第3回 ターフル料理編

1.その名前の事

ターフルとはオランダ語のTable。テーブルで食事をするという意。



▲グラバー園内旧オルト邸(国指定重要文化財)


 寛延三年(一七五〇)、長崎奉行所に江戸より赴任していた小倉善就の父某の撰と記してある「紅毛訳問答」に、オランダ通詞より聞いた言葉として次のようなことが記してある。


 一、シッポクと唱候は蛮語にて候哉 紅毛にはシッポクという言葉なし、紅毛にてはターフルと申候、シッポクはいづれの語たること、審ならず。

  ターフルという言葉はオランダ語のTableという言葉からきている。ターフルは英語のテーブルという意味である。

  すなわち、ターフル料理というのはテーブルで食事をする意味である。


 その昔、長崎の人達はシッポク料理という言葉をつくりだしている。そのシッポクという言葉については、故古賀十二郎先生の研究論文中に次のように記してある。

  シッポクとは東京(トンキン)語にて卓のことである。

  トンキンというのは現在のベトナム国内の一都市の名であるが、昔はその地方の王国の国名で、そこの国王の名を阮氏といった。


 それでは何故、そのような東京地方の言葉が長崎に伝えられ、シッポク料理として現長崎の名物の一つになったのであろうかと疑問を持たれる。それには、初期長崎の唐船貿易のことから考えてゆかねばならない。当時長崎の港から出発した貿易船を御朱印船とよんだ。御朱印船は多くベトナムを中心にして活躍した。中でもその中心地はトンキン王国であった。長崎の御朱印船主の一人に有名な荒木宗太郎がいた。宗太郎はトンキン王の信任をうけ遂に国王の娘アニオさんをお嫁にいただいた。宗太郎はアニオさんをつれて長崎の町に帰ってきた。そのアニオさんの上陸の行列は人々の目をみはらせ、今も「長崎くんち」の奉納踊りにその面影を残している。それは昨年石灰町が「くんち」に奉納した豪華な御朱印船入港絵巻にもあらわれている。


 そのようにトンキン地方の文化は異国趣味の文化として急速に長崎の人達に大いに歓迎された。その中の一つに卓を囲んで食べるシッポク料理があった。この食事法は、これまでの我が国にはなかった食事法であり、料理であったので、人々は驚きの目をみはって食卓についた。やがてこのシッポク料理は江戸にまで流行していったのである。

  このシッポク料理にかわる洋風の新しい様式の食事法・料理として長崎の町に登場したのがターフル料理なのである。



2.新しきもの

オランダ人を持て成すために用意。出島オランダ屋敷の蘭料理。



▲グラバー園内旧グラバー邸の食堂


 ターフル料理は先ず出島オランダ屋敷の料理を基本としている。

  このターフル料理の名前が長崎の文献にあらわれてくるのは安政初年頃(一八五四~)からである。はじめは蘭料理として記してある。安政四年(一八五七)四月の佐賀藩の記録の中に、


 蘭船将其の他六人。ストークル三人え蘭料理御馳走おうせ付られ、右手当として十六日鵬ヶ崎え持出、給仕も相頼まれ申候。

  また、同四月二十日の記録には当時用意された料理名が次のように記してある。

  蘭料理鶏ケルリイ、豚フルカテル、豚ヒストック三種ならびに蘭酒二本、但し銘酒とシャンパンヤ


 このことより考えて最初に蘭料理を必要としたのは各藩が出島のオランダ人と商取引の関係上オランダ人を招待する必要があり蘭料理を用意したのである。佐賀藩はことに長崎港の警備役を兼ね長崎奉行所との交渉も親密であり、当時すでに安政二年(一八五五)十月には長崎西役所内(現在の県庁)に海軍伝習所が発足し、そこの教官としてファビウス以下二十名のオランダ士官・下士官が在留した。かくてオランダ人に対しては、出島を出て市街遊歩の事が許可された。又当時の佐賀藩主鍋島閑叟公は特に様式兵学の取り入れに力をもちいていた必要上、このようなオランダ士官との交渉の場を設けたのである。


 当時の長崎の町にはまだ蘭料理の調理に堪能な人は前回のべたオランダ屋敷内の料理人三人以外にはいなかったので、佐賀藩では前記のように三人のオランダ人にその調理を依頼したのである。

  安政六年(一八五九)正月、長崎奉行所「御用留」の中にロシア人が対岸の稲佐に上陸を許され酒宴を開いた模様を記し、その料理を「タアフリ料理」と記してある。翌安政七年十月五日の出島「万記帳」の中にも長崎奉行所目付役小倉九八郎が出島を訪ね、カピタン部屋でターフル料理を差し上げたと次のように記してある。

  小倉様カピタン部屋にお入りなされ、御茶御煙草盆ターフル差上く、暫く御滞在、夫より出島商人の見世ご覧なされ候。


 この時のターフルは簡単な洋風料理か菓子などであったと考える。



3.ターフル料理は変化した。

長崎西洋料理の始まりは、居留地の外国人の為の食料調達から。



▲シーボルトが諫早候に送った酒瓶セット

(長崎市立博物館蔵)


 安政六年(一八五九)の開国と同時に長崎の町の様子は一変した。今までのオランダ人のみでなくアメリカ、フランス、イギリス、ロシアの各国の船が長崎に入港し、大浦方面には居留地や各国領事館がつくられ、外国人の食料として、「牛とき場」(屠刹場)が戸町海岸に文久二年(一八六二)官許によってつくられた。

  これが我が国における官許の牛屠刹場のはじめである。イギリス領事館はこのとき奉行所に「食料として一年に牛五拾頭は確保しておいてもらいたい」と申しでている。これは、日本側が農耕用としている牛を外人側に差し出すことをあまり歓迎しなかったからである。


 安政五年(一八五八)イギリス領事館開設準備のため長崎に渡ってきたホジリン氏の婦人は、彼女の書簡の中に当時の西洋料理事情を次のように説明している。


長崎の地にはミルクもバターもありません。私たちは上海から食料用の羊を積んでいましたので、それを食べてどうにか過ごしました。牛肉を食べるのは困難です。私たちは上海からつれてきた中国人が早朝から出かけて九時頃やっと帰ってきて、すこしばかりの鳥や魚をもってきます。時にはこの中国の料理人が少しばかりの豚肉をさげてきて私達に自慢するのですが、これは私達の目からみれば食用にならないものが多いです。


 次に彼女の文章をよむと、卵だけは充分にあったので毎日オムレツを食べたこと、外国船が入港したときには塩漬の貯蔵肉が手にはいるのでそれでカレーを作って食べたことが記してある。

  さらに果物のことも記して、「日本の果物は早どりするので全てが固いので私達は二、三日おいてから食べます」と言っている。その果物は、香りのないメロン、かたい杏、石梨、かたい桃があったという。香りのないメロンというのは西瓜のことであろうか。

 ここに安政六年に上海から入港した外国船の積荷の控がある。その中より食料の部を拾うと次のようなものがあった。


 塩豚肉、酢、麦粉、パン、砂糖、豆、豌豆、ハム、干リンゴ、飲物


 次に、居留地内の外人宅に日本人が次第に使用人として雇われるようになってきた事、外国人が必要とする食料を長崎の人達が調達しはじめてきた事は、長崎の人達をターフル料理に目をむけさせてきた。

やがて、この外国人雇の日本人使用人の中に、西洋料理を学ぶ人達があらわれてきた。やがて長崎の人達は、一度は是非この西洋料理なるものを口にしてみたくなってきた。


第3回 ターフル料理編 おわり


※長崎開港物語は、越中哲也氏よりみろくや通信販売カタログ『味彩』に寄稿されたものです。

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