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  • 第503号【夏到来!鳴滝で司馬作品と出会う】

     先週、梅雨明けした九州。本格的な夏がはじまって、連日セミの鳴き声で目を覚ますという方も多いことでしょう。日中、暑さを逃れひと息ついた公園の木陰で、ふと、幹に目をやると、シャワシャワシャワと鳴くクマゼミが何匹もいて、びっくり!足元を見るとセミが抜け出た穴があちらこちらに。持っていた日傘を差し込んで深さをさぐったところおよそ5〜6センチ。この土の中で数年を過ごしたことを思い再びセミを見上げると、いきなりオシッコをかけられ、あやうくシリモチをつきそうになりました。  家事や仕事に明け暮れる大人になっても、セミの鳴き声に包まれると、童心に返り当時の夏の記憶が鮮やかによみがえることがあります。昆虫採集に夢中になったこと、毎日のように海で泳いだこと、蚊帳のなかでお化けの話を聞かされ泣く泣く眠った夜のこと…。あなたはどんな夏の思い出がありますか。  長崎のまちを歩けば、夏を告げるサルスベリがあちらこちらの庭先で花を咲かせています。眼鏡橋がかかる中島川のアオサギは、水しぶきを浴びて気持ち良さそう。中島川の支流のひとつが流れる鳴滝地区へ足を運べば、山々の緑は強い日差しのもとでいっそう濃く見えます。足元の畑には、俳句で秋の季語とされる、「えのころぐさ」(ねこじゃらし)が生い茂っていました。ちなみに、来月7日は「立秋」です。  野山はめくるめく季節を教えてくれます。この暑さも、ずっと続くわけではありません。ならば、季節に寄り添いつつ、暑さを忘れる日々の楽しみを見つけながら過ごしたいものです。この夏、「シーボルト記念館」で開催中の企画展「司馬遼太郎と幕末維新の群像」は、司馬作品のファンや幕末・明治の歴史に関心のある方々にとっては、そんな楽しみのひとつになるのではないでしょうか。  今年、没後20年を迎えた司馬遼太郎(1923-1996)。『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』など名作の数々を世に送り出し、いまも新たなファンを生みながら読み継がれています。長崎やシーボルトにとくにゆかりのある作品としては、『竜馬がゆく』のほか、日本近代兵制の創始者・大村益次郎を描いた小説『花神』、医療の視点で幕末から明治維新の時代を描いた『胡蝶の夢』などがあります。  この企画展では、そうした作品の引用文に、シーボルトの娘イネ、シーボルトを尊敬したポンペ、長崎で蘭学を学び大坂で「適塾」を開いた緒方洪庵、そして坂本龍馬など、小説に登場する人物の資料を添えて紹介しています。登場人物にまつわる史実を知れば、初めて読む方はもちろん、既読の方も、より深く、広く小説を楽しめると思います。  かつて西欧の医学を学ぼうと日本各地の俊英たちが足繁く通った「鳴滝塾」。その跡地にたつ「シーボルト記念館」では、緑陰に包まれたシーボルトの像が迎え入れてくれます。「司馬遼太郎と幕末維新の群像」は小さな企画展ですが、今回のような司馬作品関連の展示は長崎では初めてのことだとか。平成28年8月28日(日)まで開催です。  ◎取材協力:シーボルト記念館 (長崎市鳴滝2-7-40)TEL095-823-0707        月曜日休館

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  • 第502号【ハスの花咲く唐比へ】

     泥水のなかからスクスクと長い茎を伸ばし白やピンクの多弁の花を咲かせるハス。仏教にゆかりの深い花として知られていますが、その姿はやはりどこか神秘的で美しい。清しい芳香とともに、古くから人々に愛されてきた花です。  ハスの名所として知られる「唐比ハス園」(長崎県諫早市森山町唐比)へ行ってきました。「唐比ハス園」は、橘湾に面した唐比海岸そばの唐比湿地公園内にあります。長崎市街地からは、国道251号線を雲仙方面へ走るバスに乗って小1時間ほど。諫早駅からは唐比行きのバスで約40分です。  「唐比ハス園」の広さは約2.5ha。地元のボランティアグループが長年コツコツと手入れを続けながら、その規模を徐々に拡大してきたそうです。ハスの花と同じくらいの高さに木造りの通路が張り巡らされているので、どこからでもハスを一望できます。園内には十数種類のハスと数種類のスイレンが植えられていて、ハスは8月上旬まで、スイレンは初秋まで楽しめるとのことでした。  この日、花を咲かせていたのは、「唐比古代ハス」、「ミセススローカム」、「王子ハス」、「誠ハス」など。色合いや花弁の形にそれぞれの美しさがあります。おおぶりのハスの花を引き立てているのが、さらに大きな緑の葉っぱです。露を受けて水玉を転がしている光景が涼しげでした。  花びらを落とし、花托があらわになったものもありました。花托の表面に空いた複数の小さな穴は蜂巣を思わせます。これが、ハスの古名である「ハチス」の由来ともいわれています。ちなみに花托の穴は、その中で育っているハスの実の通気口の役目を果たしています。ドングリくらいの大きさに育つハスの実は、自律神経を整えたり、疲労回復にも効果があるとして薬膳の食材として利用されます。地下にのびる茎は、おなじみのレンコン。また葉も食用に用いられ、花びらも花茶として楽しめます。ハスは花も実も葉も根も利用できるすごい植物なのです。  すごいといえば、ハスの生命力です。その強さを証明するきっかけのひとつとなった「大賀ハス」を園内で見ることができました。美しいピンク色をしたこのハスは、戦後、土器や石器が出土する落合遺跡(千葉県)で発掘されたハスの実を、植物学者の大賀一郎博士が発芽に成功させたものです。その実は、二千年前の弥生時代のものと推定されるものでした。  ハス園を訪れる際のポイントは、午前中に楽しむということ。「花は日の出とともに咲きはじめて、昼を過ぎたら閉じてしまうからね」と近くで農作業をしていた地元の方が教えてくれました。   島原半島に入る直前に位置する「唐比ハス園」一帯は、「島原半島ジオパーク」に含まれています。「島原半島ジオパーク」とは、地球のダイナミックな営みを観察できる公園のことで、海岸や温泉、田畑など、たくさんのジオサイトが点在するネイチャースポットです。ここ唐比湿地からは25万年前の火山灰も見つかっています。また、ハス園に隣接する唐比海岸は、橘湾と島原半島、天草の島々を一望する眺めがすばらしく、新観光百選にも選ばれています。とにかく、静かでのんびりできる唐比。この夏、足を運んでみませんか。

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  • 第501号【東洋と西洋のドラゴン・アイズ】

     すももが出回る季節になりました。すももの酸味(リンゴ酸、クエン酸)は疲労回復に効果があり、食物繊維の働きでお腹の調子も整えてくれます。何となく気分も体調もスッキリしない梅雨どきにうれしい果物です。  すももは、バラ科サクラ属の落葉小高木。枝に小ぶりの実が付いた様子は梅にも似てかわいいですね。ところで、沖縄にはすももと同時期の果実で、「竜眼(リュウガン)」と呼ばれるものがあるそうです。こちらはムクロジ科ムクロ属の木。ライチに似て、とってもジューシーだとか。名の由来はその形が「竜の眼」を思わせるからだそう。  長崎には、この果物と同名のかまぼこがあります。ゆで玉子をアジやイワシ、サワラなどのすり身で包み、油で揚げたものです。名前の由来もやはりその形が竜の眼に似ているからなのでしょう。てっきり、どこでも作っていると思っていたら、転勤族の知人らに聞いてみると、長崎以外では見たことがないという人ばかり。ということは、長崎の郷土料理ということでしょうか。  70代の地元の女性数人に話をうかがうと、「竜眼は、伝統料理とまでは言わないけれど、比較的新しい長崎の行事食かもしれないね」とおっしゃる。というのも、戦後間もない頃までは、玉子はとても貴重で、竜眼は作られていなかったと思われること。その方々が竜眼を食べるようになったのは、食生活が豊かになりはじめた昭和30年代半ば以降で、その頃から主にお正月や運動会、行楽時に作る行事食のひとつであったそうです。  ところで洋食に、「スコッチ・エッグ」というものがあります。イギリスでは惣菜の定番のひとつで、ゆで玉子をミンチで包み、パン粉を付けて揚げたものです。18世紀にロンドンのデパートで作られはじめたのが、イギリス中に広まるきっかけになったという説があります。ルーツをさらに辿ると、大航海時代にイギリスが拠点のひとつとした東南アジアから伝わったという説もあります。  長崎の「竜眼」も、「スコッチ・エッグ」も、玉子を包む素材がお肉か、魚かの違いだけで、作り方も姿もよく似ています。さしずめ「西洋と東洋のおいしいドラゴン・アイズ」といったところでしょうか。もしかしたら、長崎で竜眼が根付いたそもそものきっかけは、江戸〜明治期に全国でもいち早く西洋料理を見たり味わったりする機会があった歴史のなかで、すでに玉子をお肉で包んだ料理を目にしていて、手に入りやすかった魚のすり身で応用したということも考えられます。  一方で、「竜眼」はその名前も姿も、どこか中国料理っぽさがあります。長崎の郷土料理には、同じ「竜(龍)」が付く料理で、「飛竜頭(ヒリュウズ、ヒロウス)」があります。中国ゆかりの普茶料理(精進料理)の一品ですが、その名はポルトガル語で揚げ物の一種を意味する「フィリョース」に由来し、漢字を当てたものともいわれています。ちなみに、「飛竜頭」とは豆腐にニンジンやゴボウなどを混ぜて作る「がんもどき」のことです。   料理の名の由来や作られはじめたきっかけを辿っていくと、たくさんの枝葉に分かれ、収集がつかなくなります。ただ、ひとつ言えるのは、おいしいものは時代や地域性に応じた変化を遂げながら食べ継がれるということ。昔ながらの郷土の味をいただくことは、そうやって時代をくぐり抜けてきたパワーをいただくことでもありました。

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  • 第500号【人々と風土のたまもの】

     庭に植えられたザクロの花が咲きはじめた6月1日は、秋の大祭「長崎くんち」の稽古始めの日とされる「小屋入り」。今年の踊町である六カ町(上町・筑後町・元船町・今籠町・鍛冶屋町・油屋町)は、午前中に諏訪神社と八坂神社にお参りを済ませ、午後からは「打ち込み」(くんち関係先への挨拶)に廻りました。紋付の黒い羽織に唐人パッチ(ステテコ)姿の役員さんたち、担ぎ手や演者、そしてシャギリ(囃子)の人たちがまちを練り歩く姿は颯爽として、本番(10月7・8・9日)への期待感が高まりました。  賑やかな小屋入りの行列が通り過ぎた街角で、静かに咲いていたのが中南米原産の「トケイソウ」です。花のつくりが時計の文字盤に見えたのがこの和名の由来です。一方、英名は「passion flower」(パッション・フラワー)で、「キリストの受難の花」を意味するとか。16世紀、中南米に派遣されたイエズス会の宣教師が、この花の個性的な姿が十字架やイバラの冠などキリストの受難を象徴するものに見えたことから、そういう意味を持つラテン語の名前で呼び、のちに英語に訳されてパッション・フラワーになったそうです。  宣教師たちによって布教活動にも利用されたというパッション・フラワー。この花が日本へ渡来したのは享保年間(1716〜1736)だといわれています。当時の日本は鎖国下にあり、キリスト教は禁止の時代です。こんな曰く付きの花が一体どのようなルートで日本へやって来たのでしょうか。トケイソウは、ちょっと不思議なその容姿も相まって、いろいろな物語を想像させる花であります。  眼鏡橋がかかる中島川のそばに咲いていたトケイソウ。川面に目をやると、アオサギが獲物の小魚をじっと待つ姿がありました。中島川では、これまで数種類のサギを見かけましたが、毎年春になると新しい顔ぶれに変わるよう。現在、常連で見られるのは2羽のアオサギのみ。ここ数年、どこかペンギン似のゴイサギの姿はなく、半年前に見かけたシラサギもいません。サギ類は、各地に生息していて田んぼやあぜ道に限らず、まちなかを流れる川などでも見かけます。あなたのまちのサギはどんな様子でしょうか。  6月4日、九州地方は梅雨入り。タイサンボクの大きな白い花や、南天の小花がそぼ降る雨にぬれています。めぐる季節のなかで、港に出て海上から長崎のまちを見渡せば、恵まれているばかりとは言えない風土のなかで、長い寒村の時代を経て、16世紀からは商人のまちとして栄え、伝統の祭りやカステラ、ちゃんぽんなどのおいしい名物を生み、さらには平和の尊さを伝え継ぐまちとなった怒涛の歩みに感慨のようなものがこみあげてきます。   どの時代にも言えるのは、長崎はつねに近隣の地域や日本各地、さらには世界各国の人々とのさまざまな関わりやつながりに支えられてきたということ。人知れず大海原を越え長崎港を渡る潮風は、何にも記されることのない星の数ほどの人々の営みの先に私たちがいて、未来の人たちがいることを教えてくれるのでした。

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  • 第499号【去来と長崎】

     中島川の上流では、オシドリがこの春生まれの子どもたちを連れて、のんびり泳いでいます。沖縄は一足早く梅雨入りしましたが、長崎はまだ五月晴れの爽やかな日が続いています。そんな中、紫陽花の季節がはじまって、夏服姿の人も増えてきました。  紫陽花や帷子時の薄浅葱(あじさいや かたびらどきの うすあさぎ)  芭 蕉 帷子とは夏用の麻の着もののこと。夏衣になった梅雨前、うっすらと青緑色を帯びた咲きはじめの紫陽花の初々しい姿を詠んでいます。長崎の紫陽花もちょうどいま、この句のような感じ。これから梅雨にかけて色合いが濃くなり七変化を楽しめます。  蕉門十哲のひとりである向井去来(1651-1704)に、紫陽花の句を見つけることはできませんでしたが、この季節の山の緑を詠んだものがありました。みずみずしい若葉におおわれた山の表情がまっすぐ伝わってきます。  ひかりあふ二つの山のしげりかな   去 来  芭蕉の信頼も厚かったと伝えられる去来は、長崎生まれ。長崎市立図書館そば(長崎市興善町)に「去来生誕の地」の碑が立っています。父、向井元升(げんしょう)は、儒学者で儒医でもありました。また出島に輸入されてきた海外の書物の内容を確認する「書物改め」もつとめていました。また、私塾の輔仁堂を開いて民間の子弟へ学問を教え、さらに長崎聖堂(学問所)を建立するなどしています。元升は、去来ほど知名度はありませんが、長崎の歴史に大きな影響を及ぼした人物です。別の機会にあらためてご紹介したいと思います。  さて、去来は8歳のとき父の意向で一家そろって京都に移住。十代後半には母方の親戚である福岡の久米家に身を寄せ武芸に励み上達するも、思うところあって二十代半ばで京都の家にもどります。そこでは、儒医としての名声を高めていた父の医業を継いだ兄・元端をサポート。その一方で天文学や暦数の知識を活かし、皇族や公家の家に出入りしていたそうです。  その後、去来が芭蕉に師事するようになったのは三十代半ばのこと。芭蕉は去来を高く評価し、「鎮西俳諧奉行」とまで言わしめたほどでした。去来は、身内が居住していたこともあり、たびたび故郷・長崎を訪れたといわれていますが、はっきりとした記録に残っているのは、40歳(1689年)のとき(約2カ月滞在)と、49〜50歳のとき(約15カ月滞在)の帰郷です。40歳のときの短い滞在中は、身内に問われるままにおしみなく俳諧の奥義を説いたとか。長崎を去るとき、日見峠まで見送りにきた卯七(義理従弟)との別れを惜しみ、「君が手もまじるなるべし花薄」の句が詠まれました。この句は約100年のちの1784年に長崎の俳人たちによって句碑が建立され、現在も日見峠に近い場所に残されています。  49歳のときの帰郷では、いろいろな人に招かれて度々句会に参加。長崎の俳壇に大きな影響を及ぼしました。高潔で恩愛の人であったといわれる去来。諏訪神社、春徳寺、梅香崎町、飽の浦町など長崎市内には去来ゆかりの場所がいくつも点在しています。興味のある方は、訪ねてみてはいかがでしょうか。  ◎  参考にした本/「俳諧の奉行 向井去来」(大内初夫・若木太一 著)、「向井去来の句碑・足跡を訪ねて」(宮川雅一 著)

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  • 第498号【大きなクスノキをめぐる】

     長崎港を囲む山々は青葉若葉におおわれて、すっかり初夏の装い。なかでも目を引くのが黄緑色のみずみずしい葉を茂らせたクスノキです。この時期は小さな白い花がたくさん付くので、若葉がますます輝いて見えます。あらためて長崎にはクスノキが多いことを実感する季節でもあります。  クスノキ(楠)は南の木と書くように、暖かい地域に育つ樹木です。「緑の国税調査」(環境省の自然環境保全基礎調査のこと)によると、クスノキの分布範囲は関東以南の太平洋側、とくに九州地方に多く見られるとのこと。九州のなかでも鹿児島は、特にクスノキとのゆかりが深いところのようです。江戸時代、出島を通して西洋に輸出された品物には銀や銅、漆製品、伊万里焼などがありますが、クスノキを原料に作られる樟脳もそのひとつでした。当時の樟脳の主な製造・輸出元は薩摩藩。そうした歴史もあって、クスノキは鹿児島の県木にもなっています。  クスノキは寿命が長く、巨木になる樹種です。スギ、ケヤキ、イチョウなども大きく育ちますが、「緑の国税調査」の全国巨木リストをみると、1位の鹿児島県蒲生町の大クス(幹回り24.2m)を筆頭に、上位の大半をクスノキが占めていて、ダントツで日本の巨木を代表する樹木であることが分かります。  さて、地元長崎の県下各地には樹齢数百年ともいわれる大クスが数多くあります。長崎市中心部では、「大徳寺の大クス」(西小島町)がよく知られています。樹齢は800年くらいと言われ、幹回りは約13m。長崎県内では島原市有明町の「松崎の大クス」と1、2位を競う巨木です。ところで、クスノキは常緑樹ですが、葉の寿命は約1年で、春、新葉が出る頃に落ちます。「大徳寺の大クス」の下は、この春の落ち葉でいっぱいでした。  諏訪神社や松森神社がある上西山町の山の斜面もクスノキが多く見られます。クスノキは英語で「カンファ・ツリー」といいますが、居留地時代、長崎にやって来た外国人が、この一帯の山を「マウント・オブ・カンファ」(クスノキ山)と呼ぶほど目立っていたようです。松森神社の境内にはクスノキが群れ、もっとも巨大なものは「松森の大クス」と呼ばれています。8mはあるという太い幹から天に伸びた枝葉、がっしりとした根はどこか神聖さを帯び、思わず手を合わせてしまいます。   浦上駅近くの山王神社境内入り口にそびえる2本の「被爆クスノキ」も長崎市内でよく知られる巨木です。数年前、このクスノキをモチーフにした歌が注目され参拝者が増えました。被爆する直前まで葉を茂らせ涼しい木陰を提供していたであろう2本のクスノキは、強烈な爆風と熱線を受け無残な姿になりました。しかし2年後、息を吹き返したかのように新芽が出て、71年後の今日に至っています。五月の風が吹き抜ける昼下がり、この木の下で耳を澄ませば、心地良い葉ずれの音が聞こえてきます。この音は、長崎県で唯一「日本の音百景百選(環境省)」に認定されたとか。いつまでも奏でてほしい平和の葉音でありました。

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  • 第497号【崇福寺の吉祥文様と大釜】

     熊本地震で被災された方々には心からお見舞い申し上げます。長崎にとって熊本はお隣の県。熊本が揺れるとき、長崎はその余波を受けながらも日常生活への影響はなく、熊本・大分で避難生活をおくる方々へ多くの人が思いを寄せています。いま現地へはボランティアが入れるようになり、各地の自治体などで被災地への支援物資の受付がはじまっています。状況を見極めながら、微力でもできる支援を続けていきたいと思います。  クスノキの若葉がまぶしいこの季節。九州ではツツジが満開。アヤメ属の花々もあちらこちらで咲きはじめています。長崎市鍛冶屋町にある唐寺、崇福寺へ足を運ぶと花期を迎えた「カラタネオガタマ」がバナナに似た甘い香りを漂わせていました。モクレン科オガタマノキの仲間のひとつで、やや黄色をおびた花びらをもつ「カラタネオガタマ」は中国原産。江戸時代に日本に伝わったといわれています。ちなみに日本のオガタマノキの花びらは白です。  崇福寺の「カラタネオガタマ」は、参道の階段を上った先にある「第一峰門」(国宝)のそばに植えられています。1696年頃に建てられた「第一峰門」は、吉祥文様が彩り豊かに描かれた朱色の門扉です。扉に施された青いコウモリ、白いボタンの花が目を引きます。軒の部分にも、瑞雲、丁子、方勝(首飾り)、霊芝など、福につながる意匠がぎっしり描かれています。この絵のタッチは、いまどきのイラストめいていて楽しい。崇福寺ではこうした縁起かつぎの意匠が各所に見られます。そのご利益が被災者の方々に届くことを願いながら境内をめぐります。  江戸時代初期、長崎在住の福州のひとたちが唐僧・超然を招いて創建した崇福寺。境内はどこかおおらかでのんびりとした空気が漂い、日本の寺院とは違う趣き。国宝の大雄宝殿(本殿)をはじめ三門、媽祖堂、鐘鼓楼など多くの建造物が重要文化財や史跡に指定されているだけあって見応えがあります。  境内の一角には、大きな釜が祀られています。4石2斗のお米を炊くとされるこの大釜は、二代目住職の千がいが飢餓救済のためにつくったもの。そのきっかけは、延宝8年(1680)の全国的な不作による米不足でした。お米を諸国に頼っていた長崎は翌年には餓死者が出るという状況に見舞われます。大釜は不作の影響が続いていた2年後に完成。多い日には3千から5千人に及ぶ人々に粥を施したそうです。   いつの時代もさまざまな天災に見舞われ、日常生活を脅かされてきた日本。その度に、人々は助け合い、のりこえ、いまに繋いできました。未曾有の災害といわれるものでも、必ず復旧・復興の日は来ます。たいへんな状況にある被災者の方々が、まずは、きょう一日を無事に過ごされることを祈っています。

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  • 第496号【教会のある里山の植物】

     桜前線は青森あたりに到達したでしょうか。長崎のソメイヨシノは葉桜へ移行中。残りわずかな桜の花びらが静かに舞う春の休日、長崎市は外海(そとめ)地方へ足を運び、教会めぐりとのどかな里山の風景を楽しんできました。  西彼杵半島の南西部に位置する外海地方は、長崎駅から車で小1時間ほどのところにあります。半島の海岸沿いをいく国道202号線は、サンセットロードと呼ばれ、五島灘に沈む美しい夕日の名所として知られています。その道路沿いに、南から黒崎教会(上黒崎町)、出津教会(西出津町)、大野教会(下大野町)が点在。いずれも海に近い静かな里山の風景のなかに建っています。  「黒崎教会前」のバス停から石段を登ったところに建つ黒崎教会(1920年完成)。山の緑を背景にした煉瓦積みの外観が目をひきます。この地域は遠藤周作の小説『沈黙』の舞台となったことでも知られています。車から降りて最初に出迎えてくれたのは、イソヒヨドリです。教会の屋根の十字架の上から、まるでおしゃべりでもしているかのように鳴き声を響かせていました。鳥好きの知人によるとイソヒヨドリは、ヒトが鳴き声をマネすると、それに返答することもあるそうです。  黒崎教会から国道を北上。途中、遠藤周作文学館があり、その向こう側に丘の上に建つ出津教会(1882年完成)が見えてきます。出津教会は、風あたりの強さに耐えられるよう建物は低めで堅牢な設計になっているとのこと。出津文化村とよばれる教会周辺を散策していたら、ムサシアブミ(サトイモ科)を見かけました。黒紫色で縞模様のある花は、葉や茎とともにおおぶりで目立ちます。地域によってはレッドデータブックに記載される植物です。  出津教会から202号線をさらに北上して、山の中腹に建つ大野教会(1893年完成)へ。途中、山の斜面から海側を見渡せば、沖合にかつて炭鉱の島として栄えた池島が見えます。大野教会は石造りの小さな教会堂。出津教会もそうですが、フランス人のド・ロ神父が私財を投じ、信者さんたちの奉仕によって建造されています。ド・ロ神父は建築に造詣が深く、黒崎教会も敷地造成や設計などで関わっているそうです。  新緑と土の香に包まれた大野教会周辺の土手や道端では、紫色の小さな花をつけたキランソウ(シソ科)がたくさん生えていました。「ジゴクノカマノフタ」という別名を持つこの植物は、咳を鎮め、痰をのぞき、解熱や健胃の効果もある生薬にもなるとか。ちょっと怖い別名は、「病気を治し、地獄の釜に蓋をする」という意味なのだそうです。   近くには、四方竹(しほうちく)も生えていました。中国南部が原産の細めの竹で、茎部分が四角なのが特長です。長崎市では鳴滝塾跡(現・シーボルト記念館)の庭園の一角でも見られます。めずらしい竹だと思っていたら、高知県にも生えているらしく、煮物や炒めものなどにして食べている地域があるそうです。四方竹のタケノコは秋採れ。アクが少なく、歯ざわりも良いとのこと。江戸時代、密かに信仰を続けた大野教会周辺の集落でも食べられていたかもしれません。

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  • 第495号【長崎四福寺めぐり】

     先週末(3/19)、福岡でソメイヨシノが開花。いよいよ桜前線がスタートしました。今年の天気予測では、九州は見頃を迎える3月末頃までに気温が下がる日があるそう。花冷えが功を奏し、春の嵐にも見舞われず、桜を長く楽しめるといいですね。  日に日に温かくなっていくと散歩に出たくなります。そこで今回は、観光もかねて唐寺めぐりを楽しんできました。足を運んだのは、「長崎四福寺」と称される興福寺(1624年創建)、福済寺(1628年創建)、崇福寺(1629年創建)、そして聖福寺(1677創建)です。初代の住職が中国僧で、江戸初期につくられた興福寺、福済寺、崇福寺は、特に「長崎三福寺」とも呼ばれています。ちなみに、聖福寺の初代は中国人と長崎人の間に生まれた鉄心という僧侶でした。  まずは、長崎の桜の名所のひとつとして知られる風頭山の西側山麓へ。そこは「崇福寺通り」、「寺町通り」が続くところで、10数のお寺が並び建っています。通りの一角で出迎えてくれるのは、崇福寺の赤い山門です。三つの門があり装飾の美しさから竜宮門とも呼ばれていますが、正式には「三門」といい国指定重要文化財です。崇福寺には、国宝の「第一峰門」と「大雄宝殿」(本堂)をはじめ、いくつもの文化財を擁し、明末期の建築様式や吉祥模様など見どころ満載です。  「崇福寺通り」から「寺町通り」に抜け、興福寺へ。その山門では、大きな隠元禅師のお顔が出迎えてくれます。ここは、明末の1654年、約30人の弟子を伴って日本へ渡ってきた隠元禅師が初めて入山した由緒あるお寺です。隠元禅師は、黄檗宗の開祖として知られています。「長崎三福寺」は、隠元禅師の渡来後、黄檗宗に移行。隠元禅師の影響力がいかに大きかったかが分かります。風格ある興福寺の大雄宝殿(国指定重要文化財)は、大陸的なおおらかさが感じられます。境内の一角には三江会所門(県指定有形文化財)という門があります。三江(江南、浙江、江西)は、揚子江の下流に位置する地域で、興福寺はこの地域出身の中国人の社交場でもあったそうです。  寺町通りから徒歩約10分。長崎歴史文化博物館ある立山の麓へ。この界隈にはいずれも長崎駅へつながる「筑後通り」と「上町通り」があり、10近くのお寺が点在。福済寺と聖福寺は「筑後通り」にあります。  長崎駅により近い福済寺は、福建省は漳州、泉州の人々によって建てられました。かつては国宝を有する建造物もあり文化財の宝庫でしたが、原爆により焼失。現在は、亀の甲羅の上にたつ大きな観音像が目を引きます。この観音像は平和のシンボルとして建てられたものです。  最後は聖福寺。2014年に大雄宝殿、天王殿、山門、鐘楼の4棟が国の重要文化財に指定され話題となりました。建物の配置は、黄檗宗の大本山「萬福寺」(京都)に倣ったもの。一見、地味な印象ですが、随所に黄檗宗の建築様式が見られ、日本の寺院との違いを感じられます。    それぞれの唐寺は、長崎の歴史に大きく関与しています。一つひとつ、たっぷり時間をかけてめぐるのがおすすめです。

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  • 第494号【春めく長崎市中に飛び交う中国語】

     3月に入ってから、ぐんぐん気温が上昇。土のなかで冬を過ごした虫たちも啓蟄(今年は3月5日)前には地上に顔を出しはじめたようです。黄砂や春霞のない晴天の日に長崎港を見渡す高台へ登れば、はやくも4月を思わせる陽気。長崎地方気象台は、先週(3/2)タンポポの開花を告げました。次はソメイヨシノの開花日が待たれるところです。気象台はこうした植物の開花や鳥・昆虫の初見、初鳴などの観測を通して刻々と変化する季節を折々に発表しています。これを「生物季節観測状況」というそうで、気象台のホームページで公開しています。その観測記録から、長崎ではそろそろウグイスの初鳴が聞こえる頃で、さらに、今月中旬にはツバメやモンシロチョウの姿も見られるようになることが分かります。  「生物季節観測状況」の対象となる植物は、基本的には気象官署構内に植えた標本を使い、動物は同構内およびその付近で観測が行われるそうです。長崎地方気象台は、長崎港を見渡す南山手の丘の中腹にあります。洋館や石畳の景観で知られるこの界隈には、大勢の観光客が訪れるグラバー園もあるのですが、ほとんどの方はグラバー園を楽しむと引き返すので、そのすぐ先にある長崎地方気象台あたりの通りは、人もまばらでたいへん静かです。  話が横道にそれますが、長崎地方気象台で思い出すのは、日系イギリス人作家のカズオ・イシグロ氏のことです。『日の名残り』という作品で、イギリス最高の文学賞「ブッカー賞」を受賞した作家です。長崎地方気象台は、前身である長崎海洋気象台の時代にイシグロ氏の父親が勤めていました。1960年、父親の仕事の関係で一家は渡英。イシグロ氏が5歳のときでした。のちに作家となり、日本でも名を知られるようになって久しいのですが、雑誌などのインタビュー記事を読む限り、幼少期を過ごした長崎での記憶はほとんどないようなのが、残念ではあります。イシグロ氏の小説はとても読み応えがあり、映画化されたり、日本でもドラマ化されるなどしていますので、興味のある方はご一読ください。  さて、あす3月10日は、七十二候(二十四節気を3つに分け、約5日ごとに気候に応じた名称を付けたもの)でいう「桃始笑」(ももはじめてさく)の日。「笑」は「咲く」ことを意味していて、桃の蕾がほころんで、笑顔もほころぶ、という感じでしょうか。観光客で賑わう眼鏡橋そばの桃の花も笑っていました。  眼鏡橋を背景に記念撮影をしている人たちから聞こえてくるのは、中国語です。この日長崎港に寄港していた国際クルーズ船「スカイシー・ゴールデン・エラ」の乗客でしょうか。思えば江戸時代初めの長崎では、貿易でやってきた中国人は市中に自由に雑居していたので、まちなかではごく普通に中国語が飛び交っていたはずです。出島の築造から半世紀後の1689年以降は、中国人は「唐人屋敷」というエリア内で暮らさなければならなかったとはいえ、出島のオランダ人とくらべれば、市中への出入りは比較的ゆるやかであったといわれています。  眼鏡橋界隈に飛び交う中国語に、江戸時代の風景が重なる眼鏡橋。時代はめぐるということでしょうか。

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  • 第493号【桃カステラ、寿桃、マーラカオ!】

     三寒四温。日によって大きく揺れる気温差にひとの体はとまどいがち。スズメやイソヒヨドリ、ムクドリなど、日差しのなかで遊ぶ中島川の鳥たちも、まだまだ体をふくらませて防寒体制。甲高くチィー、チィーとさえずっているのはメジロでしょうか。名前の由来となった目のまわりの白い輪と黄緑色のきれいな羽を生垣からのぞかせていました。ここ数年、住宅街でもよく見かけるようになったメジロ。冬場、庭の小枝にリンゴやミカンを刺していると、目ざとくやってくるかわいい小鳥です。メジロの鳴き声は、「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛(チョウベエ、チュウベエ、チョウチュウベエ)」と聞こえるといわれ、鳥好きの人は、その声を頼りに姿を探します。ただ、この長めの美しい鳴き声はもうちょっと温かい季節にならないと聞けないようです。  長崎のまちは、「長崎ランタンフェスティバル」が終わったばかり。期間中、厳しい寒さに見舞われる日も多かったのですが、今年も大勢の人々がランタンの下に集いました。中国ゆかりのさまざまな催しが行われるなか、孔子廟で連日開催された中国変面ショーは、一瞬で仮面が変わる妙技を間近で観られ、大盛況でした。  ランタンが片付けられ静かになった長崎のまちをズンズン歩けば、気持ちはすでに次の季節へ向かい、あちらこちらの店頭に出ている「桃カステラ」が気になります。  縁起物の長崎の郷土菓子、桃カステラ。南蛮貿易時代に伝えられたカステラの生地の上に、桃をかたどった砂糖細工がのったお菓子で、長崎では桃の節句や出産祝いの贈答に用いられます。桃は不老長寿の象徴、魔除けのフルーツとされ、中国では桃の形をした「寿桃(スートゥ)」というおまんじゅうが、いまも長寿のお祝いや結婚式などのおめでたい席に用いられるそうです。「寿桃」は、長崎では「桃まんじゅう」と呼ばれ、黒あんや白あんのおまんじゅうと並べて売っているお店もよく見かけます。中国の文化が色濃く残る長崎ならではの光景かもしれません。  中国ゆかりのお菓子といえば、「マーラカオ(馬拉糕)」があります。中国語の「馬拉」は、「マレーシア」を意味し、「糕」は、蒸しケーキのことだそうです。生地がふんわりしているのはカステラと同じですが、卵の風味が効いたカステラとちがい、こちらは、調味料に「しょうゆ」や「酢」を使ったり、またはちゃんぽん麺にも使う「かん水」を用いたりします。これらの調味料が、あの茶系の色合いとアジアらしい香りを生んでいるのです。   ほおばれば、どこか懐かしい風味と味わいがする「マーラカオ」。日本の食文化が、中国の影響を大きく受けた証のひとつかもしれません。

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  • 第492号【雪景色から一転、極彩色の長崎ランタンフェスティバルへ!】

     1月下旬、九州各地で記録的な寒波が訪れた日、大雪に見舞われた長崎市は、観測史上最高の17センチの積雪を記録。交通がマヒし、水道管も凍結するなど生活に影響がありました。被害に合われた方々には心からお見舞い申し上げます。慣れぬ雪に大人たちが右往左往する一方で、子どもたちは一面の雪景色に大喜び。雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりして歓声をあげる姿が見られました。  いつもなら観光客で賑わう眼鏡橋や出島界隈は、雪に埋もれて人の気配はなく、南蛮貿易時代、長崎の領主の居城があった高台から見渡せば、まちは白く静まりかえっていました。長崎が雪景色に包まれるたびに思い出すのは、江戸時代に川原慶賀が描いた『長崎港雪景』(ライデン国立民族学博物館所蔵)です。長崎港を囲む山々も出島も新地も雪に覆われ、シンとした空気まで伝わってくるような絵図です。きっと、このときも大雪だったと想像され、慶賀も子どものようにドキドキする気持ちを抑えながら静かな雪景色を描いたのではないでしょうか。  この冬いちばんの出来事と思えた大雪も、どこか遠い日のことのように思えるのは、いま長崎のまちを埋め尽くしているランタンのせいでしょうか。春の訪れを告げる極彩色のあたたかな灯りが、凍てついた気持ちを溶かすようです。  2月8日(月)からはじまった、「長崎ランタンフェスティバル」。国内外から100万人が訪れる長崎の冬の風物詩です。旧正月(春節)を祝うこのお祭りは、2月22日(元宵節)まで開催されます。長崎の中心市街地に、約1万5千個にも及ぶランタンや中国の故事にちなんだ多彩なオブジェが各所に設置されています。  物語やゆかりを知っていれば、なお一層楽しめるオブジェの中で、ぜひ見てほしいのが干支の巨大オブジェです(長崎新地中華街に隣接する湊公園の会場に設置)。今年は申年にちなんで「西遊記」がモチーフに。高さ10メートルもあり、孫悟空や三蔵法師、猪八戒、沙悟浄などが登場する楽しいオブジェです。  期間中、中国獅子舞、中国雑技、龍踊りなどの催しが行われたり、中国らしい雰囲気を満喫できる会場は全部で7カ所(長崎新地中華街、中央公園、唐人屋敷、興福寺、鍛冶市、浜んまち、孔子廟)。孔子廟では、なかなか見る機会のない中国伝統芸能の「中国変面ショー」が毎日公演されています。   ランタンの色は朱色が中心ですが、眼鏡橋がかかる中島川は黄色のランタン、長崎新地中華街そばを流れる銅座川は桃色のランタンと、それぞれの川でまったく違う雰囲気の灯りを楽しむことができます。灯りは夕方になると灯されますが、昼間青空を背景にしたランタンもきれいです。長崎のまち中にくまなく丁寧に施されたランタン装飾は、期間中、雨風や雪にさらされながらも、ほとんど乱れることがありません。いつもすみやかに設置や解体をして、この祭りを支える黒子さんたちに感謝したくなります。

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  • 第491号【冬の海の幸(寒ブリ、ナマコ、カキ)】

     「ブリ大根」がおいしい季節です。「寒ブリ」は脂が乗り、大根も寒さのおかげで甘みが増しています。食堂のお昼の日替わり定食で「ブリ大根」を食べながら、「やっぱり、長崎の魚や野菜って最高よね!」と一緒にいた知人に言うと、「いやいや、野菜はさておき、魚は北陸のほうがおいしいかも。それにね、ブリ大根といえば、富山県よ。富山湾沖で取れる寒ブリで作ると、すごくおいしいんだから」と、のたまう。知人はかつて富山県で暮らしたことがあり、北陸方面の歴史や食についても詳しい。聞けば、「ブリ大根」は富山県氷見市の代表的な郷土料理のひとつなのだそうです。  知人によると、氷見市の郷土料理には「氷見うどん」といって、「五島うどん」に似た細いタイプの乾麺もあるそうです。「氷見うどん」は、江戸時代に同じ北陸の「輪島そうめん」の製法が伝わり作られるようになったらしい。「氷見うどん」と「輪島そうめん」、そして「五島うどん」は、麺を手で縒りながら竹にかけていくという製造工程が同じだそうで、その昔、海道を通じて「五島うどん」の製法が輪島に伝えられたのではないかという説もあるそうです。  さて、件の「ブリ」ですが、ご存知のように出世魚。氷見では、「コズクラ」、「フクラギ」、「ガンド」、「ブリ」と成長に応じて呼び名が変わります。長崎では、「ヤズ」、「ハマチ」、「メジロ」、「ブリ」の順でしょうか。ほかにも地域によって呼び名がいろいろあるようです。また、長崎ではブリは養殖も盛んです。魚屋さんの話では、養殖ものは「ハマチ」、天然ものは「ブリ」と呼び分けているそうです。  寒ブリに限らず、この季節の魚介類は寒さに鍛えられ、ひときわおいしそうに見えます。たとえば、クロ(メジナ)もこの時期は「寒グロ」と呼ばれ、脂がのりおいしくなります。そして、ナマコ。荒れた外海の影響を受ける五島産のアカナマコはコリコリとした食感。波静かな大村湾のアオナマコは少し柔らかい歯ごたえで、アカナマコとは微妙に違います。ナマコは、新陳代謝を促進し、お肌にもいいといわれるコラーゲンやコンドロイチンをはじめ、ビタミンB群・Eや、カルシウム、亜鉛などの栄養成分がバランス良く含まれています。滋養強壮にもおすすめです。  また、有明海や大村湾、橘湾などでとれる養殖のカキもいまが旬で、それぞれの産地の道路沿いではカキ小屋が立ち並ぶ光景がみられます。カキは、ビタミンやミネラルが豊富。薬膳的には、体質を改善したり、免疫力を高める食材のひとつとされ、めまいや耳鳴り、不眠や空咳などにも効果があるといわれています。   食いしん坊の女ふたりが、この時期の魚介類の話で盛り上がった昼飯の時間。「ブリ大根」でお腹も心も満たされると、「長崎と北陸の魚、どちらもおいしいよね」ということで話はまとまり、笑顔で食堂を後にしたのでありました。

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  • 第490号【真冬に咲く花々(スイセン、ロウバイ)】

     温かく穏やかな天候に恵まれた長崎の年末年始。先週、寒の入りしてからは、真冬らしい冷え込みがもどりつつあります。来週21日は「大寒」で、一年でもっとも寒い時期に。多くの草花が冬眠中ですが、寒さに刺激されて開花する花もあります。そんな花を代表するスイセンが見頃を迎えたと聞いて、長崎市野母崎町へ出かけてきました。  長崎半島の南端に位置する野母崎町。長崎駅からバスで1時間ちょっとかかります。一千万本のスイセンが咲き誇る「水仙の里」(野母崎総合運動公園内)をめざして半島の西海岸沿いを走るバスからは、美しい海原と伊王島、高島、そして昨年、世界遺産になった軍艦島をのぞみ、その眺めだけでも得した気分になります。余談ですが、同海岸沿いは昨年、ティラノザウルス科の大型恐竜の化石が発見され注目を浴びました。古代の地層があらわになっているところがある長崎半島は、今後も何かと話題を集めそうです。  到着した「水仙の里」では、丘の斜面に群生するスイセンがいっせいに花開いていました。スイセンの種類は、ニホンズイセン(日本水仙)一種のみ。一重咲きの白い6枚の花びらの中央に、濃い黄色の花びら(副花冠)が付いています。その姿はラッパズイセンのような華やかさはないものの、清々しい香りとともに楚々とした美しさで、日本人好みの風情を漂わせています。  潮風にやさしく揺れるスイセンの向こう側に広がる海上には、ゴツゴツとした姿の軍艦島が見えます。聞こえてくるのは、潮騒の音と野鳥の鳴き声。丘の上で羽を休めていた野鳥は、寒風にさらされ、ぷっくりと体を膨らませていました。頭が銀灰色で翼に白斑があるので、オスのジョウビタキでしょうか。冬の里山でよく見られる野鳥です。  スイセンは潮風と相性がいいらしく、各地の海岸で群生しているのが見られるそうです。ここ「水仙の里」も、もとは野生のスイセンの群落が、地元の人に大切にされ続けたことで現在の大規模な群落につながったと聞きます。いまでは、見頃になる時期に合わせて、毎年「水仙まつり」が開催されています(今年は1月9日から1月31日まで)。   スイセンが咲く頃、ロウバイも開花します。長崎市内でロウバイといえば、松森神社(長崎市上西山町)がよく知られています。毎年1月中旬頃に開花し、さわやかで甘い香りを漂わせるのですが、この冬は年末には開花したようで、寒の入りにはすでに見頃を迎えていたようです。  松の森神社は、学問の神として知られる菅原道真公を祀っていて、受験生やその家族らしい人たちが次々に参拝に訪れていました。本殿脇に植えられた梅は、これから咲き誇るとばかりに、つぼみをたくさん付けていましたよ。受験生のみなさん、笑顔の春はもうすぐそこまで来ています。頑張って!   本年もみろくやの「ちゃんぽんコラム」をどうぞよろしくお願い申し上げます。

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  • 第489号【長崎版・冬至の七種】

     きのう12月22日(旧暦11月12日)は二十四節気のひとつ「冬至」。南瓜(かぼちゃ)や小豆粥を食べたり、柚子を浮かべたお風呂に入ったりして、季節の行事を楽しまれた方もいらっしゃることでしょう。「冬至」は、一年でいちばん昼間の時間が短い日。この日を境に、また日が長くなっていくことから「一陽来復(いちようらいふく)」とも称されます。暗いもの、衰えていたものが太陽の力で再び明るさを帯びてパワーが増し、良い方へ転じるという意味合いがあるそうです。  「冬至」の期間は、その15日後にやってくる「小寒」までで、寒気が本格的に厳しくなりはじめる頃です。今年は暖冬傾向にありますが、極端に気温が低くなる日もあり、体調をくずしやすい方、高齢の方などは、油断できません。  先日、料理教室の先生からこの時期に積極的に食べたい食材として、「冬至の七種(ななくさ)」を教えていただきました。いつの頃からか民間で伝えられてきたこの七種は、「南瓜(なんきん)」「人参(にんじん)」「蓮根(れんこん)」「金柑(きんかん)」「銀杏(ぎんなん)」「寒天(かんてん)」「饂飩(うんどん)」と、いずれも「ん」が二つ付く食材です。これには、「運」が開けるようにという願いが込められているそうで、旧年と新年にまたがる「冬至」の時節にふさわしいチョイスになっています。  「冬至の七種」のなかで長崎ゆかりのものは、ここでは「なんきん」と呼ばれる南瓜(かぼちゃ)です。天正年間に、ポルトガル人がカンボジアから長崎に伝えたのが日本での最初だといわれています。ちなみに「かぼちゃ」の名称は「カンボジア」が転じたものですが、ほかにも、「唐なす」や「ぼうぶら」と呼ぶ地域もあります。また、「寒天」も長崎ゆかりの食材です。1654年、隠元禅師が中国から長崎に渡ってきた際、もたらしたもののひとつといわれています。  ところで、「饂飩(うんどん)」ですが、これは「うどん」のこと。実は、同じ漢字で「わんたん」とも読みます。「わんたん」は、ご存知のように中国の点心料理のひとつで小麦粉を練って作った薄い生地に豚ひき肉を包んだもの。スープに入れたり、揚げたりしていただきます。  「わんたん」は、長崎ではすでに江戸時代に、唐人屋敷(現:長崎市館内町周辺)に居住した中国の人々が作っていたことから、「わんたん」が日本で最初に伝えられたのは長崎という説もあるようです。「わんたん」の具材となる豚肉は、薬膳では発熱時の無気力、から咳、便秘のときに食べると良いとされています。はからずも「わんたん」も「ん」が二つ。長崎の「冬至の七種」は「うんどん」ではなく「わんたん」の方がいいかもしれないと思いきや、名物「ちゃんぽん」だって「ん」が二つ付く縁起のいい食べ物なのです!野菜たっぷりに豚肉や魚介類も加わって、真冬の体を芯から温めてくれます。  長崎の「冬至の七種」は、「うんどん」に代えて、「わんたん」か「ちゃんぽん」ということにいたしまして、まずは、きょうのランチか晩ごはんは、明日の運が開けることを願って、ぜひ、「ちゃんぽん」をお召し上がりくださいませ。  本年もみろくやの「ちゃんぽんコラム」を読んでいただき、ありがとうございました。どうぞ、心温まるクリスマス、そして新年をお迎えください。  ◎参考にした本/「ながさきことはじめ」(長崎文献社)

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