第619号【7月のあれこれ〜秋帆から東京オリンピックまで〜】

 長崎を含む九州北部は昨日、梅雨明け。梅雨末期の大雨で、各地で土砂災害や冠水などが相次ぎました。被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。

 

 今年も半年が過ぎました。早いですね。6月の最終日、長崎の諏訪神社では夏越大祓式「茅の輪くぐり」が行われました。この神事は、今年半年間の罪けがれを祓い、夏を無事に過ごせますようにと願うもの。拝殿前には、茅(かや)を束ねて大きな輪にした「茅の輪(ちのわ)」が置かれ、参拝者が次々に輪をくぐっていました。このとき、「水無月の夏越の祓へする人は千歳の命延ぶというなり」という和歌を唱えるのですが、くぐり方や唱える言葉は、地方によって違いがあるよう。でも、願うのはきっと、みな同じ。コロナ禍の夏を健やかにくぐり抜けることができますように。





 

 「茅の輪くぐり」がうれしいことを引き寄せてくれたのか、その翌日、知人から「近江米(おうみまい)」をいただきました。産地である滋賀県は古くからの米所。ほんのり甘みのある「近江米」をおかわりしながら、ふと頭をよぎったのは、幕末の砲術家として知られる高島秋帆(1798-1866)のことでした。

 



 長崎の町年寄(現在の市長に相当する役職)の家に生まれた秋帆。のちに11代目として家督を継ぐことになるのですが、そもそも高島家のルーツはというと、戦国時代は近江国(滋賀県)高島郡の領主で、戦国大名浅井長政に仕えていたそうです。長政が信長に背き滅亡したとき、高島家も離散。九州に逃れた領主の子と孫が、開港して間もない長崎にやって来たのが長崎・高島家のはじまりと伝えられています。

 

 高島家は近江国を遠く離れた地にあっても、すぐに頭角を現しました。長崎・高島家の初代となる四郎兵衞茂春は、当時、長崎の町方を支配した4人の頭人(のちの町年寄)のひとりになっています。南蛮貿易港として栄えていたその頃の長崎は、全国各地のキリシタンが集まってきましたが、初代四郎兵衞茂春もゼロニモという洗礼名をもつキリシタンでした。その後、高島家は禁教令による混乱の時代を上手にくぐり抜け、町年寄の地位を代々維持したのでした。



 

 高島家は、商取引の才もあり裕福な暮らしをしていたようです。長崎市万才町にあった高島家の跡地からは、17世紀の木製のチェスの駒、金のかんざし、西洋や東南アジアなどの陶磁器など、国際色豊かな品々が出土しています。また、三代目の四郎兵衞茂卿は、出島築造時に出資した有力商人のひとりとしてその名を連ねています。

 

 長崎歴史文化博物館で開催中の「高島秋帆展」(2021519日〜719日)へ足を運びました。砲術家として足跡だけでなく、能書家であった秋帆の姿を垣間見ることができました。展示された秋帆の書画のひとつ「猛虎図」は、捕まえた鬼(病魔)を虎に喰わせるという中国の話に、虎の絵が描かれたもので、安政の頃にコレラが流行ったとき、この虎の絵がコレラ除けとして多くの人に求められたというエピソードが紹介されていました。この虎の絵をあしらったエコバックを同館のショップで見つけ、迷わず買ってしまいました。

 



 さて、話は変わりますが、いよいよ来週23日から「東京2020オリンピック」が開幕します。1964年の東京オリンピックをご存知の方々は、経済成長の只中にあった当時を振り返り、感慨深いものがあるのではないでしょうか。ちなみに当時の郵便はがきは5円、封書は10円。このオリンピックを3ヶ月後に控えた同年7月にみろく屋も創業しました。



 

 いろいろな思いを乗り越え、コロナ感染予防対策を万全にして、テレビの前で選手たちの熱戦を応援したいものですね。ガンバレ、ニッポン!

 

参考にした本:「高島秋帆」(宮川雅一/長崎文献社)

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