第618号【 福沢諭吉と光永寺】

 雨にしっとりとぬれた紫陽花の美しいことといったらありません。長崎の家々の軒先に咲く紫陽花は見頃を迎え、すでに花期は終盤です。梅雨空のもと、花を咲かせているのは紫陽花だけではありません。アマリリス、ユリ、ノウゼンカズラなど初夏の花々が次々に開花。ナツツバキもそのひとつです。

 

 直径56センチほどの白い花を咲かせるナツツバキ(ツバキ科の落葉高木)。日本では別名「サラソウジュ(娑羅双樹)」「シャラノキ」などとも呼ばれ、古くから寺院などの庭に植えられてきました。中島川沿いにある光永寺(長崎市桶屋町)の境内でも育てられています。同寺に掲げられた説明版によると、この花は、朝に咲いて夕方には閉じる1日花。そのことが「無常」のたとえとなり、日本では平家物語の冒頭にある『祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色…』の花とされました。実は、仏教の聖樹サラソウジュはインド原産のフタバガキ科の常緑高木。日本では育ちにくいため、ナツツバキをサラソウジュに擬したそうです。

 



 ナツツバキは、通常67月が開花時期。今年、光永寺では開花が早かったそうで、6月はじめには花が終わりました。

 

 ところで、光永寺の境内の中央には、樹齢470年とも言われる大イチョウが鎮座し、春夏の青葉、秋の黄葉、冬枯れの姿と、四季折々に来訪者の目を楽しませています。167年前、このイチョウの四季の姿を眺めたと思われるのが、若き日の福沢諭吉(1834-1901)です。



 

 福沢(当時19才)は1854年(安政元)2月、蘭学を志して長崎へ。約1年このまちで勉学に励みました。このとき食客として最初に世話になったのが光永寺です(のちに近所の砲術家の食客になる)。長崎滞在時のさまざまなエピソードは、『福翁自伝』(福沢諭吉著/岩波文庫)に綴られています。同書によると、当時の福沢は、たいへんな大酒飲みでしたが、長崎では周囲に下戸と偽っていました。「…トウトウ辛抱して1年の間、正体を現さずに、翌年の春長崎を去って諫早に来たとき、初めてウント飲んだことがある。……」と同書に記しています。諫早は長崎に近い宿場まち。おそらく長崎を離れた初日に諫早に着き、1年分のがまんを解き放ったのでありましょう。

 



 また、同書には、185411月に起きた「安政の大地震」の揺れが、長崎にまで及んでいたことも記されています。そのとき福沢は、光永寺から歩いてすぐの砲術家のところで居候中。掃除などの家事に勤しむなか、表の井戸端で桶に水を汲んだとき、突如ガタガタと揺れが来て足を滑らせたそうです。

 





 『福翁自伝』は、啓蒙思想家、そして慶應義塾の創始者で教育者でもあった福沢諭吉の目を通して、激動の幕末〜明治の空気を味わえる名著です。福沢は自身の良いことも悪いことも隠さず、ときにユーモア混じりで述べていて好感が持てます。

 



 長崎・諏訪神社の参道の一角には、慶應義塾関係者によって建立された福沢諭吉像の碑があります。台座には福沢が『学問のすゝめ』の冒頭に記した「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと云へり」が刻まれています。



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