第557号【高島秋帆のこと】

 さわやかな秋の陽気が続くなか、国指定史跡の「高島秋帆旧宅」(所在地:長崎市東小島)へ出かけました。高島秋帆(1798-1866)は、江戸時代後期の砲術家。諱(いみな)は「茂敦」、通称は「四郎太夫」。「秋帆」は号。家は代々町年寄を勤めた裕福な家庭で、秋帆も後を継ぎ、長崎奉行の支配下で貿易都市・長崎の運営にあたりました。



 

 「高島秋帆旧宅」は、長崎の歓楽街として知られる思案橋・丸山にもほど近い、小高い丘の上にあります。玉すだれが咲く石段を上ると、旧宅の門が出迎えます。敷地には秋帆が暮らした家屋敷はすでになく(原爆で大破)、庭園跡、砲術練習場跡、一棟の石倉、石塀が静かに秋の陽光にさらされていました。





 

 この家は、町年寄りだった秋帆の父、高島四郎兵衞茂紀(たかしましろうべえしげのり)が、文化3年(1806)に別宅として建てたもの。本宅は長崎奉行所西役所(長崎市江戸町)に近い大村町(現在の万才町)にありましたが、天保9年(1838)の大火で類焼し、以後、別宅が使われるようになったそうです。



 

 秋帆が砲術家となったのは、長崎警備の必要性から父とともに、荻野流砲術を学んだことがきっかけです。その後、シーボルトから直に伝授されたともいわれる西洋式砲術を取り入れ、「高島流砲術」を創始しました。「高島流砲術」のベースには蘭学研究があったといわれ、秋帆が若い頃から蘭学に親しんでいたことが伺えます。「高島流砲術」は、まもなく佐賀(武雄)・肥後・薩摩藩など九州諸藩をはじめ全国に広まっていきました。



 

 ところで、秋帆といえば、東京都板橋区「高島平」の地名の由来となった人物であることがよく知られています。天保11年(1840)、武蔵国の徳丸ケ原で、秋帆とその門人らによって行われた西洋式大砲を用いての西洋式調練。それは日本で初めてのことで、のちに地名となるほどの大きなインパクトを与えたのでした。

 

 順風満帆の人生に思われた秋帆ですが、徳丸ケ原の調練から、わずか1年あまりで「謀叛の疑いあり」で逮捕されます。これは、秋帆の存在が面白くない人物が、罪を偽装したといわれています。長崎から江戸に護送・投獄された秋帆は、数年後に中追放となり、岡部藩(埼玉県深谷市)預かりの身に。岡部藩では丁重に扱われ、藩士に兵学を教えたそうです。その後、秋帆は嘉永6年(1853)のペリー来航の年、門人の願により赦免。心機一転から、通称の「四郎太夫」を「喜平」と改めています。

 

 岡部藩に幽閉されていた頃に秋帆が出した書簡が、シーボルト記念館(長崎市鳴滝)でこの秋、開催中の「秋帆がゆく〜高島秋帆とその時代〜」(平成301111日まで)に展示されていました。書簡には、長い文面の最後に、夏の暑さにたえかねて裸ん坊で縁側に寝そべり読書をしている自画像が描かれていました。うちわや茶箱、読みかけと思われる数冊の書など、状況がリアルに伝わる描写は、どこか開き直ったようでもあり、おかしみさえ感じられます。この書簡は、秋帆の人柄が垣間見える数少ない史料のひとつかもしれません。

 



 また、秋帆の人柄を知るためのヒントとなりそうなのが、「秋帆」という号。若い頃から使っていたそうですが、その由来はわかっていません。想像するに、長崎で秋の帆といえば、日本からの輸出品を満載して出航するオランダ船のこと。オランダ船が無事に長崎を離れることは、貿易業務にあたる町年寄にとって、ほっとするときでもあったはずです。実際のところ、秋帆はどんな思いから、この名を使うようになったのでしょうか。とても気になります。

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