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  • 第578号【中島川のアオサギ 】

     8月の豪雨、そして9月に入ってからの相次ぐ台風による被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。1日も早い復旧・復興を祈っています。  さて、今回は、長崎市の中心部を流れる中島川のアオサギの話です。中島川は、眼鏡橋をはじめとする石橋群で知られる観光スポットで、一年を通して多くの人が訪れます。ここをテリトリーとするアオサギは、観光客がそばにいてもあまり動じません。そろり、そろりと長い足を交わしてほどよい距離を保ち、観光客が立ち去ると再び川面を見つめ、採餌をはじめるのです。  アオサギ(蒼鷺)の英名は、「grey heron(灰色の鷺)」。その名の通り、体は青みがかった灰色をしています。長いくちばしと首と足を持つ大型のサギで、全長は約93㎝。両翼を広げると全長の2倍近くにまでなります。中島川では、翼を広げ低空飛行で石橋の下をくぐり抜ける姿をよく見かけます。ゆっくりとした羽ばたきで優雅に隣の石橋の方へ移っていくのです。アオサギは、ときにツルと間違えられることもあるほど整った容姿をしていますが、鳴き声を聞くと、ツルとのギャップを感じるかもしれません。ツルは「クルルー」。アオサギは「グァー、グァー」と野太い濁音で鳴きます。  中島川では常時、数羽のアオサギを確認できます。餌となる川魚の様子を伺っているのか、じっと川面を見つめて立っていることが多く、いずれも単体で行動しています。集団もしくは、つがいは見たことがありません。野鳥図鑑によると、アオサギは、採餌時は単独で動き、ひと休みするときは小グループになるそうです。ということは、中島川はあきらかに採餌のためだけの場所。寝ぐらは別の場所にあるようです。  アオサギは、2年ほどで成鳥になります。成鳥は、翼の付け根や目の上から後頭部にかけて黒い線が入り、喉には黒い斑点がはっきり出ています。後頭部の黒い線はそのまま伸びて、冠羽と呼ばれる羽毛が見られます。若鳥は体がいくぶん小さく全身が灰色、冠羽もありません。一見、成鳥と思われるものもいますが、よく見ると、冠羽が伸びる前の若鳥だったりします。観光客のそばで動じないのは、こうした若鳥のよう。人間と同じで、怖いもの知らずなのかもしれません。  アオサギの繁殖期は、春から夏にかけて。サギ山とも呼ばれるコロニー(集団繁殖地)で、樹の上にお皿のような巣を作り、卵を産みます。中島川に採餌にくるアオサギのコロニーは、どこにあるのでしょう。寺町の背後の樹林、もしくは、ひと山越えた林にあるのではないかと思っているところです。  アオサギは、昼間だけでなく、夜も餌を採ります。真冬に行われる「長崎ランタンフェスティバル」のとき、黄色いランタンが飾られた夜8時過ぎの中島川で、灯りが届かない暗い川辺にいるのを見たことがあります。寒さや暗闇にも負けず、餌を求めるアオサギ。たくましい野鳥です。   中島川では、サギの仲間のコサギやゴイサギも見かけたことがありますが、どうしたことか、コサギはここ1年近く見かけませんし、ゴイサギにいたっては、最後に確認してからすでに10年以上も経っています。ほかの採餌の場所を見つけたのか、アオサギにテリトリーを奪われてしまったのか。野鳥の専門家の意見を聞きたいものです。

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  • 第577号【中の茶屋で、ほっとひと息 】

     西日本付近に停滞する秋雨前線の影響で、今週のながさきの天気予報は、雲と傘マーク並んでいます。ぐずついた空模様は、台風10号がやってきたお盆の頃から続いていて、日差しが少ないこともあり、朝晩は肌寒いことも。めぐる季節は前倒し気味のようですが、9月になれば、再びきびしい残暑が到来することでしょう。夏の疲れが出る頃です。体調に気をつけてお過ごしください。  ちょっと、夏の日常を離れてひと息つこうと、「中の茶屋」(長崎市中小島)を訪ねました。茶室を設けた2階建ての木造家屋と、江戸時代中期の日本庭園があることで知られています。ここは、江戸時代に丸山の遊女屋・筑後屋がつくった茶屋で、当時、多くの文人墨客が訪れたと伝えられています。現在の家屋は、昭和の時代に火災で消失した後、もとの姿に近づけて新築・復元されたもの。1階は、ふすまを開ければ20畳ほどにもなる和室があり、そこから広縁越しに手入れの行き届いた庭園を見渡せます。こころ和む景色です。  目を引くのは、和風庭園の主役ともいえるクロマツです。門扉から玄関まで客人を誘導する敷石の脇に植えられていて、枝先は血管のようにこまかく伸び老樹の魅力が感じられます。また、季節の花々は、早春から夏にかけて、ウメ、サクラ、ツツジ、サツキ、サルスベリと続き、寒い季節になるとツバキを愛でることができます。いずれの花も一面を埋め尽くすように咲くのではなく、庭の一角でさりげなく咲いて、四季の移ろいを伝えます。  中の茶屋の1階・2階の和室は、2001年(平成13)から、長崎市出身の漫画家で、かっぱの絵で知られる清水崑(しみずこん)氏の展示館として利用されています。3,400点におよぶ原画を所蔵していて、不定期に展示替えしながら数十点ずつ作品を公開しているそうです。この夏は、かっぱの絵とともに、昭和時代の有名人の似顔絵が展示されていました。木造家屋とともに懐かしい昭和のムードにひたれるスポットでもあります。  さて、「中の茶屋」を訪れたら、界隈にある神社にも足を運んでみませんか。個性的な歴史やゆかりを持つ3つの神社をご紹介します。ひとつめは、「中の茶屋」の下手に隣接する「梅園身代り天満宮」(長崎市丸山町)です。1700年(元禄13)の創建以来、丸山町の氏神様として親しまれてきました。かつては遊女たちもよく参拝に訪れたといわれています。  「中の茶屋」から路地を南へ道なりに進むと「玉泉稲荷神社」(長崎市寄合町)があります。勧請の時期は17世紀半ばと推測され、神仏習合の時代にあって、こちらも長く神社と寺院が融合していたようです。明治元年の神仏分離令で稲荷神社に改称し、現在に至ります。そんな歴史があるせいか、どこか寺院のおもかげが残っているよう。拝殿まわりには、龍や像などカラフルな色を配した神獣が施されています。  最後は、「中の茶屋」から南東方向に丘を登ったところにある「八剣神社」(やつるぎじんじゃ:長崎市東小島町)。創建は、長崎が南蛮貿易港として開港(1571年)する少し前の1568年(永禄16)と伝えられ、2年後の2021年(令和3)には、創建450年を迎える長崎最古の神社です。氏子さんたちからは、「ヤツルギさん」と呼ばれ親しまれています。   いずれの神社も地域の人々が大切にしている神社です。ルールやエチケットを守って、ご参拝ください。

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  • 第576号【長崎ペンギン水族館へ】

     青く大きな水槽のなかを、ビユンと飛ぶように泳ぐペンギンに会いたくて、「長崎ペンギン水族館」(長崎市宿町)へ行ってきました。長崎駅から赤い車体が目印の長崎県営バスに乗り込んで約30分(「網場・春日車庫前」行きに乗車、「ペンギン水族館前」バス停で下車)。美しい橘湾が目の前に広がるこの水族館は、子どもたちの夏休み期間中ということもあり、朝9時の開館直後から大勢の入場者の姿がありました。  ヨチヨチ歩きの姿が愛らしいペンギン。現在、世界には全部で18種類のペンギンがいるそうです。「長崎ペンギン水族館」で飼育されているのは、南極周辺の島々に棲むキングペンギン、ジェンツーペンギン、ヒゲペンギン、マカロニペンギン、イワトビペンギン。そして、南米などの暖かい地域に棲むマゼランペンギン、フンボルトペンギン、ケープペンギン、さらに、世界でいちばん小さいサイズのコガタペンギンなど全9種類。この飼育種類の多さは、世界一だそうです。  入館するとすぐ、大きなペンギンプールが目の前に現れます。ペンギンが、ガラスの外の人間たちを横目で見ながらビュンビュン、スィーと水中を横切る姿は、猛暑を忘れるほど心地いい光景でした。また、水族館に隣接するビーチでは暑さに強いフンボルトペンギンが海に入り泳ぐ姿を見ることができました。  燕尾服を思わせる黒と白の羽毛に包まれたペンギンは、種類ごとに黒・白の羽毛の線の入り方、くちばしやヒゲの色、形など、それぞれ個性があります。さらに同じ種類でも、一羽ごとに性格も違うよう。とにかく、みんなかわいくて、訪れた人々は幼児を見るようなやさしい目でペンギンたちを眺めていました。  「長崎ペンギン水族館」は、ペンギン以外にもいろいろな海の生き物が飼育・展示されています。たとえば、世界最大級の淡水魚でタイのメコン川上流に生息しているというプラー・ブッグ。そして、ケショウフグ、ニセゴイシウツボ、シロザメなど、地元長崎の海に生息しているけど、なかなか見る機会のない個性的な魚類も見ることができます。  「長崎ペンギン水族館」の楽しみはまだあります。駐車場から水族館の建物へ向かうゾーンはビオトープが設けられていて、棚田、湿地、小川、落葉樹林、常緑樹林、池などがある里山の環境が再現されています。棚田ではメダカやアメンボ、小川ではアカテガニを見かけました。ハスの花咲く池では、長崎市のレッドブックで、絶滅危惧Ⅱ類(VU)(絶滅の危険が増大している種)に入っているナツアカネの姿を確認。樹林のなかでは、男の子が昆虫を夢中で追いかけていました。   かわいいペンギンと小さな自然とのふれあいを楽しめる「長崎ペンギン水族館」。館内では、『ペンギン飼育60年の歩み展』(令和2年3月末まで開催)が行われていて、水族館の前身である旧長崎水族館時代(昭和34年開館)からのペンギンに関する飼育や繁殖に関する出来事など、懐かしい写真パネルを中心に紹介されていました。子どもたちはもちろん、大人にもおすすめのスポットです。

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  • 第575号【見どころ多彩な松森天満宮】

     地元の人々が折にふれ足を運ぶ松森天満宮(長崎市上西山町)。住宅街の一角で、そこだけ小さな森のように樹林に包まれた静かな佇まいは、参拝者にとって憩いの空間でもあります。参拝をすませたら、拝殿の横から正殿の裏手へ回り、「職人尽(県有形文化財)」を歩き見ながら、樹林の合間にある祠に手を合わせたり、境内で放し飼いにされているニワトリを眺めたり。そうやってひと息ついたら、ヨッコラショと日常へもどるのです。  松森天満宮は、諏訪神社(長崎市上西山町)、伊勢宮(長崎市伊勢町)とともに、長崎三社のひとつとされています。江戸初期の1625年(寛永2)、現在地からそう離れていない今博多町に創建。現在地への遷宮は1656年(明暦2)で、学問の神さま・菅原道真を祀った神社として江戸時代から信仰されてきました。当初は「新天神」と呼ばれていたそうですが、1680年(延宝8)、境内に同根3株の松があったことから、当時の長崎奉行・牛込忠左衛門膳登によって、「松森天満宮」と命名されたと伝えられています。同年、唐の商人が正門を寄進しています。  松森天満宮は、全体的にこぢんまりとしていますが、拝殿などの建物は、素人目にも整った美しさで、格式ある建築様式であることが分かります。境内を見渡せば、ほかにも、思わず足を止め、見入ってしまうものがいろいろ。たとえば、手水舍の水盤。葵の文様にも似た植物の葉のデザインが施されています。松森天満宮のホームページには、この水盤のデザインについて、「朝顔型」と紹介されていましたが、詳細は不明のよう。以前、郷土史に詳しい方から、長崎市内の別の場所に、同じデザインの水盤があると聞いたことがあります。探しあてることができたら、あらためてご紹介したいと思います。  手水舍そばには、松竹梅を模った石燈籠が、まるで門松のように参道の両脇に設けられています。どこか素朴な風合いの石燈籠。どの部分が松で、竹で、梅なのかと、近くに寄って見ると、遊び心が感じられる工夫が施されていて面白いです。また、この石燈籠のそばには、端正な顔立ちの狛犬が鎮座。拝殿の格式にあった風格を感じる狛犬です。  冒頭にも出ましたが、本殿の外囲いの欄間には、昔のさまざまな職人たちの様子を彫刻彩色した「職人尽(しょくにんづくし)」といわれる30枚の鏡板がはめ込まれています。碁盤製造、鍛治、祭礼行事、菓子製造、医師、紙工など、それぞれの職人の姿が精密に描写され、いにしえ人の営みが生き生きと伝わってきます。この「職人尽」の下絵は、長崎奉行御用絵師の小原慶山かもしれないとか。現存する彩色は、唐絵目利で当時の長崎画壇を代表する石崎融思が施したそうですが、残念なことに、長い年月の中でずいぶんと色あせているようでした。   さて、豊かな緑のなかにある松森天満宮。その樹木の中心的存在となるのが、クスノキです。拝殿そばには、大きなクスノキが御神木として祀られているほか、長崎市の天然記念物に指定された巨木など、境内やその周辺に大きなクスノキが何本も見られます。そんなことから、「クスノ森天満宮」と茶化して呼ぶ人もいるほど。大きく枝を伸ばしたクスノキはいま、参拝者に涼しい木陰を提供しています。

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  • 第574号【サント・ドミンゴ教会跡資料館へ】

     大雨による被害が各地でありました。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。 梅雨の晴れ間、中島川上流にかかる桃渓橋(ももたにばし)を通りかかると、橋の下で、カンナがいっせいにオレンジ色の花を咲かせていました。カンナはへこたれない植物です。河川の草が生い茂るたびに短く刈り取られ、大雨や台風のときは濁流に飲み込まれ、ときになぎ倒されたりもしますが、水が引いてしばらくすると、すくっと立ち上がります。ありのままの姿を炎天下にさらし、再び鮮やかな花を咲かせるカンナ。橋を行き交う人々を励ます存在です。  カンナの咲く桃渓橋から、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」(長崎市勝山町)へ足を運びました。長崎歴史文化博物館のそばにあるこの資料館は、長崎市立桜町小学校の校舎裏手に設けられています。小学校が建て替えられた2004年にオープンしたので、今年で15年目。小さく目立たない資料館ですが、全国的にもめずらしい江戸初期のキリスト教の教会遺構を、目の当たりにできるたいへん貴重な歴史スポットです。  サント・ドミンゴ教会が建てられたのは慶長14年(1609)。江戸幕府が開かれて6年ほど経った頃です。幕府は秀吉の時代に引き続きキリスト教の禁教令を出してはいましたが、南蛮貿易港の長崎での取り締まりは、まだゆるやかで、全国各地のキリシタンが次々にこの町に集まっていました。当時の長崎は、複数の教会堂が建てられ、さながら小さなローマのようであったと伝えられています。  サント・ドミンゴ教会は、当時、富と権力を握っていた長崎代官の村山等安が寄進した土地に建てられました。教会建設にあたって地元の有力者の保護を受けるということは、長崎のまちが南蛮貿易によって成立していたこと、そして南蛮貿易とキリスト教の布教が一体化して行われていたことを示しています。しかし、その後、幕府の全国的な禁教令により、長崎の教会は次々に壊されていきます。サント・ドミンゴ教会も慶長19年(1614)に破壊されてしまいました。  資料館では、サント・ドミンゴ教会時代の遺構と思われる石組地下室、石畳、排水溝が発掘当時のまま保存・展示されています。黄色い土と石で築かれた遺構を見ていると、建ってわずか5年で破壊された教会が、400年以上も経ったいま、再び目の前に現れたことの不思議を感じます。  教会の土地を寄進した村山等安は、その後、失脚。教会の跡地は、末次家(17世紀中期〜後期)、高木家(18〜19世紀)といった長崎代官の屋敷となりました。代官屋敷時代の建物礎石、井戸なども発掘され保存・展示されています。  資料館には、ほかにも大量に出土したキリスト教の象徴ともいえる花十字紋瓦も展示。日本の仏教寺院の建築様式を踏襲したと思われる木造瓦屋根の教会堂に使用されていたのでしょうか。また、代官屋敷時代の陶磁器や煎茶に用いられた急須や小杯なども展示されていて、当時の暮らしぶりがうかがえます。   「サント・ドミンゴ教会跡資料館」は、南蛮貿易、キリスト教の布教、長崎代官など、17世紀から19世紀にかけての長崎の移り変わりをさまざまな視点から眺めることができます。長崎の歴史を知るほどに、この場所に刻まれた濃密な時間を感じとれることでしょう。

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  • 第573号【郷土の涼味 】

     冷やし中華がおいしい季節になりました。つるんとした中華麺の心地よいノド越しが食欲をそそりますね。冷やし中華の美味しさの決め手は、やはり麺。みろく屋の冷やし中華麺は、創業当初から作り続けている夏季限定のロングセラーです。ノド越しが良いのはもちろん、ほのかに中華麺の香りと甘みがあり、盛られた具材の味を引き立てます。子どもからご高齢の方まで喜ばれるやさしいおいしさの中華麺。ぜひ、お試しください。  日に日に暑くなるなか、冷たいデザートも欠かせません。長崎の地元スーパーでは、冬場、冷蔵食品の棚に控えめに置かれていた「呉豆腐(ごどうふ)」が、品数をうんと増やして前面に出てきます。「呉豆腐」とは、豆乳と葛粉(または片栗粉)を混ぜて固めたもので、肥前(佐賀・長崎)に伝わる郷土料理です。見た目は豆腐のようですが、それよりも、もっちりとした食感。甘味噌やショウガ醤油、黒蜜などをかけ、デザート感覚でいただきます。  「呉豆腐」の「呉」とは、水に浸した大豆をすりつぶしたものをいいます。ちなみに日本各地に郷土料理として伝わる「呉汁」は、「呉」を味噌汁に入れたもの。「呉豆腐」より、「呉汁」のほうがよく知られているようです。  「呉豆腐」は、材料も作り方もシンプルです。4人分くらいなら、鍋に市販の豆乳500mlと葛粉50g(本葛粉でなくていい。サツマイモの澱粉がおすすめ)、そして塩をひとつまみ入れ(甘みが欲しい方は砂糖大さじ1〜2杯加える)、よくかきまぜて葛粉を溶かしてから弱火にかけます。混ぜ続けていると5〜6分くらいでねっとりとしてきます。さらに1〜2分ほど表面にツヤが出るくらい練り混ぜたら、ラップを敷いた容器に移し入れ、冷蔵庫で冷やします。固まったら、適当な大きさに切り分け、好みのタレをかけていただきます。  昔は、仏事など大勢が集うときに作られていたという「呉豆腐」。大豆から豆乳を絞り出すところから作りはじめました。一度に豆乳4升(約7200ml)くらいを使うので、火にかけツヤがでるまでに1時間近く練らなければならなかったようです。  「呉豆腐」のように、長崎・佐賀という隣接した地域には、同じような郷土料理がほかにもいろいろ存在するようです。たとえば、長崎・佐賀そして熊本には、「石垣だご」と呼ばれるおやつが古くから伝えられています。「石垣だご」は、サツマイモをサイの目に切ったものを生地に練りこんで蒸して作るお団子です。生地は小麦粉か、イモの粉を使います。  昨年秋に対馬で手に入れた「せん」を使って、対馬市のホームページで紹介されていた「せんだんごの黒蜜かけ」という涼しげなおやつを作ってみました。ちなみに、「せん」はサツマイモから取り出した澱粉を固めた伝統の保存食。「せん」に水を加えて練り、「ろくべえ」と呼ばれる麺料理にしたり、お団子などのお菓子を作ったりします。   「せんだんごの黒蜜かけ」は、「せん」と同量の白玉粉を加え、あとは、白玉団子を作る要領で水を加えながら練り、お団子にして茹であげ、さっと冷水にとって粗熱をとり、黒砂糖をかけていただきます。レモンを添えれば、涼しげな一品に。白玉団子より、もっちり感があります。時間が経つと澱粉の作用で固さが増してくるので、作ったら早めに食べるのがいいようです。

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  • 第572号【元気をくれる初夏の花々】

     長崎くんちの稽古はじまりを告げる「小屋入り」が終わったと思ったら、あっという間に6月中旬。いつもなら雨の季節に入っているはずですが、長崎を含む九州北部や中国、四国地方などはまだ梅雨入りしていません。それでも、街角に咲くアジサイはすっかり見頃を迎え、行き交う人々の目を楽しませています。  長崎市街地の観光スポット(中島川周辺、シーボルト記念館、出島など)では、いま「ながさき紫陽花まつり」(ながさきオタクサまつり)が行われています(6月16日まで)。「紫陽花」と書いて「オタクサ」と呼ぶのは、江戸時代、オランダ商館医として長崎に7年ほど滞在したシーボルトが、日本の「紫陽花」に「Hydrangea  otaksa(ハイドランジェ オタクサ)」と名付けヨーロッパに紹介したことに由来しています。オタクサとは、シーボルトの日本人妻「お滝さん」のこと。そんなエピソードから、アジサイは「長崎市の花」にもなっています。  眼鏡橋のたもとでは個性的なアジサイが咲き揃っていました。花びらがクルンと丸まった「ポップコーン」、愛らしい姿に気分が晴れそうな「雨に唄えば」などなど。姿とともに名前にもアジサイの個性が光っていました。  アジサイだけでなく、ほかの初夏の花々も麗しい姿を見せています。眼鏡橋のアジサイのそばにはキンシバイ(金糸梅)、中島川河口付近の玉江橋そばにはビヨウヤナギ(未央柳)が咲いていました。どちらも中国原産のオトギリソウ科の植物で、鮮やかな黄色の5弁の花です。よく似た花同士ですが、キンシバイの方がやや小ぶりの花でカップ状に咲き、雄しべが短い。ビヨウヤナギは花びらを大きく開き、雄しべが長いのが特徴です。いずれも、江戸時代に日本で盛んに栽培されるようになった植物だそうです。  出島橋の近くではアメリカデイゴの花が満開でした。和名は海紅豆(カイコウズ)。南米原産のマメ科の落葉低木で、日本への渡来は江戸時代末期から明治期と言われています。グラバー園や長崎水辺の森公園などでも目にする木で、寒い地方から訪れた観光客は、南国情緒漂う朱色の花に九州らしさを感じるようです。ちなみにアメリカデイゴは鹿児島の県花。やはり、南国的な情緒・雰囲気が県花に選ばれた理由だそうです。   アメリカデイゴは、初夏から秋にかけて、3回くらい花を咲かせるといいます。だからでしょうか、満開の木はストン、ストンとかすかな音を立て、いさぎよいくらいに次々に花を落とします。木の下は、花の絨毯になっていました。  長崎港に面した長崎水辺の森公園では、南米原産のジャカランタの花も咲いていました。長崎県でジャカランダといえば、島原半島の「小浜温泉ジャカランダ通り」が知られています。ジャカランダは、カエンボク、ホウオウボクと並ぶ世界三大花木のひとつ。アメリカデイゴとともに海辺でたくましく育つ花木で、涼しげな青紫色の花は、6月中旬のいまが見頃です。   蒸し暑さのなかで花開く生命力いっぱいの初夏の花々。そのみずみずしい姿に元気をもらえそうです。

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  • 第571号【梅雨入り前の長崎 】

     沖縄・奄美地方は先週梅雨入りしました。長崎を含む九州北部地方の平年の梅雨入りは、6月5日頃。いま長崎のアジサイは、開花に向かい固いツボミがほころびはじめたところです。アジサイは、ウメやソメイヨシノなどと同じく、地方気象台などが植物の開花などで季節の移り変わりを測る「植物季節観測」の標本のひとつになっています。長崎の場合、アジサイの開花日は、梅雨入りの時期とおおむね重なるようです。  気象庁のデータをもとに、民間がつくった「アジサイの開花予想前線」というものがあります。アジサイ前線は5月中旬に沖縄地方からはじまり、九州、四国、本州と北上。最終地点の北海道北部に達するのは8月中旬になるとか。今年も、列島各地で次々に花開きながら、その涼やかな佇まいで多くの人々の目を楽しませてくれるのでしょう。  アジサイの季節を迎える前の長崎は、ビワの季節です。全国一のビワの産地を誇る長崎県。ちょうどいま、黄色い実が店頭に並び、まちなかでも、あちらこちらでたわわに実ったビワの木を見かけます。民家の庭先にはもちろん、路地裏の空き地や川のほとり、畑の脇などでは、小鳥が運んできた種が偶然育って大きくなったような木も多い。肥料を施さなくても、毎年たくさんの実をつけるビワの木に、生命力の強さを感じます。  ビワは、その実も葉も薬効があることで知られていますが、薬膳では、ビワの実は熱っぽいときの咳や喘息などを改善する食材として利用されています。また、最近ではβ—カロテンやポリフェノールなど生活習慣病の改善につながる成分が含まれていることも分かりました。旬を逃さず食べてほしい果物です。  春ジャガイモもいまが旬です。長崎県はジャガイモも全国屈指の生産地。アイユタカ、デジマ、ニシユタカなどの品種が知られています。いずれもおいしいのですが、肉質がやわらかで火が通りやすいアイユタカは、しっとりとした食感でおすすめです。ほかの品種よりビタミンCも豊富。スープやサラダなど、いろいろな料理に合います。新ジャガの季節は、通常サイズとともに、小イモも安く手に入ります。地元で「粒ジャガ」とも呼ばれる小イモは、泥だけ洗い落とし、皮ごと使います。「ポテトフライ」や「粒ジャガの油煮」(油で炒め甘めの煮汁でやわらかく煮たもの)などにしていただきます。   諏訪神社の参道の一角では、ザクロの木が鮮やかなオレンジ色の花をつけていました。「小屋入り」が近づくと咲きはじめるザクロの花。「小屋入り」とは、秋の諏訪神社の大祭、「長崎くんち」の行事のひとつで、毎年6月1日に奉納踊りを行う踊町の世話役や出演者などが諏訪神社と八坂神社で清祓いを受け、大役達成を祈願するものです。令和の時代に入り385年目を迎えた「長崎くんち」。秋の大祭に向け、いまから期待が高まります。

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  • 第570号【元号元年をふりかえる】

     「令和」の時代を迎えた初日、諏訪神社(長崎市上西山町)へ出向くと、境内は天皇の即位を記念した「御朱印」を求める人々の列で埋め尽くされていました。「令和元年五月吉祥日」と記された縁起物とあって、行列は次々に参拝者が加わって長くなる一方。あらためて多くの人々が新しい時代へ希望や期待を寄せていることを感じる光景でした。  同日、長崎港には「スター・レジェンド」(全長135メートル総トン数9,961トン、船籍バハマ)が入港。客船としては1万トンクラスのスモールシップですが、船内の設備は大型客船並みに充実しているとか。新しい時代もクルーズ船がさりげなく停泊する長崎港の景色は変わらないよう。そして、5月3日には豪華客船の代名詞ともいえる「クイーン・エリザベス」(船籍イギリス)が入港。全長294メートル、総トン数90,900トン。黒い舷が目を引く巨大な船体は、気品と風格が感じられます。伝統のエレガンスを醸すその姿は、新しい時代がはじまった長崎に華を添えるようでした。  元号が変わるときは、世の中も変わるとき。近世・近代の長崎の歴史のなかで「○○元年」の出来事をみると、やはり、時代の節目となる大事が起きていました。まずは、室町時代の元亀元年(1570)、ポルトガルと長崎開港協定が成立。これにより翌年、ポルトガル船2隻が長崎港に初めて入港し、長崎は南蛮貿易港としての歴史を歩みはじめました。  安土桃山時代の文禄元年(1592)、天下を統一して間もない豊臣秀吉は、長崎奉行の職を新しく設けました。初代長崎奉行は唐津城主の寺沢広高。その後、長崎奉行職は幕末の1868年まで常置されました。慶長元年(1597)、秀吉の伴天連追放令により捕らえられたキリスト教宣教師と信者ら計26人が西坂で処刑されました。400年以上の時を経た現在も西坂は「日本二十六聖人殉教の地」として世界中から観光客が訪れています。  江戸時代に入り、長崎のまちがしだいに形作られていくなか、延宝元年(1673)、長崎市中の生活用水となる、倉田水樋(くらたすいひ)が完成。中島川上流の銭屋川を水源とするこの水樋は、その後200年以上にわたり利用されました。  元亀元年以降、長崎には多くの唐船もやって来ました。元禄元年(1688)には、194隻が入港し史上最高数を記録。中国との盛んな貿易を物語るように、同年、唐船の荷物を収納した新地の近くに、2千人から3千人の中国人を収容可能とした「唐人屋敷」の造成がはじまり、翌年完成しました。  時代はさらに下って幕末は文久元年(1861)、のちに三菱重工長崎造船所へと発展する「長崎製鉄所工場」が完成。同年、長崎村小島郷に日本初の近代的なヨーロッパ方式の病院と医学校として、「小島養生所」と「医学所」が建設されました。そして、いまからちょうど154年前の慶応元年(1865)5月、イギリス人貿易商グラバーが、蒸気機関車「アイアン・デューク号」を大浦海岸にレールを敷いて試運転。大浦海岸は、日本の鉄道発祥の地となりました。同じ頃、坂本龍馬は日本初の商社、「亀山社中」を長崎・伊良林に設立しています。   ざっと振り返っただけでも、時代のうねりを感じる元号元年の出来事。さて、令和元年、どんな時代の節目となるでしょうか。「令和」に込められた「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という願いが叶いますように。

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  • 第569号【帆船まつりと鍋冠山】

     先週金曜(4/19)の夜7時半頃、満月が長崎市街地の東側の山からひょっこりと顔を出しました。月の真下に目をやると、そこは江戸時代の旅人が往来した長崎街道・日見峠ちかく。山の稜線を南側にたどれば、いつものように連なって鎮座する飯盛山(豊前坊)と彦山の山影がくっきり浮かび上がっていました。文化元年(1804)、長崎奉行所支配勘定役として赴任した太田直次郎(狂歌師・蜀山人)が詠んだと伝えられる狂歌、「わりたちもみんな出てみろ 今夜こそ彦さんやまの月はよかばい」。平成最後の満月も、蜀山人の感動にも似て、周囲に声をかけたくなるほど美しい景色でありました。  今週末からはじまるゴールデンウィークに先駆けて、長崎港では「長崎帆船まつり」(平成31 年4月18日〜22日)が開催されました。「帆船まつり」は、今回で20回目。この時期の港の催しとしてすっかり定着しています。入港したのは、日本最大の帆船「日本丸」(2570t)をはじめ、ロシアの「ナジェジュダ」(2297t)、「パラダ」(2987t)などの大型帆船や、韓国の「コリアナ」(135t)、日本の「観光丸」(353t)、「みらいへ」(230t)の計6隻。いずれも「帆船まつり」の回を重ねる中で、長崎市民にとっておなじみとなった帆船たちです。1年ぶり、もしくは数年ぶりに入港する帆船の姿を見ると、懐かしい友と出会うような気分になります。  長崎港の海の青さに映える白い帆。その景観のなんと美しいことでしょう。長崎が南蛮貿易港として開港した450年ほど前、入港したポルトガル船も帆船でした。そんな歴史に培われてか、長崎の港は帆船がよく似合います。夜にはライトアップされ、昼とは違った幻想的な姿に。期間中の土日には花火も打ち上げられ、大勢の人出で賑わいました。  今回、帆船を撮ろうと足を運んだのが鍋冠山(なべかんむりやま)です。鍋冠山は、南山手にある「グラバー園」の背後に位置する標高169メートルの小さな山で、山頂の展望台から長崎港を一望できます。3年前に展望台が回廊形式にリニューアルされ、より快適に眺望を楽しめるようになっています。  鍋冠山は、石橋電停近くのグラバースカイロード(エレベータ)を利用すれば、長崎観光がてら登れる山です。まず、グラバースカイロードでグラバー園の第2ゲート付近へ向かいます。グラバー園のいちばん高台にある「旧三菱第2ドッグハウス」の裏手(グラバー園外)にある小道から登山道に入ります。登山道はコンクリートの階段に整備されており、山頂までの距離を示すサインが折々に施されています。健脚なら10数分ほどで展望台に着くはずです。  展望台からは、長崎港や市街地はもちろん、対岸にそびえる稲佐山や南にのびる長崎半島の緑の山々なども見渡せます。長崎港入り口にかかる女神大橋をくぐって入港してくる帆船や大型客船を撮影するのにもいい場所です。   それにしても「鍋冠山」とは、変わった名前です。その由来は、樹木がこんもりと茂った丸い山頂の形が鍋を伏せたように見えるからという説があります。港側から見上げると山の形がわかりますが、鍋を伏せたように見えるかどうかは、その人次第かもしれません。

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  • 第568号【めくるめく平成31年の春】

     この春も長崎港には外国人観光客を乗せたクルーズ客船が連日入港しています。桜の花びらが舞いはじめた長崎の市街地では、観光めぐりを楽しむ外国人たちが地元の人といっしょに桜の樹を見上げ、つかのま日本の春を満喫しているようでした。  桜の樹に集まるのは人だけではありません。花蜜を求めてスズメやメジロ、ヒヨドリなどの野鳥たちも桜の枝から枝へ飛び回っています。そのなかに「ツツピ、ツツピ」と鳴くシジュウカラを見つけました。シジュウカラは全国に分布する小鳥ですが、なぜか北日本に多く、西日本には少ないといわれています。シジュウカラは桜の花蜜を吸うとき、花の根元あたりをちぎりとるため、樹の下には花ごと落とされたものが散らばります。一方、メジロなどは、花にくちばしを差し込んで舌でなめるので、花をちぎり落とすようなことはありません。いずれにしても桜がいっせいに開花する時期は、野鳥たちにとってもうれしい季節なのでありました。  次々に花が咲き、新芽が萌えはじめるこの季節は、刻々と色鮮やかに変化する自然の様子を楽しめるとき。ついこの間まで、葉をすっかり落として幹や枝をあらわにしていたイチョウの樹は、枝先に若葉をつけはじめました。小さいながら形はすでに扇型です。  クスノキもやわらかな新緑を茂らせはじめています。クスノキの葉の寿命は1年で、春は葉が入れ替わる時期です。古い葉は赤くなって落ちていきますが、生まれてくる新芽も赤っぽい色を帯び、次第に黄緑色へ変化していきます。葉の先をよく見ると、小花もつきはじめています。いまは固い小花も、5月のはじめ頃になると黄白色になり、数日間香りを漂わせます。長崎はクスノキがとても多いので、このまちの「薫風」は、たぶんクスノキの香りがメインなのでしょう。爽やかさのなかに、やさしい甘さの混じったとても心地よい香りです。  古い民家の庭先などでは、誰も摘む人がいないのか、ザボンの樹に大きな実がいくつもぶらさがったまま、という光景も見られます。ザボンは長崎ゆかりの柑橘類で、実がなるのは2月頃から4月頃まで。厚い果皮に覆われた果肉は香りがよく、さわやかな甘さです。日本のグレープフルーツといった感じでしょうか。  寛文7年(1667)、長崎聖堂の学頭で、唐通事でもあった盧 草拙(ろ そうせつ)は、唐船の船長からザボンの種子(ジャワから持ち帰ったもの)をもらい、自分の土地に蒔きました。種はスクスクと成長して実がなり、さらにその種が長崎近郊、そして九州各地で蒔かれるようになったといわれています。   日本でのザボン発祥の地となった草拙の土地とは、現在の西山神社(長崎市西山本町)の境内。参道の一角には江戸時代の元木の四代目が植えられています。それほど大きい樹ではありませんが、毎年、実をたわわにつけています。この4月に訪れたときも20個近くの実が枝をしならせていました。

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  • 第567号【壱岐はよかとこ、すごい島】

     全国でいちばん早かった長崎の桜の開花(3月20日)。その後、寒の戻りもあって開花のすすみ具合は、ゆっくり。満開を迎えるのは、新元号が発表される頃になりそうです。今年は多くの人が薄桃色の景色を見上げながら平成の時代に思いを馳せることでしょう。いつも以上に感慨深い桜の季節になりそうです。  さて、先日、壱岐で史跡めぐりを楽しんできた友人から、お土産に「人面石クッキー」をいただきました。ムンクの絵を思わせる人面をかたどったユニークなお菓子で、人気のお土産品のひとつだそう。バター風味のそぼくな味わいでした。お菓子の栞によると、「人面石クッキー」は、弥生時代の多重環濠集落「原の辻遺跡」(国特別史跡)から出土した石製品の「人面石」をモチーフにしたもの。手の平サイズの大きさも現物とほぼ同じで、地元の高校生との協力で生まれたクッキーだそうです。壱岐産の赤米(古代米)をたっぷり使っているとのことでした。  玄界灘沖にある壱岐は、福岡県と対馬の間に位置しています。面積は約140㎢。対馬の5分の1ほどです。地形的な特徴は、島全体が低く平らだということ。島内で高度100メートルを超える山はわずかで、なだらかな山頂近くまで豊かな実りをもたらす耕地が開かれています。また、海側はリアス式海岸で、近海の漁場にも恵まれ、浦々を拠点に漁業も盛んに行われてきました。  壱岐は対馬や五島とともに国境の島のひとつとして、古くから海上交通の要衝でもありました。大陸との交流がうかがえる史跡のひとつが前述の「原の辻遺跡」(壱岐市芦辺町・石田町)です。ここは、平成7年に『魏志倭人伝』にある「一支国」の王都であると特定されました。同じく、弥生時代の環濠集落遺跡「カラカミ遺跡」(壱岐市勝本町)では、中国大陸や朝鮮半島系の土器のほか、青銅器や鉄器類など多くの出土品がみられ、そのなかには、日本でもっとも古い(紀元前1世紀)とされるイエネコの骨も発掘されています。  弥生時代に続いて、島内に10数カ所も点在する古墳群も壱岐の歴史の奥深さを物語っています。金銅製の馬具が出土した「笹塚古墳」、長崎県最大の前方後円墳「双六古墳」など、どこか謎めいた古墳時代の息吹を肌で感じることができます。  また、壱岐は神社の多い島でもあります。その数は150を超えるとか。壱岐は、古事記の序章にある「国生み神話」のなかで、イザナギ、イザナミの夫婦神が生んだ八つの島(のちに日本となる島々)のうちのひとつ。そんな神さまとのゆかりの深さが神社の多さにあらわれているのかもしれません。壱岐の代表的な神社のひとつが島のほぼ中央に位置する「住吉神社」(壱岐市芦辺町)。毎年12月には、壱岐神楽のフィナーレを飾る「壱岐大大神楽」が奉納されています。同じ芦辺町の内海湾には、日本のモンサンミシェルとも称される「小島神社」があります。大潮の干潮時に参道があらわれ、自然のパワーと不思議を感じられる神社です。  壱岐は、自然が生んだ奇岩や造形美に出会える島です。代表的なのが「猿岩」(壱岐市郷ノ浦町)です。その姿はそっぽを向いた猿のよう。また、島の東側にある八幡半島の先の断崖絶壁、「左京鼻」(壱岐市芦辺町)は、総延長約1kmにもおよぶ海蝕崖で、玄武岩特有の柱状節理が見られます。海中に突き出た柱状節理は、「猿岩」とともに、壱岐の島誕生神話に登場する八本の柱のひとつ「折柱(おればしら)」と伝えられているそうです。  歴史も自然も、魅力満載の壱岐。ゆっくり、のんびり旅してみませんか。  ※写真(双六古墳、小島神社、猿岩、左京鼻):Y.sadaoka

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  • 第566号【桃の花咲く桃溪橋へ】

     「春に三日の晴れなし」とはよく言ったもの。変わりやすい春の空の下、卒業式や転勤といった人生の節目を迎える方も多いはず。「大事な日には晴れるといいね」、「この時期の雨は菜種梅雨って言うそうよ」などと、とりとめもないおしゃべりをしていた友人から、「お裾分けです」と兵庫県の郷土料理・イカナゴのくぎ煮をいただきました。「毎年、神戸の知人が送ってくれるの。瀬戸内に面したその地域では、イカナゴを煮炊きする香りが春先の風物詩になっているそうよ」と友人。醤油と砂糖で甘辛く煮たイカナゴのくぎ煮。ご飯がすすむおいしさでした。  地元長崎の海も春めいて、マダイやチヌなど季節の魚が採れているようです。知り合いから鰆(サワラ)をいただき、野菜入りの揚げかまぼこを作りました。鰆は春に産卵のため沿岸にやってくることから、春を告げる魚ということで「鰆」という字になったとか。秋・冬が美味と言われていますが、早春もまだまだおいしい。鰆は白身魚でクセのない上品な味わいです。照り焼きや西京焼にしていただくことが多いよう。かまぼこにしたのはちょっと贅沢だったかもしれません。  早春の晴れ間に中島川沿いを歩けば、眼鏡橋の上流にかかる桃溪橋(ももたにばし)のたもとでは、1本の桃の古木が満開を迎えていました。ちなみに今週初めの3月11日は、72節気の「第8候・桃始笑」(桃の花が咲き始めるという意味)でした。桃溪橋の桃の花はこれから1週間は楽しめそう。そして、来週後半には、桜の季節がやってきます。  中島川の石橋群のひとつ桃溪橋は、中島川の2つの支流が合流するところに架かっています。1679年(延宝7)、卜意(ぼくい)という僧侶が募った財で架設されました。橋の名は、当時、その川のほとりに多くの桃の木があり、桃の花の名所だったことにちなんだものとか。桃溪橋は丈夫な橋でしたが、昭和57年の長崎大水害で半壊。その3年後にもとの形にもどされました。橋の幅は3.5メートル。昔ながらの風情をたたえながら、いまも車両が通るタフな石橋として活躍しています。  桃溪橋のすぐそばの川沿いに「出来大工町不動堂」が建っています。江戸時代、この近くにあった「青光寺」(しょうこうじ)(1645年開創)という真言宗のお寺ゆかりのお堂です。1696年(元禄9)、青光寺の和尚が、門前にあった中島川沿いに不動明王の石像と、お堂を建立。その後、火災でお堂は消失しますが、再建・修理を重ね、現在の「出来大工町不動堂」へとつながりました。その間、青光寺は、明治政府による神仏分離令によって廃寺になりました。  不動明王を真ん中に、聖徳太子、弘法大師を祀る「出来大工町不動堂」。この小さなお堂が、いろいろな時代を乗り越えられたのは、霊験あらかたで地元の人々に敬われ親しまれてきたからだと伝えられています。  「出来大工町不動堂」のそばには「不動明王常夜灯」と刻まれた、「唐船安全祈願塔」が建っています。川を挟んだ向かい側にも同じようなものがあります。これらの塔は、江戸時代、長崎港に停泊する唐船の荷物を、小舟に積んで中島川上流の桃溪橋付近まで運んでいたことをいまに伝えています。  「出来大工町不動堂」や「唐船安全祈願塔」など江戸時代の記憶や風情が残る桃溪橋界隈。うららかな春の日に散歩に出てみませんか。

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  • 第565号【ツバキの季節】

     庭の手入れをしていたご近所の方から「よかったら、どうぞ」と、ヤブツバキをいただきました。ツバキは、コップにひと枝挿すだけで、簡素、静けさといった雰囲気を醸してくれます。わび・さびに通じるその姿は、もともと日本に自生する花木だからでしょうか。早咲きのタイプは花の少ない晩秋・冬には咲きはじめるので、「冬の薔薇」とも称されるツバキ。最近では品種改良がすすんでいるのか、花の色や形、大きさも多彩なっているようです。  ツバキの名所として全国的に知られているのは、長崎県の五島列島や静岡県の伊豆大島など。ちなみに長崎県の花は「ツバキ」です。五島列島はもちろん、県下各地の山あいでツバキの群生が見られ、街路樹や庭木としてもよく見かけます。そのなかで、とくに愛好家たちに注目されたものに、五島列島の福江島で戦後発見された「玉之浦」(ヤブツバキの突然変異種で赤い花弁の縁が白い)や長崎市野母崎町の権現山で近年発見された「陽の岬」(白ツバキの一種)などがあります。  常緑広葉樹のツバキ。葉に艶があることから、古く「艶葉木(ツバキ)」と書き記されたこともあります。ツバキの葉で、ちょっと変わった形をしたものが、長崎港そばの街路樹にありました。葉の先が割れ金魚の尾のような形をした葉です。これは、見た目通りに「金魚葉」とよばれる種類で、ヤブツバキの突然変異だそうです。  中国南部にも自生するというツバキ。長崎駅からほど近い玉園町にある聖福寺には、中国の「唐椿」にちなんだエピソードが残されています。聖福寺は、延宝5年(1677)、黄檗宗を日本に伝えた隠元の孫弟子にあたる鉄心禅師によって創立されました。鉄心は、お寺の創建時に「唐椿」を植樹し、とても可愛がったそうです。亡くなる直前には、自力で動けなくなった体を椿の近くまで運ばせて鑑賞。その後、沐浴し、その水を唐椿にやるよう命じて間もなく亡くなられたと伝えられています。  そのツバキは、「鉄心椿」と称され、いまもお寺の一角にあるとか。ひと目見たくて聖福寺へ足を運ぶと、参道や境内に数本のツバキが植えられていました。残念ながらどれが「鉄心椿」なのかはわからないままお寺を後にしましたが、たくさんの花をつけたツバキは唐寺になじみ、静かで美しい景色を生み出していました。  ところで、ツバキとよく混同される花木に、同じツバキ属のサザンカがあります。区別するときに分かりやすいのは、花の散り方かもしれません。花ごと落ちるのはツバキ、木のたもとに花びらが散らすのはサザンカです。   サザンカというと、江戸時代、出島にオランダ商館医としてやってきたツュンベリーが思い起こされます。ツュンベリーは、スウェーデンの植物学者リンネの高弟で、1775年から1年半ほど出島に滞在し、精力的に日本の植物を採集しました。帰国後、それらの植物に学名をつけ「日本植物誌」を著します。そのなかに和名をそのまま種名や属名に用いたものもあり、そのひとつにサザンカがありました。長崎市立山にあるツュンベリー記念碑の背後には、晩秋に白い花を咲かせるサザンカが植えられています。

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  • 第564号【福を招くチョコとランタンオブジェ】

     今年の「長崎ランタンフェスティバル」は、気のせいか、いつも以上にカップルの姿が目立ちます。開催期間半ばの明日、バレンタインデーを迎えるからでしょうか。そんなホットな賑わいのなか、巷ではチョコレート商戦も花盛り。店頭に並ぶチョコレートは目移りするほど多彩です。好きな人に贈るためだけでなく、話のタネになりそうなチョコレートを選んで、家族や友だちとコーヒータイムを過ごすという方も多いのではないでしょうか。  長崎にちなんだ話のタネになるのが、「皿うどんチョコレート」です。皿うどんの細麺と上質チョコレートというユニークな組み合わせから生まれたスイーツで、細麺の新たな可能性を引き出したサクサクのおいしさです。味にこだわりのある人もきっと満足できるはず。バレンタインデーの贈り物としてはもちろん、ちょっと印象づけたい手土産にもおすすめです。  さて、チョコレートといえば、材料となるカカオ豆に含まれるカカオポリフェノールが、健康や美容に効果があるということで近年あらためて注目されていますね。チョコレートは、その甘い香りをかぐだけでもリラックス効果があり、また記憶力や集中力も高めてもくれるそうです。そんなチョコレートが日本へ伝えられたのは江戸時代の寛政年間(1789〜1801)の頃。外国から長崎に運ばれたのが最初といわれています。  江戸時代、長崎の花街のひとつだった寄合町。当時の「寄合町諸事書上控帳」には、長崎・丸山の遊女が出島の阿蘭陀人からもらい受けたものとして、硝子瓶や紅毛キセルなどとともに「しょくらあと」(チョコレート)が記載されています。これが、日本の史料に記された最初のチョコレートだそうです。当時、出島に出入りした日本人(地役人や遊女など)は、すでにチョコレートの味や香りを知っていたのかもしれませんね。  チョコレートとともにひと息つくときに欠かせないコーヒーも、長崎・出島に伝えられたのが日本で最初といわれています。ちなみにオランダ船が運んできたコーヒーの銘柄はモカだったそう。当時、出島で飲まれた酸味の強いコーヒーについて、長崎奉行所に赴任していた大田南畝(狂歌師・蜀山人)は、「焦げ臭くて味わうに堪えず」という感想を残しています。  さて、友人と「皿うどんチョコレート」でひと息つきながらの話題は、チョコレートやコーヒーの伝来のことから、やがて「長崎ランタンフェスティバル」で飾られているランタンオブジェへと移りました。「どれも、きれいで縁起のいいものばかり」なのです。たとえば、中島川沿いに設置されている金魚のオブジェ。中国では古来、金魚は豊かさと幸運を招くシンボルのひとつなのだそう。また、出島表門橋公園に設けられた「大象寶物」というオブジェは、正装した象が九つの宝物を背に乗せ運ぶ姿をしています。これは、「遠くに住む人々みんながよろこび、象が福を運んでくる」という意味があるそうです。ランタンオブジェには、それぞれ説明がついています。縁起のいいことが書かれているので、読み歩くだけでも、いいことがありそうな気になってきます。  今年の「長崎ランタンフェスティバル」は、来週2月19日(火)までです。

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