第1回 西洋料理編(一)

1.南蛮人の来航

日本初の西洋料理は、「南蛮料理」。ポルトガル語のパンに始まる。



▲長崎に最初にできた教会

「トウドス・オス・サントス教会跡」


 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。

 南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。


 その南蛮人が長崎の地を最初に訪れたのは織田信長の頃であり、その人の名はルイス・デ・アルメイダといった。彼は医者であり伝道者イルマンであったと記してある。

 アルメイダは領主長崎甚左衛門に大いに歓迎されている。そして翌永禄11年(1568)布教長トーレス神父が長崎の地を訪れ、長崎の港が大変な良港であることを最初に発見している。


 永禄12年の初めトーレス神父は長崎地方の布教を更に進めるためヴィレーラ神父を特に派遣している。そのため、この地方は急速に信者がふえ住民の大部分がキリシタンになった。

 長崎の領主は神父に屋形の近くの土地を寄進したので、神父はそこに小さいが美しい長崎最初の教会トウドス・オス・サントスを建てた。


 パンと葡萄酒は当然この教会でも使用された。パンはポルトガル語のPaoである。この言葉が、西洋料理の始まりとなる。そして、そのパンは二種類がつくられていた。ひとつは教会で使用するホスチヤとよばれる煎餅のようなパンであり、他はヨーロッパ人が食料とするパンである。そのパンも船員用の堅パン、一般用の砂糖入りパンなどの種類があった。


2.長崎開港

パンを焼く店、牛肉を売る店があり、人々は、異国風の料理を楽しんだ。



▲山のサンタ・マリア教会の碑


 長崎の地は大村の殿の支配下にあった。当時の大村の殿は大村純忠といった。純忠は永禄三年(1563)さきのトーレス神父の指導で領内の横瀬浦の教会で洗礼をうけ日本最初のキリシタン大名となった。

 この洗礼式後の宴会のとき「純忠は教会の食堂でビオラの演奏をききながらポルトガル風の洋食を喜んで食べました」とアルメイダは彼の書簡の中で記している。


 トーレス神父の長崎港発見以来、ポルトガル船の長崎入港の準備が進められ元亀元年の秋(1570)には港の測量が行われている。そして、その翌年の初夏(1571)マカオより長崎に最初の南蛮船が貿易品を満載して入港してきた。

 このとき長崎の街は大村純忠の手によって新しく開かれ、岬の先端にはサン・パウロの教会が建ち、その教会の前の広場をはさんで大村町、島原町、平戸町などの六町が造られていた。そして入港してきたポルトガル船の人達は、その新しい町の中を自由に歩くことができたし、町は年と共に急速に発展してきた。


 町にはポルトガル商人の奥さんとなる日本婦人もいたので、この婦人達は上手にポルトガル料理をつくっていたと記してある。そして町中には教会、病院、学校が次々と建てられ、パンを焼く店、牛肉や鶏を売る店もあり、長崎にない食料品は船で運ばれてきていたという。

 人々はこの町でつくられる異国風の料理を南蛮料理として賞味した。


 1618年10月長崎の教会よりコロウス神父がローマに送った書簡には長崎の料理について次のように記している。

 日本に住まっている神父達の中で一番楽しく生活している人達は、ここ長崎の町に住まっている神父達である。それは長崎の町の教会(建物)はヨーロッパ風であるし、町には食用とする牛を殺したり、パンを焼いたりすることのできる人達が多く住んでいたので、私達はポルトガルや、スペインに住んでいるのと同じような生活ができるからであると記している。



▲南蛮人来朝之図(長崎県立美術博物館蔵)


 また、ほぼ同時代に長崎の教会で布教活動に活躍していたメスキータ神父も、長崎の町における食生活について次のように記している。


 長崎のコレジョ(教会付属の学校)における食事は大変ヨーロッパ風の食事が用意されます。それは他の処ではみることができません。特に、祝日にはヨーロッパと同じ食事が用意されます。ここでは何でも用意されるのです。

 又、中国からも多く安い品物が運ばれてきています。また、玉子、鶏、その他の鳥、果物、日本にある全ての果物も用意されています。又ヨーロッパでもめったに見ることのできない牛の骨の中にあるゼラチンで作る菓子も此処のコレジョではつくられますと言っている。


3.長崎の町に今も残る南蛮料理

「ヒカド・南蛮漬け・テンプラ・・・・・・」。

ポルトガルを今に偲ぶ、長崎の家庭料理。


 キリシタンが禁教になったとき、江戸幕府は牛肉とパンと葡萄酒はキリシタンに関係あるものとして食べることが禁止され、長崎のパン屋も肉屋も全て店を閉じてしまった。


 そこで、長崎の人達は南蛮料理の牛肉のかわりに赤身の魚シビなどを其の代用として使用している。その代表的な料理として今も長崎の冬の家庭料理として「ヒカド」とよぶ料理が残っている。


ヒカド、ポルトガル語のPicadoからきている。ヒカドは物を刻むという意味である。調理法はシビ・大根・薩摩藷などを四角に細かく切って、これに醤油で味をつけ煮込んだものと説明している。


 然し今では、長崎の町でもよほどの旧家の人達でないとこの料理のあることを知らないし、市内の料亭でもヒカドを用意する店は殆ど見かけない。



▲南蛮人来朝之図(県立美術博物館蔵)


ヒロウズ、この言葉もポルトガル語のFillosからきている。江戸時代この料理は江戸にも伝えられ「守貞漫稿」の中には「飛竜頭」として紹介されている。


 初期のヒロウズはポルトガルの菓子として記され、「小麦粉をこね油であげ蜜をつけて食べる」と説明されている。然し、いつの頃からか長崎地方では小麦粉のかわりに豆腐を摺り、その中に牛房、椎茸、木耳(きくらげ)、銀杏(ぎんなん)などを刻みこみ、薄味をつけ油で揚げた精進料理となり「ヒロス」とよんでいた。この料理は江戸に伝えられると更に工夫が加えられ「ガンモドキ」となっている。


テンプラ。この料理もポルトガル語のTemporaからきているという。二十六聖人記念館長の結城了悟神父にお聞きしたところによると、長崎テンプラの語源はTemporaの時に食べる料理が転用された言葉であると言われる。Temporaというのは宗教用語でヨーロッパでは四季のかわり目の月、すなわち3月、6月、9月、12月のはじめの水曜、金曜、土曜の三日間は日本でいう精進日のようなものが定めらていて、この日は牛肉を口にしないで魚と野菜を食べていた。


 長崎のテンプラは魚と野菜のテンプラで熱いうちには食べないし、天つゆもない。そしてテンプラの外皮は小麦粉、卵で味をつけ、その外皮は厚く、食べるとお菓子のようにつくられ、実においしい。現在はシッポク料理の小菜の一皿にこのテンプラがよく出される。


南蛮漬。長崎の正月にはなくてはならぬ料理の一つである。そして南蛮漬の材料となる魚は秋より冬にかけて獲れはじめる「ベンサシ」という赤い魚がつかわれる。そのころになると魚屋さんは一夜干しにしてベンサシを売っている。家ではこの魚を油であげ、酢と醤油、砂糖でつけ込む。この料理は全国的に広く普及しているがベンサシをその材料とするところは少ない。


 ポルトガル時代の食生活を収録したフロイスの記録を読むと次のように記してある。「日本人はフライにした魚をよろこばない。但し海藻(コンブ?)のあげたのを好む。日本人は油や酢、または香料の入ったものは食べない。」


 南蛮漬、これこそポルトガル人が南蛮の味を長崎の人達に伝えた第一の味である。当時の我が国では味わえなかった異国の味であり、人々はその中にポルトガルを偲んでいたのであろう。


第1回 西洋料理編(一) おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

検索