第603号【発掘された南蛮貿易時代の石垣】

 今年も、秋のお彼岸を知らせるように咲きはじめたヒガンバナ。「敬老の日」、「秋分の日」と続いたこの連休、お墓参りに出かけた方も多いことでしょう。彼岸の中日でもある「秋分の日」は、昼と夜の長さがほぼ同じ。きょうからしだいに夜が長くなって、秋が深まっていくのですね。



 

 九州では日中、蒸し暑さがまだ残っていますが、ずいぶん過ごしやすくなりました。コロナ禍のなか、この夏の猛暑を乗りきったことに安堵しているのは人間だけではないようで、中島川の川面を見つめるアオサギやカワセミも、どこかほっとしているみたい。空を見上げれば、いわし雲。台風に警戒しつつ、このさわやかな季節を十分に味わいたいものです。





 

 912日、「旧県庁舎跡地」で昨年度から実施されている発掘調査についての現地説明会へ行ってきました。調査状況が一般に公開されるのは今回が2回目(※1回目については、当コラム585号に掲載)。前回、まだ埋められていた状態だった場所が広く掘り起こされ、古めかしい石垣が現れていました。



 

 前県庁舎時代、駐車スペースだった場所に現れたその石垣は、長さ約60m、高さ約67m。場所によって石の表情や積み方が違うのが素人目にも分かりました。これは、補修や積み替えが繰り返し行われてきたことによるものだそう。



 

 今回、公開前から注目されていたのが、この石垣の根石部分に、1610年代に積まれた可能性が高い場所が見つかったことでした。1610年代のこの場所には、教会があり日本のキリスト教の本拠地としてイエズス会の本部も置かれていました。長崎のまちは全国から信徒が集まり南蛮貿易で発展をとげていた一方で、禁教令によってそれらが破壊されていく激動の時代でもありました。

 

 現地説明会のこの日、未明から早朝にかけて大雨が降り、石垣前には大きな水溜りができていました。水溜りの底が、江戸時代の平地にあたるそう。ずいぶん埋め立てられて現代に至ったことが分かります。今回、水溜りの影響で1610年代の石垣を直接見ることはできませんでした。しかし、いろいろな時代を経てきた大きな石垣を目の当たりにして、これまで、歴史の教科書にしかなかったもろもろの時代が、現代と地続きであることを少なからず実感できました。



 

 旧県庁舎跡地は、その昔、緑におおわれた岬の突端で、小さな祠がひとつ置かれていただけと伝えられています。そんな場所が、1571年(元亀2)、長崎が南蛮貿易港として開港したことで、歴史の表舞台に躍り出ることに。南蛮貿易時代には教会(イエズス会本部)、江戸時代には、糸割符宿老会所、長崎奉行所、長崎西役所、明治以降は、長崎裁判所(後に長崎府)、広運館、長崎県庁(初代〜4代目)と、いつの時代にも重要な施設が建てられ、長崎の中心地として機能してきました。

 

 日本の近世・近代にとってもたいへん重要な場所である旧県庁舎跡地。形が見えなくなると、まちの記憶は風化し、日本の歴史の風化にもつながりかねません。過去を見つめ直すことは、今の足元をしっかりさせることにつながるはず。遺構の確認が難航を極めることは想像に難くありません。ですが、発掘調査にあたる方々には、がんばってほしい。多くの人が注目し、応援しています。

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