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  • 第624号【2021年 師走の長崎】

     あっという間に12月がやってきました。11月は小春日和の日が多かったのですが、さすがに12月に入ってからは冬らしい寒さを感じるように。それでも、この時期にしては、比較的過ごしやすい天候が続いている長崎です。街路樹のナンキンハゼは、紅葉した葉を落とし、枝先につけた白い実をスズメたちがついばんでいました。ちなみにスズメが食べているのは、外側の白い皮だけ。中に入っている黒い種には毒があるそうです。  中国原産のナンキンハゼは、一説には江戸時代に長崎に伝わり、その後、日本各地に広まったといわれています。そんなご縁から「長崎市の木」に指定され、街路樹としておおいに利用されています。ナンキンハゼほどではありませんが、長崎のまちでは、ビワの木もあちらこちらで見かけます。初夏においしく熟す橙色の実が知られていますが、その実のもとになる花は、約半年前のこの時期に咲くのです。白い小花をたくさん付けますが、あまり目立たず、足を止める人は少ないよう。鼻を近づけると、甘い匂いがします。  新型コロナの感染者数が減ったこともあり、長崎では、先月から修学旅行生の姿が目立つようになりました。12月に入ったいまも、見慣れない学生服の子たちが路面電車で観光スポットを行き交っています。グラバー園や大浦天主堂などがある南山手も、修学旅行生たちで賑わっていました。実は、先月、その南山手から海側へ下り、「旧香港上海銀行長崎支店」前の横断歩道を渡ったところにある「長崎港松が枝国際ターミナル」付近に、人気漫画「弱虫ペダル」のキャラクターを施したマンホールが設置され、注目されています。  「週刊少年チャンピオン」に連載されている「弱虫ペダル」は、自転車競技をがんばる高校生たちを描いたスポーツ漫画。作者は長崎市出身の漫画家、渡辺航さんです。長崎市の下水道供用開始60周年を記念して、「弱虫ペダル」のキャラクターをあしらったマンホール全27点が長崎市内の観光施設や景観スポットに設置されることになり、先月、その第1弾として9点が設置されました。そのひとつが「長崎港松が枝国際ターミナル」近くにあるのです。「弱虫ペダルマンホール」は、まだ、あまり知られていないのか、気付かずに通り過ぎる修学旅行生も多いよう。見ると気分が明るくなるマンホールです。ぜひ、足元を探してほしい。残りの18点も今年度中に設置予定だそう。マンホールめぐりをしながら、市内観光を楽しんではいかがでしょう。  今年を振り返れば、長崎駅周辺の変化は大きなものがありました。新駅舎の建設をはじめ、駅の西口側には先月、国際会議や各種イベントが開催される「出島メッセ長崎」がオープン。これから新駅ビルも建設予定で、来年秋の九州新幹線西九州ルートの開業に向けてまだまだ変貌中です。現在、モダンな外観に変わった長崎駅は、戦後、長らく親しまれた三角屋根の駅舎から、2000年(平成9)に、大きな屋根付きの駅前広場のある駅舎に改築されました。当時の光景が、さまざまな出来事とともに蘇ります。旧駅舎より、少し西側(稲佐山側)へ移動した新駅舎。これから、どんなストーリーが刻まれていくのでしょう。いまから、楽しみです。  港に出ると、三菱長崎造船所の「ジャイアント・カンチレバークレーン」が対岸でいつもの姿を見せていました。1909年(明治42)に完成したこの大型クレーンは、大正、昭和、平成、そして令和と、110年余りの激動の時代をくぐりぬけながら長崎のまちを見守ってきました。近々、コロナ禍を乗り越えたまちの姿を見てくれるに違いありません。   ◎本年もご愛読いただきありがとうございました。どうぞ、良い年をお迎えください。

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  • 第623号【晩秋と初冬が重なる風景】

     11月はじめ長崎駅近くにある本蓮寺(長崎市筑後町)を訪れると、銀木犀(ギンモクセイ)が白い小花を咲かせ、あたりに芳香を漂わせていました。それは、同じモクセイ科で、花がオレンジ色の金木犀(キンモクセイ)よりも、控えめな香り。金木犀は、銀木犀よりも1週間ほど先に開花しましたが、例年より10日ほど遅い10月下旬でした。長崎のまちを包み込んだ独特の甘い香りに、ようやく秋を感じた方も多かったことでしょう。  銀木犀の花言葉は「初恋」だそう。かわいい白い小花とやわらかな香りが、そんな言葉を彷彿させるのでしょう。一方、金木犀の花言葉は、「謙虚」「気高い人」「陶酔」などがあります。その強い芳香の印象とは裏腹に、花自体はとても小さいことから、「謙虚」という言葉につながったといわれています。  庭木などで見かけるのは、圧倒的に金木犀のほうが多いように思えます。ちなみに、園芸業界で「モクセイ」といえば、「銀木犀」を指すそうです。というのも、もともと金木犀は、銀木犀の変種として生まれたものだからです。原産はいずれも中国で、江戸時代に日本に渡来したといわれています。  さて、長崎のまちの樹木に目をやれば、イチョウの黄葉はまばらで、いつもよりやや遅れているよう。桜の木は、紅葉を楽しめないまま落葉したものが目立ちます。ここ数年、晩秋と初冬が重なり、秋が短くなっているように感じる中、これまでの秋の風情とは少しずつ違ってきている様子が伺えました。  この時期らしい草花を探していると、長崎駅前の斜面地で自生と思われる木瓜(ボケ)の花と実を見つけました。木瓜はバラ科の落葉低木。「木瓜の花」は、俳句では春の季語ですが、九州のような暖かい地域では、冬場に咲くものもあり、「寒木瓜」「冬木瓜」という冬の季語で表現されます。  木瓜は、花の後に直径5〜10センチほどの黄色い実を付けます。細い枝にいきなり実がくっついているのが特徴的です。その実が、瓜(うり)に似ていることから、木になる瓜(うり)を意味する「木瓜」の名前が付いたそう。ちなみに、「木瓜の実」は秋の季語。熟した果実は、滋養強壮、整腸作用のある果実酒としても楽しめます。  さて、近頃の気候変動は、渡り鳥の渡来時期にも影響を及ぼすかもしれないと気になっていましたが、秋に大陸から日本に渡ってくるジョウビタキの個人的な観測による初見は、例年並みといったところ。10月末に浦上地区の住宅街でかわいいメスの姿を確認しました。  11月7日立冬の日の夕暮れ時、西の空に宵の明星(金星)と新月から2日目の細い月が出ていました。翌日の昼間には、三日月が金星を隠す天体ショー「金星食」が見られるはずでしたが、長崎はあいにくの曇り空でありました。   今年の金星は、5月頃から夕方になると西の空で輝いています。ひときわ明るく輝いているのですぐに金星とわかります。12月頃まで見られるので、ぜひ、日没後に見上げてみてください。新型コロナのことも、一日の疲れもひととき忘れる美しさですよ。

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  • 第622号【2021年の秋 中川八幡神社】

     10月初旬の長崎は、秋らしい安定した晴天続きでしたが、日中は例年よりも気温が上がり、真夏のような蒸し暑さでした。それでも、庭先のザクロの木には赤い実がなり、山あいにはセイタカアワダチソウやススキが生い茂り、夕暮れには美しい夕映えが広がるなど、秋らしい光景があちらこちらに。季節はずれの暑さも今週までのようで、週末には気温が下がるという予報が出ています。体調管理に気を付けて過ごしたいですね。  コロナ禍2年目の長崎の秋は、感染者数が減っていることもあって、まちの賑わいが少しもどってきたような印象です。しかし、新型コロナの収束時期は、まだ見通しが立っていません。秋の大祭「長崎くんち」は、昨年に続いて中止となり、各地で行われる秋祭りも規模を縮小したところが多かったようです。  中川八幡神社(長崎市中川2丁目)も、秋の大祭のときに境内で行われる伝統の「こども相撲大会」が、昨年に続いて中止になりました。中川八幡神社は、江戸時代初期に創建された神社で、武運の神様である誉田別命(ほんだわけのみこと)、生長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)の御三神が祀られています。境内の一角には武道場があり、剣道、空手、なぎなたなどの稽古場として地元の人々に利用されています。  宮司さんによると、かつては「中川相撲」と呼ばれるほど、相撲が盛んに行われ、佐賀や諫早、島原などからも相撲取りたちが集ったとか。昭和30年代の半ば頃までは境内に土俵が設けられていたそうです。  江戸時代の中川八幡神社は、長崎街道の出入り口付近の街道筋に立地していたこともあり、長崎から旅立つ人や長崎にやって来た人々が参拝に訪れることが多かったそう。境内には長崎奉行や京都の商人と推測される人などから寄進された石灯籠がいまも残されています。  住宅街の一角にあり、どこか庶民的な雰囲気が漂う中川八幡神社の境内。手水舎に2つ並んだ手水鉢のひとつには、色とりどりの花が水面に浮かべられていました。「参拝者が、花を見て心が清められますように。そして前途が花開きますように」という宮司さんの思いからはじめたそう。梅雨には紫陽花、冬には椿と、季節の花々が参拝者をやさしく迎えてくれます。  手水鉢の花を眺めたり、樹齢400年という御神木のクスノキを見上げたりしながら境内を散策していると、御朱印を求めて、何人もの参拝者が訪れていました。宮司さんによる猫のイラストが描かれた個性的な御朱印が喜ばれているようです。  シンと静まりかえった昨年秋と比べたら、人々が動き、賑わいがもどりつつある今年の秋。時代の大きな変わり目を象徴するように、あちらこちらで新しい建物が生まれています。立山では、旧県立長崎図書館跡地に、「県立長崎図書館郷土資料センター」が完成していました。緑豊かで閑静な立山の地になじむ落ち着いた雰囲気の外観。長崎県関係の文献・資料を揃え、提供してくれます。開館予定は、来年3月。いまからとても楽しみです。

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  • 第621号【手水鉢の謎とヤマガラ】

     長崎の寺町通りの一角にある長照寺。こぢんまりとした境内は、日本庭園のように手入れが行き届き、四季折々の花も楽しむことができます。この時期には石畳沿いに植えられたタマスダレがいっせいに咲き誇るのですが、今年はいつもより20日ほども早く開花して、お寺の方も驚いていました。また、お盆の頃にヒガンバナが咲くなど、不順な天候に植物たちも翻弄されているよう。これは、先月の大雨や長雨などで気温の低い時期が続いたためと言われています。いつもと違うことが次々に起こる昨今ですが、自然への畏敬の念を忘れず、コロナ感染予防も怠らず、なるだけ明るい気持ちで日々を過ごしたいものですね。  9月に入ってすぐ、関東では気温が急降下したというニュースが流れましたが、長崎は、曇天ながら蒸し暑い日が続いています。リフレッシュしようと、緑豊かな松森神社(長崎市諏訪町)へ足を運ぶと、手水舍にヤマガラが飛んできました。ヤマガラは住宅街などでも見かける身近な野鳥です。手水鉢の水をクチバシでつつくと、しばし、そこにいて辺りを見回していました。  ヤマガラが留まった手水鉢は、ふちに植物の文様がほどこされた個性的なデザインで知られています。安山岩を削ってつくられたものですが、石工の名や制作年などは刻まれておらず、いつ頃、誰が松森神社に設けたのか、詳細は不明のよう。長崎市史(地誌編神社教会部・上巻/昭和13年発行)には、『〜其の形態は朝顔花を模し構造が巧妙であるので、鑑賞を惹いている』と紹介されています。  しかし、どう見ても、朝顔とは思えず、同じような文様の家紋がないか調べてみました。すると、「河骨紋(こうほねもん)」によく似ていることが分かりました。「河骨」とは、ハスのように水面に葉や花を浮かべる水生植物です。水にちなんだ植物でもあることから、もしかしたら、手水鉢の文様は、「河骨紋」の可能性もあるのでは、と思いました。ちなみに、「河骨紋」は、徳川家の「葵紋」に似ています。  松森神社から東へ3.3Kmほど離れた長崎市本河内地区にある妙相寺(みょうそうじ)。地元では昔から紅葉の名所として知られています。また、アーチ型の石門も有名です。実は、このお寺には、松森神社の手水鉢の雛形ではないかと言われるものがあります。それはお寺の池に、噴水鉢として置かれているもので、現在は池の水が抜け、鉢の全貌が丸見えになっていました。高さ約40㎝、直径約62㎝で、松森神社の手水鉢の半分くらいの大きさです。残念ながら、文様は、苔に覆われて確認できませんでした。写真で、苔がないときのものを見ると、確かに松森神社のものとそっくり。聞くところによると、妙相寺のそれは、蔓性植物のスイカズラを図案化したものだとも伝えられているそうです。   松森神社と妙相寺の手水鉢。実際のところ、何の文様なのか、いつ、誰が作ったのかなど、はっきりしたことは分かりません。だからこそ、いろんな想像を膨らませることになり、歴史探訪の面白さが増すのかもしれません。そんなことを思いながら、人の気配がない妙相寺の裏手に回ると、青々と茂るカエデの木の合間から「ツーツーピー」と鳴き声がしました。またもやヤマガラです。フヨウの木に飛んで来ると、蕾を足で器用につかみ、クチバシを差し込んで蜜を吸いはじめました。いまを夢中で生きる、微笑ましくて、たくましい、ヤマガラの姿でありました。

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  • 第620号【涼を探して、盛夏の長崎】

     暑中お見舞い申し上げます。連日猛暑が続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。今週はじめにやって来た台風9号、10号の進路を示した天気図に、早くも「秋雨前線」が現れました。大雨への警戒は引き続き必要ですが、猛暑のピークは過ぎようとしています。この夏は一段と暑さが厳しかっただけに、次の季節が早めにやって来そうだと思うと、ちょっと元気がでます。  涼しげな景色を探して長崎のまちを歩けば、人家近くの草地では、白いユリが夏草の中で揺れていました。テッポウユリかと思いきや、それによく似た「新テッポウユリ」(テッポウユリとタカサゴユリの交配種)でした。テッポウユリの原産は日本の南西諸島から九州南部にかけて。開花時期は、6〜7月です。一方、「新テッポウユリ」の原産は台湾といわれ、開花時期は8〜9月、テッポウユリより葉が細いのが特長的です。炎天下に咲く、清らかで美しいユリの花にしばし暑さを忘れるようでした。  長崎市八幡町の住宅街の一角にある宮地嶽八幡神社(みやじだけはちまんじんじゃ)の鳥居も涼し気な姿をしています。たいへん珍しい陶器製の鳥居で、冷たげな白磁の肌に青色顔料の呉須で唐草文様が施されています。明治21年(1888)に有田でつくられたもので、国の登録有形文化財になっています。有田の陶山神社に同じ製作者による同一の鳥居がありますが、希少性の高い存在です。  諏訪神社に隣接する長崎公園では、噴水が勢いよく水しぶきを上げていました。この噴水は、公園などの装飾用噴水としては、日本でもっとも古いといわれています。水しぶきのおかげで心なしかひんやり。周囲の緑とともに癒される光景でした。  お隣の諏訪神社には、個性的な狛犬が各所に据えられています。その中から、水にちなんだ狛犬をピックアップすると、まずは、「高麗犬(こまいぬ)の井戸」。本殿裏手の通路にちょこんと据えられています。くわえた筒から流れる水は、江戸時代から枯れることのない清浄水として史書に記され、安産に効くと伝えられています。また、「銭洗いの狛犬」とも称され、この水でお金を洗うと倍に増えるという信仰があるそうです。  諏訪神社本殿裏手の石段を登ると、蛭子神社の「河童狛犬」が迎えてくれます。どこか愛嬌のある小ぶりの狛犬で、会話でもしているかのような据えられ方です。頭のお皿に水をかけて祈願します。   神前を守護する役割があるという狛犬。長崎市役所別館の裏手通りにある「出雲大社長崎分院」(長崎市桜町)では、めずらしい動物が神前を守っています。それは、白兎を背に乗せた1対のワニザメです。出雲大社の御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。神話「因幡の白兎」にちなんだものなのでしょう。ワニの表情や左右の兎の姿勢の違いに作者の遊び心が感じられます。しかし、このワニザメ、いわゆる魚類のサメではなく、爬虫類のアリゲーターのようなのです。ずっと気になっているのですが、真相はいまのところ不明です。

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  • 第619号【7月のあれこれ〜秋帆から東京オリンピックまで〜】

     長崎を含む九州北部は昨日、梅雨明け。梅雨末期の大雨で、各地で土砂災害や冠水などが相次ぎました。被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。  今年も半年が過ぎました。早いですね。6月の最終日、長崎の諏訪神社では夏越大祓式「茅の輪くぐり」が行われました。この神事は、今年半年間の罪けがれを祓い、夏を無事に過ごせますようにと願うもの。拝殿前には、茅(かや)を束ねて大きな輪にした「茅の輪(ちのわ)」が置かれ、参拝者が次々に輪をくぐっていました。このとき、「水無月の夏越の祓へする人は千歳の命延ぶというなり」という和歌を唱えるのですが、くぐり方や唱える言葉は、地方によって違いがあるよう。でも、願うのはきっと、みな同じ。コロナ禍の夏を健やかにくぐり抜けることができますように。  「茅の輪くぐり」がうれしいことを引き寄せてくれたのか、その翌日、知人から「近江米(おうみまい)」をいただきました。産地である滋賀県は古くからの米所。ほんのり甘みのある「近江米」をおかわりしながら、ふと頭をよぎったのは、幕末の砲術家として知られる高島秋帆(1798-1866)のことでした。  長崎の町年寄(現在の市長に相当する役職)の家に生まれた秋帆。のちに11代目として家督を継ぐことになるのですが、そもそも高島家のルーツはというと、戦国時代は近江国(滋賀県)高島郡の領主で、戦国大名浅井長政に仕えていたそうです。長政が信長に背き滅亡したとき、高島家も離散。九州に逃れた領主の子と孫が、開港して間もない長崎にやって来たのが長崎・高島家のはじまりと伝えられています。  高島家は近江国を遠く離れた地にあっても、すぐに頭角を現しました。長崎・高島家の初代となる四郎兵衞茂春は、当時、長崎の町方を支配した4人の頭人(のちの町年寄)のひとりになっています。南蛮貿易港として栄えていたその頃の長崎は、全国各地のキリシタンが集まってきましたが、初代四郎兵衞茂春もゼロニモという洗礼名をもつキリシタンでした。その後、高島家は禁教令による混乱の時代を上手にくぐり抜け、町年寄の地位を代々維持したのでした。  高島家は、商取引の才もあり裕福な暮らしをしていたようです。長崎市万才町にあった高島家の跡地からは、17世紀の木製のチェスの駒、金のかんざし、西洋や東南アジアなどの陶磁器など、国際色豊かな品々が出土しています。また、三代目の四郎兵衞茂卿は、出島築造時に出資した有力商人のひとりとしてその名を連ねています。  長崎歴史文化博物館で開催中の「高島秋帆展」(2021年5月19日〜7月19日)へ足を運びました。砲術家として足跡だけでなく、能書家であった秋帆の姿を垣間見ることができました。展示された秋帆の書画のひとつ「猛虎図」は、捕まえた鬼(病魔)を虎に喰わせるという中国の話に、虎の絵が描かれたもので、安政の頃にコレラが流行ったとき、この虎の絵がコレラ除けとして多くの人に求められたというエピソードが紹介されていました。この虎の絵をあしらったエコバックを同館のショップで見つけ、迷わず買ってしまいました。  さて、話は変わりますが、いよいよ来週23日から「東京2020オリンピック」が開幕します。1964年の東京オリンピックをご存知の方々は、経済成長の只中にあった当時を振り返り、感慨深いものがあるのではないでしょうか。ちなみに当時の郵便はがきは5円、封書は10円。このオリンピックを3ヶ月後に控えた同年7月にみろく屋も創業しました。  いろいろな思いを乗り越え、コロナ感染予防対策を万全にして、テレビの前で選手たちの熱戦を応援したいものですね。ガンバレ、ニッポン!  参考にした本:「高島秋帆」(宮川雅一/長崎文献社)

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  • 第618号【 福沢諭吉と光永寺】

     雨にしっとりとぬれた紫陽花の美しいことといったらありません。長崎の家々の軒先に咲く紫陽花は見頃を迎え、すでに花期は終盤です。梅雨空のもと、花を咲かせているのは紫陽花だけではありません。アマリリス、ユリ、ノウゼンカズラなど初夏の花々が次々に開花。ナツツバキもそのひとつです。  直径5〜6センチほどの白い花を咲かせるナツツバキ(ツバキ科の落葉高木)。日本では別名「サラソウジュ(娑羅双樹)」「シャラノキ」などとも呼ばれ、古くから寺院などの庭に植えられてきました。中島川沿いにある光永寺(長崎市桶屋町)の境内でも育てられています。同寺に掲げられた説明版によると、この花は、朝に咲いて夕方には閉じる1日花。そのことが「無常」のたとえとなり、日本では平家物語の冒頭にある『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色…』の花とされました。実は、仏教の聖樹サラソウジュはインド原産のフタバガキ科の常緑高木。日本では育ちにくいため、ナツツバキをサラソウジュに擬したそうです。  ナツツバキは、通常6〜7月が開花時期。今年、光永寺では開花が早かったそうで、6月はじめには花が終わりました。  ところで、光永寺の境内の中央には、樹齢470年とも言われる大イチョウが鎮座し、春夏の青葉、秋の黄葉、冬枯れの姿と、四季折々に来訪者の目を楽しませています。167年前、このイチョウの四季の姿を眺めたと思われるのが、若き日の福沢諭吉(1834-1901)です。  福沢(当時19才)は1854年(安政元)2月、蘭学を志して長崎へ。約1年このまちで勉学に励みました。このとき食客として最初に世話になったのが光永寺です(のちに近所の砲術家の食客になる)。長崎滞在時のさまざまなエピソードは、『福翁自伝』(福沢諭吉著/岩波文庫)に綴られています。同書によると、当時の福沢は、たいへんな大酒飲みでしたが、長崎では周囲に下戸と偽っていました。「…トウトウ辛抱して1年の間、正体を現さずに、翌年の春長崎を去って諫早に来たとき、初めてウント飲んだことがある。……」と同書に記しています。諫早は長崎に近い宿場まち。おそらく長崎を離れた初日に諫早に着き、1年分のがまんを解き放ったのでありましょう。  また、同書には、1854年11月に起きた「安政の大地震」の揺れが、長崎にまで及んでいたことも記されています。そのとき福沢は、光永寺から歩いてすぐの砲術家のところで居候中。掃除などの家事に勤しむなか、表の井戸端で桶に水を汲んだとき、突如ガタガタと揺れが来て足を滑らせたそうです。  『福翁自伝』は、啓蒙思想家、そして慶應義塾の創始者で教育者でもあった福沢諭吉の目を通して、激動の幕末〜明治の空気を味わえる名著です。福沢は自身の良いことも悪いことも隠さず、ときにユーモア混じりで述べていて好感が持てます。   長崎・諏訪神社の参道の一角には、慶應義塾関係者によって建立された福沢諭吉像の碑があります。台座には福沢が『学問のすゝめ』の冒頭に記した「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと云へり」が刻まれています。

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  • 第617号【梅雨入り前の長崎】

     コロナ禍に迎えた2度目の春は、しだいに雨の季節へ移ろうとしています。先週5月5日「子どもの日」は、二十四節気でいう「立夏」でした。さわやかで過ごしやすい時候ではありますが、この日、沖縄・奄美地方は平年より1週間ほど早く梅雨入り。長崎を含む九州北部地方は、沖縄に遅れること約1ヶ月弱で梅雨入りするのが常ですが、季節は、前倒し気味に移り変わっているので、梅雨入りも早くなりそうな気配。長崎ではアジサイが色づきはじめました。  季節が早めに巡っていることが、花々の開花の状況でわかります。例年なら5月初旬に開花して、数日間だけ芳香を放つ一覧橋(中島川の石橋群のひとつ)のたもとのクスノキが、今年は4月下旬に満開になりました。ところで、クスノキの花は見たことがないという方もいらっしゃるかもしれません。クスノキは、春の終わり頃から初夏にかけて、黄白色の小さな花を無数につけますが、新緑の輝きにまぎれ、花は見過ごされがちです。その香りは、クスノキの枝や幹を原料に作られる樟脳とはまた違った、清涼感のある甘く心地いい香りです。  さて、長崎では、ザクロの花も例年より早く開花しています。毎年、6月1日の「小屋入り」(「長崎くんち」のはじまりを告げる行事)が近づくと咲きはじめるのですが、今年は4月末頃につぼみが開きはじめました。個人的にザクロの開花を確認する標本木としているのは、「長崎くんち」の舞台となる諏訪神社の参道の一角に植えられたものです。  先月、今年の「長崎くんち」の奉納踊りと御神幸が、新型コロナの影響で、昨年に続いて中止にしたと発表がありました。来年に繰り延べとなった踊町の方々が、この2年間のきびしい状況を乗り越え、来年すばらしい奉納踊を見せてくれることを楽しみにしたいものです。  季節が前倒し気味といいながら、例年通りの様子を見せているのが、路地ビワです。人の手入れが行き届かない川端や道脇などで自然に育ったビワの木が、梅雨入りを前に橙色の果実をたわわに実らせています。茂木ビワの産地でもある長崎は、毎年、大型連休が終わる頃から、店頭に並ぶビワの数がぐんと増え、お値段もお手頃に。ビワはやさしい甘さの果汁がたっぷりで、薬膳では、咳止めや熱が出て喉が渇くときなどに用いられます。葉や種にも薬効があることが昔から知られ、ビワ茶などは疲労回復に効果があります。  話は変わりますが、大型連休中、思いがけない場所でミサゴと思われる鳥を見かけました。そこは、長崎駅前の高架広場。餌を見つけたのか、急に上空から降りてきて低空飛行。餌を取り損ね上空へ上がったかと思うと2度旋回、再び下降しホバリングのような動きを見せ、床面に向かってヒュッと降り、その後、駅舎側へと飛び去っていきました。顔からお腹にかけて白かったので、トビではありません。あわてて写真を撮ったので、種類を見極められるほど詳細な写りでないのが残念です。   数ヶ月前ミサゴを見かけたのは、野母崎の海でした。ミサゴは海岸や大きな河川の近くに生息するタカの仲間。長崎駅は、海や河川が近いとはいえ、人や車の喧騒が絶えません。そんな場所でトビにも似た大胆な行動を見せたのには驚かされます。ただ、後になって知ったのですが、小動物を餌にすることが多いタカの仲間のなかで、ミサゴは、ボラやトビウオ、イワシなど、魚を餌にするそう。今回見かけた鳥は、広場の小動物らしきものを狙ったと思われるので、ミサゴではないかも…。では、いったい何という鳥だったのでしょうか。次の偶然の出会いを待ちたいと思います。

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  • 第616号【希望を携え龍馬像をめぐる】

     4月に入ってからの長崎は、春というより、早くも初夏の陽気に包まれる日が多くなりました。ぐんぐん上がる気温に乗って、ご近所の春バラが空に向かって大輪の花を咲かせました。つい先日まで桜が満開だったのに、季節はどんどん移り変わっています。例年よりも早く北上している桜前線は、いま青森あたりでしょうか。長崎市の桜の名所のひとつとして知られる風頭公園に足を運ぶと、龍馬の銅像が楠や桜の青葉を背景に、長崎港の沖合を見つめていました。   「龍馬さん、あなたなら、いまの時代をどんなふうに生きるでしょう?」。思わず、そんな質問をしたくなる龍馬像。幕末の志士、坂本龍馬(1836-1867)は、新しい時代に目覚め、前例にとらわれないやり方で突き進み、ズンズンと時代を動かしました。こだわりのないおおらかな人柄だったそうで、時代を超えて多くの人々を魅了し続けています。  新型コロナの影響で観光客が激減したいまも、マスクを付けた龍馬ファンとおぼしき人たちが、風頭山の山頂にあるこの龍馬像をめざして登っていく姿を見かけます。というのも、この界隈は龍馬たちが闊歩したスポットとして、龍馬ファンにはたまらないエリアなのです。風頭公園近くから「龍馬通り」と称する階段を下ると、山の中腹には龍馬が率いた「亀山社中の跡」があり、社中のメンバーが参拝に訪れたといわれる「若宮稲荷神社」や龍馬らが利用した料亭「玉川亭の跡」、上野彦馬の撮影局跡などがあります。ちなみに「若宮稲荷神社」の境内にも龍馬像がありますが、こちらは風頭公園の銅像の原型だそう。顔立ちがより若々しい印象です。  昨年11月には、聖福寺(長崎市筑後町)に龍馬像が建立されました。50センチほどの高さで、風頭公園の銅像と同じ作者だそう。こちらの像は、後頭部にまとめた髪がポニーテールになっています。聖福寺は、「いろは丸事件」(龍馬たちが乗った船と紀州藩の船が衝突した事件)の談判が行われた場所で、話し合いには龍馬も同席しました。その日、どんな気持ちで山門(国宝)をくぐり、参道を歩いたのでしょう。境内の古めかしい石畳や石段を龍馬も踏みしめたかと思うとドキドキします。  ところで、聖福寺はいま、修復工事の真っ最中。境内にあった大きな楠や金木犀などの樹木が工事の都合で伐採されたことで、はからずも大雄宝殿の全景を撮ることができました。修復作業は長丁場で、これから10年ほどかけて行われるそうです。  さて、龍馬の銅像は、丸山公園にも設けられています。丸山公園は花街丸山の跡地にあり、龍馬ら海援隊の面々も訪れていたようです。1867年(慶応3)に起きたイカルス号事件(英国人水夫が丸山で惨殺された事件)では、海援隊のメンバーが犯人ではないかと疑われ(のちに嫌疑は晴れる)、龍馬を悩ませたこともありました。   銅像をめぐりながら当時の出来事を振り返ると、龍馬はさまざまな試練や苦難を成長の糧にしていたこと、そして新時代への希望を抱いて行動していたことがわかります。時代を超えて龍馬が愛される理由はそんなところにありそうです。

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  • 第615号【長崎開港450年を迎える春】

     今年は記録的な早さで各地の桜が開花。長崎も今月14日に開花宣言が出て、いまはちょうど満開のときを迎えています。小鳥たちは桜の花の蜜を求めて、枝から枝へ。いつもなら動きが素早い小鳥も、おいしそうな蜜を求めてしばらく枝に留まるので、写真が撮りやすいです。  長崎港を見渡す高台に出て、ぐるりと見渡せば、港を囲む緑の山肌や住宅街のあちらこちらに薄桃色の花を満開にした桜が見えます。ただ、咲いてくれるだけで、心が浮き立つ桜。昔々の人々も、同じような気分でこの季節を迎えていたのでしょうか。  さて、はじまりの春を知らせる桜。1週間後には新年度がスタートします。長崎はこの4月に「長崎開港450周年」を迎えるということで、令和3年度はさまざまな記念イベントが予定されているようです。ただいま建設中の長崎市役所新庁舎の工事現場を囲う壁には、「長崎開港450周年」のロゴマークが描かれ、通行人の目をとめています。それを見てふと、50年前の400周年のときはどんなデザインのマークを使ったのかなと思って、調べてみました。  長崎開港400周年は、1970年。大阪で日本万国博覧会が開催された年でもあります。くだんのマークは、『長崎開港400年のあらまし』(「長崎開港400年記念実行委員会」発行)という冊子の裏表紙で見つけました。マークの説明には「波がしらと鶴の組み合わせは、将来への躍進を象徴し、これを出島の扇型で囲む。くちばしの部分は開港を示す。」とあります。  50年前のマークのモチーフのひとつに鶴が使われているのは、長崎港が「鶴の港」と称されていたからでしょう。「鶴の港」の由来は、港の輪郭が、鶴が翼を広げたような形に似ているからという説が主流でしたが、本当のところは定かではないそうです。振り返れば、長崎港が「鶴の港」と称されていたのは昭和の時代までだったかもしれません。平成に入り、埋め立てなどで港湾の形がますます変わっていくなかで、「鶴の港」という言葉をしだいに見聞きしなくなった気がします。  そもそも「鶴の港」と呼ばれはじめたのはいつの頃だったのでしょう。開港前の長崎の歴史をひもとけば、当時の領主だった長崎氏は、鎌倉時代の貞応年間(十三世紀前半)に、東国からこの地にやって来て、入江(港)から少し奥まったところに「鶴城(つるのしろ)」と呼ばれる居城を構えたと伝えられています(「城の古趾」(長崎市夫婦川))。勝手な想像ですが、「鶴の港」は、この「鶴城」の名にゆかりがあるかもしれません。港が整備される前の自然な入江の時代には、干潟のような場所もあり、その昔には鶴が渡りの際に羽を休めていたのではないかという話を聞いたことがあります。鶴が舞い降りる地に由来しての「鶴城」そして「鶴の港」だったかも、などと想像の羽は広がるばかりです。   半世紀前の「鶴の港」の写真には、「女神大橋」はなく、「長崎水辺の森公園」もありません。当時あった「長崎魚市場」はなく、埋め立てられたその界隈には現在、長崎県庁、長崎県警察本部が建っています。1571年にポルトガル船が初めて来航して以来、南蛮貿易時代、出島の時代を経て、幕末〜明治の居留地時代、そして大正〜昭和初期の上海航路の時代など、さまざまな表情で時代を物語ってきた長崎港。これから50年後には、どんな姿を見せているでしょうか。

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  • 第614号【春のグラバー園で富三郎を想う】

     近頃のお天気は、「春に三日の晴れ無し」ということわざ通り、短いサイクルで晴れたり、曇ったり。そうやってしだいに春めく様子は、暮らしのいろいろなシーンで感じられます。スーパーの鮮魚コーナーは、一年を通して見かけるアジやイワシ、モチウオなどのほかに、旬のマダイ、アマダイなどが並んで春らしい彩りに。その美しい紅色の姿を見て、ふと思い出したのが、グラバー図譜でした。  通称・グラバー図譜こと『日本西部及び南部魚類図譜』は、幕末〜明治の日本で活躍した英国出身の商人トーマス・ブレーク・グラバーの息子である倉場富三郎(1871-1945)が、長崎魚市場に水揚げされる魚類を、地元の画家を雇って制作したものです。描かれた魚類は約600種(図版総数約800枚)に及び、緻密で美しい彩色の描写で知られています。  グラバー図譜は、当時、長崎でトロール漁業の会社等を営む実業家であり、水産学者でもあった富三郎が、日本の魚類の分類学に寄与するために制作したといわれています。大正から昭和初期にかけて21年の歳月と莫大な資金がかけられており、それぞれの図版には、富三郎自らが多くの文献を調べて、学名、和名、俗名などを記しています。図譜にかける富三郎の熱意がうかがえます。  現在、グラバー図譜は、長崎大学附属図書館が所蔵。データベース化されていて、インターネットで閲覧できます。実は、グラバー図譜は、終戦直後に亡くなった富三郎の遺言で、渋沢栄一の孫の渋沢敬三(1896-1963:財界人、民俗学者、第16代日本銀行総裁、大蔵大臣)に託されました。そして、その数年後、再び長崎へもどってきます。その経緯については、1970年代にグラバー図譜の全図版を写真版でまとめた『グラバー図譜』(全5巻・長崎大学水産学部編)にある、渋沢の寄稿(第1巻)の中で述べられています。関心のある方は、長崎市図書館などでご覧になってみてはいかがでしょう。  富三郎のことを思いながらグラバー園へ。グラバーそして、富三郎が暮らした旧グラバー住宅は、2年前から保存修理工事中(工事終了は今年10月29日を予定)でした。庭の一角ではシモクレンがちょっと早めの開花を迎えていました。  現在、旧グラバー住宅に展示されていた品などは、園内の旧リンガー住宅、旧スチイル記念学校にそれぞれ移され、「グラバー特設展」として紹介されています。長崎に生まれ、東京の学習院、アメリカのペンシルバニア大学で学んだ富三郎は、地元長崎にもどると実業家として活躍しました。明治〜大正〜昭和の激動の時代を生き抜く中、父がグラバーであることや自身の日本人離れした容姿などについて、きっと他人には推し量れない複雑な思いがあったことでしょう。  旧リンガー住宅での「グラバー特設展」で、グラバー住宅の食堂を富三郎が撮影した写真が展示されていました。その写真に、藤製の大きなつい立てが写っていて、その現物も見ることができました。つい立は、すっかり色あせていましたが、手の込んだ堅牢な作りに、裕福な暮らしぶりがうかがえました。  長崎港を見渡す緑豊かな丘の上にあるグラバー園。園内を歩いていると、もうじき北へ帰るアカハラ、ジョウビタキの姿がありました。富三郎も、この場所で渡って来た鳥たちを見たかもしれません。  ◎参考にした本/『グラバー図譜』第1〜5巻(長崎大学水産学部 編)  

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  • 第613号【沈丁花とツュンベリー】

     開花とともに、あたりに甘い香りを漂わせる沈丁花。早春を知らせる芳香ですが、マスクをしているとなかなか気付きにくいですね。ご近所の方が、通行人にも香りを楽しんでもらおうと思われたのか、咲きはじめた沈丁花の鉢植えを通り沿いに出していました。マスクをずらして、しばし芳香を楽しめば、卒業や進学、就職など、人生の大切な節目を迎えた春の記憶があれこれよみがえります。香りって不思議ですね。  沈丁花の原産地は、中国中部からヒマラヤ地域にかけて。日本へは室町時代に渡来したといわれています。沈丁花の名は、香木の「沈香(じんこう)」と、エキゾチックな香りのスパイス「丁子(ちょうじ)」(クローブ)に由来。学名であるDaphne odoraの名付け親は、江戸時代、出島のオランダ商館付医師として来日したツュンベリーだそう。植物学者でもあったツュンベリーは、出島で栽培されていた沈丁花を観察し、学名を付け学会に発表。この学名の語源も、やはり芳香を意味する言葉だそうです。  スウエーデン生まれのツュンベリーは、生物の分類学の創始者であるリンネ(1707-1778)の高弟で、植物学者として優れた才能を持っていました。出島にやって来たのは1775年で、滞在はわずか1年ほどでしたが、その間に採取した日本の植物は800種余りもあったそう。帰国後、その植物を『日本植物誌』に著し、ヨーロッパに広く紹介しました。このとき、初めて世界に紹介された植物も多く、カキ(Diospyros kaki)、サザンカ(Camellia Sasanqua)など、日本での呼び名がそのまま学名になったものもあります。  ツュンベリーは、同じオランダ商館付医師として1690年に来日したケンペル、1823年に来日したシーボルトらと並び、出島の三学者と呼ばれる人物です。三人は、それぞれの時代においてヨーロッパの近代医学を日本に伝え、来日中は、優れた収集力と洞察力で日本の自然や風習、文化などを調査・観察し、帰国後にそれらを著し、広くヨーロッパの人々に伝えました。現在、出島には、かつて薬草園だった場所に、ケンペルとツュンベリーの名を刻んだ記念碑が残されています。これは、シーボルトが先達のふたりの功績を讃えて1826年に建立したものです。  三学者らが、日本の植物などを数多くヨーロッパに伝えた一方で、日本にはじめてオランダ船が運んできた植物にはどんなものがあったのでしょう。往時の町並みが復元されつつある現在の出島の西側近くに建つ「二番蔵」にその答えが展示されていました。野菜や果物なら、トマトやセロリ、パセリ、パイナップル、イチゴなど。花なら、キズイセン、ストック、シロツメクサ、マリーゴールド、カラー、ヒマワリ、オシロイバナ、キンレンカなどなど。いまでは、日本の暮らしになじみのあるものばかりですね。  冒頭で紹介した沈丁花の名にゆかりのある丁子(クローブ)も、シナモンやナツメグとともに、痛み止めや防腐効果などのある薬種のひとつとしてオランダ船がたくさん運んで来ていました。いまでは、料理やお菓子作りによく使われるスパイスですが、当時はとっても貴重なものだったようです。  ◎参考にした本/『ガーデニング植物誌』(大場秀章)

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  • 第612号【春がはじまる2月】

     今年の節分は、124年ぶりの2月2日でしたね。各地の神社では、新型コロナウイルス感染予防対策を万全にして、古いお札やお守りをお焚き上げする火焼神事(ほやきしんじ)が行われました。長崎市民の総鎮守・諏訪神社では、毎年賑やかに行われてきた節分祭の年男・年女による豆まき行事は中止となりましたが、火焼神事は例年どおり踊馬場で行われました。人々がとても静かに炎を囲んでいたのが印象的でした。  立春(2月3日)が過ぎてから、九州はおおむね晴天が続いています。春めく日差しのなか、ぐんと気温が下がる日もありますが、そうやって春がやって来るのですね。気象で春を告げる現象のひとつに、「春一番」がありますが、これは立春から春分の間に、初めて吹く南寄りの強風のこと。「春一番」が吹くと日本海の低気圧が発達し高波や激しい雨などの荒れた天候になります。今年、関東地方では、立春の翌日に「春一番」が来ました。これは、過去最も早い記録だそう。実は九州北部では、立春前の2月1日に「春一番」を思わせる強風に見舞われました。もしかして、季節は前倒しで巡っているのかもしれません。  もうひとつ、春によく見られる気象現象に、「黄砂」があります。「黄砂」は、中国大陸の黄土地帯で多量に吹き上げられた砂じんが、偏西風に乗って日本へ飛来するものです。砂じんは大気中に浮遊、あるいは地上にふりそそぐため、空気が埃っぽく感じられ、視界も悪くなります。この「黄砂」が、数日前の2月7日に飛来。長崎のまちは、うっすらと黄色がかった大気に包まれました。  「黄砂」のように、中国大陸から渡って来たものと言えば、長崎には数え切れないほどありますが、節分に食べられる長崎の伝統野菜、紅大根(あかだいこん)もそのひとつです。一説には江戸時代に中国から渡り伝えられたといわれています。紅色をした細長い姿が「赤鬼の腕」のようだとして、食べれば鬼退治になる、子供たちがたくましく育つとして、昔から節分の日には神棚に供えられ、その後、甘酢漬けなどにしていただきました。  紅大根は、大根とはいってもカブの仲間。2ミリほどの厚さの紅い皮の下は、真っ白です。甘酢漬けにすると、皮の色素がより鮮やかになり白い部分も真っ赤に染めてしまいます。この紅色は何かと体にいいアントシアンの色素です。また大根と同じように豊富に含まれたジアスターゼ等の酵素が消化を助けます。  節分の日に赤大根とともに食べられるのが、地元で「ガッツ」と呼ばれ親しまれている、金頭(かながしら)という魚の煮付けです。その名前からしてお金が貯まるという縁起もの。内臓をとらずまるごと煮付けていただきます。アラカブにも似たダシがよく出るので、味噌汁にしてもおいしいです。   「紅大根の甘酢付け」や「金頭の煮付け」のように、大きな時代の危機や変化をいくつもくぐり抜けながら、長い間、食べ継がれてきた行事食は、全国各地にいろいろと残っています。それを、人々がけして手放さなかったのは、季節感や味わいもさることながら、その行事食に込める人々の願いが、どんな時代も切実で変わらぬものであったからかもしれません。

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  • 第611号【長崎のウメ、咲きはじめました】

     季節はまだ「寒の内」。九州では、積雪のあと3月のような陽気に汗ばむ日もあるなど、寒暖の極端な天候が続いています。そうしたなか、季節は着々と春へ向かっているようです。地元の野菜が並ぶお店で、「ふきのとう」を見かけました。雪解けの頃に芽を出し、いち早く春を告げる「ふきのとう」。その独特の芳香と苦味をさっそく和え物にして楽しみました。  早春といえば、そろそろウメも咲きはじめる頃ですね。ちなみに、昨年の長崎のウメの開花日は1月16日。今年の発表はまだのようです(長崎地方気象台HPより)。余談ですが、ウメやソメイヨシノなどの開花やウグイスの初鳴きといった季節によって変化する植物や動物の状態を観測する「生物季節観測」について、昨年末にちょっと寂しいニュースがありました。気象庁で長年続けてきた「生物季節観測」が、その対象となる全57種類の動植物のうち、51種類が昨年いっぱいで廃止に。ウメ、サクラ、アジサイ、ススキ、カエデ、イチョウの6種類の植物の観測は続けられるそうです。  さて、ウメの観測が続けられることにホッとしながら訪れたのは、「松森天満宮」(長崎市上西山)です。緑豊かな境内の静けさを楽しみながら本殿へ向かうと、新型コロナウイルス感染予防のため、手水鉢のひしゃくと、参拝時に鳴らす鈴の緒がはずされていました。ここの手水鉢は植物をかたどったような文様が美しいことで知られています。昭和13年発行の『長崎市史地誌篇神社教会部上巻』にも「其の形状は朝顔花を模し構造が巧妙であるので観賞を惹いて居る」と紹介されています。コロナ以前は、鉢の中央に竹を渡してひしゃくが置かれていましたが、思わぬ事情でその文様全体を見ることができました。  菅原道真公を祀る松の森天満宮。この時期は、受験生の姿をよく目にするのですが、今年はコロナ禍だからか、学生さんは少ないよう。「代わりに親御さんがいらしているようですよ」と神社の方がおっしゃっていました。  参拝を済ませたら、のんびりと境内をひとめぐり。点在する楠の巨木(市指定の天然記念物)は参拝者を温かく見守るかのよう。本殿そばに植えられたウメの木は数輪が開花し、たくさんの蕾はいまにも咲きそうなふくらみでした。ウメよりも数週間ほど早く開花したロウバイも、香りは弱くなっていましたが、花に顔を近づけると水仙に似たさわやかな芳香が残っていました。「今年は天候が不順で、ロウバイにしてもウメにしても開花や、見頃については、なかなか予測がつきにくいのですよ」と神社の方。  本殿の裏手に回ると、大きく育った柑橘の木が今年もたくさんの実を付けていました。その実は、温州みかんくらいの大きさで色はレモンに近い。長年気になっていたその種類を神社の方にうかがうと、「以前、調べてもらったのですが、どうも、ゆうこうらしいのです」とのこと。「ゆうこう」は、ユズやスダチ、カボスなどと同じ香酸柑橘の一種で、長崎の伝統柑橘です。長崎市内では、キリシタンゆかりの地に自生が確認されています。   江戸時代前期の寛永3年(1626)に創建され、明暦2年(1656)に現在地に移設された松森天満宮。人の目にふれにくい本殿裏手の片隅で、のびのびと育ったゆうこうの木。自生なのか、誰かが植えたものなのか、その由来はまったく分からないそうです。

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  • 第610号【ふっくらかわいい冬の野鳥】

     昨年末から「冬らしい寒さ」が続いています。先週からの強い寒波の影響で、北陸・新潟などでは記録的な大雪に。積雪による被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。長崎でも先週末、最大15センチの積雪がありました。北国に比べたらわずかですが、なにせ雪には不慣れな土地柄です。公共交通機関は一時運転を見合わせ、観光スポットやお店は、臨時休業や営業時間を遅らせるなどの対応に追われたようです。  さて、いろいろと厳しい状況が続きますが、今年最初の当コラムでは、冬の野鳥の姿でひととき和んでいただきたいと思います。いずれも、石橋群で知られる中島川界隈で見かけるおなじみの鳥たちです。  トップバッターは、丸々とした姿がかわいらしい「ふくらスズメ」です。羽毛はもともと断熱性に富んでいますが、羽をふくらませることで空気の層を作り、より保温力を高めます。冬にしかお目にかかれないこの姿は、「寒雀」とも呼ばれ俳句などでもよく詠まれます。「寒雀酒蔵を出る糀の香」長崎ゆかりの俳人、森澄雄(1919-2010)の句です。厳寒の時期、酒の仕込みをする酒蔵の風景が蘇ります。  羽毛をふくらませているのは、スズメだけではありません。川辺で獲物をじっと探していたのはイソヒヨドリです。ふくらむと別の鳥のようにも見えます。ムクドリやメジロも寒さ対策は同じ。お腹をふくらましたフグを連想します。  積雪の日の朝、最初に出会ったのがジョウビタキでした。秋、極寒を迎える前に大陸を離れ渡ってくるだけあって、日本の冬の寒さなど、どうってことないのです。メスはとってもかわいい。オスもまあ、かわいい。オスとメスは同じ種類とは思えないほど体の色が違いますが、よく見ると、両方とも翼の同じ場所に白斑があり、尾羽がきれいな橙色をしています。  川辺でじっとしていたかと思うと、すばやく飛び立ち水面にむかってダイビングしたのはカワセミです。長いクチバシで小魚をとらえました。防水性のある羽が水をはじくのでビショビショになったりしません。  逆さになって、ナンキンハゼの実をついばんでいたのは、シジュウカラ。全国各地に生息する留鳥です。枝先にぶらさがったり、逆さの体勢で餌をとるのが得意技です。  イソシギは、中島川の上流から河口付近にかけて見かけます。トコトコと歩きながら、細くて長いクチバシで餌をついばみます。お腹の真っ白な羽毛が翼の付け根のところまでくいこんでいるのが特長です。  餌が少なくなる冬は、野鳥にとってもきびいしい季節ですが、小さいながらも、したたかに生きる姿に、ちょっぴり励まされます。 今年もみろく屋の「ちゃんぽんコラム」を、よろしくお願い申し上げます。  

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