーンがあります。熱意のある方は、探してみてください。  続いて、秋の修学旅行生の姿が絶えない浦上天主堂(長崎市本尾町)へ。お堂のまわりを歩いていたら、かわいい野良猫と目が合いました。つかず離れずこちらの様子をうかがっています。ちょこんと前足を揃えて座った姿を見たら、胸下の毛並みが❤型!もう、これは、かわいすぎ。こういうことがあるから、散歩ってやめられないのです。   さて、ハートフルな秋のひとときの締めくくりは、やはり食。乾燥する季節には肺を潤し、温める食材がおすすめです。ちゃんぽんに欠かせない豚肉は、うってつけの食材のひとつ。いつものちゃんぽんに、熱っぽい咳や喉の渇きを改善するアサリや滋養のあるカキなどの海鮮類を加えると、秋の体が喜ぶはず。今夜の食卓で、試してみませんか。

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  • 第485号【秋の夜長、十六寸豆を煮る】

     冷涼な空気に満たされる秋の夜長は、コトコトと白い湯気をたてながら煮込むスローな料理を作りたくなります。数日前の10月25日(旧暦9月13日)は、「十三夜」と呼ばれる月見の日でした。「十三夜」は、豆が食べ頃を迎える時期と重なるので「豆名月」とも呼ばれます。  ということで、今宵は卓袱料理の一品(小菜)でもある豆料理、「十六寸豆の蜜煮(とろくすんまめのみつに)」を作ることに。地元の60代以上の方はこの料理を「十六寸(とろくすん)」と呼び、親しみがあるようですが、下の世代になると「白豆の甘煮」と言わないと分からない人が多いようです。なかには「トロクスンって日本語ですか?」と尋ねる人もいます。聞き慣れない言葉に、パスティ、ヒカド、ゴーレンなど外来語に由来する長崎の伝統料理のひとつと思うのかもしれません。  「十六寸豆」は白インゲン豆の一種で、豆を十個並べたとき六寸の長さになることにちなんだ別称です。一寸が3.03cmですから、六寸は18.18㎝。扁平で腎臓みたいな形をしたこの豆を実際に並べて測ってみると、本当にその長さ!ちなみに、十六寸豆は同じく白い「白花豆(しろはなまめ)」と混同されがちですが、こちらはさらにサイズが大きく、「十八寸(とはっすん)豆」とも呼ばれています。  「十六寸豆の蜜煮」を作りましょう。洗って7〜8時間以上水に漬けた豆を火にかけ、数回水をかえながら3〜4時間煮ます。豆がやわらかくなったら、砂糖を加えてさらに少し煮て火を止め、じんわり味がしみるのを待ち、塩少々で味を整えて出来上がりです。白インゲン豆は食物繊維と、代謝を促すビタミンB 群も豊富に含まれ、その栄養価が再注目されています。おばあちゃん世代は豆1カップに対し、砂糖も1カップくらい加えとても甘く仕上げたようですが、甘さ控えめを好むなら砂糖はその半分くらいでもいいと思います。  「インゲン豆」にはもうひとつ、長崎ゆかりのものがあります。「サヤインゲン」です。江戸時代の書籍で、長崎土産や輸入品、特産品などを列挙した『長崎夜話草』の第5附録には、インゲン豆のことを「八升豆(はっしょうまめ)」と記し、「隠元和尚持来て種子を南京寺の内にうへしより世に流布す。…(省略)。」と紹介しています。ここでいう「八升」は、実がたくさんなるという意味合い。また、「南京寺」とは興福寺(長崎市寺町)のことです。  1654年春、弟子ら総勢30人で廈門(アモイ)を出港し、長崎に渡ってきた隠元和尚。このとき一行がもたらしたものは、インゲン豆だけでなく、寒天、煎茶(隠元茶)、「明朝体」といわれる書体、1行20文字の原稿用紙など、現在も用いられているものがいろいろあります。  サヤインゲンは薬膳では、食欲不振、胃や腹部の張り、体が重たい感じのときなどに用いられます。長崎ゆかりの白や緑色をしたインゲン豆。マメに食べて日々の健康づくりにお役立てください。  ◎  参考にした本…『長崎夜話草〜第五附録〜』(西川如見・岩波文庫)

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  • 第484号【長崎の家紋】

     秋の大祭「長崎くんち」が先週7、8、9日に行われました。長崎の中心市街地は、今年も奉納踊りや庭先回り(家々や事業所、官公庁などを回り、玄関先や出入り口などで演し物を呈上すること)で大にぎわい。心躍らすシャギリの音とともに、まちを練り歩く演し物の後を追っていたとき、ふと鼻先をかすめたのがキンモクセイの香りでした。いつもならくんちの後なのに、今年はちょっと早いかな。長崎県内各地のコスモスの名所はすでに満開。山々ではじきに紅葉もはじまります。遠出しても、しなくても、この季節ならではの澄んだ空気とさやかに見える月や星はいつもそばにあります。美しい日本の秋を楽しみたいものです。  日本の美といえば、「家紋」もそのひとつかもしれません。月や星、草花、生活の道具などをモチーフにした図柄は簡素化され、どの時代にも受け入れられる普遍性が感じられます。日本人の感性を映し出した大切な文化ともいえる家紋の歴史は約千年。現在その数は1万とも、2万ともいわれています。現代の生活のなかで家紋が用いられるシーンは少なくなりましたが、着物(背縫いの中央、両胸元、両外袖)に付けられているのは、いまでもよく見かけますよね。  長崎くんちでは、庭先回りで訪れる家々や事業所などの出入り口に、家紋と家名を染め抜いた幔幕(まんまく)が張られます。青や紺地に白抜きの家紋は、そのシンプルなデザインの力もあって、とても目を引きます。くんち見物でまちを歩いていると、たまにどこからか、「あ、うちと同じ家紋だ!」という声が聞こえたりもします。また、よく見かける紋でも、その名称は案外知らないものです。くんちの幔幕から、いくつかご紹介します。  長崎に生まれ育った知人の家は、「丸に隅立て四つ目(まるにすみたてよつめ)」。由来を尋ねると、「母親から、清和天皇ゆかりの紋だと聞かされてきたけど、よく分からん」とのこと。種類的には「目結紋(めゆいもん)」といわれる紋のひとつで、布を染める時、布の一部をくくってできる文様からきたもの。かつては武将たちに多く用いられた紋だそうです。  長崎でよく見かける紋のひとつが「橘紋(たちばな)」。ミカン科の常緑小高木である橘をモチーフにしています。聖武天皇より賜ったものといわれ、橘氏ゆかりの古い紋だそうです。葉と果実を組み合わせたデザインは、どこか愛らしさがあります。橘氏の系譜を持たない武家などでも用いられました。  九州の戦国大名・大友氏が愛用したという杏葉紋(ぎょうようもん)。杏葉とは馬に使う装飾用具のこと。大友氏は功労のあった家臣らに、この紋を与えたとか。その後、大友氏を倒した龍造寺隆信へ、さらに龍造寺家を倒した鍋島家に伝えられました。北九州地方の武士たちが憧れた名紋です。  江戸時代には武家を中心に用いられた家紋ですが、町人たちも使用を認められていて、多くの新しいデザインが生まれました。とくに商家は屋号として用い、のれんや半てん、てぬぐいなどにしるしました。庶民が広く家紋を用いるようになったのは、明治時代に入ってからだそうです。  家紋のルーツを辿れば、たいてい由緒あるものばかりで、いずれも吉祥や家訓に通じるものなど、家の繁栄を願う気持ちが込められています。さまざまなご縁を結びながらいろいろな時代をくぐりぬけてきた家紋。その由来や意義をひもとけば、あなたのルーツが垣間見えるかもしれません。   ◎  参考:『正しい紋帖面』(古沢恒敏)、『〜面白いほどよくわかる〜家紋のすべて』(安達史人 監修)、『イラスト図解 家紋』(高澤等 監修)

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  • 第483号【ヘルシーなイカを食べよう】

     ほんの少し前、「日本人はイカをいっぱい食べている」と言われた時代があったのをご存知でしょうか。昭和55年(1980)の日本のイカの漁獲量は68万トン。世界のイカの漁獲量の約半分を占め、国別ではダントツ一位でした(FAO漁獲統計)。その後、資源の減少や漁業の衰退にともないトップの座は他国にゆずりましたが、いまも日本国内における鮮魚の1人あたりの購入数量は、昭和40年(1965)がアジに次いで2位、昭和58年(1983)が1位、そして平成21年はサケに次いで2位(総務省「家計調査」、平成21年は水産庁作成データより) と、つねに上位にランクイン。やっぱり、日本人はイカをよく食べているようです。  三角のヒレをつけた長い筒状の胴体、そして10本の腕。本当は宇宙人?と思ってしまうような摩訶不思議な容姿をしたイカ。うんと昔、それをはじめて口にした人間は、ナマコ同様にちょっと勇気が必要ではなかったかと想像します。刺身のほか焼く、煮る、乾物、塩漬けなど、いろんな調理法がありますが、なかでも保存食でもある「イカの塩辛」は、料理名や漬ける時の材料に若干の違いはあるものの、北は北海道から南は九州・沖縄まで全国各地で作られてきました。  ところで、「イカの塩辛」には色合いが、白っぽいものと赤っぽいものがありますが、塩や米麹だけで漬け込むと白に、さらに内臓(肝臓)を加えると赤くなるようです。また、少数派ではありますが、黒いタイプもあります。イカ墨を加えたもので長崎県では「黒身あえ」といって、五島列島の北に位置する小値賀島をはじめ平戸島、そして大島といった島々で食べ継がれてきました。富山県にも「イカの黒作り」と呼ばれる同じような郷土料理があります。  この時期手に入りやすい「ヤリイカ」で「黒身あえ」を作ってみました。胴に包丁を入れ、なかの墨袋を破らないように取り出し、さっとゆでます。イカ墨をボウルにとり、少量の味噌、砂糖を丁寧にまぜるとつやが出てきます。これを短冊に切った身に加えてあえれば出来上がりです。  「黒身あえ」はヤリイカより肉厚で旨味のあるミズイカ(アオリイカ)だと、よりおいしいと思います。ミズイカは、これから冬場にかけてがシーズンです。さて、「黒身あえ」は、見た目が真っ黒なので抵抗がある方がいるかもしれませんが、イカ墨自体がもつ塩味と旨味は酒の肴に喜ばれそうな珍味です。未体験の方は一度お試しください。  「イカの塩辛」は発酵食品のなかでも酵母菌が豊富で、美肌効果が高いといわれています。また、イカは低脂肪、低カロリーで知られ、コレステロールを減らす働きをするタウリンを多く含みます。薬膳では、養血を補い心臓、肝臓を滋養するとされ、とてもヘルシーな食材として利用されます。  この秋もたくさん食べたいイカは、ちゃんぽんの大切な具材のひとつでもあります。とくに下足(げそ)部分は、いい出汁がとれ欠かせない存在です。塩辛もいいけれど、まずは、今夜あたりちゃんぽんで、イカを味わってみませんか。    ◎  参考:全国いか加工業協同組合ホームページ「日本人とイカ」、『ふるさとの家庭料理第17巻〜魚の漬込み 干もの 佃煮 塩辛〜』(農文協)、『聞き書長崎の食事〜日本の食生活全集42〜』(農文協)

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  • 第482号【秋めく長崎市街地の花々】

     驚くような早さで秋めいています。寝冷えして風邪などひいていませんか?長崎のまちを歩けば、夏の間、目をうるおしてくれた「ノウゼンカズラ」や「サルスベリ」の花々がそろそろ終盤を迎え、花びらをちらしています。朝晩の涼風に誘われたのか、市街地の高台に位置する立山地区では「ヒガンバナ」が咲いていました。いつもより1〜2週間ほど早い気がします。  学名は「Lycoris(リコリス)」。秋のお彼岸の頃に咲くことからヒガンバナと呼ばれるようになりました。異名が多く、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ、まんじゅしゃか)」とも呼ばれるのは、この花がサンスクリット語で「manjusaka」と書くことに由来。また「幽霊花」などとも呼ばれ、ちょっと不吉なものを連想させるイメージもありますが、サンスクリット語では、「おめでたいことが起こる兆しの天上の赤い花」という意味があるそうです。  住宅街を彩るさまざまな庭木に目を向けると、実をつけたものをたくさん見かけるようになるのもこの時期ならでは。初夏、鮮やかなオレンジ色の花を咲かせていた「ザクロ」もそのひとつ。たわわに実って細い枝をしならせていました。「ザクロ」は種子が多いので子宝に恵まれるとか、豊かな実りをもたらすといった縁起のいい木とされ、長崎くんちではお供え物にしたり、「ザクロなます」というくんち料理として食べ継がれています。  庭木の実で「ザクロ」とともに目立つのが「ツバキ」です。ピンポン玉くらいの大きさの実のなかに茶色の硬い種子が入っています。種子から絞り出されるツバキ油は古くから食用にされ、髪や素肌を健やかに保つ油としても利用されてきました。長崎県内では、五島列島や島原半島などが良質のツバキ油を生産することで知られ、近年その良さがあらためて見直されているようです。  中島川にかかる眼鏡橋あたりで、ときおり観光客の足を止めていた花があります。「タデ」です。背丈のある茎の先に、穂状に垂れ下がった鮮やかなピンクの花が目をひきます。夏場から咲きはじめるタデの花期は意外に長く、もうしばらくは愛でることができそうです。  眼鏡橋の上流にかかる桃渓橋のたもとあたりでは、「ヤブラン」が紫色の花を咲かせていました。ヤブに咲くランに似た花、というのが名前の由来だとか。穂先に密集する小さな花を虫眼鏡で見ると、確かに似てなくもありません。花期は夏から秋にかけて。ヤブランは昔から根茎に薬効があるとされ、乾燥させたものは漢方薬として、滋養のほか咳止めや利尿薬などとして用いるのだそうです。日陰でもよく育つらしく、桃渓橋の「ヤブラン」もほかの植物の影のなかで旺盛に育っていました。 鉢植えでよく見かける花に「マリーゴールド」があります。春から秋にかけて次々に花を咲かせ、ガーデニング初心者にも育てやすいといわれています。メンキシコ原産のこの花が、西洋に伝わったのは大航海時代のこと。その後、日本へはオランダ船が運んだともいわれていて、江戸時代初めに編まれた園芸事典に、「紅黄草」の名で記されているそうです。植物たちもいまに至るまでにいろいろな旅路を経験しているのですね。  ◎参考にした本・「四季を楽しむ花図鑑500種」(新星出版社)

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