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  • 第14回 長崎料理編(五)

    1.箕作阮甫(みずくりげんぽ)の長崎紀行ロシヤ正使の特別随員として長崎往来、蘭学者 箕作阮甫の手記「西征紀行」。▲ポルトガル色絵鉢 先年、岡山県津山市の木村岩治先生より同地出身の有名な蘭学者 箕作阮甫(1799~1862)が江戸より長崎往来の手記の原本「西征紀行」を編集発刊去れ其の一冊を御恵送いただいた。  阮甫先生が長崎に下向してきたのは嘉永6年(1853)の暮れであった。それは同年の7月ロシヤのプチャーチン一行がアメリカのペリーの浦賀入港に続いて、長崎の港にロシヤとの開港をせまり、且つ樺太の領土問題について交渉をする目的で来航してきたのである。  幕府はこのロシヤ使節に対し10月勘定奉行で外国通の川路聖莫を正使とし、阮甫を特別随員として任命し長崎下向を命じたのである。 阮甫は同年の10月30日、助手として門下生の中より後に兵学者として名をあらわし明治政府時代には陸軍幼年学校長となった武田斐三郎(あやさぶろう)他5人の従者を引き連れ、江戸鍛冶橋の自宅を朝七ツ時に出発している。朝七ツ時といえば、現在の午前8時頃である。 一行は中仙道を通り11月16日京都を過ぎ、夕方・高槻富田の宿(現在・高槻市富田)に泊まっている。かくて12月3日一行は小倉に到着、それより陸路長崎街道に入り12月8日夜七ツ時長崎の街に到着している。  其のようるは夜は長崎代官高木氏の中島の治にあった別邸に泊まっている。翌9日の日記には「雨のち晴れ、昨日来寒甚し。」それに続いて「我等主従7人、狭き室におし込められ、御用長持、駕篭、づづら、兩掛、葛羽篭に至るまで置く余地なければ別に一所を求む。」その願いにより一行は寺町三宝寺座敷とその控の間を宿舎として与えたれている。2.長崎の豚肉ブドー酒からスキ焼き、中華菓子まで阮甫が味わった長崎の食文化。 私はこの「日記」の中より「長崎食の文化」の関係を取りだし考えてみることにした。 12月11日夜食のとき阮甫は斐三郎と共に豚肉を賞味し「さすが長崎の豚肉は江戸の豚肉とは大いに異なり美味にして柔らかなり」と言っている。そしてその理由は「中国、オランダ人のために豚を土地の人達が長年飼育に勤めたからであろう」と記している。 13日再び阮甫は斐三郎と共に豚肉を賞味している。今回は長崎には豚肉を使った「ソボロ烹」という料理があると聞いているので其の料理を頂きたいと言っている。そして其の料理法を阮甫は次のように記している。 先ず鍋に豚の脂をとかし、次に豚肉をその油でいためる。それに細長く刻んだ椎茸と長さ3.4寸ばかりの豆芽(もやし)を多く入れ、方形に薄切りにしたるコンニャク、唐人菜少しばかりを加え、薄醤油にて味つけしものにて、甚だ口に可なり。※ソボロ烹は長崎地方の方言で中国料理の「繊羅蔔」を語源としていると古賀十二郎先生は長崎市史に述べておられる。 繊羅蔔とは千切り大根のことであり、それを油炒めした料理のことであろう。 12月19日には鮫屋宇八が贈った「シッポク料理を斐三郎と共に食べロシヤ人の事を談ず」と日記にはある。 然し、シッポク料理についてはその感想を記していない。 12月2日は、肥前鍋島公より野鴨一羽を料理して供さる。黄昏より酒飲む。3.ロシヤ船に招かる▲スペイン花模様皿 12月7日朝。西役所に至り、それより川路公を始め長崎奉行の一行と共にロシヤ船バルラス号に葵の紋をつけた御用船に乗ってでかけている。船上ではいろいろの事があり、其の後船室での小宴があった。その模様は次のように記してある。 座にもどれば侍者酒肴を勧む、一々記するにゆとしなし。シャンパン(酒)、リンスウエイン酒(白ブドー酒にして酸味あり)等は其の美なるものなり。・・・・・酒おわりて各々に一画幅を贈らる。余には洋画の山水人物図を贈らる。 12月27日、先日来のロシヤ使節一行の対応ですっかり疲れたので、ここらで一杯やろうという事で三宝寺の近くに「一力」という料亭があったので其処にでかけることにした。 「一力」に至ると酒も用意できぬうちから次々と来客があった。福岡藩黒田公の使者として永井太郎が藩公よりの贈物として博多帯2筋を持参された。次に長州藩三田尻の洋学者で余の門に学んだ田原玄周が訪ねてきた。相共に対酌す。舞ひめ1人を召す。痛飲して帰る。 12月29日、年の暮れであり、且つ年あけと共に我等一行は江戸に引き上げるというので名残の一席を思い立ち先ず第一に松森天満宮にある有名な料亭吉田屋(現在の富貴楼)に至る。年の瀬で満席であるという。次に、これも長崎第一の有名な筑後町聖福寺門前の料亭迎陽亭に至るも此処も同様に客に謝す。岐路一酒店にて一酌す。酒たけなわ、玄周・斐三郎ら余を無理に丸山に拉して行く。丸山にては花月楼に上る。 「文徴明の題字あり、宅地は広々としており屋宇華壮。山に依り水に面す。然し妓女全て田舎むすめにて、江戸より来れる人の目にはあやしく見ゆ」と記している。 嘉永7年1月1日、雨、雨を冒して奉行所に至り川路公ならびに長崎奉行に新正を賀す。午后より宿舎三宝寺にも来客あり豚肉を買う。午后より軒端に出でて酒酌みかわし海外の事情など談ず。歌妓阿玉といえるを召し席にて待せしむ。 1月4日、川路公と共にロシヤ船に招かる。ロシヤ船に近づけば鼓楽おきて我等をむかう。ロシヤの人々甚だ打ちとけ色々もてなしぬ。船上では幻灯もみせてもらい、小宴あり。  マデイランウエイン(madrawynポルトガル・マデイラ島産の白ブドー酒)。酒の肴には鯛のむしたるに酪(牛乳クリーム)をかけたるもの甚だ美味。カステラに酪に砂糖を和したるものを糸のようにして上にかけてあるもの甚だよろし、本日のパンは堅くてよからず。4.長崎見物▲古伊万里赤絵沈香壺(長崎純心大学博物館蔵) 1月5日早朝、ロシヤ船は長崎を出港していった。この日、阮甫は奉行所に至り仕事をすませ用人部屋に控えていたとき、先日ロシヤ人が奉行所に贈呈した牛肉を持ちこんできた。  この牛肉は先日プチャーチンが年賀の品として奉行所に送ってきた物で牛の4分の1ばかりの肉を白布で包み、白木の台に乗せてあったという。日本側では其の返礼として鮮鯛一折を贈ったという。 阮甫の日記には此の拝領した牛肉をスキ焼きにして食べたと次のように記してある。 ロシヤ船將より上(たつまつ)れる牛肉を余輩のため松前の犂(すき)にて烹(に)で一盃を勧む。長崎に江戸より来りてロシヤ牛肉を松前のスキにて烹るとは人生の一奇事なるべし。 ※犂とは牛に挽かせる農具であるが何故松前のスキで牛肉を烹たのであろうか。これがスキ焼きのはじめであろうか。 1月13日、川路聖莫公が折角、長崎に来たのであるからというので長崎の各役所を訪ね、其の日の最後には出島オランダ屋敷を訪ねている。 日記にはこのオランダ屋敷訪問のことが事こまかに記してある。その中より食関係を拾うと・・・ 台(ベランダ)より室に入る。酒食を供せらる。一はアネイス酒(anijs)次にパステイという菓子を勧む、表はカステラの如く内にアンを入る。それを良き程に切りて出したるもの、甚だ美ならず。 三、白ブドウ酒。四、シトルーウェイン(ブランデー)。五、パルヒタモール。此の酒もっとも香りたかく強烈、色は紅色、フランス製という。其の間に此の酒にひたしたる物、海藻実の密漬を出す。更に洋紙の花紋ある小方型の両端に五食の糸で編んだ飾りをつけたものに菓子を入れて出す。菓子は五寸ばかりの白色の砂糖菓子が入れてあった。この宴が終わってカピタンが出てこられた。  1月14日、川路公に従って筑後町聖福寺、福済寺に参詣、唐人屋敷に至った。  唐人屋敷内では天后堂に参詣し、明日(旧1月15日)媽祖堂に供えられる珍しい有平(アリヘイ)菓子をみる。次に唐船主に招かれ会館にて茶菓の接待をうく。  最初に月餅とおこしが運ばれ、次にカンラン(オリーブ)と蓮の実の砂糖漬を湯にひたした飲物、次に蓋茶碗に茶葉を入れ、其れに熱湯をそそぎて勧められる。と記している。 1月18日、阮甫は長崎に留まること凡そ40日と記し長崎を出発している、彼の日記には公務にて毎日が多忙にて長崎の風景を探る閑なしと記している。  阮甫は其の夜に大村まで駕篭を進め宿をとっている。第14回 長崎料理編(五) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第13回 長崎料理編(四)

    1.足立敬亭と長崎雑煮新鮮なる鰤に盛り沢山の諸菜が基本。敬亭も好んだ長崎雑煮。▲松本良順 養成法「飲食の事」 前号に引き続き敬亭のいう長崎料理を紹介することにした。敬亭は、「吾は新年に用うる長崎雑煮を好む」と記し、次のようにその料理法を説明している。 5人前の雑煮・先づ血切鯛150匁・または新鮮なる鰤の腮をとり腸を去り、胴骨と胴骨との間を3枚おろしの法にて背鰭の処まで包丁を入れ、次に頭部の中央に内部から脳を目がけて包丁を入れ。 次に・内部全体・外部全体に塩をふり、そのまま縄巻にして日陰に4・5昼夜つるして置く。 食するに臨みて入用だけ切とり、鱗を落とし皮ごと切目を作る。(塩を振る前に鱗を取るもよし。)或るいは魚を3枚におろし、又は切目にしたるものを摺り鉢に入れ薄塩して押蓋をし、軽く圧石をして3昼夜おくもよし。  右、150匁の魚を10に切り水で洗い、それより干椎茸10個を約半時間ばかり水につける。次に里芋15個を皮と共に15分間熱湯ににて茹でて皮をむき、1個を2つに切る。次に京菜100匁に塩を少し入れて茹で水に浸し、揃えて絞って水気を取り1寸位の大きさに切る。次に大根50匁を生のまま皮をむき5・6分の暑さに輪切りにする。餅は焼かずに熱湯に10分間ばかり煮ておく。 次に昆布20匁を水で洗い1升の水に入れそのまま1時間ばかり漬けおき、それを火にかけて煮立たせ沸騰したら直ちに昆布を引き上げ、その煮汁に鰹節の薄けずり5匁をさっと入れ之をこす、それに小匙半杯の「味の素」を加える。 かく煮汁を用意しておき、昆布、焼豆ふ、里芋、椎茸、鯛身を串にさし、それをさきの煮汁に入れて10分間ばかり煮るが、その時、少しの塩と醤油にて味をつける。  かく全て用意が整ってより長崎雑煮椀をとりだし盛りつけをする。椀盛りの順序は、先づ、椀のそこに先こくの輪切り大根1片を椀の底に置き、上に串ざしの諸菜を串よりぬいて都合よく見かけよく並べ、最後に傍らに京菜をそえ、煮込んである熱き煮汁を注ぐ。 是にて1人2椀あてとし、5人分の用意できる。先の大根を椀の下に敷くは2点の利あり。1は椀底に餅の粘着せぬように、次に子供が誤って餅をのどにつめた時、その大根を食べれば即座に除かれる効あり。2.江戸時代の長崎雑煮水菜・大根・牛蒡・するめ・昆布など6品に、古式は、干しあわび・干しいりこ(海鼠)を加えた。 寛政9年(1797)長崎の人・野口文龍が記した「長崎歳時記」をよむと長崎雑煮について次のように記している。雑煮。水菜・大根・牛ぼう・するめ・こんぶ・南京芋または里芋を用意す。  右の6品を見合わせ、串にぬいて置くなり。  次に「だし」を煮て餅を入れ、出す時に先に串をさしておきし6品をあたため串をぬき椀を盛りて出す。  昔は干あわび・干いりこを串にぬきておき雑煮に加うるを古式とす。されど今は慎みある家にては此の2種をはぶく也。 この最後の慎みある家にては「干あわび・干いりこ」2品をはぶくという意味は、当時・輸出用の銅の国内生産量が不足していたので、銅に替えて海産物を俵につめ俵物と称し主として中国に輸出していた。その中でも「干あわび」「干いりこ」の2品はとくに需要が多かった。然し右2品は特に集荷することが困難であった。「干いりこ」をいうのは海鼠(なまこ)を干したものであり、中国料理の食材として珍重されていた。そのために長崎奉行では、時として「あわび」「なまこ」を食べることを禁じていたので、長崎の家庭で「慎みのある家」では正月の縁起物であっても「干あわび」「干いりこ」を食べることを控えていたと言うのである。3.明治以降の長崎雑煮山の幸、海の幸など長崎趣味の7~11品。その味わいは長崎料理の粋▲有田焼花模様色絵鉢 先学の渡辺庫輔先生の「長崎旧家料理手控帳」が私の手元にあるのでその中より正月雑煮のことを拾うと次のように記してある。1.元日雑煮のこと 鯛の身、鳥の身、いり子(干海鼠)、半ぺん、あわび、くわい、椎茸、昆布、にんじん、かつを菜 是は12月31日に竹に搓しておく事。 1.元日の朝は神様へのお酒とお雑煮を上げる事。 1.佛壇には精進にて雑煮を供へる事。 1.元日の朝お雑煮の時、向皿 に裏白の小さきものを敷き其の上に「からがき鰯(丸ぼし鰯のこと)」腹合せにして置くこと。 1.お雑煮は3日の日まで出す事。 昭和38年長崎調理研究会より発刊された「長崎料理研究」第7に同会の後見役であられた小方定一老が語られている長崎料理自慢話の中にも長崎雑煮が載せられている。その中で長崎雑煮の味は「長崎料理の粋である」と言っておられる。 長崎の人達はダシをとるのに北海道田尻の昆布と鰹魚節は土佐か薩摩の本節でなければ使用しません。その「出汁」は、「こんがりとした焼いた餅の香りと風味が良く調和し何とも言えない味」と語られている。これをみると前段での長崎雑煮の餅は焼かないと記してあるが明治以降は餅を焼くようになったのであろう。 長崎風俗考の著者・足立正枝翁は長崎雑煮について次にように記しておられる。○雑煮は特に長崎趣味を専らにして他土に誇れるものなり。  通例は餅・菜・芋・大根・牛蒡・塩鰤・昆布などにして此より以上は、之に巻ハンペン・海老蒲鉾・鶏肉・鯛の身(塩鰤に代ゆるなり)ナマコ・クワイなどこれ亦好みに依て加うるなり。  餅は必ず一応焼き入るること、是長崎特種の習ひなり。○2日には雑煮の他ナマコを刻みて交ぜたるナマスを膳に供す。○3日はカラガキ鰯をむしりて交せたるナマスを添ゆる。 長崎市立博物館の長老であられた林源吉老も長崎料理については一家言を持っておられた。昭和32年12月の長崎市教育委員会の月刊号に長崎雑煮について老は次のように記しておられる。 長崎の雑煮は特に美味で栄養価に富み、なかなか評判がよく長崎名物のひとつである。お雑煮をいただく雰囲気は印象的で、世の中が変わってもこれだけは一生実行したいものである。次に献立にふれることにする。雑煮は小餅をはじめ唐人菜、塩鰤、鶏肉、巻半平、椎茸、くわい、人参、牛旁などの9品、あるいは7品、11品、お椀の見込みに菜の葉をしき、小餅をのせる。小餅は網で焼かないとお椀にくっつく。一部では「菜(名)を残す」とて縁起をとり、菜を残す向きもあるという。このように長崎雑煮は山の幸、海の幸と分量が多くかさむから長崎の雑煮椀は特に大形である。4.長崎の雑煮椀正月の雑煮にだけ使用する秘蔵の椀は、唐伝独特の漆塗の特注品。▲足立家雑煮椀(光源寺蔵) 私は先年長崎の漆芸について少し記したことがある。長崎の漆芸については西川如見の「長崎夜話草」にも記してあるように長崎には唐伝独特の漆芸があった。 長崎の旧家には正月の雑煮にのみ使用する特注の「カシ椀」に似た大きめの雑煮椀が秘蔵されていた。その椀は各旧家自慢の品であった。 前記足立敬亭の家は貿易商であり、各藩の御用達も兼ね屋号を海老屋といった。その故に足立家の雑煮椀は黒塗りの大きな椀に朱の漆絵で海老が描いてあった。この椀は今も長崎伊良林の光源寺に伝世されている。それは天保2年(1831)光源寺大火の時、とりあえず大壇那の海老屋より火事見舞いとして贈られたものと伝えられている。 長崎雑煮椀はひとまわり大きくて黒漆、朱漆、溜塗などの下地の上に松鶴の事や宝珠、鯉魚などの図が巧みに描かれているのを多く見かけたが、戦後は殆ど、そのような立派な長崎雑煮椀を見かけなくなったのは寂しい。 尚、本稿については長崎純心大学博物館発刊の拙著「長崎学・續食の文化史」を参考にして頂くとよい。第13回 長崎料理編(四) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第12回 長崎料理編(三)

    1.足立敬亭と長崎料理現在も原稿そのままに残る敬亭が編集した「鎖国時代の長崎料理」。▲長崎卓子用(蝙蝠染付)皿 敬亭は号で本名は清三郎といい長崎市榎津町の素封家海老屋別家足立家に安政4年(1857)2月22日に生まれている。 敬亭の畧伝は大正14年長崎小学校職員会編集の「明治維新以後の長崎」人物編に先賢の一人として集録されている。その伝記によると敬亭は少年期、当時来崎していた佐賀藩の漢学者谷口中秋について学問の手ほどきを受け、次いで京都に登り石津灌園、菊池三渓などについて修学し、特に漢詞文に長じ明治10年東京管城舎より出版された「古今名家詞抄」に既に敬亭の詩文は集録されている。 然し敬亭は家庭的には不遇で一人息子の靖一は五校・東大を卒業し朝日新聞社の評論員となった其の年に急逝し、敬亭の婦人ヒデも、亦その跡をおい、敬亭は靖一の一子で3才の孫巻一の手を引いて東京の小さな家に住まっていた。その間にあっても敬亭は「世事を顧みず読書に親しみ手つねに巻を離さず」と伝記には記してある。敬亭は郷土のため史書の編纂を思い立ち「鎖国時代の長崎」を脱稿し、その中編第9節に「料理の章」を設けている。  この本の脱稿は古賀十二郎先生が大正15年名著「長崎市史・風俗編」のなかで長崎料理のことを詳述される10余年も前のことである。但し、敬亭のこの著書は活字にされることはなく現在も長崎県立図書館古賀文庫の中に原稿そのままに製本されている。 敬亭は其の後、孫巻一の手を引いて長崎に帰り知人の援助で油屋町の裏家に住んでいた。ちょうど其の頃より長崎市史の編集が始まったので大正10年5月より敬亭はその編集員の一人として辞令を受けたが其の翌月6月30日入湯中に死亡し、巻一ひとりが残された。 その巻一氏に私は昭和19年秋鹿児島県の積部隊でばったりお逢いした。 戦後巻一氏は神戸に居住し本居太平の事を中心に書かれた「やちまた」により、新しい戦後の評伝作家として第24回芸術選奨文部大臣賞を受賞され、次いで祖父敬亭の評伝「蛟滅記」をさりげなく面白く書かれたほか、多くの著作を発表されている。2.敬亭婦人は料理の名手日本全国で大いに認められていた、日中欧三国折衷の味、長崎婦人の料理。 敬亭婦人のヒデは大変な料理の名手であったという。その影響もあってか敬亭の代表的著述「鎖国時代の長崎」の中に前期のように料理の章を設け其の「序」のところで長崎婦人と料理のことを次のように記している。 長崎の婦人は一概に言って翰墨を持たせると不向きの者が多いが、一度包丁を持たせると上手にあつかえない長崎婦人は一人もいないのである。その故は長崎の街は早くより国際都市であり、海外より渡ってくる多くの異国の人々に接し、その対応のため諸外国人に対する料理も心得、更に自国の塩梅を加えている。その故に長崎婦人の料理の味付け日中欧三国折衷の味であり、日本全国に於いても其の風味は大いに認められている。ヒデの得意の料理はシッポク全般であったが特に鯛豆腐入りの白味噌腕はすばらしいと記してある。製法は鯛の崩し身を摺り、裏ごしにし水にて溶く、ここが秘伝である。水が多いと身が固まらないし、水すくなければボロつくのである。これに葛をいれ、鍋にて煉り詰め、箱に美濃紙を布き其れに流し込んで固め、酒しおにて味をつけ方形のまま上白(じよう)みそ(汁)に入れる。その上に柚又蕗のとうを置く。凡そ百匁の鯛の身に葛三合の割りにてよし。上白味噌でも普段の時は鱧(はも)を入れる。3.敬亭の長崎料理カステラ、枇杷羹などの菓子から敬亭の好みの料理まで、その数26種。▲夜行杯(敦煌産) 敬亭は先ず26種の料理名をあげ、その料理法を述べているが其の中にはカステラ、一口香、枇杷羹などと菓子の製法も記している。次には別項として腥(なまぐさ)料理。精進料理。鍋料理とカシワ。婚宴の実例をあげ其の中に本膳の部と卓子部、新杯五丼の順で記し、最後に敬亭自身の好みの料理をあげている。  今私達はこの中より数点をあげ記してみることにする。第一に敬亭はソボロ(料理)のことを次のように記している。  ソボロは外国語なり、日本でいう合戝煮である。材料はもやし、豚肉のこま切れ、糸切りイリコ、干小海老、銀杏の小口切、それに松露、刻み人参、ハムを用意す。 次にこれらの物を共に大丼に入れ「だし汁」を加え、蒸器に入れて出来あがるが、この他、長崎の家庭でのソボロは豚の赤白肉を叩いて刻み、豚油にてジリジリという迄に煮て、其れに椎茸・もやし・銀杏などを加え酒しおとソップ・昆布のだし等にて味をつける、盛り分けに法あり。註、敬亭はソボロを外国語としているが、ソボロは我が国の言葉で「物の乱れ、からまる、まぜ合うさまを言う」ので「鯛のソボロ」などという言葉もある。ただ長崎のソボロには、江戸時代まで長崎の地以外では殆ど食べることのなかった豚肉を入れてソボロがつくられるというのが長崎ソボロの特徴で、長崎では浦上ソボロといって浦上地域のソボロはおいしいとの評判で、数年前までは浦上地区の宴席に行くと、よくこのおいしいソボロが戴けたので愉しみであった。4.長崎チャンポン考最初はチャンポン・皿うどんの区別はなく、共にチャンポンと呼んでいた?▲有田焼色絵鉢 敬亭の料理の五番には煎包と記し、これに仮名をつけて「チャンポン」と読ませている。 長崎で最初にチャンポンの事を本で紹介したのは敬亭ではなかったかと考えている。敬亭はチャンポンを次のように説明している。煎包 チャンポン その材料、玉ねぎ・蒲鉾・小椎茸・皮豚肉・薄焼卵などを小麦粉鉢にたかく盛り、五目飯、散目鮓のごとくにし、或は脂濃き煎汁をかけ、麺を同じく椀盛りとす。要は麺を下において前段の物は玉ねぎ等の油いためを上にかけ、後段は麺を丼に入れ汁をかけるという意味である。これは現在の「皿うどん」と「チャンポン」を指している。  敬亭の時代には現在のようにチャンポン・皿うどんとの区別はなく共にチャンポンとよんでいたのであろう。  そのチャンポンの語源については私は前県立図書館長永島正一先生の後をうけて次のように考えてきた。  先ず第一にチャンポンという言葉が長崎に登場してくるのは明治30年以降のことであることにより当時長崎に多く渡航してきた人達は福建省の華僑の人達であったので、早速、私は福建省にとんでチャンポンという料理を探した。然しチャンポンという料理はなかった。  たしか福州長楽県の食堂で腰掛けて話をしているときシャポンという言葉を聞いた。 私はこの時、これがチャンポンの語源ではないかと強く感じた。台湾に旅行したときにはチャンプと聞こえた。シャポンは吃飯と書く事もわかった。上海には此の発音はないと言われる。  すると長崎チャンポンの語源は福建省に始まり、台湾、沖縄、長崎と伝えられ、その意味は「軽い食事」を意味するようである。  其の後、崇福寺の中国盆のとき故薛春花老が庫裏の前で朝早く宿泊されていた中国の方達に「シャンプよシャンプよ」と呼びかけておられるのをお聞きしました。 朝御飯の準備が出来たという意味だそうであった。明治時代後期、福建から来られた人達が持ち込まれてきた簡単な食事チャンポンが、いつの間にか長崎の人達に親しまれ、それに更に工夫が加えられ、現在では長崎になくてはならぬ名物料理チャンポンとして有名となったのである。第12回 長崎料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第11回 長崎料理編(二)

    1.長崎くんち料理旧暦9月1日の「庭おろし」が祝宴。本膳の馳走に、甘酒、栗柿饅頭を菓子として出す。▲南蛮料理「ヒカド」 旧暦の9月9日は長崎の氏神諏訪神社の祭礼日であり、土地の人達はこれを「クンチ」とよんでいる。 古記録を読むと「長崎くんち」の祝宴は、くんち当日は忙しいので旧暦9月1日を「庭おろし」といって其の夜は家に料理を用意し親類知者へ案内をだし馳走し、「甘酒を造り栗柿饅頭を台に盛りて菓子として出す」と記してある。 長崎くんちの当日、7・8・9日の3日間は踊町・年番町などと忙しいので殊更に人を招き馳走するなどという事はなかった。  この9月1日の「庭おろし」の時の祝宴はシッポクではなく、全て黒塗又は朱塗の本膳で用意されている。  このくんち料理の資料として今回は先に紹介した割正録<第10回 長崎料理編(1)参照>の中より「長崎くんち」のある旧暦9月上旬の料理を取り上げてみることにした。 同書によると最初に出される一の膳は次のように記してある。先ず前菜として次の4品がだされる。小箱 わさび味噌をしき・雉子のささ鳥・松たけ・ぎんなん猪口 あみの塩辛引肴 大つとの蒲鉾、切しそ吸物 塩煮、こちの薄背切、ゆ(註:ゆとは湯葉のことであろう)二の膳には次の3点がだされた。膾(なます) 酢いり酒・湯引いか・はす芋・黒くらげ・ざくろふりて註:長崎くんちの膾には必ず「ざくろ」を上にかける風習が今も残っている。 私はこの「ざくろ膾」のことについて拙著「続長崎食の文化史」(平成8・10・長崎純心大学博物館刊)の中で記しているが、その時長崎女子短大の大坪藤代先生よりザクロが朝鮮通信使歓迎の馳走の中にあることをお聞きした。 このことより考えてザクロを祝宴に使用する料理は「長崎くんち」のルーツが博多にあることより考えて、ザクロ膾のルーツも博多方面から「くんち行事」の風習の1つとして伝えられたのではないかと推測してみた。どうであろうか。二の椀 すまし汁・たいらぎ(貝)・子茄子木口切・岩たけ坪皿  とうふ・とろろ三の膳として次の3品が用意されている。汁  すり立小鳥・小かぶ・しゅんぎく平皿 にしめ塩梅・たたきたこ・燒栗・小梅干大皿 鮎やき・ひたし菜・あらめ短冊▲古伊万里赤絵金彩皿註:汁につかわれている「しゅんぎく」について同書の巻末に次のように記してある「しゅんぎくは方言也。高麗菊と言う。8月頃よりたうの内葉をつみてもちゆ」次に古賀十二郎先生の未刊原稿「諏訪社雑綴」(長崎県立図書館古賀文庫)によれば10月4日くんちの人数揃の日には次の料理を用意したと記してある。 当日(人数揃の日)踊町の家では来客あれば必ず馳走を出す。1,菓子は海老糖、湿地茸、カステラなどを大平にて盛て出す。2,料理の中に必須のものは鰭椀、中に松茸と栗を入るるを要す。 この他、柘榴なます、及び泥鱒汁を用ゆ 但しこの10月4日人数揃というのは明治5年旧暦が新暦に変更になったので長崎くんちの祭礼日が10月7・8・9日の3日と変更され、それにつれて10月4日を人数揃となった事より考えて本稿の料理献立は明治頃のくんち料理と考える。2.異国趣味の長崎料理「もうりう、すすへひと、ひかど」など鶏や家鴨を使い、塩味の南蛮の料理は、多分に中国風。▲清朝の急須 前出の「割正録」には長崎地方における異国府の料理として次の7種類の料理名をあげている。 1,くずたたき。 2,えひもち。 3,もうりう。 4,すすへひと。 5,ひかと。 6,くじいと。 7,てんぷら。 私は先年・東北大学狩野文庫より「南蛮料理書」の複写本を長崎県立図書館の渡辺庫輔文庫に見いだし、更に前出の松下幸子先生より東北大学所蔵の原本の複写をいただいた。  この本の成立は江戸時代の初期と言われているが渡辺先生は江戸時代中期と考えておられた。同書の中より南蛮菓子を除き南蛮料理を拾うと次のようになる。 1,ひりやうす。 2,南蛮料理ひりし。 3,てんぷらり。 4,とりやき。 5,うをの料理。 6,くぢいく。 7,たまごどうふ、(他略す)割正録に記す「くずたたき」は南蛮料理書の「うをの料理」と同じで、その料理法は次のように記してある。 魚をせぎりにして葛の粉をつけ、摺り粉木にてとろとろと身の切れぬように打ち開き、油にてあげる。ゆびきでも用ゆ。えひ・蚫などにても同じ仕形也。(後者の本には葛の粉を麦の粉と記し、油にて揚げた後、丁子にんにくをすりかけ味をつけ煮しめるとある。) 2,えひもち、うどん粉又は葛粉を海老の身にまじへ良くたたき葱を小さく刻みこみ、丸くして油にてあぐ。「くずな」にても同じ也。 3,もうりう(松下幸子先生の注に「もうりつ」は毛竜と記してある)鶏・家鴨いずれにても、骨ともに切りて大根、ねぎなど入れ煮也。身だけをささ鳥にして用ゆ。塩あんばい也。  酒水にて良くたたき正油はかくし味として塩にて味付けをする。この他水煮ソップなど色々仕形あり。取り合の貝もこの他あり。註:多分に中国風の料理であるが文化5年(1808)江戸で発刊された「料理談合集」には南蛮料理として次のような記録がある。鶏の毛を引き、首足としりを切すて、鍋に入れ、大根を厚く輪切りにして煮あげ、鶏の骨ともよくたつき丸めて酒・塩にて、うす味にするなり。すひ口に葱、唐辛子などよし。 4,すすへひと、異国の料理也。鶏か家鴨の身をさいの目に小さく切り、水・酒にてたき正味は少し、山芋を小さく切りて入、パンというものをときて入る。又はパンの代わりに「うどん粉」を入れ、とろりとし、葱をきざみ、玉子つぶしてときまじえて出す。是も塩あんばいがよし。註:この料理にはパンの言葉が使用してある。パンはポルトガル語のp~aoであり江戸時代にはキリスト教に関係があるとして一般に食べることは禁止されていた。但し出島のオランダ人のみは長崎の街でパンを製造することが許されていたパン屋がオランダ屋敷に毎日納入していたので当時一般の人達がパンを自由に口にすることは殆どなかった。その故に料理にはパンに代えて麦の粉としている。 5,ひかど これも異国料理也。鳥と大根を小さく賽の目に刻み葱きざみ入れ、玉子つぶし入る。是は麦粉を入れず、さらりとしたるようにする也。味付は「すすへひと」と同じ。 魚を使用するときはあま鯛・いとより・小鯛にてもする也。魚は油にていため、其の上にて味をつける。すすへいと、ひかと共に同じ塩梅なり。 註:ヒカドとはポルトガル語のpicadoすなはち小さく刻む、調理するという意味である。古賀十二郎先生は長崎市史風俗編の中でヒカドについて詳しく説明しておられる。それには鮪と大根・甘藷とを交ぜて煮込み正油にて味をつけると記し、ヒカドにはドロドロ汁を作る場合と作らぬ場合があると記しておられる。 「割正録」では前述のようにドロドロ汁した場合には「すすえひと」といい、さらりとした場合には「ひかと」と言っている。1800年頃までの長崎料理では前述のように両者を分けてそのように呼んでいたのである。第11回 長崎料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第10回 長崎料理編(一)

    1.割正録のこと長崎人が執筆した長崎料理の参考書、南蛮・異国風味を加味した、異色の献立集▲青華亀山向付 長崎料理のことを記した本に「割正録」というのがある。  この本のことについて昭和37年長崎調理研究会の機関誌「長崎料理」の創刊号に渡辺庫輔先生が初めてこの本を紹介され次のように記しておられる。 割正録は長崎料理に関し最高の参考書であると信じ、此こに復刻することにた。原本は私の所蔵である。 解説は最後に書くつもりである。原本には難読のところも少なくない。変態仮名は改め、片仮名はそのままにして置いた。    寅12月  渡辺庫輔識  渡辺先生が歿くなられたのは昭和38年6月であり、この割正録の復刻は臘月上旬で終わっている。そして先生所蔵の原本は現在長崎県立図書館所蔵の渡辺文庫の中には収録されていないようである。 その後、千葉大学教授松下幸子先生より御教示いただいて割正録の写本が題名を「料理集」と改められ国立古文書内閣文庫と東北大学狩野文庫にあることを知った。また私は東大資料史料編集所の加藤栄一先生から内閣本料理集の複写本を送って戴いた。 昭和55年松下先生はこの料理集を研究され「千葉大学紀要29」にその成果を次のように発表され私にも其の一部を送って下さった。  その紀要の中で松下先生もこの「長崎料理」の価値について次のように高く評価されている。 この料理集は長崎の人の執筆で、献立の内容は長崎の料理で所謂南蛮風、異国風料理の加味された日本料理、つまり長崎料理の献立集である。  その点については異色の献立集と言える。  これは長崎にある大音寺日鑑にみる献立や同地の料亭、各家庭の料理控類を除けば、他にこれに比敵するものは見当たらない。2.この本の執筆者は誰か雅号は「崎水」。茶道や俳諧にも一応の心得があり、教養のある料理屋の主人?▲南方青磁蓋物 本の筆者を考える前に、一体この本はいつ頃できたのであろうかと考えねばならない。 渡辺先生の「割正録」には年月の記載はないが、東北大狩野本にこの本を写した年号が「享和三正月吉祥日・和田市兵衛・増田半衛門因写之」とあり、同写本の序文の後には次のように記してあると松下先生は述べられておられる。 丁巳仲和  崎水  白蘆華 記  そして丁巳仲和の年とは寛政9丁巳年仲春(1799)のことであるとされている。 その故に此の本は寛政9年以前に著述されていたのであろう。  著者の崎水とは雅号である。長崎のことを崎陽といったので崎水は長崎の人であると考える。白蘆華の本姓は不詳であるし、どのような人物であったかも不詳である。  著者は同書の序文の中で「私は茶道にうとく」。料理のことについては「只聞伝え習い得たる事を組み合わせ、その仕方等を粗にしるし、又公案を加えた類のもの、塩梅なども書付」けたのであり、この本を書く動機になったのは「或る人のもとめよりて漫にかき記す所也」といっている。 著者は「茶道にうとく」と記しているが、料理の献立は「茶人の書によりて料理の序に従う」といっているので茶道についても一応の心得がある人物で、俳諧の事を料理献立に引いて「是は俳諧にいへるさび、淋しきにあらず・・・」と記しているので俳諧にも心得があり、「崎水」とは俳諧の雅号であると考える。 以上の事より白蘆華という人物を私は次のように考えてみた。 料理の事については習得することのできた人物で、茶人ではないにしても茶道については一応知るところがあり、俳諧についても心得があり、教養のある料理屋の主人像がうかんでくる。 寛政頃の長崎を代表する料理やとして西山松ノ森社の境内に千秋亭があった。古賀十二郎先生の長崎市史風俗編の中には「俳人紫暁」の浮草日記を引いて千秋亭のことを記しておられるので千秋亭主人は俳諧を嗜む人であったろうし、千秋亭は又の名を吉田屋といったので白蘆華の姓は吉田氏であったと思う。  又、寄合町・丸山の遊里の主人にも引田屋主人山口拝之のように俳諧をよくした文人もいたので崎水はその方面のひとであったかもしれない。3.長崎料理の献立正しい長崎料理を記すという意の題名。一汁五菜を基に四季に分けた、三十六種の献立表。▲台湾の竹篭 本料理集の書の原本には「割正録」と記してあるのは、先にも言ったが、「割正」とは諸橋漢和辞典に「割は断で、さきて正すの意」とあるので、ここでは正しい長崎料理を書き残すという意味の題名と考えてよいようである。 著者は四季に分けて献立をつくり、1ケ月に3回の献立をたてて作っているので、一季節の献立は9回の献立となっている。本書は四季の献立であるから全体は9回×四季となり36種の献立が表にして竝べてある。 次に本書の序文によると「一汁五菜をもととし、猶、二汁六・七の菜類に組合せ 肉類を撰びて繁を計り、闕けたるを補ひ・・・」と記してある。  一例に正月上旬のものを記すと 二汁七菜の時   汁、  たいらぎ・岩たけ・ねせり   猪口、  塩から   曲物、  敷葛にて・骨ぬき小鴨・くわい・しめじ   炙物、  きし・干いわし・やきのり   鱠、  酢いり酒・きす・しし貝生作り・巻すいせんし・しぶ栗・きんかん   平皿、  ねりみそ、むし鮒   引肴、  青のり粉まぶし・にんじんふとと煮   汁、  薄みそ・塩鱈背切・若め・すくひ豆ふ・ぬうと   坪皿、  青かちもどき・小鳥・松露・わさび   吸物、  ぬかみそ・しじみ註、以上の献立表の次には料理の造り方が記してある。例えば●しし貝生作は、一夜正油酒にひたし置き盛り合すべし。●鱈の味噌は、骨あたまを煮出し、盛合せしかるべし。●しぶ栗は、肉皮を付て切形 さび栗ともいふよし●青かちもどき 青かちは鶉雉子に限る、仕方青かちの所に記す。もどきは小鳥の身をひらつくりにして、骨のあばらを去り、もも等こもかにたつぎ、だし正油の煮汁にてときながし、身具を加ふ。塩梅はいり鳥の少しさらりとしたる良し、塩はたっぷりと盛るべし、小鳥もつぐみ可然。 更に本の最後に長崎地方の料理材料の方言をまとめて記してあるのは大いに参考となる、例えば 1,どせん   うどのことなり。 1,くるくる   あんこうのくるくる、餌袋也。 1,ゆすら   庭梅の衆類也。 1,金ひれ   ふかひれの肉すじ也。 (以下次号につづく・・・・)第10回 長崎料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第9回 中国料理編(四)

    1.長命水のこと酒毒を酔し腹中を健やかにする、オランダ伝来の橙菓汁▲唐船舶載の卓袱用具 前章でシッポクには長命水を用うべしと記したところ、東京のテレビ局より長命水のことについて詳しく記してくれと連絡をいただいた。  前出の「会席しつぽく趣向帳(1771年・江戸日本橋須原屋刊)」によると次のように記してある。 口伝●およそ卓袱料理は大酒におよぶものなればオランダ人の用ゆる倭語にて長命水といふを出すべし。其の方は▼白砂糖、百目に水一合入れ、鶏の玉子の白身ばかりを紙に少し入れ。強き炭火に煎ずれば砂糖のあく泡とかたまり浮くを杓子にてすくい捨べし。 但し油断すれば鍋より吹きこぼれる也。是すなはち砂糖密なり。馬尾篩(すいのう)にてこし用ゆべし。▼肉豆蒄(にくずく)細末(註・マレーの原産にて稚子は香気ありナッツメグといい、昔より我が国ではオランダ船より薬種として輸入。 胃病の薬という。又肉豆蒄油として輸入したものもあった。)▼酢(す)極上のもの▼焼酒 上品のもの この四味を水に入れて出す事なり。但し調合のあんばいは甘く、酢は櫁柑の味のようにする也。 此水をのめば酒毒を酔すゆへ二日酔せず腹中健(すこや)かにする妙方也。  この長命水は長崎の人達はポンスといった。 古賀十二郎先生の「長崎方言集覧阿蘭陀語編」に次のように記してある▼ポンス、橙菓汁、Pons 講談社オランダ語辞典 Pons の頃には「中陵漫録」を引いて次のように説明してある。 オランダ人、夏月、暑を防ぐにはポンスと云者を飲む。北方のアラキと云酒二合に橙の酢を入て白糖を和し、煎る事一沸して是を水煮少しさして飲む。甚だ冷にして宜し、其アラキは南蛮の焼酎にて・・・前出の古賀先生の書にはアラキについて次のように記してある。 アラキ 強き酒なり。荒気。arak 現代の長崎シッポクにはポンスは用意されないが、調味料を入れる猪口(ちょこ)には一つは正油、他の一つにはポンズ(酢正油)がだされる。 戦前の長崎の夏の飲み物に「梅ポンス」というのがあった。これは梅焼酎に少し砂糖を加え冷水にてうすめ飲むものであった。2.シッポクの種類京都祇園で始めた大碗12の食。そして文化・文政の江戸で流行、蜀山人も囲んだ卓袱料理。▲清朝同治年製急子 長崎での婚礼の宴席や正月法要などの正式の食膳では、全て黒(溜)塗の本膳で用意され、シッポクが用意されるのは家庭的なものか。 急ぐ場合に用意されるものと、珍しい異国風の料理として客に用意されるものであったが。  明治時代以降は料理屋の発展と共に長崎の地ではシッポク料理が次第に客席にだされるようになり、戦後は特に長崎名物シッポク料理として評判のものとなっている。  文政13年(1830)開板の「嬉遊笑覧」にはシッポクのことを次のように説明している。 シッポクは食をのする机なり。唐人流の料理をしかいう。享保年中(1716~35)佐野屋嘉兵衛といふもの京都祇園下河原にて初めて大椀12の食を始めたり。 大阪にてこの食卓料理あまた弘めたり。野堂町の貴得斉ほど久しくつずきたるなし。江戸にも処々にありしなるべけれど行はれず。(おこたり草より) 然し江戸でも相当にシッポクは流行していた。 特に江戸で文人趣味が流行するにつれ異国趣味のシッポク料理は江戸の名亭八百善の文政5年(1822)発行の「江戸流行料理通」に江戸卓袱料理の図を掲げ、その四季の料理の献立を魚類と精進の部に分けて記してある。 又同所には蜀山人、亀山鵬斎の序文や谷文晁の挿絵をはじめ蜀山人・錦華が卓袱を囲む図が描かれ、卓上にはコップ、トンスイ(匙)中央には大鉢、丼物3個、大蓋物、箸立、小皿がならべられている。▲江戸卓袱料理の図(江戸流行料理通より) 又天明4年(1784)出版された「卓子式」には料理の種類を小菜8品、中菜12品、大品8品とし、他書には大菜12碗、または8碗、点心16品、小品2・3品と記している。  そして同書にはシッポクの心得を次のように記している。  一,客人は時間を違えず主人の家に至るべし。  一,主人は床に古書画を飾り香花・筆硯・玩物をかざるべし。  一,次に畑盤(タバコ盆)を出す。茶は茶盆に客の数の茶碗をのせ、茶瓶台(茶托)にのせ客人に献ずべし。  一,其の時、密煮の竜眼肉あるいは密煮の白扁豆(長崎にてはトロクスンという。)を出すべし。  一,シッポク台は始めより座敷に出してあるべし。  一,シッポク台の下には、お祝いの時には緋毛せん、精進もの、茶会席の場合は紺色の毛せんを敷くべし。  一,陪客主人同時に食卓(シッポク)につくべし。正客は中央に座り、陪客は右、主人は左に座る。  一,清人は(中国ではの意)、主人箸を取り菜肉の美なるを選び小皿に盛りて客に進む。その後、客人より主人に挨拶し、それより食すべし。  一,盃に酒をつぎ客主ともに飲む。  一,箸を碗中に置く事なかれ。汁を卓上にこぼすことなかれ。  一,料理は小皿にて食し、汁は匙にて吸べし。匙は左の手に持つべし。  一,8碗のときは67碗でたときに客より飯を乞ふべし。飯は茶漬なり、飯でるときは卓袱おわり也。  一,卓袱おわりて後、甘き蜜饌などを出し、泡茶献すべし。其の後、緑豆またはキク苡仁の砂糖煮の粥を出すべし。  このように文化・文政期(180年前)の江戸では大いにシッポク料理は流行していたのであるが、安政の開国以後、新しい料理として前述のターフル料理が流行してくると江戸でのシッポク料理はその影をうしない、江戸でシッポクといえば前出の「嬉遊笑覧」には次のように説明している。 大平(おおひら)にそば又はうどんを盛り上げたるもの也。 と説明している。第9回 中国料理編(四) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第8回 中国料理編(三)

    1.長崎名物シッポク料理遠く南方海域との交流が運んだ、長崎・異国の食文化▲雍正年製粉彩中皿 前途したようにポルトガル船についで1600年頃より長崎に入港してきた唐船は、中国大陸の港より出航してきた船ではなく、当時の言葉で言うと安南・東京・交跡・カンボチア・シャム方面の港より出航してきた船である。 その唐船出航の地は現代でいうとベトナム・カンボチヤ・タイ方面の港より出航してきていた。そして船の型は中国船とほぼ同じジャンクの型であったので長崎の人達は、これら南方海域から来航してきた船も一括して唐船とよんでいた。 但し当時の人達は、このように遠く南方方面より長崎に来航した船を「奥船」。奥船に次いで福建省方面から来航してきた唐船を「中奥船」。1700年頃よりこ杭州(寧波)方面より来航してきた唐船を「口船」と区別してよんでいた。 そして、それら唐船の来航地によって船頭達の言葉が異なっていたので、それらに応じて唐通事(通訳)が任命されていた。例えば南京口の通事は口船。福州口は中奥船、東京口やシャム口は奥船の通訳をした。 奥船が入港していた頃、長崎より出航していた御朱印船も前途したように、その寄港地は奥船の出港地ベトナム、カンボチヤ、タイの各地に貿易に出かけていた。 1636年(官営十二)徳川幕府は御朱印船並びに日本人の海外渡航を禁じた。然しその間、長崎の町には唐船や奥船や中奥船の人達が来航し居住し、唐寺興福寺・福済寺・崇福寺の建立や唐僧の渡来、加えて南方に出かけた御朱印船乗組の人達が運んできた南方諸国の異国の文化が長崎の町にはあった。 そして、そこには当然のこととして、この町には南方や中国の食文化が多く移入されていた。2.シッポクその言葉は東京の言葉であるという。シッポクの語源は、現ベトナム。卓(テーブル)を用いて食べる料理。▲唐船舶載染付碗 古賀十二郎先生は先生の名著として有名な「長崎市史風俗編」の中でシッポクの語源について詳しく記しておられる。その要旨を整理すると次にようになる。 亨保十六年(1731)長崎奉行細井因幡守は当時唐人屋敷内に在留していた唐船より来航していた人達に「シッポク」という言葉について質問したところ、唐船の人達は次のように回答した。 シッポクという言葉は中国語にはございません。中国語ではシッポクという意味は卓子と書きシッポクとはよみません。卓のことをシッポクというのは広南・東京方面の言葉でございます。 広南・東京というのは現在のベトナム方面をいうのである。するとシッポクの語源はベトナム語ということになる。 私は先年NHKの国際ラジオ局でベトナム方面を担当しておられた富田春生先生(現奥羽大学英文学科教授)にシッポクの語源についてお尋ねしたが不詳ということであったし、一昨年来崎されたベトナムTV局の皆さんを通じて調査を依頼したが納得のゆく回答に接しなかった。 ここに考えられることは、細川奉行がシッポクの事について質問した亨保年間というのは、元禄二年(1689)に唐人屋敷が完成してより約五十年も後のことであり、当時来航していた唐船は寧波を中心にした口船の人達であり、一世紀も前に長崎に来航していた奥船のことについては詳しく知ることがなかったのである。 兎も角、卓(テーブル)のことをベトナム地方では「シッポク」と言い、我が国ではその「シッポク」(卓)で食事することにより、転じてシッポクを利用して食べる料理となり、更に「シッポク料理」という用語が生まれてきた。 このことは前途の西洋料理編でターフル(オランダ語でテーブルの事)を用いて食べる食事をターフル料理とよび、やがてそれが現在の西洋料理となってきたのと軌を一にする。 次にシッポク台も変化してきた。それは卓で食事するには椅子を必要とするが、この事は当時一般の畳敷の我が国の住宅では不便であった。その故に卓の足を短くし、型も収蔵するに便利な丸型の卓が造られるようになってきた。 1820年ごろ川原慶賀が描いた唐館絵巻の唐人宴席の図をみると、そこには朱塗の丸型の足の短いシッポク台をつかって会食している図が描かれているこれよりみると唐人屋敷内でのシッポク台も畳敷の部屋にあわせて朱塗丸型短足のシッポク台がつくられていたのである。 明和九年(1772)発刊の「普茶料理付卓子通考」に描かれているシッポクの図も、畳敷の部屋にあわせた短い足の長方形のシッポク(卓)で、卓の上には中国風の模様があるテーブル・クロスがかけられ、卓の上には箸袋に入った箸、小皿、酒瓶、匙などがおかれている。3.文献にみるシッポク料理卓袱(しょうふく)と書き、日本では「しつほく」。作法はありて、さらに無きに似たり。▲唐蘭館絵巻(長崎市立博物館蔵) 明和八年(1771)江戸日本橋の須原屋より刊行した本に「新撰会席しつほく趣向帳」という料理の本がある。これをみると当時江戸・京都で流行していた「シッポク料理」のことが詳しく紹介してある。その本の序文には次のように記してある。一、しつほくという言葉は肥前長崎にていう言葉にして、おそらくは藩語ならん、唐にては八僊卓(はつすえんちょ)というて猪豚の肉を専ら用揺る事なり。・・・一、しつほくは大菜五種・六種。小菜七種・八種のものなり。大宴なれば大菜九種・小菜十六種なり。 (中略) 一、しつほくは文字詳ならず、然れども朋友とねんごろに酒を飲むことを中国の演義文に卓袱(しょうふく)と書き日本にては「しつほく」と読むという。因って此の字を用ゆ、なお後人の考えを待つべし。(浪花 禿幕子著) 続いて同書には「卓袱器物全図」があり器物の一つ一つについて図を加えている。食事法については次のように記してある。 作法はありて さらに無きに似たり 次にシッポクには長命水という酒を用意し、それは金区ラ-あるいは骨杯(コップ)とも書く也-を用いて飲むとしている。 何故、長命酒を用いるかというと「およそシッポク料理は大酒に及ぶものなれば」健康のことを考えて長命酒を用いるという。そしてその長命酒というのはオランダ人が用いる酒のことであると説明している。第8回 中国料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第7回 中国料理編(二)

    1.御朱印船の時代長崎は、朱印船の出港地でもあり、町は西欧や中国料理の匂いで多彩。▲安南国舶載赤絵呉須大皿(昇園文庫) 御朱印船の時代とは豊臣秀吉がキリシタン禁教政策に転じた十六世紀の末、唐船が長崎に来航し始めた十七世紀の初頭、この間をぬって御朱印船の時代はあった。 その御朱印船とは豊臣秀吉、徳川家康、秀忠、家光の許可をうけ、我が国の貿易船が海外渡航の許可書をもって 自由に海外貿易に従事した貿易船の事である。  そして、その海外渡航の許可書を持って自由に海外貿易に 従事した貿易船の事である。 そして、その海外渡航許可書には大きな朱印が押してあったので一般にこの許可書 を持参した貿易船を御朱印船または朱印船といった。  御朱印船の研究書としては長崎高商教授(現 長崎大学経済学部)川島元次郎先生の「朱印船貿易史」、 東京大学教授岩生成一先生の「朱印船貿易史の研究」は有名である。 これらの書物を読むと朱印船の主な出港地が長崎の港であり、更にその朱印船の船主として活躍した代表的人物の 殆どが長崎在住していた人達であった。 そして、その朱印船時代の長崎の港にはポルトガル船、唐人船の入港があり、活気にみち、町の人達は実に自由に 異国趣味のあでやかな生活を送っていた。  当時の長崎の町を歩くとヨーロッパ風の料理やパンを焼く匂い、中国風料理 の匂いとこの町の食生活は実に多彩であった。 長崎の町には今も当時の面影の一部が長崎くんちの奉納踊りの中に伝えられている。それは西浜町の竜船であり 石灰町の御朱印船である。長崎の人達はこの奉納踊りを俗に「アニオさんの通りもの」とよんだ。「通りもの」とは行列のことである。 そのアニオさんとは朱印船時代、安南国(現在のベトナムの一部)より長崎の御朱印船主荒木宗太郎のもとに嫁にこられた安南国王の一族院氏の王女の名のことである。 その王女の嫁入り行列は長崎の人達の目をみはらせるものがあったので、以来長崎の人達は何に彼につけて豪華な行列のことを「アニオさんの行列のごたる」といった。  この王女の嫁入りには安南国より多くの侍女、召使いが一緒に来航し、王女には安南国の料理を朝夕に調理し勧めたという。この安南国の料理の様式が長崎シッポク料理の源流であると説明する人もいる。 2.御朱印船の歴史朱印船の船主が貿易品と共に、我が国へ異国の食文化も運んだ。▲長崎清水寺奉納朱印船絵馬(写)長崎市立博物館蔵 さて、このわが国の食文化の上にも大きな影響を与えた朱印船の始めは豊臣秀吉の文禄初年度頃から(1592年頃) であるとされている。そしてその御朱印船の制度が廃されたのは寛永十二年(1635年)徳川幕府が「我が国人の海外渡航禁止令」を発した時であるので、その間約四十年、大いに我が国の人達が海外に発展した時期である。 朱印船の渡航地は後述する理由で中国の沿岸には立ち寄ることができなかったので、遠くベトナム、カンボジア、フィリピン、台湾方面にと出かけていた。 そして、その朱印船主として活躍した代表的な人物をあげると初代長崎代官村山等安、二代長崎代官末次平蔵をヒットに長崎町年寄高木作右衛門、同後藤宗因をはじめ、長崎商人荒木宗太郎、船本弥七郎、糸屋太兵衛などと共に面白い人物としては当時長崎に在住していた中国の人達やポルトガルの商人達も朱印状をもらって海外貿易に従事していることである。  そして、その朱印船の船主の人達は全て巨万の富をなしたと諸書に記してある。 これらの船主達は貿易品の他に多くの異国の文化を我が国にもたらしている。そしてその中の一つに異国の食の文化も運んできた。3.朱印船が運んできた食文化約一世紀、長崎だけに輸入され、日本の食文化に大きな影響を与えた「砂糖」。▲朱印船舶載トンボ染付碗(昇園文庫) 前述したシッポク料理もその一つである。シッポクという言葉は料理のことでなく卓(食卓)のことである。するとシッポク料理というのは卓で食べる料理という意味であったのが、時代と共に次第に日本風に転じて現在のシッポク料理にまで変化してきたのである。 食卓での食事となれば椅子はどうしたのであろうか、長崎では椅子のことをバンコといった。バンコという言葉はポルトガル語で椅子のことである。初期のシッポクにつくには多分バンコを使用していたのであろう。やがて、そのシッポク(卓)は日本人の生活にあわせて足が短められ現在の円型朱塗のシッポク台になったと考えている。 シッポク料理の時には各自の箸を運ばれてくる料理の器に直接さし入れ、各自の手塩皿にとり食べている。汁物などは器(丼)に各自のトンスイ(陶製のスプ-ン)を料理に差し入れ直接口に運ぶのである。この様式の食事法は従来の我が国の食習慣にはなかったのである。 長崎の人達は盆の十六日、精進落と称して冬瓜と骨つきの鶏の汁を食べたり、夏になると胡瓜と小蝦を汁物にたいて食べる風習は多分に南方より伝えられた料理であろう。 この他、シッポク料理の最後に出される丼(汁物)は、ニモンといって必ずご飯の上にその汁をかけて食べる習慣があり、更にシッポク料理の最後に出される甘い砂糖汁(お汁粉)の習慣はいよいよ南方料理の影を強く感ずる。  次に私が考えてみたいのは、朱印船が航海中に食べた食べ物のことなのである。 朱印船の航海は長崎を出航すると一路南方の目的地に向かって航海し途中の港に立ちよることはなかったのである。その航海は三十日乃至三十五日であったと記してある。  その間の食糧として朱印船に積み込まれた食糧は米、味噌、梅干し、魚や肉の干物、豚の足、野菜とある。この他 水と薪は当然積み込まれていたはずである。 朱印船の大きさとその乗員の人数については次のように記してある。「船の大きさは大小あるが100屯以上 平均268屯」とある。その積荷は「5、60万斤或いは80万斤づつ積申大船」と記してある。乗員数は平均200名前後であった。その2百人前後の乗員の三十日間の食糧となると大変な量であったに違いない。 さて、その帰路の食糧、薪、水は現地のものを積み込んでいる。米は主食とし、調味料としての味噌は南方の味噌であり、野菜類も南方のものを積み込んだに違いない。 西川如見の著書「長崎夜話草」や広川の「長崎見聞録」をみると異国より持ち渡られた蔬菜類として。南瓜(ボウブラ)はマカオ、ルソンより持渡る。西瓜は西域の地より。ジャホはサボン也、蛮国より伝わる。唐菜、高菜、冬瓜、猛宗竹これらみな唐国より持ち渡る、などと記してある。この他「和漢三才図絵」や「本草網目」などをみると多くの蔬菜類が持ち渡られていたことが知られる。  朱印船の積荷の中より食文化関係のものを拾うと次のようなものが、○マニラより   白砂糖、葡萄酒。○東京より   肉桂。○交跡より   砂糖、蜜、胡麻。○カンボジアより   蜜、黒砂糖。 朱印船の時代より我が国の食文化の上に大きな影響を与えた砂糖の輸入が急速に伸びている。 以来砂糖の輸入は朱印船の廃止以後は唐船、オランダ船の輸入品目の中に引きつがれ、我が国で使用される全ての砂糖は、我が国で砂糖がつくられるようになった十八世紀の後半までの間約一世紀、長崎にのみ輸入され、長崎会所の手を経て全国に売捌かれていたので、砂糖は長崎会所経営の重要な財源であった。  この故に長崎の文化は「砂糖の文化」であると言う人もあるほどである。第7回 中国料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第6回 中国料理編(一)

    1.はじめにザビエルが驚いた、日本人の食生活。当時は、雑炊を主とした朝夕2食。▲江戸時代に編纂された「清俗奇聞」食の部 食の文化は異国の文化との出会い・接触によって食事の洋式、味の嗜好などと大きく変化してくる。  一五四三年、初めて我が国に来航してきたポルトガルの人達はヨーロッパの食生活との相違に非常に驚いている。 一五五〇年九月上旬、平戸の港に上陸し、キリスト教の布教のため山口、京都、大分と旅を続けたフランシスコ・ザビエル上人は、その翌年の十二月マラッカに帰りつくと早速ローマに「日本という国のこと」について長文の報告書を綴っている。そして、その中に日本人の食生活について次のように記している。  一、日本の人達は家畜を殺して食べるということはありません。日本の人達はよく魚を食べるのです。  一、米や麦はありますが、その量は少ないのです。野菜は多く良く食べますが、果物は少ないのです。  一、日本の国では聖職者(坊さんや神父達)がもし魚や肉を食べるのをみたら、皆、大いに眉をひそめます。それですから私達神父は絶えず食物を制限する必要がありました。 当時の日本人の食事は朝夕の二食で中食をとることはなかった。慶長の頃(一六〇〇年頃)の一女性の物語を記した古文書「おあむ物語」というのがあり、その中に当時の一般家庭の食事のことが次のように語られている。 朝夕はたいてい雑炊を食べました。それでも兄さんが時々山に鉄砲うちに行かれます時には、朝から菜を入れた飯をたいて弁当にして持たせられました。その時には私達も菜めしをもろうて食べさせてもらいますので、たびたび兄さんに勧めて鉄砲うちに行かれるようにしたものでございます。 当時の神父達の報告書の中にも日本人は野菜を炊きこんだ雑炊を食べているという記録が多く残されている。2.長崎開港当時の食文化日本の食文化は、いつも長崎の町を中心に大きく変化。▲唐船持ち渡りのシッポク用具 ポルトガル船の入港とキリスト教の布教は急速に我が国の食生活を変化させてきた。そのヨーロッパ風食生活は常に長崎の町を中心にして大きく変化していった。 何故ならば、長崎の町は開港九年後には領主大村純忠の手によってイエズス会の知行所として寄進され、町の住民は全てキリスト教の信者であり、ポルトガルの人達は自由に街なかに住むことができた。そして、そのポルトガルの人達の奥さんは日本婦人であったので長崎の町ではパンが焼かれ牛肉の料理もつくられていた。 しかし、一六〇〇年頃になると幕府の命によりキリスト教徒への禁教政策が次第に高められてきたので、キリスト教の教義に深くかかわりのあるものは次第に排除されてきた。このような中で先ずキリスト教に直接関係のあるパンと葡萄酒の使用については注意がむけられた。特にパンの使用については一六四〇年以来は街中で自由につくる事が禁止されている。但し出島オランダ屋敷の蘭人の食糧として必要なパンの製造は許されていたが、それも長崎の街に一軒ときめられ、毎日製造するパンの数もきめられていた。そしてそのパンは一個たりとも日本人に渡すことは許されなかった。3.唐船来航五島や平戸への唐船来航から始まった、家庭料理としての中国料理。▲川原慶賀筆 唐蘭館絵巻 荷揚水門図(長崎市立博物館蔵) 長崎開港前の唐船は五島、平戸、松浦方面に入港している。その船団の中でも五峰王直の名は有名であった。王直は先ず天文年間(一五四一)五島に来航し江川(福江市内)に居を構え、次いで平戸に進んでいる。平戸では松浦隆信が五峰を援助し勝尾岳の東ふもと屋敷を構えさせている。現在、福江市や平戸市にある六角井戸(県文化財史跡地)は当時の唐船の人達が使用していた井戸であると伝えている。そして、その地では多くの唐船の人達が日本婦人を妻にむかえて家庭をもっていたので、それらの家庭では豚や鶏などをつかった中国料理がつくられていた。 長崎開港の当時はキリスト教徒でない唐船の人達は長崎の港に近づけなかったが、前述のように一六〇〇年頃よりキリスト教徒への弾圧が次第に強められたとき唐船の姿が長崎の港に見られるようになった。 しかし長崎の街中にはまだキリスト信者の人達が多かったので仏教徒である唐船の人達は先ず長崎の対岸、稲佐江ノ浦の港を中心にして立神、深堀方面に船づけし荷揚げしていた。 やがて唐船主の欧陽華宇、張吉泉の二人が中心となって航海安全、菩提供養を願って江ノ浦の台地に悟真寺を建立している。時に慶長七年(一六〇三)のことであり、この寺の建立が長崎の町における仏教復興の最初になったと記してある。 元和六年(一六二〇)唐船の人達は自分の手で唐寺興福寺を長崎市内の寺町に建立している。この時代になると唐船の人達は多く長崎の町に移り住み、今までのポルトガル人にかわって長崎貿易の主導権をとり、町中に自由に住むことが許されていたので、唐船の人達の婦人は全て長崎の人達であり、其処での家庭料理は全て中国料理であり、台所の鍋にはシヤンコという鉄鍋がつかわれていた。 先月、私は崇福寺でおこなわれた媽祖祭に招待された。主催は長崎華僑の三山公幇の人達で上供は全て福建の郷土料理との説明であった。私は長崎の唐風料理の参考書として有名な「八僊卓燕式記」や「唐山卓子菜單」の写しをもって出かけ、藩美官総代の解説を聞きながら、その料理の手控えをつくった。そこに私は初期の長崎に伝えられた唐風料理の片鱗を感じからである。  当日の料理メニューを記してみると、一、方肉、長崎地方でいう豚の角煮である。昔は莞菜という野菜を入れて醤油、砂糖、酒で煮込み茴香の粉をふりかける。二、羊兒、山羊肉を大根、里芋、人参などを淡白に漬汁仕立にし丼に入れる。三、炒鶏、この料理は江戸時代長崎で編纂された「清俗奇聞」にも記載してあり、鶏と野菜のいためものであった。四、蟹の油揚げ。五、魚の油揚げに野菜の味つけが上からかけられていた。六、車海老の油揚げ煮込み。七、まて貝の料理で福州地方の媽祖祭には必ず供えられるという。八、卵と野菜の油いため。九、ごまパン。十、最後に米麺の油いための大皿が出た。 昭和五二年三月、私は長崎市立博物館年報十七号に媽祖祭の資料を収録したがその参考資料として崇福寺の古記録「天保六年末八月改媽祖祭要言」も加えた。そこには媽祖堂の上供八盆や宴会用の卓子料理献立が記してあった。その料理には、一、小菜六皿。二、大菜三皿。三、中鉢六皿。四、味噌汁。五、澄免。それに菓子、餅などが記してあった。そして、それが全て精進料理であった。 考えてみると崇福寺は黄檗宗の禅寺であり、江戸時代には禅寺の食事は全てが精進料理であったので崇福寺内の媽祖祭も当然精進料理であったはずであり、現在のように山羊や豚などを上供として登場させたのは明治時代以降のことである。多分にこのことは福建地方の食文化の風習が大きく影響しているものであることが知られている。第6回 中国料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第5回 西洋料理編(三)

    1.幕末と共に長崎の洋風化は進む市街地の遊歩を許可された異国人たちが変えた、長崎の町▲ペトルレゴート社見本皿(長崎市立博物館蔵) 嘉永六年六月三日(一八五三)ペリー提督アメリカ大統領の国書をたずさえ浦賀に来航。  その年の七月にはロシアのプチャーチン三隻の軍艦を引きつれて長崎に入港。  この米国・ロシアの来航に続いてイギリス・フランスの軍艦が来航し幕府に和親条約の締結と開国を求めた。 安政二年(一八五五)これに対して幕府は遅まきながら国防の充実を計り、長崎の地に洋式兵学を学ぶ施設として外浦町西役所内に「海軍伝習所」を設立、旗本と諸藩のの中より、伝習生を募集し、講師陣にはオランダ海軍の士官、下士官を招いた。 このため従来は出島の地以外には自由に市中を歩き回ることを許されなかったオランダ人に対して「市街地の遊歩を許可する」という通達がだされ、又これに続いて奉行はイギリス人、アメリカ人の市街地遊歩も許している。 市街地遊歩を許可された外国人達は店に立ちより東洋の珍しい品々を土産に多く買いこんだ。これに目をつけた長崎の商家の人達は外人専用の土産品を店さきに並べはじめた。 安政五年(一八五八)十二月にはキリスト教徒の発見のため厳格に実施されてきた「踏絵」の執行が止められることになり町の様子も何か次第に洋風化してきた。 その頃、長崎の港に来航したイギリス海軍のオズボンは、長崎の町のことについて次のように彼の著書「日本近海航海日記」に中に記している。 私達は出島に上陸し、それより長崎の地にでて行きました。ある店で我々は顕微鏡、望遠鏡、日時計、定規、物指、時計、ナイフ、スプーン、ガラス器、ビーズ玉、など、皆これらの品はヨーロッパの型にならって長崎の地で作られたものだそうです。 2.長崎の開港居留地には洋館、外国人経営の店。外国人専用の英字新聞も刊行された。▲長崎板画・蘭人酒宴図(長崎市立博物館蔵) 安政六年五月(一八五九)幕府は遂に長崎、神奈川、函館の三港を先ず開港することにした。 イギリス聖公会のリギスン牧師は英語教師の名目で来航してきた。続いてアメリカのウィリアムズ牧師も英語教師の名目で来航し、密かにキリスト教の布教を開始している。 大浦地区の東山手、南山手には外人の居留が完成したので、そこには大勢の外国人、新しく渡来してきた中国人の人達が住むようになった。その大浦地区には、洋風建築が建ち並び外国人の商社、外国人の経営する日用品を販売する店、肉屋、パン屋、バーなどがあり、外国人専用の教会も建てられていた。 梅ヶ崎の海岸道路ができるまでは大浦地区の人達は皆十人町の坂を下り、広馬場、本篭町、船大工町を通り、浜町方面に買物にでかけた。 それ故に本篭町、船大工町の町筋には外国人相手の土産品店が軒をつらねていた。  長崎開港の3年後、プロシャ国の使節として長崎に寄港したオイレンブルグは街の商店の様子を次のように説明する。 長崎の人口は約六万人。日本人の店にヨーロッパの商品も多く並べてある。例えばイギリス製の木綿の反物、マッチ、ガラスのコップ、ブドウ酒の空ビン。動物屋もある。その店には有名な子犬や、珍しい鳥や小動物が篭に入れておいてある。長崎の店には全てヨーロッパ人が好んで買うであろうものが計算されておいてある。そしてそれらの店にはまた日本人には決して必要としないであろうスープ皿、ソース入れ、いろいろな大きな洋皿の一揃えが並べてある。 オイレンブルグはこのとき田上を越えて茂木まで使節の人達と共に遠足している。茂木では村の代表者達が出迎え、そこにはヨーロッパ風に飾られたテーブルが用意され、更にテーブルの上にはオランダの国旗と万国旗が飾られていたと驚いている。テーブルに座ったとき、プロシャの軍艦からつれてきた音楽隊が何回も何回も演奏したと追記している。3.日本の料理店もこの風潮にあわせる。幕末の頃、長崎の料亭で大いにもてはやされた洋風料理。▲青白色硝子腕(長崎市立博物館蔵) 幕末の頃の長崎の料亭は七十軒あり、東西南北の四組にわかれていた。慶応二年(一八六六)奉行所はこれら組員の中より上筑後町迎陽亭杉山村助、西山松森神社境内吉田屋内田重吉(後の富貴楼)伊良林藤屋松尾長之助、出来大工町先得楼本庄与吉の四名を御切紙を以て惣代御用を仰付けている。 これらの料理の料理控帳をみてみると必ず洋風料理の一皿乃至二皿が加えられている。中でも藤屋では従来のオランダ風洋食は二流なりと言って一族の松尾清兵衛を慶応元年二月上海に派遣し更に北京まで出張させてフランス料理を修得させている。  このことにより長之助は佐賀鍋島藩主に佐賀に招かれ清兵衛と共に早速、鶴のブラドを調進したところ大変お褒めにあずかったという。  さらに明治三年八月には鍋島老公が江戸で病気となられ、その薬飼として洋食が第一であるというので藤屋に東京までくるようにとの下命があった。そこで藤屋では四代松尾作市他数名が東京愛宕下藤屋掛屋敷の鍋島邸に伺候しフランス料理を調進している。  藤屋は今の若宮神社横の横田氏の所を玄関に後方は松田氏の庭園付近まであった大きな料亭であったが昭和の初年廃業している。 明治九年十一月二十六日長崎県令北島秀明の着任祝が藤屋で開催されているが、当時の献立が残っている。 料理は本膳にて向付、ひれ椀、向皿、鉢と並び大鉢四皿の中に「牛のフルカデル・野菜付」が加えられている。これが藤屋秘伝のフランス料理であると記してある。 本河内の入口、一ノ瀬にも有名な料理螢茶屋があった。ここでも二代の当主甲斐田政吉は幕末の頃より盛んに洋食を調進し評判のものであった。私が市立博物館に勤務していた頃、螢茶屋旧所蔵のガラス椀や洋皿を多数購入したことがあったが、それらには皆「文久二年流螢舎」と記してあった。文久の頃(一八六一)を頂点に長崎の料亭では大いに洋食がもてはやされていたと考える。第5回 西洋料理編(三) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第4回 西洋料理編(二)

    1.横浜の西洋料理横浜初、洋風建築の西洋料理店。それは、長崎人によって始められた。▲明治初期のビードロ用具 横浜沿革誌を読むと次のように記してある。 明治二年八月、横浜姿見町三丁目に谷蔵なるものが西洋割烹を開業。当時は外国人の供養を目的とし 本邦人は之を嗜むものなし この横浜で最初に西洋料理を創業したとされる谷蔵は長崎県出身の人であったという。その谷蔵のことについて「明治車物起原」には次のように記してある。 横浜西洋料理の祖、長崎県の人大野谷蔵は初め姿見町三丁目に開業、後に今の相生町五丁目に移り開業・・・・ 次に明治五年三月二十三日発刊の横浜毎日新聞には、「西洋料理店崎陽亭」開業の広告が次のように掲載されている。 西洋料理御一人前、金二分より従来馬車道似て渡世士候ところ、類焼後、尾上町二丁目に開業まかり在り御ひいきを蒙り候ところ、今般西洋風家作造営、来る二十五日より開店、風味第一、且つ下直に差上候間、不相度ににぎにぎ敷ご入来、沢山御用仰付られ候よう 願上げ奉り候   崎陽亭利兵衛 この崎陽という言葉は長崎の別称であるので営業主の利兵衛は前記の大野谷蔵と同様長崎の出身者であり谷蔵と利兵衛は同一人物であるという人もいる。そして利兵衛の店は洋風建築であったっと紹介している。これは恐らく横浜における洋風建築の西洋料理店としては最初の物であったと考える。 私はここに、横浜における本格的西洋料理は全て長崎の人達の手によって始められていることに注目している。  これより少し前の文久元年(一八六一)横浜に滞在していたシーボルト父子は横浜における食事のことについて次のように述べている。 私達の横浜での食事はアカリーという黒人ボーイのレストランで過しました・・・・・其の後、私達は今度フランス教会で改宗した上手な料理人を雇うことができましたので大変愉快な食事となりました。 このフランス教会で改宗した人というのは、当時はまだキリスト教禁教時代であったので日本人ではなかったと考えている。2.長崎の西洋料理屋出島のオランダ人に料理見習い。長崎生まれの西洋料理人、草野丈吉。▲自由亭(明治11年建、グラバー園内) 長崎の町で一番早く西洋料理の専門店を開業したのは草野丈吉であったといわれている。 草野丈吉のことについては小冊子の伝記が出版されている。それによると丈吉は天保十年(一八三九)上長崎村伊良林郷次石、若宮神社前で生まれ、少年の頃、出島のコンプラ商人の一人増永文治の使用人として雇われている。このことが丈吉を西洋料理に向かわせる遠因となっている。 丈吉は幼少の頃より働きものでまじめで人と争はず、実に利発な少年であったという。この少年を信頼していた増永氏は、当時としては給料もよく高給とりとしてエリートの職業であった出島に居住していたオランダ人の使用人に丈吉を推挙している。 その出島での丈吉の働きぶりには大いにみとめられ、やがて在オランダ公使のゼネラル・デヴィットの使用人となった。公使デヴィットは丈吉がオランダ料理を研究したいという目的を知って、当時長崎に入港していたオランダ船セロット号の調理師見習いとして推挙している。ここでも丈吉は彼が真面目が大いに認められ、オランダ語を身につけ、横浜、函館と各地を廻り、めきめきと西洋料理の腕を上げ、外人はみな丈吉の料理を称賛したという。 これに自信をえた丈吉はデヴィット公使の許可で知人となった五代友厚に西洋料理専門店開業のことを相談している。友厚は丈吉に「これからの時代はきっと西洋料理を注文するものがふえてくるであろう」と言って開店開業のことを進めたと草野丈吉伝は記している。 五代は後に明治初年を代表する大実業家となった人物であるが当時は長崎海軍伝習所に学び薩摩藩を代表する一員として活躍していた。 この五代と丈吉の出会いは、後に五代が外国事務局判事・大阪府判事となったことにより丈吉の西洋料理の大阪進出への端緒となっている。3.草野丈吉の開業。グランド将軍や内外の賓客が訪れた、本格的洋風接待所「自由亭」。▲西洋料理発祥の碑(グラバー園内)文久三年(一八六三)丈吉は前述の伊良林若宮神社前の自宅に少しばかり手を加え、屋号を土地の名に因んで良林亭とよんだという。然し渡辺庫輔先生の「幕末長崎料理屋名寄」には東組の中に「伊良林郷 草野屋丈吉」とあり、慶応三年(一八六七)の名寄には「伊良林 自遊亭丈吉」とある。  草野屋(良林亭)時代には店の前に次のような張り紙がだしてあったという。料理代 御一人前金参朱 御用の方は前日に御沙汰願上げます。 但し六人以上の御方様はお断り申し上候。 部屋は六畳一間で椅子がなかったので酒樽を使用し、洋食器も六人以上は不備であり、使用人もなく、丈吉はコックとボーイ役を兼ねて一人で走り回っていた。 料理代三朱といえば、一両の3/16である。一両を現在の七万円とすれば三朱は一万三千円位となる。しかも店は伊良林若宮神社前という山の中腹にあって人力車も行かず、電話のない時代に前日より予約して御来店下さいというのであるから、西洋料理一皿を食べるのも大変であったと考える。然し、それでも丈吉の店は繁昌していたのである。  これは丈吉が外国人接待用のターフル料理を、要望に応じて其の処に出むいて調達していたからである。翌々年丈吉は店を自宅の下方でより便利なところに移し、店も広め料理代も一朱としている。今も土地の人達はこの場所をジュテイとよんでいる。 明治十一年丈吉は長崎市馬町諏訪神社前に進出、立派な洋風建築を新築し店名を自由亭と改称、長崎を訪問する各国賓客の本格的洋風接待所として活用している。その故に自由亭はアメリカ大統領グランド将軍をはじめイタリヤ、ギリシャ、ロシヤの賓客が次々と訪れた記録が残されている。 さて、丈吉が用意した料理の献立については殆ど記したものをみないが他の資料より考えて料理名をあげると、 牛のソウパ(スープ)、パスティ(肉入りパイ)、フルカデル(肉饅頭)、牛のロース煮、ハム、ビフテキ、ゴウレン(魚の油揚)、豚料理、鶏料理、サラダ、パン、コーヒーなどにカステラ、カスドースなどの洋菓子がつけられていた。 丈吉は商業都市大阪への進出を契機として、前述の五代友厚後からの力をかりて明治二年大阪川口梅本町に外人止宿所(ホテル)を完成、翌三年にはこれを自由亭と改称、丈吉は大阪府料理御用達を命ぜられている。 明治九年、京都で博覧会が開催されている。丈吉は、このとき祇園二軒茶屋にあった藤屋が廃業したので早速その跡地を買収、ホテルと西洋料理専門店を開業、屋号はそのまま藤屋といっている。 当時の料理の代金は「上等五十銭、中等二十七銭五厘、下等は二十五銭」であった。第4回 西洋料理編(二) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第3回 ターフル料理編

    1.その名前の事ターフルとはオランダ語のTable。テーブルで食事をするという意。▲グラバー園内旧オルト邸(国指定重要文化財) 寛延三年(一七五〇)、長崎奉行所に江戸より赴任していた小倉善就の父某の撰と記してある「紅毛訳問答」に、オランダ通詞より聞いた言葉として次のようなことが記してある。 一、シッポクと唱候は蛮語にて候哉 紅毛にはシッポクという言葉なし、紅毛にてはターフルと申候、シッポクはいづれの語たること、審ならず。  ターフルという言葉はオランダ語のTableという言葉からきている。ターフルは英語のテーブルという意味である。  すなわち、ターフル料理というのはテーブルで食事をする意味である。 その昔、長崎の人達はシッポク料理という言葉をつくりだしている。そのシッポクという言葉については、故古賀十二郎先生の研究論文中に次のように記してある。  シッポクとは東京(トンキン)語にて卓のことである。  トンキンというのは現在のベトナム国内の一都市の名であるが、昔はその地方の王国の国名で、そこの国王の名を阮氏といった。 それでは何故、そのような東京地方の言葉が長崎に伝えられ、シッポク料理として現長崎の名物の一つになったのであろうかと疑問を持たれる。それには、初期長崎の唐船貿易のことから考えてゆかねばならない。当時長崎の港から出発した貿易船を御朱印船とよんだ。御朱印船は多くベトナムを中心にして活躍した。中でもその中心地はトンキン王国であった。長崎の御朱印船主の一人に有名な荒木宗太郎がいた。宗太郎はトンキン王の信任をうけ遂に国王の娘アニオさんをお嫁にいただいた。宗太郎はアニオさんをつれて長崎の町に帰ってきた。そのアニオさんの上陸の行列は人々の目をみはらせ、今も「長崎くんち」の奉納踊りにその面影を残している。それは昨年石灰町が「くんち」に奉納した豪華な御朱印船入港絵巻にもあらわれている。 そのようにトンキン地方の文化は異国趣味の文化として急速に長崎の人達に大いに歓迎された。その中の一つに卓を囲んで食べるシッポク料理があった。この食事法は、これまでの我が国にはなかった食事法であり、料理であったので、人々は驚きの目をみはって食卓についた。やがてこのシッポク料理は江戸にまで流行していったのである。  このシッポク料理にかわる洋風の新しい様式の食事法・料理として長崎の町に登場したのがターフル料理なのである。2.新しきものオランダ人を持て成すために用意。出島オランダ屋敷の蘭料理。▲グラバー園内旧グラバー邸の食堂 ターフル料理は先ず出島オランダ屋敷の料理を基本としている。  このターフル料理の名前が長崎の文献にあらわれてくるのは安政初年頃(一八五四~)からである。はじめは蘭料理として記してある。安政四年(一八五七)四月の佐賀藩の記録の中に、 蘭船将其の他六人。ストークル三人え蘭料理御馳走おうせ付られ、右手当として十六日鵬ヶ崎え持出、給仕も相頼まれ申候。  また、同四月二十日の記録には当時用意された料理名が次のように記してある。  蘭料理鶏ケルリイ、豚フルカテル、豚ヒストック三種ならびに蘭酒二本、但し銘酒とシャンパンヤ このことより考えて最初に蘭料理を必要としたのは各藩が出島のオランダ人と商取引の関係上オランダ人を招待する必要があり蘭料理を用意したのである。佐賀藩はことに長崎港の警備役を兼ね長崎奉行所との交渉も親密であり、当時すでに安政二年(一八五五)十月には長崎西役所内(現在の県庁)に海軍伝習所が発足し、そこの教官としてファビウス以下二十名のオランダ士官・下士官が在留した。かくてオランダ人に対しては、出島を出て市街遊歩の事が許可された。又当時の佐賀藩主鍋島閑叟公は特に様式兵学の取り入れに力をもちいていた必要上、このようなオランダ士官との交渉の場を設けたのである。 当時の長崎の町にはまだ蘭料理の調理に堪能な人は前回のべたオランダ屋敷内の料理人三人以外にはいなかったので、佐賀藩では前記のように三人のオランダ人にその調理を依頼したのである。  安政六年(一八五九)正月、長崎奉行所「御用留」の中にロシア人が対岸の稲佐に上陸を許され酒宴を開いた模様を記し、その料理を「タアフリ料理」と記してある。翌安政七年十月五日の出島「万記帳」の中にも長崎奉行所目付役小倉九八郎が出島を訪ね、カピタン部屋でターフル料理を差し上げたと次のように記してある。  小倉様カピタン部屋にお入りなされ、御茶御煙草盆ターフル差上く、暫く御滞在、夫より出島商人の見世ご覧なされ候。 この時のターフルは簡単な洋風料理か菓子などであったと考える。3.ターフル料理は変化した。長崎西洋料理の始まりは、居留地の外国人の為の食料調達から。▲シーボルトが諫早候に送った酒瓶セット(長崎市立博物館蔵) 安政六年(一八五九)の開国と同時に長崎の町の様子は一変した。今までのオランダ人のみでなくアメリカ、フランス、イギリス、ロシアの各国の船が長崎に入港し、大浦方面には居留地や各国領事館がつくられ、外国人の食料として、「牛とき場」(屠刹場)が戸町海岸に文久二年(一八六二)官許によってつくられた。  これが我が国における官許の牛屠刹場のはじめである。イギリス領事館はこのとき奉行所に「食料として一年に牛五拾頭は確保しておいてもらいたい」と申しでている。これは、日本側が農耕用としている牛を外人側に差し出すことをあまり歓迎しなかったからである。 安政五年(一八五八)イギリス領事館開設準備のため長崎に渡ってきたホジリン氏の婦人は、彼女の書簡の中に当時の西洋料理事情を次のように説明している。長崎の地にはミルクもバターもありません。私たちは上海から食料用の羊を積んでいましたので、それを食べてどうにか過ごしました。牛肉を食べるのは困難です。私たちは上海からつれてきた中国人が早朝から出かけて九時頃やっと帰ってきて、すこしばかりの鳥や魚をもってきます。時にはこの中国の料理人が少しばかりの豚肉をさげてきて私達に自慢するのですが、これは私達の目からみれば食用にならないものが多いです。 次に彼女の文章をよむと、卵だけは充分にあったので毎日オムレツを食べたこと、外国船が入港したときには塩漬の貯蔵肉が手にはいるのでそれでカレーを作って食べたことが記してある。  さらに果物のことも記して、「日本の果物は早どりするので全てが固いので私達は二、三日おいてから食べます」と言っている。その果物は、香りのないメロン、かたい杏、石梨、かたい桃があったという。香りのないメロンというのは西瓜のことであろうか。 ここに安政六年に上海から入港した外国船の積荷の控がある。その中より食料の部を拾うと次のようなものがあった。 塩豚肉、酢、麦粉、パン、砂糖、豆、豌豆、ハム、干リンゴ、飲物 次に、居留地内の外人宅に日本人が次第に使用人として雇われるようになってきた事、外国人が必要とする食料を長崎の人達が調達しはじめてきた事は、長崎の人達をターフル料理に目をむけさせてきた。やがて、この外国人雇の日本人使用人の中に、西洋料理を学ぶ人達があらわれてきた。やがて長崎の人達は、一度は是非この西洋料理なるものを口にしてみたくなってきた。第3回 ターフル料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第2回 オランダ料理編

    1.出島オランダ屋敷の事奉行は、日本の牛を食べる事を禁止。オランダ人は、バタビヤから牛肉を運んだ。▲ミニ出島 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。  南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。 平戸の町で、それまで自由に貿易していたオランダ人が、幕府の命令で長崎出島の地に移転することを命じられたのは寛永十七年のことである。 翌寛永十八年五月十七日(一六四一・六)オランダ人は出島に移り、長崎出島オランダ商館を設立している。  このオランダ商館を島原城主高力摂津守は早速見物ににおとずれている。このときカピタンは、見物客一同にオランダ風の料理を用意し、葡萄酒、アメンドウ、パンケーキを用意してもてなし、食事がおわると商館員が遊ぶ玉突部屋を案内し、ゴルフを見せたとオランダ商館日記に記してある。 そして、まもなく奉行所より次の連絡がとどいた。「長崎に入港してくるオランダ船の積み荷の中にある食品のうち牛肉、塩豚肉、アラク酒、イスパニヤの葡萄酒、オリーブ 油その他、キリシタンが通常使用するものを日本人、支那人に 売渡すこと贈寄することがあってはならない。そして日本の牛を殺して食べることも禁止する。」  出島のオランダ人はパンを食べたいのでパンを焼いてくれるようにと長崎奉行所に願いでている。 それまで長崎の町には多くのポルトガル人が住んでいたので何軒ものパン屋があったが、パンはキリスト教に関係があるというのでパン屋を廃業させられていた。奉行はオランダ人の願をきき入れ、パン屋の一軒を残しパンを焼かせることにした。但し、そのパンは絶対・日本人に売ってはならないという条件がついていた。  然し、豚肉と鶏は比較的に自由に手に入ったと記してある。それは豚肉は来航してくる唐人船の人達の食料として是非必要であったので奉行も豚を長崎周辺の農家で飼うことを許していたからである。 オランダ人は、日本の牛を食べてはならぬという奉行の命令があったので牛は年に一度、貿易のためにバタビヤから入港してくるオランダ船に牛を積みこんで出島に運んでいる。  出島のオランダ屋敷内で、この牛を屠殺する風景は当時評判のもので出島見物記の中によく記してある。出島カピタン・H・ドーフの日記の中にも次のように記してある。 「このバタビヤの牛を出島で屠る時、長崎奉行、代官は喜んで、その牛肉の 一部を贈呈うけるのである。そして牛肉は美味であるといって食べる。  それは牛肉は薬になると信じているからである。」 天明八年(一七八八)十一月長崎に遊学した洋画家で蘭学研究者の司馬江漢も、このオランダ屋敷の牛肉をオランダ通詞稲部松十郎の家で食べている。その試食のことを江漢は次のように訳している。  「稲部方に帰りて牛の生肉を喰う。味ひ鴨も如し。 ・・・オランダ人、出島にて牛を足のところより段々と皮をひらき、ことごとく肉を塩漬にする。2.オランダ屋敷の料理人カピタンの江戸幕府にも同行。「出島くずねり」と呼ばれた、 三人の日本人料理人がいた。▲現在の出島の石垣 オランダ屋敷内には勿論本国からつれてきた料理人もいたが、日本人の料理人もいた。  この日本人料理人のことを「出島くずねり」と呼んだ。日本人の料理人は三人いた。その給料は一ケ年、一人は銀八百八十匁、一人は七百九十匁、一人は七百拾匁であった。 この三人の料理人のうち出島カピタンが将軍拝謁のため江戸に旅行するときには、二人の料理人がテーブル一台、折りたたみ椅子三脚、必要な食料を持って同行している。 安永五年の春(一七七六)カピタンと共に江戸に旅行した出島の医師ツンベリーの「日本紀行」の中に、この日本人料理人のことを次のように記している。 「二人の料理人は旅行中、常に一人は本隊より一足先に出発し、オランダ人が宿についた時には、すぐに食事がとれるように準備し、オランダ風の料理を上手につくることができる」。 そして、この出島で料理をつくっていた人達が、やがて我が国に西洋料理を伝えた人達につながっていると考えてよいのではないだろうか。3.オランダ正月と西洋料理年に一度の饗宴は、和洋折衷仕立ての、珍奇なオランダ風フルコース。▲唐蘭館絵巻会食図(長崎市立博物館蔵)年に一度、出島のオランダ人は出島出入の役人を招いてオランダ風の洋食でもてなしている。この日は西暦の一月一日であったので長崎の人達はこの日をオランダ正月とよんでいた。そして、この行事は大変有名であったので、長崎版画の中に各種のものがつくられているし、絵画としても描かれ、その献立表も残っている。その中でも文政初年頃(一八一八)に編集された「長崎名勝図絵」には実に詳しく、その時の献立が次のように記してある。 大蓋物一ツ。味噌汁仕立・中に鶏かまぼこ、玉子、椎茸。 蓋物二ツ。一、味噌汁仕立、中にすっぽん、木耳(きくらげ)、青ねぎ。 二、味噌汁仕立・中に牛。鉢物十種。一、牛股油揚。二、牛脇腹油揚。 三、豚の油揚。四、焼豚。五、野猪股油揚。六、家鴨丸焼。 七、豚の肝をすって帯腸に詰る。八、牛豚すり合わせ同じく帯腸に詰る。 九、豚のラカン(ハムの事)。十、鮭のラカン。 大鉢一ツ。潮煮汁なり。中に鯛、あら魚、かれい。 ボートル煮鉢物四ツ。(註、ボートルとはバターの事)一、オランダ菜。 二、ちさ。三、ニンジン。四、かぶら。菓子、紙焼カステラ。タルタ。スープ。 カネールクウク。丸焼きカステラ。○オランダ本国米なし。ゆえに小麦粉を常食とし、小麦粉を粉にして固め、 これを蒸焼にす、その名パンと言う○コッヒー。オランダ人、我が国のお茶の如く飲む。コッヒーと言うものは、形、豆の如くなれども実は木の実なり。豆は日本の大豆に似たるものを砕いて湯に入れ、煎じ、白砂糖を加えて飲む。▲長崎港府瞰図(長崎市立博物館蔵) オランダ正月にこの料理が全て出されたのであろうか。 オランダ人の日記をよむと、「お客によばれた日本人はオランダ風の料理には殆ど手をつけず、懐より大きな紙をとりだして包むと、大急ぎで出島の門の所に走って行き、門の外に待たしておいた家来に、その料理を渡し、又再び宴席に帰って、今度は日本式の料理をたべて帰る」、と記している。 それは、オランダの料理は当時より諸病の薬になるといわれていたので、招かれた客は大急ぎで自宅に料理を持ち帰らせていたのである。  特にボートルは天下の良薬と言われて珍重されていた。そして、シーボルトの長崎日記の中にも次のようなカステラとボートルの面白い話が記してあることを思い出した。 私の手もとにボートルがあったが、これは貯蔵法が悪いので塩辛く且つ悪臭をもっていたのに、私をたずねてきた日本人の紳士達は、土産に持ってきた、美味しいカステラの上に私の例のボートルを塗って、これはオランダの味がするといって喜んで食べていた。  多分、これは、日本人の人達が西洋の生活を偏愛し、西洋の食事に憧れた理由によったと私は考えた。そして、この日本ではつい最近まで、「ボートルは肺病の特効薬といわれ」塩ボートルで団子をつくり毎日たべていた。 天明五年十一月(一七八五)長崎を訪れた蘭学者大槻玄沢は先ず大通事吉雄耕牛邸をたずね、出島見物に案内されている。  そこで玄沢はオランダの料理の数々を著書「紅毛雑話」の中に記している。料理は十三皿、菓子四皿、菓子物1皿の名前をオランダ語で記し、その内容が記されている。第2回 オランダ料理編 おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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  • 第1回 西洋料理編(一)

    1.南蛮人の来航日本初の西洋料理は、「南蛮料理」。ポルトガル語のパンに始まる。▲長崎に最初にできた教会「トウドス・オス・サントス教会跡」 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。 南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。 その南蛮人が長崎の地を最初に訪れたのは織田信長の頃であり、その人の名はルイス・デ・アルメイダといった。彼は医者であり伝道者イルマンであったと記してある。 アルメイダは領主長崎甚左衛門に大いに歓迎されている。そして翌永禄11年(1568)布教長トーレス神父が長崎の地を訪れ、長崎の港が大変な良港であることを最初に発見している。 永禄12年の初めトーレス神父は長崎地方の布教を更に進めるためヴィレーラ神父を特に派遣している。そのため、この地方は急速に信者がふえ住民の大部分がキリシタンになった。 長崎の領主は神父に屋形の近くの土地を寄進したので、神父はそこに小さいが美しい長崎最初の教会トウドス・オス・サントスを建てた。 パンと葡萄酒は当然この教会でも使用された。パンはポルトガル語のPaoである。この言葉が、西洋料理の始まりとなる。そして、そのパンは二種類がつくられていた。ひとつは教会で使用するホスチヤとよばれる煎餅のようなパンであり、他はヨーロッパ人が食料とするパンである。そのパンも船員用の堅パン、一般用の砂糖入りパンなどの種類があった。2.長崎開港パンを焼く店、牛肉を売る店があり、人々は、異国風の料理を楽しんだ。▲山のサンタ・マリア教会の碑 長崎の地は大村の殿の支配下にあった。当時の大村の殿は大村純忠といった。純忠は永禄三年(1563)さきのトーレス神父の指導で領内の横瀬浦の教会で洗礼をうけ日本最初のキリシタン大名となった。 この洗礼式後の宴会のとき「純忠は教会の食堂でビオラの演奏をききながらポルトガル風の洋食を喜んで食べました」とアルメイダは彼の書簡の中で記している。 トーレス神父の長崎港発見以来、ポルトガル船の長崎入港の準備が進められ元亀元年の秋(1570)には港の測量が行われている。そして、その翌年の初夏(1571)マカオより長崎に最初の南蛮船が貿易品を満載して入港してきた。 このとき長崎の街は大村純忠の手によって新しく開かれ、岬の先端にはサン・パウロの教会が建ち、その教会の前の広場をはさんで大村町、島原町、平戸町などの六町が造られていた。そして入港してきたポルトガル船の人達は、その新しい町の中を自由に歩くことができたし、町は年と共に急速に発展してきた。 町にはポルトガル商人の奥さんとなる日本婦人もいたので、この婦人達は上手にポルトガル料理をつくっていたと記してある。そして町中には教会、病院、学校が次々と建てられ、パンを焼く店、牛肉や鶏を売る店もあり、長崎にない食料品は船で運ばれてきていたという。 人々はこの町でつくられる異国風の料理を南蛮料理として賞味した。 1618年10月長崎の教会よりコロウス神父がローマに送った書簡には長崎の料理について次のように記している。 日本に住まっている神父達の中で一番楽しく生活している人達は、ここ長崎の町に住まっている神父達である。それは長崎の町の教会(建物)はヨーロッパ風であるし、町には食用とする牛を殺したり、パンを焼いたりすることのできる人達が多く住んでいたので、私達はポルトガルや、スペインに住んでいるのと同じような生活ができるからであると記している。▲南蛮人来朝之図(長崎県立美術博物館蔵) また、ほぼ同時代に長崎の教会で布教活動に活躍していたメスキータ神父も、長崎の町における食生活について次のように記している。 長崎のコレジョ(教会付属の学校)における食事は大変ヨーロッパ風の食事が用意されます。それは他の処ではみることができません。特に、祝日にはヨーロッパと同じ食事が用意されます。ここでは何でも用意されるのです。 又、中国からも多く安い品物が運ばれてきています。また、玉子、鶏、その他の鳥、果物、日本にある全ての果物も用意されています。又ヨーロッパでもめったに見ることのできない牛の骨の中にあるゼラチンで作る菓子も此処のコレジョではつくられますと言っている。3.長崎の町に今も残る南蛮料理「ヒカド・南蛮漬け・テンプラ・・・・・・」。ポルトガルを今に偲ぶ、長崎の家庭料理。 キリシタンが禁教になったとき、江戸幕府は牛肉とパンと葡萄酒はキリシタンに関係あるものとして食べることが禁止され、長崎のパン屋も肉屋も全て店を閉じてしまった。 そこで、長崎の人達は南蛮料理の牛肉のかわりに赤身の魚シビなどを其の代用として使用している。その代表的な料理として今も長崎の冬の家庭料理として「ヒカド」とよぶ料理が残っている。ヒカド、ポルトガル語のPicadoからきている。ヒカドは物を刻むという意味である。調理法はシビ・大根・薩摩藷などを四角に細かく切って、これに醤油で味をつけ煮込んだものと説明している。 然し今では、長崎の町でもよほどの旧家の人達でないとこの料理のあることを知らないし、市内の料亭でもヒカドを用意する店は殆ど見かけない。▲南蛮人来朝之図(県立美術博物館蔵)ヒロウズ、この言葉もポルトガル語のFillosからきている。江戸時代この料理は江戸にも伝えられ「守貞漫稿」の中には「飛竜頭」として紹介されている。 初期のヒロウズはポルトガルの菓子として記され、「小麦粉をこね油であげ蜜をつけて食べる」と説明されている。然し、いつの頃からか長崎地方では小麦粉のかわりに豆腐を摺り、その中に牛房、椎茸、木耳(きくらげ)、銀杏(ぎんなん)などを刻みこみ、薄味をつけ油で揚げた精進料理となり「ヒロス」とよんでいた。この料理は江戸に伝えられると更に工夫が加えられ「ガンモドキ」となっている。テンプラ。この料理もポルトガル語のTemporaからきているという。二十六聖人記念館長の結城了悟神父にお聞きしたところによると、長崎テンプラの語源はTemporaの時に食べる料理が転用された言葉であると言われる。Temporaというのは宗教用語でヨーロッパでは四季のかわり目の月、すなわち3月、6月、9月、12月のはじめの水曜、金曜、土曜の三日間は日本でいう精進日のようなものが定めらていて、この日は牛肉を口にしないで魚と野菜を食べていた。 長崎のテンプラは魚と野菜のテンプラで熱いうちには食べないし、天つゆもない。そしてテンプラの外皮は小麦粉、卵で味をつけ、その外皮は厚く、食べるとお菓子のようにつくられ、実においしい。現在はシッポク料理の小菜の一皿にこのテンプラがよく出される。南蛮漬。長崎の正月にはなくてはならぬ料理の一つである。そして南蛮漬の材料となる魚は秋より冬にかけて獲れはじめる「ベンサシ」という赤い魚がつかわれる。そのころになると魚屋さんは一夜干しにしてベンサシを売っている。家ではこの魚を油であげ、酢と醤油、砂糖でつけ込む。この料理は全国的に広く普及しているがベンサシをその材料とするところは少ない。 ポルトガル時代の食生活を収録したフロイスの記録を読むと次のように記してある。「日本人はフライにした魚をよろこばない。但し海藻(コンブ?)のあげたのを好む。日本人は油や酢、または香料の入ったものは食べない。」 南蛮漬、これこそポルトガル人が南蛮の味を長崎の人達に伝えた第一の味である。当時の我が国では味わえなかった異国の味であり、人々はその中にポルトガルを偲んでいたのであろう。第1回 西洋料理編(一) おわり※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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