第2回 オランダ料理編

1.出島オランダ屋敷の事

奉行は、日本の牛を食べる事を禁止。オランダ人は、バタビヤから牛肉を運んだ。



▲ミニ出島


 我が国初期の西洋料理は南蛮料理といった。それは南蛮人が最初に西洋料理を伝えたからである。

  南蛮人とは最初に我が国に来航してきたポルトガル、スペインの人達のことである。


 平戸の町で、それまで自由に貿易していたオランダ人が、幕府の命令で長崎出島の地に移転することを命じられたのは寛永十七年のことである。


 翌寛永十八年五月十七日(一六四一・六)オランダ人は出島に移り、長崎出島オランダ商館を設立している。

  このオランダ商館を島原城主高力摂津守は早速見物ににおとずれている。このときカピタンは、見物客一同にオランダ風の料理を用意し、葡萄酒、アメンドウ、パンケーキを用意してもてなし、食事がおわると商館員が遊ぶ玉突部屋を案内し、ゴルフを見せたとオランダ商館日記に記してある。


 そして、まもなく奉行所より次の連絡がとどいた。「長崎に入港してくるオランダ船の積み荷の中にある食品のうち牛肉、塩豚肉、アラク酒、イスパニヤの葡萄酒、オリーブ 油その他、キリシタンが通常使用するものを日本人、支那人に 売渡すこと贈寄することがあってはならない。そして日本の牛を殺して食べることも禁止する。」

  出島のオランダ人はパンを食べたいのでパンを焼いてくれるようにと長崎奉行所に願いでている。


 それまで長崎の町には多くのポルトガル人が住んでいたので何軒ものパン屋があったが、パンはキリスト教に関係があるというのでパン屋を廃業させられていた。奉行はオランダ人の願をきき入れ、パン屋の一軒を残しパンを焼かせることにした。但し、そのパンは絶対・日本人に売ってはならないという条件がついていた。

  然し、豚肉と鶏は比較的に自由に手に入ったと記してある。それは豚肉は来航してくる唐人船の人達の食料として是非必要であったので奉行も豚を長崎周辺の農家で飼うことを許していたからである。


 オランダ人は、日本の牛を食べてはならぬという奉行の命令があったので牛は年に一度、貿易のためにバタビヤから入港してくるオランダ船に牛を積みこんで出島に運んでいる。

  出島のオランダ屋敷内で、この牛を屠殺する風景は当時評判のもので出島見物記の中によく記してある。出島カピタン・H・ドーフの日記の中にも次のように記してある。


 「このバタビヤの牛を出島で屠る時、長崎奉行、代官は喜んで、その牛肉の 一部を贈呈うけるのである。そして牛肉は美味であるといって食べる。

  それは牛肉は薬になると信じているからである。」 天明八年(一七八八)十一月長崎に遊学した洋画家で蘭学研究者の司馬江漢も、このオランダ屋敷の牛肉をオランダ通詞稲部松十郎の家で食べている。その試食のことを江漢は次のように訳している。

  「稲部方に帰りて牛の生肉を喰う。味ひ鴨も如し。 ・・・オランダ人、出島にて牛を足のところより段々と皮をひらき、ことごとく肉を塩漬にする。



2.オランダ屋敷の料理人

カピタンの江戸幕府にも同行。「出島くずねり」と呼ばれた、 三人の日本人料理人がいた。



▲現在の出島の石垣


 オランダ屋敷内には勿論本国からつれてきた料理人もいたが、日本人の料理人もいた。

  この日本人料理人のことを「出島くずねり」と呼んだ。日本人の料理人は三人いた。その給料は一ケ年、一人は銀八百八十匁、一人は七百九十匁、一人は七百拾匁であった。


 この三人の料理人のうち出島カピタンが将軍拝謁のため江戸に旅行するときには、二人の料理人がテーブル一台、折りたたみ椅子三脚、必要な食料を持って同行している。


 安永五年の春(一七七六)カピタンと共に江戸に旅行した出島の医師ツンベリーの「日本紀行」の中に、この日本人料理人のことを次のように記している。


 「二人の料理人は旅行中、常に一人は本隊より一足先に出発し、オランダ人が宿についた時には、すぐに食事がとれるように準備し、オランダ風の料理を上手につくることができる」。


 そして、この出島で料理をつくっていた人達が、やがて我が国に西洋料理を伝えた人達につながっていると考えてよいのではないだろうか。



3.オランダ正月と西洋料理

年に一度の饗宴は、和洋折衷仕立ての、珍奇なオランダ風フルコース。



▲唐蘭館絵巻会食図(長崎市立博物館蔵)


年に一度、出島のオランダ人は出島出入の役人を招いてオランダ風の洋食でもてなしている。


この日は西暦の一月一日であったので長崎の人達はこの日をオランダ正月とよんでいた。そして、この行事は大変有名であったので、長崎版画の中に各種のものがつくられているし、絵画としても描かれ、その献立表も残っている。


その中でも文政初年頃(一八一八)に編集された「長崎名勝図絵」には実に詳しく、その時の献立が次のように記してある。 大蓋物一ツ。味噌汁仕立・中に鶏かまぼこ、玉子、椎茸。 蓋物二ツ。一、味噌汁仕立、中にすっぽん、木耳(きくらげ)、青ねぎ。

 二、味噌汁仕立・中に牛。鉢物十種。一、牛股油揚。二、牛脇腹油揚。 三、豚の油揚。四、焼豚。五、野猪股油揚。六、家鴨丸焼。

 七、豚の肝をすって帯腸に詰る。八、牛豚すり合わせ同じく帯腸に詰る。 九、豚のラカン(ハムの事)。十、鮭のラカン。 大鉢一ツ。潮煮汁なり。中に鯛、あら魚、かれい。 ボートル煮鉢物四ツ。(註、ボートルとはバターの事)一、オランダ菜。 二、ちさ。三、ニンジン。四、かぶら。菓子、紙焼カステラ。タルタ。スープ。 カネールクウク。丸焼きカステラ。


○オランダ本国米なし。ゆえに小麦粉を常食とし、小麦粉を粉にして固め、 これを蒸焼にす、その名パンと言う


○コッヒー。オランダ人、我が国のお茶の如く飲む。コッヒーと言うものは、形、豆の如くなれども実は木の実なり。豆は日本の大豆に似たるものを砕いて湯に入れ、煎じ、白砂糖を加えて飲む。




▲長崎港府瞰図(長崎市立博物館蔵)


 オランダ正月にこの料理が全て出されたのであろうか。


 オランダ人の日記をよむと、「お客によばれた日本人はオランダ風の料理には殆ど手をつけず、懐より大きな紙をとりだして包むと、大急ぎで出島の門の所に走って行き、門の外に待たしておいた家来に、その料理を渡し、又再び宴席に帰って、今度は日本式の料理をたべて帰る」、と記している。


 それは、オランダの料理は当時より諸病の薬になるといわれていたので、招かれた客は大急ぎで自宅に料理を持ち帰らせていたのである。

  特にボートルは天下の良薬と言われて珍重されていた。そして、シーボルトの長崎日記の中にも次のようなカステラとボートルの面白い話が記してあることを思い出した。


 私の手もとにボートルがあったが、これは貯蔵法が悪いので塩辛く且つ悪臭をもっていたのに、私をたずねてきた日本人の紳士達は、土産に持ってきた、美味しいカステラの上に私の例のボートルを塗って、これはオランダの味がするといって喜んで食べていた。

  多分、これは、日本人の人達が西洋の生活を偏愛し、西洋の食事に憧れた理由によったと私は考えた。そして、この日本ではつい最近まで、「ボートルは肺病の特効薬といわれ」塩ボートルで団子をつくり毎日たべていた。


 天明五年十一月(一七八五)長崎を訪れた蘭学者大槻玄沢は先ず大通事吉雄耕牛邸をたずね、出島見物に案内されている。

  そこで玄沢はオランダの料理の数々を著書「紅毛雑話」の中に記している。料理は十三皿、菓子四皿、菓子物1皿の名前をオランダ語で記し、その内容が記されている。


第2回 オランダ料理編 おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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