ブログ

  • 第571号【梅雨入り前の長崎 】

     沖縄・奄美地方は先週梅雨入りしました。長崎を含む九州北部地方の平年の梅雨入りは、6月5日頃。いま長崎のアジサイは、開花に向かい固いツボミがほころびはじめたところです。アジサイは、ウメやソメイヨシノなどと同じく、地方気象台などが植物の開花などで季節の移り変わりを測る「植物季節観測」の標本のひとつになっています。長崎の場合、アジサイの開花日は、梅雨入りの時期とおおむね重なるようです。  気象庁のデータをもとに、民間がつくった「アジサイの開花予想前線」というものがあります。アジサイ前線は5月中旬に沖縄地方からはじまり、九州、四国、本州と北上。最終地点の北海道北部に達するのは8月中旬になるとか。今年も、列島各地で次々に花開きながら、その涼やかな佇まいで多くの人々の目を楽しませてくれるのでしょう。  アジサイの季節を迎える前の長崎は、ビワの季節です。全国一のビワの産地を誇る長崎県。ちょうどいま、黄色い実が店頭に並び、まちなかでも、あちらこちらでたわわに実ったビワの木を見かけます。民家の庭先にはもちろん、路地裏の空き地や川のほとり、畑の脇などでは、小鳥が運んできた種が偶然育って大きくなったような木も多い。肥料を施さなくても、毎年たくさんの実をつけるビワの木に、生命力の強さを感じます。  ビワは、その実も葉も薬効があることで知られていますが、薬膳では、ビワの実は熱っぽいときの咳や喘息などを改善する食材として利用されています。また、最近ではβ—カロテンやポリフェノールなど生活習慣病の改善につながる成分が含まれていることも分かりました。旬を逃さず食べてほしい果物です。  春ジャガイモもいまが旬です。長崎県はジャガイモも全国屈指の生産地。アイユタカ、デジマ、ニシユタカなどの品種が知られています。いずれもおいしいのですが、肉質がやわらかで火が通りやすいアイユタカは、しっとりとした食感でおすすめです。ほかの品種よりビタミンCも豊富。スープやサラダなど、いろいろな料理に合います。新ジャガの季節は、通常サイズとともに、小イモも安く手に入ります。地元で「粒ジャガ」とも呼ばれる小イモは、泥だけ洗い落とし、皮ごと使います。「ポテトフライ」や「粒ジャガの油煮」(油で炒め甘めの煮汁でやわらかく煮たもの)などにしていただきます。   諏訪神社の参道の一角では、ザクロの木が鮮やかなオレンジ色の花をつけていました。「小屋入り」が近づくと咲きはじめるザクロの花。「小屋入り」とは、秋の諏訪神社の大祭、「長崎くんち」の行事のひとつで、毎年6月1日に奉納踊りを行う踊町の世話役や出演者などが諏訪神社と八坂神社で清祓いを受け、大役達成を祈願するものです。令和の時代に入り385年目を迎えた「長崎くんち」。秋の大祭に向け、いまから期待が高まります。

    もっと読む
  • 第570号【元号元年をふりかえる】

     「令和」の時代を迎えた初日、諏訪神社(長崎市上西山町)へ出向くと、境内は天皇の即位を記念した「御朱印」を求める人々の列で埋め尽くされていました。「令和元年五月吉祥日」と記された縁起物とあって、行列は次々に参拝者が加わって長くなる一方。あらためて多くの人々が新しい時代へ希望や期待を寄せていることを感じる光景でした。  同日、長崎港には「スター・レジェンド」(全長135メートル総トン数9,961トン、船籍バハマ)が入港。客船としては1万トンクラスのスモールシップですが、船内の設備は大型客船並みに充実しているとか。新しい時代もクルーズ船がさりげなく停泊する長崎港の景色は変わらないよう。そして、5月3日には豪華客船の代名詞ともいえる「クイーン・エリザベス」(船籍イギリス)が入港。全長294メートル、総トン数90,900トン。黒い舷が目を引く巨大な船体は、気品と風格が感じられます。伝統のエレガンスを醸すその姿は、新しい時代がはじまった長崎に華を添えるようでした。  元号が変わるときは、世の中も変わるとき。近世・近代の長崎の歴史のなかで「○○元年」の出来事をみると、やはり、時代の節目となる大事が起きていました。まずは、室町時代の元亀元年(1570)、ポルトガルと長崎開港協定が成立。これにより翌年、ポルトガル船2隻が長崎港に初めて入港し、長崎は南蛮貿易港としての歴史を歩みはじめました。  安土桃山時代の文禄元年(1592)、天下を統一して間もない豊臣秀吉は、長崎奉行の職を新しく設けました。初代長崎奉行は唐津城主の寺沢広高。その後、長崎奉行職は幕末の1868年まで常置されました。慶長元年(1597)、秀吉の伴天連追放令により捕らえられたキリスト教宣教師と信者ら計26人が西坂で処刑されました。400年以上の時を経た現在も西坂は「日本二十六聖人殉教の地」として世界中から観光客が訪れています。  江戸時代に入り、長崎のまちがしだいに形作られていくなか、延宝元年(1673)、長崎市中の生活用水となる、倉田水樋(くらたすいひ)が完成。中島川上流の銭屋川を水源とするこの水樋は、その後200年以上にわたり利用されました。  元亀元年以降、長崎には多くの唐船もやって来ました。元禄元年(1688)には、194隻が入港し史上最高数を記録。中国との盛んな貿易を物語るように、同年、唐船の荷物を収納した新地の近くに、2千人から3千人の中国人を収容可能とした「唐人屋敷」の造成がはじまり、翌年完成しました。  時代はさらに下って幕末は文久元年(1861)、のちに三菱重工長崎造船所へと発展する「長崎製鉄所工場」が完成。同年、長崎村小島郷に日本初の近代的なヨーロッパ方式の病院と医学校として、「小島養生所」と「医学所」が建設されました。そして、いまからちょうど154年前の慶応元年(1865)5月、イギリス人貿易商グラバーが、蒸気機関車「アイアン・デューク号」を大浦海岸にレールを敷いて試運転。大浦海岸は、日本の鉄道発祥の地となりました。同じ頃、坂本龍馬は日本初の商社、「亀山社中」を長崎・伊良林に設立しています。   ざっと振り返っただけでも、時代のうねりを感じる元号元年の出来事。さて、令和元年、どんな時代の節目となるでしょうか。「令和」に込められた「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という願いが叶いますように。

    もっと読む
  • 第569号【帆船まつりと鍋冠山】

     先週金曜(4/19)の夜7時半頃、満月が長崎市街地の東側の山からひょっこりと顔を出しました。月の真下に目をやると、そこは江戸時代の旅人が往来した長崎街道・日見峠ちかく。山の稜線を南側にたどれば、いつものように連なって鎮座する飯盛山(豊前坊)と彦山の山影がくっきり浮かび上がっていました。文化元年(1804)、長崎奉行所支配勘定役として赴任した太田直次郎(狂歌師・蜀山人)が詠んだと伝えられる狂歌、「わりたちもみんな出てみろ 今夜こそ彦さんやまの月はよかばい」。平成最後の満月も、蜀山人の感動にも似て、周囲に声をかけたくなるほど美しい景色でありました。  今週末からはじまるゴールデンウィークに先駆けて、長崎港では「長崎帆船まつり」(平成31 年4月18日〜22日)が開催されました。「帆船まつり」は、今回で20回目。この時期の港の催しとしてすっかり定着しています。入港したのは、日本最大の帆船「日本丸」(2570t)をはじめ、ロシアの「ナジェジュダ」(2297t)、「パラダ」(2987t)などの大型帆船や、韓国の「コリアナ」(135t)、日本の「観光丸」(353t)、「みらいへ」(230t)の計6隻。いずれも「帆船まつり」の回を重ねる中で、長崎市民にとっておなじみとなった帆船たちです。1年ぶり、もしくは数年ぶりに入港する帆船の姿を見ると、懐かしい友と出会うような気分になります。  長崎港の海の青さに映える白い帆。その景観のなんと美しいことでしょう。長崎が南蛮貿易港として開港した450年ほど前、入港したポルトガル船も帆船でした。そんな歴史に培われてか、長崎の港は帆船がよく似合います。夜にはライトアップされ、昼とは違った幻想的な姿に。期間中の土日には花火も打ち上げられ、大勢の人出で賑わいました。  今回、帆船を撮ろうと足を運んだのが鍋冠山(なべかんむりやま)です。鍋冠山は、南山手にある「グラバー園」の背後に位置する標高169メートルの小さな山で、山頂の展望台から長崎港を一望できます。3年前に展望台が回廊形式にリニューアルされ、より快適に眺望を楽しめるようになっています。  鍋冠山は、石橋電停近くのグラバースカイロード(エレベータ)を利用すれば、長崎観光がてら登れる山です。まず、グラバースカイロードでグラバー園の第2ゲート付近へ向かいます。グラバー園のいちばん高台にある「旧三菱第2ドッグハウス」の裏手(グラバー園外)にある小道から登山道に入ります。登山道はコンクリートの階段に整備されており、山頂までの距離を示すサインが折々に施されています。健脚なら10数分ほどで展望台に着くはずです。  展望台からは、長崎港や市街地はもちろん、対岸にそびえる稲佐山や南にのびる長崎半島の緑の山々なども見渡せます。長崎港入り口にかかる女神大橋をくぐって入港してくる帆船や大型客船を撮影するのにもいい場所です。   それにしても「鍋冠山」とは、変わった名前です。その由来は、樹木がこんもりと茂った丸い山頂の形が鍋を伏せたように見えるからという説があります。港側から見上げると山の形がわかりますが、鍋を伏せたように見えるかどうかは、その人次第かもしれません。

    もっと読む
  • 第568号【めくるめく平成31年の春】

     この春も長崎港には外国人観光客を乗せたクルーズ客船が連日入港しています。桜の花びらが舞いはじめた長崎の市街地では、観光めぐりを楽しむ外国人たちが地元の人といっしょに桜の樹を見上げ、つかのま日本の春を満喫しているようでした。  桜の樹に集まるのは人だけではありません。花蜜を求めてスズメやメジロ、ヒヨドリなどの野鳥たちも桜の枝から枝へ飛び回っています。そのなかに「ツツピ、ツツピ」と鳴くシジュウカラを見つけました。シジュウカラは全国に分布する小鳥ですが、なぜか北日本に多く、西日本には少ないといわれています。シジュウカラは桜の花蜜を吸うとき、花の根元あたりをちぎりとるため、樹の下には花ごと落とされたものが散らばります。一方、メジロなどは、花にくちばしを差し込んで舌でなめるので、花をちぎり落とすようなことはありません。いずれにしても桜がいっせいに開花する時期は、野鳥たちにとってもうれしい季節なのでありました。  次々に花が咲き、新芽が萌えはじめるこの季節は、刻々と色鮮やかに変化する自然の様子を楽しめるとき。ついこの間まで、葉をすっかり落として幹や枝をあらわにしていたイチョウの樹は、枝先に若葉をつけはじめました。小さいながら形はすでに扇型です。  クスノキもやわらかな新緑を茂らせはじめています。クスノキの葉の寿命は1年で、春は葉が入れ替わる時期です。古い葉は赤くなって落ちていきますが、生まれてくる新芽も赤っぽい色を帯び、次第に黄緑色へ変化していきます。葉の先をよく見ると、小花もつきはじめています。いまは固い小花も、5月のはじめ頃になると黄白色になり、数日間香りを漂わせます。長崎はクスノキがとても多いので、このまちの「薫風」は、たぶんクスノキの香りがメインなのでしょう。爽やかさのなかに、やさしい甘さの混じったとても心地よい香りです。  古い民家の庭先などでは、誰も摘む人がいないのか、ザボンの樹に大きな実がいくつもぶらさがったまま、という光景も見られます。ザボンは長崎ゆかりの柑橘類で、実がなるのは2月頃から4月頃まで。厚い果皮に覆われた果肉は香りがよく、さわやかな甘さです。日本のグレープフルーツといった感じでしょうか。  寛文7年(1667)、長崎聖堂の学頭で、唐通事でもあった盧 草拙(ろ そうせつ)は、唐船の船長からザボンの種子(ジャワから持ち帰ったもの)をもらい、自分の土地に蒔きました。種はスクスクと成長して実がなり、さらにその種が長崎近郊、そして九州各地で蒔かれるようになったといわれています。   日本でのザボン発祥の地となった草拙の土地とは、現在の西山神社(長崎市西山本町)の境内。参道の一角には江戸時代の元木の四代目が植えられています。それほど大きい樹ではありませんが、毎年、実をたわわにつけています。この4月に訪れたときも20個近くの実が枝をしならせていました。

    もっと読む
  • 第567号【壱岐はよかとこ、すごい島】

     全国でいちばん早かった長崎の桜の開花(3月20日)。その後、寒の戻りもあって開花のすすみ具合は、ゆっくり。満開を迎えるのは、新元号が発表される頃になりそうです。今年は多くの人が薄桃色の景色を見上げながら平成の時代に思いを馳せることでしょう。いつも以上に感慨深い桜の季節になりそうです。  さて、先日、壱岐で史跡めぐりを楽しんできた友人から、お土産に「人面石クッキー」をいただきました。ムンクの絵を思わせる人面をかたどったユニークなお菓子で、人気のお土産品のひとつだそう。バター風味のそぼくな味わいでした。お菓子の栞によると、「人面石クッキー」は、弥生時代の多重環濠集落「原の辻遺跡」(国特別史跡)から出土した石製品の「人面石」をモチーフにしたもの。手の平サイズの大きさも現物とほぼ同じで、地元の高校生との協力で生まれたクッキーだそうです。壱岐産の赤米(古代米)をたっぷり使っているとのことでした。  玄界灘沖にある壱岐は、福岡県と対馬の間に位置しています。面積は約140㎢。対馬の5分の1ほどです。地形的な特徴は、島全体が低く平らだということ。島内で高度100メートルを超える山はわずかで、なだらかな山頂近くまで豊かな実りをもたらす耕地が開かれています。また、海側はリアス式海岸で、近海の漁場にも恵まれ、浦々を拠点に漁業も盛んに行われてきました。  壱岐は対馬や五島とともに国境の島のひとつとして、古くから海上交通の要衝でもありました。大陸との交流がうかがえる史跡のひとつが前述の「原の辻遺跡」(壱岐市芦辺町・石田町)です。ここは、平成7年に『魏志倭人伝』にある「一支国」の王都であると特定されました。同じく、弥生時代の環濠集落遺跡「カラカミ遺跡」(壱岐市勝本町)では、中国大陸や朝鮮半島系の土器のほか、青銅器や鉄器類など多くの出土品がみられ、そのなかには、日本でもっとも古い(紀元前1世紀)とされるイエネコの骨も発掘されています。  弥生時代に続いて、島内に10数カ所も点在する古墳群も壱岐の歴史の奥深さを物語っています。金銅製の馬具が出土した「笹塚古墳」、長崎県最大の前方後円墳「双六古墳」など、どこか謎めいた古墳時代の息吹を肌で感じることができます。  また、壱岐は神社の多い島でもあります。その数は150を超えるとか。壱岐は、古事記の序章にある「国生み神話」のなかで、イザナギ、イザナミの夫婦神が生んだ八つの島(のちに日本となる島々)のうちのひとつ。そんな神さまとのゆかりの深さが神社の多さにあらわれているのかもしれません。壱岐の代表的な神社のひとつが島のほぼ中央に位置する「住吉神社」(壱岐市芦辺町)。毎年12月には、壱岐神楽のフィナーレを飾る「壱岐大大神楽」が奉納されています。同じ芦辺町の内海湾には、日本のモンサンミシェルとも称される「小島神社」があります。大潮の干潮時に参道があらわれ、自然のパワーと不思議を感じられる神社です。  壱岐は、自然が生んだ奇岩や造形美に出会える島です。代表的なのが「猿岩」(壱岐市郷ノ浦町)です。その姿はそっぽを向いた猿のよう。また、島の東側にある八幡半島の先の断崖絶壁、「左京鼻」(壱岐市芦辺町)は、総延長約1kmにもおよぶ海蝕崖で、玄武岩特有の柱状節理が見られます。海中に突き出た柱状節理は、「猿岩」とともに、壱岐の島誕生神話に登場する八本の柱のひとつ「折柱(おればしら)」と伝えられているそうです。  歴史も自然も、魅力満載の壱岐。ゆっくり、のんびり旅してみませんか。  ※写真(双六古墳、小島神社、猿岩、左京鼻):Y.sadaoka

    もっと読む
  • 第566号【桃の花咲く桃溪橋へ】

     「春に三日の晴れなし」とはよく言ったもの。変わりやすい春の空の下、卒業式や転勤といった人生の節目を迎える方も多いはず。「大事な日には晴れるといいね」、「この時期の雨は菜種梅雨って言うそうよ」などと、とりとめもないおしゃべりをしていた友人から、「お裾分けです」と兵庫県の郷土料理・イカナゴのくぎ煮をいただきました。「毎年、神戸の知人が送ってくれるの。瀬戸内に面したその地域では、イカナゴを煮炊きする香りが春先の風物詩になっているそうよ」と友人。醤油と砂糖で甘辛く煮たイカナゴのくぎ煮。ご飯がすすむおいしさでした。  地元長崎の海も春めいて、マダイやチヌなど季節の魚が採れているようです。知り合いから鰆(サワラ)をいただき、野菜入りの揚げかまぼこを作りました。鰆は春に産卵のため沿岸にやってくることから、春を告げる魚ということで「鰆」という字になったとか。秋・冬が美味と言われていますが、早春もまだまだおいしい。鰆は白身魚でクセのない上品な味わいです。照り焼きや西京焼にしていただくことが多いよう。かまぼこにしたのはちょっと贅沢だったかもしれません。  早春の晴れ間に中島川沿いを歩けば、眼鏡橋の上流にかかる桃溪橋(ももたにばし)のたもとでは、1本の桃の古木が満開を迎えていました。ちなみに今週初めの3月11日は、72節気の「第8候・桃始笑」(桃の花が咲き始めるという意味)でした。桃溪橋の桃の花はこれから1週間は楽しめそう。そして、来週後半には、桜の季節がやってきます。  中島川の石橋群のひとつ桃溪橋は、中島川の2つの支流が合流するところに架かっています。1679年(延宝7)、卜意(ぼくい)という僧侶が募った財で架設されました。橋の名は、当時、その川のほとりに多くの桃の木があり、桃の花の名所だったことにちなんだものとか。桃溪橋は丈夫な橋でしたが、昭和57年の長崎大水害で半壊。その3年後にもとの形にもどされました。橋の幅は3.5メートル。昔ながらの風情をたたえながら、いまも車両が通るタフな石橋として活躍しています。  桃溪橋のすぐそばの川沿いに「出来大工町不動堂」が建っています。江戸時代、この近くにあった「青光寺」(しょうこうじ)(1645年開創)という真言宗のお寺ゆかりのお堂です。1696年(元禄9)、青光寺の和尚が、門前にあった中島川沿いに不動明王の石像と、お堂を建立。その後、火災でお堂は消失しますが、再建・修理を重ね、現在の「出来大工町不動堂」へとつながりました。その間、青光寺は、明治政府による神仏分離令によって廃寺になりました。  不動明王を真ん中に、聖徳太子、弘法大師を祀る「出来大工町不動堂」。この小さなお堂が、いろいろな時代を乗り越えられたのは、霊験あらかたで地元の人々に敬われ親しまれてきたからだと伝えられています。  「出来大工町不動堂」のそばには「不動明王常夜灯」と刻まれた、「唐船安全祈願塔」が建っています。川を挟んだ向かい側にも同じようなものがあります。これらの塔は、江戸時代、長崎港に停泊する唐船の荷物を、小舟に積んで中島川上流の桃溪橋付近まで運んでいたことをいまに伝えています。  「出来大工町不動堂」や「唐船安全祈願塔」など江戸時代の記憶や風情が残る桃溪橋界隈。うららかな春の日に散歩に出てみませんか。

    もっと読む
  • 第565号【ツバキの季節】

     庭の手入れをしていたご近所の方から「よかったら、どうぞ」と、ヤブツバキをいただきました。ツバキは、コップにひと枝挿すだけで、簡素、静けさといった雰囲気を醸してくれます。わび・さびに通じるその姿は、もともと日本に自生する花木だからでしょうか。早咲きのタイプは花の少ない晩秋・冬には咲きはじめるので、「冬の薔薇」とも称されるツバキ。最近では品種改良がすすんでいるのか、花の色や形、大きさも多彩なっているようです。  ツバキの名所として全国的に知られているのは、長崎県の五島列島や静岡県の伊豆大島など。ちなみに長崎県の花は「ツバキ」です。五島列島はもちろん、県下各地の山あいでツバキの群生が見られ、街路樹や庭木としてもよく見かけます。そのなかで、とくに愛好家たちに注目されたものに、五島列島の福江島で戦後発見された「玉之浦」(ヤブツバキの突然変異種で赤い花弁の縁が白い)や長崎市野母崎町の権現山で近年発見された「陽の岬」(白ツバキの一種)などがあります。  常緑広葉樹のツバキ。葉に艶があることから、古く「艶葉木(ツバキ)」と書き記されたこともあります。ツバキの葉で、ちょっと変わった形をしたものが、長崎港そばの街路樹にありました。葉の先が割れ金魚の尾のような形をした葉です。これは、見た目通りに「金魚葉」とよばれる種類で、ヤブツバキの突然変異だそうです。  中国南部にも自生するというツバキ。長崎駅からほど近い玉園町にある聖福寺には、中国の「唐椿」にちなんだエピソードが残されています。聖福寺は、延宝5年(1677)、黄檗宗を日本に伝えた隠元の孫弟子にあたる鉄心禅師によって創立されました。鉄心は、お寺の創建時に「唐椿」を植樹し、とても可愛がったそうです。亡くなる直前には、自力で動けなくなった体を椿の近くまで運ばせて鑑賞。その後、沐浴し、その水を唐椿にやるよう命じて間もなく亡くなられたと伝えられています。  そのツバキは、「鉄心椿」と称され、いまもお寺の一角にあるとか。ひと目見たくて聖福寺へ足を運ぶと、参道や境内に数本のツバキが植えられていました。残念ながらどれが「鉄心椿」なのかはわからないままお寺を後にしましたが、たくさんの花をつけたツバキは唐寺になじみ、静かで美しい景色を生み出していました。  ところで、ツバキとよく混同される花木に、同じツバキ属のサザンカがあります。区別するときに分かりやすいのは、花の散り方かもしれません。花ごと落ちるのはツバキ、木のたもとに花びらが散らすのはサザンカです。   サザンカというと、江戸時代、出島にオランダ商館医としてやってきたツュンベリーが思い起こされます。ツュンベリーは、スウェーデンの植物学者リンネの高弟で、1775年から1年半ほど出島に滞在し、精力的に日本の植物を採集しました。帰国後、それらの植物に学名をつけ「日本植物誌」を著します。そのなかに和名をそのまま種名や属名に用いたものもあり、そのひとつにサザンカがありました。長崎市立山にあるツュンベリー記念碑の背後には、晩秋に白い花を咲かせるサザンカが植えられています。

    もっと読む
  • 第564号【福を招くチョコとランタンオブジェ】

     今年の「長崎ランタンフェスティバル」は、気のせいか、いつも以上にカップルの姿が目立ちます。開催期間半ばの明日、バレンタインデーを迎えるからでしょうか。そんなホットな賑わいのなか、巷ではチョコレート商戦も花盛り。店頭に並ぶチョコレートは目移りするほど多彩です。好きな人に贈るためだけでなく、話のタネになりそうなチョコレートを選んで、家族や友だちとコーヒータイムを過ごすという方も多いのではないでしょうか。  長崎にちなんだ話のタネになるのが、「皿うどんチョコレート」です。皿うどんの細麺と上質チョコレートというユニークな組み合わせから生まれたスイーツで、細麺の新たな可能性を引き出したサクサクのおいしさです。味にこだわりのある人もきっと満足できるはず。バレンタインデーの贈り物としてはもちろん、ちょっと印象づけたい手土産にもおすすめです。  さて、チョコレートといえば、材料となるカカオ豆に含まれるカカオポリフェノールが、健康や美容に効果があるということで近年あらためて注目されていますね。チョコレートは、その甘い香りをかぐだけでもリラックス効果があり、また記憶力や集中力も高めてもくれるそうです。そんなチョコレートが日本へ伝えられたのは江戸時代の寛政年間(1789〜1801)の頃。外国から長崎に運ばれたのが最初といわれています。  江戸時代、長崎の花街のひとつだった寄合町。当時の「寄合町諸事書上控帳」には、長崎・丸山の遊女が出島の阿蘭陀人からもらい受けたものとして、硝子瓶や紅毛キセルなどとともに「しょくらあと」(チョコレート)が記載されています。これが、日本の史料に記された最初のチョコレートだそうです。当時、出島に出入りした日本人(地役人や遊女など)は、すでにチョコレートの味や香りを知っていたのかもしれませんね。  チョコレートとともにひと息つくときに欠かせないコーヒーも、長崎・出島に伝えられたのが日本で最初といわれています。ちなみにオランダ船が運んできたコーヒーの銘柄はモカだったそう。当時、出島で飲まれた酸味の強いコーヒーについて、長崎奉行所に赴任していた大田南畝(狂歌師・蜀山人)は、「焦げ臭くて味わうに堪えず」という感想を残しています。  さて、友人と「皿うどんチョコレート」でひと息つきながらの話題は、チョコレートやコーヒーの伝来のことから、やがて「長崎ランタンフェスティバル」で飾られているランタンオブジェへと移りました。「どれも、きれいで縁起のいいものばかり」なのです。たとえば、中島川沿いに設置されている金魚のオブジェ。中国では古来、金魚は豊かさと幸運を招くシンボルのひとつなのだそう。また、出島表門橋公園に設けられた「大象寶物」というオブジェは、正装した象が九つの宝物を背に乗せ運ぶ姿をしています。これは、「遠くに住む人々みんながよろこび、象が福を運んでくる」という意味があるそうです。ランタンオブジェには、それぞれ説明がついています。縁起のいいことが書かれているので、読み歩くだけでも、いいことがありそうな気になってきます。  今年の「長崎ランタンフェスティバル」は、来週2月19日(火)までです。

    もっと読む
  • 第563号【もうすぐ長崎ランタンフェスティバル】

     北陸から北の日本海側は厳しい寒さが続いていますが、西日本は暖冬傾向。九州・長崎は、大寒の時季にしては比較的あたたかく、日中の日差しには早くも春の気配さえ感じられます。眼鏡橋がかかる中島川では、カワセミ、ハクセキレイ、キセキレイなどの野鳥たちが活発に餌をとる姿が見られ、庭先では早春の花として知られる沈丁花も甘い香りを漂わせはじめました。  二十四節気で大寒の次にくるのが、立春です。今年は新暦で2月4日にあたります。旧暦では、立春にもっとも近い新月の日が新年のはじまりとされ、今年は立春の翌日の2月5日が旧暦の元旦になります。中国ではこの日を「春節」として祝いますが、この行事にちなんだ祭りが、「長崎ランタンフェスティバル」です。  毎年、春節から元宵節(旧暦1月15日)まで開催される「長崎ランタンフェスティバル」(今年は新暦2月5日から2月19日まで)。長崎市中心部で行われるこのお祭りは、年々、装飾や催しなどが充実。いまでは国内外から大勢の人々が集う一大フェスティバルとして知られるようになりました。まちじゅうを埋め尽くすように飾られているのは、中国ランタンや、干支のオブジェ、中国の伝説や歴史にゆかりのある動物や人物のオブジェなどで、夕刻になると目にもあたたかな色とりどりのあかりが灯り、まちは幻想的な雰囲気に包まれます。  朱色のランタンの下でお買い物や食事を楽しめる長崎新地中華街や浜んまち、お月さまのような黄色いランタンがロマンティックな中島川、川面に映る桃色のランタンがきれいな銅座川など、どこを切り取ってもインスタ映えする景色ばかり。ランタンを見上げながら笑顔で行き交う人々から聞こえてくるのは、多国籍の言葉です。それは、異国情緒を謳う長崎らしさを象徴するかのような光景です。年々来場者も増加している「長崎ランタンフェスティバル」は、アジアのお正月を祝う国際的な催しになろうとしているのかもしれません。  「長崎ランタンフェスティバル」は、新地中華街会場をはじめ中央公園会場、唐人屋敷会場、孔子廟会場などまちなかに8カ所の会場を設け、中国雑技や龍踊り、二胡演奏など中国ゆかりの催しを連日行っています。なかでも孔子廟会場では、人気を集めた中国伝統の変面ショーが、今年も毎日披露される予定です(孔子廟会場は、夕方17時以降は入場料無料)。   さて、「長崎ランタンフェスティバル」の最終日となる元宵節(旧暦1月15日)には、中国では「元宵団子」を食べる風習があります。長崎の料理家に教えてもらった元宵団子は、白玉団子を作る要領と同じ。中にこしあんが入っていて、レモン風味のシロップをそそいでいただきます。中国では、新年最初の満月の夜、幸せを願いながら家族揃って食べるとか。そんなことから「元宵(ユワンシャオ)」は「一家団欒」を意味する言葉としても使われているそうです。

    もっと読む
  • 第562号【亥年スタート】

     どんなお正月を過ごされましたか。長崎の三が日は穏やかな天候に恵まれ、初詣に出向く人々の姿で賑わいました。北国では強い寒波や大雪に見舞われていますが、大事のないことを祈るばかりです。暦はすでに寒入り。九州もこれから厳しい寒さを迎えます。風邪やインフルエンザに気を付けて、この冬を元気に過ごしたいですね。  おとといの正月7日は、七草粥の日でした。食べると一年間の病気を防ぐといわれ、江戸時代には将軍様も七草粥を召し上がるという公式の行事があったそうです。神社やお寺などではいまでも七草粥の行事をするところがあります。長崎の諏訪神社では、今年もおよそ千人分を大釜で炊き上げ、参拝客にアツアツの七草粥を振る舞っていました。  白粥に入れる七草とは、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロといった春の野草。食欲をそそる香りを放つセリ、解熱や止血などの効果があるナズナ、消化を促進するスズナなど、それぞれの野草には身体にうれしい効果があります。ほっこりする湯気の香りとともに、胃腸にやさしい七草粥。七草がそろわなくても、小松菜やホウレン草などの青菜を刻んで入れれば、冬場をしのぐ養生粥になりますね。  七草粥を食べながら、干支のイノシシにちなんだものが長崎のまちにあるかなあと思いを巡らしてみました。竜なら、まちのあちらこちらで見かけるのですが…。そうそう、春徳寺(長崎市夫婦川町)にありました。山門をくぐると右手にある小さなお堂、「摩利支天堂(まりしてんどう)」のイノシシの彫刻です。  「摩利支天堂」の摩利支天(マリシテン)とは、日月の光や陽炎を神格化した神様のことです。お堂のそばに掲げた説明によれば、マリシテンは、梵天さまの子で、開運、愛情、得財、勝利にご利益があるとのこと。戦国時代には武士たちの守護神として祀られることも多かったようです。また、亥年生まれの守護神でもあるとか。それで、お堂の梁の上にイノシシ像が彫られていたのです。  春徳寺の「摩利支天堂」は、寛永年間(1624-1642)に京都の禅居庵の分霊を祀ったもので、この地にいらして400年近い歴史がありますが、地元でもその存在を知る人は、案外少ないかもしれません。そもそも春徳寺は、長崎で最初に建てられたキリスト教の教会「トードス・オス・サントス跡」(県指定史跡)の地として知られ、また、唐通事・東海氏の中国風の墓(県指定有形文化財)があることでも有名です。さらには、幕末の16代住職、鉄翁禅師が、木下逸雲、三浦梧門とともに長崎南画三筆として知られるなど、長崎の歴史に関わるさまざまなエピソードを持つお寺なのです。そんな由緒ある春徳寺のふだんの様子は、思いのほか静かで、手入れの行き届いた境内には澄んだ空気が漂い参拝がてらのんびりとしたひとときを楽しめる場所でもあります。   「摩利支天堂」のそばにあった春徳寺の掲示板には、「猛進三昧」という干支にちなんだ新春の言葉が掲げてありました。心のままに勢い良く前進せよということでしょうか。皆様にとって良い年でありますように。本年もよろしくお願い申し上げます。

    もっと読む
  • 第561号【和やかに心豊かに楽しむ年末年始】

     今年もあと数日。気分があわただしくなる一方で、お正月休みを楽しみにしている方も多いことでしょう。我が家でのんびり過ごしたり、帰省したり、年が明ければ家族や友人たちと初詣に出向いたり…。短い冬の休暇をみんな笑顔で過ごせたらいいですね。  この年末年始、美しいものを観て心豊かなひとときを過ごしたい、そんな方におすすめなのが長崎歴史文化博物館(長崎市立山)で開催されている「ジャパン・ビューティー」展です(平成31年1月20日迄)。「美人画」の名手として知られる上村松園(1875〜1949)、竹久夢二(1884〜1934)、伊東深水(1898〜1972)など、総出品数は130点ほどにもおよびたいへん見応えがあります。  「ジャパン・ビューティー」展は、5年前の東京会場を皮切りにいくつかの県を巡ってきた巡回展です。今回の長崎会場では、長崎出身の女性画家・栗原玉葉(くりはらぎょくよう:1883〜1922)の作品が展示され、注目を浴びています。玉葉は、日本画家として東京を拠点に活躍。「西の上村松園、東の栗原玉葉」といわしめるほどの実力を誇り、多くの門弟を集めました。しかし、39才の若さで亡くなったこともあってか、当時の名声は現代にまで十分に届くことはなく、知る人ぞ知る存在となっていました。  これまで、玉葉の作品を地元・長崎で見る機会はありましたが展示作品数が少ないのが実情でした。しかし、今回は初公開作品をはじめ関係史料など計60点ほどが展示され、玉葉の生涯も見渡せる内容になっていました。玉葉のまろやかでこまやかな描写にひそむ思いとは、どのようなものであったのでしょう。 そこには、現代の女性にも通じるものがあるかもしれません。  さて、長崎の冬のお楽しみは夜も続きます。クリスマスは過ぎましたが、長崎市街地は美しくライトアップされ、心温まる景色を楽しむことができます。おすすめのスポットのひとつが、今年7月、ユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の登録資産のひとつである「大浦天主堂」(1864年建造)です。夜になると南山手の教会前は、スマホなどで記念撮影をする観光客の姿が絶えないようでした。  大浦天主堂から長崎港へくだり港湾の景色を眺めながら歩くと長崎県美術館(長崎市出島町)があります。建物の中央を流れる運河沿いに施されたイルミネーションがとてもきれいです。ここから徒歩数分の場所には出島(国指定史跡 出島和蘭商館跡)があり、昨年11月に開通した出島表門橋が、出島橋(1890年建造)とともにライトアップされていました。出島と対岸を結ぶ出島表門橋は、往時の石橋とはまた違った現代的なスマートな外観です。今年、国内外のたくさんの人々を出島へ迎え入れ、新たな橋の歴史を刻みはじめたことを思うと感慨深いものがあります。   長崎のきらめく冬の夜を散策する際は、風邪をひかないように夕食にちゃんぽんを食べて身も心も温かくして、お出かけくださいね。今年もご愛読くださり、誠にありがとうございました。どうぞ、佳い年をお迎えください。

    もっと読む
  • 第560号【柑橘の香りで冬を元気に】

     北日本では積雪。九州・長崎もいっきに真冬になりました。この寒さに、ようやく師走らしさを感じた方もいらっしゃるかもしれません。長崎の諏訪神社ではこの時期、恒例の大門の大注連縄作りが氏子さんたちによって行われました。師走も半ば近くになり、あちらこちらで新年を迎える準備がはじまっています。  これからますます寒さが厳しくなって、身も心も縮こまってしまいがちです。そんなとき、甘くさわやかな香りや味で、気分を明るくしたり、体調を整える助けになったりするのが柑橘類です。  この時期の柑橘類といえば、やっぱり、みかん。こたつの上にみかんのある風景は、いまもほのぼのとした日本の冬の暮らしのワンシーンです。みかん(温州みかん)は、風邪を予防するビタミンCが豊富で、疲労回復に役立つクエン酸が含まれていることはよく知られていましたが、近年ではガン予防の効果があるβクリプトキサンチンが含まれていることがわかり、あらためて注目されました。温暖な気候に恵まれた長崎は、全国でも屈指のおいしいみかんの産地です。現在、「長崎みかん」のブランドで各地に出荷されています。  香酸柑橘のれもんやゆず、かぼす、シークワーサーなどもいまが旬です。香酸柑橘の豊かな香りと酸味は、いろいろな料理にギュッとひと絞りするだけで、おいしさを引き立ててくれます。こちらも、ビタミンCやクエン酸が豊富で低カロリー。酸味の主成分であるクエン酸は、血流改善、美肌作用などうれしい効能も期待できます。  来週12月22日は冬至ですが、この日にゆず湯に入ると、「1年中、風邪をひかない」といわれます。ゆずの果肉や皮には、ビタミンCがたっぷり含まれていて、その成分がしみ出したお湯につかると乾燥肌の予防になるとか。また、香りにはリラックス効果もあり、かじかんだ心と体をやさしくほぐしてくれます。  長崎には「ゆうこう」という伝統的な香酸柑橘があります。長崎市の外海地区と土井首(どいのくび)地区の限られた地域で自生樹が確認されています。姿は、ゆずに似た明るい黄色。酸味はそれよりまろやかで、香りも控えめです。以前、「ゆうこう」が自生する地域で育った方から、「子どもの頃、遊んでいてノドが乾いたら、枝からもいで果汁を飲んでいたよ」という話を聞いたことがあります。身近にあった柑橘が、「まさか、長崎にしか自生しないものだなんて思ってもみなかった」とおっしゃっていました。  ザボンも旬を迎えています。長崎では庭木として植えているお宅もあって、大きな実が枝をしならせています。中国原産のザボンは、江戸時代に長崎に入港する唐船の船長が、ジャワ(インドネシア)からその種子を長崎に運んできて、西山神社(長崎市西山本町)に植えたのが最初といわれています。ザボンは酸味がやわらかく、甘さや香りも上品な感じ。厚い皮の白い部分は、砂糖で煮て「ザボン漬」にします。このさわやかな香りのする甘いお菓子は、長崎の郷土の味のひとつとして昔から親しまれています。   さあ、冬の食卓にお好みの柑橘類を。皿うどんにも、れもんの果汁をたっぷり絞ってどうぞ。柑橘類のさわやかな香りとすっぱいパワーで、年末年始を元気にお過ごしください。

    もっと読む
  • 第559号【国境のしま、対馬の魅力 〜後編〜】

     旅先では、地元の人々が普段利用しているスーパーや直売所を訪ねます。その地では当たり前のように売られている食品が、ほかの地ではめずらしい品であることもしばしば。土地柄が垣間見えて面白いのです。対馬の直売所の鮮魚コーナーには、イトヨリ、アラカブ、マダイなど長崎県ではおなじみの魚をはじめ、バリ(アイゴ)、キコリ(タカノハダイ)、メブト(カンパチ)など方言で呼ばれる魚たちが手頃な価格でズラリと並んでいました。この時期、とくにおすすめなのが、秋から冬が旬のバリ。刺身がおいしいそうです。  直売所の農産加工物のコーナーには、対馬の伝統的な保存食「せんだんご」がありました。灰色でピンポン玉くらいの大きさ。秋に収穫したサツマイモをくだき、水につけて澱粉を沈殿させ、それをふるいで漉し、天日で発酵・乾燥させるという作業を数回繰り返して作ります。手間がかかるその作業は、年明けまで続くとか。最終的には、手のひらで丸めたものを親指、人差し指、中指で軽く押え、独特の形を作り、かちかちに乾燥させて出来上がりです。その姿から「鼻高だんご」とも呼ばれています。  「せんだんご」の昔ながらのシンプルな食べ方は、白玉粉の要領で水を吸わせてこね、だんごにして茹で砂糖をまぶしていただくというもの。また、「ろくべえ」と呼ばれる麺料理や「せんちまき」、「せんだんごぜんざい」などのお菓子にもして地元で食べ継がれています。「せんだんご」の原料であるサツマイモは、やせた土地にも育ち、古くから対馬の人々の食生活を支えてきました。そんなことから地元では「サツマイモ」のことを、「孝行イモ」と呼ぶのだそうです。  観光バスで対馬の山あいを走る道すがら、たびたび見かけたのが「蜂洞(はちどう)」でした。主に丸太を切り抜いて作られる蜂(ニホンミツバチ)の巣箱です。養蜂が根付いているこの島の人々にとって、山林などに点々と設けられた蜂洞は日常の風景です。対馬の養蜂の歴史は古く1500年ほど前にさかのぼるとか。江戸時代には将軍や諸大名への贈り物として使われていたそうです。長い間、養蜂ができる環境が維持されてきた対馬。今後もその豊かな自然が続きますように。  そば畑も各所で目にしました。そろそろ収穫時期に入る頃でどこも白い花が満開でした。対馬の名物「対州そば」。そばの実は小粒で、日本そばの故郷ともいわれています。今回はじめて「対州そば」を地元でいただきましたが、そばの風味が豊かでとてもおいしかったです。余談ですが、対州そばと一緒に地元のお米で作った塩むすびのおにぎりをいただきました。平地の少ない島ですが豊かな自然のなかで、良いお米が育つよう。対馬産米のおいしさを現地で初めて知りました。  お米といえば、豆酘(つつ)地区には稲の原生種といわれる赤米を祀り、栽培するという神事が受け継がれています。一年を通じて行われるさまざまな行事は、頭仲間と呼ばれる地元の集団によって大切に受け継がれているそうです。静かな山間を背景にある赤米神田。訪れたときは稲刈りの後、三角形の石碑が田んぼの中に建てられていました。   稲刈り後の田んぼでタゲリを見かけました。タゲリは冬に大陸から飛来する鳥。大型のチドリで後頭にある長い冠羽が特徴です。実は、今回の対馬ツアー中、ミサゴ、ジョウビタキなどの野鳥をたびたび見かけました。街なかではあまり見ない野鳥とも容易に出会える対馬。ヒレンジャクやオオワシなど越冬や繁殖のため大陸と日本の間を行き来する旅鳥たちが羽根を休める場所としても知られています。次回は野鳥観察で訪れたいと思います。

    もっと読む
  • 第558号【国境のしま、対馬の魅力 〜前編〜】

     この秋、対馬へ行ってきました。かねてより史跡めぐりをしたいと思っていた国境の島です。長崎空港から小型飛行機に乗り込んで35分。機上から見えたのは、濃紺の海を背景に、こまかく連なる緑の山々。そのふもとは繊細に入り組んだ海岸線で、平地はとても少ない。津々浦々には、小さな集落が点在していました。  九州本土と韓国の間の対馬海峡に浮かぶ対馬。福岡空港からは30分。また、博多港からは、フェリーや高速船の定期便があります。対馬は長崎県の島でありながら県内からの定期航路はなく、島民の生活圏も福岡寄りなのが実情です。  南北82キロ、東西18キロ、面積708㎢の対馬。地理的に朝鮮半島に近いため、古くから交流が盛んに行われてきました。対馬では、縄文人が小舟で九州と朝鮮半島を往来していたとも考えられていて、対馬の人々が古来より対馬海峡の荒波をよみとき、海上をたくみに行き交っていたことがうかがえます。『魏志倭人伝』(3世紀)には、対馬は「対馬国」として「一支国」(壱岐)とともに記されていて、日本と大陸を結ぶ交通の要衝であったことがわかります。  対馬は、大きく北部の上島(かみじま)、南部の下島(しもじま)に分かれています。浅茅湾(あそうわん)の奥にある万関瀬戸(まんぜきせと)が上下島の境界線だそうです。今回のツアーでは浅茅湾周辺と、下島(しもじま)を中心にめぐりました。  複雑な入り江で知られる浅茅湾。美津島町(みつしままち)の長板浦港で市営渡海船「うみさちひこ」に乗り込み、快適なクルーズを楽しみました。無人の島々や岩層を露わにした岸壁など、はるか昔に島が海底から隆起して生まれたことがリアルに想像できる美しくてダイナミックな景観を楽しみました。対馬の霊峰・白嶽(しらたけ)も見えます。海上ではマグロの養殖も盛んなよう。渡海船が内海ならではの穏やかな波をいくなかで、外海に開けた場所を通るときだけは、風が強くなり白波がたちました。水平線の向こうは韓国です。  渡海船の上から和多都美神社(わたつみじんじゃ)を参拝しました。本殿につながる5つの鳥居のうちの2つは、海中に立っています。背後の豊かな緑とともに神秘的な雰囲気を漂わせていました。和多都美神社は、竜宮伝説が残る古社。彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)と豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)を祀っています。豊玉姫命は、海神の娘で、「古事記」の海幸山幸伝承に登場します。地元では、航海守護・安産などの神様として親しまれています。  和多都美神社は、平安時代に編纂された「延喜式神名帳」(927年)に記された「式内社」(しきないしゃ)のひとつです。それは、当時の朝廷に認められた官社であっことを意味します。式内社は九州で98社107座あり、そのうち対馬は、九州で最多の29社を擁しています。次に多いのが壱岐で24社。この2つの島で九州の半分以上を占めているのです。神道とのゆかりの深さ、朝廷との強いつながりがうかがえます。   たいへん古くて奥深い対馬の歴史は、簡単には語りつくせません。次回は、対馬の衣食住を切り口にご紹介します。

    もっと読む
  • 第557号【高島秋帆のこと】

     さわやかな秋の陽気が続くなか、国指定史跡の「高島秋帆旧宅」(所在地:長崎市東小島)へ出かけました。高島秋帆(1798-1866)は、江戸時代後期の砲術家。諱(いみな)は「茂敦」、通称は「四郎太夫」。「秋帆」は号。家は代々町年寄を勤めた裕福な家庭で、秋帆も後を継ぎ、長崎奉行の支配下で貿易都市・長崎の運営にあたりました。  「高島秋帆旧宅」は、長崎の歓楽街として知られる思案橋・丸山にもほど近い、小高い丘の上にあります。玉すだれが咲く石段を上ると、旧宅の門が出迎えます。敷地には秋帆が暮らした家屋敷はすでになく(原爆で大破)、庭園跡、砲術練習場跡、一棟の石倉、石塀が静かに秋の陽光にさらされていました。  この家は、町年寄りだった秋帆の父、高島四郎兵衞茂紀(たかしましろうべえしげのり)が、文化3年(1806)に別宅として建てたもの。本宅は長崎奉行所西役所(長崎市江戸町)に近い大村町(現在の万才町)にありましたが、天保9年(1838)の大火で類焼し、以後、別宅が使われるようになったそうです。  秋帆が砲術家となったのは、長崎警備の必要性から父とともに、荻野流砲術を学んだことがきっかけです。その後、シーボルトから直に伝授されたともいわれる西洋式砲術を取り入れ、「高島流砲術」を創始しました。「高島流砲術」のベースには蘭学研究があったといわれ、秋帆が若い頃から蘭学に親しんでいたことが伺えます。「高島流砲術」は、まもなく佐賀(武雄)・肥後・薩摩藩など九州諸藩をはじめ全国に広まっていきました。  ところで、秋帆といえば、東京都板橋区「高島平」の地名の由来となった人物であることがよく知られています。天保11年(1840)、武蔵国の徳丸ケ原で、秋帆とその門人らによって行われた西洋式大砲を用いての西洋式調練。それは日本で初めてのことで、のちに地名となるほどの大きなインパクトを与えたのでした。  順風満帆の人生に思われた秋帆ですが、徳丸ケ原の調練から、わずか1年あまりで「謀叛の疑いあり」で逮捕されます。これは、秋帆の存在が面白くない人物が、罪を偽装したといわれています。長崎から江戸に護送・投獄された秋帆は、数年後に中追放となり、岡部藩(埼玉県深谷市)預かりの身に。岡部藩では丁重に扱われ、藩士に兵学を教えたそうです。その後、秋帆は嘉永6年(1853)のペリー来航の年、門人の願により赦免。心機一転から、通称の「四郎太夫」を「喜平」と改めています。  岡部藩に幽閉されていた頃に秋帆が出した書簡が、シーボルト記念館(長崎市鳴滝)でこの秋、開催中の「秋帆がゆく〜高島秋帆とその時代〜」(平成30年11月11日まで)に展示されていました。書簡には、長い文面の最後に、夏の暑さにたえかねて裸ん坊で縁側に寝そべり読書をしている自画像が描かれていました。うちわや茶箱、読みかけと思われる数冊の書など、状況がリアルに伝わる描写は、どこか開き直ったようでもあり、おかしみさえ感じられます。この書簡は、秋帆の人柄が垣間見える数少ない史料のひとつかもしれません。   また、秋帆の人柄を知るためのヒントとなりそうなのが、「秋帆」という号。若い頃から使っていたそうですが、その由来はわかっていません。想像するに、長崎で秋の帆といえば、日本からの輸出品を満載して出航するオランダ船のこと。オランダ船が無事に長崎を離れることは、貿易業務にあたる町年寄にとって、ほっとするときでもあったはずです。実際のところ、秋帆はどんな思いから、この名を使うようになったのでしょうか。とても気になります。

    もっと読む

検索