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  • 第464号【南蛮貿易時代の豪商・末次興善】

     長崎市中心部に、興善町(こうぜんまち)という南蛮貿易時代に生まれたまちがあります。国道34号線沿いにある長崎県庁と長崎市役所のちょうど真ん中あたりで、長崎市立図書館(長崎市興善町1-1)のある一帯です。  平成のいまにつながる長崎の町建ては、400年以上も前の元亀2年(1571)、ポルトガルとの貿易を行うために、港に突き出た岬に6つの町(島原町・大村町・外浦町・平戸町・横瀬浦町・文知町)を築いたのがはじまりです。全国各地の商人やキリシタンが集まり賑わいを増すなか、町域はしだいに拡大し、新しいまちが次々に生まれました。興善町はその初期の頃に開かれたまちのひとつです。  それぞれの町名は、住民の出身地や職業にちなんだもの(材木町、紺屋町、酒屋町など)が多いなか、興善町は当時としてはめずらしく人名ゆかりのもので、私財を投じてこのまちを開いた「末次 興善久四郎」(以下「興善」)の名が付けられています。  興善は博多商人でした。その父は、周防(山口県)の大内氏の旗下に属し、大内氏が明との貿易の本拠地とした博多に住んで貿易がらみの仕事をしていたようです。当時は群雄割拠の戦国時代。博多には俗にいう「武士崩れ」と呼ばれる商人が大勢いたそうです。大内氏もまた重臣の反乱をきっかけに滅び、興善の父もいわば失業の身、「武士崩れ」となります。その頃の興善はすでに父と同じく明との貿易の仕事に従事。商人としての活動するなか、縁あってキリスト教の宣教師たちと交流を持つようになります。  争いの絶えない世に生きる人に、キリスト教の教えは心に響くものがあったのでしょう。興善はたいへん熱心なキリシタンとなり、「コスメ」という洗礼名も授かりました。日本側のイエズス会の会計や雑務係をしていたともいわれ、ルイス・デ・アルメイダ(1567年に長崎で初めてキリスト教を布教した宣教師)の各地での布教活動に同行したこともあったようです。ルイス・フロイスの『日本史』にも興善が熱心な信徒であったことがわかるエピソードが記されています。  興善は布教活動に同行中の堺で、宣教師から長崎開港の話を聞いて、息子(平蔵)や使用人たちを連れて長崎にやって来たといわれています。ところで、当時、長崎にやって来た各地の商人たちは、みなキリシタンだったといわれています。キリスト教の布教と貿易を同時に行おうとするポルトガル側に対して、日本の商人たちは、まずキリシタンになることがスムーズな交渉の第一歩だったのです。ですから、興善のように慈悲、慈愛といったキリスト教の教えに導かれた者だけでなく、商売のために信者となった者もいたようです。  長崎での興善は、ポルトガルとの貿易で莫大な富を得、町建てにも関わり、慈善事業にも多額の寄付をするなどしました。その後、キリスト教の禁教令が敷かれ、取り締まりが厳しくなるなか、興善がどのように難を逃れたのか、その詳細については残念ながら不明です。一説には、かつて共に長崎入りした息子より長生きしたともいわれ、その墓はなぜか博多の妙楽寺にあります。ちなみに息子は、キリスト教を棄て長崎代官となった「初代・末次平蔵」です。  激動の時代をいくつもくぐり抜けるうちに失われる町名もあるなかで、いまもしっかり残る「興善町」。そのルーツを知るにつけ、キリスト教がらみゆえに繁栄の形跡をほとんど消されてしまった南蛮貿易時代の長崎が垣間見えるようで、面白い。「末次興善」は当時を知る重要人物であることは間違いないようです。           ◎      参考にしたもの/長崎史談会11月例会『長崎の豪商・末次興善』(松澤君代)、『長崎文化考~其の一~』(越中哲也)

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  • 第463号【狛犬いろいろ~踊る狛犬やグラバー家の唐獅子~】

     季節の深まりを感じるこの頃。長崎は穏やかな天候に恵まれて過ごしやすい日々が続いています。先日、浦上のカトリックの教会前を歩いていたら、千歳飴らしき長方形の袋を手にした園児の行列に出会いました。教会で七五三のお祝いをしてきたばかりのよう。ステンドグラスの光に包まれて、聖歌を歌いながら祝う七五三。これも長崎らしい風景のひとつかもしれません。  さて、今回は狛犬の話です。神社の拝殿前や参道などで、悪いものが入ってこないように見張っている狛犬。少々マニアックかもしれませんが、狛犬めぐりを楽しんでいる方もけっこういらっしゃるのではないでしょうか。また、特に関心がなくても変わった狛犬に出会うと、「あらっ?」なんて心を動かされたりするものです。そこで今回は、ちょっと目を引く長崎の狛犬をご紹介したいと思います。  「長崎くんち」で知られる諏訪神社(長崎市上西山町)は、狛犬の宝庫だと紹介したことがあります(当コラム384号)。その諏訪神社から背後の山を2kmほど登った先にある金比羅神社の境内の一角に、いわゆる「立ち狛犬・逆立ち狛犬」といわれるタイプが置かれています。諏訪神社にも同じタイプがありますが、金比羅神社のものは、まるで踊っているかのような躍動感があります。山頂近くの森林に囲まれた静かな境内だけに、「踊る狛犬」の姿は、より印象深く映るのかもしれません。  唐寺・崇福寺の近くにある八坂神社(長崎市鍛冶屋町)にも、個性的な狛犬が数体。そのなかにクリクリの巻き毛でぬいぐるみのような体型をした狛犬がいます。表情をよく見ると、けっこういかめしい。だけど、かわいい。洋風と唐風と和風が混じったような姿です。  長崎港を見渡す南山手の丘にたつ旧グラバー住宅(1863年築造)。現存する日本最古の木造洋風建築です。家屋の一角は温室になっていて、その入り口付近に狛犬のような石像が置かれています。どこか生々しさのあるしなやかな身体つきで、崇福寺の山門前に鎮座する唐獅子と系統的には似ています。おそらく日本の石工さんによるものではなく、中国ゆかりと思われます。  そもそも狛犬のルーツは古代オリエントの時代にまでさかのぼり、メソポタミア文明の初期の王朝の遺跡からも獅子をデザインした調度品が見つかっているそうです。その意匠モデルは獅子(ライオン)だといわれ、強さと威厳を感じるその姿は、洋の東西を問わず人々を魅了。東へはシルクロードを経て東南アジア諸国に伝わり、中国では唐獅子、日本では狛犬として定着します。西欧では、建築物の装飾や王家・氏族の紋章などに取り入れられています。  スコットランド出身の商人、グラバーさんの唐獅子は、この温室のある邸宅にずっと置かれていたそうで、彼が創始に携わったビール会社の麒麟ラベルのモデルになったというエピソードで知られています。獅子の意匠は、スコットランドの国章にもデザインされていますし、建築物の装飾にもふんだんに使われ、グラバーさんにとって故郷の風景のひとつだったと思われます。幕末に日本にやってきて、激動の時代を生きたグラバーさん。温室でつかの間草花を愛でるとき、唐獅子を通して遠い故郷へ思いを馳せることがあったかもしれません。           ◎参考にしたもの/『狛犬事典』(上杉千郷)、『日本全国獅子・狛犬ものがたり』(上杉千郷)

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  • 第462号【幕末~明治を生きた馬田兄弟(本木・松田・柴田)】

     秋のイワシは脂がのって、とてもおいしい。煮付けやお刺身などでよく食卓にあがるのですが、そういう話を関東の友人にするとちょっと驚かれます。最近では漁獲量が減り、昔のように買い求めやすい魚ではなくなりつつあると言うのです。まあ、確かにそんな気配もありますが、長崎は沿岸の漁場で比較的豊富にとれるからでしょうか、まだ手に入れやすい価格です。イワシに限らず新鮮な旬の魚がいつでも気軽に手に入る長崎。本当にありがたいことです。  ある日、小イワシの煮付けを食べているとき、ふと、明治時代に日本で初めて長崎で試作された缶詰の中身がイワシだったという話を思い出しました。それはオイルサーディンだったそうですが、製造者は松田雅典(1832-1895)という長崎の人で、缶詰製造の始祖と言われています。  当時、長崎の外国語学校「広運館」の司長だった松田雅典は、いまから145年前の明治2年(1869)フランンス人教師レオン・ジュリーから缶詰の製法を学び、県知事に缶詰試験所の設置を願い出て実現させます。缶詰試験所は、現在の日本銀行長崎支店(長崎市炉粕町/長崎県立長崎図書館そば)の場所にあり、『日本最初の缶詰製造の地』の碑が建っています。ちなみに、食べ物を密封し、加熱・殺菌処理して長期保存を可能にするという缶詰の原理は、いまから約200年前のフランスで生まれたもの。ナポレオンが兵士の食料を確保するために、食べ物の長期保存の方法を募集したのがきっかけだそうです。  さて松田は、のちに缶詰試験場の建物を払い下げてもらい、松田缶詰工場を開業。清国へ輸出したり、ロシアの東洋艦隊へ納品するなどしたそうですが、開業から約10年後には病気で亡くなっています。激動の幕末~明治を生きるなか、缶詰を手掛けた松田には先見の明があったと言えますが、一般に普及するようになったのは亡くなった後の大正時代に入ってからのことでした。  ところで松田は、長崎会所の吟味役の馬田家(分家)の生まれで、のちに金屋町乙名の松田家の養子になっています。実の兄は、近代活字印刷の始祖として知られる本木昌造(1824-1875)です。本木も馬田家に生まれましたが、阿蘭陀通詞を代々務める本木家を相続しました。ちなみに馬田家の本家も阿蘭陀通詞の家柄で、本木は本家を通じてオランダ語を学べる環境に育つなか、その才能を見込まれて本木家へ入ったと思われます。印刷業に関わる前の阿蘭陀通詞時代は、ロシアのプチャーチンの通訳を務め、ペリー来航時には下田に派遣されるなどの活躍をしています。  本木昌造、松田雅典兄弟には、柴田昌吉(1841-1901)という語学に精通した弟もいました。柴田もまた馬田家に生まれ、のちに医家の柴田家に入ります。英語伝習所の教師を経て、維新後は外務省で通訳を務めました。退官後、〝柴田辞書〟と呼ばれる英語辞書を出し、日本の英語教育に大きな影響を与えています。  偉業を成した3人は、名字が違うこともあり、馬田家出身の兄弟であることはあまり知られていません。彼らを通して思うのは、昔は養子縁組で個々の才能を活かすしくみがあったということ。また、近代化へと突き進む時代に生まれるべくして生まれた兄弟であったという気がしてなりません。           ◎      参考にしたもの/日本缶詰びん詰レトルト食品協会HP「かんづめハンドブック」、「長崎事典~歴史編~」(長崎文献社)、「まちなかガイドブックⅠ~新大工・中通り・浜ん町編~」(長崎史談会・長崎市観光政策課)

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  • 第461号【「すぶくれ」は、「白パン」か?】

     小腹が空いて買い求めた「すぶくれ」。「すぶくれ」とは、餡の入っていない「酒饅頭」のことで、小麦粉に甘酒を入れ、少しの砂糖と塩を混ぜて練ったタネを、こぶし大に丸めて蒸しあげたものです。たんに「酒饅頭」とか「蒸し饅頭」、「蒸しパン」などと呼ばれたりもします。饅頭界における名称というのは、その饅頭が庶民的であればあるほど、深い意味付けもなくいろいろな呼び方をされるようです。  「すぶくれ」は、ほのかに麹の匂いがするやさしい甘さで、どこか懐かしいおいしさです。ちなみに現在では甘酒の代わりに、重曹やイースト菌、ベーキングパウダーなどを使って膨らませたものも多いよう。それぞれ微妙に風味が変わります。  長崎県下各地の地産地消をうたう店などに行くと、地元の人が手作りした「すぶくれ」を見かけることがあります。他の地域のことはわかりませんが、少なくとも長崎県内では、餡なしの饅頭の存在は、昔ながらの味のひとつとして食べ継がれているのです。  ところで先日、長崎の歴史に詳しい先生から、興味深い話をうかがいました。ポルトガル人が伝えた「南蛮文化」と、出島を通じてオランダ人が伝えた「紅毛文化」の違いについてです。大雑把な言い方をすれば、「南蛮文化」は、市中に住んでいたポルトガル人らが、日本の庶民にじかに伝えた生活文化。「紅毛文化」は主に医療や天文学につながるサイエンスが中心で、その情報は将軍や大名家、学者など限られた人々に伝えられたものであるということでした。  長崎に南蛮文化が花開いたのは、南蛮貿易港として栄えた時代。長崎開港(1570年)後、ポルトガル船に乗ってやってきたキリスト教の宣教師や商人たちは、60数年間、長崎市中に散宿していました。そうするなかで、市井の人々に彼らの文化がじかに伝えられたのでした。   「パン」「ビスケット」「カステラ」「コンペイトウ」などの食べ物はその製法とともに名称も伝えられ、「ボタン」「メリヤス」「カッパ」「シャボン」などの多くのポルトガル語もこの頃に伝わりました。これら「食べ物」や「言葉」で「南蛮文化」がいまに残ったのは、やはり、その文化が日本人の生活に馴染み、活かされたからにほかありません。  当時、キリスト教の教会が建ち並び、どこか異国の風景をなした長崎の街角では、パンを焼く匂いが漂っていたと伝えられています。このパンは、「カステラ」と区別して、「白パン」とも呼ばれていたそうです。   ここから、再び冒頭の「すぶくれ」の話にもどるのですが、当時、長崎市中に住んでいたのはポルトガル人だけではありません。日本と貿易を行う中国人も自由に住み、日本の文化と混じり合っていました。それで、前述の街角に漂っていたパンを「焼く」匂いは、実は小麦粉に甘酒を練り込んだタネを「蒸す」匂いではなかったのかと想像するのです。というのも、「すぶくれ」は、中国の小麦粉料理、「包子(パオズ)」や「花巻(ホワジュアン)」などの味にもよく似ていて、長崎人と中国人の歴史的な深い関わりを思えば、ありえない話ではないような気もするのです…。皆さんは、どう思いますか?

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  • 第460号【秋うらら。聖福寺で会いましょう】

     きょうは「長崎くんち」の中日。踊り町の演し物がシャギリや太鼓、ドラの音を響かせながらまちなかを練り歩き、大勢の見物客で賑わっています。今年は五島町が「龍踊り」を奉納していますが、二体の大きな龍が秋の日差しを浴びながら空中に舞う姿はとても感動的。「長崎くんち」は明日までです。間に合う方は、ぜひ、お出かけください。  祭りや催しが続くこのシーズン。先月27日には、「長崎孔子廟」(長崎市大浦町)で孔子さまの生誕を祝う「孔子祭」が行われました。古式にのっとった儀式は、祭具も参加する人々も中国絵巻から飛び出してきたかのような華やかさ。太極拳、龍踊り、中国獅子舞なども行われ拍手喝采を浴びるなか、観光客のひとりが、「ホントに長崎ならでは、だね」と言っていたのが印象的でした。  中国色に彩られる長崎の秋。賑やかな催しが続くなかで、先月18日には中国にゆかりの深い「聖福寺」(しょうふくじ/長崎市玉園町)の「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」、「天王殿(てんのうでん)」、「鐘楼(しょうろう)」、「山門(さんもん)」の4棟が国の重要文化財に指定されるという、うれしいニュースもありました。  長崎駅前から望む山の麓にある聖福寺は、黄檗宗のお寺です。創建者は鉄心(てっしん)という長崎生まれの僧侶です。その父は陳朴純という中国の人、母は長崎の西村家の人です。鉄心は、隠元(1654年渡来)に接したことがきっかけで僧侶になること決意。隠元の弟子である木庵に師事し、長崎の福済寺、そして、隠元、木庵が初代、二代の住職をつとめた京都にある本山・黄檗山万福寺で修行を積みました。 その後、名僧として親しまれるようになった鉄心は、ときの長崎奉行牛込忠左衛門らの強い後ろ盾と、鉄心の母の実家である唐通事・西村家から主な資金を得て、「聖福寺」を創建(1677年)。その建築様式は本山・万福寺を大いに模して造ったといわれています。  重要文化財に指定された「山門」を見上げると、正面に「聖福禅寺」という扁額がかかっています。この文字は、隠元が81才のとき書いたものと伝えられています。「山門」をくぐると、木陰に覆われた古びた石畳。幕末、いろは丸事件の賠償交渉でこの寺を訪れた坂本龍馬もまた、同じ石を踏みしめたと思うと何だかドキドキします。  苔むした参道の石段を登れば、正面に「天王殿」。その中に鎮座する布袋さまが年季の入った微笑みで迎えてくれます。そして境内奥に、「大雄宝殿」(1697年建築)。中央の半扉に施された浮き彫りの桃が目を引きます。土間や天井は、明らかに日本の寺院とは違う様式。また柿色をした瓦も特徴的。これは肥前・武雄で製造されたものとか。建物の雰囲気、配置など、長崎の唐寺のひとつ、崇福寺ともまた違う趣きです。   ひもとくほどにからみあう濃厚なつながりを持つ長崎と中国。そのいったんを秘めた「聖福寺」の境内に佇めば、めくるめく歴史の延長線上に自分らがいることの不思議を感じるはず。この秋、「聖福寺」で思いを馳せてみませんか。

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  • 第459号【山川河内の言い伝え~念仏講まんじゅう~】

     風に、日差しに、秋の気配がしだいに濃くなってきました。とはいえ、局地的に大量の雨に見舞われる地域もあるなど、天候不順が続いています。ちなみに9月は防災月間。各地で関連催しも行われるなどいつも以上に防災への関心が高まっています。そこで今回は、江戸時代の災害体験を150年以上に渡って継承している「山川河内自治会」(長崎市太田尾町)の「念仏講まんじゅう」をご紹介します。  「山川河内」は「さんぜんごうち」と読みます。「山」と「川」、そして川の流れに沿って平地の開けたところを意味する「河内」という文字が並ぶ地名は、緑深い谷あいにあるこの地域の地形をそのまま言いあらわしたもの。古い地名だそうです。  長崎駅から車で約35分。路面電車が走る市街地から「山川河内」まで、いくつかの小さな山を越えて行きます。ヘアピンカーブを下りながら斜面地に見えてくる小さな集落が「山川河内」です。現在30数世帯が暮らすこの地区は、三方を山に囲まれ、東南に下った向こう側(太田尾地区)の先には橘湾天草灘が広がっています。古くからの農村で、車道がない時代は農作物の行商のために長崎市街地まで片道約3時間かけて往来していたそうです。  「山川河内」地区の中心を、いくつかの支流をもつ川が流れています。地元の人の話によると、雨量が多くなると自然発生の出水があちらこちらに見られるとのこと。日本各地の山間の地域がみなそうであるように、ここもまた豊かな緑の恩恵を受ける一方で、常に雨への警戒を忘れてはならないところなのでした。  いまから150年以上も昔のこと。1860年(万延元)4月9日(旧暦)、長崎地方は大雨による大水害におそわれました。このとき「山川河内」でも土砂災害が起き33人もの犠牲者が出ました。家屋は8軒、牛や馬などの家畜は13頭流され、地域全体が壊滅的な被害を受けたといいます。この災害が地元の人々に与えたダメージはたいへん深く、以後、亡くなった方の供養と災害を忘れないために、毎月14日に「念仏講まんじゅう」を地区の全世帯に配るという行事が続けられるようになりました。  この行事を通じて、災害の伝承と同時に、「やましお(山崩れ)の前には異臭がある」などの言い伝えも各家々でごく自然に受け継がれてきたといいます。1982年(昭和57)7月23日の「長崎大水害」のときには、この地区でも大きな土砂災害が起きましたが、日頃の災害に対する意識の高さからくる迅速な自主避難によって、一人の犠牲者も出なかったそうです。  「念仏講まんじゅう」は、年に一度ではなく、月に一度の行事。長い時を経るなかでは、存続があやぶまれるときがあったことは、想像に難く在りません。それでも続いたのは、「先祖たちが続けてきたことを大事にしたい」、「山川河内は、人と人との絆が強い」、そういうことが理由かもしれないと地元の方が話してくれました。  「念仏講まんじゅう」の日は、150年前の土砂災害でもっとも大きな打撃を受けた「脱底川(ぬげそこがわ)」と呼ばれる川の近くに祀られている「馬頭観音」にまんじゅうを備えて念仏を唱え、その後、各世帯へ配られます。  玄関先でお年寄りがまんじゅうを両手で受け取りながら、頭を下げていた姿が印象的でした。亡くなった方への供養の行事が、災害を忘れないこと、地域の絆を育むことにつながった「山川河内」。災害の記憶を継承するための大切なヒントがこの地にあるようです。   ◎参考にした本や資料/『長崎市日吉方言集』(坂本進)、『災害伝承「念仏講まんじゅう」調査報告書』(長崎大学 高橋和雄・NPO法人砂防広報センター) ◎取材協力/山川河内自治会

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  • 第458号【長崎くんちや中秋節のこと】

     長崎の秋の大祭、「長崎くんち」を一カ月後に控え、今年の踊町(八幡町、麹屋町、銀屋町、西濵町、興善町、万才町、五嶋町)は、10月7、8、9日の本番に向け日々の稽古に余念がありません。夕方頃長崎の中心市街地にいると、踊町の人々が神社や公園などの稽古場へ向かって練り歩いている姿をよく目にします。総仕上げも近いこの時期、諏訪神社では本番さながらのお稽古も行われていました。龍踊を奉納する五嶋町は、従来の青龍と、この夏完成したばかりの新しい龍が迫力あふれる演技を見せ、見物客たちの拍手喝采を浴びていました。  この日の稽古では、外国人の姿が目立ちました。朝から長崎港に客船「ダイヤモンド・プリンセス」(116,000トン)が入港していて、乗客の一部が見物に来ていたようです。彼らは、五嶋町の子供達がドラやラッパで奏でる龍踊りの音色にも興味を示していました。  9月も2週目に入り、お天気もようやく秋らしい晴れ間が続くようになりました。本格的な祭りやイベントの季節の到来に、週末は予定がいっぱいという方も多いことでしょう。長崎新地中華街では昨日まで「中秋節」(9/5~9/9)の催しが行われていました。「中秋節」とは、旧暦8月15日の満月をはさむ期間をいい、月を愛でて収穫を祝う行事です。中国ではとくに一家団欒の行事としてとらえられ、家族で手作りの月餅(げっぺい)を食べる風習があるそうです。日本ではいわゆる「中秋の名月」を見上げながらお団子を食べたりしますが、中国由来の風習であることは言うまでもありません。  「月餅」は、木の実やあずきココナッツなどで作った餡に、松の実、クルミ、ナツメ、レーズン、ナッツ、クリなどの実が入った栄養価の高いお菓子です。今回、月餅を作ってみようと思いましたが、成形のときに使う模様が彫られた木型が手に入らず、断念。以前、長崎の古道具屋さんで見かけたことがあったのですが…。香港などでは手に入れやすいそうです。  目にもあたたかな黄色のランタンが頭上を埋め尽くし、アットホームな雰囲気が漂う「中秋節」。期間中、長崎新地中華街では龍踊りや中国獅子舞なども登場し、来場者を楽しませてくれます。会場にいると中国語や韓国語など、あちらこちらでアジアの言葉が飛び交い、「ああ、長崎らしいな」とあらためて感じたりします。冬場に開催する「長崎ランタンフェスティバル」ももちろん素敵ですが、「中秋節」の方が小規模な分、より親しみが感じられるという人もいます。   家族や友人たちと秋の夜長のひとときを楽しめる「中秋節」。長崎の秋のもうひとつの祭典として、今後さらに注目を浴びそうです。

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  • 第457号【夏におすすめの冬瓜のスープ】

     大雨による河川の氾濫や土砂災害が起き、各地で心配が続いています。被害にあわれた方々には心からお見舞い申し上げます。  全国的に天候不順が続いたこの夏。長崎も雨や曇天の日が多く、まぶしい青空が広がる日がなかなかありませんでした。お盆前から秋めいた風が吹き抜けることもあり、「今年は、夏は無かったね」なんて言う人も。ただ、梅雨のような蒸し暑さが続いたせいもあって、8月も終わろうとしているこの時期、ちょっとバテ気味という人も多いようです。  そんな体におすすめの食材が、とうがん(冬瓜)です。夏の薬膳料理にも使われる食材のひとつで、体の中の余分な水分を排出させるはたらきがあり、むくみを改善します。さらに、のどの渇きを癒したり、熱中症を予防するはたらきもあるとされています。  とうがんは長崎では、「とうが」と呼ばれていて、お盆の前あたりから店頭で切り売りされているのを見かけるようになります。旬の野菜だということもありますが、長崎には8月15日に精霊流しを終えた翌日、精進落ちとして鶏肉と冬瓜を炊いたスープをいただく風習があるのです。それは、夏の疲れがでる時期にも重なり、本当に利にかなった風習なのでありました。   熱帯アジア原産のとうがんは、冬まで保存がきくことからその名がついたといわれていて、平安時代にはすでに食べられていたそうです。味も香りも淡白なので、出汁を十分に吸わせて炊くとおいしい。鶏肉との相性が良く、中国には中央の種の部分をくりぬいて鶏のスープを詰めて蒸した定番料理があります。長崎の「鶏肉と冬瓜のスープ」は、もしかしたら中国ゆかりの料理なのかもしれません。  「鶏肉と冬瓜のスープ」は材料も作り方もとてもシンプルです。角切りにした冬瓜、食べやすい大きさに切った鶏肉、キクラゲを水から煮て、具材が煮立ったら、淡口しょうしゅやコショウなどで調味し、刻んだ小ネギをチラシして出来上がりです。炊いてる途中、こまめにアクをとるのが、おいしいスープのコツです。炊いた冬瓜は口当たりもトロリとやさしく、冷やしてもおいしくいただけます。  具材のひとつ、キクラゲは「ちゃんぽん」にもかかせない食材です。豊富な食物繊維と鉄分で、貧血の改善にも役立つなど女性にうれしいはたらきがあります。鶏肉は、胃腸が弱って食欲や気力が無いときにおすすめの食材です。  「鶏肉と冬瓜のスープ」にもっとボリュームがほしければ、緑豆春雨を加えるといいでしょう。原料の緑豆は、体にこもった熱をとり、老廃物の排出を助けるはたらきがあります。   ひとの体に良い作用をもたらすといわれる旬の食材。今夜あたり、「冬瓜と鶏肉のスープ」でお試しになってみませんか。体がホッとしますよ。

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  • 第456号【思い出の昭和30年代】

     お盆休みで帰省して家族や友人たちと和やかなひとときをおくっている方も多いことでしょう。港や市街地を望む山の斜面にお墓が連なる長崎。夕方近くになるとお墓に一家が揃い、オトビヤ、ヤビヤなどと呼ばれる小型の花火を上げる光景が見られます。  そして、あさって15日は伝統行事の「精霊流し」が行われ、長崎の夜は爆竹の音と煙、そして大勢の人々の熱気に包まれます。小さなまちなので、帰省中の友人、知人と久しぶりに顔を合わせたりするという楽しみもあります。お盆休みは、故人を偲んだり、懐かしい人と出会ったりして、思い出にひたることも多々あります。半世紀前をふりかえってみましょう。  いまからちょうど50年前の昭和39年(1964)は、東京オリンピック開催の年でした。「東洋の魔女」と呼ばれた日本の女子バレーボールチームとソ連との決勝を、モノクロのテレビで観戦したことを憶えている方もいらっしゃるでしょう。ちなみにカラーテレビが一般に普及したのは1960年代後半に入ってから。オリンピック当時は、カラーで放送する番組はとても少なかったそうです。  東京オリンピック開催の9日前には東海道新幹線が営業を開始し、新幹線「ひかり」が東京~新大阪間を4時間で走り抜けました。この「夢の超特急」開通について、現在70代のある男性は、「当時は東京~大阪間を日帰りできることに驚いたけど、まさか、それ以上に速くなるとは思いもしなかった」と言います。現在、東京~大阪間は「のぞみ」で2時間35分です。  高度経済成長期の真っただ中にあった昭和39年は、「みろく屋」が創業した年でもあります。日本中が未来に向かって力強く突き進むなか、長崎もまた観光都市、造船のまちとして活気にあふれていました。一方で、その時代(昭和30年代)は、かすかに戦後復興の空気も残っていたそうです。  昭和20年8月9日の原爆で大きな被害を受けた長崎市。戦後復興対策のひとつとして、観光産業の活性化にも力をそそぎ、昭和25年には「日本観光地百選」で1位に選ばれました。原爆で全焼した長崎県庁は昭和28年に新装され、市内の観光スポットも次第に整えられていきました。昭和30年代に入ると、長崎県立図書館や長崎市公会堂など、市民が集い文化を育む施設も次々に建てられました。そして観光都市長崎は、戦前をしのぐ数の観光客が訪れるようになったといいます。  昭和30年代に発行された長崎の絵はがきを見ると、「浦上天主堂」、「グラバー園」、「眼鏡橋」、「オランダ坂」など、当然ながらいまと同じ観光スポットが描かれていますが、いまよりも情緒があり、懐かしさが感じられます。意外だったのは、現在、10数棟の建物が復元され、大勢の観光客が往時の様子を楽しんでいる「出島」が、昭和30年代は、敷地内外の整備が少しずつ進められている段階で、いまほど観光客に注目されていなかったようだということです。   激動の時代に翻弄されながらも、懸命にくぐりぬけてきた長崎の数々の観光スポット。あらためて見直せば、日本の近世、近代、そして現代の姿があざやかによみがえります。   ◎参考にした本/『日録20世紀~1964~』(講談社)、『長崎市史年表』(長崎市)、『長崎への招待』第2版(長崎文献社)

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  • 第455号【夏、到来!涼を求めて轟の滝ほか】

     梅雨雲におおわれ、雨に煙る長崎の風景は先週まで。いよいよ本格的な夏の到来です。さっそく涼を求めて多良岳(983m)にある轟峡(とどろききょう)へ行ってきました。多良岳は、佐賀県と長崎県の県境に連なる多良山系の中心に位置する山。自然が豊かでモミの原生林やツクシシャクナゲの群落、天然記念物のヤマネ(体長約8cmのヤマネ科の哺乳類)など希少な動植物が生息しています。  大小30余りの滝を有する轟峡は、水量豊富な清流の地としても知られ、『日本名水百選』、『日本水源の森林百選』にも認定されています。もっとも代表的な滝は高さ12メートルの「轟の滝」で、毎年夏になると多くの観光客が訪れます。清流の水しぶきと豊かな緑のおかげで、空気は冷んやりとしておいしい。平地ではすでに咲き終えたアジサイが、ちょうど満開を迎えたところでありました。  シーズンのみ開業する滝近くにある食堂では、名物のそうめん流しのほか、地元、高来町で栽培・製造される「高来そば」も最近、出されるようになったようです。「高来そば」は、香り高くコシがあるそばで、この地域の農家で食べ継がれてきたもの。そばのゆで汁とともに食べるのが昔ながらの食べ方だそうです。訪れた日は、お店は休み。そばは、次の楽しみにして轟峡をあとにしました。  観光スポットが集中する長崎市街地で涼を求めるなら、眼鏡橋がかかる中島川がいいかもしれません。清流とはいえませんが、川の水の流れは見ているだけでも涼しげで気が休まります。ところで先日、眼鏡橋を渡っていたら、近くのビルの屋上にとまっていたトンビがスーッと急降下。川面近くに落ちていたお菓子のかけらをつかんで再び舞い上がって行きました。めざといトンビに妙に感心しながら、ふと思い出したのが、「トンビがタカを生む」ということわざ。広辞苑には「平凡な親が、すぐれた子供を生むことのたとえ」とあります。  昔の人が思うほど、トンビはさえない鳥ではないと思うのですが、「トンビがタカを生む」と同じような意味で、長崎地方で使うのが、「唐墨親子(からすみおやこ)」という言葉です。三大珍味のひとつとされる長崎名物の「唐墨」は、ボラという魚の卵巣を塩漬けにして干したものです。親のボラより、子(卵巣)の方が価値が高くなるからだそうです。   江戸時代、隠元禅師が中国・福建から長崎にやってきたときに伝えたとされる「西瓜(すいか)」にも同じような意味で、「西瓜の蔓に瓜がなる」ということわざがあります。瓜の方が高価という意味なのでしょうが、西瓜は近年、薬効が見直されている食材のひとつなので、このことわざは使いづらくなるかもしれません。薬膳でいうと西瓜は、体にたまった熱、暑さを取り除く作用のある寒性の食材で、多汗、目の充血、喉の渇きや傷みなどに効果があるとされています。とにかく夏におすすめの西瓜ですが、だからと言って、食べ過ぎにはご注意を。体を冷やし過ぎて、お腹をこわしたりしますから。

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  • 第454号【福祉事業の先駆け、ミゼリコルディアの組】

     7月に入り中島川にかかる桃渓橋(ももたにばし)の下では、小規模ながら群生したオレンジ色のカンナが満開を迎えました。カンナの原産地は、中南米や熱帯アジア。赤、黄、オレンジなどの鮮やかなカラーと、フリルのようなおおぶりの花びらがいかにも南国出身らしいエキゾチックな表情です。コロンブスがアメリカ大陸から持ち帰った植物のひとつともいわれていて、日本へは江戸時代初期に渡来したそうです。最初に入って来た地が長崎だったのかは不明。大陸から琉球を経て薩摩へ渡ったルートなども考えられます。 カンナの話から打って変って、いまから400年以上も前の戦国時代、長崎を舞台に実践された社会福祉事業の話です。南蛮貿易港のまちであり、キリシタンのまちでもあった当時の長崎。周囲に石畳が敷かれた教会がいくつも建ち並び、教会の祭日ともなると司祭やキリシタンによる祝いの行列が見られました。外国人が自由に歩いていた街角では、白パンを焼く匂いが漂っていたと伝えられています。そうしたまちの様子は「小ローマ」と呼ばれるほどでありました。 一方で、ポルトガル船が入港するたびに、日本各地から商人やキリシタンをはじめ、さまざまな人々が押し寄せるようにやって来た長崎は、浮浪者なども増え治安が悪化したといいます。そうしたなか、1583年(天正11)年に創設されたのが「ミゼリコルディアの組」という福祉団体でした。 「ミゼリコルディア」とは、ポルトガル語で「慈悲」という意味です。創設者はキリシタンで、堺の金細工師だったジュスティーノ山田という人物とその妻。創設や運営に全財産を投じたと伝えられています。キリシタンたちによって運営された「ミゼリコルディアの組」は、病院と困窮した高齢者や孤児のための施設も設け、病気やケガの人の手当をし、困窮者に食べものや衣服を与え、行き倒れの人を助け最後をみとって埋葬まで行いました。戦国時代にあってのそうした行為は、周囲の人々に驚きと感動を与えたようです。「ミゼリコルディアの組」の病人や死者に対する献身的な態度は、キリスト教の教えにもとづく「慈悲の所作」、すなわち隣人愛の実践でありました。 現在、長崎地方法務局(長崎市万才町)の場所に、「ミゼリコルディアの組」の施設は設けられていました。その墓地は長崎市役所がある桜町付近で、当時はその一角に大きな十字架が掲げられていたことから、「くるす町」と呼ばれていたと伝えられています。彼らの活動にかかる費用は、キリシタンによる献金や長崎のまちの有力者らの寄付によって賄われたそうです。  周囲から「慈悲屋」と呼ばれていた「ミゼリコルディアの組」。文字通り慈悲にあふれたその活動は、宗教を超えて人々の心に届いていたことがうかがえるエピソードがあります。1614年(慶長16)、幕府の命で厳しいキリシタン弾圧が行われ、宣教師らは国外に追放、長崎のまちのほとんどの教会が破壊されましたが、「ミゼリコルディアの組」の施設には弾圧の手は下せなかったそうです。 しかし、その後キリシタン弾圧はさらに強まり、1620年(元和6)に施設は破壊され、跡地には大音寺が建造されました(大音寺はのち移転)。長崎地方法務局脇に建つ「ミゼリコルディアの組」の碑には、『最初の民間社会福祉事業が、ここで行われた』と記されています。  ◎参考にした本/『四季の花色大図鑑』(講談社 編)、『長崎 東西文化交渉史の舞台 ~ポルトガル時代 オランダ時代~』…「教会のある町長崎」(片岡千鶴子)、『長崎県大百科事典』(長崎新聞社)

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  • 第453号【旅と学問の人、ケンペル】

     アジサイの見頃が過ぎた長崎。石橋群で知られる中島川の近くで、ノウゼンカズラが橙色の花を咲かせていました。日照りに強いこの植物は、真夏の花として知られています。長崎が日本の西に位置することもあってか、植物図鑑に記された時期より半月~1カ月ほど早い開花。たぶん九州のほかの地域でも咲きはじめていることでしょう。  前回はシーボルトとアジサイにまつわる話でしたが、今回はシーボルトと同じオランダ商館医だったエンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)についてのよもやま話です。ケンペルはその突出した功績でのちにシーボルト、ツュンベリーとともに、出島の三学者のひとりに数えられる人物です。彼らの功績とは、来日中に日本の自然や文化などを熱心に研究し、医学をはじめとする西洋の知識を伝えたこと。そして帰国後、日本での研究を書籍にしてヨーロッパ諸国に広く紹介したことなどがあげられます。  オランダの東インド会社から出島に派遣された三学者たちの来日時期は、早い順にケンペル1690年(元禄3)、ツュンベリー1775年(安永4)、シーボルト1823年(文政6)です。ケンペルから133年後のシーボルトは、ケンペルやツュンベリーが日本について記した本に大いに学んで来日。彼らの研究をもとに日本での成果をあげました。出島にはシーボルトが建立したケンペルやツュンベリーの偉業を讃える記念碑がいまも残されています。  ケンペルは、ヨーロッパのレムゴ(現在のドイツ・レムゴ市)生まれ。父は牧師で教育熱心な家庭に育ちました。法学者で政治家、ヘブライ語学者で牧師となった兄弟がいて、ケンペル自身も哲学や歴史、ヨーロッパの言語、医学などさまざまな分野の学問を複数の大学で学んでいます。  ケンペルを語るときのキーワードは「旅」と「学問」といえるほど、その人生は未知なるものを知りたがる情熱と行動力にあふれていました。日本に来る前にはスウェーデン、ロシア、イランなどの各都市を訪れながら、測量や風物スケッチの腕を上げたといわれています。  好奇心の果てに、縁あって日本を訪れたケンペル。滞在は2年余りで、江戸参府も2度経験。帰国後ケンペルが著した『日本誌』には、動植物から社会、政治、風俗など元禄時代の日本が驚くほど詳細に記されていて、当時を知る貴重な史料になっているそうです。ちなみに江戸参府行列のケンペルのスケッチに残された小さな横顔の自画像から、顔は面長、鼻の下にちょび髭らしきものがあり、髪は軽くウエーブのかかったセミロングであることがわかります。  『日本誌』には将軍綱吉への拝礼のあと、さまざまな質問を浴びせられ、あげくケンペルが歌ったり、踊ったりしたことが記されていて、このときの部屋の様子や人物も細かなスケッチで残されています。また、日本は長崎を通してオランダとのみ交渉する国であることなども指摘していて、この文面をのちに志筑忠雄が「鎖国」と訳したことは有名な話です。  ケンペルが当時の日本について記したものから感じられるのは、その視野の広さと細かさ、そして洞察力です。しかし、彼のまなざしは多岐多様にわたるがゆえにとらえようがなく、それで印象が薄くなっているのか、シーボルトよりも一般には知られていない気がします。一方でケンペルは、『ガリバー旅行記』のガリバーのモデルのひとりともいわれ、また日本の名著、島崎藤村の『夜明け前』にも登場しています。実はケンペルに関する研究では、近年になってオランダ通詞今村源右衛門がケンペルの弟子であったことがわかるなど、まだまだ知られていないことがたくさんあるようです。今後のケンペルに関する研究に期待したいところです。   ◎参考にした本/『~礼節の国に来りたりて~ケンペル』(B・M=ベイリー著)、『ケンペルやシーボルトが見た九州、そしてニッポン』(宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編)、『ケンペルとシーボルト』(松井洋子著)、『江戸参府旅行日記』(ケンペル著・斎藤信訳)

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  • 第452号【アジサイのまち、ナガサキ】

     ペラペラヨメナ。ピンクと白の二色の小さな花を咲かせるキク科の植物で、長崎では湿気の多い石垣などで見かけます。中央アメリカ原産の帰化植物で、かつてはゲンペイコギクの名で園芸店などで販売されていたそうですが、いまではすっかり野生化し、温暖な地域の街角に咲く花となっているようです。  ペラペラヨメナのように、ときどき名前を聞いて「クスッ」と笑ってしまう植物があります。葉が細くペラペラしていて、花もヨメナに似ているから、そう付けたのでしょうか。名付け親は、キク科植物研究の第一人者であった北村四郎博士(1906-2002)だそうです。昭和天皇の植物学研究の相談役もつとめられた北村博士。「ペラペラ」と軽やかな名の付け方に人柄までも想像し、またまた「クスッ」としてしまいます。  一方で、植物に名前を付けるとき、特別な思いを託すケースも少なくありません。1823年(文政2)に来日した出島の商館医シーボルト(1796-1866)は、日本で初めて出会った美しい花に、愛する人の名を付けました。「Hydrangea Otakusa」(ヒトランゲア オタクサ)。それは薄紫色がかったブルー系のアジサイ。「Hydrangea」はラテン語でアジサイ属を意味し、「Otakusa」がその女性の名です。  シーボルトが思いを寄せた長崎の女性は「楠本たき」といい、周囲の日本人は「おたきさん」、シーボルトは「オタクサ」と呼んでいました。当時、シーボルトは出島で診療したり、鳴滝塾で指導などを行うなか、日本のアジサイも研究。「Hydrangea Otakusa」を含む十数種類のアジサイを、帰国後に著した『日本植物誌』で紹介しています。その中に、「Hydrangea Otakusa」は、長崎の中国系のお寺で見つけたと記されているそうです。ちなみに現在、「Hydrangea Otakusa」の学名は使われていません。  今年もアジサイが見頃を迎えるのを待って、「シーボルト記念館」(長崎市鳴滝)へ出かけました。江戸時代、西洋の新しい知識を得ようと日本各地から若者が集まった鳴滝塾の跡にあるこの記念館は、アジサイの季節に合わせて「Hydrangea Otakusa」のエピソードにちなんだ小さな企画展が開かれています。今年は「シーボルトとオタクサ」と題した企画展で6月15日(日)まで開催。シーボルトの先駆けとして日本の植物を研究したケンペルとツュンベリーのこと、またシーボルトの日本での研究を支えた伊藤圭介や、シーボルトがおおいに引用し、参考にした日本の本草学者・水谷豊文の『物品識名』などを紹介しています。  さて、この時季まちを歩けば、あちらこちらでアジサイを目にする長崎。眼鏡橋がかかる中島川界隈でも、「ながさき紫陽花(おたくさ)まつり」が行われていて(6月15日まで)、約10種類のアジサイが川沿いを彩り、行き交う人の目を楽しませています。  ところでアジサイは、酸性土壌だとブルー系、アルカリ性土壌だとピンク系になる言われています。それで日本はブルー系が多く、ヨーロッパあたりではピンク系ばかりだとか。長崎市南山手にある長崎地方気象台の庭に咲くアジサイは、同じ場所に咲きながら白、ピンク、紫、青と色々な色がありました。こうした七変化は、日本ではめずらしくありませんが、どうして色が一定しないのでしょうか?  ま、そういう疑問はさておき、雨の季節だからこそ、その美しさが際立つ、アジサイのまちナガサキへ、どうぞ、お越しくださいませ。   ◎参考にした本/『スキマの植物図鑑』(塚谷裕一)

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  • 第451号【もっと知りたい、オランダ通詞のこと】

     江戸時代、出島でオランダ語の通訳や貿易業務などに従事したオランダ通詞。基本的に世襲で職務が継承されていく長崎の地役人のひとつで、オランダ通詞の家は幕末までに30数家あったとか。主な家として、西、吉雄、石橋、楢林、中山、本木などが知られています。  年に一度、長崎港にオランダ船が入ったときに商品の荷揚げに立ち合い、通商の書類をつくるなどの貿易事務と、その船に乗ってきた新しい商館長や船長から提出される世界情勢を記した「風説書」の和解(翻訳)がオランダ通詞の重要な職務でした。1820年に川原慶賀が描いたとされる「長崎出島の図」を見ると、西側の荷揚げ場近くに「通詞部屋」があります。オランダ通詞たちは出島の最前線にいて、西洋の文物を受け入れる仕事をしていたのです。 大音寺(長崎市寺町)の後山にあるオランダ通詞・中山家の墓地をたずねました。樹木に囲まれたその墓地は、とても静かで眺望もよく、お墓でこんなにくつろいでいいのかと思うほど、気持ちの良いところでありました。  中山氏は江戸時代、8代に渡ってオランダ通詞を勤めた家です。6代目の作三郎武徳は、御用和蘭字書翻訳認掛を命じられ、当時のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの指導により蘭日対訳辞典『ドゥーフ・ハルマ』の編纂に携わりました。幕末期にもっとも使用されたといわれる『ドゥーフ・ハルマ』。明治期に活躍する人物を多く輩出した大坂の緒方洪庵の塾では、「ドゥーフ部屋」を設けてこの辞書を置き、塾生らの蘭学の勉強におおいに役立てたといわれています。 ところで、オランダ語に秀でた作三郎武徳の門弟には、シーボルトの鳴滝塾の初代塾頭として知られる美馬順三がいました。鳴滝塾でシーボルトに学ぶために集まった各地の俊才たちは、同時にオランダ通詞らにも学んだといわれ、美馬も作三郎武徳に学びながら、シーボルトへ提出するレポートを仕上げたりしていたのでしょう。そうした師弟の縁があってか、25基の墓碑が並ぶ中山家の墓地の端には、31歳で亡くなった美馬のお墓もありました。  江戸時代を通じて、もっとも著名なオランダ通詞をあげるならば、やはり吉雄耕牛(1724-1800)でしょう。53年間もオランダ通詞を勤めた大御所で、門人は1000人に及び、また『解体新書』の序文を寄せたことでも知られています。屋敷は、出島や長崎奉行所西役所にほど近い平戸町(現・万才町)にありました。その2階には望遠鏡や天球儀など西洋の文物が豪華に置かれた「オランダ座敷」があり、三浦梅園をはじめ各地の長崎遊学者らが大勢たずねたといわれています。  吉雄耕牛の息子の権之助もまた優秀なオランダ通詞でした。父そして「鎖国」という言葉(訳語)を生んだ志筑忠雄(天文学者/わずかな期間だが、オランダ通詞だった時期もある)に学び、開国うんぬんで揺れ動く幕末に活躍しています。中山作三郎武徳が携わった『ドゥーフ・ハルマ』の編纂においては、この権之助が中心的存在でした。  吉雄家の墓地は、禅林寺(長崎市寺町)にあります。訪れる人が意外に少ないようで、お墓は雑草に覆われていました。江戸で活躍した蘭学者たちが後世に名を残す一方で、彼らの知の源となったオランダ通詞たちのことは、あまり知られていません。あらためてオランダ通詞の活躍を見直す必要があるように思われます。  ◎参考にした本/『長崎通詞ものがたり』(杉本つとむ)、若木太一監修『長崎東西文化交渉史の舞台』…「長崎遊学者その後」(本馬貞夫)、『貿易都市長崎の研究』(本馬貞夫)、『長崎百科事典』(長崎新聞社)、『長崎地役人総覧』(簱先好紀)

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  • 第450号【クスノキと長崎】

     沖縄地方は一足先に梅雨入り。一方、九州北部の長崎はさわやかな日差しを浴びながら風香る季節を満喫中です。先週日曜の朝、長崎港の「長崎水辺の森公園」へ散歩に出ると、クルーズ客船「ダイヤモンド・プリンセス」(115,875トン)が、松が枝岸壁に停泊していました。「ダイヤモンド・プリンセス」は、10年前、三菱長崎造船所で建造されたもの。ときどき国内外の観光客を乗せて長崎港へ里帰りしています。その白い船体を背景に、公園では太極拳を楽しむ人々の姿がありました。長崎とゆかりの深い中国がルーツの太極拳。平和な五月の空の下、のどかで美しい光景でありました。  余談ですが、この日、長崎港(出島岸壁)には、「ロゴス・ホープ」という船も停泊中でした。新聞報道によると、世界で最大級ともいわれる書店船(125,000トン)だそうで、ドイツのキリスト教系団体の慈善事業のひとつだとか。50万冊もの書籍を積んで世界中を巡っていて、日本へは今回が初寄港だったそうです。  いろいろな船が行き交う港から周囲の山々を眺めると、緑色の濃淡も鮮やかに、まるでブロッコリーのように樹木が生い茂っています。なかでも、明るい黄緑色をしたクスノキの姿が目立ちます。もともと長崎はクスノキの多いまちで、樹齢数百年と思われる自生の大木も少なくありません。秋冬は緑色の葉も、この時期は新緑と小花で、黄緑色に輝くのです。  クスノキは、葉や枝に樟脳を含み、ちぎるとスッとした香りがしますが、開花の時期にはさわやかさに甘さの加わったいい香りを漂わせます。南蛮貿易港として長崎が歴史の表舞台に躍り出るずっと以前から、季節が巡るとその香りを放ち、山々を黄緑色に輝かせていたクスノキ。自然の営みは、長崎港で起きていることなど、どこ吹く風だったのかもしれません。  眼鏡橋より少し上流にある光永寺。そのお寺の前にかかる一覧橋のたもとにも、老齢と思われるクスノキがあります。光永寺は、幕末、若き日の福沢諭吉が蘭学を学ぶために長崎で過ごしたとき、一時寄宿したお寺です。お酒もあまり飲まずまじめに勉強していたという諭吉の長崎での様子は「福翁自伝」にも記されています。   当時の長崎には、のちに明治政府の要人となる人物たちが多数訪れていて、諭吉はこのときの長崎滞在で、のちの活躍に通じる人脈を築いたといわれています。長崎でつながった人の縁は、水面下で複雑にからみあい、間もなく訪れる新しい時代を大きく動かす力になったことでしょう。諭吉も目にしたはずのクスノキを眺めていると、そうした歴史の光と陰をあれこれ想像して、このまちの歴史風土の特異さをあらためて思うのでした。

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