第615号【長崎開港450年を迎える春】

 今年は記録的な早さで各地の桜が開花。長崎も今月14日に開花宣言が出て、いまはちょうど満開のときを迎えています。小鳥たちは桜の花の蜜を求めて、枝から枝へ。いつもなら動きが素早い小鳥も、おいしそうな蜜を求めてしばらく枝に留まるので、写真が撮りやすいです。

 



 長崎港を見渡す高台に出て、ぐるりと見渡せば、港を囲む緑の山肌や住宅街のあちらこちらに薄桃色の花を満開にした桜が見えます。ただ、咲いてくれるだけで、心が浮き立つ桜。昔々の人々も、同じような気分でこの季節を迎えていたのでしょうか。



 

 さて、はじまりの春を知らせる桜。1週間後には新年度がスタートします。長崎はこの4月に「長崎開港450周年」を迎えるということで、令和3年度はさまざまな記念イベントが予定されているようです。ただいま建設中の長崎市役所新庁舎の工事現場を囲う壁には、「長崎開港450周年」のロゴマークが描かれ、通行人の目をとめています。それを見てふと、50年前の400周年のときはどんなデザインのマークを使ったのかなと思って、調べてみました。



 

 長崎開港400周年は、1970年。大阪で日本万国博覧会が開催された年でもあります。くだんのマークは、『長崎開港400年のあらまし』(「長崎開港400年記念実行委員会」発行)という冊子の裏表紙で見つけました。マークの説明には「波がしらと鶴の組み合わせは、将来への躍進を象徴し、これを出島の扇型で囲む。くちばしの部分は開港を示す。」とあります。

 

 50年前のマークのモチーフのひとつに鶴が使われているのは、長崎港が「鶴の港」と称されていたからでしょう。「鶴の港」の由来は、港の輪郭が、鶴が翼を広げたような形に似ているからという説が主流でしたが、本当のところは定かではないそうです。振り返れば、長崎港が「鶴の港」と称されていたのは昭和の時代までだったかもしれません。平成に入り、埋め立てなどで港湾の形がますます変わっていくなかで、「鶴の港」という言葉をしだいに見聞きしなくなった気がします。

 




 そもそも「鶴の港」と呼ばれはじめたのはいつの頃だったのでしょう。開港前の長崎の歴史をひもとけば、当時の領主だった長崎氏は、鎌倉時代の貞応年間(十三世紀前半)に、東国からこの地にやって来て、入江(港)から少し奥まったところに「鶴城(つるのしろ)」と呼ばれる居城を構えたと伝えられています(「城の古趾」(長崎市夫婦川))。勝手な想像ですが、「鶴の港」は、この「鶴城」の名にゆかりがあるかもしれません。港が整備される前の自然な入江の時代には、干潟のような場所もあり、その昔には鶴が渡りの際に羽を休めていたのではないかという話を聞いたことがあります。鶴が舞い降りる地に由来しての「鶴城」そして「鶴の港」だったかも、などと想像の羽は広がるばかりです。



 

 半世紀前の「鶴の港」の写真には、「女神大橋」はなく、「長崎水辺の森公園」もありません。当時あった「長崎魚市場」はなく、埋め立てられたその界隈には現在、長崎県庁、長崎県警察本部が建っています。1571年にポルトガル船が初めて来航して以来、南蛮貿易時代、出島の時代を経て、幕末〜明治の居留地時代、そして大正〜昭和初期の上海航路の時代など、さまざまな表情で時代を物語ってきた長崎港。これから50年後には、どんな姿を見せているでしょうか。





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